文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.1.3 「フィクションへと誘われる意識」

2015/01/03

過去は振り返らずに忘れてしまう性分なのか。
意識してそうしているわけでもないだろう。
ただ思い出せない。
思い出す必要がないわけではなく、
必要に応じて思い出せればいいのかもしれないが、
どうも行き当たりばったりで、
不意に都合の悪いことが思い出され、
不快に感じられて、
しばらくの間不機嫌になったりするのかもしれず、
逆にくだらなくも愉快な思い出が脳裏を掠めれば、
至福のひと時でも過ごせるのだろうか。
過ぎ去ってしまえばどうでもいいことだ。
そう思ってしまえばその通りだろう。
今はどうなのか。
何か愉快な気分となっているのだろうか。
そう語ればもうすでに
作り話の虚構の領域へと一歩踏み出している。
それは違うのではないか。
何が違うのだろうか。
思い出の話をしたいわけではなく、
かといって他の何を語りたいのでもない。
我田引水も何もありはせず、
ただの偶然の巡り合わせに過ぎないといえば
その通りかもしれない。
そこに恣意的な価値観を見出せず、
何に直面しているとしても、
そんな現実を拒否できないのだろうか。
それは今ここにある現実かもしれない。
だがそれはただの現実で、
どう評価されるような現実でもない。
なんでもなければ否定してもかまわないわけだ。
こだわらなければなんでもない。
こだわる必要がないのなら、
別に否定しなくてもかまわない。
肯定も否定もせず、
ただ受け止めるしかない現実の中で、
現状について考えている。
現実であり現状であるこの状況であるらしいが、
空想の産物でもないだろうし、
想像以上の何があるわけでもなく、
現実を超える何を想定しているわけでもない。
何と何を結びつけ、
そこからどれほどもっともらしい言説を引き出せるのか。
切実にそう思っているわけでもないのだろうが、
本気でそうしたいと欲しなければ、
何も導き出せないだろうか。

何が本気なのかもわからない。
常軌を逸して何を願うわけにもいかないだろうし、
欲しいものを得るための画策などもなく、
どんな策略を巡らしているわけでもない。
不都合なことには答えられず、
無視される傾向にあり、
メディア的にもそんな状況の中で、
万人に許容可能なきれいごとが唱えられ、
それが守られている限りにおいて、
人畜無害な抵抗だけが制度的に許されているわけだ。
本当のことを語るわけにはいかないらしく、
それが現状では不可能なのであり、
事実をそのまま伝えることは禁じられているのだろう。
しかしその伝えることが禁じられた事実とはなんなのか。
それが分かれば苦労はしないが、
知り得ないことを伝えられるわけもなく、
事実を事実と感知できないのだから、
それでも語ろうとすればフィクションとなるしかないだろう。
ではメディア上で語られているのはすべて虚構なのだろうか。
そのすべてもすべてではなく、
虚構のすべてが語られているわけではなく、
それが事実とは無関係というわけでもなく、
ただそんなふうに語っていること自体が
フィクションなのかもしれず、
それをフィクションと見なせば、
すべてがフィクションとみなしてもかまわないだけかもしれない。
フィクションであると同時にすべてが現実なのであり、
現実であることが事実なのだろうし、
その事実を感知できないとしても、
現実の中でそれを考えていること自体は事実なのだろう。
誰もがそれを考えている。
いったいこの世界はどうなっているのか、
なぜこの世界から抜け出ることができないのか、
虚構の中で暮らすとはどういうことなのか、
そんなことを誰が考えているわけでもないだろうが、
ただ漠然を疑念を抱いていて、
疑念を抱いていることすら意識できないのかもしれない。
考えているのではなく感じている。
この世界の何かがおかしいわけで、
何かが足りないのだが、
それがすべてではないから、
その足りない何かが一つの何かとも限らず、
複数の何かでもなく、
何かでなくてもかまわないのであり、
それがすべてでなくてもかまわないわけだ。
そしてそう述べていること自体が、
何について語っているとも思えないとしても、
そこにすべてがあり、
そのすべての中の一部分について語っているかもしれず、
別にそれほど広範囲に
語る対象が広がっているとも思えないのだろう。

試しにそう語っているに過ぎないのかもしれず、
当然その中にはデタラメに語っている部分も含まれ、
それがフィクションの一部を構成し、
わざとこんがらかったふうを見せているのかもしれないが、
見せられても読み得ない部分もあるのだろうし、
読まずに済ますこともできるわけだ。
現実に何も読んでいないようだ。
記されたそれらを読まずに語ろうとする。
せわしなく語ることばかり考え、
語りながらも語っているそれを読もうとするが、
理解できないままに読んでしまうから、
尚のことを読んでいるその内容が空疎に感じられ、
次第に興味を失いつつも、
さらに読もうとするわけで、
それを記した者とは異なる価値観や感覚を生じさせながら、
それらの記述に接しているわけで、
結果的にテクストを書いた者とそれを読む者との間で、
意見や価値の一致を見出すことはないのかもしれない。
それぞれが異なる思惑や意図を持ち合わせながら、
同じ言葉の連なりを読んでいるのかもしれず、
しかもその文章を無視している場合もあり得るのではないか。
自らの文脈にこだわり、
それを自ら固有の文脈だと思い込み、
それがこの世界が醸し出す虚構に幻惑されていることを考慮せず、
要するに事実に基づいて思考を働かせていると思っているわけだ。
たぶんそれがまごうことなき事実なのだから、
それでかまわないわけだ。
そこに誰かによって記された文章があり、
その中に誰かによって構成された言説があり、
その言説を読むことによって理解し得ると思う。
実際に理解しているわけだ。
そんな理解でかまわないのだろうか。
かまわないと思うなら、
そういう理解の範囲内に止まっていればいいのであり、
実際にそういう理解に基づいて語っている最中なのだろう。
だがそれで何を理解しているとも思えず、
何について語っているとも思えない。
要するに何も語らずに言葉を記しているわけで、
そこには言葉以外には何もありはしないのかもしれず、
ただ記された言葉について語っていて、
言説が説明している内容など無視しながら
語っているのかもしれない。
それが無内容であるかのように語っているわけだ。
要するに倒錯なのだろうか。
そこに示されているつもりも内容も、
その内容を読んで理解したつもりになることにも、
それら両方に虚構が組み込まれているのはもちろんのこと、
その虚構こそが示されている内容であり、
読んで理解すべきすべてなのかもしれず、
テクストを記した者の意図や思惑であり、
読む者が想像すべき思考や思想なのかもしれない。
そういう成り行きになった時点で、
読者は事実や現実ではなく、
記述者が言説として構成して見せた
フィクションに感動しているわけだ。
そして読者が求めているものもそんなフィクションなのだろう。
人々は言葉の連なりや映像によって定着された、
この世界から抽出された虚構を求め、
それを読んだり見たり聞いたりすることで感動する。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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