名言

(日刊)ラッセルの言葉366_カレンダー版

英国の哲学者バートランド・ラッセル(Bertrand Russell, 1872- 1970)の名言・警句を毎朝お届けするメルマガです。
読者と一緒に育てていきたいと思っています.


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デカルトの誤り(「我思う故に我有り」という言い方は間違っている)

2018/01/29

 周知のように,デカルトは「我思うゆえに我あり」(注:私は今考えている,
従って考えている私は今存在しているはずだ)といい,あたかも新しいことは
何も言わなかったかのように(注:当たり前のことを言ったかのごとく),た
だちにさらに進んで,「私(我)は思考するひとつの物(注:物質/物体)であ
る」と断言する。非常に多い誤り(誤謬)をわずかな言葉でひとまとめにするこ
とは困難であろう(注:つまり,それほど間違いを多く含んでいるということ)
。「我思う(I think 私は考える)」から始めると,「我(I 私)」という語は
,文法に従うために(注:英文法においては主語を省略できないことになって
いるために)無理やり挿入されており,文法(というもの)は我々(英国人の)
最初の祖先であるインド・ヨーロッパ語族の祖先が,野営の火を囲みながら呟
いた形而上学を具体化している。それゆえ,「我(I 私)」という語を切り捨て
なくてはならない。我々は,主語を捨てて,「think 考える」という語を残す
だろう。なぜなら,主語(というの)は,思想(思考)から締め出さなければ
ならない実体への信仰(信念)を具現化しているからである。「ゆえに,我あ
り("therefore I am" )」という言葉は,「我(I 私)」という語に含まれて
いる形而上学的罪を繰返しているだけでなく,引用符内の語を引用符をつけな
い語と混同するという,カルナップの諸著作を通じてさんざん笑いものにされ
た,さらなる別の罪を犯している(注:デカルトは最初の文で ”I think" と
言って,その存在を証明しなければならない"I"(吾) を前提としてしまった上
で,"therefore, I am (それゆえに我あり)" と断定していることになり,証
明になっていない。)。私が「我あり(私は存在する)」あるいは「ソクラテ
スは存在した」あるいはそれに似た陳述をする場合には,私は,実際に,「我
(I 私)」という語あるいは「ソクラテス」という語についてのあることをの
べているのである。大まかに言えば,この語が名前である場合において,そう
である。なぜなら,世界に存在する全てのものについて考えるならば,それら
が二つの集合,即ち,存在するものと存在しないものとに分けることはできな
い,ということは明らかだからである。事実,非存在(存在しないこと)は,
極めて稀な属性である。
 二人のドイツの悲観主義的な哲学者の(次の)話を皆知っている(だろう)。
その内の一人が,「生れなかったならばどれ程(より)幸福だったことだろう」
と叫び,これに対しもう一人の哲学者は,ため息をつきながら,次のように応
えた。「その通り,だがこの幸福な運命を達成した(幸運なくじを引いた)人
間はなんとわずかなことか! 
 実際,存在するいかなるものについても有意味なことは言うことはできない
。あなたが有意味に言えることは,存在(それ)を指し示す語はあるものを指
示するということであり,「ハムレット」のような語についてはそれ(存在/
実在)は言えないのである。劇中のハムレットに関する全ての陳述は「?ハム
レット″は(実在する物の)名前である Hamlet is a name」という過った陳
述を暗黙裡に含んでおり,これがその劇をデンマークの(実際)歴史の一部と
みなすことのできない理由である。
 それ故デカルトが「私は存在する」という時に彼の意味すべきことは
「?私″は名前である」である。これは疑いもなく非常に興味深い陳述である
が,デカルトがそれから導き出そうとした形而上学的結論はまったく含まれて
いない。けれども,これらのことは,私がデカルトの哲学で強調したい誤りで
はない。私が強調したいことは,「私は考えるもの(物/物体)である」とい
うことに含まれている誤りである。ここでは,実体の哲学が仮定されている。
世界は変化しつつある状態を有している多少とも永続的な対象(物体)から成
り立っている,と仮定されている。この見解は,言語を発明した,また,最初は
恐れ,その後食べてしまった同一人物だということを確信していたけれども,
戦闘中の敵と殺害した後の敵との相違によって驚かされた,初期の形而上学者
たちによって,展開されたものである。常識がその教義を導き出すのはこのよ
うな起源からである。そうして多くの哲学の教授たちが皆,常識におべっかを
使い,そうしておそらく意図せずして,カーニバルの野蛮な迷信の前に敬意を
表してひざまづくことを自らの義務(責務)と考えていることは,悲しむべき
ことである。

Descartes, as everybody knows, says "I think, therefore I am," and he
 goes on at once, as if he had said nothing new, to assert "I am a 
thing that thinks." It would be difficult to pack so large a number of
 errors into so few words. To begin with "I think," the word "I" is 
thrust in to conform with grammar, and grammar embodies the metaphysic
 of our original Indo-European ancestors as they stammered round their
 campfires. We must, therefore, cut out the word "I." We will leave 
the word "think," but without a subject, since the subject embodies a
belief in substance which we must shut out of our thoughts. The words
 "therefore I am" not only repeat the metaphysical sin embodied in the
 word "I," but commit the further sin, vigorously pilloried throughout
 the works of Carnap, of confounding a word in inverted commas with a
 word without inverted commas. When I say "I am," or "Socrates 
existed," or any similar statement, I am really saying something 
about the word "I" or the word "Socrates"--roughly speaking, in each
 case that this word is a name. For it is obvious that, if you think
 of all the things that there are in the world, they cannot be 
divided into two classes namely, those that exist, and those that do
 not. Non-existence, in fact, is a very rare property. Everybody 
knows the story of the two German pessimistic philosophers, of whom
 one exclaimed: "How much happier were it never to have been born." 
To which the other replied with a sigh: "True! But how few are those
 who achieve this happy lot." You cannot, in fact, say significantly
 of anything that it exists. What you can say significantly is that 
the word denoting it denotes something, which is not true of such a 
word as "Hamlet." Every statement about Hamlet in the play has 
implicit the false statement " 'Hamlet' is a name," and that is why
 you cannot take the play as part of Danish history. So when 
Descartes says "I am," what he ought to mean is "'I' is a name"-- 
doubtless a very interesting statement, but not having all the 
metaphysical consequences which Descartes wishes to draw from it. 
These, however, are not the mistakes I wish to emphasize in 
Descartes' philosophy. What I wish to emphasize is the error 
involved in saying "I am a thing that thinks." Here the substance
 philosophy is assumed. It is assumed that the world consists of 
more or less permanent objects with changing states. This view was
 evolved by the original metaphysicians who invented language, and
 who were much struck by the difference between their enemy in 
battle and their enemy after he had been slain, although they were
 persuaded that it was the same person whom they first feared, and
 then ate. It is from such origins that common sense derives its 
tenets. And I regret to say that all too many professors of 
philosophy consider it their duty to be sycophants of common sense,
 and thus, doubtless unintentionally, to bow down in homage before
 the savage superstitions of cannibals. 
 出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
 詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter030.HTM

 <寸言>
 自分は存在しているかどうか問題にして根源的な問をする時に、自分(我)
の存在を前提にして証明しようとすることはおかしい。人間が何か考えてい
る時に、「思考(考えている)」という現象が起こっているのは確かであろ
うが、その時に「我【自分)」の存在を仮定するようなことがあれば矛盾し
てしまう。

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創刊日:2014-12-19  
最終発行日:  
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