文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

全て表示する >

彼の声 2015.1.18 「偏見と臆見の積み重なり」

2015/01/18

束の間の幕間劇が演じられているわけでもなく、
空疎な語りに技巧を凝らすことなどできはしないが、
その場の間に合わせで言葉遊びのようになってしまうらしい。
もちろん中身は何もない。
苦悩を伴った重苦しい雰囲気を緩和するには及ばない。
ごまかしに興じているわけでもないだろうが、
なぜかそこから逸脱しているようだ。
人を暴力から守っているのはそれに抗う言葉ではない。
それは法律のたぐいだろうか。
逆に人から国家を守っているのはそうかもしれない。
国家から国家を守るのは軍隊の役目か。
外交努力もありそうだが、
テロから国民を守るのは誰の役目なのだろうか。
明らかな標的があれば話は別だが、
無差別テロを防ぐのは困難だろうか。
諜報機関が事前にテロ情報を察知したとしても、
政治的思惑からそれをやらせてしまう場合もあり得るだろうか。
テロとの戦いを宣言して、
戦争の口実とするならそうするだろう。
やられたらやり返せの原則は人を納得させやすいだろうか。
ヘイトスピーチには
より強力なヘイトスピーチでやり返さなければならないようだ。
それはテロとは無縁の戯れごとのたぐいだろうか。
相手を思いやれば何もやる必要はないか。
そこで人は何を気遣っているのか。
ざまあみろではらちがあかないはずだ。
では大人の対応とは
具体的にどのような行為を伴わなければならないのか。
襲撃してうざい連中を殺す必要があるわけか。
冗談を述べるならそういうことになるだろう。
誰を憎んでいるわけではなく、
人種や民族があることを信じているわけでもない。
特定の宗教が危険だとも思っていないし、
それに関わりたいわけでもないらしい。
テロや襲撃の口実として宗教が使えるということかもしれず、
ヘイトスピーチの口実として民族が使えるとことかもしれない。
人をいくら殺傷しても、
そうやって何をアピールしようと、
時が経てば行為自体は忘れ去られ、
憎悪の感情も風化し、
やがて新たな口実が利用可能となるだろう。
別に今それを期待し予感しているわけではない。
とりあえず何をやってもなんらかの結果が伴ってくる。
仕事には種類があり、
高額の金を稼ぐ仕事はそれなりに競争が激しいし、
それなりのリスクも伴い、
誰もがうまくいくわけでもなく、
また親の遺産をやコネを利用できる人をうらやんでも、
その遺産を築いた当時の人が、
それなりに才覚があったから莫大な財産を築けたのだし、
その遺産を代々守り継承するのも並大抵の努力ではないわけだ。
その時代や時期において
人々や各種勢力の間で富の争奪戦があった結果なのだろう。
たぶん公平であったり平等であらねばならないのは、
同時代や同時期に生存している人たちの間だけではなく、
すべての時代や時期において
公平であったり平等であらねばならない。
そんなことが不可能であるのはわかりきっているが、
そんな冗談が現代で通じるはずもないことが、
人々を際限のない富の獲得に駆り立てているのだろうか。

そんなはずはない。
それを人の欲望の発露だとみなしても無益なことか。
ではどう考えればいいのだろうか。
やはり何も考えずに冗談とみなして
笑い飛ばせば済むことだろうか。
考える必要がなければ楽なことかもしれない。
しかし人は必ずそれらの動作原因を探ろうとして、
出来事と出来事の間の因果関係から、
最善のやり方を導き出そうとするのではないか。
それが最善のやり方だと思い込めば
安心できるようなやり方を求めているわけだ。
そして何かその道の権威を求め、
誰もが認める賢人から意見をうかがい、
それに従おうとしてしまうわけか。
それが思考を放棄した浅はかな行為だとは思わないか。
考えを巡らせれば他にやり方が思いつくのではないか。
人と人との争いなら、
争いに勝った者が栄えれば済むことなら、
負けた者は勝った者に媚びへつらう必要があるわけか。
それでは負けた者がおもしろくないから、
負けた者にも救いがほしいわけか。
どうにか自尊心を傷つけない方法を模索しているのだろうか。
では文明の敗者のレッテルを貼られたイスラム教徒には
どんな救いが必要なのか。
インドネシアではイスラム教徒が勝者だ。
しかしタバコ産業に汚染されている。
そして国内に蔓延している政治的な腐敗や汚職を
根絶しなければならないだろうか。
共産主義者のレッテルを貼って
百万人も虐殺した過去もあるらしいが、
それとイスラム教は関係ないだろうか。
軍事政権下ではなんでもありなのではないか。
人の命など吹けば飛ぶような軽さだ。
軽い命の持ち主の声など黙殺されてしかるべきか。
何もかもがその時期や時代の状況下で
相対化されてしまうのかもしれない。
権力を握ればやりたい放題だろうか。
それもその場での各種勢力の間の力関係にもよるだろう。
その気になれば何でもできる立場になりたいか。
でもそうなったと思ったところで、
何ができるわけでもないだろう。
可能な範囲内で限られたことしかできはしない。
その可能性を拡大すべく、
各種勢力間で権力闘争が繰り返されているのではないか。
力の赴くままに操られ、
自然の力に屈しているだけなのに、
それで何かやっている気になるしかないのは、
むなしいことだろうか。
闘争の渦中にいる当人たちはそうは思わないはずか。
自らが生まれてこのかた、
様々な影響を受けながら育ってきた、
それらの思い込みと思考と価値観が入り混じった偏見に基づいて、
何かをやろうとしているのだろうし、
実際にやっているわけだ。
それらの様が何かの冗談に思われてしまうわけか。
でもそれで現実に人が生き死にして、
利益を得たり損害を被っているわけだ。
それをどう解釈したらいいのだろうか。
たぶん冗談で済むようなことではないのだろう。
やっている当人たちは至って本気だし、
時と場合によっては命がけだ。
中には冗談で済ませられる場合もあるだろうが、
万事がすべてその範囲内で収まるわけがない。
そこからはみ出るところで闘争が繰り広げられているわけだ。
話し合いだけでうまくいかなければ、
互いに暴力の応酬となるのだろうか。
一方が合法的でもう一方が非合法の場合がほとんどか。
国家や国際的に合法とされた暴力に立ち向かうには、
非合法の暴力で対抗しなければならなくなるらしく、
それがメディアや国家によって
テロと認定された暴力行為なのだろう。
だが資本主義市場経済のルールに基づいた、
合法的な収奪や搾取に対抗するには、
非合法の暴力だけでは心もとない。
たぶんそのやり方が世界的に模索されているのであり、
一部には資本の論理を維持した上で、
国家の官僚機構による
合法的な制御コントロールを目指す動きがあるわけだが、
それがまやかしに過ぎないと思いこめるだろうか。
別に政治的にはそちら方面の模索が常道なのだろうし、
実際にほとんどの暴力に訴えない限りでの反体制勢力は、
国家による資本のコントロールに、
自分たちの価値観が生き残る望みを託しているわけだ。
たぶんこれからも絶え間なく
そんな試みが模索され繰り返されるのだろう。

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
Score!: - 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。