文学

老女の夢

白寿の老女を主人公にしたオムニバスストーリー。 老女は、夜はもちろんのこと、昼寝のときも、よく夢を見る。そのため、夢と現実との境界線があいまいとなり、現実の生活の中ではちぐはぐなことも多いが、物事をポジティブに捉え、暮らしに潤いをもたらしながら、穏やかに家族との暮らしを楽しんでいる。

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創刊日:2012-03-29  
最終発行日:2012-04-16  
発行周期:季刊  
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老女の夢

2012/04/16

   萩

 白寿を迎えた老女は、めったに外出することがなかった。足はすっかり弱っていたし、家の中でも杖を頼りにしていた。時には、近くの公園へでも行きたいと思うこともあった。近所に住む友達にも会いたいと思う。山向こうの村からこの村に嫁いで来て八十年近くが経つ。
 そのころは隣の家へ行くにも、いくつかの田圃を通らなければならないような田舎だったが、戦後、この辺りは、都心へ通うサラリーマンのべットタウンとして急速に変貌した。周囲は住宅ばかりになり、いま住んでいる家もハイカラに建て直された。
 べットタウンとなってからでも半世紀以上になるのだから、近所には、そのころからの知り合いがたくさん住んでいる。その人達とも会いたかった。
 何年か前までは、尋ねてくれる人も居たが、それもなくなり、いつの間にか、訪ねて来るのは友人達の子供ばかりだった。友人の何回忌かで、老女が法事へ行かないから引き出物を届けてくれるといういきさつの人ばかりだった。
 友人達は、ほとんど亡くなっていたが、老女には、誰が亡くなり、誰が生きているのかも分からなくなっていた。だから、それも確かめたかった。
 けれど、ひとりで外へ出ようとすれば、家族の誰かが付き添ってでなければ出してもらえない。何しろあと一年で百歳になるのだから、家族の者達は、何としてもそれまでは生きてもらいたいというのが口癖で、外へ出て怪我でもするのを畏れているのだ。
 迷惑を掛けるのがいちばん嫌いな老女は、外出したいという気持ちもいつの間にか忘れてしまっていた。日がな一日、テレビを見て過ごすのが日課となっている。
 ところがある日、老女はひとりで外出したのである。
 穏やかな日和で、空は雲ひとつなく、抜けるように青い。土手の横を流れる川は銀色の光を反射して眩しいほどだ。
 広々とした蒼空の下で老女は何度も何度も大きな深呼吸をした。何年か、いや何十年振りであったから、あまりにも大きく呼吸し過ぎたらしく、自分が天空へ吸い込まれそうだった。足許が危くなりそうで、慌てて眼を土手に戻すと、萩の花が満開だった。
 土手と平行して延びている歩道には、忙しそうに足早に行き来する人々で溢れている。道行く人々は、みんな顔見知りばかりだった。
「いいお天気ですね」
 老女は幸せだった。浮かれながら会う人ごとに声を掛けた。すると、どの人も怪訝そうな表情をして通り過ぎて行く。
 老女はちょっと戸惑いながらも、来る人くる人がみんな知り合いなのが嬉しくて、繰り返しくりかえし、挨拶を送った。
 しかしどの人も戸惑った表情を返すばかりだった。
 老女はきっと久し振りに出掛けているから私の顔を見忘れているのだろうと解釈して、ちょっぴり悪戯っぽい気分を味わっていた。
 それでも、返事をかえするくらいのことをしてもいいではないか! という気持ちも湧いてくるのだった。けれど、そんな不消化な気分も吹き飛ぶほどに、風が爽やかだった。それからはもう、挨拶をするのは止めにして、あまり人の通らない土手の下を歩いた。
 桔梗やおみなえしも咲いている。老女は、それらを次々に手折っているうち、いつしか田圃の畔道まで来てしまっていた。その畔道には、曼珠沙華が満開だった。
 こんな花が、まだこんなところに咲いているのか、とうれしくなって傍へ近付くと、小さな女の子が座って、可愛らしい手をしきりに動かしている。よく見ると、茎の皮を器用に残して互い違いに折りながら、花輪を作っている。ああ、そうだった。幼いころ自分もこうして花輪を作っていたっけ、と思い出すと、胸の中が、暖かいものに盈たされてくる。懐かしさで涙が溢れ出さないように老女はそっと眼をつぶる。
 やがて、そろそろ花輪もできあがったころだと思いながら眼を開けると、女の子の姿は消えていた。おや、もうどこかへ行ったのだろうか? いつの間に? 女の子の座っていた場所に眼を注ぎ続けていると、ふっと、いまの女の子は、自分だったような気がして来るのだった。
 畔道にどのくらい座り込んでいただろう。空は茜色に染まり、真っ赤な夕日が、土手の水平線に沈もうとするところだった。
 老女は、久し振りに思う存分に歩き回って、快い疲れに浸り、家に帰り着くと、そのまま眠ってしまった。
朝、いつものように、老女の付き添い役を引き受けている孫の嫁の幸子さんに起こされ、皆が仕事へ出掛けたあとにゆっくり朝食を済ませ、テレビの前のイスに座った。
「お早うございます」
 と次々にワイド番組のアナウンサーやゲストが挨拶を送ってくる。
「お早うございます」
 と老女はいつものように声を出して応える。そして、
「きのうはどうして挨拶を返してはくださらなかったの?」
 と尋ねてみる。
 けれど、テレビの中から返事を返してくれるはずはなかった。
「大おばあちゃま、コーヒーがはいりました」
 幸子さんがいつものようにコーヒーを持って来た。
「この人たち、きのう、お散歩のときに会ったのよ。私が挨拶したのに、怪訝な顔しか返してくれなかったわ」
 恨みがましく老女は、幸子さんに訴えた。すると幸子さんは、
「? ? ? そう、大おばあちゃま、きのうは楽しい夢をご覧になられましたのね。よろしかったこと……」

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