芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

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MUGA第102号(メルマガ次号から移転します)

2020/01/15

MUGA 第102号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

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◆目次

◇哲学

クリシュナムルティ解読18 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

    那智タケシ

第18章 自己欺瞞
     自己欺瞞──それは現世でも来世でも
     何者かでありたいと願うことから始まる

◇エッセイ

リズム・アンド・ブルース(ソウル・ミュージック)の世界

高橋ヒロヤス

◇編集会議 

「多様な価値観のレイヤー」を自由に行き来するあり方

◇書評

アジールとアサイラムについて 〜『居るのはつらいよ』東畑 開人著より〜

土橋数子

 
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◇哲学

クリシュナムルティ解読18 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

    那智タケシ

第18章 自己欺瞞
     自己欺瞞──それは現世でも来世でも
     何者かでありたいと願うことから始まる

 「国家」「宗教」「家庭」という大きな物語が信じられていた時代が終わり、私たちの生きる社会は今、極めて多様で、混沌としていて、ある意味では重層的なレイヤー構造を持つに至っています。言わば、様々に断片化した小さな物語の中で、私たちは自分が所属する断片の世界観を信じ、多くの人が、そこにある価値観を唯一正しいものとして信じ、疑うことなく生きているのです。ときに、自分の信じる物語の「正しさ」を他人に押しつけながら……

 クリシュナムルティ(以下=K)は、この一なる断片を盲信している様を「妄想」と表現し、他人に押し付ける行為を「自己欺瞞」であると断言します。引用します。

『私はこれから自己欺瞞の問題、つまり精神がその中にぬくぬくと浸りきっている妄想や、精神が精神自体だけでなく、他人に対して押しつけている妄想の問題についてお話し、共に考えてゆきたいと思います。』(P.170)

 人は、なぜ自分の信じる物語を他人に押しつけようとするのでしょうか? それは自らが一体化した断片をより巨大で、確固としたものにしたいがためです。自分の信じる物語が大きくなればなるほど、人は自らの存在を大きなものと感じることができるからです。既存の宗教で言えば、布教や、折伏がそれに当たるでしょうか。自らの信じる断片こそ、他なる断片よりも真実で、優れているという特権意識が、人にこのような価値観の押しつけをさせるのです。Kは、こうした「世界観の押しつけ行為」の根本的な動機について語ります。

『なぜなら私たちが自分を欺けば欺くほど、その欺瞞の力がますます大きくなるからです。と言いますのは、自己欺瞞は私たちにある種の活力やエネルギーや能力を与え、それが自分の欺瞞を他人にも押しつけることになるからです。こうして徐々に私たちは、この欺瞞を自分に対してだけでなく、他人にも強要していくのです。これは自己欺瞞の相互作用なのです。』(P.171)

 「自己欺瞞の相互作用」──私たちは今、様々な社会問題に関して(たとえば温暖化問題や原発といった環境問題)、このあり方を目の当たりにしているのではないでしょうか。それぞれがそれぞれの信じる断片から言葉を発し、相手を貶め、自らの正当性を訴える。しかし、重要なのは、断片を信じることではなく、一切の断片から自由になった、「全体の直観的理解」であることは言うまでもありません。全体を把握しなければ、正しい道筋は見えてこないはずです。にもかかわらず、全体を見ずに、自分に都合の良い断片を信じ、一体化し、それを真実と宣言する。この自己欺瞞の根底には、「何者かでありたい」という人の欲求があるとKは言います。引用します。

『自己欺瞞の本質的な要因は、現世でも来世でも何者かでありたいというこの絶えざる欲望なのです。私たちはこの世界でひとかどの人間になろうとする欲求を持つことから生じる結果を知っています。それは完全な混沌であり、その中で私たちは互いに競争し、平和という名目を借りて相手を破滅させているのです。』(P.173)

『このようにして、ひとかどの人間でありたい、人から注目される人間になりたい、あるいは何かを成就したいという衝動が存在するとき、自己欺瞞が始まっているのです。そして精神がその衝動から自由になることはきわめて難しいことなのです。』(P.173)

 なぜ「何者かになりたい」という衝動から自由になることが難しいかと言えば、「何者か」でなければ、この社会は今、人に冷たいからです。

 良い大学から良い会社に入るとか、尊敬される資格を取るとか、有名な芸能人になることや、作家を目指すというのは、いずれも自らが他者から尊敬され、大事にされ、必要とされ、言わば愛されんがためにやっていることです。そうでなければ、この競争原理に基づいた資本主義社会においては、人は無用の産物とされて貶められ、最終的には排除されてしまうからです。

 「あるがままの存在それ自体が尊いものとされない、冷たい世界」だからこそ、我々は別の何かになりたい、それができなければ自分より大きな単位(国家、宗教、会社、思想、イデオロギーなど)と一体化して、自らの価値を意味あるものと感じ、それを他人と共有しようとしたり、異なる価値観を持つ者を軽蔑したりするのです。Kは、こうした断片に執着するあり方から人は自由になることはできるだろうか?と問います。

『それでは私たちがこの世に生きていて、同時に無であるようなことができるのでしょうか。しかもそのようなときにのみ、私たちはあらゆる欺瞞から解放されるのです。なぜならそのようなときにのみ精神は、結果も、満足を与えてくれる解答も、正当化も求めず、またどのような関係の中においても、決していかなる安全も求めていないからなのです。』(P.174)

 ここで、Kは唐突に「無」という言葉を使います。これはあなたという存在がいなくなるとか、消えるとか、そういう神秘的な状態を意味しているのではなく、心の中に一切の囚われがない状態を指します。心の中に、一切の断片に対する囚われがない──すなわち、一般的な用語で言えば、「自然体」という言葉に言い換えてもよいかもしれません。

 とは言っても、我々が「自然体」でいることは、大きな物語を共有して、ある意味では守られて生きていた近代以前よりもはるかに難しいのです。なぜなら、無数の「我こそは正しい」という情報の断片が渦巻く現代社会においては、その影響から脱し、無執着でいることは非常に困難になっているからです。

 「自然」というのは「全体」とリンクしたあり方そのもので、自然体であるためには、私たちは一なる断片(右翼であれ、リベラルであれ、キリスト教であれ、イスラム教であれ、それがいかに素晴らしく見えるものであれ、なんであれ)に囚われてはならないのです。だからこそ「無」という強烈な表現で、様々な断片による条件づけの誘惑から自由になった新しい人間のあり方をKは示唆しているのだと思います。

『私たちが何らかの形で自己を欺いているかぎり、愛が生まれることはできません。また精神が妄想を作り出して、それを精神に押しつけているかぎり、明らかに精神は、自らを全体的な統一した理解から切り離しているのです。』(P.174)

 「全体的な統一した理解」を得るためには、いかなる妄想(断片)にも囚われてはならない、というのは道理に叶った解釈だと思われます。現代社会においては様々な断片を等価に見立て、繋げ、一人の人間のうちに取り込んで、まったく新しく、創造的に生きるあり方が求められているのです。どんな断片も一人の人間よりは小さなものです。一人の人間より大きなものはないのです。あなたより大きなものはありません。だからこそ、多様な断片を繋げ、調和させる具体的で、独自な行為こそが「愛」なのです。この見地においては、愛は感情ではく、「正しき行為」そのものとなります。

『「あなた」と「私」が何かになることを望むとき、信念とかその他いろいろなものが必要になってきたり、自己が投影したユートピアが必要になるのです。しかしもし「あなた」と「私」が、いかなる自己欺瞞もなく、信念や知識という障壁物もなく、安全でありたいという欲望も持たずに、匿名でその仕事に携わるならば、そのとき真の協同が生まれてくるのです。』(P.174〜5)

 「匿名でその仕事に携わるならば、そのとき真の協同が生まれてくる」というのは、右翼でも左翼でもなく、いかなる宗教の信者でも、会社主義者でも、常識主義者でもなく、それらの時代の多様性を踏まえつつ、それらに執着することなく、一人の人間として真剣にそれらと向き合い、他者と調和を図るあり方のことではないでしょうか。そのとき、人は「○○主義者」ではなく、名もなき一人の人間として、もう一人の人間と真剣に関係し、新しい世界の構築に向けて、共に歩み出すことができるのです。

『それでは私たちは目的を持たずに協同し、調和することができるでしょうか。ある結果を求めずに、「あなた」と「私」が一緒に働くことはできるでしょうか。それこそ本当の協同ではないでしょうか。』(P.175)

 「目的を持たずに協同し、調和する」とは、この社会における成功や、エゴの充足や、一定の達成のために功利的に他者と関係するのではなく、全体の調和のために働くあり方を指していると思います。

『そこで私たちは、「あなた」と「私」が共に無であるような世界の中で、一緒に協同し、親交を保ちながら生活していくことができるかどうか、しかも表面的にではなく、根本的なところから本当に協同できるかどうかを発見することが、非常に重要ではないでしょうか。それが私たちの最も大きな問題の一つ、あるいは恐らく最大の問題なのです。』(P.175〜6)

 Kは、私たちに既存の社会がもたらすいかなる条件付けからも自由になったあり方(それは、自らが条件付けられている、という厳然とした自己認識によってもたらされます)を求めるだけではなく、そこから先の、新しい関係性の重要性について語ります。彼は、単なる「覚醒」したら「幸福で万事OK」であるとか、みんなで瞑想したらそうした感覚が自然に拡がるとかいった、“スピリチュアルな人々”が言うような「お花畑」を信じていません。それこそ、一つの妄想であり、一レイヤーに過ぎず、一断片の都合の良い観念そのものなのです。

 条件付けから解放された人々が出会い、関係し、このいびつになってしまった社会を具体的に一つひとつ改革し、革命していく。その困難で、しかし、やりがいのある、厳しい道のりをこそ、「新しい人々」は歩むべきだとするのです。なぜなら、本当の意味で世界を再創造できるのは、こうした人たちしかいないからです。だからこそ、Kは、一なる断片と一体化した人々の自己欺瞞を解決することを最初に求めるのです。すなわち、条件付けから自由になることを。引用します。

『私たちにある種の活力を与えている自己欺瞞という障壁を、私たちが解決してしまうまで、「あなた」と「私」の間には真の協同はありえないのです。また集団や特定の観念や国家との同一化によっても、私たちは協同をもたらすことはできません。』(P.176)

 一切の条件付けから自由になった人間とはどういうものか──、その存在のあり方に関するKの表現を紹介して、終わります。

『真理は努力して手に入れることができるものではありません。また愛は、愛に執着したり、それと一体になりたいと思っている人のところへは、決してやってこないのです。精神が何ものも求めず、完全に静寂になり、依存したり、そこからある力を引き出すことができるような信念(それは自己欺瞞の徴候です)やいろいろな働きを、精神がもはや生みださなくなったとき、そのとき確実に真理と愛が到来するのです。そして精神が静止することができるのは、精神がこの欲望の全体の働きを理解したときだけなのです。正にそのときに、精神はもはや何かになろうとしたり、あるいはならないようにしようとする運動の外にいるのです。またそのときにのみ、いかなる種類の欺瞞も存在しない状態が生まれる可能性が約束されるのです。』(P.178)


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◇エッセイ

リズム・アンド・ブルース(ソウル・ミュージック)の世界

高橋ヒロヤス

「アーティストが苦しむ。そうすれば聴く者は苦しまなくていい」
(マーヴィン・ゲイ)

年が明けまして、2020年もキツい年になりそうな感じですが、MUGA読者の皆様におかれましては今年も何卒宜しくお願い申し上げます。

ストレスフルな現象が次々と起こる中で、精神安定剤としての音楽が欠かせない日々が続いている。このところ、K−POPのルーツでもあるブラック・ミュージックが最大の癒しになっている。

ブラック・ミュージックといえば、以前、ブルース(MUGA第46号)とジャズ(MUGA第50号)について雑感を書いた。

しかし、いわゆるソウル・ミュージック(リズム・アンド・ブルース)については、あまりにも身近に聴いているので、わざわざ敢えて書く気にならなかった。

今の世界の大衆音楽において、ブラック・ミュージックの影響下にないものはほとんど存在しない。中でも、60年代の黒人音楽(モータウンやスタックスなど)が後世のポピュラー音楽に与えた影響は、ビートルズ以上と言ってよいだろう。そもそもビートルズの初期の作品自体が初期モータウンなどの影響なしには誕生しなかったに違いない。

ビートルズを入口に洋楽(今では「洋楽」という響きも懐かしく感じる)の世界にハマり、FMラジオや音楽雑誌やレコード屋を巡り始めるようになると、誰しもほどなくソウル・ミュージックの世界に誘われる。僕も例外ではなかった。

忌野清志郎が最大のリスペクトを捧げているオーティス・レディングやサム&デイヴを聴いたときにはぶっ飛んだし、スモーキー・ロビンソンやシュープリームス、テンプテーションズ、マーサー&バンデラスらモータウンの名曲の数々には文字通り心を奪われた。

そして1970年代のいわゆるニュー・ソウルの名盤『ホワッツ・ゴーイン・オン』に巡り合ったときは、まさに運命というものを感じた。マーヴィン・ゲイが、ベトナム戦争の泥沼に直面するアフロ・アメリカ人の一人として、「ヘイ、ブラザー、何が起きているんだ? 俺たちはこんなことで将来の世界を、子供たちを救えるのか? 憎しみを超えることができるのは愛だけなんだ」と美しいグルーヴに乗せて訴えかけるとき、その声は彼の魂の内奥から発せられているのが分かり、若く瑞々しかった自分の心の琴線に激しく触れた。

マーヴィン・ゲイは60年代モータウンの人気歌手として多くのヒットを飛ばしていたが、会社に管理される自分の活動の仕方に満足できず、自力で『ホワッツ・ゴーイン・オン』というアルバムを作り上げた。この作品は、マーヴィンの弟がベトナムで兵士として戦い、戻ってきたときに聞いた話にインスピレーションを与えられているが、その内容は都市犯罪、ドラッグ、環境問題(エコロジー)と多岐にわたっており、同時に、彼個人の抱える内面の問題(罪意識とそこからの救済)を深く掘り下げてもいる。

モータウン側は当初、社会的なメッセージ、ひいては宗教的なメッセージを含むこの作品のリリースを渋ったが、マーヴィンは「これを出さないならモータウンとの縁を切る」と強気に出た。『ホワッツ・ゴーイン・オン』は発売直後から爆発的な支持を得、以後、モータウンでも黒人ミュージシャンが自らの作品をプロデュースする流れが確立し、その後スティービー・ワンダーらが傑作を連発する。

マーヴィンはその後、『レッツ・ゲット・イット・オン』や『アイ・ウォント・ユー』などの傑作を産み出しながらも、自身の人生は転落と破滅の淵に落ち込んでいく。しかし、彼の音楽は、そんな状況の中でも、一向に輝きを失わなかった。

僕と年の近いミュージシャン・西寺郷太は、若い頃マーヴィンの音楽によってもたらされた至福体験についてこのように書いている。僕もこれと同じような体験をしたことがあるので、彼の書いていることはよくわかる。

(以下引用)

僕はモータウン・フリークとなった中高校時代にすでにマーヴィンの大ファンになっていた。レーザーディスク店でのバイト中、朝から晩までマーヴィンの欧州ツアー、アムステルダム公演をMCを暗記するまで繰り返し見た。そして、大学二年生の夏は移動中も眠るときもヘッドフォンでアルバム「I Want You」を狂ったようにリピートする生活を送った。

バイトに勤しんだある暑い日、僕は突如、狭い店内でマーヴィンによって「解脱」させられた……。嘘ではない。時空が柔らかく歪み、スピーカーから聴こえてくる彼の声やサウンドから「実際に」あたたかいシャワーが降ってミストのように濡れたのだ。繰り返しゴスペルを歌う間に昇天し、気絶する人々は多い。あの日の僕は、若さのせいもあり、そういうトランス状態に突入してしまったんだと思う。

(引用おわり)

大衆音楽の中でここまでの高揚感をもたらすことのできるものは、少なくとも僕個人に関する限り、ソウル・ミュージックのジャンルにしかないと思っている。

ロックもブルースもジャズもポップスも確かに素晴らしい気分にさせてくれるが、魂の根底を揺さぶられるようなあの圧倒的な感覚というのは、やはりマーヴィンとタミー・テレルのデュエット、アレサ・フランクリンの「アメイジング・グレイス」、オーティス・レディングやサム&デイヴの熱唱の中にこそあるような気がする。そして、80年代以降のブラック・ミュージックには、(僕の愛するプリンスや敬愛するマイケル・ジャクソンを含めてさえ)ここまでのマジックを持つ音楽は生まれていないとさえ思う。これは80年代にポップ・ミュージックの商業化が一線を超え、「資本主義リアリズム」に完全に取り込まれたことに関係しているような気がしているのだが、このテーマについては稿を改めて論じたい。

なぜソウル・ミュージックにだけこんな奇跡が宿っているのか。とても一朝一夕に分析できる話ではないが、ここではソウル・ミュージックを代表する二人の男女、マーヴィン・ゲイとアレサ・フランクリンを例にとって考えてみたい。

二人に共通するのは、まず父親が牧師で、幼いころから教会で歌うことが日常生活の一部になっていたという点だ。彼らは神の愛を純粋に信じて育ったのだが、共に家庭的な愛情には恵まれていない。マーヴィンの父親は息子を愛することは決してなく、マーヴィンは父親に射殺されるという悲劇的な最期を遂げた。アレサは、幼いころに母親が離別し、母の愛情に飢えながら育った。そして、二人とも幸福な結婚とは無縁なまま生涯を終えている。にもかかわらず、彼らの信仰心そのものは死ぬまで揺らぐことはなかった。

そしてもう一つの共通点は、二人の生涯については、デイヴィッド・リッツという音楽ジャーナリストの手になる伝記が書かれているということだ。

デイヴィッド・リッツは、レイ・チャールズやBBキングといったブラック・ミュージックの最重要人物たちの信頼を勝ち得て、彼らの口から貴重な生き生きとした歴史の証言を引き出す術に長けた優れたライターである。

リッツによれば、マーヴィンは自分のことを客観的に、まるで他人のように冷静に分析することができた。彼は自分が天使であり同時に悪魔でもあることを自覚していて、常に引き裂かれた魂として生きていた。一方、アレサは、個人的な感情について正直に他人に語ることは決してなく、理想化された自己イメージ以外は認めようとしなかった。そのことに業を煮やしたリッツは、彼女の公式自叙伝を執筆した後で、独自の伝記を出版し、案の定アレサは激怒。2018年にアレサが亡くなるまで絶縁状態のままだったという。

アレサ・フランクリンの多くの名盤をプロデュースした「ソウルのゴッドファーザー」ジェリー・ウェクスラーはアレサについてこう語る。

(引用はじめ)

私はアレサのことを、得体の知れぬ悲しみの聖母、と思っている。その瞳は信じられないほど美しいが、輝きの奥に名状しがたい悲痛が覆い隠されている。その憂鬱はときに、真っ暗な大海ほどに深くなる。その苦悶の源について知ったかぶりはしないが、それはアレサの音楽が放つ後光のごときオーラと同じくたしかに存在し、彼女の全身をぐるりと取り巻いている。……私らが関係を持った場は概して、スタジオだけだ。アレサはそこで、一度たりとも音を外さず、一瞬たりとも自己不信を見せなかった。そして私はそこで、一度たりともアレサの歌に意見するふりさえしなかった。アレサの判断はいつも完全無欠で、演奏は奇跡的であり、私にできることといえば、適切な場の提供か、たまさかの提案くらいだった。仕事を離れると、アレサはひとりを好む、超然とした、謎多き、計り知れない孤独を抱える女性だった。それでいて、優れた笑いの才能を見せることもしばしばだった。…

アレサは鎖のごとくに続く自己憐憫歌の伝統を断ち切った。ベッシー、ダイナ、ビリーといった伝説のソウル・シスターらが歌った、悲痛だがどこかマゾ気質を感じさせる歌詞の伝統に終止符を打ったのだ。アレサは絶対に、嘲られる女の役は演じなかった。何があろうが決して、男に戻ってきてくれと歌いはしなかった。アレサのミドルネームは、敬意(リスペクト)だった。

アレサはその人生の巨大な一部をマーティン・ルーサー・キングに捧げた。いや、たんにスローガンを叫ぶだけの者や論客になったのではない。アレサは清水が湧き出でる泉を思わせる、清廉なる精神に基づいて行動を起こしたのだ。1968年、キングの葬儀で、10代のときに吹き込んだ聖歌「プレシャス・ロード(尊き主よ)」を歌ったアレサは、イエーツの言葉「恐ろしき美」そのものであり、真実と言語に絶する悲劇との聖なる融合物だった。

(引用おわり)

マーヴィンにしてもアレサにしても、人格的には深い闇を抱えていたように思われるが(マーヴィンは「弱く繊細なエゴ」、アレサは「強すぎるエゴ」)、彼らの表現した作品の素晴らしさを否定する者は音楽に携わる人々の中に存在しない。そして結局のところ、彼らの作品とは彼ら自身の全人的な魅力の表現に他ならないのである。

ソウル・ミュージックがあれほどの感動を人々に与えるのは、人間的な強さも弱さも魅力も欠点も苦悩も歓喜もすべてひっくるめた、多様なレイヤーを備えた、原始的ともいえるありのままの人間の姿が、途方もない表現力と共に剥き出しになっているからではないか、と思う。それはまるで、最も崇高なものから最も卑俗なものまで全てが含まれているドストエフスキーの文学を思わせる(僕とソウル・ミュージックとの出会いは、ドストエフスキーとの出会いよりもずっと前だったのだが)。

忌野清志郎の音楽には嘘がなかった、と以前に書いたが、清志郎の愛したリズム・アンド・ブルースにも同じことが言える。最高のソウル・ミュージックは、何よりも自然で、嘘がない。それは無我表現だ。人間の心は、そういうものに動かされるのだ。

参考文献:
『マーヴィン・ゲイ物語 引き裂かれたソウル』(デイヴィッド・リッツ)
『文藝別冊 マーヴィン・ゲイ 生誕80周年 引き裂かれたソウルの先駆性』
『アレサ・フランクリン リスペクト』(デイヴィッド・リッツ)
『私はリズム&ブルースを創った ソウルのゴッドファーザー自伝』(ジェリー・ウェクスラー、デイヴィッド・リッツ)


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◇編集会議 2020  1/11 四谷の事務所にて

「多様な価値観のレイヤー」を自由に行き来するあり方

那=那智タケシ(無我研代表・作家・ライター)
高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
土=土橋数子(ライター)

●レイヤーの中に答えがあるのではなく、人間が「答え」

 那 この世界をレイヤー構造から読み解くよう話をしたいな、と思っているんですけど。一つのレイヤーだけで留まらないのが本当は禅なんだけど、例えば、「わかっちゃった人たち」みたいなのは一つのレイヤーしかない。それでああいうものの違和感が読み解けるんじゃないかな? 「何でみんないいこと言っているのに批判するの?」って聞かれたときに、「いいことばっかり言っているからだめなんだよ、世界ってそんなにいいことばっかりだけじゃないだろ?」と。
 高 ああ……
 那 いいことも悪いことも含めて世界だろ?って。
 高 それはいいかもね。
 那 それも全部ひっくるめて関係性の中で理解して、それを一度でわかったら、ある種の悟りかもしれないけれど、それは単なる、その原理がわかったってだけで、それをどう生きるかっていうほうが大事で、みたいな話かな。
 高 今、ようやくいい話になってきたね(笑)年明けで話がとっちらかってたから。いつも録音していないときに……
 土 録ってる。
 高 録ってるんだ? じゃあ……
 那 それを無意識でやれちゃっている人もいるから、俺からしたら悟りなんか大したことない、と。ただ解説することはできるかもしれないけれど。無意識でいろんなレイヤーに働きかけて、協調するように生きている人はいるわけじゃないですか? だから、そういう人のほうが立派だって話だよね。
 高 うん。
 那 ただ、そういう理屈をたまたまわかる人も中にはいるかもしれない。
 高 今年、同期の弁護士から「座禅を始めました」って年賀状が来たんですよ。その人がどうってわけじゃないんだけど、最近、禅とか興味を持っている人が多いなって印象があって、最近、別の人からもそういう話があった。今、そういうのが求められているんじゃないかなって。
 那 結局、自我の外に出たいだけなんだけど、自我という窮屈な枠じゃない、別の心地いい枠にいっている人がほとんどなんですよ、僕からしたら。正法眼蔵なんかは、そういうのを全部落とし続けるってことでしょ? だから、悟りも、迷いも、同じである、とか、反語に継ぐ反語というか、否定し続けるような表現になっている。そんなもんじゃない、そんなもんじゃない、それだけでもないって。
 高 うん。
 那 要は、このレイヤーに留まってもいけない。ここでも、ここでもいけない。どんなよく見えるものであっても、執着してはいけない。いろんな層があるのがこの世界なんだって。千の層があったら千の色がある。
 土 うん。
 那 そういう世界と、無限とつながった世界に生きているからこそ、解放されているのが人間。自然っていうのも実はそうじゃないのって話なんです。いろんな、重層的な要素が重なり合って、生命は生かされている。宇宙から来る日光があって、大気があって、水があって、虫が受粉させたり、鳥の糞によって種が運ばれたり、全部繋がって、縁によって成り立っている。一つの色じゃないわけじゃないですか?
 土 うん。
 那 千の色、千の層が重なって、初めて世界が現成している。価値観だってそうじゃないですか? 「これがゴール」とか、「ここにいたら安心」とか、それだけじゃないから面白いんじゃないの?って。新しいものが次から次へと出てくる。生まれてくる。Kなら「未知なるものに触れている」という言い方だけど、そういう解放感があるのに、「この枠で安心したい」とか、「今いる枠が苦しくなったから、別の枠に行きたいから禅をやろう」、とか、「瞑想やろう」とか、「リトリート行こう」とか、本当は、今いる枠でリア充で、満足している人はやろうとしないでしょ?
 高 うん。
 那 別の枠に行きたいからやってるんでしょ?
 土 うんうん。
 那 でも、その枠っていうのは、本当は、全部思考で作ったもので、本当は全部つながった、まぁ、レイヤーというか、いろんな層があるのがこの世界で、その中を自由に行き来するじゃないけどさ。囚われずに。
 土 うん。
 那 無執着というのはそういうことで、どんないいものでも囚われてはいけない。いろんなものと関わりながら、自分が、一人の人間として、どう生きていくか、というところに答えがあるんであって、その枠の中に答えはないんですよね、残念ながら。そのいろんな層とか、俺の言い方だと「断片」という表現になるけど、その無数の断片の中で、一人の人間として生きていく。「一人の人間より大きなものはない」と俺が常に言っているのはそういうことで、人間が答えなんですよ。何か、そのメッセージとか、禅に答えがあるんじゃないんですよね。禅もひとつの、人間からしたら、断片でしかない。
 高 うん。

●禅の危険性について
 
 那 だから、本当の禅者というのはそれがわかっているから、「仏に会ったら仏を殺せ」というのはそういうことで、仏教も殺していいし、大したものじゃない。「仏教よりあんたのが上」と言い切れるのが禅者なんですよ、本当はね。だから、すべての断片とか、レイヤーというものは、人間よりちっちゃいんだから、何か新しい枠を求めていくのはわかるんだけど、その素晴らしく見える枠に対してさえ、「自分のほうが大きい」ってわかるようになったら、「わかった」ってこと。
 土 うん。
 那 でも、それは「わかった」ってだけで、それをどう生きるか、とか、どう表現していくか、というもっと困難な、それによってこの世界に新しい影響を与えるようなあり方? それが今の時代に求められていると思うんです。
 土 うん。
 那 仏陀の時代というのはあまりに戦乱の世の中でさ、帰る国もなくなったから、全部、国家とか、家庭への無執着、執着なくせば楽になるでしょ?っていう。それはその時代の「答え」だったんだけど、今は、そういう認識、体感を得ながら創造的に関係していく? あるいは、そういう認識を共有しながらでもいいと思うんですよ。知的にでもね。だから、こうした原理が理屈でわかっているだけでも、「あっ、この人なんかいいこと言っているように見えるけれど、このレイヤーに留まっているな」と認識できれば、一つのちっちゃい悟りであるわけだから、変なカルトにはまったりしないんです。いくらいいこと言っていても、それは所詮「枠」だから、人間を限界付ける。
 高 うん。
 那 そうした枠を外して、あるいは踏まえつつ、それを乗り越えて自分らしく生きる。それが今の時代の創造的なあり方じゃないかな。一つのレイヤーに留まらずに、自由に行き来できるような自由な人間。ちょっと言葉にするのは難しいけれどね、論理的に精一杯表現してこれくらい。
 土 うん。
 那 それを詩的にも、論理的にもやっているのが正法眼蔵みたいな。宗教的天才と覚醒と両方あったみたいな人がやっているんだろうけど、現代において昔の仏教みたいなことばっかり言っていたらだめです。禅とか仏教にこだわっていてはね。伝統の保持者としてはそういう役割があってもいいけど、今の言葉にチャレンジしていないわけだから、生きていない。そういうレイヤーに留まっている。だから、今の時代、ほんどの禅者と言われるような人は、実は危険なんです。「禅」というのがベストだ、というのはそのレイヤーに留まっていることの証拠。それを捨てれるのがほんとの禅者。俺からしたら(まぁ、そうじゃない人も希にいるのかもしれないけどね)。
 土 うん。
 那 自我が本当に崩れたら、禅でも、Kでも、その理屈がわかるんだけど、禅ばっかりやっていて、何かしらの体験をした気になっている人は、どうしてもそればっかりやってしまうんです。知らずしらず禅という枠の中の人になっている危険がある。その枠は、ある意味では自我よりも強大で、確固としていて、確かで、迷いのないものに感じられる。だから、そこにあぐらをかいてしまった人は、端から見るとひどく偉そうになってしまう。
 高 一見、言っていることが正しく聞こえるだけに、余計にね。
 那 だから、そういうレイヤーという言葉から、Kとか、禅の話を読み解くと見えてくるものもあるかなって。言葉にし切れる話ではないけれど、結局は尽きないものだから。それは永遠に何か言い続けなくては表現し切れないもの。永遠にわけのわからないことを言っていると、わかっていないんじゃないの?ってなる。もっとわかりやすく言ってくれる人いるけど?って。「世界は一つだ」みたいな。「そういうのじゃないんだよ」って言いたいんだけど。
 土 うん。
 那 こうしたことは、昔から言葉にできない、というのはそういうことで、無限だから、言葉にできるわけないじゃないですか? 
 高 うん。
 那 芸術もそうじゃないですか? モナリザを一言で言え、と言われても言えないじゃないですか? モナリザはモナリザじゃないですか? だから芸術の役割というのは、世界の無限性とか永遠性というものを明晰な形に濃縮して表現するってことで。宗教とか、禅とか、仏教というのも本来、無限のものを相手にしているわけだから、それをどう表現するとかいうことが常に問われるわけですけれども、簡単じゃなくても、創意工夫することに意味があるかなって。まさに「無我表現」って単純にそういうことを言っているだけなんだけど、なかなか伝わらない?
 土 うん。
 那 「無我ってもっといい人のことでしょ?」とか、「批判なんかしないでしょ?」とか。いや、道元なんか批判しまくっているからね。当時の似非仏教みたいなものを。「魂が永遠と一つになる」とかいう説に、「それは外道です」とかさ。「それは仏教と関係ないし、人を迷わせるだけ」とか、めちゃくちゃ怒っている。わかっている人というのはそういうこと。一つのレイヤーに留まらないってこと。

●瞬時に、「全体性」を表現する

 高 禅とかに興味がある求道的な人というのはさ、「これが答えだ」とか、「これが悟りだ」というのを求めている、というか、そこに到達したい、というのが根本にあるから。
 那 ピラミッドの上に行きたいってことね。
 高 それがピラミッドの上に行きたいという欲望であるということの自覚がないまま、そういうものを求め続けている。
 那 だから、そのピラミッドの層が、「欲望」とか「自己実現」とか「悟り」とかいろいろあるとして、そのピラミッド自体が「世界だ」ってわかっていたら、「上に行こう」とかじゃなくなってくるわけですよね。世界って、そういう重層的なものだからさ。世界は世界ってことです。
 土 うん。
 那 だから、文学とかでも、いい文学っていろんなレイヤーが重層的に、ドストエフスキーじゃないけど、ポリフォニックに、一つの答えじゃなくていろんな答えが等価に関連しあって、何か音を奏でるじゃないけどね? 偉大なものを指し示している。音楽だってそうじゃないですか? 等価ないろんな音が重なり合って、何か意味が生まれる。バッハでもそうでしょ?
 高 そうだね。
 那 だから、芸術と宗教は違うという人もいるかもしれないけれど、俺からしたら全部つながっていて、全部同じで、自然も、芸術も宗教も全部同じなんだけど、そうに決まっているわけですよね、この世界の表現なんだから。音楽であれ、文学であれ、宗教であれ。全部一つの原理じゃないけど、何か、つながったものとして見えてくる。
 土 うん。
 那 だからどこかのレイヤーに答えなんかなくて、答えは自分のあり方、生き方ってこと。それが公案の答えでさ、答えを求められたら、論理的な答え、A+B=Cではなくて、A+B=「ちょっとここの頭がかゆいです」と答えたら、「こいつわかっている」ってなる。そのレイヤーの中の答えではない、全体を現す表現。そういう何か、とっぴなことを言うことで全体性を瞬時に表現するってことなんだよね。
 土 なるほど。
 那 だから、難しい、わずかな違いで、デリケートなんだけど、そのデリケートさをわかっているか、わかっていないか、ということなんだけど、昔は、そういうことをわかっている坊さんがたくさんいて、「こいつわかっている」「わかっていない」というのが判別できたってことでしょう? わかっていないやつが「仏法は宇宙と一つです」とかそれっぽいこと言ったら、ひっぱたかたれていた。殴られたら殴り返して、「あっ、こいつわかっている」とかさ。「坊さん面して俺を殴るなんてのがわかってないんだ」と相手の鼻をいきなりつまんだら、「あっ、こいつわかってる」って世界なんですよ。奇を衒うのではなく、本当に迷いなくそういう行為が瞬時にできていたらね。それを今、いいメッセージとか、「いいね」とか。本物は逆に「いいね」なんてもらえないわけですよ。自我に心地いいことなんて言うわけないから。
 高 それはそうだろうね。

●レイヤーの外にいる人と対話できるかどうか

 那 あるレイヤーが開いているかいないかっていうのは、レイヤーの外でこそ試されるんですよね。
 高 本当に開いているんだったら、そのコミュニティの外でも通じる。
 那 そうなの、そうなの。
 高 街中でも通用する。
 那 クリシュナムルティがなぜ科学者と話せたかと言ったら、開いている人だったんですよね。枠の中にいる人じゃないから、芸術家とか科学者と話せたんです。量子力学者とさ。
 高 ボームとか。
 那 だから、彼は開いたこと言っているんですよね。あの手の存在としては珍しく。
 高 クリシュナムルティと仏教家との対話が本になっているけど、やっぱり、向こうはお仕着せの「仏陀はこう言った」とか、仏陀の見地からクリシュナムルティの言葉を解釈しようとするんだけど、「私はそういう話をしているんじゃない」とかクリシュナムルティがひたすら言っている(笑)まったくかみ合わない本で面白かったけど。
 那 あった、あった。まぁ、ヒンズー教の人もそうだよね。
 高 そうそう。
 那 何か、ブラフマンとアートマンの話ばかりしているから、「いや、まずそういうの捨ててください」みたいなさ。「そういうのじゃないんです」と。「いや、それでもあなたが言っていることはブラフマンの見地から言っていることで」って言われて、「いや、そういう解釈をしないでください」と。
 高 そればっかりなんだもん(笑)
 那 ずーっと、そうなっちゃうよね。そのレイヤーの中で生きている人たちだから。まぁ、普通の人ってそうなんだけどね。
 高 デビッド・ボームはそういうのはないから。
 那 いや、科学っていうのはさ、それじゃ通用しないからさ、もっと未知なるものに触れて、探求しなくちゃいけないから、近いところがあるんだろうね。
 高 今の部分、ちょっと使えるんじゃないの?(笑)
 那 意識的にしゃべってたけど(笑)
 高 やっと、最後の最後に(座談会の最後の会話)ちょっと使えるところができた。
 那 レイヤーという言葉はわかりやすいからね。厳密に言うと、そういう形をしているとかじゃないんだけど、断片でもレイヤーでもいいけど、まさに、大きな物語がない時代だからこそ、いろんなレイヤーの中にみんな生きていて、それぞれが「うちがいいんだ」「正しいんだ」と引っ張り合いをしている、勧誘じゃないけどさ。でも、「レイヤーより、俺のほうが大きいよ」って思える人間が、「それをどう料理しようが俺の自由だろ」ってはっきり言える人たちが出てきたら、頼もしいなっていう。
 高 うん。
 那 表現もそうあるべきだよね。いろんなレイヤーを取り込んで、誰も見たことがない新しい神話を作るというか、ドストエフスキーくらいのことができたら。でも、レイヤーの数が多過ぎちゃんうんだろうね? 信仰と無神論の対立とか、そういう時代でもないもん。
 高 AIもあるし。
 那 遺伝子工学もあるし、クローンとか、いろんな問題があるから、でも、自分が興味ある部分の層をいくつか取り上げて、どう料理して、一人の人間として表現していくか、という創造性がこれからの時代に問われているのだと思います。


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◇書評

アジールとアサイラムについて 〜『居るのはつらいよ』東畑 開人著より〜

土橋数子

沖縄県の精神科デイケア(精神疾患の再発防止や社会復帰などを目的とするリハビリテーションの場)での4年間を過ごした臨床心理士が綴った話題の書『居るのはつらいよ』。やはり面白い本。統合失調症の患者さんなどが集うデイケアでは、臨床心理士もただ「いる」ということが求められ、それがケアになっている。その体験エッセイの部分がとても興味深いのだか、もっとも膝を打ったところが、アジールとアサイラムについてだ。

アジール(癒しの避難所)は、いつの間にかアサイラム(強制収容所)に反転してしまうという洞察。

日常からの一時避難所である癒しの場であるアジールが、なぜ刑務所や収容所のようなアサイラムになってしまうのか。それは、ただ「いる」ということの価値が、会計(経済的効率)からの締め付けに遭い、何らかの成果を求められるからだという。いるために、多くの国の予算を使っているから、「ただ、いる」ことを許さない。ケアはニヒリズムに脅かされる。

このあたりの件を読んでいて、児童養護施設も同様だと思った。家庭にいることができない居場所としての施設であるが、その施設運営は一人当たりの措置費で決まる。施設を維持運営するためには、子どもを収容する必要がある。アジール(避難としての居場所)は、アサイラム(強制収容所)になってしまうということ。

そして、頭の中には相模原のやまゆり事件のことがよぎったところでページをめくると、そのことに言及されていた。

(本書より引用)
犯人は入所している人を安楽死させることが会計的な意味での社会正義だと考えていた。彼はケアすることのなかに含まれるニヒリズムに食い破られたのだ。このニヒリズムの極致で「いる」は否定される。
(引用終わり)

なぜ「ただ、いる、だけ」が無価値なものになってしまうのか。
(再び引用)
ケアの根底にある「いる」が市場のロジックによって頽落する。ニヒリズムが生じる。こいつこそが真犯人だったのだ。
(引用終わり)

「ただ、いる、だけ」の難しさ。この時代に生きる私たちは、資本主義のカラダなのだなと思った。


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◎編集後記
 次号からは新しいメルマガスタンドからの配信になります。まだ慣れなくて、先月はテスト配信も一斉送信してしまったりご迷惑をおかけしましたが、引き続き、ここでしか読めないコアな情報をお送りしていきたいと思いますので、よろしくお願いします。(那)


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