芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第89号

2018/12/15

MUGA 第89号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

MUGA表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇詩

 那辺の詩     那智タケシ

◇哲学

クリシュナムルティ解読9 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

    那智タケシ

第9章 自我とは何か
   何かになろうとする欲望、それを求める努力、競争心――
   この精神の働きの全体が自我である。
   こうした精神の働きは、自己を他者から分離し
   自分自身を隔離する


◇年末企画 2018年 見たもの聞いたものベスト5


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◇詩

 那辺の詩     那智タケシ

    発光

 冬の大気は、余計な色を剥がしてくれる
 雑草たちは寒さに縮こまり、色を失い、
 凍てつきながらも、身を寄せ合って、
 乾いた風の中で濃縮し、
 厳粛な表情を見せてくれる
 壁を這うひからびた蔦の葉さえ、
 美への願望を葬り去ったが故に、
 力強く自分のアイデンティティを主張する
 街を歩く人々の顔にもまた、
 雑草たちと同じ厳粛さが宿っている
  
 冬の光は、真実を顕にしてくれる
 道端のねこじゃらしは貧相になりつつ、
 光の中に溶け込むことで輝きを増し、
 繊細で、優美な、金色のオブジェと化している
 光の届かぬ場所に咲く野花たちは、
 時を止め、
 沈黙の中でより確かなものとなり、
 永遠のイデアに向かって頭を垂れている
 突如、歩道の白線が眩いばかりに発光し、
 人の歩むべき道を指し示した

 
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◇哲学

クリシュナムルティ解読9 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

    那智タケシ

第9章 自我とは何か
   何かになろうとする欲望、それを求める努力、競争心――
   この精神の働きの全体が自我である。
   こうした精神の働きは、自己を他者から分離し
   自分自身を隔離する

 クリシュナムルティ(=以下K)は「自我は邪悪なものである」と明言します。なぜなら、人間の中核にある自我の働きこそが、自分と他者を分離し、競争させ、闘わせる源になっているからです。自我とは本来、生物学的には厳しい自然環境の中で個体を守る生存本能から生まれたものでしょう。しかし、この自然から分離した資本主義社会においては、自我は他人に勝ち抜くために発展していき、過剰なまでに肥大化していきました。だからこそ、自然の本能から生まれた自我が「邪悪」といわざるを得ないまでに大きなものになってしまったのです。Kの言葉を引用します。

『この自我の中には競争心や、何かになろうとする欲望が含まれています。この精神の働きの全体が自我なのです。そして私たちが実際にこの自我に直面するとき、それが邪悪なものであることに気づくのです。この邪悪なという言葉を、私は故意に使っています。というのは、自我は自他を分離するものであるからです。つまり自我は自己を閉鎖するものです。』(P.97)

 Kは、この自我という自他をはっきりと分け、優越感を持とうとする中核を「完全に消滅させなければならない」と言います。この肥大化して、硬直化した自我の働きこそが、現代の様々な問題の中核にあることは明白です。自我が行き着いた先は、核武装という人類史上最大の暴力によって威嚇し合うことで何とか戦争を押し留めている、という極めて矛盾した世の中であり、私たちはその緊張関係の中で生きているという「異常さ」を改めて自覚しなければなりません。しかし、この「異常さ」に気づかずに、それが当たり前であり、時には「必要悪」であるなどと洗脳されて生きているのが私たち人類の大半です。Kは、こうした事実を明晰に自覚していたからこそ、「自我の終焉」こそが人類が生き延びる術であり、また人類の大きな可能性そのものであることを説いたのです。引用します。

『このようにあなたの中で自我が活動しているかぎり、あなたの信念、師匠、階級、経済制度といったものが皆、分離作用を起こすことになり、そのために競争が生み出されるのです。もしあなたがこういう問題に対して本当に真面目に真剣に取り組むつもりがあるなら、あなたはこの自我という核を完全に消滅させなければなりません。自我を正当化したりしてはなりません。』(P.101)

 Kは、これまでの既存の宗教的方法による自我の消滅へのアプローチに対して、頑ななまでに否定的です。それが祈りによる神との同一化であれ、様々なメソッドによる神秘的な体験であれ何であれ、すべての定型の手法は、未知なるものに触れ得ない。定型の鋳型の中に人を押し込め、凡庸にしてしまうと説きました。なぜなら、そこには規定のゴールがあり、同じ答えに向かって人は努力するからです。

 自我は、常により大きくなろうと欲します。それは自我それ自体が、実は卑小なものであり、限界のある存在であり、自然の働きや、神秘や、本当の意味での愛に触れていないという非充足感によるものだと思います。ですから、時に、特定の教祖に心酔したり、祈りによって神と一体化したと感じたり、とある瞑想体験で全体に至ったと恍惚感を覚えることで、自我を充足させ、満足させようとするのです。

 もしもそこに「幸福感」や「達成感」があり、「満ち足りているという感覚」が持続しているとしたら、手厳しいようですが、それはまだ自我の延長線上にあるものです。なぜなら、そこには「喜んでいるあなた」「感動しているあなた」「救われたあなた」「幸福になったあなた」がいるからです。それが不幸なものであれ、幸福なものであれ、そこに中核があり続けているのには変わりありません。引用します。

『ところでこの自我を消滅させるものとは一体なんでしょうか。今までに様々な宗教や組織が、いわゆる同一化というものを提唱してきました。つまり、「あなた自身をあなたより大きなものの中に容れなさい。そうすれば自我はなくなるのです」と彼らは主張します。しかしながらこの同一化も依然として自我の働きなのです。より大きなものは「私」の投影に過ぎないのです。私はその投影されたものを経験し、その経験が「私」を強化することになるだけなのです。これでは自我を消滅させたことにはなりません。』(P.102)

 それでは、自我の働きによるものではない「何か」はあるのでしょうか? Kは、それを「創造的状態」と表現します。これは常に新しいものがやって来る状態――未知なるものに触れている状態、と言い換えてもいいでしょう。厳密に言えば、「状態」でさえないかもしれません。自我は、過去の集積物です。ですから、その体験は常に定型であり、過去の産物であり、わかりやすく、言葉にできるものです。しかし、未知なるものは言葉にできません。それはいかなる神秘体験とも異なるものなのです。強いて言えば、面倒な夏休みの宿題を終えて、頭が空っぽになり、解放感を覚えている状態が近いものでしょうか。そこに空性があるからこそ、未知なるものが降り注いでくることができるのです。Kはそれを「あらゆる経験を超えた何か」と言います。引用します。

『私たちは創造の状態が全く自我の経験ではないということを理解することができます。創造は自我が存在しないときに生まれるのです。なぜなら創造は頭脳や精神に関係するものではなく、また自己を投影したものでもなく、あらゆる経験を超えた何かであるからなのです。それでは精神は完全に静止し、認識もせず、その結果創造が可能になるような状態になることができるでしょうか。つまりそれは自我が存在しないときや、自我がそこに居合わせないときの状態のことなのです。』(P.104)

 それでは、この厄介で、どうやっても壊れようとせず、消えようともしない、しぶとい自我をどうやったら終わらせることができるでしょうか? とにもかくにも、一度でも完全に破壊することができるでしょうか? もしも一度でも私たちの中核にある固くて、時に美しく見えるガラス球が破壊されれば、それは元に戻ることはないのです。仮に自我に満ちた人間社会にかかわる中で元に戻ってしまったとしても(時に、役割として戻らざるを得ないのです)、それはガラス球ではなく、常に変化し続ける因果の束のようなものであると理解できるようになるでしょう。そのファジーさの中で、あなたは新しいものの見方、新しい関係を他者や、自然との関係の中に構築することができるようになっていくはずです。そこには、分離したものはどこにもないのです。分離したものがないということこそが、創造性の本質です。

 Kは、自我の働きをとにもかくにも見つめ、それが自己中心的な働きそのものであるに過ぎない、と認めることで、自我が静止し、破壊される可能性があると説きます。引用します。

『あなたが精神の働きをじっと見つめ、完全に知り尽くしてしまったとき、あなたは非常に静かになるのではないでしょうか。しかもそれは強制や報酬や、あるいは恐怖によって生まれた静けさではありません。精神のすべての活動は単に自我を強化する雛型にほかならないことを認識して、それを注意深く見守り、理解したとき、また活動している精神を完全に知り、観念や言葉や、投影された経験によるのではなく、あなたが本当にその核心に迫ったとき、そのときあなたは、精神が完全に静止して、もう創作する力がないことに気づくでしょう。精神が創作するものはすべて一つの円の中にあり、自我の領域の内部にあるのです。ですから、精神が創作を止めたとき初めて、認識作用ではない真の創造が生まれるのです。』(P.107)

 Kは、伝統的な手法や、既存の道徳や、知識の集積について懐疑的でした。数多の聖典を読んでも、善行を積んだり、社会人としてモラルを守った立派な生活をしていると誇ったとしても、それは自我の中核を終わらせることとは何の関係もない。むしろそれは自我を強化させ、固定化させ、安心させて、気づけば、あるがままの真理から遠ざかる道を歩いていることにもなりかねない、と言うのです。もう既存のやり方では壊れないほどに、私たちの自我は過去の伝統や、環境や、無数の情報によって条件付けられてしまっているのです。引用します。

『「真の実在」や「真理」というものは認識することができないものなのです。真理が到来するためには、信念、知識、徳の追求というようなものがすべて消え失せなければなりません。徳を追求していることを自分で意識しているようないわゆる道徳的な人は、決して「真の実在」を発見することができません。こういう人は非常に礼儀正しいかもしれませんが、真実の人、理解する人とは全く別人なのです。真理は、真実の人のもとにやってくるのです。道徳的な人は正義の人です。しかし正義の人は真理とは何かを理解することが決してできない人なのです。なぜかと言いますと、その人にとって徳は自我を覆い隠し、同時に自我を強化するものであり、またその人は徳を追い求めているからなのです。』(P.107〜108)

 生活の中で、自己中心的な働きをする自我を徹底的に見つめること。ひと飛びに自我の外に向かうのではなく、誠実に、自分が自我そのものであり、自己中心的であり、時に、自己欺瞞的で、巧妙で、逃避的な自我を持っている存在であると、一つひとつ、具体的な事象に立会いながら気づいていくこと。それこそが自我を解体する最短の道です。なぜなら、それは自我という強固なガラス球に直接触れ、ノミを打つ作業だからです。

 ガラス球の外にある空気に束の間だけでも触れたり、全体性を感じたり、一瞥したりする様々な疑似体験をするのも時には悪くないでしょう(それが疑似体験であり、束の間の癒しであると理解している限りは)。現実生活というのは、時に、あまりに救いや、解放がないものに見えるものですから。束の間でも、自我の外に逃避したいという気持ちは非常によくわかります。それがセックスであれ、アルコールであれ、ドラッグであれ、何であれ、すべては自我からの逃避であり、全体回帰への希求です。しかし、やはりそこにガラス球はあり続けるのです。ですから、自我の働きを見つめる中で、このガラス球が実は固定的実体ではなく、様々な因子が組み合わさった束の間の現象に過ぎないことを知れば、それは自ずと解体していくのです。

 自我という中核がなくなった時、人は自我の外にある愛というものに触れ、それを実現するために、困難な――時に、具体的な愛の実現というのは、自我を終わらすことよりもはるかに困難なものですから――、それでいてまったく新しい道を歩き出すことになるのです。Kの言葉を引用して終わります。

『しかしもし「あなた」と「私」が一個人として、自我の全体の働きを知ることができるなら、そのとき私たちは愛とは何かということを知ることができるでしょう。これこそ世界を変えることができる唯一の改革であると私は確信します。愛は自我に属するものではありません。自我は愛を知ることができないのです。あなたは「私を愛している」と言います。しかし言葉や経験そのものの中に、愛はないのです。その反対にあなたが愛を知ったとき、そのとき自我は消滅するのです。愛があるとき、自我は存在しないのです。』(P.108)


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。


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◇年末企画 2018年 見たもの聞いたものベスト5

★・・・1点 ☆・・・0.5点


●2018年 見たもの、聞いたものベスト5

 那智タケシ

【1】ムンク展――共鳴する魂の響き 2018年 東京都美術館 評価★★★★★

 長いこと正視できないほどに内部に迫る絵を描く唯一の画家――十数年前、伊豆の山の中にある名前も忘れた美術館でムンクの作品をいくつか観た時に、そんなことを思った。その美術館には、ピカソを初めとして様々な名画があったが、ムンクの絵はあまりに直接的過ぎて、生々しくて、怖いほどだった。どの絵とも違う迫力があって、近寄ることができないようにも感じた。がらがらの館内で、一人、ムンクと一対一で対峙していると、その絵に取り込まれそうになるのだ。それで、少々覚悟して上野の展覧会に行ったのだが、ポケモンとコラボしていたり、音声ガイドの声優が気取って演技していたりしたせいか、意外と楽しく、客観的に観ることができた。混雑していたが、逆にそのせいで絵と距離を置いて、作品それ自体の価値を感じることができたのかもしれない。
 『叫び』も『星月夜』もよかったが(とりわけ、『叫び』を描いた時のムンクの心境を語る文章がリアルで、素晴らしかった)、最も胸が鷲掴みにされてしまったのは『星空の下で』という作品。星空の下、郊外の誰もいない辺鄙な場所で、骸骨のような顔をした女がうつむいた男に覆いかぶさり、必死に守るようにして抱きしめている――その構図があまりに切実で、いとおしく、この作品一つと出会えただけでも観に来てよかった、と感じた。それから有名な『太陽』という作品。この絵の前に直立して、いつまでも動こうとしない若い女性がいた。まるでその重厚で、透徹した光の中に、救いを求めているようだった。
 ムンクのような芸術は、時代を超える。絶対独自で、代えが利かない。思考で形作った現代アートなど粉々にしてしまうほどの力がある。だから、老若男女、今でもあれほどの人が押しかけ、それぞれに何かを感じ取ることができるのだ。というわけで、久しぶりに満喫できた展覧会ということで星5つ。(ちなみに、1月20日まで開催しています)。

【2】『奇跡の丘』ピエル・パオロ・パゾリーニ監督 1964年 評価★★★★☆

 パゾリーニは悪名高き『ソドムの市』と『アポロンの地獄』しか観ていなかったが、この初期作品は未見だった。ブルーレイでリマスター版が発売されているのを見つけ、購入して観賞。マタイ福音書を土台に、イエス・キリストの生涯を淡々と描くという話なのだが、とにかくストイック。人間的感情や、情緒をことごとく拒否して、事実のみを連ねていく。悩み、苦しむ人間味に溢れたキリスト像を描いた『ジーザス・クライスト・スーパースター』などとは対極にある作品。もちろん、天才が作り出すその空間は、何の装いもなくとも完璧なまでに美しく、福音書の中でも最もストイックな表現形式を持つマタイ福音書に正面から挑んだ野心的な作品とも言える。
 とは言え、あまりに淡々と誰もが知る福音書のエピソードが続くので(難病を治したり、海の上を渡ったりと一見、派手な奇跡もあるのだが、それも極度に抑制されて表現されている)、過激なドラマ性や速いテンポに慣れた現代人の多くは、少々退屈に感じられることもあるかもしれない。表現の芸術的水準としては、後の『アポロンの地獄』(1967年度外国映画部門キネマ旬報1位)の方が洗練されていることは間違いない。しかし、この『奇跡の丘』はあえてそのような装飾性を一切廃したところにこそ価値があるのだろう。装飾性がない故に、救世主の言葉が胸に響くのだ。何の人間的感情も、身振りもなく、抑揚もないけれど、生きている救世主が淡々とその言葉を発するだけで、そこに大きな意味が生まれていく。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」

 このあまりに有名で、なおかつ実現不可能とされる言葉を耳にした時、なぜか自分に今、最も足りないものを投げかけられた気がして、はっとした。新しい世界とのかかわり方を促され、目が開けたようにも感じた。自分を否定する者や、価値観の異なる者を愛することができるだろうか? 自然に接することができるだろうか? 排他的にならないようにするにはどうしたらいいだろうか? などと自問して、これから自分が取り組むべき新しいテーマを投げ与えられたような気がした。真実だけでは人は救われない、と昔、誰かに言われたことを思い出した。
 おそらく、福音書というのは、触れた者それぞれに、こうした気づきや、改心を求めるものなのだろう。この作品を作ったのが無神論者であるというところがまた、逆説的に聖書の言葉の本質的な力を浮き彫りにしているのかもしれない。淡々とした映像と力強い言葉――その何の説明もない画面の余白の中で、無意識の気づきが自ずと活性化されていく――そんな不思議な映像体験だった。

【3】『ルドン 私自身に』(池辺一郎訳 みすず書房)1983年 評価★★★★

 今年の春、ルドン展(三菱一号美術館 ルドン―秘密の花園)に行った時に購入した書籍。何年か前にも同美術館でルドンを観たが、この画家の神秘的な側面が全開のラインナップだったことを覚えている。今回はどちらかと言うと、壁画や家具など、装飾デザイン的側面に光を当てていて、華やかで面白かった。ルドンというと一般受けしない画家のイメージでいたが、『悪の華』などの漫画の影響か、若い人たちでにぎわっていた。併設されたレストランではルドンの作品にちなんだランチコースがあって、“インスタ映え”を狙う女子たちが群がるように並び、1時間待ちとか何とか。ムンクと同様、異端の芸術というものもまた、こうやって普遍化され、モダンになっていくのだろう。
 少々高価だったもののルドンの創造の秘密のようなものが知りたくて、この『ルドン 私自身に』を購入したが、いくつか素晴らしいフレーズがあったので引用したい。

「つまり私の独創性とは、あり得ないものを本当らしさの法則に従って人間的に生きものとしたことであり、眼に見えないものを、見えるものの論理に従ってあらわしたことにあります。」(P.31)

「ディレッタントと芸術家を区別するものは、ただ一点芸術家が感じる苦しみだ。ディレッタントが芸術に求めるものは、楽しみだけである。」(P.47)

「漠然とした後悔のような感情が、お前の生活のあらゆる時に常に入り込んで来て、思想、行動、閑暇から執拗に離れない。それはお前の意志が迷える力であり、お前の義務が果たされていない証拠だ。」(P.50)

「読書は精神の糧だ。思想の遺産を残した人物の大きな精神と、静かに無言の対話をすることができる。しかし読書だけでは、健全な強い精神をかたち作ることにはならない。精神を養い、魂を養う養分を吸い取るためには、眼が欠くべからざるものだ。眼を持っていない者、見る能力、正しく見る能力をある程度持っていない者には、不完全な知性しかないだろう。見るとは、ものの関係を無理なく把握することだ。」(P.56〜57)

【4】『万引き家族』是枝裕和監督 2018年 評価★★★★

 カンヌでパルムドールを獲得したことで話題になった社会派監督の直球。経済格差や高齢化を初めとして、マスコミが彩る情報の裏側にある日本を生々しく描いた。ロケ地を初めとしてモチーフの選び方や、会話のリアルなトーン、画面の中の小道具の配置、構図等、細部に至るまで監督のこだわりは徹底しているが、正直、映画の形式それ自体の純度が高いわけではない。ある種のドラマ性によって接木し、観客を飽きさせないようにしながら何とか均衡を保ってゴールした、という感もある。
 しかし、この作品で評価すべきは、芸術的水準うんぬんというよりも、「貧困層の犯罪をひとくくりに断罪してはならないのではないか?」という難しいテーマを正面から見据え、安易なメッセージによるのではなく、生きた人間それ自体を描くことで具体的に提示することに成功した、ということにある(安藤サクラの演技の素晴らしさ!)。こうした作業がどれだけ面倒で、危うく、絶妙なバランス感覚を必要とされるものであるかを考えると、頭が下がる思いさえする。

【5】『メイドインアビス』アニメ 2017年7月〜9月 全13話 評価不能

 アマゾンプライムビデオ(最近はまっている)で少し前に見つけて、★の評価が高かったので何となく観始めたアニメ。最初は、かわらいしい子ども達の冒険活劇ものだと思っていたし、作品のクオリティそれ自体が高いので、特に考えることもなく楽しんで観ていたのだが、回が進んでいくととんでもないことに……
 人間という存在の途方もない恐ろしさや、残酷さ、狂気、業、その暗澹たる側面でこそ反動するようにして立ち現れてくる無償の愛、そして死による解放といったテーマが、実写やCGでは絶対に表現できない(してはならない)水準で実現していることに驚いた。
 つまり、かわいらしいキャラクターたちや、ファンタジーで丸みを帯びた舞台設定があるからこそ、人間存在の究極の業や、直視できないほどの恐ろしさ、残酷さを普遍的な形で表現することができたのである。アニメというものの新たなポテンシャルを感じさせてくれた良作。シーズン2がそろそろやるということで、楽しみにしている。評価は不能。


●2018年 見たもの、聞いたものベスト5

 高橋ヒロヤス

今年触れた表現の中から、なるべく今年(または近年)発表されたものを選んだが、いつものように偏った内容になってしまったと思う。一応評価はつけたが順不同。

【1】『寝ても覚めても』(映画、2018年、濱口竜介監督) 評価★★

 昨年の年末に「見たもの聞いたもの」の中で挙げた映画『親密さ』や、『ハッピーアワー』(ロカルノ賞受賞作品)などの実験的な作品を発表してきた濱口竜介監督による、初の本格的な商業作品ということで、公開を知ったその日に一切の予備知識なしに観に行った(テアトル新宿)。
 期待しただけに、観終えた直後には深い失望感だけが残った。蓮実重彦などの評論家には絶賛されているらしいと後で知ったが、個人的に印象に残る場面もなく、何よりストーリー展開に違和感がありすぎて感情移入することができなかった。
 とはいえ、数か月経って改めて考えてみると、それほど悪い映画でもないという気はしてきた。「風を撮るみたいにエモーションを記録したい」と理想を語る監督が、この映画でやろうとしたことを考えれば、少なくとも簡単に切って捨てることができるような作品でもない。次回作に期待。

【2】『うつ病九段』(書籍、2018年、先崎学著) 評価★★★

 個人的な将棋ブームは未だに続いているが、世間的には藤井聡太ブームが一段落したこともあり比較的落ち着いた一年だった。そんな中で、昨年の藤井フィーバーの最中に病に倒れ、休場を余儀なくされた棋士、先崎学九段によるこの本が話題になった。休場の理由はこの本を出すまで明かされなかったが、うつ病で入院していたことをカミングアウト。発症から寛解に至るまでの経緯を詳細に綴った貴重なドキュメントともなっている。各分野でメンタルヘルスがこれほどクローズアップされたことはかつてなく、現代社会を生きる誰にとっても決して無視できない問題である。4月から復帰した先崎九段の歩みをこれからも見守りたい。

【3】『Wi Ing Wi Ing』(楽曲、2014年、アルバム『20』収録、ヒョゴ) 評価★★★★★

 「見たもの聴いたもの」という観点からすると、韓国のポピュラー音楽との出会いが今年の自分にとっては最もポジティブな出来事だった。K−POPについては前号でファースト・コンタクトの興奮冷めやらない記事を書いた。その中でも触れたが、今おそらく世界的に最も知られている(とはいえ防弾少年団などに比べればまだまだマイナーではある)韓国のロック・バンド、ヒョゴ(英語綴りはhyukoh)の曲をここに挙げる。彼らが今年出したアルバム『24』も、もちろんいいのだが、一度聴いたら忘れられないこのデビュー曲が、彼らの魅力をやはり最も端的に表現していると思う。
 
【4】『そっと、静かに』(書籍、2018年、ハン ガン著) 評価★★★★
 
 1970年生まれの韓国の女性作家ハン・ガン(韓江)が2007年に出したエッセイ集。2018年に「新しい韓国の文学」シリーズの一冊として邦訳が出版された。音楽にまつわる思い出や、彼女が愛する歌(主に韓国の歌。外国の歌も含む)についてのエッセイが多数収録されている。静謐な印象を受けるエッセイだが、どの文章も、そっと静かに胸を打つ。著者は小説が書きたくても何らかの事情で書けなかった時期があったらしく、その苦しい時期に書いたエッセイだという。彼女は2016年に『菜食主義者』という作品でブッカー国際賞を受賞している。そちらの作品も読んでみたい。

【5】『本書』(書籍、2014年、著者不祥) 評価不能

 近所の古本屋で見つけて50円で購入。著者名は書かれておらず、断片的なアフォリズムから構成される。内容は、自動筆記によって書かれた哲学的な詩のようなもの、という表現が一番しっくりくる。珍書・奇書の類に属するといってよいだろう。200を超えるセクションが連なり、そのテーマは、歴史(宇宙史を含む)、文学(古事記、万葉集含む)、芸術論(岡本太郎、ゴッホなど)、宗教論、時空論、量子論、演劇論、江戸時代論、人生訓、個人的回想、モノローグ等を網羅する。
 『本書』の一部だけを取り出しても、その不可思議なユニークさは決して伝え得ないのだが、なんとか一端でも伝えるために、いくつかの文章を引用してみよう。

(『本書』より)

 言葉の機能は、二方向の働きで、立体的に表すことができる。

1構築の働き。   主体を仮定し、主体を起点に論理を構成する。
2うつろいの働き。 複数の主体を詰め込むことで、溶解的な憑依転生が自然発動する。

 構築は、言葉の「点と点」を繋げて「線」を創る。
 次に、「線と線」で「面」を創り、「面と面」で「多面体」を構築する。

 うつろいは、言葉の「線」と「線」を交差させて「点」へ還る。
 更に、「面の鏡」を合わせ、心は、「面の扉」へ、映ろい消える。

 全ては現象から始まり、言葉へ転移して、神の名は定まっていく。
 神は、物理現象の人格化された表情であり、名称化された物理法則なのである。
 つまり、神が名を持つ以前に、神の現象は存在するので、神の名を使った神の説明は、二次解釈(複製された世界)に止まってしまう。

 本書は、デカルト哲学を拡張させ、イチとゼロで強制的に二分する。

1私を客観する「我を思う、故に我有り」=空
2私が客観する「我を思う、故に我無し」=無

 我は、1と2を往復し、時を進んでいる。
 イチとゼロは時間を刻み、命の痕跡はイチ(位置)とレイ(霊)の羅列で表せる。
 事実、コンピュータはイチとゼロで構成され、その処理能力は人間を超えた。
 しかし、自らイチゼロ変換できず、永遠に独立できない。
 だから、数学や科学は、正解から少し外れているのだ。
 数式が時空のノイズを見つけても、極みになることはない。
 数字は細かく揺れている。
 例えば、人が三人いた場合を考える。
 客観的に見ると三人だけど、主観的に見ると二人に減る。
 主観的に見ると三人だけど、客観的に見ると四人に増える。
 今後は、憑依の手法を研究することで、数学は動的に温まるかもしれない。

 現実は時として、映画よりも遥かに強く、死者の力が現れるのだ。
 畢竟、実存的な想像力は、死と共に生きる時に発生する。

 戦争の話。
 両親を亡くし、二つの位牌を抱いた女の子が、天皇に語った。

「お父さん、お母さんに会いたいと思うとき、
 み仏の前に座ります。
 そして、そっとお父さん、お母さんと呼びます。
 すると、お父さんもお母さんも、そばにやってきて、
 私をそっと抱いてくれるのです。
 淋しいことはありません。私は仏の子供です。」

 じっと見つめていた陛下は、ゆっくりと歩み寄り、
 二回、三回と、女の子の頭を撫でて、
「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ。」
 と、声をかけ、大粒の涙をハラハラ流された。
 <昭和24年、佐賀県基山町の因通寺にて>

 生命力は死者と共に顔をあげる。
 行幸に付き添っていた記者も皆、泣いた。
 少女は泣かずに、死者に抱かれる。

 死者と接触できる構造について、想いを巡らせている。
 それは、論理的にあり得ないのに、誰も疑問に思わない、論理が働かない世界。
 古代、「隠り世(かくりよ)」を実相としてうつる物理世界を「現し世(うつしよ)」と定義した相補的な二重構造。
 人は、二つの世界の質量で、互いを照らし合わせていた。
 死者を想う時、想念の反影として、物理的な力が現実世界にもたらされる。

 古(いにしえ)の人は、素朴に自然現象を讃え上げ、神を八百万に分散させた。
 だからきっと、今の人も、神を分散できる。
 神が見えなくても平気だ。大丈夫だ、天皇にも見えていない。
 不思議な霊能力はいらない。

 そう。君は檸檬を置き忘れるだけでいい。
 誰でも、儀式的に日常に脱日常を仕掛け、世界を意志的に再生できる。
 但し、この時、脱日常が犯罪に堕ちないように、意識を落としてはいけない。
 むしろ、センスアップしなければならない。
 心が底辺を彷徨っている時にこそ、最も高貴なプライドやモラルが必要になる。

 ほんのちょっとの気狂いが、宇宙的な意味合いを帯びて、とてつもない実感になる。
 これでいい。
 生きていること自体がとてつもなく凄いことなんだから。

 ―でもね、
 自分の心を優しく包めずにいて、祈りの神経(ニューロン)が、怒りの拳に見えるなら、
 真っ直ぐ歩いて、そのまま神さまを殺しに行けばいい。
 そしたら、君はニーチェの超人となる。

 結局、揺らぎを見るのに「箱」はいらない。(註:量子論でいう「シュレージンガーの箱」のこと)
 何かを直に見つめると、主観(ゼロ)と客観(イチ)が入れ替わり、心象は明滅する。

 それで完了だ。

(引用おわり)
 
4年前に自費出版で刊行された、『本書』の存在を知っている人が、この世にどのくらいいるか知らないが、たぶんこの書物について何らかの形でコメントする人間は、世界広しといえどもたぶん僕しかいまい、との考えからここに記した次第。
今回取り上げたものの中で、最もMUGA的なのは、この本かも知れない。

【特別枠】『菊地成孔の粋な夜電波』(ラジオ番組、2011年〜2018年、TBSラジオ)

 東日本大震災の年にスタートし、平成と共に終焉するこの番組は、おそらく2010年代の我が国の象徴的な風俗史の記録として歴史に残る筈だ。
 ジャズ・ミュージシャンであり、文筆家、音楽批評家、その他あらゆる分野を絶妙なウイットとバランス感覚で縦横に語る当代きってのラジオ・パーソナリティ、菊地成孔が、リクエストは一切受け付けず、彼が良いと思う音楽のみをひたすら紹介し、その合間にコントや朗読やバカ話などであっという間に時間が過ぎてしまう。ラジオを聴く習慣のない僕もこの番組だけは毎週楽しみにしていた。社会的事件、ニュース、日常生活の辛いことや楽しいことや苦しいことや憂鬱な出来事のすべてを軽やかに受け止め、エレガントに楽しむ、という術を、この番組で少し学ばせてもらったような気がしている。
 高度経済成長期の日本を生きる人々が「クレイジーキャッツ」の植木等の「無責任一代男」を見て心をスカッとさせたように、超高齢化するポスト成熟社会に生きる鬱っぽくなりがちな我々の心を癒す、平成の植木等的な存在こそ菊地成孔のこの番組ではなかったかと思う。
 コアな視聴者を多数持つこの番組が、今年の終わりをもって突如打ち切られたことは、まったくもって不可解というしかないのだが、ある意味では、不寛容さと窮屈な正義が支配するこの時代の必然と言えるのかもしれない。
 今年最も残念な出来事の一つであった。


●2018年 見たもの、聞いたものベスト5

 土橋数子

【1】『調べ 笙とダンスによる』勅使河原三郎 宮田まゆみ他 シアターΧ 評価★★★★☆

 雅楽で使われる管楽器「笙(しょう)」。奈良時代に中国から伝わった古い楽器だが、もともと笛は人類最古の楽器ともいわれ、人類(ホモサピエンス)どころか、アウストラロピテクスも笛を用いていたのでは? とも言われている。壁画に残る笛と星座。その謎解きは始まったばかりらしい。
 そんな笙の演奏と勅使河原三郎のダンスのコラボ。笙の宮田まゆみはピアノ科出身だが「宇宙と響き合う音楽」を追求して笙にたどり着いたという。まさしく、天から降ってくる細い光を音にしたような笙の音色。暗い照明、割とシンプルな振り付け、天国から降ってくる音に包まれて、会場の方々もなんだか白河夜船……。これぞ夢うつつであった。

【2】『没後40年 生きるよろこび』熊谷守一展示  評価★★★★☆

 東京国立近代美術館で開催された熊谷守一展。“仙人”とか、“悟りの境地のような絵”なんて評されることもある守一の絵。今回は展示数も多く、どの作品も素晴らしかったが、晩年の守一らしい作品が少なかった。熊谷守一美術館のような、守一ワールドにぐっと引きこまれる感じがなかったかな、とも思った。美術館という空間に置かれて、そこからパワーを放つ、というタイプの絵ではないのかも。とはいえ、好きな絵のミュージアムグッズを買い、ご満悦ではあった。

【3】映画『タクシー運転手 約束は海を超えて』チャン・フン監督 評価★★★★☆

 今の日本にはできない表現、韓国のカルチャーに勢いがある理由がわかる気がした。1980年に起きた光州事件を描いているのだか、ほんの何十年か前の政権をここまで批判できる映画を撮れるというのも、日本では考えられない。
 無我表現というより、かなりベタな表現のわかりやすいヒューマンドラマなのではあるが、日本に暮らす人が忘れかけているような熱さに素直に感動した。

【4】漫画『凍りついた瞳』ささやななえ作 評価★★★★☆

 小さい女の子の虐待死事件。今年は私にとって、このような事件が繰り返されないために何ができるか考える日々だった。児童虐待をテーマにした20年前の本作は、このテーマのいわば古典ともいえる作品である。当時は社会派漫画として一世を風靡した。いま読めば、支援のしくみはよい方向に変わっているとは思うが、悲しいかな何も変わっていない、いま読んでも、いまに通じる状況もある。
 原作のルポルタージュを読んでいるとき、漫画家のささやななえは強烈なインスピレーションにとらわれたという。1行読むごとに、それがコマ割りされ完成した漫画原稿として立ち現れ、疲労困憊したらしい。このインスピレーションを得て、当時からベテラン漫画家であった彼女の技術を存分に駆使した凄い作品となっている。
 虐待は悪いこと。誰でもそう思うだろう。福祉や子育ての領域で語られるテーマであるし、現代社会の閉塞感がもたらすものとも捉えられているが、もしかしたら、人類がこれまで生き延びてきた何らかの特性と関係するかもしれないと考えてもいる。クリエイターがそれほどのインスピレーションを受けたのは、人間存在の葛藤を感じたからだと思う。

【5】講演会『虐待と共に生きるということ 被虐待児の語りから』評価★★★★☆

 児童養護施設である聖フランシスコ子供寮にて開催された「虐待と共に生きるということ 被虐待児の語りから」という講演会。フォトグラファー長谷川美祈、被虐待当事者であるinternaReberty PROJECTの企画。自らが受けた虐待を語る。重い話であり、すべてが解決されたわけでもないのだけれど、おそらく一度は言葉を奪われた人が、自分の言葉を紡いで話される姿に力をもらった。
 制度設計する立場の(頭のいい)人も、もっと声として伝わる言葉から感じるものを軸にした方がいいのではないかと思った。


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★編集後記
◎最近は、『奇跡の丘』という映画の影響もあって、クリスチャンではありませんが、福音書を読み返したりしています。シンプルかつ具体的で、力強く、意外性があり、読む度に新たな感動があって、心が洗われる――これこそ無我表現そのものなのかな、という気もしています。これから日々寒くなりますが、温かくしてお過ごしください。(那)

◎今年もあっという間で、1年を振り返る暇もなく、来年がどんな年になるのか、考えている間に来年も終わりそうな勢いです。そろそろ気力体力の衰えに抗う必要性を実感する年齢にもなってきました。来年にはMUGAも100号に達する予定ということで、これからもコツコツ書いていければと思います。ちなみに、「ベスト5」の記事で取り上げた『本書』という本については、書店では入手困難と思われますので、興味のある方はお問い合わせフォームからご連絡いただければお貸しします(一応アマゾンでも中古価格1円で購入できることを発見しましたが)。(高)

◎今年も投稿が時々になってしまいましたが、拙文をお読みいただきありがとうございました。私自身は生活や仕事面で成長ができた一年だったかなと思います。来年はそこに哲学をもって行動できるように努めたいと思います。記事へのリアクション大歓迎です。よいお年をお迎えください。(土)



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創刊日:2011-08-08  
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  • tongo2018/12/16

    ダントツで「見たもの聞いたものベスト5」が良かった。K解読もダイジェスト的(当たり前じゃ!)に読ませていただいているが、今回の本文中「自我は愛をしることができないのです」が気になった。実は岩手県大船渡在住のクリスチャン(カソリック)の山浦玄嗣さんの「イチジクの木の下で」を読んでいて、聖書における「愛」の字義について従来の「愛」の翻訳のおかしさに著述があったからである。450年前のキリシタン和語聖書「ドチリーナキリシタン」には日本語訳に「愛」という漢字訳を使用してはいけないと書いてあるという。「愛」とは(好きになる感情、自己本位的感情という字義だかから)と述べる。現在の共同訳聖書も、明治期における中国語訳からの翻訳に間違いがあるらしい。他に「心の貧しい人は幸いである」の翻訳上のおかしさなど示唆に富む。私の今年の収穫はこの本と同じく同著作者の「ガリラヤのイェシュー」、それにこのブログとの出会いでした。よいお年をお迎え下さい。