歴史・地理

7年戦争を速報風味かな、これ

フリードリヒ大王の七年戦争を
速報風にお伝えしてきます。

調べながら考えながら楽しみながら、
送信させていただきます。

現在は七年戦争4年目の1759年を
扱っています。

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第135回 Battle of Zorndorf(16)

2012/11/16

こんにちは、発行人です。

さらっと、Battle of Zorndorf後の
8月26〜28日を記述させていただきます。


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【8月25日Battle of Zorndorfの両軍の損害】
 ●Prussia軍 約3万3千
  死傷者:1万3千弱(戦死3千5百、捕虜千5百)
    砲:26門

 ●ロシア軍 4万3千強
  死傷者:約1万9千(戦死約8千、捕虜3千弱)
    砲:103門(?)


【26日の動き】
 8月26日午前中、自ら偵察するなどして
 ロシア軍の攻撃を検討していたFrederick IIだったが、
 昼過ぎには攻撃をあきらめ、野営地に戻り、
 兵に休憩を与えた。
 ロシア軍も軽騎兵と砲兵の動きはあったが、
 前日の疲れを癒す事に終始した。
 午後にLanger-Grund周辺に多く出没していたCossacksとの
 散発的な小競り合いを減らす為に、
 Prussia軍騎兵を北に送った。
 FermorとKlein-Kamminの連携が少し取りやすくなった。

 終日、両軍の砲撃と騎兵同士の小競り合いが
 散発的に起きるだけであった。
 両軍の被害は双方とも100名程度。


【27日の動き】
 26日の真夜中からロシア軍は行軍を開始した。
 8月27日午前5時、Prussia軍はロシア軍が
 Zorndorfから出発した事に気が付いた。
 Frederick IIは騎兵に追跡を指示した。

 ロシア軍はWilkersdorf近くから追撃してくる騎兵
 に砲撃を行った。

 午前9時頃、ロシア軍はKlein-Kammin近くの車陣
 に到着した。

 Frederick IIはロシア軍の偵察を行い、
 Klein-Kammin近くの車陣でさらに守りを固めている
 様子を知り、攻撃をあきらめた。

 Prussia軍はCuestrinと連携の取りやすいTamselに移動した。
 夕方には、Cuestrinの守備兵となっていた
 Wied歩兵連隊(IR41)[Fusilier]とともにTamselのPrussia軍へ
 食糧や武器弾薬などの物資が到着した。
 
 Loudon指揮下のAustria軽兵の侵入を防ぐ為に、
 Zieten(H2)を派遣した。
 
 翌28日、Prince of Brunswickが同じ目的で
 Lower Lusatiaに6歩兵大隊とともには派遣された。
  ・Wied(IR41)[Fusilier]
  ・Kurssell(IR37)[Fusilier]
  ・Hordt(出身地域が限定されない)歩兵連隊


<言いっ放しでもいいかな、これ>
 KAN:26日早朝、Fermorが戦場での両軍の死傷者に
   対応する為に3日の休戦を申し込み使者を
   Frederick IIへ送りましたが、
   そのメッセージを直接受けたDohnaはFermorに
   以下のような言葉を返したらしいです。
   「・・・戦死者の埋葬は勝者が行う
    慣わしです。」
 KRE:まあ、ホントにそんな話があったかは別として
   Frederick IIはまだやる気があり、
   Dohnaもそれをよくわかっていたという事だろう。
 KAN:午前中、Frederick IIはZorndorf小村近くの
   ロシア軍の陣地を偵察したそうですが、
   ロシアの軽騎兵はFrederick IIに近づこうと
   しませんでしたが、Frederick IIがZorndorfに
   より近づくと砲弾が飛んできたそうです。
 KRE:そして、それが両軍の砲撃の開始の合図のような
   形になって、砲撃の交換が行われた。
   両軍の兵士の多くはまだやるのか、
   という気持ちになっただろうな。
 KAN:ただ、弾薬がほとんど残っていないので、
   そこからの戦闘は始まらなかったという事です。

 KRE:Frederick IIはKlein-Kamminに重砲や武器弾薬など
   多くの物資を持つ輜重隊がいる事を知った。
   前日(25日)にKlein-Kammin近くに車陣のシルエット
   を見て、そこに物資がある事は知っていたが、
   Klein-Kamminを含めた周辺にそこまで多くの物資が
   集中している事には驚いたらしい。
 KAN:そこを攻撃すれば、戦いなしでロシア軍はLandsbergに
   撤退せざるをなかったという見方もありますが、
   結果論ではあります。
   このあたりの事は第123回で話しましたね。
   http://melma.com/backnumber_191337_5696464/
 KRE:PrussiaからするとZorndorfでの激戦の後だと、
   ああ、あの時にKlein-Kammin方面に向かえば
   良かったかもな。と思いが出てくるのは
   仕方ない事かもしれないが、
   ロシア軍への攻撃計画を決めてNeudammer Muehle
   を出た後に、それを止めて別の方向へ向かうには
   もう少し情報や証拠が必要だったんだろう。
 KAN:ロシア軍に打撃を与えて、早くAustria軍が
   侵入し始めているSaxonyやSilesiaに戻りたい
   という事も念頭にあったかもしれません。
 KRE:まあな。
   ただ、そこに焦点をあてて、あえて考えてしまうと、
   それはKlein-Kammin方面へ方向転換して
   達成できたかもしれない事と特に矛盾は
   しないから、その選択もありだったなあ
   という意見が出てしまうんだろな。


<編集後記>
 引き分けです。
 再試合は来年。


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▲▼おわりに▲▼
Battle of Zorndorfの最後の回となりました。
次回からは全体の1758年8月23日からの記述になります。

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創刊日:2011-08-10  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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