国際情勢

JOG Wing 国際派日本人のための情報ファイル

政治・経済・外交・社会・文化などの分野において「元気な日本」を作るためのオピニオン誌です。

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JOG Wing No.0146 by CLICK INCOME

2000/03/24


 _/          _/  _/                       日本の「公」と「私」
 _/          _/      _/_/_/      _/_/_/   第6回 「私民社会」の危機
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 _/  _/  _/    _/  _/    _/  _/    _/      H12.03.24 3,076部
  _/  _/      _/  _/    _/    _/_/_/        JOG Wing No.0146
                                 _/     国際派日本人の情報ファイル
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      第1回 公は「大きい家」 
      第2回 「公の体現者」 
      第3回 「天皇と公民」の来歴
      第4回 明治における「公と私」 
      第5回 「公」を衰弱させる憲法
    ★ 第6回 「私民社会」の危機
      第7回 21世紀へのメッセージ
      第8回 地球的視野の公民教育を

     ほそかわです。現行憲法の「公と私」について、2回目をお
    送りします。

◆「公共の福祉」とは、「私益」の調整か

     現行憲法が「公」の精神を衰弱させてきた原因の一つとして、
    国民が自分の個人的な権利の追求において、責任を軽んじてい
    ることが挙げられます。

     国民は、国家から保障を受けた権利を行使するためには、そ
    れぞれ責任を負っています。国家国民全体の「公益」の実現を
    めざして国家が機能するためには、個人の「私」的な権利が制
    限される場合があるのは、合理的です。「私」という部分が尊
    重されなければならないのは、当然ですが、それ以上に「公」
    という全体が尊重されなければならないのです。そうであって
    こそ、各自の「私」も保障できるのです。

     ところが、現実には、今日、多くの国民が、権利の追求にお
    いて、自分の責任を軽んじる傾向に陥っています。

     憲法第12条には、

         国民は、これ(権利)を濫用してはならないのであって、
        常に公共の福祉のために利用する責任を負う

    と規定されています。問題は、この「公共の福祉」という概念
    があいまいなことです。国民は何のために、誰に責任を負うの
    かが、明確でないのです。

     「公共の福祉」とは、GHQの作成した英文の Public welfa
    re に当てられた訳語です。Welfare とはアメリカ社会におけ
    るアメリカ人の倫理観に基づく概念といわれます。それは、日
    本人にはわかりにくいものです。

     社会も文化も伝統も全く異なる日本人に、外来の異質な概念
    を植えつけようとしています。ここにそもそも無理があります。
    しかも、訳語としても「福祉」では、どうもあいまいです。吉
    田和雄京都大学教授は、「公共善」か「公共の利益」と訳した
    方がよいと述べています。(10)

     私自身は、 Public welfare は「公益」と訳したほうがよい
    と思います。「公益」とは、教育勅語に、「…徳器ヲ成就シ 
    進ンデ公益ヲ広メ…」と使われていた言葉でもあります。

     著名な憲法学者の宮沢俊義氏は、「公共の福祉」について次
    のような学説を説いています。すなわち、

         公共の福祉は、それら(公益)とは違い、どこまでも個
        人主義に立脚する

    と言います。そして、「公共の福祉」の概念は、

         個々人の権利を調整し、それら相互の衝突を規制する原
        理

    であるという解釈です。

     宮沢説によるならば、全体の「公益」より個人の「私益」が
    尊重され、「公共の福祉」とは、エゴのぶつかり合いを規制す
    る程度のものとなります。国家社会全体の公共的利益、つまり
    民利国益を目標とする概念ではなくなるわけです。

     宮沢説が原理とするものは、「どこまでも個人主義」です。
    それが、欧米の近代市民社会の基本原理だと、宮沢氏は理解し
    たのでしょう。

     確かに欧米社会は、個人主義の社会といわれます。一人一人
    が強い「個」の意識を持っています。自我意識や権利意識が強
    いのは、確かです。

     しかし、同時に、欧米では、社会における個人の責任を非常
    に重く見る。自分のことは自分で責任を持ち、また社会全体に
    対して責任を持つことが、要求される、そういう社会だという
    ことが、戦後、欧米で生活した多くの人々によって明らかにさ
    れてきました。

     さらに、欧米の市民社会には、自分たちの生命や財産を、市
    民が共同で防衛するという伝統があり、国防は国民の義務とさ
    れています。個人の「私」的な権利を強く主張・要求するけれ
    ども、国家・公共のことについては、「私益」より「公益」を
    優先するという規範が確立しているようです。そして、欧米人
    は、個の意識が強い反面で、しっかりした国家意識や地域意識
    を持っており、明確な公共意識を持っているのです。

     今日、宮沢氏の学説が、かなりの誤解に基いたものだったこ
    とは明らかです。しかし、氏の学説は、東大系の学閥を通じて、
    わが国の憲法解釈と、政・官・民の意識に、多大な影響を与え
    てきました。そして、戦後日本人の「公と私」を歪めてきた、
    原因の一つとなっていると、私は思います。

◆「市民」ではなく「私民」の社会へ

     欧米社会における「市民(citizen, cityoen)」とは、国
    家・公共に対する責任と義務の意識を強く持った、自立した個
    人だと、私は考えます。こうした欧米の「市民」は、日本語に
    は、むしろ「公民」と訳したほうがよいと、私は思います。

     今日、わが国には、「市民」という言葉を愛用する人々が多
    くいます。しかし、その人たちのいう「市民」は、欧米の「市
    民」とは違う。欧米市民の持つ国民意識・公共意識を欠いてい
    るからです。そこで、最近よく、「私民」とも書かれます。そ
    のうえ、「市民」というのは、町民や村民が無視されているよ
    うで、どうもよくないと、私は思います。都市に住む知識人の
    おごりがあるような気さえします。

     戦後日本の知識人の「市民像」によると、次のようになると
    京大教授の佐伯啓思氏は、記しています。

         …市民は、国家権力に対して、個人の権利をまずは主張
        し、それを政治的正義にまで高めて、権力と対峙するもの
        とされた…

         しかし、このような『市民像』は、どうしても『私』の
        権利や利益から出発することになる。『私』の世界が、国
        家という権力に対比されるからである。『私』の権利や利
        益を守りまた主張するのが、市民であり、これを政治の世
        界に持ち込むのが民主主義ということになる。『市民』で
        はなく『私民』が民主主義の世界を闊歩(かっぽ)し始め
        る。『私』の権利や利益の食い合いとなってゆく。

         国家や公共への責任を見失った、戦後の『市民』が民主
        主義を担うとすると、民主主義から腐臭が出てくるのもい
        たしかたのないところであろう(11)

     佐伯氏の言葉は、戦後民主主義の問題点を、深くとらえてい
    ると思います。

     戦後日本は、欧米の「民主主義」に学んでいるようでいて、
    欧米の「市民」が持っている国家意識や国防の義務などの面は、
    避けてきました。戦後日本の「民主主義」は、「公」の意識を
    欠いた、個人主義による民主主義です。

     その結果、生まれたのは、「市民社会」ではなく、「私民社
    会」ではないか、と私は思います。そして、「市民」ならぬ
    「私民」による「民主主義」が、わが国の「公」の精神を崩壊
    させてきたのではないかと思うのです。

◆国家も天皇も公民も見えない、戦後の「公」

     戦後、使われている「公」の文字は、わが国の伝統における
    「公」とは、大きく意味が異なっています。

     「公益」という言葉は、教育勅語にあった言葉でした。それ
    は、わが国の伝統である「公(おおきい家)」としての家族的
    共同体を基盤とした「公」の利益と考えられます。

     私の理解では、「公」つまり「われわれ」の利益のために、
    「われ」が尽くすのが、「私(吾尽くし)」でした。そこでは
    「われわれ」と「われ」の利益は、根本的に一致します。「わ
    れわれ」の利益は、「われ」の利益であり、「われ」の利益は
    「われわれ」の利益でした。「われわれ」とは、一つの家族の
    ような共同体だからです。そして、この「われわれ」の統合を
    象徴するものとして、天皇がありました。それが日本の「公と
    私」だと、私は考えています。

     これに対し、現行憲法の「公」は、個人の集合を指している
    ものにすぎません。また、その個人は、抽象的で、アトム的な
    個人です。まるで、家族も先祖も故郷も持たないような。

     そうした個人を要素とする集合は、「われ」と「われ」の集
    合ではあるかもしれません。しかし、それは「われわれ」と呼
    べる集団なのでしょうか。

     現行憲法には、「日本国民は…」という主語が、しばしば出
    てきます。それは "We, the Japanese people"の訳語です。"
    We"と書いたのは、「われわれ」ではない。日本を占領してい
    た米国軍人だったのです。

     仮に、この個人の集合が「われわれ」と呼ばれるとしても、
    集団を「われわれ」へと統合するものの存在感が希薄です。つ
    まり、「日本国」と「日本国民統合」の象徴とされる天皇の存
    在感が、弱いのです。同時に、天皇の象徴的な権威によって一
    つに統合される「われわれ」にも、確かな存在感が、ないので
    す。

     また、この個人の集合としての「公」には、全員で協力して
    自分たちを守るという義務はありません。その「公」は、教育
    勅語の「義勇公に奉じ」の「公」のように、自ら守るべき「
    公」ではないのです。

     ここでは、「公の体現者」としての天皇も、「公」を構成す
    る「公民」も、二つながら弱められているのです。「天皇と公
    民」の伝統を否定しようという力が働いています。

     戦後の「公」の文字を透かして見れば、見えるのは、ばらば
    らの個人のみ……。家族も、国家も、天皇も、公民も、歴史も、
    伝統も見えてこないのです。

     こうして戦後憲法は、日本の「公」の精神を衰弱させてきた、
    と私は思います。

◆聖徳太子・明治天皇の精神に学ぶ

     戦後半世紀を経て、今日なお天皇という「公の体現者」に代
    わり得る「公」の根拠を、日本人は持っていません。欧米から
    取り入れたつもりの「民主主義」や「個人主義」は、新たな公
    共性を生み出すようには、機能していません。そもそも国家や
    国防という問題を避けて、欧米型の「市民社会」などコピーで
    きないものだったのです。

     事の核心は、天皇の存在を避けて、「公と私」の問題は論じ
    られないことにある、と私は主張するものです。

     「天皇と公民」の関係が損なわれると、「私」は、倫理的な
    規制のくびきから離れます。

     至るところの無責任、あくなき利権追求、個人主義の規範化、
    ファッション化するミーイズム……こうして、「公」の精神は、
    戦後、萎弱を続けてきました。今や私たちは、信じがたいほど
    の職業倫理の低下、「安全神話」の崩壊をも、目の当たりにし
    ています。

     このまま天皇という、「日本の究極の公共性の体現者」の存
    在感が薄れ、またその象徴的権威が無視されるならは、わが国
    の公共性は後退するのみ。聖徳太子以前の豪族たちのように、
    人々は「私」をもって争い、奪い合うでしょう。その結果、
    「公務」にある者が「公」を忘れ、政も官も民も「私」をほし
    いままにする状態が、一層広がっていくばかりでしょう。

     青少年は、直感的に虚偽を感じている。いらだち、満たされ
    ず、教室で、街なかで、剥き出しの「私」をさらけだし、ぶつ
    けることで、大人や社会に「反公」している……そんな風に、
    私には感じられます。

     高森氏は、述べています。(第1回に引用)

         公の後退と天皇回避ーこの悪循環を断ち切らない限り、
        真の意味での日本の再生はない

     この悪循環を断ち切るために、私は、聖徳太子の十七条憲法
    や明治天皇の「教育勅語」や御製などに学ぶことが、有効だと
    思います。歴史や伝統を学ぶことも、「公」の精神の復興につ
    ながります。それは、日本人の固有の精神、すなわち日本精神
    の復興ともなるでしょう。

     次回は、世界の中の日本という視点から、日本の国柄につい
    て、考えてみたいと思います。

参考資料
(10)吉田和男著「21世紀の繁栄のための憲法改正論」(PHP研究所)
(11)佐伯啓思著「市民とは誰か」(PHP新書)


■編集長・伊勢雅臣より■

     Public Weafare は、教育勅語の「…徳器ヲ成就シ進ンデ公
    益ヲ広メ…」の「公益」、Citizen は「公民」と訳すべき、と
    いうほそかわさんのご指摘に触れて、私はアメリカやフランス、
    スイス、フィンランドなどの旅行先で感じた公共を重んずる市
    民精神と、我が明治日本の発展をもたらした国民精神が、深い
    所で一致しているのを見てとる事ができました。
    
     我が国の歴史伝統の中にある公共精神を掘り下げていけば、
    それは他国の文化伝統への理解と共感につながっていくでしょ
    う。

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