歴史・地理

7年戦争を速報風味かな、これ

フリードリヒ大王の七年戦争を
速報風にお伝えしてきます。

調べながら考えながら楽しみながら、
送信させていただきます。

現在は七年戦争4年目の1759年を
扱っています。

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第224回 1759年8月(4)

2013/04/12

こんにちは、発行人です。

1759年の8月21〜31日です。

ロシア軍とAustria軍の連携がなされるようになり、
ドイツ東部戦線とLusatia-Silesiaの戦線が
絡み合うようになってきました。

Google Mapsを使い始めました。
ただ場所を示すだけでなく、
少しづつわかりやすくなるように工夫していきたいと思います。


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【ドイツ東部戦線の動き  〜Bohemia-Lusatia-Silesia戦線を含む〜】
 8月22日、ロシア軍のSaltykovとAustria軍のDaunでGubenで会合した。
 
 Paltzig、Kunersdorfと戦いを続け、武器弾薬も少なくなってきていた
 SaltykovはAustria軍が前面にたってPrussia軍へ攻勢に出るべきだと
 主張した。
 Daunはなんとかロシア軍にSaxonyとSilesiaへの支援を頼んだ。
 代わりにAustria軍の物資を供給する事を約束した。
 これに対して、Saltykovはいちおうの理解は示したもよう。

 8月27日、Henryは軍(30bns、58sqn)を率いてLusatiaに向けて出発した。

 8月28日、Zieten軍はSaganに到着した。
 Austria軍が撤退時に破壊した橋は修復された。
 
 同日ロシア軍がSaxonyに向かい始めたという情報あり。

 8月29日、HenryはSaganに到着。
 Zieten軍はSorauに進み、100人近くのAustria軍を捉えた。
 Buelowの別働隊(6bns,5sqns)はNaumburg(Queiss)まで進んだ。

 ロシア軍との分断を恐れたDaunはLaubanのBuccowを離れて
 Daun軍とTriebelで合流するように指示し、d'AynseをPriebusに
 進ませた。
 しかし、DaunはZieten軍の展開を見て、
 Buccowの援軍を待たずに後退した。急いで動き出した為、
 武器弾薬の多くをGubenに残していたDaunだったが、
 ZietenはあえてGubenに向かわなかった。
 
 8月30日、ロシア軍はLieberoseに駐屯していた。
 Hadik率いるAustria軍はLamsfeldに到着した。
 Frederick II率いる軍はFuerstenwaldeを出発した。

 8月31日、Frederick IIはLuebben付近のAustria軽兵を掃討する為に、
 軍を派遣した。

 参考:http://frederi1757.seesaa.net/article/354957578.html


【ドイツ西部戦線の動き】
 8月21日、Ferdinand個人はKorbachからFürstenbergに移動したもよう。
 
 8月22日、H連合軍主力はFrankenberg(Eder)まで進軍。
 Hereditary Prince軍はHeinaまで進み、
 HolsteinとWangenheimの軍と合流した。
 
 同日、フランスのBroglieとd'Armentièresの軍は
 Marburg近くまで後退していた。
 
 8月23日、フランス軍主力はMarburg東のGroßseelheimに宿営した。
 
 8月24日、H連合軍主力はFrankenberg(Eder)からMünchhausenまで進軍し、
 Hereditary Prince軍はWohraまで進んだ。

 8月25日、Hereditary Prince軍はSchönstadtまで進み、
 H連合軍主力に近づいた。
 
 同日、フランスのd'EstreesはGroßseelheimに到着し、
 ContadesとBroglieの仲裁にたった。
 
 8月26日、Saint-Germain軍はBroglieの後衛と合流。

 8月28日、約2千のフランスのFischer軍はWangenheimの軍に攻撃され、
 撃退された。被害約4百を出して、Marburgに撤退した。
 
 8月29日、H連合軍主力はMünchhausenからMellnauとAmönauの周辺に移動し、
 宿営した。
 Broglie軍はすぐにGiessenに向かって後退を始めた、
 
 H連合軍のImhoffはMuensterの攻囲を開始した。
 
 8月末までにドイツのフランス軍は128歩兵大隊・136騎兵大隊となっていた。

 参考:http://frederi1757.seesaa.net/article/311962058.html


【Saxony-Thuringia-Franconia-Bohemia西部の動き】
 8月21日、Wunsch率いる軍がFürstenwaldeから出発し、
 Dresdenの救出に向かったもよう。
 
 8月23日、帝国軍はSaxony北部をほぼ占拠し、約1万1千を
 各都市の防衛に割りふった後に、
 約1万5千がDresdenに向かった。
 
 8月25日、Dresdenを防衛しているSchmettauに
 Battle of Kunersdorf直後のFrederick IIからの連絡が届いた。
 
 8月26日、AustiraのMacquire軍はDresden郊外でElbe側北のNeustadt
 に到着し、Dresdenの北から攻撃に出たが、Schmettauに撃退された。
 その後SchmettauはNeustadtから部隊を撤退させた。
 
 同日、JüterbogでWunsch、Wolfersdorf、Pomeraniaから来たKleist
 の軍が合流した。
 
 8月27日、Wunschの軍はWittenbergを奪い返した。
 その頃、Zweibrueckenの軍はMeissenにいた。
 
 8月29日、Wunsch軍はTorgauに進軍した。
 
 8月31日、Wunsch軍はTorgauを再占領した。
 その後、WunschはMagdeburgからの砲兵を待つ事となった。

 参考:http://frederi1757.seesaa.net/article/354956920.html


【ドイツ北部戦線の動き】
 8月21日、スウェーデンのFersen軍はKamminkeに駐屯していた。
 Usedom付近にいたPrentz指揮下の5百弱のPrussia軍は東に移動し、
 防衛施設のないSwinemuendeで守る体制を取った。
 
 8月24日、スウェーデンのFersenは
 守りの堅さをみるためにSwinemuendeへ攻撃を行った。
 
 8月27日、スウェーデンの軍船はSwinemuendeに砲撃を始め、
 すぐ陸上からも攻撃に移り、Swinemuendeの街を占拠した。
 Prussia軍の一部はSwinemuendeの西の砦にたてこもった。
 これをFersen軍は包囲した。

 参考:http://frederi1757.seesaa.net/article/354955497.html


 <言いっ放しでもいいかな、これ>
 --------南部戦線--------
 KAN:Frederick IIからSchmettauへの手紙には
   Dresden防衛には支援が送られない事態になった事や、
   防衛が難しい場合はDresdenをあきらめて
   他のPrussia軍と合流してもよい、というような内容が
   書かれていたそうです。
 KRE:しかし、Frederick IIから8月25日には
   どんな犠牲を払ってもDresdenを守るように、
   という指示が出ていた。
 KAN:Frederick IIから派遣されたWunschとWolfersdorfの軍(約8千)が
   Dresdenに向かいつつあるという状況を
   Schmettauは知らないわけです。


<編集後記>
 Battle of Kunersdorf後の一気にPrussia軍が
 崩れていくという展開にはならなかったようです。
 ロシア、Austria、スウェーデン、Austriaについたドイツ諸侯
 の攻勢は続いていますが、連携や動きがいまいちです。
 編集部では9月にSilesiaとSaxonyで
 両軍の動きがありそうだと考えています。


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▲▼おわりに▲▼
8月はやはり軍の動きがいろいろあります。


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創刊日:2011-08-10  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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