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彼の声

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彼の声 2015.2.1 「殺す人と殺される人とそれを見ている人」

2015/02/01

人が人に殺され、
また人が人を殺す。
人には人を殺す理由があるらしい。
殺さなくてもいずれは死ぬのに、
殺しておかなければならない理由があるのかもしれない。
また理由がなくても殺される人もいる。
何かのはずみで人は殺されるし、
大した理由もなく殺される人も大勢いるのかもしれない。
ともかく人は殺され、
殺された人の家族や友人や職場の同僚などが悲しむこともある。
あるいは憎まれ妬まれている人が殺されて、
内心ほくそ笑んでいる人もしている人もいるかもしれない。
人には人を殺すという動作も選択肢の一つとして残されているようだ。
そこに人と人との関係や、
人と組織や団体との関係が介在している。
中には人殺しがビジネスとして機能する場合もありそうだ。
フィクションでは安易に殺しを助長する話の展開の中で、
殺し屋の設定が重宝されることもあるだろう。
ヤクザやギャング同士の抗争話には
そんな殺し屋が頻出するだろうか。
警察や軍隊の話には
スナイパーと呼ばれる専門の狙撃手も登場する。
人の命が奪われることは、
劇的な話の展開の中で、
人を驚かせ恐怖させる効果があるようだ。
必ずしもそれを求めて
フィクションを漁っているわけでもないだろうが、
ホラーと呼ばれるジャンルの中では、
大量に人が殺される話が多いのではないか。
だから人が殺されること自体に関しては、
別に珍しいことではない。
では何が珍しいことなのか。
それは殺される経緯や殺され方や
殺されたときの状況にもよるのではないか。
要するに殺されるまでの演出と、
殺された後の反応や反響が、
何か人に訴えかけるものがあるのかもしれず、
殺された者が場合によっては英雄に祭り上げられたり、
逆に無駄死にに終わったりするわけか。
それとも人の死に感動は無用だろうか。
勝手に感動したい人は感動していればいいのだろうが、
ざまあみろと罵声を浴びせるのも、
なんだかそうすること自体がはばかれるような、
あまり罵声を浴びせている人と一緒の気持ちになる気にはなれず、
まあこんなもんだと無感動を装うのが無難なところかもしれない。
人の死に関して何か特別な思いを抱くような状況下で
生きているわけでもないようで、
誰もそういうわけではなく、
実際に多くの人たちが悲しんでいるのだろう。
そしてそのような状況を招いた人や組織に対して
怒りの声をあげているわけか。
特に目新しい状況ではない。
殺される状況に追い込まれる人は、
紛争地域ではいくらでもいるだろう。
どういう形にしろ、
命のやりとりが行われる紛争に参加したのだから、
死ぬ覚悟はできていたのだろうし、
危険を知りながらそこへ行ったのだから、
運と巡り合わせが悪かったら、
当然殺される側になることはわかっているはずだ。
それでもそこへ行って何かをやりたかったのだろうから、
直接の利害関係にない者たちが
殺された人間を非難してみても仕方のないことだ。
やっていいことがあるとすれば、
それを英雄的な行為の末の死だと讃えることだけだろうか。

批難したり賞賛を送ったところで、
死者が生き返るわけでもないので、
どちらにしても事後処理的なことでしかないのだろう。
残された人を納得させるには
死者を弔う儀式が必要だ。
そして死に至った経緯を分析して、
今後に役立てるための教訓を導き出したいのだろうか。
それはありふれた動作かもしれず、
人や組織はそうやって、
人を納得させるための芝居を打つだろう。
別に人が殺される状況は千差万別で、
その場その時で違ってくるから、
それぞれのケースにおいて導き出された教訓が、
必ずしも新たな死の危険に際して役立つとは限らない。
だが事の成り行きを分析して
そこから教訓を導き出す作業を行うのが、
そういう方面を生業としている人や組織にとっては、
それが仕事となっているわけだから、
それをやり分析結果や考察を発表する機会を得て、
プレゼンしたがるわけで、
そこでいかに自らの顧客や公衆を納得させるかが、
それらの仕事の成否を決める要因となるのだろう。
しかしなぜ人はそれについて語りたがり、
自らの言説や説明が他人の納得や同意を得ることに
固執するのだろうか。
それはそれらの言説や説明自体が担っている特性であり、
その者が言説を用いて説明する立場にいるからか。
たぶんそのことに疑問を挟む余地はないし、
社会がそのような類いの人たちを必要としているのであり、
そのような言説空間が成り立つことが、
社会を社会として存在させているわけだ。
人は人が関係して起こった事柄について、
あれこれ意見を述べ合い、
自分が意見を述べる権利を行使できる立場にあり、
そのような立場を有することで
社会の中で一定の地位にあることを確認して安心するわけだ。
そのためには社会の中でなんらかの出来事が起こった時、
それについて意見を求められる立場を死守しなければならず、
それにはしかるべき組織と協力関係にあるか、
またはその組織の構成員である必要があるわけで、
その組織がマスコミュケーションを担う言論機関であるわけだ。
そしてそれと関係するかその一員になるには、
その機関に公的な発言力があればあるほど、
国家権力と折り合いをつける必要に迫られるから、
体制側が許容する範囲内での節度が要求され、
要するに体制に気に入られなければ、
その立場になることも立場を維持することもままならず、
その意向次第では地位を追われることもありうるわけで、
国家権力がどの程度反体制的な批判を許容するかで、
その国内での報道の自由度が決まってくるのではないか。
いくら批判や非難がなされても、
その国家の政治体制が揺るがないと判断されれば、
報道や批判の自由度がそれだけ高くなるし、
あまり過度な批判や批難が好まれなければ、
言論機関に対する権力側からの締め付けも
それだけ厳しくなるのではないか。
たとえ言論や報道の自由が憲法で保証されていようと、
その運用は政治体制を担う
政治家や政党や官僚機構のさじ加減でしかない。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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