芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


全て表示する >

MUGA第99号

2019/10/15

MUGA 第99号

「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ


★メルマガ配信スタンド移行のお知らせ

 現在、メルマガMUGAを配信しているメルマガ配信スタンド「メルマ」のサービスが2020年1月末をもってサービスを終了することになってしまいました。それ以降は、配信はもちろんのこと、バックナンバー頁の閲覧も不可になってしまいます。

 そこで次号から、MUGAは、新しい配信スタンドSkyNetMailに移行して配信させていただきます。これまで同様、無料での配信になります。

 新しい配信スタンドの「登録・解除フォーム」は、無我表現研究会のHPのトップページに設置してあります。アドレスは以下になります。↓

 http://mugaken.jp/touroku.html

 2020年1月15日配信の第102号までは、メルマとSkyNetMailで同時配信する予定ですが、2月15日配信予定の103号からはSkyNetMailに完全移行しますので、お早めに新たな配信スタンドでのご登録をお願いいたします。

 また、SkyNetMailには、バックナンバーをネット上で閲覧する機能がありませんので、メルマガMUGAは、基本的にメールマガジンのみでしか購読することができなくなります。ネットのバックナンバーのみでご覧になっている方は、ご注意ください。(ある程度まとまった形で、過去のバックナンバーをHPに掲載する予定ではありますが、リアルタイムではメールでしか購読できなくなります)。

 メルマガスタンド移行につき、MUGA表現研究会は、初心に帰る意味で、元々の名称である「無我表現研究会」に正式名称を戻します(新しい読者には、何の研究会かニュアンスがわかりにくいためでもあります)。「無我表現研究会」は正式名称。MUGA研は、公称といった形にさせていただきます。

 メルマガ移行に関するご質問や、今後、こうして欲しいといった無我研へのご要望、ご希望等は、以下のメールフォームからご投稿ください。↓

 http://form1.fc2.com/form/?id=e15cc22eb8d41af0

 また、SkyNetMailからご登録いただいた読者の皆様には、今後、無我研の座談会、懇親会などのイベント等、新たな企画をお知らせする予定でもあります。

 たいへんお手数をかけますが、今後ともメルマガMUGAをよろしくお願いします。

                     無我表現研究会代表 那智タケシ

◆目次

★メルマガ配信スタンド移行のお知らせ

◇哲学

クリシュナムルティ解読16 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

    那智タケシ

第16章 思考は私たちの問題を解決することができるか
     思考は常に自己防衛的であり
     自己を永続させようとするものであり 
     様々な経験や知識や信念に条件づけられている


◇エッセイ

ドストエフスキー『悪霊』の予言性

高橋ヒロヤス

◇編集会議 10/11 四谷の事務所にて

グレタさんの「声」に、どう耳を傾けるか?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

クリシュナムルティ解読16 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

    那智タケシ

第16章 思考は私たちの問題を解決することができるか
     思考は常に自己防衛的であり
     自己を永続させようとするものであり 
     様々な経験や知識や信念に条件づけられている


 テクノロジーや、文化的経験・知識の蓄積のみならず、道徳、宗教、政治等、思考の積み重ねによって発展してきたこの社会は、今、一人の人間の思考では捉えきれないほど巨大で、複雑なものになっています。それは様々な価値観が並列化して押し寄せるグローバリズム、個々の人間を容赦なく飲み込み、従わせる資本主義経済社会の止めどなき発展、無数の情報が、善悪、真贋、関係なしに氾濫するインターネットの普及等、「絶対」なきポストモダンの時代において、ますます顕著になりつつあります。

 今、我々人類は、思考によって自分たちが生み出した様々な問題を根本的に解決することができずに、途方に暮れているように見えます。たとえば、資本主義経済社会という“怪物”を、どう扱っていいのか持て余しているように。そして、思考によってその怪物を制御するのが困難だと感じるやいなや、問題を解決することよりも、まずはその中でサバイバルするために、「私」や、「私の国」の利益のために動くことを最優先に考えるようになってしまったのです(アメリカファーストがいい例です)。その結果、経済格差はますます拡がり、その延長線上にあるテロリズム、環境問題といった世界の様々な諸問題はますます深刻化し、解決がより困難なものとなっているのが現状なのです。

 ここで我々が問うべきは、国家的、または歴史的、及び文化的に条件付けられた精神活動である「思考」を介在せずに、目の前の問題を直接的に見つめ、トータルに解決する手段があるかどうか、ということです。

 クリシュナムルティ(=以下K)は、思考がなぜ問題を解決できないか、という根本的に理由について語ります。引用します。

『しかし思考は問題の全体を一挙に完全に見ることはできないのです。なぜなら思考は部分的にしか見ることができないからです。しかも部分的な解答は完全な答えではありませんから、当然それは解決にならないのです。』(P.157)

 思考は、部分的にしか見ることができない──たとえば、いじめの問題一つとっても、それは事実だと思います。

 小学校のとあるクラスでいじめがあったとして、それはクラスの中の子供たちだけの問題ではないことは明白です。そこには、親の問題もあるでしょう。あるいは、教師の問題もあります。親や教師は、さらに自分たちの親や、上の世代の影響下にあり、さらに言えば、社会の影響下にあります。社会問題は経済問題や、文化的問題を含み、経済問題や文化的問題は、人類の歴史の積み重ねがもたらしたものです。

 そういうわけで、「いじめ」という問題一つにしても、思考でもって、「誰が悪い」とか、「誰が正しい」とか、一概に決めつけることができるはずもないのです。一つの断片を指さして(たとえば、いじめっ子)、彼が悪い、で済む問題でないのです。いじめ一つとっても、思考ですっきり解決することができるような、簡単な問題でないのは明白です。すべては、無限につながった因果の中にあるのですから、個人を特定して「悪」を糾弾しても、根本的な問題解決になりません。

ですから、思考によって条件付けられ、思考によって行為することに慣れきってしまった我々大人たちは、人生の根本的な問題に関する解答、解決を迫られても、途方に暮れてしまうのです。それで、まずは学校にカウンセラーを置いたり、様々な社会システムによって、何とか子供たちをフォローする仕組みを作ったりと対処療法を試みたり、マスコミは、親や、教師や、いじめっ子を叩いたりして、社会問題のガス抜きをするのです。

様々な犯罪に対しても、これとまったく同じことが行われていますし、経済問題や、環境問題といった巨大な問題に対しては、もはや根本的に解決する道を歩むこと自体を放棄して(一部の団体の活動はあるにはありますが)、多くの大国が、大企業や、自国の利益を優先していることは先に述べた通りです。
 
 我々は今、様々な分野で思考(自我)の限界を突きつけられているのです。しかし、思考以外に、別の存在形式があることを思いもしていないので、対処療法に走るか、特定の断片(いじめっ子や、犯罪者)を罰したり、叩いたり、排除したりするか、自我(国家)を富ませ、肥大化する功利主義の道をひたすら突き進む、といったことしか、できていないように見えます。それで、ますます現代の様々な問題は複雑で、厄介なものになっているのです。この思考の限界についてのKの言葉を引用します。

『私たちがある問題を熟考し、探求し、分析し、それについて討論を重ねるほど、その問題は一層複雑になってくるのです。それでは私たちは問題を包括的に、全体として見ることができるでしょうか。』(P.157)

 つまり、物事を断片的に見る「思考」ではなく、全体的に見る、自我とは別のあり方が存在するかどうか、ということです。Kは、その別のあり方について、示唆します。

『それは思考の過程(思考は「私」や自我や、伝統、条件づけ、偏見、希望、絶望などという人の生活背景の源泉の中から湧いてくるのです)が終結したときにのみ可能なのです。それでは私たちはこの自我を分析せずに、あるがままに眺め、理論としてではなく事実として見詰めることによって、それを理解することができるでしょうか。』(P.158)

 自我や、問題を思考によって分析したり、改変しようとしたりすることなしに、あるがままに見つめる。ただ、事実を見る。これがKの言っている受動的凝視であり、選択なき観察です。この素朴で、分け隔てのない眼差しがあれば、物事の働き、有り様を全体的に見て、理解することができる、というのです。このあり方は、「直観」という物言いに近いかもしれません。引用します。

『私たちは自我を消滅させようとしたり、あるいはそれを助長したりせずに、ただ見ることができるでしょうか。それが問題なのです。もし私たち一人一人の心の中に、権力、地位、権威、持続、自己保存などにたいする欲望を抱いた「私」という中心が存在しなければ、私たちの問題は確実に消滅してしまうのです。』(P.158)

「私」という中心がなければ、私たちの問題は消滅してしまう──それはその通りでしょう。この資本主義社会のあり方は、すべて「自我」の保存、競争に基づいたものですから、すべての問題は全体から分離し、不調和になった「私」がもたらしたものに違いありません。

つまり、私たちの巨大で、強固になり過ぎた「自我」は、自然ではなく、不自然なものだ、ということです。不自然だからこそ、自然界には存在しない、様々な問題が生じます(核の問題はその象徴です)。その不自然さを見抜いたとき、自我は、自らを主張することをやめるのです。自らの自己中心性に本当に気づいた人が、その瞬間、謙虚になるように。自我を見つめる眼差しについての、Kの言葉を引用します。

『自我というものは思考によって解消することができない問題です。それには思考に拠らない注意深い熟視が必要なのです。自我を非難したり正当化したりせずに、その自我の動きを目を凝らしてじっと見詰めていること、それだけで十分なのです。』(P.158)

 繰り返しますが、この社会の問題のほとんどすべては、不自然なまでに肥大化した自我がもたらしたものです。自我とは、すなわち、思考の依り代であり、塊です。この思考の塊が、自己中心的で、いびつなものであり、いくら巨大になっても、他者や、自然への思いやりや、愛を育まないものであることは、この世界の不平等で、不調和なあり様を見れば、明白です。

 ですから、私たちは原始時代に帰るのではなく、自我を肯定しつつも新しい世界への夢を与えるような新たな体系的理論に跳びつくのではなく、不自然なまでに巨大化し、いびつに凝り固まった私たちの自我を見つめ、解体することで、初めて世界と新たな関係性を結ぶ可能性を獲得することができるのです。新しい世界への最初の一歩を踏み出すことができるのです。創造の前に、まず破壊がなくてはなりません。

 自我を超えた新しい関係性について、Kは、「愛」という言葉を使います。彼の言う「愛」は、決してエモーショナルで、主観的なものではなく、「自我なき働き」そのものを指しています。愛は、「自我の外にある具体的関係性の働き」そのものなのです。引用します。

『精神の活動が存続しているかぎり、愛はありえないのです。愛があるとき、私たちの社会的問題は失くなってしまうのです。』(P.159)

 繰り返し、Kは、自我の巧妙さについて語ります。自我=思考は、自らを肯定し、存続させるために、ときに、無貪欲になろうと努め、愛さえ思考の延長戦上で獲得できるものである、と考えるのです。引用します。

『しかし思考が愛を得ようとしているかぎり、精神は愛の中に入ることができないのです。たとえば精神が無貪欲の状態になろうとしているかぎり、明らかにその精神は相変わらず貪欲なのではないでしょうか。それと同じように精神が期待したり、欲求したり、愛の状態の中に入るために訓練したりしているかぎり、精神はそういう状態を自ら拒絶しているのではないでしょうか。』(P.159)

 すなわち、私たち様々な条件付けの影響下にある現代人が最初にやるべきことは、思考によって問題を解決することでも、新たな社会理論を構築することでも、一度に感傷的な愛や救い、神といったものに跳びついて逃避することでもなく、自らの肥大化して、様々な知識を蓄積し、凝り固まった自我それ自体を直接的に見つめることであり、その限界に気づくこと、ということになります。愛を実現する前に、私たちは虚構を破壊し、捨て去り、真実の土台に立つ必要があるのです。引用します。

『このような私たちの生活の複雑な問題を見詰め、私たち自身の思考の過程を注意深く観察し、そして思考は実際にはいかなる結論へも導かないことを認識したとき、個人のものでも集団のものでもない真の理解力が、確実に生まれてくるのです。』(P.159)

 この真の理解力は、事実をただ「見る」ことの中に自発的に生まれてくる、とKは言います。問題を理解した精神は、静かになります。その静けさの中から生まれてくるものについてのKの言葉を引用して、終わります。

『そういう精神は訓練や瞑想や抑制などの結果として生まれてくるものではありません。またこの精神は修行や強制や浄化を通してではなく、「私」や思考の努力が全くないときにでてくるものなのです。それは私が思考の全課程を理解し、注意力を逸らさずに事実を見ることができたときに出現するのです。こうして不動の、本当に静寂な精神の中に愛が誕生するのです。そして私たちのすべての問題を解決することができるのは、この愛だけなのです。』(P.161)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◇エッセイ

ドストエフスキー『悪霊』の予言性

高橋ヒロヤス

先月から、思春期以来の「第二次ドストエフスキー病」とでも呼ぶべきものに罹患してしまい、まだ治癒の見込みが立たずにいる。

特にこのひと月は、『悪霊』を繰り返し読んでいて、夢にまでスタヴローギンやステパン先生やキリーロフが出てくる始末だ。

『悪霊』について書かれた解説も、入手可能な限り読んだ。ドストエフスキー作品の評論はそれこそ無数にあり、もはや出し尽くされた感があるので、今更素人の一患者が何を言うこともないのだが、今から書く『悪霊』についての与太話は、もしかしたらこれまでに書かれたことのない視点を含んでいるのではないかという密かな自負がなくもない。(間違っていたら指摘していただけるとありがたいです)

そもそもこの小説を読んだことのない人のために、若干の解説が必要だろう。

『悪霊』は、1870年、ドストエフスキーが49歳のときに書いた長編小説で、『罪と罰』、『白痴』に続く大作である。この後に書かれた『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』と並んで、五大長編と呼ばれている。

ドストエフスキーがこの小説を書く直接のきっかけになったのは、ネチャーエフ事件という、革命組織による内ゲバのニュースだった。西欧の共産主義思想の影響を受けた若者たちが革命運動の単位として「五人組」を組織し、グループ内の「裏切り者」を粛清したという、日本で言えば「連合赤軍事件」のような、当時のロシア社会を揺るがした衝撃的な事件である。小説の本筋は、このネチャーエフ事件をほぼなぞった形で展開する。

当時のロシアは、未曽有の激動期にあり、社会全体が革命前夜の一触即発的な不穏なキナ臭さに包まれていた。そんな空気を敏感に感じ取ったドストエフスキーが、若い世代の無神論的革命思想に対して「生ける良心」として筆を取ったというのが一つの見方だろう(本人も皇帝に作品を献呈したときの献辞にそのように書いている)。

この小説の恐ろしいところは、ここに描かれた、節度を失った若者たち=「悪鬼ども」(作品タイトルは「悪霊」よりも「悪ガキ共(悪鬼ども)」の方が適切だろうという声もある)のやらかす扇動工作やら破壊活動やら内ゲバ殺人やらとそれを支える思想が、その後の歴史で正確に反復再現されていることだ。ロシア革命とその後の陰鬱な粛清時代や、20世紀の左翼並びに新左翼運動の暗部、ひいてはオウム真理教のようなカルト宗教の暴走などが歴史的に起こる<前に>書かれたというのが信じられないほどである。

ドストエフスキー自身が、若い頃に左翼グループに関与していたというので逮捕され、死刑判決まで受けたという経験が、この作品のリアリティを増していることは間違いない。

驚かされるのは、ドストエフスキーの生み出した小説内の登場人物たちが、21世紀の今日でもそのリアルさと生々しさをまったく失っていないことである。

このことは、例えば、ロシア社会の世代間対立という類似のテーマを扱ったツルゲーネフの小説『父と子』と比較すれば明らかだ。このツルゲーネフの代表作が時代を超えた名作であることは間違いない。だが、その登場人物は、当時のロシア社会におけるリアリティは確かに持っていても、今の我々が読んでもヒリヒリするかと言われるとそうでもないし、そもそもそんなことは求められてもいない。

しかし、『悪霊』の登場人物は、ほんの端役を含めても、今でも「こんな奴いるよ!(笑)」のオンパレードである。

主要な人物だけ挙げても、腰の据わっていない人間的に弱みだらけのリベラル思想家(ステパン教授)、過激なリベラル思想に寛容な態度を見せ、まんまと足をすくわれる金持ちや文化人(知事夫人ユリアや作家カルマジーノフ)、国粋主義思想に感染しネトウヨの原型のような観念的な愛国思想にのめり込む若者(シャートフ)、根は善良だが生真面目すぎてカルト宗教まがいの狂信的世界観に没頭する若者(キリーロフ)、調子の良い巧言令色で人心をかどわかし、社会秩序の紊乱と破壊へと導くグロテスクな道化(ピョートル)など、ひとりひとりの人物造形があまりに巧みなので、どの人間の気持ちも痛いほどわかるけれど、どの人間にもなりたいとは思わない。でも、どの人の気持ちもわかる。そうそうそう、と読みながら膝を打つ場面もしばしばだ。

しかしただ一人、どうしてもわからない登場人物がいる。そう、主人公のニコライ・スタヴローギンである。

『悪霊』を執筆している最中に、この男を主人公とするイメージがドストエフスキーの中でどんどん膨らんできたために、小説は大幅なプラン変更を余儀なくされたという。結果としてプロットが混乱している、と指摘する評者もいる。

スタヴローギンがいなくても、無神論的革命思想の破壊性を予言した『悪霊』という小説は立派に成立していただろう。しかし、この謎の塊のような男が小説世界に出現し、あらゆる出来事の背後に立つことにより、この作品の奥行きは異次元的に深まっている。

スタヴローギンという男をどう捉えるかは、ドストエフスキー研究者が全身全霊で取り組まなければならない課題の一つである。もちろん様々な意見があるが、その人物解釈は概ね軌を一にしている。曰く、すべてに絶望した虚無主義者。ニーチェ的ニヒリスト。淫蕩の中で一切のモラルを失った男。人間存在の不条理性を体現した人物。『白痴』の主人公ムイシュキンの対極に位置する存在。悪の化身。などなど。

しかし、上記のような解釈を念頭に置いて、実際の小説を読むと、どれもしっくりこない気がする。彼は、ある場面では高貴でもあり、ある場面では気が狂ったような下劣な行動を取る。その振れ幅が大きすぎて周囲の人間は戸惑うしかない。

スタヴローギンは、裕福な貴族のひとり息子で、秀でた美男子であり、女性は皆夢中になる。頭脳明晰で、卓越した肉体的パワーを持ち、どんな恐ろしい状況にも平気で耐える胆力も備えた、スーパーマンのような若者である。そして彼のクールなカリスマ性に惚れ込んだ周囲の仲間たちから、半ば救世主のように崇められ、革命運動のシンボルに祭り上げられそうにもなる。だが、本人は、そもそも善悪の区別を知らず、それを感じることもなく、何事をも本気で羨望も憎悪もできない。「問題は、生きていくのが気の狂いそうなほど退屈なことであった」と彼は告白する。

スタヴローギン自身は、己れの最低に卑劣な行為を「告白」した手記(その具体的な内容については敢えてここに書かない。当時この章は内容が酷すぎて雑誌の掲載を拒否されている)を、さる修道院の僧侶に読ませており、その中でこんな風に語っている。

「私は、自分が卑劣な男であるということを心の中では感じながら、それを恥ずかしいとも思わず、だいたいがほとんど苦しむこともなかった…そのとき、お茶のテーブルについて、連中と何やらおしゃべりをしながら、私は生涯にはじめて、痛切に自分を定義してみたのだった。すなわち、私は善悪の別を知りもしないし、感じてもいない男である、たんにその感覚を失ってしまったばかりでなく、善も悪もない男なのだ(これは私の気に入った)、あるのは一つの偏見だけ。また私はすべての偏見から自由になりうるのだが、その自由を手に入れた瞬間、私は破滅する。これは、はじめて一つの定義として意識されたことだったが、それがほかでもない、お茶を飲みながら、連中を相手にばか話をしたり、わけもなく大笑いをしていた最中に意識されたのであった。」(翻訳は新潮文庫の江川卓による)

これは、単なるニヒリズムとか無神論という状態を超えている。無神論者は「神が存在しない」ことを信じている(キリーロフ)。史的唯物論者は神の代わりに物質科学を信じている(ピョートルを始めとする自称革命家たち)。しかしスタヴローギンには信じるものがない。何でもできる能力がありながら、何にも本気になれない。彼は、生命の深奥から湧き出る衝動というものを生来的に欠いている。ひと言で言って、彼には<魂>がない。

スタヴローギンという男から僕が連想するのは、人間の知能を超えたAIが搭載された人造人間(アンドロイド)のような存在である。ドストエフスキーの時代にはもちろんAIという発想自体が存在しなかったし、ロボットという概念が登場したのは20世紀になってからだ。ロボットには内在的な倫理観というものが欠如している。アイザック・アシモフの有名な「ロボット三原則」はその事実を前提としている。

1950年代に描かれた手塚治虫の有名な「鉄腕アトム」は、ロボットと人間の心の関係という問題に世界でほとんど初めて自覚的に取り組んだ表現作品としても理解できる。AIと倫理の関係については、むしろ21世紀のこれからますます深刻な問題となっていくだろう。

善悪の区別と内在的な倫理観をまったく欠いた超人的な知性と能力の持ち主が我々らの直中に出現したとしたら、そのような存在は、どう振る舞うだろうか? そして、我々の社会はどうなってしまうのか? こういったことは今日のSF映画でお馴染みのテーマであるような気もするが、実は、ドストエフスキーは、人間存在における根源的な<悪>の問題と絡めて、1870年に既にそれを最も突き詰めた形で表現していたのではないか、という気がする。

ドストエフスキーの射程は、19世紀後半のロシアから、20世紀を超えて、21世紀の今日まで(もしかしたらそれ以後までも)その範囲に収めているので、今の我々にとっても痛切なリアリティを失わずにいるのだろう。まことに恐るべき作品である。

ただ最後に付け加えておきたいのは、『悪霊』は決して恐ろしいだけの小説ではなく、爆笑・失笑・ナンセンス・その他あらゆる笑いの要素を詰め込んだ、一流の「ユーモア小説」としても読めるということだ。

小説の第二主人公とも言える、ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーを巡るエピソードは、いずれも強烈な笑いを喚起するし、ツルゲーネフをモデルにしたカルマジーノフという「天才的作家」の描かれ方にはちょっとどうかなという位の悪意(笑い)が込められているし、作品中最も深刻な場面で最も悪い奴が放つ一言(「こいつ(伏字)しないぞ!」)はこの小説で一番の嗤いどころでもあるという、言葉のあらゆる意味で終始とんでもない話なのである。どうやったら一人の人間にこんなものが書けるのであろうか。

とまれ、『悪霊』について、その魅力を語り始めると、終わりが見えなくなるので、ひとまずこのあたりで打ち切ることにしたい。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◇編集会議 10/11 四谷の事務所にて

グレタさんの「声」に、どう耳を傾けるか?

那=那智タケシ(無我研代表・作家・ライター)
高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
土=土橋数子(ライター)

●子供の発言か? 神の怒りか?

 高 今朝のNHKの7時のニュースではね、今のアメリカで社会主義がものすごく広まっているというニュースがやってましたけどね。
 土 アメリカで?
 高 うん。アメリカの若い世代も貧困になっちゃって、自分の家もなくて、ずっと車で何年も寝泊まりしていたりとか。だから要は、貧しいと。99%の貧しい若者と1%の金持ちという状況? どんどんひどくなってきて、若い人たちが社会主義に染まっている、という。
 那 でも、99対1ってほどでもないんでしょ? 実際はね。
 高 まぁ、誇張して言っているんだろうけど、それぐらい格差がどんどん拡がっている。
 土 でも、66人の富豪が、世界の半分の……
 高 半分の富を持っている。
 土 という論理でいくと……
 那 まぁ、そういうことだね。でも、その時点で、ゆがんだ社会というか……。今、何だっけ? 環境問題で叫んでいる子供がいるじゃない? スゥエーデンの。
 土 グレタさん?
 那 そう、グレタ。で、けっこう叩かれているじゃん? 日本人も、あるいは政治家も、大人の世界がわかってない、子供が言っていることだ、とかさ。みんな小ばかにし始めたじゃないですか?
 土 うん。
 那 アスペルガーでしょ? みたいな。
 土 うんうん。
 那 でもさ、あれぐらいの勢いで言わなくちゃいけない世界の状況というのはあってさ、あの子は、実は正しいんだけど、「大人の世界というのをおまえはわかっていない、バランスとか、もっといろんな問題があって、そんな簡単じゃないし、原発だって今はまだ必要だし」みたいな、それで、妥協するのが大人だ、とか、妥協しなければいけないのが政治で、大人で、経済で、子供が言っていることなんて」とか言うけど、子供だから言えることってあってさ。たぶん、あれが、宇宙人から見たら正しいんですよ。
 土 そうですよね。
 那 どんどんどんどん緑もなくなっているし、温暖化なんか、CO2が原因じゃないとか言う人もいるけど、どう見てもこれだけ石油を燃やしてさ、これだけ環境を激変させて、種がどんどん絶滅しているような状態で、「いや、これは関係ないから」とかごまかしているっていうのは……
 高 俺は、あれは神の怒りだと思うけどね、彼女の言っていることはね。
 土 昔は、統合失調症とかアスペルガーとかなくって、あの人は昔なら、天啓を受ける人という存在だったんじゃないですか? 彼女のことをアスペルガーという記事をけっこう見たんですけど、アスペルガーと名付けるかどうかは別として、そうですよね、ある意味では天啓を受けている人ですよね。
 那 病的だ、というものの見方で切り捨ててしまっている。でも、すべての預言者というのはある意味では、病的な存在なんだから。あれぐらい頑なというか、座り込んじゃったりさ、おかしいっていうくらいの人間じゃないとあそこまでの行動ってできなくて、影響力ってないじゃないですか? 「人生なんて、政治なんて、こんなものだよ」って言う人たちは何も変えない。彼女は正しいんだけど、正しすぎること言っちゃうとやっぱり、「正しさだけじゃ政治は成り立たないよ」ってなっちゃうから。
 高 だから彼女をまたカリスマみたいにしてさ、やっても、それはあまり意味がないことだと思うんだよね。
 那 そうそう、それは一つのメッセージというかね。
 高 そうそう。
 那 ああ、これは地球の叫びだって。神の怒りだって言ったけど、俺もそう思ったの。人間って言うよりも、地球側の叫びを言っている気がしたんだよね。
 高 そうだね。
 那 それを感じ取って、言っているという。
 高 グレタさんにノーベル賞上げればとか、そういう問題じゃなくてね。
 那 そうそう。
 高 あの声をどう聞くか、ということだよね。
 那 だから単に何か、親の影響でそう言っているんだろう?とか、そういうことではなくて、身体で感じているものがあるからあれだけ響くというか。
 高 うん。
 土 すごい面構えですよね。
 那 だって、普通の15、6歳の子がさ、プーチンに何か言って、プーチンがツイッターで返すなんてありえないじゃない?
 土 うん。
 那 だから、何かあるわけよ。
 高 強烈なものがある。
 那 うん、それを認めないでさ、単にアスペだとか、ちょっと斜に構えたさ、大人たちがいっぱいいるって社会って、ほんと嫌だな、というか。何かそれをきっかけにさ、確かに俺らやばいよね?っていう風になんないと、何か100年後「やっぱりあの子正しかったね」ってなる気がするんだよね。
 高 うん、そうなると思うよね、ほんとね。
 那 「なんで二酸化炭素の排出量減らさないんですか?」って聞いてもさ、「いや、それは大企業とか、自国の利益のためだけだけどね」という率直な話をしないでさ、「いや、大人の社会っていうのはな」と子供に対して上から目線でものを言う。ほんとに嫌な、知ったかぶっているだけの大人がいっぱいいるなって感じがするね。
 高 まぁ、メディアの反応見ると、まさにそういう大人の声の代弁しかしないから(笑)
 土 プーチンなんか、自国の利益のためにきちんと動ける、すごい優秀な、かつてないほどの大統領じゃないですか? 自国の利益という観点で言えば。そういう存在と対峙できるというか。あの人は、徹底して自国の利益に忠実ですよね?
 那 トランプだってね、アメリカファーストバリバリだし、そういう流れの中で、全体の環境とか関係ないよって言うさ、それって宇宙人的視点から見たらものすごく愚かな、よくSF小説とかであるけど、もうこのままだと終わりだよねって言う。人類、このままじゃほんとに。そういう中で、子供だから叫べる。真っ直ぐに。でも、おかしいでしょ?って。それを大人たちが袋叩きにしている状況って、ほんとに何か狂っているな、と思うけどね。

●大人が正しいわけではない

 土 うちの子も、5歳くらいのときに、五島列島に行くときに、たまたま長崎の原爆記念館に行ったんですよ。リニューアルしたばかりのときに。5歳だから怖いかな、と思ったんですよね。怖いから出よう、と言うかと思っていたら、何か全部真剣な顔して見てたんですよ。それで、明るい所に入ったら、資料室というのがあって、どの国が何個爆弾を持っているとか、世界地図みたいなものがあったんですよね。それでうちの子は神妙な顔をして説明を聞いていたんですけど、怖いから帰ろうとは言わなかったんですよね。
 高 うん。
 土 それで何日か経って、お友達のパパさんが外国人で、英語を教えてあげる、と。英語を教えてもらえるんだけど行く?って聞いたら、「爆弾持っている国の言葉は習わない」とか急に言って、「結構です」みたいな(笑)「ロシアも何個持ってる」とか言って、ああ、覚えていたんだって。
 高 うん。
 土 ごちゃごちゃしたことは考えずに、みんなが爆弾持っていて、落とし合っているということが嫌だったんでしょうね。「政治と人の付き合いは違うから」と言おうと思ったんですけど、そのときは、ああ子供ってすごいんだなって思って。
 高 うん。
 土 そんな子供も、結局、今はそういう片鱗がなくなってしまい(笑)
 那 まぁ、学校に行っているだけでもね……
 土 そうなんです。
 那 社会性の影響というのはあるから。時代の……しょうがないんだけどさ。
 土 うん。こんなこと言っていてこの子すごいな、とか思ってたんですけど、普通の、空気読んでやる人になっちゃったんですけど(笑)
 那 でも、空気読めないとね、日本の場合特にね。
 土 世渡りが(笑)
 那 グレタさんみたいになり過ぎちゃうと親も頭痛いというか(笑)
 土 何にも持っていないまま感じる心。
 那 そう、だから、純粋でありたいものだけれど、人間って、染まってしまうんだよね、以外と簡単に。人間の脳の怖さというかさ。原発のこともそうだけど、洗脳されちゃうんだよね。それで、自分がいかにも中庸な意見を持っていると思い込んでいる、ということなんだよね。子供の直観というか、本能的な感覚を失ってしまう。そういうものを全部取っ払っちゃったらグレタさんみたいなこと言わざるを得ないんだけど、あればっかり言っていたら社会生活は成り立たないから。でも、ときには、ああいうピュアな声に耳を傾けるべきなんじゃないかなって。
 土 うん。
 那 単に賛成するとか、反対するとかじゃなくてさ。それはその通りだよね、というところから始めて、じゃあ、どこまでやれるかという感じでアプローチしないと、最初から小ばかにしているような大人のほうが正しいよねってなっちゃっているのが怖いなって言うかさ。ニュースを見ていて、最近はそんなことを思いました。
 高 うん。
 那 むしろ、そういう人たちのほうが怖いなって。宇宙人的視点で見ると、病的なのはどっちなんだろう?って思うんだよね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎編集後記
 記録的な規模の台風が通り過ぎていったばかりですが、読者の皆様は大丈夫でしたか? 私は千葉に住んでいるので、前回の台風時の停電のニュースを見て、ソーラーでもスマホを充電できる充電器を買ってありました。水や食料だけでなく、こういった用意もあると少しだけ安心感が違いますね。お勧めです。(那)



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
記事を読んだら、あなたの評価をつけてください。
評価は3段階で簡単にできますので、本メールの一番下からご参加ください!
___________________________________
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2011-08-08  
最終発行日:  
発行周期:月刊  
Score!: 98 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。