芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第82号

2018/05/15

MUGA 第82号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

MUGA表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇詩

那辺の詩  那智タケシ

◇哲学

クリシュナムルティ解読2 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

那智タケシ

◇エッセイ

改めて「のん」について考える

高橋ヒロヤス

◇エッセイ

GDPR(EU一般データ保護規則)によって、
インターネットの「水が変わったとき」は来るか

土橋数子

◇座談会

編集会議 5/10 四谷の事務所にて

自我を乗り越え、世界を波乗りする感覚

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◇詩

那辺の詩  那智タケシ


    原初の創造

 生命の始まりのはじまり
 原初の創造は、今、この瞬間にも起こり得る
 そこはかとない生の曖昧さの中で、
 存在と非在の境界線で、
 高揚と失墜が繰り返される人生の最中で、
 虚無に隣り合った精神の真中で、
 それは、今、この瞬間にも起こり得る
 いや、それが起こり得るということが、
 空漠たる大宇宙に投げ出された
 我々人間の唯一の希望であり、
 巨大な可能性なのである

 原初の創造は、最初、無形のものから生まれた
 何もないところから何かが生まれ
 形なき何かから形が生まれ
 形は寄り集って生命を産んだ
 生命は寄り集って表情を作り、
 精神という名の奥行きを産んだ
 精神は寄り集って高め合い
 その中から新たな創造者を産んだ
 創造者は精神を空にして、
 再び新たな世界を創出した
 こうしていくつもの世界が集い、
 関係し、触れ合い、重なり合い、響き合いながら
 この地に大曼荼羅を作り出し、
 その中から、無を表現する一者を創出しようと試みる

 このような有機的で、玄妙な法則によって
 今、この瞬間も、
 至る所で何かが生み出されている
 社会において挫折し、
 無価値の刻印を負った人々の中からも
 このような偉大な創造が起こり得るし、
 わずかだが、実際に起こり続けている
 曖昧で、何者でもない、
 名もなき人々の中から、
 今、このような原初の創造が起ころうとしている
 彼らが手にした生命は
 いずれ潤いを帯びた花になり
 その人の生を彩るだろう
 

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◇哲学

クリシュナムルティ解読2 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

    那智タケシ

※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。ただし、この極めて非凡な宗教的哲学者の著作に触れる機会がなかったり、その理解に高いハードルを感じる方のために(本メルマガの読者は既に十分に理解されている方も多いと思いますが)、現代の事象や、具体的問題に照らし合わせながら、できるだけ身近な、自分の言葉で解読を続けていきたいと思います。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので(あまり脱線しないようには気をつけますが)、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。


第2章 私たちは何を求めているのか 神を発見する旅に出る前に、まず自分自身を理解すること

 クリシュナムルティ(以下=K)は、徹底的に自己認識の重要性を説いた人でした。精神的指導者や、教師、ある種の組織、観念的体系、イデオロギーなどを信じて安住しようとする自我の逃避的行為を直視し、「まずはその逃避的行為自体の働き自体を理解せよ」と説きました。その求道的かつ逃避的な自我の働きそのものの理解の中に、精神の解放があることを見抜いたのです。

 それが究極の悟りを開いたと自称する導師であれ、素晴らしく感動するお説教であれ、有機的で精緻な理論であれ、世界全体を包含するように見える観念であれ、様々な瞑想法であれ、特定の人物やメソッド、一つの体系によって人をある特殊な状態や、解放、完成に導くとされるシステムそれ自体への傾倒が、自我の逃避的行為そのものであり、あるがままの真実からの分離であると指摘しました。

 指導者の境地や、理論、メソッドそれ自体の効果・価値はさておくとして、まずは、自分の外に絶対的な真実と解放を求めてさ迷う自我のあり方それ自体を理解することなくしては、すべては真実からの逃避になってしまうと言うのです。

 重要なのは、解放の出口を求めてさ迷う「自我の働きそれ自体」であり、その「理解」こそが真実そのものだということです。つまり、自己認識こそがスタートであり、ゴールでもあるのです。問題と真実はあなたの胸の中にあるのですから、それ自体に取り組むのが最も理に適っているということです。自分の胸の中の苦しみを理解するために、わざわざインドにまで行く必要はないのです。問題は、誰よりもあなたに最も近い距離にあるのであり、誰か他の人がその胸の苦しみを手に取って、代わりに手取り足取り解消してくれるわけではないのですから。

 ソクラテスには「汝自身を知れ」という格言があります。「自分が何を求める、どのような存在であるのか」という自己認識の土台なくしては、真実の探求というものはすべて、あるがままの自分からの逃避になってしまいかねない、ということです。ですから、求道の始まりはあなたの内的問題であり、終わりもまたその内的問題に自ら直接的に取り組むことなのです。

 求道の道に入る動機には、様々なものがあるでしょう。上手くいかない人間関係や、アイデンティティの確立の悩み、実存的虚無感の問題、自己実現の挫折、病気や貧困、様々な精神的苦しみ・・・これら具体的な苦しみの根底にあるのは、「あるがまま」でいられない、いることを許さない、という社会からの「こうあるべき」という条件付けだと思います。競争を強いられ、社会的に何ものかであり続けなくてはならないというプレッシャーが、今、多くの人を苦しめているのです。こうした社会の中で、人は知らずしらず「あるがまま」からの分離を強いられ、虚無感や、挫折感、自己否定感に苛まれているように見えます。

 だからこそ、この資本主義社会で上手くいかない、あるいは上手く生きられない人ほど俗世の価値を越えた絶対的真実を求めるようになるのですが、そこには一つ落とし穴があります。「あるがまま」の自分を理解するのではなく、「それ以上の存在と一つになりたい」「何か特別な存在になりたい」という社会から教え込まれてきた「あるべき」への条件付けが、再びそこに顔を現すのです。それは姿を変えた成功願望であり、結局、「あるがまま」からの逃避であり、分離の道です。

 こうした求道は大抵の場合、「凡庸で、何者でもなく、不安定な自分から逃避したい」「自分以上の存在になりたい」「特別な私になりたい」という願望と一つになって、求道や修行を続ける中で、何かを達成したと思えば思うほど、あるがままの真実から遠ざかるというパラドクスとなります。

 ですから、外部に真実を求める求道というものは、残念ながら安心立命の道になりません。一時はゴールに至ったと感じたり、高揚感を覚えても、「あるがまま」の真実という土台なくしては、心が休まりませんから、どこか不安です。表面は取り繕っていても、どこかで落ち着かないのです。それで、ふらふらと様々な教師の元を行ったり来たりしたり、ある種の観念の中に逃げ込んで自己洗脳をしたり、下手をすると知らず知らず他人のエピゴーネンになって、定型句のような言葉や観念を自分の言葉のように繰り返すようになります。様々な情報に満ち溢れた現代社会においては、こうした求道は、むしろ人を凡庸にしてしまいかねない、実に危険なものなのです。それをやればやるほど、「あるがまま」の真実から遠ざかり、自我を強化して、戻ることが困難になってしまう可能性さえあるのですから。

 なぜ、自分は真実を求めるのか? 救われようとするのか? 

 その最初の働き自体を正確に見つめ、刻々とトレースしながら、本当の自分を理解することが真の自己解放の道の最初の一歩です。あるがままの真実という土台がなければ、どれだけ様々なメソッドを学び、修行をしても、すべては空中楼閣のようなものに過ぎません。理解すべき真実は、今、目の前にあるのですから、それを一つひとつ解きほぐし、理解することから始めればいいだけなのです。
 
 Kの言葉を引用してみます。

『たとえば、私たちが心の平安を求めている場合、それはいとも簡単に見つけ出すことができるでしょう。何らかの主義や思想に盲目的に自分の身を捧げ、その中に避難することはできるかもしれません。しかし、明らかにそれでは問題の解決になりません。一つの思想に閉じこもって孤立するだけでは、闘争から解放されたことにはならないからです。したがってどうしても、外面的にも内面的にも、私たちがめいめい何を望んでいるのかをまず見い出さなければならないことになります。この点さえはっきりしていれば、わざわざ教師の言葉を求めたり、教会へ通ったり、いろいろな組織を訊ね廻る必要もなくなります。この場合、まず私たちが解決しなければならない問題は、自分の意図を自分の心の中で明確にすることではないでしょうか。これが一番難しい問題なのですが。』(P19)

『ところで私たちはこの問題に明確な解答を出すことができるでしょうか。またその明確さは、探求したり、あるいは、上は最高級の導師(精神的指導者)から、下はすぐ近くにある教会のごく普通の牧師まで含めて、誰か他人の意見を探し廻ることによって生まれてくるものでしょうか。またそれを知るために他人のところへ行く必要があるのでしょうか。私たちは皆、そういうことを常にやっているのではないでしょうか。私たちはおびただしい数の本を読んだり、集会に参加して討論したり、いろいろな組織に加わったりして、日常生活の中で起こる闘争や悲惨の救済策を発見しようとしています。あるいは、それを全部試みてみないにしても、私たちは求めていたものをすでに発見してしまったと考えるのです。つまり特定の組織なり導師なり書物などが、自分を十分満足させてくれたと私たちは言うのです。そしてその中に私たちの望んでいるすべてのものを見つけ出して、結局、一定の型にはまり込み、自分の周囲に壁をめぐらしてしまうのです。そうではありませんか。あなたは。』(P19〜20)

『私たちはたいてい、心の中で何か恒久的なもの――すがりつけるもの、確信や希望や、持続する情熱、安心感などを求めているのではないでしょうか。なぜなら私たちの心は全く不安定だからなのです。私たちは自分自身を知らないのです。私たちは事実や、本の中に書いてあることはたくさん知っていますが、物を介さずに、自分自身の力だけで知ったり、自分で直接体験することがないのです。』(P20〜21)

 Kの言葉は、一見、取り付く島がありません。容赦がなく、逃避的な働きを続ける自我そのものに突き刺さってきます。真実を知っている誰かや、理論、組織に逃避するのではなく、あるがままの自分自身を見つめ、理解することでのみ、真の解放があると説くからです。真実というものは、誰によってでもない、自分自身でしか見つけることはできないし、その方法もありはしない、と言います。

「そんなことを言われても、どうしていいかわからない」「あるがままの自分を見つめるとか、理解すると言っても具体的にどうすればいいのか?」「その方法を教えてください」と人々は口をそろえて言います。これが「クリシュナムルティは難解だ」「真実であっても、方法がないから実践することはできない」などと言われる所以です。しかし、それは難解であるわけでも、方法がないからでもなく、ただ単に、「あるがままの真実を見たくない」という現代人の肥大化した自我の働きによって、そう感じているに過ぎません。

 問題は、今、この胸の中にあるのです。ただ、それをそのままに見ればいいだけです。そこから離れずに、ひたすら追いかけていくだけでいいのです。今、この瞬間も動き、変化している自分の心の働きを正確に見つめ、追いかけ、それと一つになり続け、それが観たくないものであっても、受け入れたくないものであっても、自分自身を偽ることなく、そのままを受け入れて、生活の中で素直に表現していけばいいだけなのです。

 不安だったら「不安だ」と言い、苦しかったら「苦しい」と言い、「悲しかったら」悲しいと表現しましょう。嫉妬していたら「嫉妬している」ことを認めましょう。あるがままの自分自身であり続け、その上に立って、自分を偽らずに生きるのです。するとそれが習慣になり、いつの間にか、観ているものと観られているものは一つになり、追いかけているものと追いかけられているものは一つになり、二元対立の分離がなくなって、気づけば、あなたは真実そのものを生きていることになるはずです。

 真実と共にあれば、それがどんなに無様で、格好悪いものであったとしても、人は自ずと心の静謐を取り戻すでしょう。いや、取り戻さざるを得ないのです。なぜなら、本当はそれ以外にはないということを知るからです。何かどこか隠れた場所に別の自分があるとか、真実の絶対的な我があるとか、永遠普遍の悟りの境地があるとか、それを求めなくてはならないから今は未熟だとか、どこどこに解脱した本物のグルがいるとか、成功した自分にならなくてはならないとか、そういう「あるべき」への理想が終われば、「あるがまま」から離れようとする葛藤の働き・作用がなくなるからです。

 「あるがままのそれ」しか真実はありません。ですから、それを生き、それに触れ続けることでこそ、それを変容するチャンスもまたあるのです。それを変えることができるのは、どこかの高名な誰かではなく、それと共にあり続け、直接触れることのできる、あなただけなのです。

 「あるがまま」と共にあれば、「あるべき」や、「なりゆく」という最大の葛藤から人は解放されます。もしかすると、その静けさの中に、「あるがまま」の自分以上の何かかが宿ることもあるかもしれません。いえ、きっと何かが宿る瞬間があることでしょう。Kの瞑想や、それにまつわる神秘というのは、実はこうしたシンプルなもので、そこに何かの秘密があるわけではありません。神秘というものは、難解で、高尚な観念にではなく、こうしたシンプルな、あるがままのものにこそ宿るのです。にもかかわらず、「あるべき」という理想の達成に縛られた我々は、それをそのままに見たがらないのです。人は、「真実を知りたい」と口にしますが、「真実の自分自身を見たい」とは決して言いません。

 様々な新興宗教や自己啓発・スピリチュアルのセミナーは、「永遠普遍の真実」や、「絶対平安の悟り」といったものを提唱しながらも、この逃避や慰安、社会での成功をほのめかし、真実の言葉とブレンドして自我に働きかけ、多くの人を集めています。しかし、本当は他人の言葉やメソッドではなく、苦しめている当のものそれ自体の理解の中に、真実と解放があるのです。だから、問題は単純なのです。

 Kは繰り返し、「それ自体を理解し、変えなさい。それで終わりです」と言いました。確かに、その通りです。不安を解消したいなら、今、自分の胸の中にある、不安そのものにそのままに取り組み、理解することが第一です。しかし、人はどうしても不安そのものに当たらず、不安を解消してくれるメソッドや、自分を癒してくれる観念や、精神を安定させる呪文のようなものや、他人の言葉の中に救いを求めます。「自分の内部をいきなり見つめことは難しいから、まずは松葉杖が必要だ」と言うのです。今、目の前にある花を見るのに、スマホの画像を見たり、ネットで花の名前を調べたり、いつか花を観に行くために観光地を調べたりして、そこにある花をそのままに見ようとしません。

 この逃避構造は、自分自身の自我の働きを見つめ、正確にトレースしていけば、自ずと理解できることと思います。とにかく、人は真実を見たくないのです。あるがままの自分を見たくないし、認めたくないのです。しかし、その逃避の働きそれ自体が「あなた」であり、「真実」なのです。逆に言えば、「今、逃避しているな」と気づいたら、それは即座に逃避をやめて、静謐を取り戻すことでしょう。

 Kの言葉に戻ります。

『それでは、この求めている人と、求められている対象とは違ったものでしょうか。「私は幸福を求めている」というとき、求める人とその対象は別のものでしょうか。また考える人とその人の考え――思考――とは違ったものでしょうか。それらは別個の過程というよりはむしろ、一つの一体化した現象ではないでしょうか。従って、求める対象を発見する前に、それを求めている人間、すなわち「私」を理解することが、とりわけ重要なことではないでしょうか。』(P22)

『自分自身を知るということ――この大切なことを私たち人間は無視しがちです。自分自身を知ることこそ、何かを築きあげることができる唯一の土台なのです。これは自明の理ではないでしょうか。ですから、私たちが何かを建設したり変革する前に、また非難したり破壊したりする前に、まずあるがままの自分を知らなければならないのです。従って何かを求めて歩き廻ったり、指導を求め、次から次へと導師を変えたり、ヨガとか腹式呼吸とか礼拝をしたり、師と言われる人の後を追ったりすることは、すべて無益なことではないでしょうか。私たちが信奉しているその人が、「あなた自身を分析しなさい」と言ったとしても、それには何の意味もありません。なぜなら、私たちのこの姿が、そのまま世界の姿なのですから。もし私たちが、けちで、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であれば、その通りのものを私たちの周囲に生みだし、それが私たちの住む社会になるのです。』(P23〜24)

 実は、Kは、ごく当たり前のことを言っているに過ぎません。俗な言葉で言えば、「素直な、自分自身であれ」と言っているだけです。自分自身のそのままを見つめて、それからぶれることなく生きていけば、人は真実の生を生き、真実に基づいた人間関係を築き、そこから新しい社会のあり方が生まれることになる、ということです。

 現代社会は「あるがまま」の真実ではなく、「あるべき」という観念を土台にしているために、多くの軋轢や差別、経済格差、戦争、テロリズムなどの様々な問題を抱えてしまっています。そのほとんどが、「あるべき」によって条件付けられ、肥大化した自我の集積と争いによるものなのです。ですから、もしもあなたが自分を救い、この世界を少しでもより良いものにしたい、と願う真摯な人間であるならば、最初に取り組むべきは、この自我の問題であり、それを解消することであって、「特別な自分」「真実の自分」になるための努力ではないということです。

 禅語には、「柳は緑、花は紅」などと言う言葉があります。これは「柳は緑であり、花は紅である」と言うだけのことで、「あるがままのそれ以外のものではない」ということです。道元禅師の有名な言葉には「眼横鼻直(がんのうびちょく)」などと言うものもありますが、これは「眼は横に付いていて、鼻は縦に付いている」それ以外のものではないということです。これはKが言うところの、「観るものと観られるものは一つ」と同じ意味です。そこには、「あるがまま」のものしかないのです。他に余分なものは何もないのです。付け加えることも、装飾することも何もありません。すべては完璧で、事足りています。

 「あるがまま」の現象しかないわけですから、実は、その「あるがままの働き自体」が神秘なのです。それを自覚してしまえば、恒常的な平安の境地を求めるとか、特殊な神秘体験を追い求めるとか、そうした絶対的なものを求めるという「あるべき」への願望は終焉します。あるいは、自分以上の存在になりたい、という逃避的願望が終焉します。それが「自我の終焉」ということです。もしも、目の前に展開する「あるがままのもの」それ自体が神秘となるとしたら、そこに何か彩った観念や、特別な意味を付け加える必要はないのです。

 「あるがまま」と共にあるということは、固定的な「私」の終わりも意味します。なぜなら、その「あるがまま」とは自他の関係から生まれる感情や、事物の働きそのものであり、その働きと共に生きる時、あなたは「世界」となっているからです。そこには、流動変化して、生成消滅し続ける「あるがまま」しかないのです。だからこそ、仏教ではすべては縁起から生成隆起する刹那の現象であり、「無我」を唱えます。固定的で永遠普遍の事物は存在しない、すべての事物に実体はない、という諸法無我を言うのです。

 しかし、この「あるがまま」の中には、すべてがあります。単純に見えて、世界の働きそのものですから、そこからどんなものでも引き出せるし、理解することも無限にあるのです。どんな境界線もありませんし、地平線も、限界もありません。意外な、未知なる存在に出会うこともあるかもしれませんし、まったく新たな自分を発見することもあるかもしれません。思考を超えた冒険の舞台であると同時に、自分独自の生を描き出し、表現する、果てしなく広大なカンバスでもあるのです。最初は、ちっぽけな自分に気づくことから始まるかもしれませんが、そこから初めて、どこまでもどこまでも拡がって行く可能性がある創造的な道でもあるのです。

 最後に、この章の最後にあるKの言葉を引用して終わります。

『あなたは自分自身を知れば知るほど、はっきりと物事が見えるようになってきます。自己認識には終りというものがなく、目的を達成することも、結論に達することもないのです。それは果てしのない河のようなものです。それを学び、その中に深く突き進むにつれて、あなたは心の平安を見出してゆきます。自らに課した自己修練によってではなく、自己認識を通して精神が静寂になったとき、そのときにのみ、その静寂と沈黙の中から、真の実在というべきものが誕生しうるのです。またそのときにのみ、無上の至福と創造的行為が生まれます。このような理解も経験もなしに、ただ本を読んだり、講演を聞いたり、宣伝活動をしたりするのは、全く子供じみたことであり、たいして意味のない行為だと私には思えるのです。それに対して、もし自分自身を理解して、そこからあの創造的幸福と、頭脳から生まれたものではない、あのあるものを体験することができるならば、そのときにこそ、私たちの周囲のものとの直接の関係の中に、従って私たちの住んでいる世界の中に、変革をもたらすことができるのです。』(P.26)


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◇エッセイ

改めて「のん」について考える

高橋ヒロヤス

所属事務所との契約を解除してから(事務所側ではまだ解除を認めていないようで陰日向に圧力が続いているようだが)、自分の事務所を作り(会社の社長になった)、『この世界の片隅に』で声優として数々の賞を受賞し、自らのバンドを結成し、自らのレーベルを作り、レコードデビューを果たし、精力的にライブを行い、美術作品の個展まで開いている、「創作あーちすと」のん(本名能年玲奈)。

彼女の特異な才能と存在感には、MUGAも注目して、過去に何度か取り上げてきた。

テレビやメジャーなメディアしか見ない平均的な視聴者からすれば、一見すると表舞台からは姿を消してしまったかのようにも思われるが、今でも彼女を支持する業界関係者は多く、特に音楽関係者は、矢野顕子、高橋幸宏、大友良英をはじめ、強力なアーティスト達が彼女の活動を支援している。

これまでの彼女の活動は、いくつかの点で非常にユニークであり、日本の芸能史上前例がないものといっていいのではないか。

まず、元々国民的ヒロイン(言わずと知れたNHK朝ドラの金字塔『あまちゃん』の天野アキ)としてブレイクしながら、その直後に事務所とトラブルになり、事務所を辞めてしまったこと。

次に、辞めた後に芸能活動を休止するのではなく、むしろ自分のやりたいことを、のびのび生き生きとマイペースで行っていること。

そして、そのマイペースな活動が、業界内外の多くの人々から熱く支持されていること。

のんは、事務所独立後、自らのホームページ、ブログ、インスタグラム、LINEライブによる動画配信などのSNSを駆使して、リアルタイムに自分の活動状況をファンに報告し続けていて、テレビには出(れ)なくとも、SNSを活用して、固定ファンをがっちりとつなぎとめている。

これまでエンターテイメントの王道であったテレビの圧倒的な力が、インターネット・メディアの台頭によって揺らぎ始めている状況にあって、彼女の方向性は時代の流れにもマッチした新鮮なものに感じられる。

自分は基本的に、SNSというものは自我(エゴ)表現を促進するだけのツールであるとして否定的な見方をしていたが、「のん」の活動を見ていると、表現主体の姿勢と使いようによってはSNSも無我表現の有力なツール足りえるのだと認識を新たにしつつある。

子供たちが将来なりたい職業の上位に「ユーチューバー」がランキングされたというニュースが注目されたのは記憶に新しい。多数の、それも子供や若い世代が憧れを持つ存在というのは、時代が無意識のうちに必要とし、求めている新たな価値観を何らかの形で提示しているものだろう。

話は脱線するが、自分が最近ずっとハマっている将棋の分野においても、ユーチューブなどによる動画配信が、これまでになかった表現形式を生み出している。

プロ棋士になるには、「奨励会」という養成機関で激烈な競争に打ち勝つことが必要とされる。アマチュアのトップクラスが、やっと奨励会の最低級位で入会されることを許されるが、いつまでも会員でいられるわけではなく、年齢制限があり、26歳までにプロ(四段)になれなければ退会を余儀なくされる。

特に、四段への昇進をかけて争う「三段リーグ」の厳しさ、過酷さ、そこから脱落した若者たちの人生については、大崎善生氏のノンフィクション『将棋の子』にリアルに描かれている。

奨励会を去った者たちは、その後の人生を、一種の落伍者として、敗北感を引きずりながら生きていく、というのが現実であった。中には、61年ぶりにプロ編入試験が認められ、いったん奨励会を退会しながらもアマチュアからプロ入りを果たした瀬川晶司氏のような存在もいるが、それとて、プロ棋士になるのが最終目標であるという事実には変わりがない。

しかし、最近になって、元奨励会員が、自ら動画配信サイトを立ち上げ、プロの棋譜を解説したり、自分のネット将棋リアルタイム棋譜を紹介する等の動きが出てきている。彼らは、ネット配信という新たな表現方法を得て、自らの存在価値を否定することなく、将棋普及に努め、それを生きがいにするという人生の選択肢を得たといえる。

「のん」の話から脱線してしまった。

彼女が何よりも注目を浴びたのは、女優としてのユニークな存在感であったことは疑いない。しかし、独立後の彼女は、事情により女優としての活動を封印せざるを得なかったということもあり、冒頭で述べたように、音楽、美術などの分野で積極的に表現活動を行っている(映画評論や書評などの文筆活動も行っている)。

これらの活動はすべて彼女自身の発案、イニシアチブで行われており、事務所が用意したお仕着せのタレント活動とは対極に位置するものだ。

地上波テレビで活躍するタレントたちが日々、さまざまなスキャンダル攻撃に晒され、ちょっとした発言がネットで炎上し、一斉攻撃の的となってしまい、自由な発言が許されないような息苦しい様子を見るにつけ、「のん」のゲリラ的で自由奔放な活動ぶりは痛快だし、彼女自身の資質にも合っている気がする。

何よりも嬉しいのは、日々発信される彼女の表情が、以前の純粋さと無垢さを保ち続け、いささかの曇りも感じさせないことだ。

以前、MUGAの記事の中で、「能年玲奈の<無垢>がいつまで続くのかなんて考えても仕方がない。今は彼女の<無垢表現>を毎朝見ることができればそれでいい」(MUGA第25号、2013年8月)と書いたが、いろいろあった5年後の今も、彼女の<無垢表現>は健在である。しかも、よりパワーアップしながら。

これからも「のん」の動きに注目していきたい。
以上

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◇エッセイ

GDPR(EU一般データ保護規則)によって、
インターネットの「水が変わったとき」は来るか

土橋数子

GWに昔ばなしが読みたくなって、久々に『スーフィーの物語』(平河出版社)を引っ張りだしてきた。1996年発刊の書籍である。
序文には「過去一千年以上にわたって記録されてきたスーフィーの導師や諸教団の教えが、この本には収められている」「ペルシァ、アラビア、トルコをはじめとする、さまざまな国の古典文学や伝統的な教えの書、さらには現在でもスーフィー教団で用いられている口頭伝承から集められたものである」「精神的な修行のために用いられている素材もあれば、過去の偉大なスーフィーたちに霊感を与えた重要な文学作品からの引用も含まれている」とある。  

例えば、こんな話。(P24より引用)  
――水が変わったとき――
 昔々、モーセの師のハディルが、人間に警告を発した。やがて時がくると、特別に貯蔵された水以外はすべて干上がってしまい、その後は水の性質が変わって、人々を狂わせてしまうであろう、と。  
ひとりの男だけがこの警告に耳を傾けた。その男は水を集め、安全な場所に貯蔵し、水の性質が変わる日に備えた。  
やがて、ハディルの予言していたその日がやってきた。小川は流れを止め、井戸は干上がり、警告を聞いていた男はその光景を目にすると、隠れ家に行って貯蔵していた水を飲んだ。そして、ふたたび滝が流れはじめたのを見て、男は街に戻っていったのだった。  
人々は以前とまったく違ったやり方で話したり、考えたりしていた。しかも彼らは、ハディルの警告や、水が干上がったことを、まったく覚えていなかったのである。男は人々と話をしているうちに、自分が気違いだと思われているのに気づいた。人々は彼に対して哀れみや敵意しか示さず、その話をまともに聞こうとはしなかった。 
男ははじめ、新しい水をまったく飲もうとしなかった。隠れ家に行って、貯蔵していた水を飲んでいたが、しだいにみんなと違ったやり方で暮らしたり、考えたり、行動することに耐えられなくなり、ついにある日、新しい水を飲む決心をした。そして、新しい水を飲むと、この男もほかの人間と同じになり、自分の蓄えていた特別な水のことをすっかり忘れてしまった。そして仲間たちからは、狂気から奇跡的に回復した男と呼ばれたのであった。 
(引用おわり) 

この本の訳者、美沢真之助は隅田川乱一というペンネームも持っていたライターで、町田康の師匠的存在と目される人物。アンダーグラウンドカルチャーの世界では知る人ぞ知る人。すでに故人であるが、入院していた病院では彼の病室に人生相談で訪問する看護師が引きも切らず、亡くなったときには病院中の看護師が涙したという逸話もある。
美沢氏はあとがきの中で「想像してみるに、これらの物語は、一般的な文学のようにその世界が完結しているのではなく、意味的に開かれており、解読されるのを待っている。」と書いている。これこそ昔ばなしの魅力の一つだろう。
本書のあとがきには、美沢氏が雑誌に連載していたこの翻訳原稿を出版社に紹介した人物が武邑光裕だとし、彼のことを「ハディルのような不思議な人物」と評している。ハディルとは緑色の男という意を持つ神秘的な導師のことを指す。

さて、1996年の発刊本のあとがきにその名を残している武邑光裕は、こちらもヒッピーカルチャーやカウンターカルチャーに出自をもつ人だと記憶しているが、調べてみたら、ドイツに移住し、非常に現代的なテーマに関わりながら活躍されていた。

それは、この5月25日EUで施行されるGDPR(EU一般データ保護規則)というインターネット上のプライバシー保護法律である。さすが、美沢氏をして“導師”と言わしめた人物、内容がめちゃくちゃ面白く、かつ希望のあるリポートを執筆されていた。

●GDPR データとインターネット〜EUが描く未来 
https://wired.jp/series/gdpr/
全6回からなる連載。資本主義経済社会の転換期をルターの宗教改革から遡りつつ、カウンターカルチャーから派生した1996年のアメリカの「サイバースペース独立宣言」(後述)。しかし、SNSの広がりと共に、その志に反して、インターネット上の文化はシリコンバレーのがめついやり方で「プライバシーの死」が宣告された。私たちのプライバシーはビッグデータとなり、それらの情報を金に換えて儲けるFacebookやGoogleなど巨大IT企業に人類の富が集中した。

例えば、上記連載にはこのような記述がある。
(GDPR データとインターネット〜EUが描く未来より抜粋)
米国のインターネット巨人が「無料」を継続し続ける理由は、個人データ蒐集のからくりだけではない。ユーザーへの非課金こそ、反トラスト法の断罪を逃れる手段であり迂回路だからだ。つまりサーヴィスの価格変動は寡占企業が支配するという、独占禁止法の訴求を逃れるためにも「無料」が重要なのだ。
(抜粋おわり)

私たちは無料がイイネ、楽しいね、とやっているうちに足元をすくわれたのだろうか。

EUで動きだしたGDPRは、その流れに抗うプライバシー規制のルールであり、「EU対シリコンバレー」という構図で見せられれば、この記事を読んでいる限りは、EUさんに声援を送りたくなる。(Googleさんにはお世話になっているのだが)

しかも、武邑氏によると、GDPRは1996年の「サイバースペース独立宣言」(ジョン・ペリー・バーロウ)とも共振しているという。

ジョン・ペリー・バーロウはインターネット業界の著名人で、サイケデリックバンドもやっていたそうである。
1996年までのインターネット、つまり物質を伴わない「サイバースペース」では、現実社会の「財産や表現や主体性、運動や脈絡の概念」は当てはまらず、自由をめぐる諸状況も、現実社会と同一ではない。その「サイバースペース」の自由をバーロウはこう言い表している。

「我々は、人種や経済力、軍事力、出生の地位による特権や偏見なしに誰もが参加できる世界を創りつつある。我々は、誰もがどこででも、どれだけ他に類をみないものであっても、沈黙や服従を強いられる恐怖なしに、その彼や彼女の信念を表現できる世界を創りつつある。」(サイバースペース独立宣言より)

しかしながら、インターネット創世記における「フリー&シェア」の理念が、新たな結局巨大企業への富の集中を産み出すというパラドクス。「誰もが自由に発言できる」ことで現実の国境などを超えた創造的なネットワークがつくられるはずだったのが、ネトウヨの巣窟に……。哲学を持たないまま道具だけ手に入れた猿状態になってしまったようだ。

経済会では、GDPRの日本への影響についてこれからしばらく論じられると思うが、いろいろな意味で、水は変わっていくと思う。インターネットという道具を、1996年に夢見たように、良いツールとして使っていけるかどうか、変化のしどころなのかもしれない。

上記の物語は最後に水を飲んだ人が教えを破ったのか、それともヘンなこだわりで狂気に陥っていたのか、なんとも解釈しようがない。でも少数派の私としては、「へんな水を飲んでみんながくるってしまった世界」から、また次に水が変わるときがきたとき「タダですよ」と言われてうっかり飲まないようにしようかな、などと思っている。

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◇座談会

編集会議 5/10 四谷の事務所にて

自我を乗り越え、世界を波乗りする感覚

 那=那智タケシ(MUGA研代表・作家、ライター)
 高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
 土=土橋数子(ライター)

●一人の強者ではなく、百万人の大衆の時代

 那 さっきまで現代の問題って、何が最大の問題なのかね?って話していたんです。
 高 アンテナがもう錆びてきちゃって。何に注目したらいいのか、と。
 土 今、価値観が変わってきているらしいですよね。よくわからないですけど(笑)
 那 大衆の時代という話はしていたんですよ。大衆が良し悪し、善悪とかを決める。山口君の事件とかも。TOKIOの。
 土 ああ……
 那 こいつは悪いとか、この作品はいいとか、匿名の大衆が神になっちゃった時代で、本物が逆に埋もれちゃうというか。『君の膵臓を食べたい』が最高傑作で、理解できない文学作品はたいしたことない、とか。そういう時代になっちゃっていて、文化の衰退が・・・とか、そういう話をしていたんですけど。みんな大衆に気を遣って、著名人も、北野たけしでさえちょっと気を遣いながら話さなくてはならなくちゃいけない時代。絶対的な強い強者、あるいは知識人ではなくて、百万人いる大衆の方が強い時代になっちゃった時に、文化というのは、あるいは善悪、真善美というのはどこに行くんだろう?とかさ。
 土 同価値じゃないですか。一人ずつ発言権があるということになってきてますよね。
 那 ある意味ではね。一見ね。
 土 それで、それはいい面もすごくあると思うんですよ、やっぱり。
 那 誰でも発信できるというね。
 土 うんうん。たぶん、インターネットの黎明期では、もっといい風に使われていくんじゃないかと思っていたのが、結局あまりいい風に使われていない。やっぱり道具っていうのを、ツールっていうのを使い切れなかった感があるんですよね。
 那 道具を使うのは人間だから。いつも思うんだけど、スマホの機能とか、SNSの機能とかみんな言っているけど、それって何のために使っているの?って。その道具って何のためにあるのって思った時に、本当は自分の精神を豊かにするとかさ、世界を広げるためにあるんだろうけど、何かエゴを肥大化させる方向に使っちゃっているって感じで。道具自体は意味なくて、結局、精神じゃないですか?
 土 精神・・・やっぱりその、これまですごく勉強して洞察ある人のひと声と――全面的に100%完璧な人はいないと思うんですけど――、聞きかじりで狭い了見で観た人の一言が同価値になっていますよね。
 那 同価値だね。
 土 ただ民衆の、今までの強い一人の強者じゃなくて、民衆の意見っていうのが反映されていくのはすごいいいから、それで民主主義っていうのがもしかしたらうまく使えたのかもしれないけれども、使えていない現状があるのかな……
 高 衆愚政治というかね。悪い方に引きずられるマイナス面もある。
 那 マイナス面が目立っちゃっている気がしてしようがないんですよね。
 土 TOKIO……
 那 TOKIOにしても。やったことは悪いかもしれないけれど、全存在を否定するような袋叩きじゃないですか。そっちの方が暴力的で怖いと思うけれど、それが暴力だという自覚が叩く側にはない。そういう時代になっている。

●自分という土台で世界に波乗りする感覚

 土 ネット右翼もサブカルのせいで生まれたみたいな論調があるんですよ。元のガロとか、変な漫画とかもサブカルチャーのくくりだとすると、そういうものからその変なネット右翼みたいな核が生まれてきたんだっていう論調があって、いろんなものが、価値観が変わってきていて、何か、今の山口君とかがすごい言われたり、誰かを袋叩きにしたり、一票の価値がアンバランスに感じるというのは悪い側面だと思いますけど。何を言っているのかわからない……
 高 ネトウヨというのもある種の観念に捉われている存在と捉えればわかりやすい存在というかね。あるがままを観ない、あるべきだけを観て物事を判断しているという。他方、純粋な左翼というのはもういないのかもしれないけれど、そっち側の「あるべき」というのがあって、そのためにやっているといえば同じ次元にいると言えなくもない。今回、那智さんが書いた原稿の趣旨で言うと、そうじゃなくて、もっと現実を見るとか、スタートするというのは、そのどちらでもない第三の道。
 那 ノンポリでもない。
 高 ノンポリでもない。何かに捉われている立場ではないっていうのが、一番新しいのかなっていう。
 那 一番難しいんだろうね。何か、「観ればいいんだよ」って言ってしまいがちだけど、やっぱりいろんな誘惑が。情報とか欲望とか。
 高 「あるべき」っていうのがまた、いろいろなところでまかり通っているというかね。
 那 現代に生きていたら、影響を受けざるを得なくて。俺だってそんなの、しょっちゅう揺れているけれども、また元に戻さなくちゃとか。そういう情報の波に、荒波にさらされて。あるいは観念。固定観念。こうしなくちゃいけないっていうさ。
 高 ネトウヨはわかりやすい観念というか。国家とか。そういうわかりやすい観念があるからね。同化しやすいのかもしれないけれど。でも、そういうものからまったく無縁で生きるというのはやっぱり難しいけれど。
 那 無縁ではいられないよね。
 高 無縁ではいられないけど。
 那 縁がある中で、土台がどこにあるかというのをちゃんと確かめながら……
 高 うんうん。
 那 波乗りする感覚。何か、サーフボードで波乗りする感覚が最近あるんですよね。「あるがまま」って。
 高 ああ……
 那 そこに立脚していると波に飲まれないというか。ちゃんと自分の足場になるというかさ。
 土 うんうん。
 那 いざという時でも、波をなんとか乗りこなせるし、普段だったら、ちゃんと道路になっているというかさ。何か、自分というものが立つべき場というのを、中心点を観ていく感覚かなって。勝負とかやっていると、それが見えていないと飲まれちゃったり。ちゃんと自分自身でい続ける。
 高 うん。
 那 例えば将棋とかはわかりやすい。藤井君とやった相手がみんな崩されて、メンタルも崩されてずたぼろになっちゃうと。
 高 うん。
 那 トラウマになっちゃう。自分という足場を崩されてしまうわけですね。でも、藤井君は藤井君でい続けることができる。その差ってやっばりあるんだよね。それを崩し合うという意味では勝負だけど、勝負の場ではそうだけど、実生活においてはちゃんと自分に立脚して生きている人の方が安定感があったり、真実に基づいた発言とか。何か嘘言っているなって人いるじゃん?
 高 うん。
 那 何か嘘っぽいなって。ちゃんとリアルに、本音を吐いている人とは、あっ、この人話せるな、とか。雀荘ではいつも思っているけど、こいつとは話せるな、とか。こいつ気取ってんなっとかさ。何かそこに真実があるかどうかで響きの具合というのが、伝わるものと伝わらないものがある。そのデリケートな差というのが、ネットとかばっかり見ていると何か見えにくくなる。
 高 うん。
 那 一見、いいこと。
 土 うん。
 那 華麗な、華美なことを言うと。成功だ、とかさ。難しいよね、その辺の判別が。ネットって。リアルだとわかりやすいけど。
 土 声が伴わないから、「バカ」って言った時の「バカ」の言い方、ニュアンス、大きさ、小ささも、もう一律に、重みづけがないままに、そのことに対してリアクションして、またその中で思いが拡がっていくというか、捉われていっちゃうというか。
 高 言葉が独り歩きしちゃうっていうのはすごいありますよね。
 土 それはありますよね。
 高 暴走しちゃうというか。
 土 それはメールの時代からそうだったのかもしれないですけど。まぁ、比較的今となってはメールはアナログだから。
 高 怖いというかね。ラインとかどんどん流れていっちゃうし。言葉ってすごい重いというか、残るし、誤解しやすいし、そういうものが扱い方が難しいんですよね。一回出した言葉を取り消すのも難しいし。もうちょっと慎重に言わなくちゃならないことでも、簡単に言えてそれが残っちゃうというのは怖いなって思う。
 那 だから本当は表現力って必要なんですよね。傷つけないような、それでいてちゃんと真実を含んだ言葉というのが。今、誰でも表現者になれるという風になっちゃうと、そういう修練を踏まずに、あからさまに何か言っちゃうというか。それで匿名で相手を傷つけて平気でいるという人たちが増えているというのは一つ問題で。
 やっぱり、表現するというのはそれなりの責任を背負って、それなりの技術とか、気遣いとか、そういうものが本当は必要なんだけれども、そういうものを省いて、誰でも表現できるってなった時に、クッションというか、愛がないというか。それが大合唱になった時に恐ろしい暴力に転じたりすることがある。難しいよね。また解決策が見えない話になったけど(笑)
 土 (笑)
 那 今更本を読もう、とかいう話をしても説得力ないし。読まないでしょ、今。

●「あるがまま」の土台があることで、現象を乗り越えることができる

 高 さっきの波乗りっていう感覚は中々面白いと思ったけど。面白いというか、捉われないっていう。
 那 現象っていうのは波じゃないですか?
 高 うん。
 那 それこそ、実体が、諸法無我で。縁起、因縁によっていろんなものが生まれていくわけで。ただ波の中で、何か浴びたものを落とそうとか、乗り越えようとしても溺れちゃうんですよね。その時に自分というものが立脚する足場というか、サーフボードじゃないけど、そういうものがあることによって乗りこなしていったり、余分なものを足元に落とすことができたり、波乗りで何かを表現していくとか。自分自身でいることで、この縁起の法則の中で何かを結晶化させて表現していくというのができる。自分がいなかったら、いくら「縁起だ」「諸法無我だ」と言っても単に現象だから、意味が、価値が生み出されないというか。自分という存在があって初めて何かが表現できたり。肉体があって。精神があって。それが崩れないように、あるいは凡庸に、いろんな縁起の中で流されないように、ちゃんと自分というものがあっていいと思うんですよね。
 高 うん。
 那 ただそれが、その、絶対的で固定的な核が、波と全然個別の核としての「私」というものがない、というのが仏教の立場で、別にそれを、因縁を合わせて結晶化させる、あるいは表現していく自分という主体性は認めていると思うんですよね。じゃなかったら、出家して、何か世捨て人になって、草花のように生きるしかないわけで。そうじゃなくて、やっぱりこの面倒で複雑な、多様性に満ちた現象世界において何を生み出せるかというのが人間の価値だと思うわけで、それが子育てであれ、芸術であれ。
 土 サーフィンって本当にそういうスポーツですよね。
 那 そう思いますよ。だから、はまっている人はやめなれないんですよね。
 土 調子がいい時と悪い時では全然違うと思うんですよ。何か自分が、上手くいろんなものを集中という言い方は変ですけど、できている時と、何か違う時って、如実にね、乗っている人ってわかっているんじゃないかなって思って。
 那 そうですね。
 土 ダイレクトに。
 那 それこそ自然現象の中心点に立たないと落ちちゃうというか。
 土 うんうん。
 那 究極のバランスじゃないですか。
 高 うん。
 那 だから、ある種、象徴的なスポーツですよね。
 土 波って、私、サーフィンとかやらないんですけど、昔、インドの南の方の海岸に行った時に、スクール水着着て泳いでいたんですけど、めちゃめちゃでかい波が来るんですよ、向こうから。すっごいのが来て、それに対してボワンってジャンプして乗るっていうのでずーっと遊んでいたんですけど、何かすごかったですね、あれは。
 那 インドの波ってすごいんだ?
 土 ちょっと荒れていたと思うんですけど海も。すごい大きな波が来て。日本の海では見られない波なんですけど、一応見張り番とかもいるんですよね。海水浴場だから。それに対してボワンと来たものにグルンと乗るんですよね。自然の中の気持ち良さというのもあるんですけど、何かその、自分自身がスルっとこう、きちんと波に、抵抗とも違う、クルンと巻かれた時の楽しさと言ったらなくて、ずーっとやっていましたね。
 高 すごいね。
 那 それが楽しいと思えたらいいよね。昔、ボディボードちょっとやってたというか。悪友とボディボードをやろうという話になって、一度もやったことないのにウェットスーツまで買って、ボディボードも譲ってもらって、千葉の館山の一番本格的な所にいきなり行ったわけ。一回もやったことないのよ? ものすごいのよ、波が。サーファーとかいっぱいいるわけ。格好だけ一人前で行ったら、もう飲まれちゃって。何回やっても。パドリングするだけでもたいへんで。何か、波がすごいんですよね。快感とか以前に、自然の厳しさに飲まれちゃって。波が痛くて、とにかくヘトヘトに疲れちゃって。それで一回でトラウマになって全部上げるって言って、やめちゃった(笑) 根気がなかったから。でも、あれに乗れたらすごい楽しそうだなって。みんな楽しそうだもん。でも、あんなのできないと思った。
 土 地球全体とあれしているような。物理的には波の中でクルンとなっているんでしょうけれど。
 高 ニュースで、この間、世界最大の260メートルくらいの波に乗ったとかいうのがやっていたけど、ビル10階建てくらいの高さで、世界記録。津波じゃないかっていうぐらい。ああいう瞬間ってすごいんだろうね。
 土 すごいと思いますよ。
 高 世界観変わるだろうね。
 土 サーファーの人も、卓越している人もいるんじゃないかなと思いますよね。
 高 260メートルの波って何処に来るんだろうって。
 土 でも、波って本当に自然のものじゃないですか? 作為的なものではないし。
 那 それこそ、全身が気づきの状態になっていないと乗れないだろうね。本当の一流だと、それがすごい状態になっているんだろうけど。
 土 無邪気に遊ぶこともできるし、何も考えずに。そういう洞察の上で乗っていくこともできるし。
 那 波を求めて世界を旅しているサーファーがいっぱいいるわけだからね。やっぱり魅力が、リアルがあるんだろうね。他に何の欲もなくて、いい波に乗れればそれでいいというさ。すごいよね。

●創造性は文化的蓄積から生まれる

 高 この間、将棋の羽生さんが講演会で、将棋を長年やっていると将棋は理屈のゲームなんだけど、それでも波というか、流れというのがあると最近わかってきましたって言ってたね。
 那 それは雀鬼の影響を受けているのもあるんじゃない?
 高 昔は交流合ったみたいだけど、最近はどうなのかな。講演でそんなこと言ってた。
 那 麻雀は流れのゲームだからね。
 土 麻雀は流れがあるでしょうね。サッカーとかも、うちの夫が言うには、何年の何処どこのチームっていうのが、ものすごい有機的な動きをしていると。美しい有機的な動きを、とか。私は話半分「はぁ」とか聞いているけど、動きが美しいらしいんですよね、流れが。
 那 ヨーロッパのサッカーは、日本のサッカーと比べたらみんな自然に見えてくるくらい、レベルが違うよね。その中でも傑出したバルサみたいなチームもあるけど。個の才能もすごいけどそれが連動した時に、すごい。日本でサッカーがいまいちなのは、そういうものがまだ生まれていないんだろうね。美というか。
 土 監督の問題もね。
 那 監督の問題もそうだけど、個人の能力の問題もあるし。
 土 その価値観がわからなかったわけですよね、例の監督の。それなりの見識者はブーブー言っているわけですよね? 協会に対して。
 那 でも、あの人のサッカーは魅力なかったよね。勝負に辛(から)いんですよ。勝つためだけのサッカーだから。そういう夢を見させてはくれない。さっきの流れとか美とか。結果を出したかもしれない。もしかしたら。一勝くらいはしたかもしれないけど。
 土 あの監督ですか?
 那 予選を観ていても辛いんですよね。将棋で言えば。勝負だけ。
 土 直前に解任されたのはそれも致し方なしって感じなんですか?
 那 いや、それはコミュニケーションの問題が一番大きかったと思うけど。
 高 面白くないサッカー?
 那 面白くないから、視聴率も低かったでしょ? 「日本にはスーパースターはいないんだから、こういう手駒でやるしかない」というね。「苦労しているんだ、メッシはいないんだから」って言うわけ。負けた時にいつもそういう言い訳するわけ。「天才いないんだから」って。そう度々言われたら、何かげんなりしてくるわけ。
 土 ああ。
 那 貧弱な手駒で私は頑張っているんだって言うわけ。でも、それって日本人のメンタリティからしたら、何か夢がないというか。だから、この中で勝つために模索するとこういうサッカーしかないんだ、と。カウンターで縦に速く。創造性なんかいらないんだって言うわけ。極論するとそういうサッカーなの。だから予選を通ったのは偉いと思うよ。今の面子で。夢を見ていたらもしかしたら予選で落ちていたかもしれない。それは良かったけど、そこから先は、未来が見えないサッカー。その辺含めて対話がなかったのだろうけど。結果重視だったら別にあの人のままでも良かったかもしれない。今更もうどうしようもないけどね。今、変わっても。
 高 (笑)
 那 いきなり創造的なサッカーができるわけもない。確かに人材がいないのも事実だし。大谷君はいない。やっぱり野球の方が層が厚いよね。歴史があるから。
 高 歴史があるからね。
 那 歴史なんですよ。競技人口だけじゃなくて。
 高 プロ野球のね、戦後の。
 那 川上、王、長島という人たちがいて、野茂、イチローがいて、大谷君がいる。やっぱり個人だけで傑出しているってことはないんですよね。
 土 そうですよね。
 那 山の上の一人なんですよね。
 高 そうそう、将棋でもそうだよね。
 那 100メートルでも、世界記録の歴史ってさ。ボルトは傑出しているかもしれないけれど、0,1秒ずつ上がるわけじゃないですか? 1秒上がるってことは絶対にない。やっぱりそこに人類が集積してきたものの山の上に立っている人が頂点だから、立っていない人というのは嘘なんですよね。ドーピングでもしているかもしれない。その蓄積過程の上に立っている人たちが天才だから。その蓄積がない所に、雲の上にメッシ以上の天才が日本に生まれるということは中々ない。その蓄積があるのが野球なのかねって。でも、もう遺産に近いけどね。そう思うと今、文化的蓄積というのはできているのかなって。
 高 確かに。
 那 山は積まれているのかなって。むしろ山がならされて、誰でも登れるようになってきている。
 高 平板になってきている。
 那 エベレストなんて登らなくていいんだからって。ドストエフスキーより上を行こうなんて思わなくていいんだから、みんな平野でピクニックしようよって時代になっている気がしますね。
 土 そういう風に捉えていくと、何か、これからの日本って大丈夫なのかなって気がしますね。
 那 まぁ、その平野の中から何か大きな、新しい山が生まれる可能性もあるのかもしれないですけどね。それはよくわからない。でも、個人的には、無謀でも、誰にも見えない所で絶壁に挑んでいる孤独な人たちに共感するし、応援したいと思いますね。


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◎編集後記
 GWは三菱一号館美術館にルドン展を観に行って来ました。前回の展覧会とはラインナップも変わっていて、壁画や花がメインになっていましたが、非常に充実した内容でインスパイアされました。(那)


・ご質問、ご相談、交流ご希望の方は、下記メールアドレス(那智宛て)まで。

greengodjun@yahoo.co.jp

・お仕事のご依頼等は、HPにあるMUGA表現研究会のメールフォームからお願いします。

http://form1.fc2.com/form/?id=e15cc22eb8d41af0


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