「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」第十二章

2018/03/07

「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」第十二章
“シーチン”修一 2.0

【措置入院」精神病棟の日々(103)】3/4の産経「読書」面に友人A君の書評「琴線にふれる編集者の青春」が載っていた。批評対象は橘玲著「80's エイティーズ ある80年代の物語」。版元は太田出版で、出版不況の中でも結構元気にやっている会社のようだ。と、いうか、「尖ってる」とか「翔んでる」出版社みたい。タケシやサンマが所属する「芸能プロダクション」系出版社だから「面白ければすべてよし」なのだろう。

結構ベストセラーもあり、百田尚樹の「永遠の0(ゼロ)」は有名だ。百田の作品は「ボックス!」(太田出版)と「海賊とよばれた男」 (講談社)しか読んでいないが、まあ、小生とはちょっぴり縁があったわけだ。

A君はライター/編集者で、一時期はライバル誌の編集者、記者であり、一時期は小生への発注者であり、一時期は小生の会社で手伝ってもらったこともある。彼は夕刊フジや週刊新潮にも連載していた。専門は旅行、健康、食材、料理などで、何でもこなせるタイプかも知れない。

A君のご先祖は半七や平次でお馴染みの「目明かし」(御用聞き、岡っ引き)で、大きくて重くて長い鉄製の十手(断面は六角形)が代々伝わっているという。護身用どころか、ほとんど武器で、討ち合っても刀を折ったろう。

ご先祖は「親分」(今なら〇暴=公安警察の非公式配下、町内見守り隊のボス=裏社会の顔役)だったわけで、ヤクザ=侠客=無宿人など怪しい奴らを統御していたのだろう、A君自身も怖い顔をすると目付きが鋭く、そこには侮蔑の要素があり、ガタイも大きいからほとんどヤクザだ。役者になっていたら勝新太郎、松方弘樹あたりの人気者になっていたろう。

パリのルーブル美術館で、行列に割り込んできた支那人を睨みつけ、Hey, you, mother fucker, get in line! とか罵倒して追放したとか。血は争えないもので、彼の妹さんはスケ番で鳴らし家族を心配させたが、今は堅気だ(それでも極妻的な迫力はある)。

A君とは2人でガンガン飲んだことも多いし、わが家に泊まったこともある。何しろ自宅が大船だから飲んで終電を逃したら「タクシーで」というわけにはいかない。今では3万円はかかるのではないか。飲んだ朝はビールで元気を取り戻していた。タフ・・・

ここ15年ほどは会っていないのだが、医者の不養生、紺屋の白袴で、彼は痛風になって断酒。食事制限もしているから、会っても鯨飲馬食とはいかない、小生も断酒だし。コーヒーと野菜サンドで会話は弾むのかどうか・・・薔薇族じゃないし・・・

週刊新潮は小生は小4からそこそこ愛読していたが、表紙は谷内六郎だった。谷内は9人きょうだいで、その妹だと言うオネーサンとバーで仲良くなり(チーママみたい)、彼女は「六ちゃんはあーだこーだった」といろいろ教えてくれた。そのうち「アンタ、初心ね、可愛いわ、オネーサンが大人のキッスを教えてあげるわ」。さすがにプロは違う、チロチロと小さな舌がよく動く。あんなに素晴らしいキッスは二度となかった。

横須賀美術館には別館として「谷内六郎館」がある。同サイトにはこうあった。

<谷内六郎(1921-1981)1921年東京生まれ。幼少より喘息で入退院を繰返すが、絵筆は離さず、10代の頃から新聞・雑誌にイラストや漫画が掲載される。55年、文藝春秋第一回漫画賞を受賞。56年の『週刊新潮』創刊と同時に表紙絵を担当し、81年の死去まで26年間発表を続ける。総点数は1336枚にものぼる。75年、横須賀市にアトリエを構える、云々>

脱線した、台車に亀裂が入っているから軌道から外れやすいのだ。

A君は書評をこうまとめている。

<やがて、バブルに向かってまっしぐらの波のなかで毀誉褒貶、上下運動の激しい日々を送る。バブル期に仕事と生活の安定を得て、「本はつくれば売れる」感覚を全身で味わったが、編集者の“業”なのか、やがては「出版差し止め仮処分事件」など物議をかもす本や雑誌を手掛け出す。安定を潔しとしない姿勢はハラハラさせる。

そのあげくが「サティアンの奇妙な一日」のエピソード。雑誌でオウム真理教をくわしく取り上げたことで、世間の批判にさらされる一方、唯一、教団広報とのパイプがある雑誌として、マスコミに重宝がられる奇妙な立場に置かれる。そして95年の地下鉄サリン事件―。著者の80年代という長い青春が終わった・・・

各章題に付けられた楽曲タイトルや、折々で登場するハードボイルド小説、B級アクション邦画、モダンジャズ、漫画など、著者と同年代の人にはたまらないだろう。1歳上で同じ編集者だった評者の琴線にもガリガリふれた。

あとがきで言う。「振り返ってみれば、バカな頃がいちばん面白かった。だけど、ひとはいつまでもバカではいられない。そういうことなのだろう」

心の底から賛同する>

さすがプロ、上手いね。A君は哺乳類霊長目(サル目)ヒト科ヒト属躁的感動家右脳派で、その個性がとても生きている文章だ。小生は鬱的観察家左脳派だが、ともに「新潮的肉を肴に酒を飲」むことには「心の底から賛同する」から、酒が旨かった。小生は二十歳からの70年代、80年代、90年代、ずーっとバカで、今もバカをやっている。飲んでもバカ、飲まなくてもバカ、それが「個性」で「レゾンデートル、存在理由」だから、♪もうどうにも止まらない。

本題に入ろう。拉致問題については小生自身、ほとんど知らなかったのだ。「もはや軍事の問題であり、軍事力を行使するしか被害者奪還はできまい、しかし日本は占領下に米国に押し付けられた憲法さえ廃棄できないヘタレだ、とても解決はできまい」と諦めていたので、あまり関心がなかった。ざっとおさらいしてみよう。WIKI「拉致問題の推移」から抜粋する。

<◆1970年代

拉致事件は1970年代を中心に実行された。北朝鮮工作員の日本国内への侵入は、日本の海上警備を担当する当局の警備能力の低さから、北朝鮮では非常に簡単な任務であったと伝えられている。

領海警備を担当する海上保安庁は、当時、武装工作船への対処能力は持っておらず、また拉致そのものが表面化していなかったため、北朝鮮による隠密領海侵犯や土台人の暗躍はまったくの想定外であった。

(土台人=北が日本に潜入する際に対日工作活動の土台として利用する在日朝鮮人のある層)

一方海上自衛隊は、拉致といった刑事事件的な事案に関与する機関ではなく、当時はソ連の潜水艦への対処しか想定していない組織であったため、不審船の領海侵犯には無為無策であった。

他国に不法侵入して、他国民を拉致する行為は、国家の主権を侵害する行為であり、国際法上直接侵略とみなされる。その反面、国、政府も拉致を実行された自治体も国土、国民を守る体制、拉致後の拉致被害者奪還に対する対応ができていなかった、主権を守れなかったともみなされる。

◆1980年代

1980年1月7日、産経新聞がマスメディアにて初めて拉致事件の報道をする。タイトルは「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」。記者は産経新聞社会部の阿部雅美。

1980年3月24日、参議院決算委員会において公明党の和泉照雄はアベック失踪事件について質問。この質疑応答においては「北朝鮮」という言葉は出なかったが、北朝鮮による日本人拉致問題に連なる議題が初めて国会で取り上げられる質疑となった。

1988年1月28日、衆議院本会議において民社党の塚本三郎委員長は竹下登首相の施政方針演説に対し代表質問を行う。その中で大韓航空機爆破事件、「李恩恵」(田口八重子)および金賢姫等に言及するとともに1978年7月から8月にかけて福井県(地村保志・濱本富貴惠)、新潟県(蓮池薫・奥土祐木子)、鹿児島県(市川修一・増元るみ子)において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件について北朝鮮による犯行ではないかと指摘し、真相究明を求める。

この塚本の質問は国会において初めて北朝鮮による日本人拉致について取り上げられたものであったが、竹下首相からは明確な答弁を得られなかった。

1988年3月26日、参議院予算委員会で日本共産党の橋本敦は1978年7月から8月にかけて福井県・新潟県・鹿児島県において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件、「李恩恵」および金賢姫等について質問を行う。

これに対し国家公安委員会委員長の梶山静六は北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であるとの見方を示し、真相究明のために全力を尽くす考えであることを表明した。これは北朝鮮による日本人拉致事件の存在を政府が認めた初めての公式答弁である。

これに続き宇野宗佑外相は「我々の主権が侵されていたという問題」「全くもって許しがたい人道上の問題」「強い憤り」「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁。

林田悠紀夫法相は「我が国の主権を侵害するまことに重大な事件」「判明したならばそこで処置」と、更に城内康光警察庁警備局長は「一連の事件は北朝鮮による拉致の疑い」「既にそういった観点から捜査を行っている」と答弁し、北朝鮮による日本人拉致について政府の認識を示した。

一方、1988年8月、ヨーロッパにおいて北朝鮮工作員・よど号ハイジャック事件犯人関係者に拉致された石岡亨(北海道札幌市出身)と松木薫(熊本県熊本市出身)それに有本恵子(兵庫県神戸市長田区出身)の消息を伝える石岡本人の手紙がポーランド経由で石岡の家族の元に届く。

この手紙によって行方が分からなくなっていた3名が北朝鮮にいることが判明した。しかし、松木については、その手紙に正確に住所が記されていなかったため、家族には時間が経ってから知らされた。

石岡・有本家は日頃から北朝鮮とパイプがあることをアピールしていた日本社会党系の政治家に助けを求めることにした。石岡の家族は札幌市の日本社会党北海道連合にも相談したが、「本部に連絡をする。国交がない国なので口外しないように」と言われた。「国交がないから」という言葉は、それ以降も外務省や様々なところで言い訳に使われることとなる。

一方、有本の両親は上京して自由民主党の政治家に助けを求めることを決め、1988年9月、東京都千代田区永田町の衆議院議員会館に自由民主党幹事長の安倍晋太郎を訪ねる。安倍は夫妻の訴えを聞き届け、当時秘書だった次男の安倍晋三に夫妻を外務省と警察庁に案内するよう命じ、夫妻はここに至って事の次第を外務省・警察庁に伝えることができた。

以後有本夫妻は安倍父子に連絡するようになり、安倍父子はこの問題に取り組むことになるが、1989年6月、晋太郎は癌を発症し入院。幹事長も退任した。以後入退院を繰り返したが、1991年5月、晋太郎は他界した。

後継者となった晋三は亡父の地盤を引き継ぎ、1993年、第40回衆議院議員総選挙に立候補し当選。以後国会議員としてこの問題に取り組むことになった。

梶山の答弁以降、しばらく国会で取り上げられることはなく、警察の捜査の進捗状況や事件の真相も明らかにならないまま一般には半ば忘れられた問題となっていた。

◆1990年代

1996年9月、『金正日の拉致指令』が出版される。著者は石高健次(朝日放送)。元北朝鮮工作員からの証言を元に取材し、日本人拉致事件の情報を公にした。

1997年初頭、元北朝鮮工作員で脱北者の安明進の証言が出て事態が動き出す。同年1月23日、新進党の西村眞悟は衆議院予算委員会に「北朝鮮工作組織による日本人誘拐・拉致に関する質問主意書」を提出し、初めて横田めぐみ拉致事案を取り上げ、政府の認識を問うた。

同月新潟県で「北朝鮮に拉致された日本人を救出する会」が発足し、一部の拉致被害者家族が実名公表を決める。これを受け同年2月3日、衆議院予算委員会において西村は大韓航空機爆破事件や文世光事件、金賢姫の著書などに言及しながら横田めぐみ・久米裕・田口八重子・原敕晁らの実名を挙げ、彼らが北朝鮮に拉致されていると明確に指摘した質疑を行い、橋本龍太郎首相、池田行彦外相に政府の見解を質した。

(修一:産経記者だった阿部雅美氏の「40年目の検証 私の拉致取材 No.42」には、西村氏の質疑の1997年2月3日当日の朝刊で産経は1面と社会面で横田めぐみさん拉致疑惑を報じている。社会面見出しは「『うちの娘だと思う』めぐみさん両親 死亡宣告せず待った」)

大手マスコミもこれを報道し、当時13歳の中学生少女が拉致されていたという事実の指摘は国民に衝撃を与え、北朝鮮による拉致事件が広く国民に認識される契機となった。

このように国内で拉致問題が初めて大きくクローズアップされるなか、3月25日に「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)が結成され、救出活動を開始することになった。

また国会内では議連結成の動きが本格化した。4月15日、自由民主党衆議院議員の中山正暉が会長となり、超党派の議員による「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」(旧拉致議連)が設立された。同年5月1日の参議院決算委員会において自民党吉川芳男の質疑に対し、伊達興治警察庁警備局長が北朝鮮によって横田めぐみが拉致された疑いがあるとした答弁し、政府は「7件10人が北朝鮮に拉致された疑いが濃厚」と発表。

メディアが拉致問題を一斉にクローズアップした。拉致問題の報道が本格的になると同時に国民の関心も徐々に高まっていった。 拉致問題解決の署名活動が行われ、1997年8月末には60万人、1年後には100万人を越えた。このうち、福井県では地元の拉致被害者の父地村保らの活動により、県民の半数の署名を集めている、云々>

上記にあるように1988年3月26日、日共の橋本敦が拉致事件について質問し、政府が公式答弁で初めて「北朝鮮による日本人拉致事件の存在を認めた」わけだ。

これについては橋本の議員秘書をしていた兵本達吉氏(後に北とヨリを戻したい日共から除名され、その後は評論家、いい論稿が多い)が舞台回しをし、拉致報道の先駆者でありながら孤立無援の産経の阿部雅美記者と1996年(修一:資料紛失で特定できない)偶然的、運命的な出会いをすることで、新しい局面が開いていく。

わが街では白梅も開き、このところ春琴様はご機嫌斜めならず、わが家にも新局面が開けるかも、春が来るかもと淡い期待を抱く佐吉こと発狂亭“ジャンピング二―パット”雀庵の病棟日記から。

【2016/12/18】(承前)*1700年代に英国から産業革命が始まり、生産性は飛躍的に向上していくのだが、日本はそこから取り残されたままだった。

家康が開幕した1600年当時の日本人口は2300万人ほど。100人の食糧を得るために70人の生産者(農林水産業従事者)が必要だった。それから260年後の幕末でも人口はほとんど変わらなかった。肺の活用、堆肥の発明、開墾などもあって一時的に3000万人に増えたこともあるが、生産性が多少向上しても天候不順(寒い夏)による飢饉などもあって食糧は恒常的に不足気味で、農村では間引きも多く、人口は2000万〜2500万人当たりを行ったり来たりしていた。

(今、先進国の農業人口比率は5%(米国は3%)ほどで、輸入という海外の間接的な農業人口をプラスしても8%ほどではないか。日本は大企業への新「農地解放」を断行しないと、後継者不足で食糧安保はとても脆弱になるだろう)

日本は米国の蒸気船打撃群で「泰平の眠り」から覚めて、おっとり刀で近代化を進め、植民地化から逃れるとともに新興列強となり、今はGDP世界3位である。幕府の「農本主義・地方分権」は、日本独自の文化、穏やかな精神を育んだというプラス面もある。

曽野綾子氏は「日本は理想郷に近い」としばしば書いているが、小生も「日本は天国に一番近い島」だと思っている。1600年頃に「重商主義・中央集権」を選択していたら、今頃はどうなっていたのだろう。大東亜日本帝国になり、やがて大日本連邦、さらに日本国に縮んで、スコットランドみたいに北海道が独立しかねないと大慌てになっていたりして・・・(つづく)2018/3/7




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創刊日:2017-02-04  
最終発行日:  
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