国見弥一のサイバープレス(聖なる対称性とか、犬肉食文化とか)
発行日:11/30
国見弥一のKYサイバープレス 01/11/30 vol.83
昨日、夕方、メールの受信トレーを開いたら、奇妙なメールが続々と届いて
いた。なんと、ウイルスに感染しているらしのだ。が、ウイルスチェックを
してみたら、感染はありませんと、太鼓判を押されてしまった。この前は、
ISDNでのネット接続が、できなくなったし、不具合が続く。きっと、多
くの方に迷惑を掛けたんだろう。ここにお詫びします。まだ、不具合が続く
ようであれば、次号はストップという事態もありえる。専門家に御登場願う
しかないだろうし。困った、困った。
目次:●1.犬肉食文化が問題に
●2.私は歩く人
◎ 読者より戴いた詩:「空」
●3.ジョージ・ジョンソン著『聖なる対称性』
●[後欄無駄]:昔話や童話と子供の心の世界
*********************************************************************
●1.犬肉食文化が問題に
今、韓国での犬肉食文化が国際サッカー連盟(FIFA)によって批判の俎上に乗
せられている。以下にネットで読める記事を示したが、既に多くの新聞などで報道さ
れているので、経緯を御存知の方も多いだろう。
http://news.lycos.co.jp/topics/world/korea.html?d=23mainichiF1124m003
http://cnn.co.jp/2001/SPORTS/11/07/fifa.korea/
要は、動物愛護の観点から韓国での犬肉食文化が野蛮であり、ワールドカップとい
う世界規模の大会を行うに際し、韓国の評判が落ちる恐れがある、だから即刻、やめ
るべきだというのだ。韓国の政府も動物虐待の防止を徹底させるという観点から調査
を開始しているとのことだが、しかし、88年のソウルオリンピックの時のように、
表向きでも犬肉食を取りやめる、ということは、今回は、今のところ、ないようだ。
問題は、犬肉を食べることにあると同時に、犬肉をおいしく食べるため、撲殺など
「残虐」な形で犬が殺されているという点にもあるとされている。
さて、韓国の側での反論は、犬肉食の伝統は文化としてあるとしても、それは病気
などで体力が落ちた時、滋養強壮などの目的で食されるものであり、決して韓国内で
あっても一般的、日常的に行われているものではない。
また、犬肉といっても、ペットとして飼われた犬ではなく、食肉用として飼われた
犬を食しているのだ、という。
日本では、江戸時代などに、やはり病気の時など特別の時、犬を食べることがあっ
たという。無論、飢餓状態に陥った時は、論外としての話である。その上で、今では
犬肉食は文化としては、廃れているか、もともと希薄だったようだ。
小生にしても、犬を食肉の対象として見ることは、無理だ。それがペットではない、
食肉用として飼われた犬だとしても、嫌だ。これは、感覚的なものであり、理屈では
ない。嫌なものは嫌なのだ。
但し、問題はそんなところにあるわけではない。このワールドカップという大会に
際して、国際サッカー連盟(FIFA)=プラッター会長が、他国の文化・伝統・風
習に口出ししてくる点にある。
動物愛護の精神というのは、誠に立派な理念だと思う。
だが、分からないのは、では、何故、牛や豚、羊、馬などを食べるのが構わなくて、
犬(や日本では鯨)を食べるのが野蛮だとか、動物愛護の精神に反するのか、である。
犬肉を食べるのは野蛮、また、犬の殺し方が、残酷。
なるほど。では、薬殺がいいのか、毒殺がいいのか、刃で急所を一撃するのがいい
のか、あるいは鵞鳥かアヒルか七面鳥のように首をひねるのがいいのか、トンと首を
刎ねるのがいいのか。
率直なところ、小生は、食べるために殺すのは、どんな形であれ残酷だと思う。
同時に、食べるために殺すのなら、つまり狩猟のように娯楽のために殺すのでなけ
れば、残酷とは言い得ないのではないかとも思う。
例えば、魚釣りは残酷か。お魚は釣りという趣味・娯楽のために日々、釣られてい
る(この際、漁業は考察の対象から外しておく)。それは魚拓をとるため、釣りの成
果を競争しあうため、ついでに食するとしても、残酷極まりない趣味なのではないか。
よく、小魚は釣れてもリリースしてやるんだ、などと、さも、自分達が優しい気持
ちの持ち主であるかのように語る人がいる。小生に言わせれば、とんでもない誤魔化
しだし、偽善そのものだと思う。釣り針で釣られた魚は口元に巨大な穴が開けられて
いるのだ。そうでなくても、水の中(湖であれ、海や川であれ)は無数の細菌がウヨ
ウヨしていて、魚は皮膚病の巣窟状態に瀕している。
それが、釣り針で口元をザックリやられたら、どうぞ、病原菌に魚の体内に進入し
てくださいと誘っているようなものだ。釣り、そしてリリースした連中の目の及ばな
いところで、放された魚は病み苦しんで死ぬんだろう。ようは、キャッチ・アンド・
リリースなど、気休めもいいところなのだ。
その一方、日本(に限らないが、特に日本)は、グルメ天下となっている。小生は
ラーメンは、豚骨味が好きなのだが、ラーメンの出汁というのは、豚などの肉や骨を
野菜など秘伝の材料を加えて、グツグツ時間を掛けて煮込んで作っている。
見る人が見れば、これほど身の毛のよだつ光景はなかろう。豚を狼などが襲って、
鋭い刃で肉を食いちぎって食べるという光景は、なるほど、残酷だし、悲しいし、直
視に耐えない光景ではある。が、それは最低限の生きるための営為だ。
が、間違っても狼が、ライオンが、肉を煮込んで出汁を取るなんてことはない。味
をよくしようなどと、工夫の限りを尽くすことはない。ただ、食欲を満たすために食
べるだけなのだ。
残酷というなら、闘犬や闘鶏など、人間の娯楽のために傷付けあう様のほうが、余
程、残酷のはずである。
あるいは、競馬のように、人間の趣味のために、ただ、速く走る馬を育てあげ、訳
も分からず走らされるほうが、よっぽど残酷かもしれない。
小生が一番、何より残酷だと思うのは、例の狂牛病でも思ったことだが、餌にその
動物の仲間の肉(体の一部)を与えることだと思う。牛に、牛の体の加工物である肉
骨粉を与えたことが狂牛病の発端ということで、ある人類学者などは、人間で言えば
人肉食に相当する、だから天罰として、奇妙な病気が生じたのだと述べていた。
そもそも牛は草食動物じゃなかったのか…?
さて、国際サッカー連盟(FIFA)が、あるいは欧米人が、多くはアジアなどの
食文化を攻撃する根拠は何処にあるのだろうか。繰り返しになるが、何故、牛や豚は
よくて(イスラム教からすると豚肉を食べるなんて、豚の出汁も含めて論外なのだが)
犬や鯨はダメなのか。今まで一度だって、説得力のある説明を聞いたことがない。
鯨は知能が高いって? イルカほどの知能があるって? 本当らしいけど、本当か
しら?
小生なりの結論を言うと、人間はそもそも残酷な生き物なのだ。生きるために食べ
るなんて、とっくに通り越して味を究めさえする。それどころか、日本食など、並べ
られた食材の美的嗜好をさえ追求している。器に凝ってみたり、ね。
グルメなど、とんでもない、というのが、小生の感覚的意見なのである。
にもかかわらず、食べられるならおいしいものを、美しいものを、手の込んだもの
を求める自分がいることを否定はできない。罪深い生き物なのだ。
ところで、菜食主義を標榜する連中がいる。これも、小生に言わせれば、食わせ物
なのである。動物が生きているのと同様、植物だって生きている。生命という観点に
立てば、動物も植物も大差はない。動物は人間(哺乳類)に多少、進化の点で近いと
いうだけの話だ。
植物は、特撮で撮られた早回し映像を見れば分かるように、結構、身を捩じらせる
ようにして活発に動いているのである。ただ、その場を移動しないだけなのである。
あらゆる生命体は、生きている限り、今、共存し、共生している。あらゆる生命体は、
それぞれなりに進化の頂点にある。
そんな中、人間は(無論、小生にしても)生き物を食べる。それも味のいいものを
食べる。食の連鎖の頂点にある。そういう罪深い生き物なのだ。仏教徒などで敬虔な
人は、食べる前に仏様か神様か知らないが、今日も食べさせていただきますと、感謝
の祈りを捧げる人がいる。要は、己の罪深さを知り、感謝しつつ、食べさせてもらう、
それだけだと思うのだ。
*********************************************************************
●2.私は歩く人
この世界は広いって、つくづく感じることがある。
別に地球儀を見て、改めて気付いたってわけじゃない。
ただ、自分がこの世界の中にポツンと放り出されている。自分があまりにちっぽけ
で、世界どころか、自分の周囲さえ、ろくに見通すことができないことを、何故か不
意に実感してしまったのだ。
きっと自分の心があまりに窮屈で、それに臆病なものだから、井戸の中にいて、四
角く限られた天を眺めやることに慣れ過ぎたんだろうと思う。
けれど、もっと大きな切っ掛けは、世界の遠く離れた世界にあの人が行ってしまっ
たってことだ。ほんのついこの間までは、自分の目の前にいたし、昨日、会い、今日
も会ったのに、明日は、決して会えないことに気づいた瞬間、私は、ふいに世界が広
すぎるってことに、初めて気付かされたんだ。
世界が、たとえ真っ昼間であってさえも、時には真っ暗闇に陥ることのあることを、
私は、知ってしまった。あの人の残像が、あまりに鮮やかに脳裏に浮かぶ。あの人の
面影が、今、目の前にある陽だまりよりも目を滲ませる。
世界でたった一人の人、かけがえのない人、そんな人を失った瞬間、世界はまるで
馴染みのない、余所余所しい世界へと変貌してしまった。道行く人が、みんな用事が
ある。それも、少なくとも自分には関係のない用件を抱えて急いでいるように見える。
みんな誰かに会いに行く。けれど、間違っても、この私じゃないことは、表情を見れ
ば分かる。
世界は伸び広がったんだ、あの日を境に。ますます広がっていって、昨日の自分さ
え、他人と思われたりするようになる。私とは、今の、茫漠たる掴み所のない靄。昨
日も明日もない。吐き出したいほどの孤独感。
だけど、その清冽な感覚は、自分をさえ満たしてくれない。私とは空白。
世界でたった一人の人を見失って、私は自分をも手放したんだ。
どこまでも拡張していく宇宙。いつまで経っても拡大するだけの宇宙。
ある日、ふと、あの人の影が私の心をかすめていった。手を差し出したら触れられ
ると、思った。勇気を出して手を出したよ。
でも、あの人は、いなかった。ねじれの位置であの人は、見知らぬ誰かに微笑みか
けるだけなんだ。もう一度、冗談でもいいから私に微笑みかけてほしい。
けれど、交差する二つの直線は、もう、決して交わることはない。世界は三次元。
否、四次元。否、もしかしたらそれ以上の次元が輻湊している。私は、白い闇の海の
底で、海の上の大気を思う。もう、歩きたくない。歩けば歩くほど、あの人から遠ざ
かるのだから。
けれど、生きているということは、歩くってことなのだ。
だから、私は歩く。ひたすら遠くへ。ただ歩くために。
*********************************************************************
◎ 読者より戴いた詩:「空」
「空」
青い空に腕をのばし
見上げる
吸い込まれ包まれて
雲と戯れる
空気が秋の香りを運ぶ
今、金木犀がゆれた
*********************************************************************
●3.ジョージ・ジョンソン著『聖なる対称性』
過日、神田の古書街に立ち寄った際、辻邦生の『詩への旅 詩からの旅』(筑摩
書房刊)と併せて購入したこの、ジョージ・ジョンソン著の『聖なる対称性』(長
尾 力訳、白揚社刊)は、タイトルから予想されるようなニューサイエンス系統の、
現代物理学と東洋思想との深い次元での共通性を探るような、やわな本ではない。
書店でこの書を見たときは、小生も、量子力学の解釈の上での神秘性が齎す、東
洋のタオ思想との表面的な親和性に浸った書の一つだろうと、予想した。タイトル
からすると、そう予想するしかないのだ。
だから、ちょっと頁を捲ったらすぐに棚に戻すつもりだったのである。
実際、サブタイトルの「不確定性から自己組織化する系へ」はともかく、帯びに
銘打たれた「超巨大科学と超微細科学、ダーウィニズムと構造主義生物学がぶつか
りあう科学の最先端に見え隠れする究極の原理」などといった文句は、ニューエイ
ジ系の書に辟易している者には、即座に拒否したくなる書となることは、容易に察
せられるだろう。
が、頁を実際に捲ってみると、とてもそんな安易な見込みでは括れない、もっと
しっかりした内容の本だと、すぐに感じとることができた。
小生に本のタイトルをつけるセンスはないが、原題の「FIRE IN THE MIND」の
ほうが遥かにましなような気がする。実は、本書は、人間の中の火、あらゆる現象
の中に意味を求めてしまう本性、一見すると混沌としか思えない現実の中に秩序を、
意味を、対称性を見極めないで入られない人間の執念にも似た情熱を描き出してい
る本なのである。
つまり敢えて無器用ながらにタイトルを付けるなら「聖なる対称性への情熱」と
でもするべき本なのだ。
それを本書では、著者の居住地に近く、且つ、現代の科学の最先端を走る研究所
があるサンタフェの地政学的叙述と絡めて、複眼的に諄々と説いている。
一度はスペイン人に占領され、やがてアメリカに帰した北ニューメキシコ(サン
タフェも含む)は、実は、先住民族であるインディアンにとっても、古来より重要
な意味合いを持つ地だった。
由来さえも分からない儀式の執り行われる地、その高台から眺められる天の星の
並びに西洋の星座とは全く違った意味合いを付されている地、今は瓦礫と化して専
門家でもなければそこに数百年の昔の遺跡があったとはとても思えない地、方々の
台地には無数の洞窟があり、今では意味の分からなくなってしまった記号があちこ
ちに刻み込まれている地。
無論、こうした地だけではなく、古来より人類は天蓋の様相に、あるいは気象の
変化(日食や日照りetc.)に、地震や噴火などの天災に、天の意志を読み取ろうと、
懸命の思考を重ねてきた。
ただ、この北ニューメキシコの地は、霊的などといった大仰な表現を使いたくな
るほどに、古よりの伝統が分厚く残っている地なのである。
その、現代を生きる我々には、ともすると旧弊としか思えない伝統と、科学の最
先端を行く研究所とが共存しているところに着目していくことで、人類の宇宙や生
命などの起源や原理を探究せずにはいられないFIREを著者は探ろうとしたのである。
おまじないや星占いや、血液型で人の性格を見ようとか、御神籤を引いたり、あ
るいは縁起を担ぐといったことは、現代でも全く消え去った光景ではない。という
より、雑誌ではその欄があるかないかは売上げ部数を大きく左右している。
今時、真面目になって占いなど信じないだろうけれど、靴紐が切れたり、ボタン
が取れたりしたら、気分が宜しくなくなってしまう人は大いに違いない。
そうはいっても病気の治療に今更、祈祷師を呼ぼうなどとは、誰も思うまい(な
んて言うのは、現実には甘いかもしれない。ガンで死を宣告され、医師にも見放さ
れた人が、どんなに他人からみて愚かな薬や手段に縋ることか!)。
古臭い占いや、数字の魔術などは、その読みを当然の如く、専門の連中に頼る。
素人には原理は分からない構図になっている。何か、神秘的とでも言うしかないよ
うな秘術があるらしいのである。
さて、現代の科学も、既に久しく、表面的には似たような構図になっていること
に多くの人が気付いていることだろう。我々、科学の門外漢は数式を見せ付けられ
ただけで、もう、ギブアップである。素人は、専門家の説明をうやうやしく受け取
るしかないのである。
しかも、その説明が、また、聞く専門家によって場合によっては全くと言ってい
いほど、違うことさえ、希ではない。決して、専門家に悪気を嗅ぎ取ろうなどとは
思わない。きっと、科学の専門的な概念や特に数式は、その意味合いを素人に日常
の言葉で説明するのは至難のわざとなる傾向が、専門性が高まるほどに色濃くなっ
ているのだろ思うばかりである。
その典型例が量子力学の解釈だ。幾度、聞いても読んでも分かったような、しか
し、やはり狐につままれたようなで、聞く前より分厚い雲に脳裏が覆われて、すご
すごと退散するのだ。
構図としては、占い師や祈祷師の御託宣を伺っているのと、同じなのである。
それはともかく、そうはいっても、人は分かろうとする。混沌とした世界に意味
を探ろうとする。意味と説明を積み重ねて、より高次の、広範囲に渡って説明でき
る原理を求めようとする。素粒子物理学(量子論=宇宙論)の最新の理論は、実験
による検証をほとんど不可能に思わせるほどに次元の高いものになっている。場合
によっては、当分の間、理論が理論のままに宙吊りになったままになるかもしれな
い。
それでも、エントロピー増大の法則に逆らうかのように人は考える。意味を求め
る。一見、乱雑で法則性などないような場面に、高度に抽象的な法則性を「発見」
するのである。
そうした探求の手を人類が押し留める日が来るとは、小生は到底思えない。
我々の世界観の中にダーウィンの進化論が極めて濃厚に刷り込まれている。我々
は人類を進化の先頭に置く生物進化というパラダイムからは、ちょっとやそっとで
は抜け出せない。
生命は、いつか何処かで発生し、原核細胞から、真核細胞に変貌し、やがて多細
胞生物となり、今のような多彩なる生物相を現出している…。その進化の突端に人
類がいるのだ…。
この、まるで人類がこの世に現れるために世界があったかのような宇宙観=世界
観は、西洋思想の根幹をなしているといっていいだろう。
それは、宇宙の重力が今より、ほんの僅か大きいか小さいかすると、宇宙が拡散
するか収縮してしまうかするのに、現にある宇宙というのは、その分岐点のギリギ
リの所に収まっているという科学者の目から見ると奇跡としか思えない事実と相俟
って、人間原理の宇宙観への誘惑を、より強く抱かせてしまうのである。
けれど、これは人類が人類の有する脳髄の本性の結果に由来する描像に他ならな
いのかもしれない。つまり、人類の意味(秩序、対称性)を求めてやまないFIREは、
意味の病ともいうべき齎す「偏見」から、本来、逃れるすべなどないということで
ある。
一言で言うと、我々の脳にはプラトンのイデア像(の更にまた遥かなイデア像)
が厳然としてあり、その見果てぬ像を追いかけるしかないのでは、ということだ。
尤も、最後の下りは小生の軽率な断定に過ぎない。
現実には、小生は、現実の中に意味を見出せているわけではない。下手に意味な
ど分かったら、逆に、そんなわけないだろう、なんて、拒否してしまうような天邪
鬼なのだ。意味を持ちたいけれど、持てない小生は、表面をありきたりの常識で塗
り固めて生活しているような気がする。
人を殺すのは、何故いけないか、小生には誰にもきちんと説明できない。けれど、
「常識」として殺人も詐欺も窃盗も働きはしない。さて、では戦争だったら人を殺
していいなんて言われると、常識を作り変えないといけない。でも、そんな器用に
は小生は生まれついていない。そんなこんなで、やはり現実には狭い常識の殻にび
くびくしながら閉じ篭って生活するしかないわけである。
常識の殻という鎧と、何も意味が見えないでいるというブヨブヨの中身と、それ
が小生の今なのである。
*********************************************************************
●[後欄無駄]:
何故か昔話関係の本を読んでいる。今日も稲田浩二編の『日本の昔話 上』(ちく
ま学芸文庫)を読み上げた。中に「さとり」の話が出てきたりして、そういえば昔、
「さとり」をテーマにした映画を見たな、なんて思い出したりした。
ところで、昔話とか伝説とか神話とか、民話と、あ童話とか、いろいろあるけれど、
皆さんは、これらを区別できるだろうか。あるいは区別するなど無意味と思われるだ
ろうか。
まあ、昔話や伝説、神話は、それぞれ性格は異にするが、古来のものであり、童話
は、基本的に新たに作ったものである(且つ、きっと、作者が基本的に分かっている
ものでもある)点に違いがあるのだろうとは思う。
事典によると(NIPPONICA 2001)によると、「江戸期の山東京伝が随筆『骨
董(こっとう)集』上編(1814)の中で「むかしばなし」と読ませ、曲亭馬琴も随筆
『燕石襍志(えんせきざっし)』(1810)の中で「わらべものがたり」と読ませて使
っている。ともに子供にふさわしい昔話をさしていた」そうである。
まあ、昔話などは日本各地を商売などで旅する人が、商いなどの会話の糸口にお話
を広めていったんだろうな、と思う。そういえば、小生の田舎・富山と言えば、売薬
さんが有名だ。年の大半を旅で過ごし地方を回って商売している。今も。
そうした売薬さんも、各地のお客さんの家を訪ねては、子供に昔話をしてやったり、
あるいは、逆に地方固有のお話を伺っては、他の地に広める、なんてことがあったん
だろう。
http://www.hisamitsu.co.jp/syakai/kusuri/peddler/peddler.html
http://www.toyama-smenet.or.jp/navi/gokan/rekisi/rekisi2.html
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/1630/baiyakusan.html
小生が昔話とか童話に興味を持つのは、別に心が軟弱になってとか、あるいは童心
に帰って、というのではない。「見るとは触れること」の一連のエッセイを通じて、
子供の心の世界に興味を抱き始めたことがある。
子供は、世界と一体、どのようにして出会うのだろうか。大人に成れば、その世界
との初めての出会いという感激や驚異の体験の大半を忘れてしまう。が、世界とは、
実は、決して有り触れた、分かりきったものでは決してないのだと思う。
小生は、今、改めて、世界との逢初(おうしょ)の感動を味わいたいのだ。
それは、きっと世界との和解とも繋がるだろうから。
著者への御意見・御要望は kunimi-yaichi@nifty.com
著者をもっと知りたい方は http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/
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