名言

(日刊)ラッセルの言葉366_カレンダー版

英国の哲学者バートランド・ラッセル(Bertrand Russell, 1872- 1970)の名言・警句を毎朝お届けするメルマガです。
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キリスト教の「自由意志の教義」と「自然法則に対する信仰」

2017/07/28

 自然法則に関するキリスト教徒の態度は,奇妙に揺れていて,はっきりしな
い。一方においては,自由意志の教義があり,大部分のキリスト教徒はそれを
信じていた。そうして,この教義は,少なくとも,人間の行為は自然法則に服
従すべきではないことを必要としていた(注:人間は自然法則に従うだけで自
由意志がないとしたら倫理が成り立たなくなるため)。他方,特に18世紀 及
び19世紀には,立法者としての神(へ)の信仰及び(世界の)創造者が実在す
る主要な証拠の一つとしての自然法則への信仰があった。近代においては,
(神が)立法者である証拠を与えるものとしての自然法則への信仰よりも,
(人間の)自由意志のために法則(自然法則)の支配に対する異議がより強く
感じられ始めてきた。唯物論者たちは,人体の動きは機械的に決定されており
,その結果,我々(人間)の言う全てや我々がなすあらゆる位置の変化は,
いかなる可能な自由意志の範囲外になる(注:それらについては人間に自由意
志はない),ということを示すために,あるいは示そうとして,物理法則を用
いた。もしそれが正しいのであれば,束縛されない意志(の力)として我々人
間に何が残されようとも,それはほとんど価値はない。もし,人が詩を書いた
り,あるいは殺人を犯す場合,その行為に含まれる人体の運動がもっぱら物理
的な原因からの結果であるとするならば,ある場合には(その人の功績をたた
え)銅像を建て,別の場合には首を締める(絞首刑にする)というのは,馬鹿
げていると思われるであろう。ある種の形而上学の体系の中においては,意志
が自由であるような(肉体が関係しない)純粋な思惟の領域が残っているかも
知れない。(注:カントの「純粋理性」などに対する皮肉であろう。/大竹勝
・訳『宗教は必要か』では次のように訳されており,哲学の知識の不足により
,不適切な訳となっている。「ある形而上学体系の中に,意志が自由であるよ
うな純粋思想の分野は残っているであろうが,それは人体の運動によってのみ
他人に伝えられるのだから・・・」 それから,"certain" という単語は漠然
とした「ある〜」というものではないことに注意が必要であろう。)
しかし,その意志は人体の運動によってのみ他人に伝えることができるのであ
るから,自由の領域は,伝達の対象にはなりえないものであり,社会的な重要
性を決して持ちえないものとなるであろう。

The attitude of the Christians on the subject of natural law has been
 curiously vacillating and uncertain. There was, on the one hand, the
 doctrine of free will, in which the great majority of Christians 
believed; and this doctrine required that the acts of human beings at
 least should not be subject to natural law. There was, on the other 
hand, especially in the eighteenth and nineteenth centuries, a belief
 in God as the Lawgiver and in natural law as one of the main 
evidences of the existence of a Creator. In recent times the objection
 to the reign of law in the interests of free will has begun to be 
felt more strongly than the belief in natural law as affording 
evidence for a Lawgiver. Materialists used the laws of physics to 
show, or attempt to show, that the movements of human bodies are 
mechanically determined, and that consequently everything that we say
 and every change of position that we effect fall outside the sphere
 of any possible free will. If this be so, whatever may be left for 
our unfettered volitions is of little value. If, when a man writes a
 poem or commits a murder, the bodily movements involved in his act
 result solely from physical causes, it would seem absurd to put up a
 statue to him in the one case and to hang him in the other. There 
might in certain metaphysical systems remain a region of pure thought
 in which the will would be free; but, since that can be communicated
 to others only by means of bodily movement, the realm of freedom 
would be one that could never be the subject of communication and 
could never have any social importance.
 出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
 詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-100.HTM

 <寸言>
 人は矛盾をしたことを言っても、普段、全体の整合性を考えることはしな
いので、その矛盾に気が付かないことが少なくない。宗教の教義と(教義化
されていない)宗教の根本思想との間にもそういった矛盾がけっこう存在す
る。宗教家や宗教の信者は、「信じることが重要」ということで、そういっ
た矛盾について論理的につめて考える事をしない者が多い。「信じることが
重要」であるならば、他の宗教を「信じている(=信じることが重要だから
特に理由はない)」という者に対しては、「邪教」を信じてはいけない、
「呪われる」「地獄に落ちる」とか言って脅かす「狂信者」も散見される。
それなら、「(まず)信じることが重要」という言葉は撤回したほうがよい
のではないか?

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創刊日:2014-12-19  
最終発行日:  
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