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[chronique:00106] 【書評】『テクストと解

2001/03/31

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       哲学クロニクル 第106号
           (2001年3月31日)
         【書評】『テクストと解釈』
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今日は花冷えでしたねぇ。ぶるぶる
勇んで花を開いたさくらがかわいそうでした。
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【書評】『テクストと解釈』轡田・三島他訳、産業図書、1990年刊行

この書物は、Philippe Forget (hrsg.), Text und Interpretation, W. Fink
Verlag, 1984を訳したものである。そもそものきっかけはガダマーのフランス講
演と、その講演についてのデリダのコメントから始まった「論争」である。まっ
たくかみ合わない論争であったが、それまでドイツの知的な環境には、ハーバー
マスなどによるデリダ批判はあっても、デリダの思想の内在的な批判は行われて
いなかったため、このやりとりをフォローする形で、デリダとポストモダンの思
想が批判的に検討された。

本書には、一見この論争とかかわりがないように見えながらも、ドイツにおける
ポストモダン思想の受容を示す論文が集められている。具体的には次のようなも
のだ。
□風変わりな論争のための手引き(フィリップ・フォルジェ)
□テクストと解釈(ガダマー)
□権力への善き意志I(デリダ)
□それにもかかわらず、善き意志の地から(ガダマー)
□権力への善き意志 II−署名を解釈する−(ニーチェ/ハイデガー)(デリダ)
□アンチ・ヘルメス(フランソワ・ラリュエル)
□普遍性論争(ジャン・グレーシュ)
□魂から叫ばれた(書かれた?)−ゲーテの『ウェルター』におけるエクリチュー
ルの問題について(フィリップ・フォルジェ)
□言語をどこまで統御できるのか−ネオ構造主義と解釈学の差異の場としての対
話(マンフレート・フランク)

一回目のガダマーとデリダの論争は、ガダマーが講演において、ごくナイーブに
解釈の前提とした「善き意志」についてのやり取りである。ガダマーは解釈にお
いては、著者の意図したものを正しく理解しようとする「善き意志」が必要であ
り、「支えとなる同意」が前提されると語る。ガダマーはこれがないとそもそも
対話が成立しないと考えたのである。


それにたいしてデリダは、この善き意志は、ある絶対的な公準を前提としている
と批判し、意志を最終的な審級とする意志の形而上学ではないかと疑問を表明す
る。もしも最初から対話において、語る側の意図するものを、聞く側、解釈する
側が「善き意志」をもって受け取らなければならないとしたら、これはあらかじ
め暴力を行使することであり、そもそも対話を不可能にしてしまうものに他なら
ない。

これはデリダ/サール論争を考えてみれば、すぐに予期できる異論である。この
ガダマーの講演は1981年に行われたものであり、1971年から1977年にかけて行わ
れたデリダ/サール論争の余波という意味をもっていたのである。ガダマーの善
き意志に相当するものが、サールの(あるいはオースティンの)「真面目」だっ
た。

ガダマー/デリダ論争の二回目では、ガダマーが善き意志とはカントの概念のつ
もりではなく、プラトンの「好意ある吟味」の概念だと批判をかわそうとする。
しかしデリダはハイデガーのニーチェ論の形で、ガダマーと解釈学が前提とする
全体性の概念を批判する。ハイデガーがニーチェを形而上学として批判しながら、
みずからも再び形而上学の罠に落ちることの批判である。しかしデリダのこの論
文は、ガダマーの文章とはあまりかかわらないので、論争から外れたところにあ
るようにみえる。

そもそもガダマーが講演の中で、比喩や地口などを批判しているのは、デリダを
念頭においてのことだろうから、ガダマーはもう少し真面目に(笑)デリダ批判
をすべきだったろうが、ガダマーが身をかわしたので、デリダの再批判の焦点が
ぼけたような気がする。

その他の論文は、かなりデリダよりのところでガダマーの解釈学が前提としてい
るものを批判する。ラリュエルの「アンチ・ヘルメス」はタイトルから想像でき
るように、解釈学を批判しながら、「一般的解釈学の企図は、対象化的現前と内
的現前の対立に捕らわれたままであり、心理の超越論的本質にまつりあげられた
シニフィエに固執し続けている」(157)というものである。解釈学の問いえない
ものを問題にした読ませる論文である。
Laruelle, F.にはLe style de-phallique de Jacques Derrida, Critique, 334 (1975)
のようなデリダ論があり、Le declin de l'ecriture, Aubier Flammarion, 1977や
Nietzsche contre Heidegger, Payot, 1977など、多数の著書がある。

グレーシュの「普遍性論争」は解釈学が掲げる普遍性要求に注目する。そしてこ
の普遍性は学問を含む実践哲学のレベルでの全体性であり、それがヘーゲル主義
的な全体性を想定していることを明らかにする。またレヴィナスの他者の概念を
引用しながら、われと汝の間の対称性ではなく、非対称性が意味の経験を可能に
するものであり、根源的な意味をもつことを指摘する。ガダマーの超越論的な
前提のもつ意味を、レヴィナスの他者論で明らかにしようとするものだろう。
Greisch, Jには、Hermeneutique et grammatologie, CNRS, 1977という
そのものずばり(笑)の著書がある。

フランクの「言語をどこまで統御できるか」は、ドイツにおけるポストモダンの
受容にふれながら、ガダマーの解釈学がもつヘーゲル主義的な含意を批判する。
「ガダマーが的確に〈意味の連続性〉として特徴つけたものは、ヘーゲルが絶対
的精神と考えたあの超個人的主体と同じである。…こうしてみると、作用史の思
弁的〈ダイアローグ〉と言われても、結局弁証法の思弁的モノローグの、すなわ
ち空虚な発話の変種なのである」(341)と厳しい。

全体として、ハーバーマスの「対話」論がかかえている前提と同じように、ドイ
ツの解釈学のもつ「言われざる」前提と、道徳的、実践哲学的な暗黙の前提を明
らかにしながら、ドイツの現代思想のもつ問題点を浮き彫りにしようとする書物
だ。論争自体はマイナーな(笑)ものだったが、ドイツにおけるポストモダンの
批判と受容という観点からみると、なかなか興味深いものがある。

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  ポリロゴス事務局
 office@polylogos.org
     (c)中山 元
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