文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

全て表示する >

彼の声 2006.12.30

2006/12/31

何を焦る必要があるのか。
なぜ切迫していないと思うのだろう。
どのような事態を迎えつつあるのか。
何かの中毒症状かも知れない。
何を超えようとしているのだろうか。
何も見えてこない。
救急車のサイレンの音がやかましい。
何を伝えようとしているのでもない。
我々には神がついている。
神が君に裁きを下すだろう。
それは有罪の言葉だ。
それでも神は偉大か。
述べている意図がわからない。
今さらそんなことを述べて何になるのか。
何かのいいわけに違いない。
今が良い時代だとは思わない。
それは未来に対する幻想に結びつく。
何を期待しているのだろう。
何を焦ることがあるだろう。
同じ言葉を繰り返している。
それは見いだされるべきことではない。
何かがまかり通っているようだ。
環境の変化に適応しようとしただけだ。
そのおかげで今があるらしい。
川の民と海の民が出会う場所に幻想が生まれるらしいが、
それはどんな音楽となって誰かの耳に届くのだろう。
いい加減な作り話の体をなさないうちに、
いいわけ話へと移行してしまいそうだ。
その形式がいただけないのだろう。
森に誰が潜んでいるわけもなく、
山狩りをしても無駄骨を折るだけだ。
本当はそういう表現ではない。
裁判で意味不明気味に
神は偉大なりとつぶやいていたフセイン氏は
絞首刑に処せられたらしい。
はたしてそれが非業の死といえるだろうか。
やりたい放題の人生を送った者は、
その末路において帳尻あわせが行われるわけか。
彼の死ぐらいで帳尻が合っているとは言い難いか。
そのついでにブッシュも死んでほしいと願っているのは
誰なのか。
何がついでなのだろう。
簡単に死んでもらっては困ると思っているかも知れない。
今死なれてしまっては
フセイン氏と同様に帳尻が合わなくなり、
彼のために無駄死にしたアメリカ兵も浮かばれないか。
誰の死が浮かばれることもないだろう。
帳尻あわせも幻想でしかなく、
まったく釣り合いのとれない不均衡のただ中で、
多くの人々が生き抜こうとしている。
誰に自らの命を託しているわけではない。
勝手な思いこみは通用せず、
たちまち幻想は打ち砕かれて、
いつもの平凡な日常へとそれらの魂は誘われる。
人はただ生きて死ぬだけだ。
だがそれで誰を突き放しているといえるだろうか。
何に困っているわけではない。
君は君ではなく君でさえない。
それが君の苦悩の表現とはいえないだろう。
君たちの死はいつも無視され続けている。
テレビ映像が戦争の悲惨を訴えるための材料でしかない。
それの何が不条理だと言えるのか。
焼けこげて辺り一面に散らばった残骸の中に
誰の痕跡を見いだしたいのか。
それの何が残酷さを醸し出しているのだろう。
見いだそうとしているのはフィクションの中の光景だ。
ヒーローが壮絶な銃撃戦のさなかを生き延びて、
犯罪組織を壊滅に導き、
その首領と最後の決闘に臨んでいる。
それがありふれた映像のクライマックスなのだろう。
それがつまらないとは思わない。
それどころか多くの人の求めに
応じているのかも知れない。
そこから何かを味わいたいのだ。
しかし君は何を批判するつもりにもなれない。
それの何が残虐な光景なのか。
わざとらしく嘘をついてはいけないのだろうか。
誰が何を標的としているわけではない。
標的とされて死んでゆく人々は
一般市民が大多数なのだろう。
それでどんな満足感を得られるのか。
言葉では表現できないようなものなのだろうか。
音楽は何かを無視している。
それは感情のたぐいかも知れない。
敵を打ち負かそうとしているのではない。
誰がどこから攻めてくるわけでもなく、
心を支配しようと戦いを挑んでくるわけでもない。
誰かは争いごとを好まないようだ。
何を競い合えば気が済むのだろう。
何も相手にしないとはどういうことなのか。
そこに誰かの魂が息づいているわけか。
しかし幻想とはどういうことなのだろう。
なぜそこで後戻りし始めているのだろうか。
子供のしつけレベルで教育について語る
保守主義者が脚光を浴びているようだ。
要するに子供は大人のおもちゃなのだろう。
自己顕示欲の付属物として子供という存在がある。
語る材料として存在するような子供たちに
どのような関心を抱けばいいのだろう。
侍魂というものは
映像や文学によって作られたまがい物にすぎない。
何らかの状況の中で
武士という存在が成立する余地があった時代の中で、
何らかの役割を果たしていた者たちが、
現代においてどんな意味を帯びることができようか。
刀は実用として用いられず、
それはもっぱら鑑賞の対象となっている。
芸術は鑑賞の対象であり、
それは眺めるために存在している。
そこから何を学ばなければならないのか。
他人に何かを教えるという行為とは
どんな関係があるのか。
学ぶことはできるが教えることはできない。
いくら教えようと努力しても、
教える相手が学ばない限り、
結果として教えたことにはならない。
それは学ぶ側の問題なのではないだろうか。
いくら教える側が工夫を凝らそうと、
それが一時的に成功したように思われて、
その結果が美談として語られるようになってしまったら、
そこでおしまいなのではないか。 

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
Score!: - 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。