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くまから・かまから

みやこふつ(宮古島の方言)で語るエッセイや方言講座、民謡解説、おしらせなどがあります。宮古島出身の人も、そうでない人もまーつき(一緒に)みやこふつを楽しみましょう。

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くまから・かまから vol.97

2005/04/07

■―― 宮古島方言マガジン ――――――――――――――――――――――■ 


    くまから・かまから  第1・3(木)発行 《vol.97》 2005.4.7
 
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   もくじ
   「『幸福の島』より」            アモイ
   「ミャークフツ講座 うわがどぅっしゅー編」 松谷初美
   「のりあじゃ(典兄さん)の青い鳥」     あば本舗
   「下地島今昔」               ア、イラブyou
   「編集後記」                松谷初美

     みなさん、こんにちは〜。
    新年度ぬ ぱずまりやー(始まりですね)。
    くま・かま まい 5年目のスタートです。
    今後とも、ご愛読のほどよろしくお願いしますね〜。
    vol.97もごゆるりとどうぞー。

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「『幸福の島』より」              アモイ(平良市出身)

 かりゃー いつぬぱなすがー、ばが小学校ぬ 5年生ぬとぅきゃやーた。
(あれはいつだったか、確か小学校の5年生だったろうか)

 あの頃(38年前)の宮原小学校では、読書感想発表会なるものが秋の読書
シーズンに毎年のように行われていた。殆ど本をよまないアモイ少年にとって
読書感想文は書けるはずも無かったので、ずっと聞き役でしかなかった。

 本を読まない分、発表会の時はみんなの発表を興味深く聞き入っていのだろ
うか?いやそうでもない、やはり発表する人や 発表の内容により興味を持っ
て聞いていたのだと思う。発表会はみんなを運動場に集合させ、発表する人は
一段と高い場所に立って行われた。

 読書感想文の発表の中で、僕よりも2歳年下の3年生の女の子の発表した
「『幸福の島』を読んで」は細かい内容は覚えていないのだが、自分で感じた
イメージは強烈に脳裏にやき付き、最後の部分は鮮明に記憶に残っている。そ
の内容とは、おおよよそ、次のような話であった。

 昔、南の方にとても綺麗で豊かな楽園のような島があったそうだ、島の人達
は島にある豊かな自然の恵みで働かなくても食べるものにあり付けた為、働い
て食卓を豊かにしようなんて事にはとんと興味がなく、特に男どもはゲームや
賭け事に夢中で汗水たらして働くなんて事はまったくしなかったそうです。

 しかし、その自然豊かな島の実りも島の人に食べつくされていき、いよいよ
島の人々は食べのもに不自由するようになっていたのだった。

 そんなある日、島の一人の老人がこういったそうだ。

 「みんな、よく聞いてくれ、これは昔旅人から聞いた話じゃがな、もっと南
の方に行くとな「幸福の島」という本当に豊かで楽園のような島があるそうじ
ゃ、そこへ行けば今のこの痩せこけた島とは違って野や山には自然の食べ物が
わんさかあり、好きなだけたべられ、一生遊んで暮らせるそうじゃよ。どうだ、
みんなでその島へ行ってみないか?しかし困ったことが一つあるんじゃ、そこ
はとてもとても遠いところでな、簡単にはいけないところじゃまずは、何十日、
いや何ヶ月もの間、大波に揺られても壊たり沈没しないような大きな船が必要
じゃ」

 「それから、何ヶ月もかかるでな、その何ケ月分もの食料を蓄えることが必
要じゃ、その為には果物の木を植え、荒れた野山を耕して畑をこしらえて農作
物を植え育て食料を蓄えないとないとならないのだ。』それを聞いた男達は、
「そんなの面倒くさいや、やりたくないよな、そうだよな、そうだ、」

 しかし、老人は続けた
 『みんなよく聞いてくれ、いいか、ちょっとの間働くだけで一生遊んで暮ら
せるんだぞ、この島はだんだん貧しくなって行くばかりで明るい未来なんかな
いんじゃよ。」

 それから、説得された怠け者の島の男たちも「幸福の島」での楽な暮らしを
夢見て 木を植え、荒れ野を耕し、野菜を植え、汗水たらして働き準備を始め
たのであった。

 何ヶ月か過ぎた頃、島の人達は老人に、「準備はもうできたよ、」と何度か
報告したのだが、老人は、「まだまだだよ、」と言ってなかなか首を縦にふら
なかった。

 1年が経ち1年半近く過ぎた頃、島の人たちはもういいだろうと老人に島へ
の案内をたのんだ。「ご老人、ご覧の通りもう船もできたし、米も揃ったし、
食べ物も十分に蓄えて出発の準備ができました。もういいでしょう?」「よし
よし、みんなよく頑張ってくれた。これなら準備は万端じゃな、案内しましょ
う」

 「ちょっと出発の前にな、みんなに話しておきたい事があるんじゃ。みんな
のおかげで船もでき、長旅の食べ物も揃った。みんなありがとう、ありがとう、
ほんとにありがとう。それじゃ、これからみんなを「幸福の島」へ案内しよう
・・・。」「みんな・・・、よろしいかな・・・、実はな、南の方にある「幸
福の島」と言うのは・・・嘘なんだ。そんな所は最初から無いんだよ・・・。
この島がみんなの「幸福の島」なんだ!」

 感想発表の途中で、アモイ少年も「幸福の島」を夢見ていた。いいなーー、
俺も行きたいなー、牛や馬の草刈もしない、日曜日も畑にいかなくて、いつで
も遊んで暮らせるのか・・・ほんとに幸せだなー、と想像を膨らませていた。
しかし、最後に「幸福の島」とは「宮古島」のことなんだよ。「ここ(宮古島)
が、お前の「幸福の島」なんだ」と言われてしまったのだった。

 でも、アモイ少年はがっかりした訳ではなかった。それどころか老人の言っ
た最後の言葉に感動を覚えていた、島の怠け者達に、汗水流して働かないと幸
福になれないんだよ、と導いた老人のすばらしさ、それは、さんぎ ぬどぅ 
潤みきすたーどー、(鳥肌が立ってきてしまったよ)と38年後に言わせる程、
また、その時発表した女の子の名前をいまだ忘れない程に重みのある言葉であ
った。

※『幸福の島』はイメージで書いてます。実際に本を読んでないので本の内容
とは一致しない部分も多いと思いますがご容赦願います。

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「ミャークフツ講座 うわがどぅっしゅー編」松谷初美(下地町高千穂出身)

「うわがどぅ っしゅー」とは、直訳すると「あなたが知っている(分かる)」
である。しかし、その意味は、「あなたの思う通りにしたらいいさー」だ。
ぜんぜん違う?? だよねー。 あすぅが、やらびぱだ(子どもの頃)から、
方言でも日本語でもよーく言われていた言葉だから、普通に標準語だと思って
いた。こっち(内地)の人に言ったら、意味分からんという顔をされて、なん
で通じない?と思った。

 「あなたにまかせたよ」とか「あなたの自由にしたらいいからね」というニ
ュアンスもある。

娘:「母ちゃんよー、きょうの3時のおやつには、何を買ってくるかー?」
母:「うわがどぅ っしゅーさい(あんたが好きなようにしたらいいさ)」

息子:「ふそーから かりくうでぃびゃー っふぁいゆから いださでぃびゃ」
   (草を先に刈ってこうやかなー 肥料から出そうかなー)
父:「とうがっしゅうりゃー うわがどぅ っしゅうだら」
   (誰が知るかー あんたがやりたいようにやれ)

 んー、相手を思いやっているような、突き放しているような、微妙な言葉?

 話はだいず飛ぶけど、通じなかった他の言葉に「リバテープ」がある。「リ
バテープ」てぃ っしぃどぅ(って知っている)? バンドエイドのことだけ
どさ、ぜんぜん通じなかったんだよねー。リバテープのことを説明するのに、
身振り手振りをするとは思わんかったさー。今でも宮古では、あんなに言って
いるかね? これは、アメリカ製品の影響なのか?

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「のりあじゃ(典兄さん)の青い鳥」      あば本舗(下地町出身)

 私の次兄は、終戦の翌年生まれー団塊の世代である。戦後の何もない宮古島
の混乱期に、たくましく頼もしい子供時代をすごしたバリバリの方言世代だ。
次男坊のせいか、慎重でおとなしい長兄に比べ自由奔放で直情型。言いたいこ
とをズバリ口にして、周りをハラハラさせる典型的な宮古人である。名前を昌
典(まさのり)というので、皆に典(のり)あじゃ、典ちゃんと呼ばれている。

 子供のころ、のりあじゃ(典兄さん)は、朝から日が暮れるまで家の外で遊
びほうけて過ごした。沖縄製糖会社近くの川や山(林)、与那覇湾の浅瀬や無
人島は彼のなわばりだった。殆ど勉強もせず大勢の幼なじみ達と一緒に毎日釣
り三昧、カニ・エビ・ウナギを素手で採りまくる泥にまみれた真っ黒けの っ
しゃなぎやらび(薄汚れた子供)だった。母にしかられると大好きな父の生ま
れ島、来間島の親戚の家に家出して何ヶ月も帰ってこなかったらしい。まる
っきり100%の宮古野生児、自然児だったといおうか。

 それから、のりあじゃ(典兄さん)は1969年に琉球大学を卒業し、那覇
で一年ほど高校教師として勤めたあと、大阪のエンジニア関係の会社に就職し
た。復帰前でパスポートが必要な時代。沖縄以外で生活するのは初めてで、彼
にとって本土は文字どおりの外国。生活習慣、食生活、会社の縦社会、どれひ
とつとっても沖縄の社会とはあまりに違いが大きかった。そのうえ、1970
年代の日本は高度経済成長期の真っ只中にあり、企業戦士の一員として朝から
晩まで猛烈に働くことを余儀なくされた。

 厳しい都会での生活、生き馬の目を抜くような激しい競争社会の中で、のり
あじゃ(典兄さん)は神経をすり減らし次第に疲れ果てていく。そしてとうと
う身体をこわし入院するはめになった。病院でたくさんの点滴を打たれながら、
天井を見つめる日々。何故だか天井がさとうきび畑と青い海に見えてしまう。
どうしようもない郷愁にかられながら、こころはいつもあの自由闊達な何物に
も縛られなかった子供時代の宮古を想っていた。

 んにゃ ばぬんな みゃーくんかいや いかるんびゃーいら(もう俺には宮
古へは戻れないのか)。何度も何度もあのころの夢を見る・・・。一生高校教
師で終わるのがイヤで大都会で暮らしてみてようやく分った。人間にとって幸
せとは何か。幸せな生活とはどういう生き方なのかを。
 
 大阪での暮らしは7〜8年。結局沖縄に戻ってきた。のりあじゃも今は4人
の子供の父親である。沖縄本島で空調・下水道関係の会社を営んでいるが、大
阪時代とは比べ物にならないほど健康だ。週末にはゴルフを楽しみ三線も弾く。

 いつもの口癖は、ばやー とぅすゆ とうっかー っふぃまんかい どぅ 
いかでぃゆ(俺は年をとったら、来間島に行くよ)である。来間島で釣りをし
たり、カニ・エビを採って自然の中で生活するのが夢なんだという。どうやら
本気みたい。

 のりあじゃの青い鳥(幸せ)の鍵は子供時代にあるようだ。

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「下地島今昔」(投稿)      ア、イラブyouさん(伊良部町在住)

 下地島は伊良部島に隣接しており、7つの橋で結ばれている。橋といっても、
一本だけが橋桁をはいており、他は簡単な暗渠を設けただけの橋で繋がってい
て、離島の感がしない。

 ぱすーぬ にゃーったり゜とぅきゃんな そーぴ ん いなう ゆ あり゜
きー みいーや 馬車んぬーりーあすあすさ しーどぅ いふたり゜(橋の無
かった頃は、干潮時を見計らって徒歩で、あるいは馬車で行き来していた)。

 そーぴん まつなかんかい 馬車ん ぬーりーいきー ふさー かりー や
やーんかい んぎずぶんな そーぬ んちーうとぅいー いん む ばたりー
っふいばどぅ いらうずま ん つきー みてぃがー こーろ ぬ 台から 
ぱなりー いん ぬ なかん あいば、 あがんみゃ なうしーが あそでぃ
がてぃ あわてぃたいば。(干潮時に馬車に乗って下地島に草刈に行き、帰る
頃になると満潮になっていて、馬車を海に入れて海を渡るのだが、伊良部島側
に着いてみると車軸共々、車輪が台車から外れて海の中、ということも度々で
右往左往したものです)。

 昭和17年に行政が一軒当たり2町歩の土地を分け与えて、移住を薦めるま
では無人島で島全体が牛馬の放牧地であった。その為、下地島を牧中「まつな
か」とか牧畑「まつばい」と称し、島に点在していた大岩には、うすみーじー
(牛を見る岩)や、ぬーまみーじー(馬を見る岩)等の呼び名も付けられてい
た。その岩は空港建設に伴い爆破されて埋め立てに使われ、今はただ一つ「帯
岩」が残っているだけである。

 当初、30軒ほどの家族が移住した下地島だが生活が苦しく(作物が不作、隣
近所が遠い、通学が不便等の為)殆んどの人が伊良部島へ逆戻りしていて空港
建設の話が持ち上がる頃には4、5軒くらいしか残っていなかった。

 総面積900町歩の平坦なこの島は、空港建設に最適であるとの事から当時の
屋良県政は「軍事利用はさせない」とし、空港完成後は、総合病院建設、航空
大学誘致、宮古島への架橋建設等々を条件に賛成反対の大騒動の中、空港誘致
に動き、総工費100億余の資金を投入して建設にこぎつけ、島の人達が立ち上
げた会社が中心になって進められた建設工事で島は工事ラッシュに湧き返り、
小さな島は人口も増えて活気に満ち溢れていました。

 空港完成後に設立された空港を維持管理する下地島空港施設株式会社での100
名余の島の人たちの雇用、町にはそれまで無かった航空燃料譲与税も交付され
るなど、下地島空港のもたらす経済効果は計り知れないものがあるものの、誘
致の際に約束された条件は未だ実現しない事案も多々ある。

 その下地島が、揺れに揺れていました。
 自衛隊の駐屯基地にして宮古圏域の活性化を図るべきだとする自衛隊誘致賛
成派の経済界や議会に対して、軍事利用絶対反対を訴える住民側。結果は住民
側の意向通りになり、青年会を中心にした島の人々の立ち上がりには、目を見
張るものがありました。

 これからも話題に上がるであろう下地島、目が離せない。

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「編集後記」                       松谷初美

 くま・かまは、おかげさまで、この4月で丸4年になりましたー。いつまい
ゆみふぃーさまい(いつもお読みいただき)、たんでぃがーたんでぃ〜。
 
 のうまい すさん(何もしらない)、創刊号は、あどけなかったなーと思う
くらい、最近は、発信することの重さも感じる日々です。時には、編集後記で
「書けなかったことがいつまでも、グルグルと心で渦を巻く」という状態にも
なったり。

 あすぅが、読者のみなさんのメールや掲示板での書き込みに、ライターのみ
なさんの原稿に心洗われ、いず(元気)をもらい まいんかい(前に)歩くこ
ができています。本当に感謝申し上げます。

 さて、vol.97や のうーしがやたーがら(いかがでしたか)?

 今回、アモイさんとあば本舗さんの話が、偶然にも「幸せ」についてでした。
豊かになったはずの現代に、あまりにも悲惨な事件が多い中、「幸せ」のあり
ようを考えさせられますね。何度でも読み直したくなるお二人の話です。

 今年に入って何かと話題になった伊良部ですが、んきゃーんのことから今の
ことまで、よーくご存知の、ア、イラブyouさんから、投稿いただきました。
下地島のんきゃーん(昔)の様子、牧歌的でしねー。住民のみなさんによる、
今回の阻止は、宮古に住んでいる人たちはもちろんのこと、宮古以外の人たち
にも大きな安堵をもたらしたと思います。まーんてぃ みーや まーさがんぷ
らきー うらだからー ならん(本当に、目をしっかりとあけていなければい
けないですね)。

 前号でも触れましたが、くま・かま100号に、読者の皆さんの声(これまでの
くま・かまへの感想、くま・かま歴など)を掲載させていただけたらなーと思
っています。ぜーひ、うわが くいゆ きかしふぃーさまちー(あなたの声を
お聞かせくださいー)。4月末締め切りです。どうぞよろしくお願いしまーす。

 来週は、トライアスロンに合わせて、みやーくんかい かいずがまた(宮古
に帰るべき)。次号ではその様子もお伝えできればと思っています。

 きゅうまい しまいぎーゆみふぃさまい たんでぃがーたんでぃでした。
(きょうも 最後まで読んだくださり ありがとうございました)。

 vol.97の感想まい まちうんどー(待ってますよー)。

〔ご意見、ご感想、100号記念投稿は、くま〕
 2235445501@jcom.home.ne.jp

 次号は、4月21日(木)発行予定。どうぞお楽しみに!
あつかー、またいらー。がんずーやしー うらあーちよー(お元気でー)。

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   編集・発行  : 松谷初美
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