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彼の声

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彼の声 2015.1.20 「権力と民主主義」

2015/01/20

彼らはやってはいけないことをやってしまったのだろうか。
結果的にそう受け取られると、
なぜかそれらの行為は自粛の対象となるらしい。
そこに権力関係や力を及ぼしている関係があるらしいが、
たぶんそのような過程を経ないことには、
やっていいこととやってはいけないことの区別がつかないようだ。
とにかくやってみないことにはそれがわからない。
だがそれが真実ではない。
その真実には嘘が潜んでいるのだろう。
そこで何をやるにしても、
誰かの許可を必要とするにしても、
必ずしも思惑通りに行かないまでも、
何かしら事前に目的が設定され、
その目的に向かって努力しなければならないことは確からしく、
それも必ずし努力が実って、
何かを成し遂げるような結果に結びつくとも思えないのだが、
それでも計画通りに事が運んでいると思いたいのだろうか。
ある部分では極めて順調に事が運んでいるように思われる一方で、
別のある部分ではまったくうまくいかずに、
計画が暗礁に乗り上げている部分もあるわけか。
たぶんそんなはずがないと思いながらも、
半ばあきらめかけているみたいだが、
すべてがうまくいくとは限らないのは、
はじめからわかっていたことかもしれず、
とりあえずはそれが嘘のすべてではないはずで、
要するにそこでなされている主張に
嘘が含まれていることを認めたくないのだろう。
しかしここまで語ってきたそれらは、
いったいなんのことなのか。
具体的なことは何も語らなければ気持ちが楽か。
気持ちの問題ではなく、
手続きの問題でもなく、
簡単に述べるなら、
何を求めているのでもなく、
何を探しているのでもない。
もう探求とは無縁の領域で語っているように思われる。
誰にもそれとわかるような粗雑なユーモアのたぐいなのだろうか。
ちょび髭がアドルフ・ヒトラーの象徴で、
チャップリンもそれを演じていたはずだが、
独裁者は民主的な選挙を経て生まれることが多いらしい。
特定の誰かが民の代表に選ばれ、
例えば行政の長に選ばれた代表者がその気になれば、
独裁的な立ち振る舞いが可能となる。
それをやるかやらないかは、
選ばれた者の倫理的な判断にまかされている。
誰がまかせたわけでもないのだろうが、
行政を担う官僚機構がそれに従うそぶりを見せれば、
そんなふうに見えるのではないか。
たぶん本当のところは何もわからないままだろう。
あからさまにならない部分が必要で、
そこから暗黙の同意を得ることで、
民主的な権力があるかのように見せかけるわけだから、
実質的には誰の同意を得て
そんなことをやっているわけでもないが、
一応は民の同意を得てそれをやっているように装うわけだ。
そこに至る手続きや手順が重要で、
そのような行為が粛々と行われるうちに、
何やらいつの間にか、
それがそこでのルールとなっていて、
その恣意的に形成されたルールに則って、
そういうことが現実に行われているわけだ。
そのどこからともなく湧いて出た
根拠の定かでないルールに従わないと、
抑圧や弾圧の対象となってしまう。
そういうやり方が様々な紆余曲折を経て自然に生じ、
いったんそれができあがると
それが我が物顔で幅を利かせ、
倫理や良識を押しのけてまかり通ってしまう。

それらのすべてが
特定の誰かや団体の思惑通りに事が運んでいるわけではなく、
用意周到な計画も
行き当たりばったりのその場の思いつきも、
たぶんそこで展開されている
自然の成り行きの一部となっているわけで、
様々な要因が千差万別的に絡み合っているのだろうが、
そのような成り行きにどう対処すればいいのだろうか。
対処できないことはないのだろうが、
対処したところで思い通りにいくわけではないので、
やれる限りの対処しかできないわけだが、
言葉によるそれにしても
実力行使にしても、
暴力にはなすすべがない。
要するに暴力には暴力で対抗するのが手っ取り早いやり方で、
やり方次第ではそれが最も効果的なやり方なのだろうが、
やはりそれは権力を握っている人たちにとってはそうであるが、
権力の攻撃にさらされている人たちにとっては、
圧倒的に不利な戦いを強いられてしまう。
沖縄の辺野古沖に米軍の滑走路を作る工事に反対している人たちも、
警察権力の実力行使にはなすすべがない。
しかも権力側の無慈悲な実力行使を
消極的に支持している人たちが
大多数を占めているようで、
そこに反体制派には決して容認できない
民主主義の力が作用しているわけだ。
民主的な手続きを経て国民に承認された政府が、
そういうことをやっているのであり、
要するに民主的なやり方で国民が
政財官の癒着した権力側に敗北を喫している現状があるわけだ。
そういう意味では国家主義も資本主義も民主主義も、
すべてそれらを牛耳る権力側の手中にあり、
しかもそれを意識するにしろしないにしろ、
そんな自覚もなくそれを否認するにしろ、
結果的には国民のほとんどが権力側の味方となって、
両者は互いの利益を共有して融合しているのであり、
一部の不利益には目を瞑りながら、
痛めつけられている一部の住民たちを傍観しているわけだ。
それがその場で生じている自然の成り行きなのだろう。
そんなことはなく、
利益など共有しているわけがないと思っている人が、
国民の大半を占めるのかもしれないが、
たぶんそれは個人の主義主張とは別の次元で
そうなっているのであり、
国民と呼ばれるひとかたまりの総体として、
政財官を束ねる民主的な権力を形成しているわけだ。
そうなっている時点で民主主義と呼ばれる価値形式が、
自分には良心や倫理があると思い込んでいる個人と、
ひとかたまりの総体としての国民との間に、
差異や食い違いが生じているのであり、
それは総論賛成各論反対という御都合主義でなく、
個人レベルでは総論反対各論反対でも容認され、
とにかく無名の人なら
いくらでも少数派を気取っていられるのであり、
無視される範囲内での反対派は許容され、
有名人のちょび髭パフォーマンスに浮かれていても
一向にかまわないわけだ。
人々が個人的に体験している世の中とはそういうものだ。
そういう意味で今ある民主主義下では、
個人の主張は無視されて黙殺され、
個人は絶えず世の中の多数派が醸し出す意見に
同調しなければならず、
たとえそれが多数派に反対する意見であっても、
やはり多数派が醸し出す反対意見に
同調した主張でないと無視され、
その多数派が醸し出す意見や主義主張とは、
各種のメディアを通じて生成される意見や主義主張なわけだ。
もちろん世間的に認知されているそれらのメディアは、
様々な人々の思惑や利害関係から成り立っていて、
たとえそう見えるような面があるにしても、
そのすべてが
特定の個人や団体の意のままになっているわけでもなく、
絶えず自分たちの意のままになるように権力を行使したい輩が、
様々な方面から自らの力を及ぼそうとしていて、
実際にそこで力を行使している人や団体の力関係の上に、
成立しているように見えるわけだ。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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