芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


全て表示する >

MUGA第73号

2017/08/15

MUGA 第73号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

MUGA表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次


◇評論

アニメ映画雑感 
『君の名は』『世界の片隅に』『聲の形』から見えてくる現代

那智タケシ

◇評伝

天と地をつなぐ者 五井昌久伝 その5

高橋ヒロヤス

◇エッセイ

ひと夏の、幻のような、患者さんたちとの海。
                         土橋数子


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◇評論

アニメ映画雑感 
『君の名は』『世界の片隅に』『聲の形』から見えてくる現代

那智タケシ

●『君の名は』――ディズニーランドのリアリティ

 昨年、同時期に公開されて、ヒットした『君の名は』『世界の片隅に』『聲の形』の3つのアニメ映画は、世界観、形式、客層とそれぞれこの時代の多層性を象徴するようなバラエティに富んだものだったと思う。そこで改めて、これらの作品が何を表現し、現代の何を象徴していたのか、思いつくままに語ってみたいと思う。

 まずは最もヒットした『君の名は』だが、この作品を単なるマーケティング手法によって成功したエンタメ作品という風に見るのは、少しもったいない気がする。ある種の人にとっては、「タイムリープ」「入れ代わり」「現代風のヒット曲」といった一般受けするだろう要素てんこ盛りのこの作品の「あざとさ」に目がいってしまい、どうしても正当に評価する気にならない、という生理的反応を持つことだろう。「計算通り当たってよかったね」「でも、特に何もない作品だね」という風に。当初、自分も計算し尽くして面白く作った作品だなぁ、という第一印象で、それ以上のものは何も感じなかった。

 しかし、よくよく考えてみれば、マーケティングやら、計算やらでこれだけ当たるエンタメ作品が作れるはずもなく、実は、そのパッケージの土台になっているのが新海誠監督の自然表現や、事物表現だからこそ、この「物語」が許されているのではないか、と最近、気づいた。この監督は『秒速5センチメートル』などの作品に代表されるように、花や、ベンチや、自転車や、牛乳の紙パックや、ゴミに到るまで、何でもない対象を一つひとつ価値あるものとして描ける非凡な才能がある。対象を差別することなく、記号的要素を廃して表現し、独自な作品世界を創れる立派なアーティストなわけだが、その土台を存分に利用し、計算し尽くしたエンタメを作ったのだからこその完成度だったのではないか。

 そう、この作品のリアリティはこの事物や自然描写によって支えられている。一見、記号的物語にすぎないこの作品に生命が与えられているのは、キャラクターの描写ではなく(キャラクターの造形や、性格もまた、マーケティング的な手法によるものに見える)、背景描写である。
 本来、新海監督はストーリーテーラーではなく、風景画家+抒情詩人という要素の静物画的なアーティストなのだが、そこにヒットメーカーのプロデューサーがミックスされることで、非常に完成度が高く、生き生きしたエンタメ作品が生まれてしまった、ということだろう。だから、確かに、人々の心を満足させるジェットコースターストーリーに仕上がったのだが、その世界に我々が素直に入り込むことができたのは、ストーリーではなく、どちらかと言えば緻密な背景のせいである。その背景は確かに、満天の星の描写など一般受けする美しき対象をセレクトしたものだったけれど。

 問題は、その独自な世界観をストーリーに寄与するものとして割り切って使ってしまったことで――だからこそヒットしたのだが――一新海ファンとしては、やはり芸術家としてあり続けて欲しいし、ストーリーを世界観に寄与させるというくらいの気概を持って欲しいなぁ、と感じた次第である。事物それ自体が物語を超えて、救いになっていくような……

 この映画を観た多くの人にとって、彼の世界観はディズニーランドの世界を支えるリアリティとしての役割しか持たなかったのかもしれない。夢の国を破綻させないため、娯楽にその身を捧げる芸術――これはある意味、時代を象徴する作品かもしれない、と思った。

●『この世界の片隅に』――無自覚なマリア

 続いて、『この世界の片隅に』だが、この作品については総合的に見て素晴らしい出来だと認めつつも、観終わった後、素直に拍手できないというか、何か引っかかるところがあった。確かに、手描きを意識した独自で柔らかいタッチは、あの時代特有のアナログ的な温かさを伝えてくれるものだし、徹底した時代考証による建築物描写やストーリーの作り込み、日常と戦争の非日常の見事なコントラスト。のんという声優を得て、アニメの一主人公という以上の存在となった「すず」や、実際に現場にいるような感覚を味わわせる空爆時の音響効果等々、ある種の反戦映画として見た場合、これ以上ない出来の作品だと言っていい。それでも、何か引っかかったのは、「すず」の無自覚さ故ではないだろうか。

 おっとりしていて、どじで、控え目で、それでいて芯が強くて、一生懸命生きる朴訥な少女――これらの要素は、言わば古くからある日本的なアイドルのアイコンであり、彼女はこの作品世界における聖母の役割を果たしている。戦争と原爆の破滅が迫る中、自らも過酷な運命に見舞われ、それでも前を向いて、日常を生きようとする主人公――そこに、日本的霊性とでも言うべきものの希望と復活をこの作品は見ている。それは、極めてクラシカルな原点回帰の希望であり、おそらく保守的な世界観を持つ(あるいは憧憬する)ミドルエイジ以上の多くの観客から圧倒的な指示を得たのも頷ける。すずのあり方は、日本人的にみて「美しく」「正しい」からである。彼女はマリアの癒しとジャンヌ・ダルクの勇敢さを併せ持ったヒロインであり、それを希望の種として描くのは表現として正しい。それでは何が引っかかったかというと、タイトルと表現しているもののずれにあるのではないか、と思う。

 この映画のタイトルは『この世界の片隅に』である。確かに、呉は造船所などがあり、空爆のターゲットとされている場所でありながら、被爆地から少し離れている。その微妙な場所を舞台にした、戦争中の一般市民の日常生活を描くこの作品は、タイトル通り「世界の片隅」の作品である。彼らは、神風特攻隊でもなければ、はだしのゲンでもない。こうした人々も世界の片隅で一生懸命生きていたんだよ、というさりげない日常を描くことでこそ、反戦のメッセージ性に説得力が生まれるというコントラスト。この構図は、戦後70年の時が過ぎたからこそ、今、説得力がある。

 問題は、主人公の少女が、この作品世界においては、「世界の中心」に居続けることにあるのではないか。もちろん、主人公なのだから真ん中にいて当たり前なのだが、彼女自身は当初、自分を何でもない、誰の役にも立たない、世界の端のお荷物のような存在として自己認識している少女、という風に描かれている。しかし、彼女は無自覚ではあるものの、常に世界の真ん中にいる。他者は、彼女にとって自分と等しい価値のあるものでもなく、あるいはまったく異質な、自分の知らぬ何かを持った存在でもない。この作品における他者は、厳しく言ってしまえば、「役割」としてしか描かれていないように見える。両親も、許婚も、意地悪な叔母も、定型の日本人的役割を彼らは演じている。そして、世界の中心にいて、彼らを存在せしめているのは、すずである。

 誰かが(私の知人)、「すずさんは時代や環境によって受動的に運命を支配されているように見えて、実は全部自分で選んでいるように見える」と言ったが、なるほどな、と思った。彼女は、本当に異質なものに翻弄されたり、他者によってアイデンティティの葛藤を覚えたりしているわけではない。過酷な運命にはあったものの、彼女は役割を生きる人々を役割のままに認め、受け入れ、許し、愛しているように見える。他者は、彼女の世界において、それぞれが異質なものではなく、葛藤すべき相手ではない。均質化された日本という世界の一部であると同時に、彼女の肉体の一部である。だからこそ、そこにあるのは戦争という巨大な怪物に翻弄される個々の無力な者たちそれぞれに対する熱烈な慈悲というよりも、彼女の世界に包まれ、癒され、救われた人々の姿なのである。すずは、そのあり方において、この世界の母体であり、すべてを等しく優しさで包み込む聖母である。

 聖母を聖母として描くのなら、それもまた一つの表現である。しかし、それが原作に起因するものなのか、監督に起因するものかわからないが、その愛のあり方をある意味、無自覚に絶対化している作り手の信仰のようなものが、違和感になっているのではないか、と感じた。

 一見、すずのあり方は、この混沌とした時代を一気に解決する模範のように見える。すべての悲劇と葛藤を日本的霊性・母性で包み込み、一般化して救済する。作り手も、そのような形でこの少女を表現し、無条件に希望を託しているかに見える。しかし、彼女の愛はあくまで自分の信じる胎内世界に向けられたものであり、彼女の怒りは自分の世界が壊されたことに向けられた怒りである。そこにあるのは戦争やファシズムに対する無力な個人の戦いや祈りではなく、相手と同じくらい巨大な、日本という一つの国の祈祷であるように見える。すずは、日本という破壊され、失われつつあった国家幻想の象徴だったのではないか。

 多様性を多様性のままに調和させ、新しい意味を生み出すために戦い、挑戦すべき時代における無自覚で、ノスタルジックな、美しい信仰。だからこそ、この作品は祈りにも似た強烈な感情をある種の人々に与えると同時に、その非現実性故に、この世界のリアリティからずれているという違和感をどこかで味わわせる。言わば、信仰領域の作品ではないか、と個人的には思った。

●『聲の形』――他者宇宙との関係性を求めて
 
 実は、最近、この作品をレンタルで借りて観た。それがこの論評を書こうと思ったきっかけである。上の2作に隠れる形で何となく見過していたのだが、3作品の中で最もシンパシーを覚え、何度でも観直したいと素直に思えるのは、この『聲の形』である。

 小学生時代、耳が聞こえない少女をいじめた少年が罪悪感から自己否定のスパイラルに陥り、高校生になって再会した少女に贖罪することで自分を救おうとする、という、一見、よくありがちな思春期葛藤もののストーリー。いじめられた相手(耳の聞こえない少女)が、いじめた相手を好きになるなんてありえるのか、とか、様々な意見もあるようだが、この作品の素晴らしいところは、トラウマの解消や、世界との和解に到るプロセスを、直線的ストーリーとしてではなく、他者との厄介な関係性だけで構成し、しっかりと描き切っていることである。

 罪悪感から自らの肯定的アイデンティティを確立できなかった主人公にとって、クラスメイトの顔は認識されず、「×印」として表現される。自分は青春を生きる彼らの土俵に立つことができないし、彼らもまた自分という存在を認めていない、視野に入れていないのだ、という気持ちから、クラスでも完全に孤立している。彼にとって、顔のある存在は、自分を認めてくれている家族や、かつていじめた少女だけである。しかし、少しずつ彼の存在を認める人々が現れるにつれて、「×」は一枚、一枚はがれていく。とは言っても、それはあくまで自分を認めてくれるかどうかという点によって決定され、嫌なことや、不愉快な過去を思い出させるような行為をした相手には、再び「×」が付き、他者として認識しなくなる。

 この作品の主人公は、閉じた世界の中に生きている。表現において重要なのは、この主人公が「閉じている存在」であることを作り手が客観的に認識しているかどうか、ということである。そして、この作品では、それは極めて自覚的に表現されており、その自覚性こそが、逆説的に他者を認めることになっている。いわば積極的に他者なき世界を生きている主人公を描くことで、その外に他者がいることを表現しているのである。

 実際、「×」が取れて表れ出てくる他者は、彼のトラウマ解消の内的ストーリーを補助する役割として現れてくるのではない。他者は他者であり、彼の都合の良いストーリーを補間してくれる存在ではない。感動的なエピソードだからといって、彼らは一緒に感動しないし、彼の救いに特別な関心があるわけでもない。それぞれがそれぞれの世界を生き、それぞれに勝手なことを言う。極度の自己愛に気づくことができず、勘違いして正義を振りかざす者もいれば、優しく見えて卑怯で、弱気な自分に葛藤する少女もいる。彼らは、彼らのストーリーをそれぞれに必死で生きている。簡単にわかり合うことも、抱き合うこともない。ここには大調和も、大和解も、すべてを包み込んでくれる聖母も、一なる絶対への信仰も存在しない。しかし、だからこそ他者であり、それぞれが自分と同じ価値を持つ大事な存在であり、愛に値する、意外な、未知なる存在として眼前に隆起してくるのである。

 物語の最後、学園祭でにぎわう校内を、かつていじめた少女や、友人たちと主人公の少年が歩くシーンがある。喧騒の中、突如、少年の目が開く。今まで他者として認知せず、顔を持たなかった学生たちや、すべての人々の顔から「×」が剥がれ落ち始める。すべての人々の顔が、それぞれにはっきりと見える。大人も、子供も、クラスメイトも、先生も・・・それぞれの人間の顔が、今、はっきりと見える。

 瞬間、彼は呆然と立ち尽くし、泣き出す。その涙は、トラウマを解消したことによるものでもなければ、友人と楽しく青春ができているという夢のような事実によるものでもなく、いじめた少女との友好的な関係によるものでもない。その涙は、こうしたわかりやすい因果のストーリーとは何の関係もない。彼は、一つひとつ、別々の宇宙を持った、それでいて確かな存在であるところの他者に囲まれ、他者と関係しているという、ただそのままの事実に感動し、涙しているのである。言わば、個人的かつ閉鎖的な内的ストーリーの果てに、それを終わらせ、他者に向かって開いた存在になることで……

 他者は、彼の涙を理解しない。なぜ彼が泣いているのか、親友も、心を通じ合わせた耳の聞こえない少女も、おそらくは理解しない。なぜなら、彼らは他者であり、彼の宇宙を生きてはいないからである。その救済は、トラウマ解消という直線的物語の果てにあるものではなく、皆が共有するお約束のハッピーエンドでもなく、極めて個人的な目覚めだからである。しかし、個人的であるが故に、社会や時代から抑圧され、虐げられているところの我々人間存在を救済する可能性が示されているのである。

 その救済は、おそらく「他者との関係」という新しい宇宙へと我々を誘っている。この無限で、困難で、多様性に満ちた世界に対する開眼と受容――ここから、一人の人間の人生が始まるのだ。その地平には、この記号化された世界を打破する希望があり、叛逆がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◇評伝

天と地をつなぐ者 五井昌久伝 その5

高橋ヒロヤス

背後霊の命ずる修行に明け暮れていた昌久は、ある日、足の向くままに身体を運ばせていくと、いつの間にか、M嬢の職場の近くに来ていた。

そのときちょうど呼び出されたようにM嬢が出てきた。突然の来訪に驚いたように、

「どうなさったの突然」

「ちょっとそこまできたのでね」

「じゃあちょっとお待ちになって。ちょうど土曜日で今帰ろうと思っていたところなのです。仕度してきますから」と言って、5分ばかりして急いだようにして出てきた。

二人は連れ立って外へ出た。黄昏にまだ大分間のある6月の街中は、輝くように明るい。よれよれの夏服にぱっくり口の開いた靴をひきずりながら歩いている昌久の姿が、その明るさの中にはっきり画き出されていた。

「しばらくお会いしない間にずいぶんお痩せになりましたねえ、まるで別人のように。本当にどうしてそんなにお痩せになったのでしょう」

「ええ、修行してるんでねえ、それに絶食してるんです」

「お体を大事になさらなければ・・・」

M嬢はそう言いながら、みじめに痩せ呆けうらぶれ果てた昌久の姿を、見ていられぬとばかり目を逸らした。昌久とM嬢は文通だけでこの2か月くらい会っていなかったので、急激な昌久の変わりように驚いたのは無理もない。

近所の人々も、昌久の歩いている姿を見かけては「五井さんの息子は、気が変になってしまったらしい。あんな良い人がかわいそうに」と噂し、わざわざ母親に見舞いやら注意を言いに来ることもあった。

物も食べず、めったに口も利かず、口を開けば突飛なことばかり喋り、それといって別段人に迷惑もかけず、いわゆる狂人じみた真似もしないし、かえって病人などを治していたりしている息子なので、母にもどうにも見当がつかない。もう半ば亡き者とあきらめて、昌久のするに任せていたのであるが、その心配はなみなみではなかったろう。

M嬢もまた母と似た感情の波に心が苦しく悲しかったに違いないのであった。

二人はどちらが言うともなく明治神宮に行ってみようということになり、代々木駅まで電車に乗った。

神社の境内に入っていくと、昌久は突然、
「ああ、明治陛下だ、明治陛下だ、あの青空の中に明治陛下がいらっしゃる。Mさん頭を下げて、頭を下げて」
と最敬礼の姿勢をした。M嬢も気勢に押されて思わず頭を深く下げた。道行く人が不思議そうにこの様子を眺めて通り過ぎる。M嬢は羞恥と悲しみに入り混じった感情に襲われ、顔を真っ赤に火照らせながら、「とうとう狂ってしまった。本物の狂人になってしまった」とこみあげてくる涙をこらえかねていた。

「さあ、行きましょう」
昌久はそんなM嬢の様子にほとんど気づかず、癖のように目を宙にして歩き出した。もはや悲しみで言葉を失ったM嬢は、すすり泣きしつつ昌久の後をとぼとぼとついてきた。

神宮を出るころ、やっと泣き止んだM嬢は、気を引き立てるように、
「私、この頃フランス語習っているのよ」と話しかけた。
昌久は、「フランス語、ああフランス語ね」と言うと、何やらペラペラと外国語めいた言葉が際限なく口から流れ出てきた。彼女はびっくりしたように昌久の口元を見つめる。
「どう、このフランス語」
「あら、そんなフランス語、私まだ習ったことありません」
そう言うなりM嬢はまた泣き続けた。

別れ際にM嬢は千円ほどの札を昌久のポケットに入れた。
それまでは背後霊団に肉体行動のすべてを任せていた昌久は、思わず、自分自身の言葉で、
「ありがとう、Mさんありがとう」
と言って、現在の自己の立場に思い至った。

天使か悪魔か、いまだにはっきり正体のわからぬ背後霊団に肉体行動のすべてを委ねて4か月あまり、日々の苦行に耐えてきた昌久も、この時ばかりは、昔の我に返りたいと切望した。自分の意思で、自分の想念で、自由に自己の信ずる道に邁進できる普通人をうらやむ心が激しく起こってきた。

そのとき、その心を察したようにM嬢が、
「あなたが今後どんなふうになっても、私はあなたについてゆきます。あなたがもし狂人になったとしても、私はあなたを離れることはしません。あなたが一銭の収入がなくても、私が働いてゆきます。心配なさらないで時機を待ちましょう。きっと神様が、私たちの純真な祈りを聞き入れて下さると信じています」とはっきり言った。
昌久は胸もとの熱くなってくるのをじっとこらえていた。

ある日、霊団は昌久の頭脳の中で、さまざまな問答をしかけてきた。

「人間とは何か?」

「神の分け御霊です」

「神とは何か?」

「宇宙に遍満する大生命であり、生命原理でもあります」

「大生命とは一体何か?」

「在りて在るもの、すべてのすべてです」

「在りて在るものとは何か?」

矢継ぎ早の質問に答えがつまると、頭をギュッと締め付けられる。頭がガンガン鳴って来て、顔がみるみる充血してくる。耐えかねて、
「わかりません」と答える。

「分からないのじゃない。人間の言葉で言えないだけだ。おまえはすでにわかっている」

たしかに、心の奥ではわかっているような気がする。言えないということと、分からないということとは違うのだと思った。

「では、人間は何のためにこの肉体として生まれているのか?」

「神様の創造原理をこの地上界に実現するためです」

「よし、では、おまえは今のような答えをどこから考え出して答えているのか?」

この問答は、答える側に少しの時間も与えない。即座に答えなければ、頭をぐいぐいしめつけられる。ひびきに応ずるように答えなければ肉体に苦痛が与えられる。

「私の本体からです」
「本体とは宇宙神か?」
「宇宙神でもあり、私の真我でもあります」
「では、おまえの真我が宇宙神か?」
「宇宙神の一つの生命原理であり、創造原理であります」
「おまえの肉体は一体何か?」
「真我の器であります」
「おまえの個我はどこにある?」
「幽体と肉体にあります」
「個我とは神か?」
「神を内に含んだ因縁生です」
「するとお前は因縁生か?」
「因縁生をやや離れかかっている神の分け御霊です」
「釈迦牟尼はどういう人だった?」
「因縁生から解脱して神我一体となった覚者です」
「おまえも釈迦牟尼仏のようになれると思うか?」
「私の本体が知っています」
「釈迦牟尼仏も、おまえのように、こうして頭の中で指図されたり、教わったりしたのか?」
「覚者になってからはそのようなことはなかったと思います。神であるご自分が肉体そのままですべてをなさったのだと思います」
「イエスキリストはどうなのだ?」
「やはり同じだと思います」
「そんな偉大な人が、どうして磔になったのだ」
「キリストは磔にはなりません。磔になったのはキリストの器である肉体だけです」

昌久がこう答えたときには、霊団側も感心したようであった。

「人間世界の苦しみを救うにはどうすればよいのか?」
「人間の本体を知らせ、神の理念を知らせることです」
「どうして知らせるのか?」
「それで私も苦しんでいるのですが、真理の書物をできるだけ早く、できるだけ広く、普及させることだと思います」
「本を読んだだけで皆が悟れるか?」
「それが一番問題です。現在の私の心境でははっきり分かりません」
「書物の他には何で知らせるのか?」
「祈りです。神我一体の祈りで人類世界の業(カルマ)を浄め尽くすことです」
「これほど深い業生の波がそうたやすく清まるか?」
「たやすく清まるとは思いませんが、私は祈りに勝る方法を知りません」
「おまえの祈りは一体どうやるのだ?」
「人類世界の運命をそのまま背負った気で、神である私の本体に全部お任せしますという祈りです」
「そういう教えに大衆がついてくると思うか? もっと現実世界に直接働きかけるやり方が必要なのではないか?」
「私も以前は悩みました。それで現実世界をたちどころに良くしてゆけるような神秘力を求めました。しかし、もし私が釈尊のように自分自身で神秘力を発揮できるようになったとしても、直ちにこの現実世界を良くできるとは思いません。どうしてもある定まった時間が必要だと思います。他にどんな思想や現実手段が取られたとしても、魂の浄化がなく、神と自我が一体とならない以上は真の世界平和はできっこないのですから、私たちの祈りが必要でなくなることはありません」
「そんな悠長に祈っているうちに戦争や天変地異で地球が滅びてしまったらどうするのだ?」
「地球が滅びたとしても本体の神性を知っている者や知ろうとしている者にとってはたいした問題ではありません。しかし神は大愛なのですから、多くの人類にそのような強い恐怖を与えることなく、お救い下さることを私は信じております。そうでなければ私一人のためにあなた方のような霊人や神霊がこのようにご指導して下さるわけがありません。私は今になってイエスキリストの『御心のままになさしめ給え』という言葉がはっきり体得できました」

霊団側からの質問はこれで終わった。霊側の言葉はすべて人声と同じひびきで昌久に聞こえていたのであるが、この日を最後に、こうした人声や自動書記はすべて止み、再び昌久の肉体行動に干渉することはなくなった。

昌久の想念停止(空観)は完成した。昌久はものを思わなくなった。が、必要があれば語り、用に応じて手足を動かし体を働かせることもできた。五井昌久という肉体的個人はもはや存在せず、過去生からの想念すべてを天に還してしまい、天と地の間にただスッキリ澄みとおった器としての肉体があるのみであった。

霊側の最後の言葉は「明日の晩には何か変わったことが起こるだろう」であった。

つづく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◇エッセイ

ひと夏の、幻のような、患者さんたちとの海。
                         土橋数子

 終戦記念日を過ぎると、夏の光の色が変わる気がする。(エッセイっぽい出だしだ)今年の夏は天候も不安定だったが、海水浴、プール、花火、盆踊りなど、皆さん夏らしいイベントは楽しまれただろうか。今回は私の夏のワンシーンを、短めだが、お伝えしたい。

 ライターを生業としている私のところに、一本の電話が入った。
「まだライターやってますか?」
とある医療関連編集部からの久々のご依頼は、重病のお子さんたちと海で一泊するキッズキャンプの取材。ちょうど「海の日」に当たる7月、私は九十九里海岸まで取材に出かけた。

 このキャンプを主催・運営するのは、訪問看護師さんたち。ふだんケアをしている患者や利用者さんたちに、「海を見せてあげたい、海で遊ぶ体験、行くだけじゃなくて、海の家でバーベキューして、コテージに一泊して、スイカ割りして、泳いで、波打ち際で貝殻を探したり、そんな体験をさせてあげたい」という思いから企画、実現して、今年で3回目とのこと。特に大きな病院や団体のバックアップがあるわけでもなく、やりたいと思ったからやっている、という感じだった。
これまで参加されたのは、18トミソリー(染色体異常で出生率、生存率は低い)のお子さん、腫瘍を抱えたお子さん、子どもだけでなく、ALSの成人男性(筋萎縮性側索硬化症・「アイス・バケツ・チャレンジで話題になった難病)、パーキンソン病の82歳女性という方々。参加者は看護師、介護士、栄養士、医師、薬剤師、病院事務職、看護学生、ボランティア、介護タクシーやマイクロバスの運転手は泊りがけの人も。
海水浴や旅行がなかなかできないのは、患者さんだけではなく、その家族もそうだ。特に、病気の子の兄弟姉妹は、親の苦労を間近で見ているため、得てしていい子で、がまんすることがとても多い。(こうした子どものケアは課題になっている。)どんな夏のイベントも子どもにとっては待ちに待った日だと思うけど、こうした家族にとっては、さらに待ちに待った日なのだ。

 主催者は、事前の下見に通い、参加予定の方がその日に海に行けるかどうか、数か月前から当日の朝まで健康チェックを行い、海の近くのコテージにはレンタルした介護用ベッドを用意したりと、電話やLINEなどで入念な準備をしていたが、かといって、ものものしい雰囲気はまったくなく、サングラスにビーチサンダル姿で、「日焼け止め塗った〜?」とか「もう下に水着きてきた〜」とか、はしゃいでいらっしゃる。なんかもう、すごく楽しそうだし、ついてきている私も楽しい。
 看護師さんは「やりたいと思ったら、どうやったらできるか考えて、やってみて、やり方を改善するところはして、またやると、それが積み重なってノウハウになる。みんなもできるよー、と伝えたい」とおっしゃる。医療器具や介護用品がないと、医療者や介護者がいないと外出できない。でもそれは、あれば、いれば、できるんじゃない? という発想。何か特別に世の中に対していいことをしたいという意識ではなく、職務を楽しくまっとうしたいというシンプルな動機だ。

 その日は晴れ時々曇りの過ごしやすいお天気。海の家を半分貸し切って、バーベキューで盛り上がる。(あとの半分はなぜかインド人男性たちのグループで、インド音楽をガンガンかけて盛り上がっている 笑)
ALS患者さんの担当の看護師さんが「看護サービスを提供するときは、ケアする人とされる人の立場だから、こういう人間対人間のつきあいがしたかったんだよね。ビールも飲みたかったし!」とごきげんだ。それを聞いたALSの患者さんは、わずかにうごく目の筋肉をギュッと寄せて、笑顔を見せてくれた。

 医療連携とか、地域包括ケアとか、これから病床が少なくなり医療費を削減しなくてはならない日本において、医療者のネットワークが大切だといわれているが、お上(厚労省とか)や意識高い系の枠組みを作る人の机上ではなく、現場の方々が作り上げているネットワークは力強い。

 お腹もいっぱいになり、水鉄砲やスイカ割りではしゃいだ後は、浜辺にあらかじめ貝を撒いておいたスタッフから「おーい、潮干狩りだよ!」と声がかかる。
みんなで波打ち際で貝を探したり、海を眺めたり。波しぶきの音と歓声、賑やかで、穏やかなひととき……。私は仕事上シャッターを切りながら、「これは幻なのか?」と、静かに心をふるわせた。

房総の海はフェリーニの海、だね。

今回、第1回目に参加した18トミソリーのお子さんは、その年の秋に亡くなったという。「短い生涯のなかで、できなかったことは多かったけど“家族で海に行く”ということはできたんですよね」と、ご家族は言う。(今年もOB参加をされていた)

残りの夏、皆さんに等しく、小さくても何かいい思い出ができますように。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◎編集後記
 巷は物騒な雰囲気にありますが、個人的には不規則な生活ですっかり夏バテというダメな日々を送っています。夏を乗り切り、涼しくなったらバス釣りにでも行きたいと思っているのですが・・・MUGA研でも映画鑑賞会とかできればな、と考えています。新しい出会いがあれば楽しいですね。(那智)




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
記事を読んだら、あなたの評価をつけてください。
評価は3段階で簡単にできますので、本メールの一番下からご参加ください!
___________________________________
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2011-08-08  
最終発行日:  
発行周期:月刊  
Score!: 98 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。