名言

(日刊)ラッセルの言葉366_カレンダー版

英国の哲学者バートランド・ラッセル(Bertrand Russell, 1872- 1970)の名言・警句を毎朝お届けするメルマガです。
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(日常言語学派の)常識由来の混乱した頭

2017/11/23

 (5) [常識由来の混乱した頭]

 常識は,日常的な目的にはまったくよいものであるが,「虹はどこにあるの
か(存在するのか)?」というような単純な質問によってさえも,容易に困乱
させられる(途方に暮れる)。(たとえば)あなたがレコード(アナログレコ
ード)の声を聞くとき,話した人の声(そのもの)を聞いているのか,それと
も再生された声(複製された声)を聞いているのか,どちらであろうか? あ
なたが切断された足に痛みを感じる時,痛みはどこにあるのだろうか?(注:
足を切断した人も足があるかのように痛みを感じるという現象があることを言
っている。)(足がないので足に痛みがあると言えないので)痛みは自分の頭
(脳の中)にあるとあなたがいえば,もしも足が切断されていなかったら痛み
は頭(脳の中)にあるのであろうか? あなたがもしそうだ(そのとおり)と
言えば,その時は,あなたが足をもっていると考える理由は何であろうか?等
々の問題が出てくる。

 誰も常識的な言い回し(言葉遣い)を変えようとは思わないのは,(地球が
太陽のまわりを回ると言わずに)太陽が昇ったり沈んだりすると言うのをやめ
ないのと同じである。しかし,天文学者は別の言葉(科学用語)のほうがもっと
よいと認めており,私も哲学には別の言語を使ったほうがよいと強く主張して
いる。

 一つ例をあげよう。
 このような(日常言語学派の哲学のような)大きな言語的要素を含んでいる哲
学は,次の問い,即ち,「語」という語はどういう意味をもつかという問いに
(そのような問いは意味がないといった)異議をさしはさむことはできない
(注:日常言語学派が,まず問いの意味や内容をはっきりさせることが第一と
主張する以上,この問いは何を意味しているか,彼らはまず明らかにしなけれ
ばならないから。)。しかし,常識的な語彙の範囲内で,どのようにしてこの
問いに答えたらよいのか解らない。
 「猫」という語(単語)をとってみよう,また,問題を限定して明確にする
ために書かれた語(単語)をとろう。あきらかにこの語(猫)の事例は多数ある
が,どれもその語そのものではない(注:Aさんが書いた'cat', Bさんが書い
た'cat', Cさんが書いた'cat', その他多数の書かれた語=単語の実例)。私
が「?猫″という語(単語)について論じよう」と言えば,その「猫」という
語は私の言っていることの中には現れないで,その語の事例のみが現れる。語
そのものは感覚できる世界のいかなる部分でもない。 (注:他の例をあげれ
ば,プラトンのイデアの世界における「三角形」という言葉とこの世における
具体例としての多様な「三角形」の事例)。仮にそれが何物かだとすれば,プ
ラトンの天国における永遠の超感覚的な実体である。その語(猫)は似かよっ
た形をしたものの集合だと言えるし,あらゆる集合と同様に論理的虚構であ
る。

 しかし,我々の困難は(これでは)終らない。類似性は,ある形を「猫」と
いう語の集合の一員たらしめるのに必要でもなければ十分でもない(注:猫と
いう語は◯◯という形をしていなければいけないなんていう決定的なものはな
い。)。「猫」という語は大文字で書かれても小文字で書かれてもよいしも,
読みやすくても読みにくくても,また,白い面に黒い文字で書いても黒い面に
白い文字で書いてもよいだろう。私が「カタストロフィ(catastrophe)」と
いう語を書いた場合,最初の三文字は「猫」という語の事例にはなっていない
。その語の事例における最も必要欠くべからざるものは,内包(意図する内
容・意味)である。大理石の一片が「猫」(cat)という形の縞模様をたまた
ま形作ったとしても,我々はそれをその猫という語の事例とは考えないであろ
う。
 このようにして,(a)集合(クラス)の論理説,および(2)内包の心理学的理
解なくしては,「語(word)」という語(word)を定義することはできないように
みえる。これらは難しい問題である。私は,常識(というもの)は,その語の
使用(法)において正しいとしても正しくないとしても,語が何であるかを少
しも理解していないと結論する。(常識を武器にするだけで理解できるもので
はない。)この結論が常識を黙らせることを信じることができればと望む。

5) [the muddle-headedness taken over from common sense]

Common sense, though all very well for everyday purposes, is easily 
confused, even by such simple questions as "Where is the rainbow?" 
When you hear a voice on a gramophone record, are you hearing the man
 who spoke or a reproduction? When you feel a pain in a leg that has
 been amputated, where is the pain? If you say it is in your head, w
ould it be in your head if the leg had not been amputated? If you say
 yes, then what reason have you ever for thinking you have a leg? 
And so on. 

No one wants to alter the language of common sense, any more than we
wish to give up talking of the sun rising and setting. But astronomers
 find a different language better, and I contend that a different 
language is better in philosophy. 

Let us take an example. A philosophy containing such a large 
linguistic element cannot object to the question: What is meant by 
the word "word"? But I do not see how this is to be answered within 
the vocabulary of common sense. Let us take the word "cat," and for 
the sake of definiteness let us take the written word. Clearly there
 are many instances of the word, no one of which is the word. If I say
 "Let us dis- cuss the word 'cat,' " the word "cat" does not occur in
 what I say, but only an instance of the word. The word itself is no 
part of the sensible world; if it is anything, it is an eternal 
supersensible entity in a Platonic heaven. The word, we may say, is a
 class of similar shapes, and, like all classes, is a logical fiction.

But our difficulties are not at an end. Similarity is neither 
necessary nor sufficient to make a shape a member of the class which
 is the word "cat." The word may be written in capitals or in small
 letters, legibly or illegibly, in black on a white ground or in white
 on a blackboard. If I write the word "catastrophe," the first three
 letters do not constitute an instance of the word "cat." The most
 necessary thing in an instance of the word is intention. If a piece
 of marble happened to have a vein making the shape "cat" we should
 not think this an instance of the word.

It thus appears that we cannot define the word "word" without (a) a
 logical theory of classes, and (b) a psychological understanding of
 intention. These are difficult matters. I conclude that common sense,
 whether correct or incorrect in the use of words, does not know in 
the least what words are--I wish I could believe that this conclusion
 would render it speechless. 
 出典: The cult of "common usage" (1953).
 詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1002_CoCU-060.HTM

 <寸言>
 諸科学は(自然科学だけでなく、社会科学であろうと人文科学であろうと)
その科学独特な専門用語を持っている。どうして哲学だけ、専門用語を全て廃
して、日常語で論じなくてはならないのか? ということ。

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創刊日:2014-12-19  
最終発行日:  
発行周期:日刊  
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