「措置入院」精神病棟の日々(74)

2017/11/15

================
「措置入院」精神病棟の日々(74)
================
“シーチン”修一 2.0

11/14、精神科外来で受診、“いい死の日”11/4に引きこもってから11日目だ。心身ともにかなり快復してきたが、「治る病気じゃない」というのはちょっと辛いものがある。こういうのは笑って吹き飛ばすしかないやろな・・・

<アンタのおかあはん、うちにこう言わはったで。

「歳をとってから刑務所に面会に行くなんて思ってもみんかった、修はほんまに手がかかる子で、ちっさい頃はよー病気して、大きゅうなったら刑務所や、うちはこのクソガキをいつまで難儀せなあかんのやと嘆き続けてましたんや。

そんなアホをよー引き受けてくださって、ほんまにうちはホッとしてます、ようやく解放された、もう要らん心配せんでもええ・・・ほんまに感激して・・・もううちは・・・天国の父ちゃんも喜んでいはるやろ思うと・・・」

おかあはん、涙流してうちに感謝していたで。おかあはんの気持、うちは今ようやく分かったわ。うちが思ってたアンタと今のアンタは全然違う。もうアンタには何も期待せん、がっかりや。朝っぱらから台所でガチャガチャするんも安眠妨害や。あんた、何時に起きてるんや?

「大体4時ごろや、脳ミソが動き出すまで1時間はかかるさかいに・・・飯は6時半やから、それまでに洗濯も干し終えんといかんし・・・」

せめて5時からにしてえな、ええ気持で寝てるとこ起こされると気分悪うなるさかいな。ほんまにもうやっかいなやっちゃ。

おかあはん、うちにこんなことも言うてはったで、「あんさん、仕事のかたわら大学で勉強しておるそやけど、アホの修とはぜんぜん釣り合わんし、あないなアホのどこが気に入りましたんや」て。

うちはこう言ったんや。藤山寛美のアホは必死のパッチで磨いた芸やで、修さんのアホは混じりっ気なしの天然もんです。

うちは浪大の聴講生で、「人間行動学」を専攻しておるんやけど、日本人種の知能の発達の研究標本として、修さんは貴種ちゅうかけったいなほどの稀種、奇妙なほどの奇種で、proto-Mongoloid、古モンゴロイド、ま、縄文人というか、日本原人そのものでっさかいに、ほとんどレッドブックもん、絶滅危惧種ですわ。

うちの研究対象としてぴったりやし、野生動物の保護という面でもうちが難儀せなあかん、科学者としての義務やと、そう思いましてんねん、てな。

おかあはんは「何や分からへんけど、修が世の中に役立つとは思ってもみんかった。トンビがバカを産むっちゅうのは、そういうことやな」。ほんまになあ、「アホも使いようや」ってふたりして大笑いしたもんや。

今のアンタはアホやない。要らん知恵つけよったさかいにうつになってしもうた。ちーとも可愛くないわ。標本にもならんドアホや、粗大ゴミや、金北豚、役立たず、濡れ落ち葉のクズや・・・

何をしようが、どこへ行こうが、うちはもう難儀やさかい、三猿でいくわ。アンタが出ていかんならうちが出ていく。ほんまに見損のうたわ>

「溺れる犬をさらに打つ」、病人にそこまで言わんかてええやんか、と思うんやけど、世間は結構キツーイもんや。魯迅先生曰く――

<犬は、いかに狂い吠えようとも、実際は「道義」などを絶対に解さない。犬は泳ぎができる。かならず岸へはい上がって、油断していると、まずからだをブルブルッと振って、しっぽを巻いて逃げ去るにちがいないのである。

しかも、その後になっても、性情は依然として変わらない。愚直な人は、犬が水へ落ちたのを見て、「きっと懺悔するだろう、もう人に咬みつくことはあるまい」などと思うだろうが、それはとんでもないまちがいである>(「“フェアプレイ”はまだ早い」) 

一度うつ病、一生うつ病、同病の人はどうしているのだろう。BuzzFeed Japan 11/9「鬱を抱える芥川賞作家を救った“吐き出す”ということから。

<20歳という若さで芥川賞に輝いた、ひとりの小説家がいる。金原ひとみ、34歳。

受賞した年に担当編集者と結婚し、東日本大震災を機にフランスに移住。34歳となった彼女はいま、娘2人と夫との4人で暮らしている。

「年に数回は消えてしまいたいと思う時があります。消滅欲求が、わっと盛り上がる時が定期的にあって。もちろんきっかけはあるんですが」

真っ白な光が差し込む部屋の中で。彼女は自らが抱えている鬱のことを、淡々と語り始めた。

「書いているときは、パソコンと私っていう世界の中で、ある種の信頼関係の中で自分の書きたいことを表現できる。そこに描かれるのはユートピアみたいな世界ではないですけど、信頼のある場で苦しみを吐露していく中で、自分が救われていっている、という感覚があるんです」>

苦しみを吐露する中に救いがある・・・その感じは分かるが、吐露される方は迷惑だったりして。齢を重ねても分からないことだらけだ。自分を標本に考え続けることが小生の道なのだろう。

過ぎたるは及ばざるが如し、“考えすぎる老人”発狂亭雀庵の病棟日記から。

【2017/1/6】(承前、クリスチャンの渡辺和子氏の論稿から)

<聖フランシスコの「平和の祈り」は、「主よ、私を、あなたの平和のためにお使いください」という祈りの後に(こう)記しています。

「慰められるより慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、望ませてください。

私たちは与えることによって与えられ、すすんで許すことによって許され、人のために死ぬことによって永遠に生きることができるからです」

このように(自己中心的な自分との絶え間ない戦いである)“小さな死”は命と平和を生み出します。それはマザー・テレサが求めていた“痛みを伴う愛”の実践でもあるんです>

小生のモヤモヤは、医療という科学ではなく、宗教という超人間的な神仏、教義への崇拝、信仰、帰依、それに支えられた自己犠牲という“小さな死”、「痛みを伴う愛の実践」でしか晴れないのではないか。

仏教でいうところの「安心=あんじん」、「信心を得て落ち着き安住して動じない」という境地。妄想、逃避、依存症に似ているようでもある。

磯田光一(文芸評論家、イギリス文学者)曰く――

<愛とは隷属であり、幸福とは“隷属の幸福”以外あり得ない。人間は進歩や解放、自由さえも求めてはいない。人間が心の底で求めているのは、異性であれ、(宗教や)イデオロギーであれ、一つの対象のために奴隷になるということである。

そのために身を亡ぼすことも辞さない。そういう感覚を理解できないなら“進歩と改革”を信じ続けるがいい>

我が身を見れば、法悦のような「隷属の幸福/降伏」か、相互不信的な「休戦・停戦・家庭内別居」かの二択・・・

「覆水盆に返らず」で、隷属は難しそうで、現実的にはいささか冷戦的な家庭内別居になるかもしれない。

難しい知恵の輪が解けるわけではないが、とりあえず押入れの隅に入れておく、という「時とともに去りぬ」の忘却路線。どうなるものやら全然分からない。

*10:00〜11:15、作業療法は体操と、オモチャの紙幣を賭けてのじゃんけんゲーム。オモチャであってもカネが絡むから結構みな真剣に楽しんでいた。この部屋の窓から洋風の新築一戸建てがよく見えるのだが、ど田舎の風景とまったくマッチしていない。

まるでカナダのプリンスエドワード島の「赤毛のアン」の家がそっくり移築されたような感じで、多分、奥さんの好みなのだろう。旦那さんは「とにかく白い家は勘弁してくれ」と言うのが精一杯だったに違いない。外壁はクリーム色だった。

男と女・・・上手くやるのは本当に難しい。生涯未婚率は上昇するばかりだ。「お一人様」でも快適に暮らせるから、よほどのインセンティブがないとゴールインはしないのかもしれない。(つづく)2017/11/15








規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2017-02-04  
最終発行日:  
発行周期:日刊  
Score!: - 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。