歴史・地理

7年戦争を速報風味かな、これ

フリードリヒ大王の七年戦争を
速報風にお伝えしてきます。

調べながら考えながら楽しみながら、
送信させていただきます。

現在は七年戦争4年目の1759年を
扱っています。

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第222回 1759年8月(2)

2013/02/09

こんばんは、発行人です。

1759年の8月11〜15日です。


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【ドイツ西部戦線の動き】
 8月11日、H連合軍主力はPaderbornから南のDalheim
 に移動した。
 Hereditary Prince軍は後退しつづけるフランス軍の
 妨害をしており、Einbeckではフランス軍を
 多数捕虜にしたもよう。

 フランスのContades軍はKassel近くまで到着した。
 Saint-Germain軍はLutterberg、Fischer軍は
 Muenden近くのUpper Werra地域。
 Broglie軍はKassel北のObervellmar。
 フランス軍の士気は下がっている。
 また、Saxonや他のドイツ地域出身のフランス兵の
 脱走が相次いでいるもよう。

 8月12日、H連合軍主力はWarburg西まで展開していた。
 これに対してd'Armentieres軍はWarburgから南下し、
 Wolfhagen(Warburg南でKassel西)に移動した。

 8月13日、H連合軍主力はKassel西南西のWaldeckの地域まで
 進軍していた。Hereditary Prince軍はMuenden。

 8月14日、H連合のWangenheim軍はWarburgに到着した。

 8月15日、H連合軍主力はKohlgrundに到着し、
 Wolfhagenのd'Armentieres軍への攻撃機会をうかがった。
 Cotades軍はKasselから撤退し始めた。
 いくつかの騎兵連隊は先にMarburgへ後退していった。


【ドイツ東部戦線の動き】
 8月11日 (※下記を参照願います)
       http://melma.com/backnumber_191337_5742738/

 8月12日 (※第202〜210回を参照願います)
 
 8月13日昼まで軍を立て直したFrederick IIは
 夕方Oder川の東岸に渡り、約1万9千の残兵と
 合流した。
 そして、すぐに西岸に戻りReitwein周辺に移動した。
 この地域のPrussia軍は総勢2万8千ほどと見られる。
 その後南西に移動しつつあった。
 露墺軍はこのPrussia軍を追撃していないもよう。

 ロシア軍もOder川を西へ渡り、Frankfurt an der Oder
 の南に展開しつつあった。
 AustriaのLoudon軍はFrankfurt an der Oder南西あたりで
 約1万4千のHadik軍と合流した。


【Bohemia-Lusatia-Silesia戦線の動き】
 8月11日、Daun指揮下のAustria軍主力はLaubanからGoerlitz
 へ向かって進軍を始め、その後も北上を続けた。
 先行して進んだDaun自身はRothenburgまで進んだ。

 8月13日、DaunはGoerlitz北のPriebusで
 Kunersdorfでの勝利の報を受けた。

 8月14日、DaunはTriebelに到着。BuccowはLauban。
 d'Aynse指揮下のAustriaの予備軍はRothenburg。
 Deville軍はBohemiaとLusatiaの連携を取る為、
 Marklissaに駐留。
 Beck軍はNaumburg(Queiss)周辺に展開。

 8月15日、Henry軍はいまだSchmottseifenに駐屯していた。
 HenryはDaun軍の動き調べる為にZietenを送った。
 参考:http://frederi1757.up.seesaa.net/image/EGE175908_002.jpg


【Saxony-Thuringia-Franconia-Bohemia西部の動き
 8月13日、帝国軍指揮官Zweibrueckenに次ぐ立場のStolberg
 が約6千の増援兵と攻囲用の砲を率いてTorgauに到着した。
 帝国軍はすぐに2度Torgauに攻撃した。
 2度目はうまくいきかけたが、Torgau守備を
 指揮するWolfersdorfが反撃し、なんとか撃退した。
 StolbergはWolfersdorfに名誉ある降伏を呼びかけたが、
 拒否された。

 8月14日、武器弾薬がつきたTorgau守備兵は
 Torgauから撤退せざるをない状況となった。
 Torgauには戦争資金や武器弾薬以外の物資がかなりあったが、
 それらを残す代わりにTorgau守備兵は安全に撤退する
 事を許された。

 Dresden方面にはDaunが派遣したWehlaやBrentanoが
 向かっていた。またさらに、DaunはMacquireもその支援に
 向かわせた。
 これらの軍をあわせると約1万5千ほどと言われる。


<言いっ放しでもいいかな、これ>
 --------南部戦線--------
 KAN:Battle of Kunersdorf後のDaun軍がまずやっておきたい
   事は2つ。
   Dresdenの陥落とHenry軍に守られたSilesiaの奪回ですね。
 KRE:Dresdenには既にある程度の軍は送っているし、Torgauを
   落とした帝国軍からの支援も期待できるだろうから、
   まあ急いで主力を持っていく必要もないだろう。
   とりあえず当面はHenry軍を抑えつつ、
   SaltykovやLoudonの露墺軍がFrederick IIを追い詰めたり、
   Berlinを占拠するのを待つという形でもよい、
   と慎重なDaunは考えていたかもな。

 --------西部戦線--------
 KAN:こちらはフランス軍が後退中ですね。
   それを追いかけるH連合軍。
 KRE:ずいぶん長い距離を後退していく事になっているな。
   捕虜や廃棄した物資、また脱走兵も結構出ている
   だろう。


<編集後記>
 西ではH連合軍有利、東では露墺軍有利、
 と反対の状況となっています。

 SaxonyはAustro-Imperialが優勢です。
 帝国軍がLeipzigとTorgauを落とし、
 DresdenにもAustria軍が向かっています。

 Austria軍のあまり本格的に攻めていないSilesiaは
 Prussia軍がなんとかを維持していますが、
 本国のBrandenburgが危ない状況です。
 1757年10月あたりとはまた別の形で
 Prussiaにとって危険な状況となってきています。


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▲▼おわりに▲▼
Queiss川沿いのと
Bober川沿いのNaumburgは別物です。
近いですが。

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創刊日:2011-08-10  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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