文学

彼の声

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彼の声 2015.2.4 「自然現象と人間活動」

2015/02/04

現象とはなんだろう。
語ろうとするその現象を特定できなければ、
そんな問い自体がまやかしになってしまうだろうか。
思いつく限りでの様々な現象を
ここに列挙しようとしているわけではないが、
確かに世界には千差万別で色々な現象が起こっていて、
それらが複雑に絡まり合って、
この世界そのものを形作りながら動かしている。
中にはそれらの現象を分析して
なんらかの言説で表現しようとする人々もいるのだろう。
そんな人間活動も現象と見なせば、
それについても語ることができるのだろうか。
その語り自体が現象についての現象であり、
とりとめがないように思われるが、
何も現象とみなさなくても、
人間活動そのものについて語ればいいのではないか。
それと何を比べようとしているのか。
何と何を比較しようとしても、
それとこれとは性質の異なる現象になるだろうか。
それが自然現象でこれが人間活動と見なせば、
それで済んでしまうことでしかなく、
それとこれとを区別して語れば、
何やら人間活動特有の特性のようなものを導き出せるだろうか。
導き出したとして、
それがなんだというのか。
経済的な次元で考えれば、
人間活動によって利益がもたらされ、
利益がもたらされるから、
それに伴って生じる人間活動が活発化するわけか。
そしてその活発化した人間活動が、
自然破壊をもたらして環境を激変させ、
そのような現象を分析している人々の中には、
人間活動による自然破壊が、
結果的に人類の破滅をもたらすと警鐘を鳴らしている人も
少なからずいる。
そんな現象をどう解釈したらいいのか。
そんな警鐘を真摯に受け取り、
これからは自然環境と調和した経済活動を
推進しようとすればいいのだろうか。
しかしそれに呼応して開発され推進されている
風力や太陽光などの再生可能エネルギーも、
結果的に環境破壊を招くまやかしだと主張する人たちもいて、
自然環境と調和した経済活動というのが、
具体的にどんな活動を指すのかについては、
警鐘を鳴らす人々の間でも意見が分かれていて、
こうすればいいと一概には言えないところのようで、
現状ではよくわからないのかもしれない。
もちろん人間活動は経済的な利益追求活動だけではなく、
見返りを期待しない贈与とかボランティア的な助け合いとか、
実質的な利益など何ももたらされないことを承知の上で
やっていることもたくさんあるはずだ。
そして実質的な利益とみなされるものも、
ただの金銭的な利益に他ならず、
所有している金銭の多い少ないで、
価値の有る無しが決まるとすれば、
利益と呼ばれる概念とか価値とかは、
数字で表される額に連動しているものでしかなく、
物や情報と貨幣を交換する上での
ルール上でしか成り立たないものだ。
その相互合意に基づいたルールなど無視すれば、
たちまちそのような価値自体が
まやかしでしかなくなってしまうだろうか。
そして人間が構築している文明とか文化とか言われるものの本質は、
そんなまやかしの上に成り立っているわけで、
それがまやかしでもインチキでもないとみなすことによって、
初めて人は現在行われているような経済活動に参加できるのだが、
そもそもそれらの活動は具体的に何を表しているのだろうか。

そこに相互合意のルールが働いていると信じることによって、
人はそれらの活動にその身を投じることができる。
実質的には所有していると信じられている金銭の額が、
相対的に多ければ多いほど、
それを物や情報と交換する上で有利に働くようなルールなのだが、
その交換が売る側と買う側の双方が合意の上でなされることが、
なにやら平等性や公平性を連想させ、
それが広く人々の間で信じられている幻想なのかもしれず、
それが強みとなってそのような経済活動が世界的に広まり、
そのルールが人々の活動を制限し、
行動や言動を限界づけているわけで、
経済的な利益に結びつくことならとりあえず肯定され、
ある程度は強引なやり方を伴うとしても、
結果的に広く人々の利益となるなら
許されてしまう場合もあるわけだ。
世界的にそんな経済論理に縛られながら
物事が進められようとしているわけで、
その一方で純粋に倫理的あるいは道徳的な価値観に基づいた行為が、
経済的な価値観に負けるか、
あるいは経済的な価値観に基づいて、
倫理も道徳も歪められねじ曲げられて、
経済的な倫理観や道徳観として再構成され、
それに従うことが価値のある行為であるかのように信じられ、
実際にそういう行為が期待されている現状があるわけだ。
要するにそこで産出される経済的な富を、
そこで暮らす各人に公平に再分配することが、
国家の使命であるかのように語られている。
そしてそこでの公平とは、
富をどのように分配すれば公平となるのかを巡って、
それを推進しようとする人たちの間でも、
意見の分かれるところなのだろうが、
日本でもまた政権交代などがあれば、
そこで公平な富の再分配を巡って、
侃々諤々の議論がなされるのかもしれないが、
結局そんな議論をよそに、
相変わらず国家やそれを支える官僚機構は温存され、
官僚機構は着々と
人々を管理制御するためのシステムを構築してゆき、
人知れずそれを円滑に動作させるための法整備も
進んで行くのかもしれず、
その結果国家が蟻の巣のようになり、
人々が蟻のように働く仕組みが出来上がってしまったら、
それは国家の人に対する勝利と言えるだろうか。
国も人の集合体なのだから、
そこで何が勝利したわけでもなく、
それも可能な社会変革のバリエーションの一つかも知れず、
国家が蟻の巣のように効率的に動作するとしても、
そこに暮らす蟻人間たちは案外なんとも思わないのかもしれず、
だからどうしたわけでもないのだろう。
現状でも人間は
動作不良の危険性の高いロボットでしかないのかもしれない。
もちろん人間が蟻でもロボットでもないのは、
動作不良が頻繁に起こるからであり、
その偶然の巡り合わせや成り行きに左右される動作不良こそが、
人の人たる所以であり、
それが人間の本質を表す特性なのだろう。
そこに逆説的な未来への可能性があるのだろうか。
そしてそれが人間を支配する自然現象によって
引き起こされているわけか。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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