芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第77号

2017/12/15

MUGA 第77号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

MUGA表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇詩

例外者たちの詩  那智タケシ

◇特別企画 2017年 見たもの、聞いたものベスト5

◇座談会

自分の生き方(形式)で、情報(内容)を凌駕する


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◇詩

例外者たちの詩  那智タケシ


  失楽園

 目覚めると、一羽の蝶が舞っていた
 シジミの貝殻のように小さな、灰色の羽をひらめかせ、
 大気に消え入りそうな自らの存在価値を必死に証明し、
 眠りこけていた彼に気づいてもらおうとしているかのように、
 無際限な努力を繰り返していた
 あるいはただ単に、
 はかない命をいたずらに燃焼していただけかもしれぬ

 彼は、半身を起こし、辺りを見回した
 丈高い雑草が緑の壁となって、
 疲弊し、傷つき、死にかけた者を守っていた
 緑の中には、黄色や、桃色や、薄紫色の小さな花々が案じ顔で、
 突然、現れた異邦人をそれぞれに心配し、
 何があったのかと、もの問いたげにして頭を傾げ、
 お互いに秘密の言葉でささやきあっていた

 緑の間の丸っこい石の上に、一匹のカナヘビがいて、
 機敏な仕草で、彼の様子をちらちらと盗み見ていたが、
 それは別段、警戒していたからでも
 邪魔者と思っていたからでもなく、
 この黄金世界をかき乱し、面白くする
 道化のような物珍しい存在として、
 何事かを起こすのを期待していたからに過ぎなかった

 野原を取り囲む山や、梢の中からは、 
 小鳥たちの賛美歌が、
 この楽園の素晴らしさを何度讃えても足りないかというように
 幾重にも重なり合い、響き合って、
 広大な空間を満たし、高め、
 何処までもどこまでも広がって、
 彼方にまで届き、天と地の境界線をなくしていた

 太陽は中空高くに堂々と輝き、
 人の手の決して届かないところで
 その力と、美と、権威を顕示していたが、
 その孤高の性格とは相反して、
 懐に留めおけない無際限の愛をもてあまし、
 零れ落ちた自分のかけらを
 名もなき野花や、小さな獣や、弱りきった人間たちにまで与えていた
  
 彼は、まるで初めて直立した人類のように、
 今、ゆっくりと立ち上がった
 すると彼は見守られる者ではなく、見守る者になり、
 許される者ではなく、許す者となり、
 与えられる者ではなく、与える者となり、
 愛される者ではなく、愛する者となり、
 誰かを愛したくなっていた
  
 彼は、何処へともなく歩き出した
 別段、退屈したからでも、居心地が悪くなったからではない
 罪人になって、楽園を追い出されたからでもない
 彼は、誰かを愛するために、自ら六道輪廻の世界に降りたのである
 あえて迷妄の世界に飛び込み、共に苦悩することを選んだのである
 もしかすると、アダムが食べたのは蛇の誘惑ではなく、
 人間の業そのものだったのかもしれない
 

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◇特別企画 2017年 見たもの、聞いたものベスト5


◎2017年 見たもの、聞いたものベスト5  那智タケシ

 今年は仕事に追われ、資料としての本は読んだが、小説などのフィクションはほとんど読んでいないし、映画もそれほど観に行ったわけでもない。結局、アニメやマンガなどのサブカルの中にいくつか見つけた良質なものを紹介することしかできない。しかも、今年の作品ではなく、今年自分が出会った作品という定義で選んだ。創作物の他に、スポーツなどのジャンルからも感動した表現を選んだ。順不同である。

1.『HUNTER×HUNTER』冨樫義博著(集英社)1998年〜連載中
 
 言わずと知れた少年漫画の傑作。自分はアニメから入ったので、台詞の多い原作よりもそちらに愛着があるが、MUGA67号の評論でも書いたように冒険活劇やバトルものとしてだけではなく、人間の想像力が思考の外の世界に届き、時には不気味さ、時には宗教的高みにまで到達してしまっていることに驚嘆した。勧善懲悪とも、単純な努力、友情、勝利ものとも違い、人間の業や、愛と憎しみ、葛藤、超克といった、文学的テーマも包括する巨大なスケール。天才の想像力が自由に、遺憾なく発揮された少年漫画の金字塔。自分が出会うのが遅すぎた。漫画やアニメに偏見がある人にもとっつきやすく、未見ならお勧めです。

2.『ヨコハマ買い出し紀行』芦奈野ひとし著(講談社)1994〜2006年 全13巻

 地球温暖化が進み、海面上昇が進んだ近未来。「お祭りのようだった世の中」がゆっくりと落ち着き、のちに「夕凪の時代」と呼ばれる近未来の日本が舞台とされている。人類の文明社会が徐々に衰退する中、初瀬野アルファという少女(人間そっくりなロボット)がほとんど客の来ないような三浦半島の岬でカフェを営む日常をつづる。タイトルは、時々、横浜にコーヒー豆を買出しに行くから、というだけのもの。テーマに比して、ほのぼのとしたタッチで悲壮感がなく、おだやかさと神秘、機械が交錯する不思議な空気に満ちた作品。心の中にゆっくりと染み込んで、目立たなくても大事なものとして何処かに残るような、忘れられない何かがある。

3.ワシル・ロマチェンコ ウクライナ出身のプロボクサー 元WBO世界フェザー級王者現WBOスーパーフェザー級王者 

 ボクシングマニアなので、今年の衝撃ということでこの天才ボクサーを挙げたい。この人のスタイルによって、再びこの競技の可能性が更新された。アマチュアボクシングでは史上最高の選手とされ、北京オリンピック、ロンドンオリンピックで連続金メダル。通算成績は396勝1敗という驚異的なもの。唯一世界選手権の決勝で僅差で負けた相手もロシアの達人レベルのテクニシャンだったが、その後、何度もリベンジしている。プロでは2戦目の世界挑戦は僅差で敗れたものの(相手の大幅な体重超過と反則まがいのテクニックに慎重になり、僅差の判定負け)、3戦目で世界王者になり、7戦目で2階級制覇は史上最速。力強さを増して敵知らずになり、12月9日はギレルモ・リゴンドウとのオリンピック連覇対決も圧勝した。
 フロイド・メイウェザーが確立し、近代ボクシングを終わらせたかに見えたL字ガードと背を向けるようなショルダーブロックという、打つところをなくしてしまうディフェンシブなスタイルを軽々と乗り越えてみせた。民族ダンスに由来する水すましのようなフットワークと変幻自在なポジショニングで常に死角から、予期しないタイミングで力を抜いたパンチを自由自在に打ち込むスタイルは武の達人のそれ。腕力ではなく足と自在な身体の動きで打たせずにパンチを当て続け、相手に何もさせずに、心を折ってギブアップさせる。その姿は、殴り合う拳闘家というよりも自由な身体表現を楽しむ前衛舞踏家。スピード&パワーが重視されてきたボクシングの概念も変えてしまった。
 武道の世界に「達人幻想」を抱く人は多いが、現役のボクシング世界チャンピオンが、強豪相手にそれを実践しているのだから、その分野に興味のある人は刮目するべきだろう。ちなみに、ラテンの強打者スタイルが好きな自分は、彼のスタイルはあまり好みではない。

4.藤井聡太ブーム プロ入り以来、デビュー29連勝した棋士 現4段

 14歳の中学生が、プロ入り後、デビューから29連勝して藤井聡太ブームを巻き起こした。プロより強いコンピューターの台頭や、コンピューターのカンニングを疑うというブラックな事件で将棋界に暗いイメージが蔓延する中、突如現れた超新星であり、救世主。人間は、個人の力が権力や、腐敗、閉塞感のようなものを打ち破る姿に感動するのである。人々は、こうしたヒーローの中に人間の可能性を求めている。そういう意味では、勝負の世界である将棋界での彼の活躍は極めてわかりやすい、誰もが共感しやすい現象であり、今、日本人が求めているものを象徴した存在だったとも言える。自分もその熱に打たれてネット将棋を始めたほどだが、まったく上達していない。

5.『ぼくは麻里のなか』押見修造著(双葉社) 2012〜2016年 全9巻

 つい最近、一気に読んだマンガ。レンタルで借りた後に気づいたが、『悪の華』の作者だった。上京後、友人作りに失敗して大学に行けなくなり、引きこもりがちになった駄目な大学生の青年が、コンビニで見かけた女子高生を好きになり、ストーカーのように尾行する。ところが、朝、気づくと自分が女子高生になっていて・・・いかにもありそうな入れ代わりものに見えて、実は入れ代わっていないという作品。
 駄目な青年は青年のままの意識であり、女子高生は青年の心になってしまう。元の女子高生の意識を取り戻すために、あれこれあがく日々が始まる。つまり、これは女子高生のアイデンティティにまつわる物語である。『君の名は』の入れ代わりのようなわかりやすさはなく、読み終わっても、どこか謎めいた印象が残る。この「謎」の中に「自分とは何か?」「人間の意識とは単一のものなのか?」という秘密が暗示される。キャラクターデザインも素晴らしく、『悪の華』よりもとげとげしくなく、さわやかな読後感がある。それにしても、日本のマンガはレベルが高いと感心する。


◎2017年 見たもの、聞いたものベスト5 高橋ヒロヤス

今年は正直言ってあまり新しい表現に触れる機会がなかったので、新旧問わず自分が出会った表現についての雑感めいたものになります。番号はつけましたが順不同です。

1.将棋ブーム
 昨年の12月に、MUGAの「2016年ベスト5」の企画のなかで、「三浦九段のソフトカンニング疑惑など、今年は将棋界にとってはいろいろあった重要な1年だった」と書いた。今年は、MUGA72号(2017年7月号)で藤井聡太四段について書いたが、藤井フィーバーにより将棋が社会現象となり、年末には羽生善治が渡辺明から竜王を奪取して永世七冠に輝くなど、昨年の陰のパワーが転じて陽になった年だったといえるのではないか。個人的にも目下「将棋クエスト」という無料対戦アプリにハマっている(笑)。将棋はボードゲームとしては先手後手の勝率に顕著な差異がなく、奇跡的に完成度の高いゲームであると聞いたことがある。伊藤宗看の「将棋無双」や伊藤看寿の「将棋図巧」などの江戸時代の詰将棋作品集などを並べてみると、その芸術性の高さに感動すら覚える。こういうものがこの国に生まれて何百年も維持発展し続け、確実に天才の系譜が受け継がれているというところに、不思議なある種の摂理のようなものさえ感じる。

2.『良いテロリストのための教科書』(書籍、外山恒一著)
  MUGA75号(2017年10月号)で取り上げた、政治活動家(彼が逮捕されてニュースになったら「自称革命家」と呼ばれるのだろうか)外山恒一の実に10年ぶりくらいの新著。「アナーキスト」とか「右翼」とか「ファシズム」とか「テロリスト」とか表看板の付け替えに関わらず言っていることはこの20年くらいまったくブレず一貫しており、そのブレなさ加減に感心する。政治活動も無我表現の一種足り得るとすれば、それは彼のような実存的基盤から生まれるものではないかという気がする。

3.『スーパーヒーローになりたい』(のん、CDシングル)
  創作あーちすと・こと・本名能年玲奈・こと・「のん」のミュージシャンとしてのデビュー作。本業であるはずの女優としての活動を「芸能界の掟」によって阻まれている現状で、やれることを何でも、ポリシーを曲げることなしに、自由かつひたむきに活動を続けている様子は、閉塞感が漂いっぱなしの時代状況の中で、個人的には一筋の光明でさえあった。

4.『大佐に手紙は来ない』(小説、ガルシア・マルケス)
  2017年に何でこれ? と言われそうだが、読んだのが今年だったので仕方がない。『百年の孤独』、『族長の秋』、『コレラの時代の愛』、『予告された殺人の記録』という長編も読んだが、最初に読んだこの中編が味わい深く印象に残る。決して来ない軍人恩給の通知を15年待ち続ける、かつて革命に身を投じた老人(大佐)とその妻の話。とにかく文章が詩的で美しい。これ以上ないほどリアルな現実を描いているのに、まるで夢を見ているような文体にうっとりする。そして、これほど異常で、これほど感動的なラストの一行は見たことがない。魔法のような小説とはこのことだろう。

5.『親密さ』(映画、濱口竜介監督)
  この監督の映画は、ケーブルテレビで『ハッピーアワー』という5時間以上の長尺作品を放送していたのを観て興味を持った。『ハッピーアワー』については菊地成孔が論じている評がウェブ上にあるのでご一読いただければと思う。この『親密さ』という映画もまた前後編の二部形式で併せて4時間以上の大作。短評では内容が伝わらないと思うので、少し詳しめに語ってみたい。

大まかな筋としては、演劇サークルで脚本と演出を務める男女のカップル(衛と令子)が気持ちの上でくっついたり離れたり、お互いの考えをぶつけあったりしながら、仲間たちとひとつの演劇作品を作り出そうと苦闘する、まあ、言っちゃえば、よくある類の青春ドラマである。
  しかし淡々と舞台稽古の様子を描く物語の流れの中で唐突に、朝鮮半島で軍事衝突が起こり、日本でも民間の義勇兵を募るという事態になる。突拍子もない展開にもかかわらず、演劇仲間の日常には別段の変化はない。ネットで「北、キター!」などと書き込んですっかり他人事の日本の若者たちの様子が映し出される。
そんな中で、兄夫婦が韓国に住んでいる、主役の予定だった三木が、義勇兵に志願することを決意し、本番10日前にいきなり辞めると言い出す。困惑しながらも三木と誠実に話し合った結果その決断を受け入れた令子は衛に代役を頼む、というところで第一部が終わる。
この第一部の終わりに向かう場面が、ちょっと秀逸なのだ。夜が明けていく街の中を、衛と令子の二人が歩道を歩きながら、呟き合うように気持ちを語り合うシーン。二人の会話そのものが一篇の詩のようでもあり(実際に令子は衛の書いた詩を歩きながら暗唱してみせる)、二人の歩みに寄り添うカメラは、次第に明け染めていく空の模様、夜から朝に替わる瞬間の街の空気を、長回しの中で見事に捕えていく。「風を撮るみたいにエモーションを記録したい」という濱口監督の理想が、一つの形として結実している素晴らしいシーンだと思った。この場面だけでもこの映画を見た価値はあった。

その余韻の中で、少しのインターバルを置いて、第二部が始まる。
第二部は、観客を入れて上演された劇の本番そのままを最初から最後まで、2時間以上にわたって撮影したもの。この劇も、いかにも小劇団がやりそうな、やや自己愛的で閉鎖的な雰囲気を醸し出しつつ始まるのだが、見ているうちに引き込まれていくのは、濱口監督が書き下ろした脚本(テキスト)の力によるのだろう。詩の朗読を含む、言葉の力とそのつながり具合の巧みさによって、素人劇団ともいえる俳優たちの演技が、みるみる輝きを増す。
  第一部ではほとんど存在感のなかった俳優たちが、見違えるような輝きを見せるさまが感動的だ。特に主演女優の佳代子は、エモーションの高まりの中で、何かが宿ったかのような美しさを垣間見せる。急遽主演を務めた衛も、日常生活のなかでの彼と変わらぬ、呟くようなセリフの中に深いエモーションを確実に潜ませていて、それは詩という形で彼の中から時折噴出する。
  臆面もなく愛を、そして愛すること、愛されることへの欲求を語る、性同一性障害のあきという男(女)。劇の始まりと終わりはともに彼女の詩の朗読だ。さきほどの夜明けの歩道での令子と衛の会話と同じように、この劇も、全体が一篇の詩のようでもある。そしてこの詩は、われわれの日常と地続きの、とてもリアルな感触をもつ。「日常会話の忠実な再現こそがリアル」という観点からは生まれ得ない、斬新な「書き言葉」のリアリティがそこにあった。
劇の終演と同時に、エピローグとしての第三部が続くのだが、ここは正直拍子抜けするしかなかった。なるほど面白いし、こういう「抜け方」があってもよかったとは思うが、この映画の本当の正解を突き詰める努力を敢えて放棄した結果のようにも思えた。これは『ハッピーアワー』にも感じたのだが、濱口監督作品に唯一の不満点があるとするなら、ラストの決着のつけ方だと思う。それまでの完成度からすると、やや投げやりともいえる印象を受けてしまうのだ(もちろん間違いとは思わない)。
ラストに至るまでが120点以上の出来なので、トータルで見れば100点と言うことになるのだけれど、物語の着地を見事に決めることができれば、歴史に残る作品、歴史に残る監督になるはずだ。

最後に、衛が演じる第二部の演劇の主人公「衛」が、「北の詩人たち」という朗読会で読み上げる「暴力と選択」という詩を引用する。
劇の冒頭の自己紹介ではボソボソ呟くように話していた衛が、この詩を朗読する時は、やがて何かに憑りつかれたかのように激しい口調になる。
  彼は山崎のパン工場で週4日、1日13時間働いている。「そのことは、詩の内容とは関係ない。特別な痛みだけが痛みではない、そんな詩を書きたい」と言う。

暴力と選択

暴力とは何かとずっと考え続けてきた
最近ようやく答えの一つが導き出された気がする
選択肢を与えないこと
もしくは選択肢がないと信じさせること
つまりは選ぶという人間精神の根本的な自由を否定し奪い去るもの
それが暴力だ
このことで身体的な次元にとどまらない暴力まで説明できる
身体的な暴力が否定されるべきは基本的に二点ある
それが人を不可逆的に損ない選択不可能性であるところの死へと近づけるから
もしくはまたそうした身体的な暴力が未来における選択の可能性を狭める
もしくは狭めるよう要求するからだ
しかしこれはより大きな暴力の一つの形にすぎない
人に「選ばせない」選ぶことができると信じさせない力
それが暴力だ
それは身体的な暴力にとどまらない
言葉と関係による精神の暴力があり
運命の暴力もまたある
しかし一般に暴力と思われているもの
それを世に放っただけで暴力は暴力になるのではない
この世には放たれた不完全な暴力が漂っている
それはもはやそれを吐きだしたのが誰かもわからないような
常に着床の機会をうかがう暴力の胞子だ
われわれに選べることは少なくとも二つある
一つは少なくとも自分はできるかぎりその胞子を吐きださないようにすること
もう一つは自分がその胞子を着床させないということだ
極端なことを云えば人を殴ることは必ずしも本質的な暴力ではない
殴られた人間は自分を被害者だと感じたとき
自分は不当な影響力の下に置かれたと感じたときにのみ
暴力は完全な暴力となる
このことからある種のけんかや体罰が必ずしも暴力ではないという現実的な事態が説明できる
ちなみにもしそれが人に死をもたらすものなら
選択の可能性を奪うそれはそれ自体で成立する暴力だ
誰かを殴ることはもちろん暴力の胞子を吐きだすことだ
それが悪意に基づくものならそれはかなりの確率で着床するだろう
しかしそれはまだ完全な暴力ではない
それはまだ人の選択を奪い去りはしないからだ
このとき被害者然とふるまう人々
彼らこそが実は暴力を完全なものとするのであり
彼らもまた暴力の担い手なのだと言ったら彼らは驚くだろうか
自分たちはただ暴力の純粋な被害者だと彼らは訴えるだろうか
彼らは言うかもしれない
そんなことは選べない だって私は殴られたのだから
そんなことは選べない だって私は罵られたのだから
そんなことは選べない だって私は傷ついたのだから
しかし単に人を傷つけることは 人に傷つけられることは
それがいずれ癒えるならそれはまだ暴力ではない
人はすべてを選ぶことができる 何かを選ばないことも
ただ一つだけ選べないのは「選べない」ということである
人は「選べない」ということを選ぶことはできない
その時人はもう既に何かを選んでいるからというトートロジーだけが問題ではない
人が「選べない」と口にするそのときに
自らの精神から選択を奪ってしまうのならば
そのときに人は自らのうちに暴力を育てているのだ
自らの精神から選択を奪ってしまうのならば
彼彼女は知らず知らずのうちに自らに暴力をふるう
そして彼らが暴力をふるうのは実は自らに対してのみではない
彼らは自分自身を通じてすべての人間に暴力をふるう
このとき暴力は単なる胞子であることを超え
根を張り大地へと侵食する
人は何度でも選ばなくてはならない
なぜ選ばなくてはならないのか
暴力が奪い去ることならば選択とは与えることだからだ
選ぶことはいつも過去から未来へと向けられている
選ぶことは信じることと同義である
既に確かな何かを信じることはできない
不確かな何かを信じ未来に向かう力を与えることが
選ぶということの本質だ
もし人が互いに不確かなまま出会い
それでも互いを未来へと向けて選びあうなら
互いに力を与え続けることもできるはずだ
それは信じあい 選びあう力だ
ただ暴力だけは選ばないための力だ
暴力も暴力の胞子も もうなくなりはしない
ただ私たちはいつもそれを選ばないことを選ぶ  


◎2017年 見たもの、聞いたものベスト5  土橋数子

コンサートやお芝居、映画もあまり観に行けなかった年でした。それでもおすすめできるものや心に残るものはあったので、恒例のベスト5コーナーをお借りして、共有させていただきます。

1.演劇『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット
シアターXカイ+演劇集団マウス オン ファイア共同制作

サミュエル・ベケットといえば、前衛の大家というか、前衛の老舗というか、前衛のもはや古典というか、前衛ってなに? てなことになってしまうのだが、別役実の『ベケットといじめ』という本が面白かったし、永遠の前衛劇ということで、一生のうち一度は観にいきたいと思っていたところに、ご近所でやっていたので足を運んだ。

そして、とても感動した。わけがわからないとか難しいということはなく、もっとわけがわからない芝居も若いころ観てきた身としては、むしろ、「お前のその、すこんと突き抜けた諦めのような、虚しさのようなものが、わかる気がするよ」という意味でわけがわかる。
すると、劇場のチラシパンフレットにベケット研究者の堀真理子のインタビューがあり、「パリでの初上演のとき、パリのインテリはこの作品をまったく理解しなかった。刑務所で上演されたとき、入所している人が感動した」というご発言を読み、思わず膝を打ってしまった。(パリのインテリと私の差、刑務所の人との親和性)
さまざまな演出家が上演してきたこの劇であり、この1回しか観ていなくて何とも言えないが、ベケットの演出ノートに忠実につくられたという今回の劇は、おそらく今の“戦前”のようなムードとそこはかとなくマッチしているのだろう。このような時代の到来を予見したベケットの時限装置が働いたような上演であった。

2.ピアノ・リサイタル『めぐる季節と散らし書き 子どもの音楽』高橋悠治 

水牛楽団の高橋悠治(と言って、わかる人は同世代)。昔何かのイベントでピアノを聴いたことがあったが、ソロリサイタルは初めて。
タイトルの「散らし書き」というのは、「日本の古語の一本書きの文字を横に置き換え、その形をそのまま音符へと変換し、それにそって伴奏を添えた」ということ。言葉と音、紙に書いた文字の境界線がゆる〜くなるような、不思議な音色だった。
「子どもの音楽」は、何人かの作曲家の子どものためのピアノ曲。高橋氏の発言に、「子どものための曲を作るときは制約がある。その制約の中で作られているものに、作曲家の本質的なところがにじむ」という意味の言葉があった。完璧に練習をして弾くのではなく、ゆるく弾いているところが心地よかった。しかしこの方、椅子に座って弾き始めるまでの時間は、ピアニスト中、最速ではなかろうか。
※秋口にCD化もされているようだ。

3.映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』エドワード・ヤン監督

1991年に発表された作品のデジタルリマスター版、4時間の超大作だった。これだけ長くても退屈しない。初夏に観て、何カ月も経ったが、あの美しい映像が蘇る。ワンシーン、ワンシーンが、そのままスチールになるような完璧さであった。あの狂おしい闇と切なく明るい光の中にもう一度包まれたい気がしてしまう。
監督はすでに他界されているが、台湾の歴史の中の重要な部分を映画化したこの作品は、映画を作る人としての使命を果たしたとしか言いようがない。
私の母方の祖母は、台湾の女学校に通い、戦後、台湾から帰国しているのだが、この映画はちょうど祖母が帰国した後の過渡期にあった台湾の様子が描かれている。そんな個人的背景もあり、街並みや家の造作、お店の雰囲気にまで目を奪われてしまう。
日本の影響が残る中、もともと台湾にいた内省人と中国大陸の方から渡ってきた外省人との軋轢。こうした大人の状況が少年たちにもさまざまな影響を与えている。俳優(子役?というのだろうか)もすこぶる魅力的。
※アップリンクで12月23日より再上映あり

4.書籍『「接続性」の地政学: グローバリズムの先にある世界』パラグ・カンナ著

今年のメルマガの書評でも取り上げたが、正月に再読しようと思っているくらい面白い本だった。日本ではさっぱり話題にはならないようだが、ここで書かれていた中国の覇権とその予測は、この本を読んでから、ますます現実のものになっている気がする。ママ友でお子さんに英語じゃなくて中国を習わせている方がいるが、彼女もすごく商才がある人。MUGAメルマガに商売の話もなんだが、中国という国の世界にサプライチェーンを広げる手法には、妙な国家的意識(自我に近い)がないところが成功要因かもしれない。

5.テレビドラマ『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』

小学2年生の娘お気に入りのドラマ。再放送も何度もみていたようだ。現実の医療の世界では、「医療モデルから生活モデルへ」の掛け声のもと、病床数を減らし、地域で患者や高齢者を診る地域包括ケアシステムの推進がホットな話題だった。しかし、医師の中にはまだまだ生活モデルを軸に据えている方は少なそう。そんな中、ドラマの大門未知子は、患者の生活モデルを踏まえて、内臓のどこを切るか決めている。えらい。さすが現代の水戸黄門だ。


◎2017年 見たもの、聞いたものベスト5  N山

先日、編集会議に参加させていただいた時に、今年のベスト5を挙げて欲しい、とお願いされたのですが、結局、順位がつけられませんでした。個人的に気になった作品、心の何処かに引っかかった作品を5つ挙げさせていただきました。

「あげくの果てのカノン」 米代恭著 小学館 漫画

まだ連載中で今4巻まで発行されていますが、座談会では3巻までの内容でお話ししています。3巻以降もとりまく環境は様々に色をみせていき、1人称の物語から制約つきで少しずつ広がりを見せ、主人公以外の内面も見えてきます。読んでいると、心の中に物語の中に出てくる雨のような物体が増えていくのを感じる時もあり、主人公の少女「かのん」ちゃんを見ていてどこか「痛い子」であると思う事もあります。でも、自分の中にどうしようもなくひっかかって仕方がない存在なのは事実なので、これから彼女がいる世界が、どこに向かうのかを知りたいです。

「不滅のあなたへ」 大今良時著 講談社 漫画

昨年映画化された「聲の形」の作者さんが今連載している作品。最初はSFなイメージが強い感じでしたが、主人公が成長してきているせいか、最近は少年漫画らしさもちらほらと感じます。それだけ物語が動いているせいかもしれません。「火の鳥」のオマージュ的な…との話を耳にしますが、あまり気にせずに、主人公の成長がイコール進化となるのか、ならないのか。とか色々考えて思い煩いながら、最後に彼(?)がいきつく先を知ることが、私にとって大事なことになれればいいな、と思っています。

「ブレードランナー2049」 映画

初期のブレードランナーと比べて……の評価が多く、そう思うのも理解出来てしまうのですが…。観ていて「ああ、これは確かに2、ではなく2049なのだな」と思いましたし、同時に「ブレードランナー」の世界でなくてはきっと出来ない話であったようにも感じました。あくまでも私論なので、あまり参考にはならないですが…、中心にいるかいないか不明瞭な何かが、何者かになったような気持ちで、何者にもなれず、何かになりたくて、雪のような瞬間(?)の風景に、存在を感じさせるような…。そんな気分に浸ってしまったのは本当です。それが普通に「感動した」の意味だったのか、それとも別の何かだったのかは、まだ自分の中に答えを見つけられずにいます。

「少女終末旅行」 つくみず著 新潮社 web漫画 TVアニメ

何気ない1コマが愛おしく思える作品。「文明が崩壊した終末世界を生きる少女2人の、どこかほのぼのとした日常」(wipediaより)。少女2人が廃墟を半装軌車で旅…というよりは、もう少し違ったニュアンスの感じる行動に、どこか「透明さ」のようなものを2人の中に探している自分に気が付くことがあります。原作漫画も素敵ですが、映像も私は好きです。ふとした1コマに何かをみつけられそうな気持ちになり、だけど自分には見つけられず、溜息がついもれてしまいます。


「Infini-T Force」 オリジナルフル3DCGアニメ作品

5個出して下さい。と言われて、最後までいれようかどうしようか、悩みました作品。それくらい子供の頃に憧れるようなヒーローものの作品で、全然無我とは方向性が違うので…(他の4つも無我的ですか?と言われても悩みますが…)。フル3DCG作品は、昔ほどではなくても、まだちょっと抵抗があったのですが、そんなことを感じられなくなるくらい、ヒーローがヒーローしていて、素直にカッコいい、と思えました。今の時代では恥ずかしいことなのかもしれませんが、カッコいいと思えるヒーローがいると思えるのは大事な要素だなと思いました。「胸が熱くなる展開」を大人になった今、素直に楽しめるのは嬉しいことだな、と思いながら見ています。

見事にほとんど漫画とアニメで、おまけとしてですがMUGA表現研究会の一文として載せるのが恥ずかしい内容になりました。お目汚しで誠に申し訳ありません。


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◇編集会議 12/2 四谷の事務所にて

自分の生き方(形式)で、情報(内容)を凌駕する

那=那智タケシ(MUGA研代表・作家、ライター)
高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
土=土橋数子(ライター)
N=N山嬢(会社員・アニメ好き)

●自分の「音」を出すために本物に触れる

 那 今年のベスト5って何があったのか思い出せないけど。N山さんはアニメとか漫画とかね。
 高 今年アニメで一番良かったのは何かありますか? 去年はいろいろあったけど。
 N 今年は、あんまり・・・でも、そうですね。大きくは、これっていうのが見つけずらい年だなぁって。去年の財産で今年のものが作られているような気がするんです。たぶん、個別にはいろいろあるんですけど。
 高 大きなね、すごい圧倒されるようなってことじゃなくて。
 土 確かに。映画、何観たかな?
 N 『君の名は』の第2作品として、『打ち上げ花火、上から見るか下から見るか』というのがありましたけど。
 高 あれ、良かったですか?
 N あれはみなさんあまり評判良くないですけど、やっぱり、昔された岩井俊二さんが。
 高 実写のね。
 N 実写の。それをご存知の方が観ると懐かしくさもあるけれど、あれ?っていうのがあったり。ただこう、結末というか、ストーリーの後半はオリジナルなんで、その辺に関してどういう・・・ちょっと難しいというか、精神系の世界の、ちょっとそういう感じで、わかりづらい人はわかりづらいんじゃないかなぁという作りだったので、私はけっこう好きなんですけど。
 高 ああ、そうなんだ。
 土 結局、(子供を)観に連れて行かなかった。観たい、観たいって言っていたんですけど。生活に追われてだめなんですよ。
 那 生活に追われて(笑)
 土 もうちょっと自然とか、映画とか、子供にね。子供がピアノ習っているんですけど、親戚にピアニストの人がいて、その人の先生がチェコから来ていて、一回だけレッスンを受けたんですけど、基礎だけはやろうということでやって、よくできたと言われたんですけど、曲を弾くじゃないですか? 一小節あるんですけど、バッハのインベンション。タラララ♪と弾いただけで、「ノン、ノン、ノン」みたいになっちゃって。何が駄目かと言うと、「自分の音を弾いていない」と。「たぶん、普段本物の音を聴いていない」と。大当たりみたいな感じで。こっちは、せいぜい一生懸命習うくらいで。先生は理想が高いから「ウィーンフィル来てるでしょ? ウィーンフィルに行きなさいよ」って言って。行けるお金あるなしの問題じゃなくて、本物とか、自分の音を弾いていないというのが一小節でわかるんだ、と思って。家に帰って夫に言ったら「それわかる」と。素人の方が、ペラペラペラペラ弾いているけれど、いつになったら長女が自分のピアノを聴かせてくれるのかな、と思っていたって言うんですよ。夫はピアノは素人で「エリーゼのためにいいよね」って人なんですけど、ああ、そういうのってみんなが聞いてわかるんだなって思って。ちゃんと自分の音を弾くというのは、まずは体験が大事なんだなって言うのがわかって、せかせかしている生活を反省しています。
 N ピアノ、すごいです。
 土 その先生がすごいんですけど、一応ちゃんと弾けるわけですよね。でも音でばれちゃうというか、音の鳴らし方で?
 N はい。
 那 どのレベルで子供にピアノを習わせたいかという話にもなるけどね。
 土 そうなんですよ。その先生は、どんなに趣味でも本物を与えたいという人なんですよ。
 那 ああ、そういうことね。
 土 プロのピアニストになりたい人も来るし。私は鼻っから付き合いで来ているし。音楽をやる子供に最初からそういうものを持たせたい、と。日本では通用しないんですよね。先生がそういうこと始めちゃうと、「そういうのはいいから、ちゃんと曲が弾けるようにしてください」と言われちゃうし、それはそれで正しいと思うし、それなりの曲が弾けるようになるというのも正しいと思うんですけど。
 那 結局、教養主義の話と同じなんだよね。本物をまず基礎として・・・
 土 そうそう。
 那 滲み出ちゃうんでよね。
 土 滲み出ちゃうんですよ。
 那 陶芸でも何でも、本物だけ見ておけばいいとかさ、真贋がわかるようになるとか。幼少期からやった方がいいよね、それは。
 土 音楽が好きだったら、CDでも本物を聴けばいいと思うし。

●マンガから文学に入る道

 那 今は情報はたくさんあって、選ぶことはできるわけだけれど、自分がどう真剣に受け止めるかだよね。響くというか。単に「これを観た自分」ということで自我を太らせたり、ディレッタントになっても仕方ないわけで。
 高 要は、本当に自分が必要だと思うかだよね。ぼくも文学を隈なく読んだということはないし、偏っていますけどね。自分が必要だと思ったものを読めば、自分に何か影響を与えている気がするし。
 土 だから何でもかんでもというのは人間、無理なんですけど、本当にここっていうところで。子供が漫画で『響』とかっていうのを言っていて。
 N ああ……
 土 N山さん知ってます?
 高 N山さん何でも知ってる(笑)何か言うと全部知ってる。
 N 全然詳しくないです。
 高 知ってるだけですごい。
 N 何か賞を取ったんですよね(2017年マンガ大賞を受賞)。
 土 子供に「中原中也知ってる?」とか言われて。「汚れちまった悲しみにでしょ」って言ったら、「知ってるじゃん」って褒められて(笑)
 高 中原中也の漫画なの?
 土 いや、小説家になる女の子の漫画。
 高 小説家志望の女の子の漫画なの?
 土 それで編集者と何とかとか。
 高 それで中原中也が出てくるの?
 土 出てくる。
 高 そういう入り方もあるかもしれない。
 土 ですね。
 N それでいくと、こう、二次元の方に。一番有名なのかわからないですけど、ここ最近でありましたのが、漫画の主人公が全部、中原中也とか宮沢賢治とか、そういう名前になっている漫画があったりして、今、文庫のフェアとかに行くとその漫画家さんがたぶんイラスト描かれたりしていると思うんですけど。
 高 表紙がね。
 N 宮沢賢治さんの小説では、宮沢賢治さんのキャラクターが描かれていて、何だろう?と思ってみんなが入っていくというか。
 土 それなんて漫画なんですか?
 N 『文豪ストレイドッグス』。
 那 アニメでやってるね。
 土 それも友達から借りて、そっちはストーリーが、登場人物らしきじゃないですか? そっちはキャラクター本買ったんですね。『響』というのはストーリー性があるから。
 N はい。評判いいです。
 土 そっちから入って文芸が題材になっているから。そのストーリー自体が面白いみたいで。
 N 確か賞を取ったか何だったかで、それで比較的に有名に。
 土 今、その『響』が?
 N はい。
 高 アニメ化もされている?
 土 いや、アニメ化は……
 N たぶん、これからするんだろう、という話は。でも、もしかしたら先に実写化が入るかもって噂が。
 土 本当に?
 N 噂なんで、こう、ネットの方の噂なんでわからないですけど。
 高 今って漫画があって、それをアニメ化して、実写化してって全部漫画発。

●何かひっかかる『あげくの果てのカノン』

 那 最近、N山さんから聞いた『あげくの果てのカノン』って漫画があるんですよ、SFっぽい。何だろ? 地味な女の子が高校時代からずっとある先輩のことが好きで、その先輩は異次元から来るゼリーみたいな生命体と戦っているんですよね。
 高 へぇー。
 那 それで、怪我しちゃうんですよ。しょっちゅう。パーツが耳とか腕とか入れ代わる。
 N 怪我をする度に、『修復』と呼ばれる作業があって、その異次元のゼリーみたいなのを使ってくっつけるんです。
 那 生命体なんだよね。それによって、人間が変わってしまう。味覚とか、好みとか、雰囲気とか、パーツを入れ替えるごとに人間が変わっていってしまうんですよ。だからその先輩には奥さんがいるんですけど、奥さんは変わって欲しくないんですよ。高橋さんだったら高橋さんでいて欲しいわけ。卵焼きが好きだったら卵焼きが好きなままでいて欲しいし、甘いものが好きだったら甘いものが好きなままでいて欲しい。でも、甘いものが嫌いになったり、過去の記憶がなくなったり、要は自我の問題になってきちゃうわけです。
 高 ああ。
 那 パーツが変わるごとにどんどんどんどんキャラクターがちょっと軽薄になったり。でも、その先輩のことをずっと思っているストーカーみたいな女の子は、ヒーローである相手がどんなに変わっても好きという話。何か変な漫画なんだよね。
 土 ふーん。
 那 何かよくわからないけれど、いくら変わっても好きでい続ける。
 土 その統合された何かの筋というのはあるんですか? 変わっていく人の。
 N 筋というか、特にはないですね。とりあえず外見が変わらない。ただどこが変わったかというのは明確にわからないんです。話しているうちに違和感に気づいていく感じ。
 高 じゃぁ、外見が好きなんだ?
 N でも、主人公のカノンちゃん自身も、そこから踏み込んで、自分が先輩のどこが好きなのかに踏み込んでいく感じになると思うんですけど。
 那 外見が好きというのとも違うんですよね。デートしている時に、先輩が怪物に真っ二つに頭を切られちゃうんですよ。そしたら死んじゃったと思ったけど、包帯がぐるぐる巻きになっていて生きている。でも、包帯取ったら奥さんからは接合部分が化け物みたいになっているから耐えられないと言われた、と。それを見てもカノンちゃんは好きなの。だから何か違うんだよね。外見とも。
 高 へぇー。アイデンティティの問題。
 那 あれ、これよく考えると深い話なのかなって。
 土 深いのか何なのかですよね?
 那 でも何かね、何かあるのがわかるわけ。でもその何かが言語化しづらい?
 土 うんうん。
 那 何でこれひっかかるのかなって。
 N ひっかかるんです。
 那 N山さんがひっかかるって言ったわけ。確かにスケールは感じないんだけど、ひっかかる何かがある。
 土 ひっかかるというのは良い意味で?
 那 良い意味でね。何かある作品。定型じゃない何かがある作品なんですよね。
 高 へぇー。哲学的にも捉えられる?
 那 カノンちゃんが先輩の誕生日か何かに万年筆を贈るんだよね。でも、利き手の左手がなくなって、しばらく使えないと。だから万年筆をもらったんで、右手で書く練習をしなくちゃね、とテレビで言うんです。怪物をやっつける特殊部隊の隊長で、国民のヒーローだから戦った後に左手がないような状態でテレビのインタビューに答える。でもそれは、カノンちゃんに話しかけているんです。それでカノンちゃんが喜ぶというか、びびるというか。感動する。「今、私に話しかけた?」みたいな。何なのだろうね、あれはね?
 N 少女マンガみたいに見えて違うみたいな。少女マンガでしたらこう、ずっと高校から先輩が好きで、その先輩がご結婚されて、それでもまだその人に会いたくて、基地の近くのカフェで働くとか、そういう流れって今、少女マンガでもあまりないのかなって。
 高 ふーん。
 N そういう話を。すみません、私が話すと……。
 那 実は、俺も昨日読んだばっかりだから、まだ意識化されていないのね。
 (笑)

●言語を超えたところで戦い続ける『ベルセルク』

 那 面白いのは、ビデオとか見るもんないから、レンタル屋で漫画借りようと思って、N山さんから聞いた『あげくの果てのカノン』借りて、それから『HUNTER×HUNTER』の最新刊借りて、それから『ベルセルク』のアニメ化している以降の巻を借りて、10巻くらいぶっ通しで読んだんですよ。それぞれ作風は全然違うんですけど、不思議なことに共通するものがあるなって。漫画って今、最高のレベルのものとか、最先端にあるものはすごいなって。何がすごいかって言うと、やっはり、定型じゃないというか。言語を超えた領域にちゃんと踏み出して、作者が格闘しているんだよね。
 ベルセルクにしても、どうやってこれ収集付けるんだろうというか。意識と無意識の境界線を外しちゃって、どろどろした場所で必死に戦って、でも敵はどんどん巨大になって、狂った世界になっちゃってるんだけど、ガッツという主人公が居続ける? 存在し続けることで保たれている世界というか。戦い続けることで。ゴールがないというか。『HUNTER×HUNTER』にしても、『あげくの果てのカノン』にしても、言語を超えたところで戦っちゃってるっていうか。
 土 うん。
 那 ああ、ちゃんと作者が踏み出して、風呂敷畳めないけど、わけわからないことになって連載も間延び化してしまっているかもしれないけれど。ドラゴンボールのように強いものがどんどん現れるという図式さえ超えて。例えばハンターハンターというのはドラゴンボールで言えばフリーザみたいな最強の敵が現れて、それをやっつけて終わったと思ったら、実はこれまで舞台になってきた大陸というのは世界の僅かな一部で、その回りに広大な海があって、その向こうには暗黒大陸があるんだ、と。つまり、これまでの壮大なストーリーはすべて島国での話で、じゃあ、その暗黒大陸に冒険しに行こうと。でも、その大陸はこれまで最強のハンターが行っても命からがら帰って来るしかできないような化け物揃いの未知の世界なんだと。その世界にこれから主人公たちが旅に出るってところでしょっちゅう休載してるんだけど。
 高 (笑)
 那 でも、このスケール感でいけるところは天才だなって。
 土 それは何に連載しているんですか?
 那 少年ジャンプ。
 土 『あげくの果てのカノン』は?
 N 月刊スピリッツです。
 那 まだ連載中なんだよね?
 N 連載中です。
 土 スピリッツって青年誌ですよね?
 N なんで、最初、どこで連載しているか知らなかったんですけど、たまたまいろいろとネットとかで見ていた時に何かひっかかったんで、ああ、月刊スピリッツでこういうのもされているんだ、最近は、とか。ただどこに終着していくかな、というのが楽しみかな、とか。
 高 うん。
 N そんなにたぶん、長くはならないと思うんですが、作者さんが、みなさんが普通に思うノーマルな形で終わるのか、それとも、そういう世界じゃないですけど、ちょっとその方が書きたいように終わらせられるのかとか、ちょっとその辺が楽しみかな、とか。
 那 だからそういう表現を見ていると同じエンタメでもハリウッドとか楽に超えちゃってるんだよね。
 土 うん。
 那 ハリウッドとか、わかりやすかった、正義が悪をやっつけた、終わりっていうさ。でも何か、収集付かないところで戦っていると、まだ人間に冒険心というの? ハンターハンターとか、どんな化け物がいるんだろう、とか。この超人でも全然太刀打ちできないようなのがうじゃうじゃいるんだ、とか。
 高 (笑)
 那 無限に拡がっていって、作者もたぶんわかっていないんですよ。無意識でやっちゃっているから。だからベルセルクにしてもそうだけど開放感がある。そこに限界がないから。この世界に限界がない。もっと行けばもっと現れてくる。でも、それって人間の本来の精神のあり方で、今はインターネットで全部わかっちゃった、何処に行っても冒険はない。南極大陸もエベレストもわかっちゃってる。外国もこんなのだとわかる。イエティも熊だったとわかっちゃったというニュースがネットで流れる中で、実は、人間の精神ってもっと未知なるものに開いていて、どんな可能性でもあるのに、何かわかっちゃった気になって、年金の心配しなくちゃいけないとか。
 高 うん。
 那 そういう中で、自分が社会からないがしろにされたらどんどん自信がなくなって出口がなくなってしまう。自分っていうものが過小評価というか、価値がないとか、限界がある、いずれは死ぬ、何の意味もないんだ、とか思うとどんどんどんどん落ち込んでいっちゃうけど、実は、人間ってどんな環境とか、立ち位置にあっても、本当は価値があって、世界の一員で、しかも、世界は無限に拡がっているみたいな。
 土 うん。
 那 そういう生き物だって捉えた時に、本当にレベルの高い漫画というのは、そういう見地に立って人間の精神を自由にするような。
 高 うん。
 那 ベルセルクとか読んでるとすごい自由な気分になるんですよ、俺なんか。どろどろして見えるけれど、ああ、何か解放されるな、とかさ。だから漫画っていいものは本当にすごい。
 土 いいですよね、N山さんが漫画を教えてくれるのは。
 那 情報をくれるんですよ。ラノベまではいかないけど、アニメとか漫画は。これひっかかるって言うから、何でひっかかるのかはよくわからないんですけど。読むと意外と何かあったりする。

●変わるもの、変わらないもの

 土 何か実際に生きてきて、3歳くらいとは別人じゃないですか?
 那 そりゃそうでしょ?(笑) それこそ世界が未知じゃないですか?
 土 ええ。
 那 3歳じゃなくても、5歳、6歳でも。野っ原があって、小屋があって、あの小屋の中に怪しい人が住んでいるとかさ、覗きに行こうとか、それこそどきどきしていた。わくわく感じゃないけど。無限に繋がっているという自由な感覚が、ああいう天真爛漫なさ。
 高 うん。
 那 大人になると人生こんなもんだろ、とか。社会的責任果たさなくちゃとかさ。将来のために貯金しなくちゃ、とか。あと何年でこうだとか、計算に入るじゃないですか? ちっちゃくなって、世界が縮小する。
 高 うん。
 那 でもそれって、人間の本来のあり方とは違っていて、文明化されてから、社会制度ができて思考優位の社会になってからそういう風になっただけで。
 土 あと、変えがたい自分というのも大事なんですけど、今、切られて変わっちゃうという漫画の話がありましたけど、後天的に捉えると、変わっても、統一的なアイデンティティと言うんですかね、そういうものがなければならない、みたいな。
 N もしかしたら、これから女の子がそういうことに疑問を持つような展開が。
 土 疑問を持つ。うん。どういう展開になるかはね、あれなんですけどね。
 那 まぁ、その女の子はまだ先輩というあるイメージにどんな形になっても執着しているところはあるのかもしれないしね。
 N そこからまた一歩踏み出した時にどうなるのかっていうのもあるのかなぁと。
 那 パーツが入れ替えられて心が変わっていくというのは、それこそ断片と統合じゃないけど、仏教的なね、固定的な、安定した自我はないとか、変容していくけど、それは自分なんだという捉え方とかにも繋がっていくし。存在とは何かとか。
 土 そうですよね。それの暗黒面みたいのがあるとしたら、その漫画で描かれていくかもしれないですよね。
 那 奥さんはそれに耐えられない。でも、ヒロインは好きであり続ける。
 N でも、奥さんも内面が全部描かれているわけじゃないんで、これからどんどん内面に関しても描かれていくのかなぁ、とか。最初その、テンプレート的な、いかにもって感じの人かと思っていましたら、進むうちにやっぱりこう、ああ、かわいい感じだなぁと。魅力的になっていく。
 那 上手いんだよね。元々美談美女のエリートカップルかと思ったら、奥さんは東北弁でしゃべるださい女っていう背景があって、その人に釣り合うようにゼリーの研究者になってがんばるとか。だから、一概にコントラストで見えない。キャラが生きているから。
 土 でも、変わっていくことって大事ですよね。テーマというか。人間。一人の人間がこういうキャラクターで、こういう行動を取ってということで話が進むじゃないですか? でも、一人の人の変容というか、極端ですけど、切られて変わってという。実際、人間も変わっていくし、一事が万事で変わらないところもあるけれども、ものすごく変わっていくところもあるし。
 那 関係性の相互作用というかね、相互作用によって相手も変わっていって何かが生まれていくじゃないけど。それって大事なことだよね。
 高 うん。
 土 そうですね。変わることって大事。
 那 ちょっと変わるというのが文学でも映画でも、最後、落ちでちょっと変わる。
 土 ああ、そうですよね。
 那 そんな成長物語にしなくても、僅かでもいいんだよね。
 N 確かに。
 土 最後、ぎりぎりのところで変わる。

●マインドフルネスの落とし穴

 土 すごい面白いブログがあって、加藤洋平さんという今、オランダに留学している学者さんが書いていて、本も出しているんですけど、成人発達理論というんですか? 子供の教育の発達理論があるんですけど、ピアジェとか、デューイとか教育学者がやってきた基盤があるんですけど、大人になっても人は発達、成長するという理論の中でその人が何か一生懸命やっているんですね。(中略)・・・その中でマインドフルネスが流行っているけれども、マインドフルネスの落とし穴ということについて書いてあったんですね。
 高 面白そう。
 土 前、藤田一照というお坊さんが、マインドフルネスというのはお坊さんが修行の中で一つのベネフィットとして降りてくる境地じゃないですか? 心が安らぐとか。
 高 うん。
 土 ビジネスの世界でそういうベネフィットだけを享受するのはいかがなものかって書いてあったんですね。で、なぜその学者さんがマインドフルネスが悪いかというと、ベネフィットだけ享受するのがずるいというだけではなく、そのことには言及していなかったんですけれど、結局、本質を見誤る恐れがあるということで論理立てて書いてあって。途中のロジックは忘れてしまったけど。
 那 それが仏教の真髄だ、みたいになるとおかしな話だよね。
 土 ええ。
 那 心が安らいで、怒りを鎮めて、仏教の叡智を学びましょう、というだけでは違ってきてしまう。
 土 うんうん。
 高 対処療法みたいなもの。マインドフルネスというのは。
 那 それは言わないものね。基本は。
 高 認知行動みたいな。
 土 グーグルとかで、そういう風に安らがせて、ストレスで疲れた人をマインドフルネスで安らがせて・・・
 那 否定できないからこそ難しいんだけどね。それはそれなりの効果がある。それこそ、我々がスピリチュアルに言ってきたことと同じで。
 土 そうそう。
 那 何らかの効果はあるけど、それが人生の解決策とか、仏教の真髄みたいになっちゃうと落とし穴が当然あって、どこかで行き詰ってしまう。それこそ、未知じゃなくなっちゃうんだよね。そこがゴールになっちゃうから。
 土 うん。
 那 そうじゃないってことですね。
 土 そうですね。
 高 それを悟りだとか思っちゃうとおかしくなる。
 那 さっきの『あげくの果てのカノン』の方が、よっぽど悟りなんだよね。
 土 そうですよね。
 那 これなんだろう?って。入れ変わっていくものに正面から対峙していく。
 高 わかっちゃったらだめなんですよね。結局ね。
 土 その学者さんはグーグルの人が一生懸命働いて、ストレスをマインドフルネスで和らげて、また効率的に仕事をすることで、そこから生み出されるものが本質的なものから外れてしまうってことを危惧しているんですね。そう、思い出した。そうなんです。だからそれがずるいとか、本質がわからないとかいうこともあるでしょうけれど、そこから生み出すものが本質からずれてしまうことが問題だっていうのがほんとそうだよなぁ、みたいな感じで(笑)結局、世界の優秀な頭脳がグーグルに入って、医療とか大事なことに関わらず、みんなにクリックさせるための技術を・・・これは今、私がつけた解釈なんですけど。いずれにしろ、そうやってやることで、効率化させていくことで、グーグルやアマゾンが本質的なものを生み出さないことに危惧しているという感じなんです。
 高 道具としては役に立つけど、まぁ、間違った人がそれを使ってどんどん効果を上げていくのというのはおかしいだろう、と。
 那 マインドフルネスのあり方? 「私はマインドフルネスで心が安らいだ」という人たちが集う企業が生み出すものは、それはそこ止まり。土台が薄っぺらいというか。大げさな言い方すると真善美がないというかさ、そんな気がするね。
 土 そうですよね。
 那 そういうことだよね。
 土 それを彼なりの理論で書いてあって、成人発達理論を彼なりに紹介しているんです。面白い人で、どっちかというとビジネス寄りなんですけど。

●本質に届いていない故に、感情の表面を騒がせる表現もある

 土 最近、何でこの人好きだったんだろう、見誤ったなぁ、とそういうケースが多いなって。もちろん、原ますみとか、宮沢賢治とか、古典は大丈夫なんですけど。
 那 まぁ、変わるものと変わらないものがあって、やっぱり時代によって古びちゃうものとか、映画でもね、日本の映画でも学生闘争とか、テロを題材にした映画とか、何かその当時はアヴァンギャルドで、格好いいとされていて、今でも多少見るべきところはあるんだけれど、やっぱり、その時代だから受けていて、今だったら何か違う。人間の本質までいっていない。時代の表層は切り取っていて、その時は強烈なシンパシーがあるけれど、20年、30年経つと古びていって。本質に届いていないゆえに、こんなのに私熱狂したんだって。
 土 そうそう、そうなんですよ。
 那 古典的なものはそれはさ、人間の本質までいっちゃってるから。表層的なものの方が、一見、表面的な感情を強く刺激するからのめり込んじゃう? それこそ一体化しちゃう。
 高 うん。
 那 宗教性がある、という風に見えちゃうんだけど。
 土 ポップスか何かで、何であんなにいいと思ったのかなとか。前も言いましたユーミン問題で、「中島みゆきすごい」というのが両方私たちの世代にはあって、私は何かユーミンが好きだと思っていたんですけど、でも中島みゆきも聴いて、だからと言って、評価で分けるという訳じゃないんですけど、その時、私が気づかなかった中島みゆきのすごさがあって、それは変わらない何かを持っていた人なんだなっていうのが。ユーミンは残念だけど、やっぱりちょっとこう、大ブームの時に、せっかくの才能を少し違う使い方した人なんだなぁっていうのが。
 高 (笑) わかりやすいかな。

●悲劇という内容を凌駕する、個人の形式

 那 難しい言葉を使うというのは、俺からしたらまだ理屈で処理しちゃっているというか、表現に至っていない? そういう方が実はわかりやすさはあるんです。例えばクリシュナムルティというのは一見、単純なことを延々と言っているようで形式になっているわけ。文体が。肉化しているから。それは内容を形式で凌駕した時に始めて本物になるというか。混沌としているということは形式になっていないということで、肉化し切っていない。でもそれはある種わかりやすい。内容というのは頭で理解できるから、学ぶところはあるけれど、たぶんその内容に入り込んで全面的に同一化しちゃうとちょっと違ってきちゃう。
 カルトの教祖とかも、内容を論理的に語ることで一体化させちゃうんだけど、形式というのは一見、クリシュナムルティとかわかりにくいからとっつきにくい。でも、この人の形式というのは本物だ、と。リズム。文体。だから、形式まで至っちゃうと芸術もみんなそうだけど、内容を凌駕しちゃうから、それによって存在それ自体を語れるというのかな。理屈じゃなくて。だから優れた文学作品でも、音楽でもさ、完全に形式が内容を凌駕した時に、雰囲気じゃなくて伝わるものがあって、それが世界とか人間のあり方の本質に繋がる何かとか、自然の原理に繋がる道理が通った形式というのか。
 高 うん。
 那 宮沢賢治なんかも単に自然がいいとか、宇宙がいいとか言っているんじゃなくて、彼のリズムとか、宇宙のリズムが共感しあってああいう響きになっていて、ちょっとメッセージ性、内容が上になってしまうと、それはやっぱり自我が入っちゃっているというのかな。最近だと、わかりやすい例で言えば、佐村河内っていたじゃない? 高橋さんも一時、取り上げていたけど。確かに、いいところはある。まぁ、あの人が作ったわけじゃないけど。
 高 新垣さん。
 那 そう、ゴーストライターが。『HIROSHIMA』って曲とか。俺、聴いた時に、「広島」っていう悲劇の内容が形式の上に来ちゃってる。だからクラシックになっていないわけです、俺からしたら正直。だから「現代のベートーベン?」と眉をひそめたんだけど、まぁ、いいところがあるのもわかるし、現代で受けるのもわかるから、こういうものが。仮に佐村河内が本物の作曲家だったとしてもだよ? あの音楽というもの自体は内容が、広島って悲劇があったでしょ?って、闇の音を聴いてください、というドラマ? 内容が前に出てしまっていて、第九みたいな形式によって高めていく? 内容さえも凌駕して、悲劇さえも凌駕して歓喜に至るとか、ああいう、カノンじゃないけれども、重層的に高め合って、悲劇を凌駕するとかそういう高みには当然いっていないし、雰囲気音楽になってしまっている。
 土 うん。
 那 どんな作品でも言えることで、断片である内容を一人の人間が独自に統合させる形式によって凌駕した時、すべての悲劇を超える可能性というのかな? ドラマを超えた自由というか、それこそ真善美というものに至る何かが。神性が宿る。それこそ、個人の形式の中に神が宿る。本当の意味での宗教性が。バッハにしても、ベートーベンにしてもダビンチにしても。それこそ、ダビンチの絵なんて何を描いてあるかわからない。モナリザなんて何でみんなにこんなありがたがるのかって。一見、綺麗な女性でもないし、不気味だし。でも、そこには彼の形式のすべてが織り込まれているわけですね、繊細に。それによって宗教性が浮かび上がってきて、そこに畏敬の念を抱く。言葉にはならないけれども。それは断片や記号に過ぎない言葉や思考を超えているものを指し示しているから畏敬の念が生まれるのであって、やっぱり形式というものの重要性を最近、すごく感じていて、それは自然を観ていても思うことで。
 高 うん。
 那 最近、街路樹を観ているだけで立ち上がってくる。何かこう、ある種の形式によって、摂理によって超越的な事物として見える。緑を見るだけでドーパミンが出ちゃうんです。どこ見てもすごいな、すごいなって、ラリって歩いてる。こんなものを自然は造形している。芸術も本当にすごいものはこのレベルにいっている。だから全部通じている摂理というのがあるわけで、それを芸術家が本能によって捉えて、それを修練で形式にまで高めた時に、より人間的な、エモーショナルな形でわかる。でも、自然それ自体が形式美を持っていて、完璧に。それは人間の思考を超えちゃったもの。
 だからゴッホの絵というのはすごいわかるんですよ。観たものを描いた。彼は観たまんまを描いたっていうじゃないですか? 最近、それがすごいわかるんです。ドーパミンが出ちゃう。ゴッホは出まくっていた。それは彼の妄想ではなくて、何か外れちゃった人だから、自然の摂理自体が見えていたんだろうなって。だからやっぱり、表現と言うのは何かというと形式で、形式というのは上っ面ではなくて、物事が成り立つ原理、断片を統合させて意味を生み出す原理のようなもので、それを自分なりに捉えて編集して、内容物を超えちゃった時に何かが、雰囲気を超えたものが生まれる。
 高 うん。
 那 タルコフスキーなんかはこうしたことを自分の「刻印された時間」という映画論で意識化してすべて書いている。あの人は感性だけではなくて論理的にもわかっていた人で、芸術家は自分の感情を直接的に表明する権利を持たない、と。この内容いいでしょ、というのは伝わらない。氷のようなフォルムの中に閉じ込めてこそ伝わるんだ、と。お涙ちょうだいじゃないよ、と。論理的にも徹底的にわかっていた人。本当の芸術というのは形式が必要で、それは詩なんだ、と。詩というのはある種、自分独自のリズム、世界観を表現する一番純粋な形ではあるんだけれども。だから今の作品では、「泣ける」というのを売りにしているものが多いけれども、それは内容によって表層の感情をかきたてる。
 感情を押し売りにするレベルというのは限界がある。マインドフルネスと原理は同じで、感情を鎮める、感情を高める。ある種の状態というものに依存している限りは人間の中の内容物に留まっているわけで、それが消費されたら終わり。人間という単位を超えていく、変容して、新生していく。内容を超えていくためには形式というものが必要で、それは自分と世界の独自な関わり方です。内容がいいものもあるし、ためになる情報もあるけれども、それは消化したら捨てて次に行かなくてならない。一つの糧として超えていかない限りは、その内容という断片に捉われてしまう怖さがあるというのかな。今はネットの時代で、そういう一見、役に立つといわれる良い内容の情報がたくさんあるから、知らずしらず一断片に過ぎないものに条件付けられてしまう。

●すべての芸術は客観芸術

 高 今、那智さんが言ったことは、グルジェフが「客観芸術」って言っていたことと近いかもしれないね。
 那 ああ……
 高 例えば、イスラムの寺院とかに入ると、どんな人間でも敬虔な気持ちになると。
 土 すごいですよね。
 高 キリスト教のゴシック建築でもそうだけど。これはもう、一個人の感情とかそういうものではなくて、普遍的に、形式として、宗教的な感情を人の中に呼び起こすものが、形式がそこにあると。
 土 うん。
 N はい。
 高 それが本当の芸術なんで、何か、物語を人に語って感動させるとか、それは感動的な話ではあるけれども、芸術ではない、と。それは言わば主観的な芸術でしかなくて、本当の芸術というのは客観芸術で、まぁ、エジプトのピラミッドでもそうだけれども、自然の摂理をそのまま表現したものだから時代も超えるし、個人の感情も超える。そういうものしか本当の芸術ではないんだ、と。
 那 グルジェフの論理というのはよく知らないけれども、あまりに主観芸術とか客観芸術とか分けちゃうと……
 高 まぁ、そこはまた形式的に分けちゃうとね。
 那 客観芸術というのが、宗教的で、幾何学的な曼荼羅とか、ああいうものばかりだと言っているとするとそれは違う。芸術というのは全部客観芸術なんです。ダビンチでもベートーベンでも何でも、本物はみんな、個人から始まって個人を超えた客観芸術になっているんだから。文学で言えば、ドストエフスキーでもトルストイでもカフカでも客観芸術に決まっているわけで。
 高 うん。
 那 我々の言い方だと「無我表現」という言い方もできるけれど、自我なんか超えちゃったうえでの形式美だから当たり前の話で、そこに至っているか至っていないかという差があるだけであって。エンタメという観点から見ればまた別の物差しがあるけれど、何も宗教的な芸術とかゴシック建築だけが客観芸術じゃなくて、すべての芸術は客観芸術ですよね。そこにおいて主観芸術と客観芸術と分けるというのは、グルジェフが提唱した概念としては一つの意味があるけれど、それに則って芸術を分けて考えるようなことをすると勘違いしてしまうというか。すべての芸術は客観芸術です、当然。そんなのは当たり前のことで、芸術を目指して格闘している人たちにとってはそんなことは分かりきっていることだから。ただ、今の時代は分かりきっている人が少なくなっているというのも事実かもしれないけどね。
 人間を解放するものは、一つの情報や内容ではなくて、表現の仕方とか、生き方とか、あり方とか、内容というのは絶対に諸法無我で諸行無常で変化して行ってしまうものだから。それこそ先ほどの『あげくの果てのカノン』のヒーローのように。ヒーローはヒーローのままでいない。それこそ、グルはグルのままでいない。固定的な、絶対的な、素晴らしいと思った人は、必ず違ってきてしまう。固定したものはないわけだから。だからその固定した何かではなくて、固定したものはないという変化の中で、それこそそれをどう繋ぎ合わせ、重ね合わせ、形式化して、自分の宇宙として、それこそ「カノンしていくか」というかさ。そこにおいて人間の自由とか創造とか可能性というものがあるわけで。
 あるいは死というものに対しても、内容は消えちゃうかもしれない。でも、形式の中に自分が生きていると思えば、その形式の中に生き続けることはできるかもしれない。そう考えると、限界というものがなくなって、死さえも未知なるものの中に息づくようなあり方として生と繋がっていく。個という固定的なものがなくなることによって、あり方自体が自分になっていけば、あり方というのはあるものなんだから。死んだ後も。そういう風に捉えられる。これを口で言うと難しくなってしまうけれども、自然を観れば単純なことで。言葉というのはやっぱり限界があるから、内容でどうしても語ってしまう。形式自体で表現できるようになれば、響くこともあるかな、と。今、それを明晰に感じますよね。ただ、そんな風に響いて来る作品に中々出会えないのも事実なんです。


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★編集後記
◎この年齢になると、ああ、今年もあっという間に終わるのだなあ、という平凡な感慨しか出てこなくなっていることに、危機感を覚えています。今年は本業の方でさまざまな人間模様を目にすることが多く、諸行無常というか人生いろいろというか、芸術表現という抽象化された世界とは別に、具体的な生活表現の中での無我表現とは何か、を考える機会を与えられた気がします。来年はそれをもう少し明確にできればというのが現時点での課題かなあと漠然と思ったりしています。(高)

◎今年も毎月は投稿できませんでしたが、時々書かせていただき、ありがとうございました。軽い捻挫やちょっとしたヤケドをしてしまったのですが、その痛みが、改めて体の痛みや感覚に気づかせてくれたりしました。大きく体調を崩すことなく、元気でいられたことに感謝し、来年こそは、ちゃんとした投稿をしたいと思っています。(土)

◎2017年は、世界情勢を見渡しても、グローバリズムとナショナリズムの二極化が進んだ年でした。自分としては、個性の調和というところに可能性があるような気がするのですが・・・自我主体ではない表現とは何か? そこにどんな可能性があるのか。実生活はともかく、このメルマガ内ではできるだけ真面目に探っていきたいと思います(いつも、大上段に語っているのを恥ずかしく思っているのですが……恥を忍んであえてやっております)。研究会としても少しずつ風通しをよくしていきたいと思いますので来年もよろしくお願いします。(那)



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創刊日:2011-08-08  
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