芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
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MUGA第98号

2019/09/15

MUGA 第98号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

MUGA表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇哲学

クリシュナムルティ解読15 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

    那智タケシ

第15章 「思考する人」と「思考」
    意志的な行為は常に二元的である
    物を二つに分離させるこの意志を超越して

◇エッセイ

SNS時代だからこそドストエフスキー体験について語る

高橋ヒロヤス


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クリシュナムルティ解読15 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

    那智タケシ

第15章 「思考する人」と「思考」
    意志的な行為は常に二元的である
    物を二つに分離させるこの意志を超越して
    二元的行為が存在しない状態を発見することは
    果たして可能だろうか

 普通、人は、自分の心の中にあるものと、自分自身を別のものとして捉えています。嫉妬や、苛立ち、欲望など、ネガティブな感情や思考が生まれたときには、「こんなことを思ってはいけない」とか、「これはあいつが悪いんだ」とか、「こういう感情を持たない人間になるようにしよう」などと思うでしょうし、喜びや、感動、感謝といったポジティブなものが生まれたときには、「この感情を定着させたい」とか、「一体化したい」とか、「手放さないようにしよう」と努力するかもしれません。クリシュナムルティ(=以下、K)の言葉を引用すると、次のような状態です。

『私は自分が貪欲で、所有欲が強く、残酷であることに気づいたとき、決してそうであってはならないと考えるのです。』(P.152)

 つまり、「感情」「思考」といった現象とは別の、確固とした上から監督する「私」なるものがあり、その「私」をより良いものにしたい、より高いものにしたい、より価値のあるものにしたい、と思って我々は日々、努力しながら生きています。実体はあくまで、「私」の側にあるのであり、感情や思考は、自分とは別のものであるから、自分の中の内容物をより良いものにすることで、自分もより良い存在になれる、と考えて、進化しようと努力しているのです。

 しかし、「私」と「私の中のもの」──この二元的で、分離した認識のあり方こそが、人の心に葛藤を生じさせる根本的な原因であることをKは指摘します。以下、引用。

『「私」が経験しているかぎり、また「私」が何かになろうとしているかぎり、このような二元的な働きが必ず伴うのです。つまりそこでは「思考する人」と「思考」という二つの別々の過程が動いているのです。そこには統合というものがありません。その中心にあるものは、集団や個人やあるいは国家として何かになろうとしたり、またならないようにしようとする「私」の意志なのです。ほとんどあらゆるものの中で、このような二元的な過程が動いています。』(P.150〜151)

 それでは、「私」と「私の中のもの」が統合された状態、というのは存在するのでしょうか? 仮に存在するとして、それはどのようにしたら、統合されるのでしょう?

 Kは、「観察する人」がいなくなったときに、それが可能になると端的に言います。

『統合は、思考する人がもはや観察する人ではなくなったときにのみ可能なのです。』(P.151)

 「観るものは観られるものである」というK独特の言い回しがあります。それを理解することができれば、「私」と「私の中のもの」、「思考する人」と「思考」の分離がなくなり、あるがままの現象だけがある世界を生きることになる。そのとき、二元性の葛藤がなくなり、その葛藤がなくなることで、あるがまま自体が変容する。これがKの言う覚醒のことです。

つまり、現象から分離した「私」なる実体は存在しないことを悟ることで、人は二元性の迷い、葛藤から抜け出ることができ、根源的に変化することができる、とするのです。引用します。

『意志的な行為は常に二元的です。それでは物を二つに分離させるこの意志を超越して、二元的行為が存在しない状態を発見することができるでしょうか。それは「思考する人」と「思考」が一体となった状態を私たちが直接体験するときにのみ発見することができるのです。』(P.151)

 「思考する人」と「思考」が一体となった状態──それを知るためには、「思考する人」という実体、すなわち「私」なるものが、実は、思考の内容物の組み合わせによって生じた、ゴーストのようなものであると認識する必要があります。つまり、確固とした「我」なるものは、あくまで編集された内容物が生み出した幻想であり、ただ、変化する現象(思考に留まるものを内容物と表現しています)があるだけであることを知る必要があるのです。

 強固な「私」──すなわち自我の働き、あり方を徹底的に見つめ、理解し、解体していくことで、それは巨大な岩ではなく、現象が組み合わさって生み出した観念の産物であると知ることができます。この岩を一端分解し、世界に帰すことができれば、自分と現象が別々のものではなく、一つのものであることが理解され、「私」=「世界」という認識を得ることができることでしょう。この状態についてのKの言葉を引用します。

『それでは「経験する人」と「経験」という二つの分離した過程ではなく、ただ一つの実体だけが存在するときの状態を体験することはできるのでしょうか。恐らくそういうときに私たちは、創造的な状態や、またいかなる関係の中に置かれても決して退廃が存在しない状態がどのようなものであるかを、発見することができるでしょう。』(P.152)

 「ただ一つの実体」だとか、「創造的な状態」という言葉から、多くの人は、素晴らしい、至福の状態をイメージすることでしょう。これが「悟りというのは、至福の状態に留まることだ」という固定観念となって、「惨めで、葛藤に満ちた私」から、「素晴らしい悟りを目指す私」という、別の形の二元性を生み出す原因となります。結局のところ、「悟り」を目指すというあり方は、「より良い私」「成功する私」になろうと努力する「あるがまま」と「あるべき」の二元性の別の形であるに過ぎません。

 「私」が幻想であることを見抜き、現象世界だけがあることを知った状態とは、次のようなものです。引用します。

『たとえば私は貪欲だとします。「私」と貪欲は二つの違った状態ではないのです。そこにはただ一つのもの、つまり貪欲だけがあるのです。』(P.152)

 貪欲だけがある。すなわち、現象だけがある。

言わば、身も蓋もない事実だけがあり、それがあなたです。貪欲は、貪欲ですから、無欲や清貧に変えることはできません。

成功したい、とか、人よりよく見られたい、他人から価値あるものに見られたい、という欲望は、「あるがまま」から「あるべき」への欲求が生み出したものであり、決して、克服するべきものでも、プロセスにあるものでもなく、今のあなた自身の真実です。

悟りというのは、言わば、真実しかない世界に生きることであり、この世界には、事実しかないことを知ることです。幻想がなくなりますから、二元性の葛藤がなくなり、根源的に、人は存在のあり方それ自体に関する葛藤、迷いから解放されることになります。

ただ、事実しかないのです。だから迷うはずもない、ということです。

 それでは、自分自身の正体が貪欲であることに人は気づくことができるでしょうか? 

認めることができるでしょうか? 

美しく、成功した、素晴らしい境地にある「私」をイメージし、それに向かって邁進する人であればあるほど、それは認めがたい真実であるに違いありません。

 しかし、そこには貪欲しかないのです。それがあなたのあからさまな裸の姿であり、正体であり、その瞬間における唯一つの真実なのです。しかし、その真実に気づき、認め、受け入れたとき、大きな変容が起こる可能性が開けます。Kの言葉を引用します。

『努力している人が貪欲の原因であり、貪欲そのものであることに気づくのです。そして同時に、「私」と貪欲が別々に存在しているのではなくて、実際には貪欲だけが存在していることが分かるのです。そこで「私」が貪欲であることを知り、私の中に貪欲な観察者がいるのではなく、「私」自身が貪欲であることを明確に認識するならば、そのとき私たちの問題全体が全く違ったものになるのです。』(P.153)

 この自らが貪欲そのものであることを認めることの難しさと、二元性に留まることの危険性について、Kは指摘します。

『そこであなたの存在の全体が貪欲であり、あなたのとる行動がすべて貪欲であるとき、あなたはどうするでしょうか。残念ながら私たちは普通、こういうふうに物を考えないのです。私たちの心の中には、兵士を監督し威圧している指揮官のように、「私」という上から見下ろしているもう一人の立派な実体が常に存在しているのです。しかしながらこのような二元的な過程は、私たちに破壊的な作用を及ぼすものなのです。』(P.153)

 自分自身の心の中の働き、すなわち自我の働きを見つめ、それが自分自身とは別のものではなく、自分自身そのものであることを知るとき、この二元的な葛藤の過程が終焉し、そこに創造的な働きが生じる、とKは言います。葛藤、迷いがなくなることで、これまで二元の矛盾を埋める軋轢の中で膨大にロスされていたエネルギーが解放され、世界それ自体を変容させると言うのです。世界とは、すなわちあなたのことです。引用します。

『そこでもし完全に貪欲だけが存在し、「私」が貪欲を働かせているのではなく、私が貪欲そのものであるならば、どういうことが起こるでしょうか。明らかにそのとき、今までとはまったく違った過程が動き出し、そこから違った問題が生まれてくるのです。それは創造的な問題であり、その中には肯定的にしろ否定的にしろ、支配したり、何かになろうとしている「私」という意識が存在しないのです。』(P.153〜154)

 多くの求道者は、今の自分よりもおそらくは素晴らしい境地である「悟り」や「解放」、「救済」なるものに向かって努力し、修行します。求道者でなくとも、多くの人は「幸福」「成功」「人格の完成」などに向かって努力し、より良い人生、より良い「私」になるべく努めていることでしょう。しかし、この「より良いものに向かう努力」というプロセスを経ればへるほど、そして成功すればするほど、達成すればするほど、人は自分自身の「真実」から離れてしまうのかもしれないのです。

「あるがまま」から「あるべき」に至ろうとする二元的行為を超越し、「あるがまま」の働きそれ自体を生きるためには、「あるべき」を目指すのではなく、「あるがまま」を見つめ、それが自分自身の真実であり、「あるがまま」しかないことを根源的に理解する必要があります。そのとき、人は二元的行為を終わらせ、生きた真実の働きの中で、本当の意味で世界とつながった、独自で、創造的な生を歩むことができるのです。Kの創造的状態に関する表現を引用して、終わります。

『もし私たちが創造的になりたいと思うなら、私たちはそのような状態に達しなければなりません。その状態の中にはすでに努力している人がいないのです。それは状態の言葉で説明する問題でもなく、またその状態を発見しようと努力する問題でもないのです。努力する問題としてこの問題に着手するならば、あなたは決してその状態を発見することができないでしょう。肝心なことは、努力している人とその努力の対象が全く同じものであることを知ることなのです。』(P.154)
 

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◇エッセイ

SNS時代だからこそドストエフスキー体験について語る

高橋ヒロヤス

世界は今、かつてないほど「短いテキスト漬け」の状態にある。LINEやツイッターなどのSNSの普及によって、ほとんどのコミュニケーションが会話、通話、手紙(メール)というアナログな媒体から、テキスト短信による瞬時の交信という形式に移行しつつある。そこでは長文のテキストの存在意義はますます薄れつつあり、手軽に情報としての教養を手に入れるための「まとめ」や要約が重宝される。

特に若い世代は、「チャット、YouTube、ファストフードからなるコミュニケーションと感性的刺激の母胎に浸りきった状態」の中で即自満足の世界に暮らしているので、今更「小説を読む」というようなまだるっこしい娯楽など必要としないのだろう。

それでも、敢えて言いたい。21世紀においても、人間が人間として生きていくためには、「ドストエフスキー体験」は有った方がいいのだ、と。何より、個人的にそのことを痛感した。

僕がドストエフスキーを初めて読んだのは18歳のとき、『地下室の手記』だった。当時のノートにはこう書きつけてある。

「とにかく圧倒的におもしろく、最後までぶっとおしで一気に読み通した。とにかく圧倒的におもしろい。つべこべ言う前に、とにかくおもしろい。小説とはこんなにおもしろいものだったのか。知らなかった。これ以上つべこべ言いたくない。おもしろいものはおもしろいのだ。それで充分だ。彼についての、思い込みたっぷりの評論など必要ない。彼の他の作品も強烈に読みたくなってきた。読んでやる。」

「確かに、ドストエフスキーの小説の主人公はぼくとあまりに酷似している。
しかし、彼に対する評論などどうでもいい。とにかく、掛け値なしに「おもしろい」のだ。日本にはこんなおもしろい小説はない。(と断言していいものかどうかよくわからんが)
リアリズムとはまさに彼の作品のことだ。「人間」が、ありのままに、本当に驚くほどありのままに描かれている。思想小説? 怪奇趣味? 全然違う。
例えば、宇宙人がぼくに地球の人類とは一体何物であるかを尋ねたら、まず「罪と罰」を読ませよう、それくらいの小説だ。」

僕は「文学少年」ではなかったが、小説と呼ばれるものや文学作品などに興味がないわけではなかったので、日本や海外の有名どころになんとなく目は通していた。しかし、ドストエフスキーは、それまで読んだ小説とは圧倒的に違っていた。

秋山駿という評論家が、『私の「罪と罰」』という本の中で「ドストエフスキー体験」について語っているが、僕も含めて共感する人は多いのではないだろうか。

「それは、時が停っているような、薄暗い、陰気な古本屋の書棚の前であった。私は別にどうという訳もなく、ただ題名につられたのか、本のページを開いて読み始めると、そのまま30分以上も立ち読みした。それは内田魯庵訳の『罪と罰』であった。ページの中で、ラスコリーニコフが、下宿の部屋を出て街へと歩き出していた。その歩行の音調が私の胸にひびいた。」

「…たちまち、徹夜して読み、私は興奮した。翌日は何もしないでただ部屋に籠っていたように思う。頭に血が昇ったような感覚だったことを、いまも覚えている。本を読んだ、というより、自分が生きているということを意識しつつものを考える、それを、初めて経験したのだ。だから、本を読むというより、本を読みながら自分が思い感じたことが、まるで子供が白紙の上に初めて描く絵のように、すべて胸に刻まれた。」

「…実は、と、ここで打ち明けるのだが、私はこの数十年、『罪と罰』という本を読み返したことはなかった。なぜか。ここらが自分でも思う私の病者的な傾斜なのだろうが、私は、最初に読んだときの感動が、あまりにも大切だったので、後に生きて動揺する心の触手がそれを傷つけぬようにと、封印してしまったのである。」(『神経と夢想 私の「罪と罰」』より)

僕も、秋山氏と同じように、『罪と罰』を初めて読んだときからつい最近になって読み返すまで30年読まなかった(『カラマーゾフ』と『白痴』は何度か読んでいる)。
この間、実を言うと、他人が『罪と罰』を語っているのを読むのすら避けていた。自分にとって神聖とさえいえる大切なものを他人の触手で汚されるような感覚を覚えるからである。

『罪と罰』を最近になって読み返し、当時と同じ様に面白く、ぐいぐいと引き込まれるように読み通したのだが、とても同じ小説とは思えないほど読後の印象が違った。というのは、十代終わり頃の僕は、外出時に下宿のおかみに顔を合わせるのすら億劫で、犬のように寝てばかりなのを女中のナスターシャに詰られると「考えごと」が僕の仕事なんだと言い放つラスコリーニコフという青年に完全に感情移入していた。ラスコリーニコフが、棺桶のような屋根裏部屋で独り拵えた「理論」を実践するために殺人という罪を犯し、心理的に追い詰められて、最終的に信心深い売春婦ソーニャに跪いて告白するという物語が僕の心を完全に捉えてしまい、ラスコリーニコフの分身ともいえる中年男スヴィドリガイロフの存在はまったくと言っていいほど頭に入っていなかった、ということに気付いた。

ここで具体的な小説の中身に立ち入るのは控えるが、もし『罪と罰』が、ラスコリーニコフとソーニャ<だけ>の小説であるなら、ドストエフスキーはそれ以後の大長編群(『白痴』、『悪霊』、『未成年』、そして『カラマーゾフの兄弟』)を書く必要はなかっただろう。いやもちろん生活のために小説は書いただろうが(ドストエフスキーが小説を書いたのは、とにかく「生活の糧」を稼ぐためだった。そのことは彼の人生について知れば知るほど明らかだ)、あのような、えげつないレベルの超問題作の連発にはつながらなかったに違いない。

『罪と罰』の最後で、スヴィドリガイロフは自殺する。その後の作品でドストエフスキーが登場させた強烈なキャラクターたちは、「どうすれば、スヴィドリガイロフは死なずに済んだのか?」を追求した軌跡の中で生み出されたというのは大げさすぎるにしても、ドストエフスキー本人は明らかにラスコリーニコフよりもスヴィドリガイロフと問題意識を深く共有しているように思う。

『白痴』のナスターシャ・フィリポヴナは、『悪霊』の「スタヴローギンの告白」に出てくる少女の成長した姿であり、その少女は既にスヴィドリガイロフの最後の夢の中にも登場していることを思うと、スヴィドリガイロフがドストエフスキーの作品世界においてきわめて重要な位置を占めていることは明らかなのだが、そのことを30年前の自分は見過ごしていたということを発見したのは大きな気づきであった。

もちろん、これは僕個人の感想であり、読者によって無限に多様な読み方が可能である。事実、上述した秋山駿氏の解説本を読んでもピンと来ない部分も多々あった。それ以外の評論家の文章も沢山読んでみたが、ごく基本的な部分の解説ですら腑に落ちたものは少ない(個人的に一番共感できる部分が多かったのは参考文献に挙げた清眞人氏の解説だった)。

さて、本論から脱線して、作品論に入っていきそうになってしまったが、ドストエフスキーを読むことは、常に新たな発見であり、人間というものの複雑さ、得体の知れなさに直面させられる体験である。

そこには実に様々な、凡庸な人間も非凡な人間も含めてあらゆる「人間」が登場する。彼らは時には物語の展開を無視するかのように何ページにもわたる独白を続けることもある。それ故にドストエフスキーの登場人物は「観念的過ぎてリアルではない」という評論家もいるようだ。しかしそれはとんでもない誤謬で、ドストエフスキーの描く「人間」は、言葉の真の意味で「リアル」であり、彼らは表面的な「現実」を突き抜けた「ありのまま」の姿を露わにしている。評論家の言う「リアリズム」など、所詮「資本主義リアリズム」をなぞるだけの表現にすぎない。我々の日常の活動や言動は、むしろリアルを覆い隠しているので、それを剥ぎ取るためにドストエフスキーは登場人物に大いに語らせるのである。

ウィトゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を50回は通読したが、読み返すごとに主人公のアリョーシャはフェイドアウトしていったのに、スメルジャコフは違ったという。そして「彼は深い、このキャラクターのことをドストエフスキーは知り尽くしていたのだ、彼はリアルだ」と語っている。

シェイクスピアもユゴーもトルストイもカミュも、真の文学作品はみな汲みつくせない深みを持っている。しかしドストエフスキーの持つ深みというのはちょっと異次元のレベルのものだという気がする。それは、まるで21世紀のこの世界を生きる人類に向けて書かれたのではないかと思われるリアルさなのだ。

『地下室の手記』の主人公は、すべてが「二二が四」でカタの付く世界に対して徹底した呪詛の声を浴びせる。それは所詮地下室の偏屈者からの叫びに過ぎない、と作者は突き放しているようにも見える。だがこの小説を読みながら18歳の僕が内心で喝采の声を上げていたのも事実である。

近代以降の国家制度、経済制度は、人間をより単純で分かりやすい存在へと還元し、効果的に支配し、搾取するためのものであった。その究極の形が、ドストエフスキーが徹底的に批判した「神なき共産主義」であり、ドストエフスキーが死んだ後にそれが他でもないロシアで実現してしまったことに歴史の皮肉を感じざるを得ない。

ソ連型の共産主義は終わったが、その後の世界を支配している資本主義リアリズムは、より洗練された巧妙な支配のシステムであり、現在のSNS化の中で人間の存在が断片化され単層化され個性を剥奪されている状況はその究極形態であるといってよい。つまり、ドストエフスキーの小説が提示した問題は今もまったくその切実さを失わないどころか、現代小説の何にもましてリアリティをもって迫ってくるのだ。

今を生きる我々にとって、「資本主義リアリズム」に風穴を開ける一つの方法が、ドストエフスキーを読み、その小説の中で語られている声(それは実に多岐に亘る)に真っ直ぐに耳を傾け咀嚼しようとする作業なのではないかと思う。

参考文献:
ドストエフスキー全集(新潮社)
『回想のドストエフスキー』(アンナ・ドストエフスカヤ、筑摩叢書)
『神経と夢想―私の「罪と罰」』(秋山駿、講談社)
『「罪と罰」を読まない』(岸本佐知子、三浦しをん、吉田篤弘、吉田浩美、文春文庫)
『ドストエフスキーの創作の問題』(ミハイル・バフチン、平凡社ライブラリー)
『ドストエフスキー』(山城むつみ、講談社文芸文庫)
『ドストエフスキーとキリスト教』(清 眞人、藤原書店)


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◎編集後記
 メルマサービス終了につき、配信スタンド変更の件ですが、正式には100号から移動する予定です。次号で詳細、登録頁等お知らせしますのでよろしくお願いします。(那)


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