歴史・地理

7年戦争を速報風味かな、これ

フリードリヒ大王の七年戦争を
速報風にお伝えしてきます。

調べながら考えながら楽しみながら、
送信させていただきます。

現在は七年戦争4年目の1759年を
扱っています。

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第227回 Combat of Korbitz

2013/05/10

こんばんは。発行人です。

1759年の9月21日Meissen近郊で行われた
「Combat of Korbitz」です。

下記のマップを参考にしていただければと思います。
http://frederi1757.seesaa.net/article/360207652.html
オレンジ色がAustro-Imperial軍の戦闘初期の配置、
青がPrussua軍のそれです。


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【Combat of Korbitz】
 1759年9月21日、Meissen近郊で
 FinckとWunsch率いる約1万3千のPrussia軍と
 HadikとZweibrücken率いる約3万弱のAustro-Imperial軍
 が戦闘となった。

 午前10時頃、Dresden方面から進んできた帝国のZweibrücken軍
 が南からPrussia軍を攻撃し始める。

 南西から進んできたAustriaのHadik軍はMunzigとMiltitzの
 近くを通り、KrögisとStroischenの間に展開した後、
 昼過ぎからWunsch軍より西に配置されていたFinck率いる
 Prussia軍へ攻撃を始める。

 さらに、HadikはBrentanoをPrussia軍右翼へ送った。
 Finckは擲弾兵4歩兵大隊などをRebentischに任せ、これに対応。
 Brentanoは撃退された。
 さらに、 RebentischはHadikの砲兵隊の1つを沈黙させた。
 
 HadikはHadik軍中央のLambergに反撃を指示した。
 しかし、激しい戦闘後、Lambergは撃退された。

 Hadikは後退しつつある歩兵を支援する為、
 左翼に配置されていたSchallenbergの騎兵へ
 反撃を指示した。
 Schallenbergの騎兵は展開してきたPrussiaの騎兵を撃退し、
 Prussia歩兵へ注意を向け、攻撃を始めた。
 2回目の攻撃の後、PrussiaのMarkgraf Carl(IR19)は
 擲弾兵の支援のもと、撤退した。
 攻撃はその後数回行われ、Prussia側は大砲を数門奪われた。
 しかし、最終的にはPrussia歩兵はAustriaの騎兵を撃退した。
 
 夕方、Austro-Imperial軍は戦場から撤退した。


<両軍の被害>
 ●Prussia軍
  死傷者:約1300
  
 ●Austro-Imperial軍
  死傷者:約1700(捕虜約500を含む)


 <言いっ放しでもいいかな、これ>
 KAN:Prussia軍は2方向からの攻撃を撃退しましたね。
 KRE:しかも戦力的に劣勢だったにも関わらずだ。
 KAN:ただ、Dresdenに肉薄できるほどの勝利ではないようです。
 KRE:でもまあ、Torgau北西のZinnaでの戦いに続いての勝利で
   士気もあがっただろうし、SaxonyにおけるPrussia軍の
   存在感が再び上昇していっただろう。


<編集後記>
 最後の戦場に残ったのがPrussia軍でしたので、
 Prussia勝利と言われています。
 

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▲▼おわりに▲▼
Zweibrücken軍とWunsch軍の戦闘経過の情報が
ほしかったです。
今回はほとんど記述できなかったのですが、
Wunschの勇猛さはわりと有名みたいです。

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創刊日:2011-08-10  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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