芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第65号

2016/12/15

MUGA 第65号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

MUGA表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇詩 

例外者たちの詩(うた)  那智タケシ

◇特別企画

●2016年 今年観たもの聞いたものベスト5

◇座談会

●『この世界の片隅に』を巡る座談会  

現実とフィクションの境界線の揺らぎ

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◇詩

例外者たちの詩(うた)    那智タケシ

  秘密主義者

 彼女は、小さなことを秘密にした
 どこに住んでいるとか、
 結婚しているかどうかとか、
 誕生日とか、
 学生時代のこととか、
 これまでどんな青春を送ってきたかとか、
 諸々のことを秘密にした
 だから、誰も彼女が何者かはわからなかった

 彼女は、一番大切なことをしゃべらなかった
 自分が愛している過去の思い出や、
 大事な人や、
 家族や、
 友人や、
 友人の裏切りや、
 彼女を信じていた人がいたことや、
 信じることをやめさせた経緯なども、
 決して話そうとしなかった
 だから、誰も彼女が何者かはわからなかった

 にもかかわらず、
 彼女は彼女自身でいることで、
 何一つ秘密にすることができなかった
 なぜなら、彼女は彼女であるだけで
 秘密そのものを生きていたからである
 彼女そのものが秘密だったからである
 だから誰もが、
 何一つ聞かなくとも、
 この人はそういう人なのだ、と
 ひと目で見ることができるのだった
 彼女がどれだけ自分のことを秘密にしても
 秘密はそのままでそこにあるので
 残念ながら、すべては白日の下にさらされているのだった

 小さな、かわいそうな秘密主義者
 彼女はまるで幼児のように
 自分の宝物を大人たちに見つからぬよう
 汚されぬよう
 侵されぬよう
 小さな引き出しの中に必死に隠し持ち、
 おびえながら、
 警戒しながら、
 世間の隅でひっそりと生きているが、
 そのあり方こそが秘密そのものなのだ

 しかし、彼女の秘密を知る者は、
 結局のところ誰もいない
 なぜなら、その秘密を解き明かすことは
 お天道様の下では容易なことではないからだ
 秘密というのは、
 光に照らされると見えなくなってしまうのである


  審神者(さにわ)

 この世界には、いろいろな役割の人間がいるものだ
 漁師だったり、農家だったり、
 職人だったり、役人だったり、
 商人だったり、教師だったり、
 世の中を潤滑に廻すために、
 相互扶助の関係を生み出すために、
 目に見える形で様々な仕事があり、
 因縁があり、
 役割があって、この世界は成り立っている
 けれどもその役割の中に、
 歯車の中に、
 一見、当てはまらない存在がいる
 どこにも当てはまるパーツがないし
 担うべき場所がないのだ
 しかし、そうした奇妙な存在なくしては、
 実は世の中は廻らない
 その目に見えない役割を担っている一人が、
 審神者である

 彼は、表立っては社会的役割を担っている
 しかし、それは「生きる」という義務によってであり、
 運命によってではない
 彼の運命は役割の中にではなく、
 いわば、役割の外にある
 なぜなら、その役割の外にいる存在たちこそが
 この世界の歯車を廻していることを知っているので
 彼は夜な夜な彼らの元に出かけ、
 語らい
 時に議論し、
 その意味不明な言語を必死に翻訳して
 わかりやすい形でこの世界に伝えるべく努力しているのである
 その目に見えない存在こそが、
 世界の不調和を指摘し、
 歪みを正し、
 調和的な大宇宙を実現するために
 盲目的に働いている不思議な人々だと知っているがゆえに

 審神者は、光と闇の間を生きている
 この世とあの世の間を行き来して、
 そのどちらの言語も理解する
 しかし、彼は半端者だから
 どちらの世界からも余所者として認識される
 もしかすると、哀れまれてさえいるかもしれない
 しかし、人からも神からも距離を置かれる余所者だからこそ
 できる役割というのがあるのである
 担うべき義務というものがあるのである

 永遠の余所者
 その自覚を持つ者だけが
 審神者になることができる
 そう、誰にも理解されぬことを恐れぬこと
 それが唯一のこの職業の資格なのだ

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◇特別企画

●2016年 今年観たもの聞いたものベスト5  那智タケシ

 基本的には、今年の表現というよりも、自分が初めて出逢い、インパクトを受けた過去の作品が中心になった。マイナーであるゆえにもっとこの作品を知って欲しい、といった気持ちを優先させた。基本的には、座談会で述べたようにサブカル的なものの中に新しいものが見えた一年であったと思う。今月号の座談会のテーマになった『世界の片隅に』はまだ自分の中で未消化のところがあり、ランクからは外した。

1.『歎異抄』

 仕事の資料として読んだのだが、大乗仏教の奥深さに目を開かせてくれた作品。古典的名著ゆえにここで紹介するまでもないのだが、親鸞聖人による「南無阿弥陀仏」の解釈や、「悪人正機」の本当の意味等、浄土真宗というものの奥深さと、「自分が悪人であることを省みる」という自力否定を土台にして、「だからこそ阿弥陀仏が頼もしい」という絶対他力へと宗教的大転換していく流れには血肉を供えた説得力がある。

2.『サイの季節』バフマン・ゴバディ監督 2012年

 イランから亡命したクルド系イラン人監督による映画。生々しい、不条理な現実世界を受け入れることから初めて、言葉を超えた表現にまで映像という手段で辿りついた稀有な作品。ほとんど言語を絶した過酷な状態、心理的状況を表現するにあたって、空から亀が降ってきたり、海辺を犀が走っていたり、一見、何の脈絡も無い不条理な現象が起きるのだが、そのリアリティがこの世界の過酷さをそのまま表現している。今、私たちが向き合わねばならない問題に正面から切り込んだ傑作。

3.『シン・ゴジラ』庵野秀明監督 2016年

 放射能によって誕生した元祖ゴジラの不条理な巨大さ、暴力、破壊、といった象徴的要素を踏まえつつ、より生々しい、不気味な存在として日本独自の特撮技術を駆使して新しいゴジラが誕生した。原爆のアンチテーゼだった怪物が、原発を含めた人間のエゴが生み出した不気味なものとして復活する。人間は力を合わせて怪物を退治するというストーリーは特撮の王道だが、実は、シン・ゴジラが表現していたものは、私たちが封印し、排除してきたものたちの叫びではなかったか。そのリアリティを表現する特撮技術の素晴らしさに◎。

4.『秒速5センチメートル』新海誠監督 2007年

 『君の名は』が記録的大ヒットをした新海誠監督。作家性が薄められているという話は本当だった。静物画のように描かれた事物が、新海タッチともいえる柔らかく、ノスタルジックな、かけがえのないものとして一つひとついとおしむのように描かれる。花も、石も、廃屋も、生ゴミさえ、この作家の目には等価の価値を持つ表現の対象であり、人間もまたその一つであるという極めて無我的かつ調和的表現。仏教的に言えば諸法無我の世界が展開されている。ぜひこの作家性に原点回帰しつつ新しい道を探って欲しい。

5.『ほしのこえ』新海誠監督 2002年

 新海監督の処女作。基本的にすべて一人で手作りしたという25分の短編SF映画だが、懐かしいSF的透明感に満ちている。この監督が、なぜあれほどまでに地上の事象を慈しむように、一つひとつ丁寧に描けるのかが理解できた。恋人の少女が宇宙に旅立ち、残された少年が地球に残る。宇宙というものの非人間性と対比した地球的なるもののかけがえのなさ、という視点において、限りない愛が満ち渡る。これは『惑星ソラリス』と同じ構図である。タルコフスキーを絶賛し、真似する映像作家は多いが、実はこの「地上的事物への無選択な愛」という観点だけが、質的変容の扉を開くということを教えてくれる佳作。


●2016年 今年観たもの聞いたものベスト5  高橋ヒロヤス

今年出会った表現の中で、自分にとってインパクトがあったものを選びました。

1.『世紀の光』(映画、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督)

 アピチャッポン・ウィーラセタクン監督はタイ出身、自分と同じ1970年生まれ。これは2006年の作品で、ストーリーはあるようでない、断片的光景が映し出されていく。前半の緑豊かな田舎の病院の映像と後半の都会的で無機質な都市の病院の映像の対比。明るさと暗さ、科学と神秘、聖と俗、あらゆる二元性が不思議な不気味さを奥底に秘めながら交錯していく。『光の墓』という作品も観たが、これも魅力的な映画だった。

2.『グローバライズ』(小説、木下古栗)

 今年発刊の短編集。静かに始まり、後半はえげつない。意味の分からないものも含めて実験作。中原昌也よりは筒井康隆の継承者というべきではないだろうか? 声に出して読むと気持ちよさそうな文章多く(実際読んだ)、全頁から立ち上る狂気の匂い。個人的には『コンビニ人間』よりもこちらを推す。次回作を楽しみにしている。

3.『聖の青春』(映画、大崎善生原作、森義隆監督)

 映画は正直自分にとっては残念な出来だったが(原作の改変の仕方に納得できない)、この映画をきっかけに村山聖という棋士にスポットライトが当たったことは今年嬉しかったことの一つ。三浦九段のソフトカンニング疑惑など、今年は将棋界にとってはいろいろあった重要な1年だった。

4.『この世界の片隅に』(映画、片渕須直監督)

 今年観た中で、というのみならず、今まで見た中で一番心が揺さぶられた映画かもしれない。精緻に丁寧に片渕監督が情熱と愛情を籠めて作り上げた「すず」というキャラクターに声を載せたのが「のん」(本名:能年玲奈)というのは余りにも出来すぎた巡り合わせ。奇跡の一本だと思う。

5.『夕凪の街 桜の国』(漫画、こうの史代)

 2004年の作品に、映画『この世界の片隅に』のおかげでようやく出会えた。テーマ性の深さや巧みな物語の構成などは言うに及ばず、『博多っ子純情』や『じゃりン子チエ』を生んだ「漫画アクション」(双葉社)のお家芸(?)とでも言える抒情性にどうしようもなく全精神を浸してみたくなる。


●2016年 今年観たもの聞いたものベスト5  土橋数子

今年もリア充とは名ばかりの貧乏暇なしの合間をぬって、いろいろな催しに多少は足を運んだり本を読んだりした。その中でベスト5を、無我的かどうかに拘らず、とりあえず順不同でご紹介する。ちなみに『シン・ゴジラ』と『君の名は。』と『この世界の片隅に』は除く。

映画『裸足の季節』デニズガムゼエルギュヴェン監督  

トルコの女性監督の長編劇場映画デビュー作。トルコの田舎で、厳格な風習かつ女性の地位が低い村で生きる5人姉妹のお話し。少女の生命力がすこぶるまぶしく、めちゃくちゃかわいく、躍動している。こういう映像を見ると、近代日本の女の子は生半可な自由と制服というアイコンの中で弾けそこなっているように見える。それはさておき、そのまぶしさゆえに、一人の少女の悲劇的顛末が切ない。まだまだ女性蔑視の国も多いので、男女の差別なく、日本も他の国のことを言えた感じではないが、女の子もいっぱい勉強できて、自由に生きられる世界を願いたい。主人公が村を出て夜行バスでたどり着く、夜明けのイスタンブールの映像は、世界でいちばん美しい瞬間の中に、映画の中の人と一緒に居る気がした。

書籍『日本会議の研究』菅野完 扶桑社

去年からくらいからウェブサイトの連載にハマって読んでいたら、新書として出版され、ベストセラーとなっていた。Amazonでもレビューがたくさんついている。膨大な資料を読みこんだり、現場に必ず足を運んで取材したり、著述業なら当たり前と言えばそうだが、そうじゃないのに偉そうに発言するTwitterな昨今、すごい労力を感じた力作。自分の考えや観念をとうとうと語って、結局なにも言ってないじゃん、みたいな本とは真逆で、資料や現場での取材に基づいた冷静な筆致に引き込まれる。そこであぶりだされた「実相」とは、ラスボスとは……、と小説を読んでいるような盛り上がりもある。今年の日本会議ブームを作った一冊であり、日本会議についてはこれ以外はあまり読まなくてもいい一冊。(たぶん)

ライブ『魔法的』小沢健二

今年はオザケンのライブに行けた年だった。それだけで幸せポイントが一つ高い年だった。ライブ評は原稿にも書いたが、「宇宙の力」などのスピ用語を使ってもぜんぜん大丈夫な地位を築き上げているのがすごい。商業主義に背を向けてオリジナルな活動の仕方をしているが、何かに逆らったりしている感じはなく、かといって長いものに巻かれているわけでもなく、育ちがいいと言ってしまえばそれまでだけど、細い体なのに胆力あるね。ファンとしては、一生ついていきます。

舞台『ニッポン・サポート・センター』平田オリザ

吉祥寺で小5の長女と観た初オリザ。現代口語劇の2時間は、暗転などなく、観ている2時間と同じ長さのストーリー。人生の中のリアルな2時間を共有するかのような演劇。隣で長女のコロコロと転がるような笑い声を聞きながら、「やばい、意味わかってる」とビビる。「お母さんの会社とかを2時間のぞいたみたいだった」との感想。俳優さんの力量、舞台の完成度は当然ながら高い。ついでにNPOが舞台で社会風刺も含む内容なので意識も高い系。驚いたのは、登場人物の抱えるすべての問題がどう解決したかわからないまま終わること。舞台の終盤になり、「ああ、もう解決させないのか」と、観客は静かに悟る。娘も「はあ、こういう終わり方があるんだ」とパチクリ。予定調和ではない終わり方があることを学んだ小学生はいいけど、なんだかもやもやする大人(笑)。でお面白かったので、次オリザも行きたい。

書籍『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集08』の「宇治拾遺物語」町田康訳 河出書房新社

古文というと、中高時代の勉強を思い出して頭が痛くなるし、現代語訳で読んだとしても、やたらと雅だったり、硬い文章だったりして、やはり頭が痛くなる。でもこの「瘤とり爺さん」は、頭は痛くならず、お腹が痛くなるくらい笑える。たぶん、昔の人もこんな風にオモシロ話に爆笑しながら語り継いできたのだろう。町田康は、面白く書いてやろうと思って書いているのではなく、たぶん、忠実に「訳」している。もしかして5セレクトの中でいちばんMUGA的かも。年忘れにおすすめの一冊。

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◇座談会

●『この世界の片隅に』を巡る座談会  2016 12/10 四谷の事務所にて

現実とフィクションの境界線の揺らぎ

那=那智タケシ(MUGA研代表・ライター)
高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
土=土橋数子(ライター)
N=N山嬢(会社員・アニメ好き)

●「この映画には宗教性がある」

 那 今日は年末号なので今、話題の『この世界の片隅に』についての座談会をやろうという話なんですけど、急に決まったこともあって、ぼくは映画を一回観ただけで何の予備知識もないので、助っ人にアニメに詳しいN山さんに来てもらいました。
 土 映画はけっこうお好きなんですか?
 N でも、しっかりしたものはそんなに観てないです。
 高 しっかりしたものって、そんなにないんじゃないですか?(笑)
 那 萌え系のアニメの絵とか抵抗あったんですけど、『まどマギ』とかN山さんに教えてもらったんです。
 土 私は観てないんですけど、『まどマギ』を宮台真司とかもいいって言ってましたね。
 高 でも、アニメって今、一番すごいですよね。日本映画で。観客動員もすごいし。
 那 結局ね、アニメか、シン・ゴジラのような作品ばかりで、実写で社会的影響力のあった作品ってあんまりないですよね、最近ね。
 土 今年は特に。でも、アニメって今年はいろいろありますけど、前からアニメの作品とかを観ていたんですよね?
 N そうですね。でも、今年は取り上げ方が何かちょっと違うなーという。今までもいい作品って、それこそ『マイマイ新子と千年の魔法』(片渕須直監督)もすごい良かったし、そういうのもちゃんとテレビとかで取り上げられてもいいかなって思ってたんですけど、今年が特にそういうのが取り上げられやすいという感じがします。
 土 この監督さんはジブリにいらしたんですか?
 高 昔、『魔女の宅急便』の監督をやるはずだったんだけど、途中で変わったりして、そこから独立したんですよね、確かね。
 N いろいろお詳しいので……
 高 いや、詳しくない。これ(『ユリイカ』2016年11月号 こうの史代特集)を観たからいろいろ。昨日買ったんですもん、これ。最近、本屋でも売り切れになっていたから。絵コンテ集もあるんですけど、まだ手に入れていない。でも、『世界の片隅に』はすごかったなぁ。今年観た映画では、というか今まで観た中でもアニメ、実写問わずかなり……
 那 確かに、傑作だなぁ、とは思ったよね、おれもね。ただ、最初から能年ちゃんだというのがあまりにもあって……
 高 ぼくなんかはそういうのがあるから(笑)
 那 感情移入しちゃってるんだよね。
 高 そうそう。
 那 だからそれをさっぴいて一度考えなきゃいけないな、と考えたことがあるの。
 土 ああ……
 那 あまりにそれで絶賛しすぎちゃうと、本質が曇っちゃうんじゃないかなってところで、見直した時に、おれはだよ? それぞれの人生経験とか、世界観によってど真ん中来るかとか、それぞれ『まどマギ』が良いという人もいれば、この作品が良いという人もいる。あるクオリティに行けば序列はなくて、好みの領域になっちゃうんだけれど、おれの中では真ん中ではなかったというか、あまりに能年ちゃんが良すぎてこの作品の本質が雲ってしまっていたな、というか。
 この作品の本質って何かと考えた時に、何だろ? 単なる反戦映画とも違うし、何か一人の女の子が真ん中にいる話。冷静に考えると他者があんまりいないんじゃないかなって感じがしちゃったのね。おれからすると。つまり、周作さんとか、姪っ子の晴美ちゃんとか、正直、定型句に・・・特に晴美ちゃんの描き方とかね、不幸になりそうとか。正直、すずちゃんから見た世界で、並列じゃないというのかな?
 例えば、フェリーニの『道』では、ジェルソミーナという存在がいて、ザンパノという存在がいて、という描かれ方とちょっと違うよね? たぶん、フレームのど真ん中に、ある種、聖母的なすずさんがいて、その力とか勇気とか愛によって復活していくストーリーという意味では、モノローグだからそれで良いのかもしれないけど、もしかしたらそこに何か見失っちゃうものがあるかもしれないな、とおれは思ったのね。
 高 うーん。
 那 だから、これ何なの?ってN山さんに聞いたの。これ、違和感があるんだけど何?って。そしたら、「この映画には宗教性があるんです」って言うのね。
 N そんな風には……
 那 言ったじゃん? おれは観たばかりでそれが何だかよくわからなかったんで、「何それ?」って言ったら、つまり「原作者にこだわりがあるんじゃないか」っていうところで、何か引っかかりがあるんじゃないかと。
 N 何か絵柄がすごい柔らかくて、私もやっぱりすごい好きなんですけど、その外観の中に一つ、どこかしら核じゃないですけど、熱い、熱を持った何かがあって、それがこの作品を魅力的にもしているし、返って、もしかしたらこの作品は・・・という方もいるのはそのあたりなのかなぁ、と思いまして。
 高 うん。
 N 映画版では監督さんも書かれてましたけど、女性的な部分を排除して少女的なものをメインに。
 高 うん。
 N たぶんそれを含めて、のんちゃんが声をやっていることで、かなり相対化されている部分があるんじゃないかなって気もするんですけど。たぶん、そぎ落としたその何かの所に残っているものと言うのでしょうか。それがものすごく、こう、引っかかる時は引っかかるものがあるのかもしれない、という話で。すみません、まとまらないですね。
 高 何かって言うのは何だろ? 原作者が何かすごく・・・
 N 盲目的な何か。
 高 盲目的に何かを信じているということ?
 N 何となく、ここ最近の話で、那智さんが「南無阿弥陀仏」の話をされた時に、こう、その言葉を唱えるという観点で、それは悪いことではなくそう唱えれば幸せになれると感じた時に、こういう言葉がもしかしたらこの方はあるのかなぁって。
 那 なるほどね。
 N そこで何となく言葉が見つからなくて、宗教性があるのかなぁ、という言葉で代用してみたのですが。
 土 原作者は古事記の本、書いていますよね? 『ぼおるぺん古事記』、私も取り寄せてこの漫画を読んだんですけど、今、大和言葉の仕事をしている関係で、そっちの方が先に来ちゃって、すごく古事記の世界を描きたかったというか、特に薀蓄があって始まる話じゃないんですけど、古事記の世界をこの人のタッチで描いていて、すごい面白くて。
 高 それは読んだの?
 土 一昨日届いたのでパラパラとしか読んでないんですけど、何かストーリーがうんぬんじゃなくて、何かぽーっとした時に読まないとワールドに入っていけないんですよね。だからまだ全部は読んでないんですけど。あー、なるほどと。原典にわりと忠実にしてあって。ある種の言霊みたいなことには、たぶん、古事記をやろうという人なんで、惹かれているとは思うんですね。宗教性というのかよくわからないですけど。
 那 極めて日本的な映画というのかな? 日本というものを信じている人という感じがするね。
 高 ああ……
 那 日本人の善良さとか、何か包み込む母性的なところとか、それが救いになっていくというところで、たぶん多民族国家とか、今のテロリズムのシリアの問題とかだとぬるく見られちゃうかもしれないね。日本だからこの方向が救いになっているけれど、原爆の問題とか、女の子が死んじゃうシーンとかは現代社会に置き換えると自爆テロとか、子供たちがああいう形で亡くなっているわけでしょ? その時にこの世界観はある意味ではすごい大事で、忘れちゃいけないものだけれど、場所を置き換えた時に通用するのかとか、それが本当に愛としての多様性を含んだものであるかっていうと、そこまで広がりがあるかというと・・・そこまで考えちゃったのね。
 土 素晴らしいゆえに。
 那 そう、素晴らしいゆえに。そこまでの普遍性を持ちうるかとか、原作者がそういうことに対して自覚的に描いたのかとか、たぶん盲目的と言ったのは、そういう自覚がある人ではないのかな? とか。描いた時代もあるだろうからわからないけど。そこまで考えないよ、普段は。ただ座談会があるから。正直、傑作で良かった、で終わらせたかったわけ。ある意味ではスルーしたかった作品。でも、あえて言うならってところで。

●日本的メンタリティの良さと怖さ

 高 面白い観点だよね。だって今、絶賛一色というかさ。褒める人しかいない状況でさ、ちゃんとした批判する人いないでしょ?
 那 批判とも違うんだけど。
 土 批判じゃない。
 高 批判じゃなくても、違和感でも何でもいいんだけど。だから外国の人から見てどうなるのかな、っていうのはおれも気になるんだよね。だってすずさんって典型的な日本の庶民で、実際、日本は外国を侵略してその反動で返って来ていることなんだから、その部分がまったくないわけだよね、ここには。
 那 だから反日的な教育を受けている国の人から見たら面白くないかもしれない。
 高 それはそうだよね。
 那 ただ反日教育を受けているからとかそういうだけではなくて、何か欠落した部分がある作品であることは確かだよね。でも、それは自覚的ならいいの。それはそれで、でも、この世界の片隅がこんなにかけがえがなくて、大事で、こういう人たちも生きていたんだよっていう自覚があれば、これは大傑作なんだけど、たぶん、この作者は日本的霊性ではないけれど、何かを信じている人なのかもしれないなっていう、橋田須賀子的な何かというか、おしん的な良さというのかな。
 土 漫画家の方がですよね?
 那 うん。この作品はよかったと思ったよ。パンフレットも買ったし、下調べもすごいしているんだろうし、生々しく日常生活が描かれているから戦争のシーンが怖かったし。
 土 怖かったですよね。
 那 CNNの映像を観ているより怖さがあるというのかな。ギャップで。特にのんちゃんの声が良かったから、のんちゃんがピンチだって言うかさ。
 土 ああ(笑)
 那 そういう風な生々しさを感じさせる。だから彼女はやはり才能があるんだよね。すごいと思った。
 土 あると思います。
 高 原作はともかく、映画に関して言うと、この片渕監督という人がすずさんというのをアイドルのように思い入れて、6年くらい前から「すずさん、すずさん」ってすごい思い入れがあるわけですよね。すずさんはこういう人なんだって、91歳でまだ生きているんだって。本当はフィクションなんだけど、この人をいかに実在のように見せるかということにものすごい思い入れがある人で、このすずさんの声をやる人はのんちゃんしかいないと言って、すごい執念ですよね。
 那 その思い入れがのんちゃんを呼んだ。
 高 それがまたマッチしちゃってるから。
 土 最初、ひとこと言った時は、あっ能年ちゃんだと思ったんですけど、けっこう浮かぶじゃないですか? 意外に。最初は絵とマッチしていなくて。浄瑠璃とか文楽とかも、最初は後ろに人が見えるように。で、普通のアニメは人なんか見えないんですけど、さすがに最初は見えたんですけど、でも、だんだん文楽も後ろの黒子の人が見えなくなるじゃないですか? あんな感じで最後はもちろん見えなくなったんですけど、最初に見えたというのが面白かったですね。
 高 予告だけ見ると、ああ、これ能年ちゃんの声だとわかる。でも、ずっと映画を観ていると完全に忘れちゃってね。すずさんがここにいるということになるんだけど、そこは女優としての演技力というのがあるんだろうね。
 土 普通の声優さんなら同化していて当たり前のところが、最初に見えたというのが面白いなと思って。わっ、どうなるんだろう、この先?と思ったら最後は忘れていて。泣けるというのは、お嫁さんに行くシーンから泣けるというか。
 高 ぼくなんか最初の冒頭の一言で泣いていた。
 那 それは能年さんへの気持ち(笑)
 高 そこは冷静に観れない(笑)
 那 映画に対するものではないよね。
 N その気持ちはわかります。
 高 でも、その冒頭のアニメの作り込みとかがすごいから。
 土 すごいですよね。風呂敷を背中に背負ってね。
 高 広島の、冒頭のアニメーションがすごいなっていうのがあって、その上であの声が来るから、わーっとなるんだけど。
 那 相乗効果でね。
 高 だから情緒的にすごい来るわけですよ。そこでもう飲まれちゃう。
 那 情緒に訴えかける映画ではあるよね。
 高 そうそう。それが日本的っていや、日本的なのかもしれないけどね。
 那 良くも悪くも日本的な良さが出た作品ではあるけど、何だろ? それこそそれをあまりに絶賛し過ぎた時に、もしかしたらその情緒的なところがもしかしたら戦争に向かわせたんじゃないかって、おれとか、考えちゃうわけ。
 高 そうそうそう。
 那 無自覚というのかな。だからすずちゃんも、無自覚な日本人の一人として描かれているのね。
 土 そうですよね。
 那 このメンタリティには良さも怖さもあると思う。
 土 だからすずさんが「最後の一人になるまで戦うって言ってたじゃないか」ってすごい怒るでしょ? あそこが本当にそうだよなというか。何やってたんだよ、戦争もっとやれよ、と変な言い方ですけど。この国の暴力に気づいたという原作ではそういうシーンだったと思うんですけど、省いてある。何も知らない人にとってはそれがリアルだった。
 高 監督はあのシーンは、自分が戦争に加担していたというかね? 暴力に加担していたことに気づいた。自分がそういうものに我慢して従わされてたということに気づいたからだと言っていたけどね。でも、あそこは必ずしもそういう風に見えないっていう部分でもあるんだよね。
 那 おれはね、何だろ? 戦争に加担していることに気づいたとかそういう話ではなくて、あのシーンで、それまではすずちゃんがあまりにも偶像化されていて、たぶん原作よりも神聖化というかね、監督の思い入れがあって少女化とも言っているけれども、何だろ? いい人すぎちゃったわけ。フェアリーテールになるぎりぎりまでいっちゃってて、あのシーンでおれはほっとしたの。あの能年ちゃんのドスの利いた声で「まだやれるんじゃないか」ぐらいの。これで、この人生身の人間になったわって思って、何だろ? 思想の良い悪いじゃなくて、そこで立体化したというのかな? 単なるアイドルを免れた瞬間で。ずっときれいな良い子だったらおれは受け付けなかったと思うの。でも、ところどころ能年ちゃんがドスの利いた声出したり、やっぱり声優の力ってあるなぁって思った。
 高 すずさん自体、二面性があるキャラクターということだから、複雑な内面も持っているという描かれ方だからそれに見合った声優でないと。
 土 義姉さんが子供が亡くなった時「人殺し」って言っていて、そこで荒れてくれているから、観ている方が助かるとか。そこで違う表現をされていたらどうしようもなくなるというか。
 高 きれいごとになってしまう。
 土 「人殺し」と言ってくれて、こちらもいたたまれなさがなくなるというか。そういうところも含めてすごい表現だなと思いましたね。

●すずさんは選ぶ側の人間だった?

 那 N山さんはすずさんを偶像化されているという言葉を使ったんだよね。偶像崇拝みたいな。
 N アイドル崇拝みたいな。それに近いです。
 高 映画化にあたっての監督の思い入れがそうだったと思うんだよね。だから原作とはちょっと違いますよ。主人公の立ち位置というか、キャラクターが。
 N そうですね。最後の叫ぶシーンの描かれ方が、全然受ける印象が違う気がします。
 土 私もジェルソミーナを思い出して、私的なヒロインとしてジェルソミーナが一番で、何かその中にすずさんという人が入ってきて、一つのヒロインとしてジェルソミーナ以来ですかね。
 高 でも、さっき那智さんが言っていた他者の問題というのは面白いなと思うけど、これを外国で上映して、日本みたいな絶賛一色になるんだろうか、というのはおれもちょっと思ったよね。やっぱり向こうはもっとシビアというかさ。何だかんだ言って、日本は戦争をこの70年以上体験していないわけでね。でも外国では紛争とかまだあるわけだから、そういう所でこれを観て、本当にそれでみんな感動するのかな、というね。
 那 ある意味、均質化された世界だよね。みんな同じな感じだから、ある意味では他者がいないというのは、他者を無視している独我論ではなくて、みんな同じ感じじゃない? だからみんなでがんばろ?っていう和の文化というのかな。その良さっていうのはもしかしたら通じるかもしれない。やっぱり人間ってこういうのが大事だよなって思う人もいるかもしれないし、やっぱり、でもこれってあまりに無自覚だよなと思う人も当然いるかもしれないし、でもそれは本当に日本人の良さでもあり、ぬるさでもあるところをそのまま表現しているというか、素直に出して、ここからこの可能性どうですか?というところで、提出する側がある程度相対化した視点を持って提出するのならいいんだけれど、これがまさに「憲法九条が世界を救うんです」的なノリで提出した時にはたぶん、違ってくると思うし、そういうところでの謙虚さだけは必要かもしれないね。この作品のクオリティは別として。
 高 クオリティがある意味高すぎるがゆえにね、そこがちょっと見えなくなっちゃっているところはあると思うね。とにかくこの映画に費やされているエネルギーというのはたいへんなものですよね。監督やスタッフ、まぁ、原作からそうだしね。そこは否定しようがないわけですよ。アニメとしてのクオリティも高いし、能年玲奈の声優もすごいしね。あとはストーリーが明確に反戦じゃないという人もいるけど、そこも別に最初からそういうつもりじゃないんだってのもあるけど。
 N ほんとに、世界の片隅にこういう人たちが存在したというのをこう、伝えるための作品なのかなぁという。
 高 そうそう。すずさんの視点で見たありのままのものを表現したという作品だと思うけれど。うーん。まぁ、だからあまりにも絶賛一色なんで、ぼく自身も絶賛一色なんだけど(笑)それでいいのかなっていうのは確かにあることはあるんだよね。
 那 その絶賛一色というのが、たぶん日本人的なところあるよね。
 高 それでかつて日本人が戦争に突っ走っちゃったっていう過去があるんじゃないのかって。だって真珠湾があった時は一億みんな喝采したわけでしょ?
 那 日露戦争の時もそうでしょ? ロシアに勝ったって言って、やったやったって。
 高 これは別に政府が推薦しているわけでもないし、国策映画でも何でもないんだけれど。
 那 だから思ったのは、作り手が自覚的であれば、そういうことに対して、どこか解放のある表現を入れているはずなんだけど、そこが弱いかなと思ったの。たぶん、すずさんこそが世界を救う。世界の片隅にいる彼女が真ん中にいる。これはN山さんが言ったんだけど、すずさんというのは、何だろ? 昔の女性? 親に言われた通りお見合いして、義姉さんに意地悪されたりとか、受け身の立場に見えると一見。でも、すずさんというのは全部自分で選べる立場にいたんじゃないかって言って、えっ?と思ったわけ。
 高 ああ……
 那 でも、実は、すずさんというのは時代に流されている人であるように見えて全部自分で決めれる立場にいる人間なんじゃないかと言われた時に、あんまり考えてなかったんだけど、言われてみたら何かそういうところも、と思ったんですけど、どうなんですか?
 N 何となく、選ばれる側の立場に見えてすべて選ぶ側の立場にいるようなそんなイメージが何となくしたんです。原作を読んだ時はそこまであまり感じなかったんですけど、映像だけを観ました時に、時代の流れに沿ってお嫁さんに行って、望まれて嫁いでって、でも現象としてはそうなんですけど、心象としてはどちらかというと自分が選ぶ側だったんじゃないかなって。選んでる気がするの。
 高 選んでいる……
 土 それは良い意味で?
 N たぶん・・・良い意味で……
 土 幼馴染と再会してあなたはどっちなの?問われるシーンがあったじゃないですか? 帰りたいんだったら帰っていいよ、と促される時とか。
 N たぶん、選んでいいよって言われながらも、何だろ、どちらかというと、嫁ぎ先の家のことも広島のことも、選んでもらっている側になっている気がしたんです。「ここにいてもいいですか?」とすずさんが言って、義姉さんが「いてもいいよ」って言ったからここにいさせてくださいという流れになっているんですけど、その流れはとても自然に見えて、でもどこかで、この家っていうのはすずさんに選ばれる側だったのかなっていう印象を。その時に何となく、核みたいなものがあるのかなと。そこがもしかしたら引っかかりを覚える。
 那 だからすずさんというのは良い人で、ある種、我がなく見えて、意外とそうでもないのかな、ということだと思うんだよね。
 土 芯のある人みたいのは伝わりますよね。良い意味でね。
 那 難しいところだけど、今のニュアンスって気づきにくいところだけど、大事なところかもしれないなってちょっと思ったんだよね。

●偶像化の視点では見えないもの

 高 関係あるかわからないけれど、原作でね、原作の台詞を監督が映画にあたって一箇所変えていて、それをのんちゃんが原作に戻させたというシーンがあるのだけれど、それが最後の方のね、周作さんがいよいよ戦争に、これまで裁判所の書記官をやっていたのが軍に行かなくちゃいけなというところでね、「おまえ一人でこの家を支えられるか?」「いや、無理です。でも、私ここでがんばってこの家を守っていきます。この家におらんと周作さんを見つけられないかもしれん」って言ったのね。
 N はい。
 高 これ、映画ではこの通りになっているんだけど、片渕監督は、「この家におらんと周作さんに見つけてもらえんかもしれん」としようとしたんだって。それをのんちゃんが読んで、これは違うんじゃないかって。すずさんっていうのはもっとアクティブな積極的な人なんじゃないかって。
 那 なるほど。
 高 そしたら監督がそうだねって言って、原作に戻したっていうんだけど、ちょっとその辺りがつながっている気が……
 那 たぶん片渕監督っていうのは、男性視点ですずさんを受け身の女性として捉えていたとこがあるのかもしれないけれど、女性ののんちゃんは敏感にそれに気づいて、元に戻させたという経緯があるんじゃないのかな。
 高 男性視点では見えないところがある(笑)
 那 やまとなでしこのいい意味での強さというのはあると思うし。
 N 映画を観た時に、男性が作った作品だなというのは感じました。やっぱりすずさんという存在を原作の方で女性視点で見ました時に、同性だから感じるものがすごい多いのかもしれないなぁ、と。それが男性から見ました時に、ある意味ではすずさんという形というのはわかりやすい形を一見しているので、そこに込められるものがものすごく偶像化にできるのではないかと。
 高 偶像化しちゃうんだよね。
 那 おだやかで、おっちょこちょいで、ドジで、優しくて芯がある。そういう理想像が男性にはある。それで選ぶ側だったんじゃないかって言われて、あっそうかって。気づけなかったね。たぶん、女性の方が敏感で。のんちゃんがそう言ったというのは今の感覚に近いんじゃないかって。
 高 幼馴染の水原さんが家に来た時に、夫が「おまえ、水原さんとこ今日行け」とすずさんに言う場面あるでしょ? そこでものすごくのんちゃんは演じるのに抵抗があったって。
 N それは観ていてわかりました。それはたぶん、きっと女性から見るともしかしたら感じるのかもしれない。
 高 男性から見ても、どうなのかなというシーンではあった。
 土 それは時代もあったからかなって。
 高 戦争の切羽詰った状況だからスルーしちゃったけど。
 N ただやっぱりどこかにも書いてありましたけど、きっと、水原さんにとっても最後なんですよね。きっと。
 高 そうそう。
 N その辺りを同じ男性として周作さんが読み取ったからこそ、ああいう空間が心残りのないようにと生まれた。すごい個人的なんですけど、あの辺りのやり取りが、声優さんで言うとのんさんにみなさんの目がいくのはものすごくわかるんですけど、言葉のやりとりが男性側の人が上手だなぁと。周作さんが「ぼくが家長なんで」って。この声でやられると、ああって。
 高 周作さんの?
 N 声で出す行間というか、あ、ここはここで正解の声をされているのかなぁっていう。
 高 細谷佳正さん。
 N そう、細谷さん。
 高 細谷さんも何か有名な声優さんらしいですよ。
 土 周作さん?
 N そう、周作さんと水原さんも、妹さんのすみちゃんも有名な方です。
 高 声優さんもけっこう豪華なんですよね。
 那 高橋さんも詳しくなってる(笑)
 高 いや、いろいろ読んでるから。

●滲み出てくる叙情性

 高 中身の話をすると切りがないんですけど。あまりにも今の評価が一方に偏っている気がするので、MUGA研的には別の視点も出した方がいいかなって。
 那 クオリティの高さを認めたうえでね。でないとネットのマジョリティの声と一緒になっちゃう。『君の名は』より全然良かった、とか。のんちゃんががんばっているのにもっとやってくれ、とかね。それで売れればいいのかもしれないけど。
 高 クオリティの高さを前提として、それをそぎ落としていった時に、ん?っていう。
 那 あと、情緒的な側面に今の人は流されすぎている気がする。いろいろな小説なんかでも泣けたから良かったとか。泣くっていうことが良いものだという。日本人って特にそういうところあるんだけど、欧州とかだともうちょっと洗練されていて、泣かせにかかっているものがいいものかとかね。ベルイマンとか観ればわかるように、本当に良いものは精神性に訴えかける。ブレッソンなんかだと感情に訴えかけるのではなく、それを廃してフォルムそれ自体のストイックさが精神を清らかにするんだ、という哲学の人までいるわけだし、そういう世界もあるわけで、そういう中で見ていくってことも大事で。情緒、情緒だけでは見えなくなってしまうものがある。
 土 でも、この作品は泣かせにかかった作品ではないと思うんですね。
 高 泣かせにかかってはいない。
 那 作為的はないよね。
 高 だからかえって強いというか。滲み出てくる情緒性というか、それはすごい。
 土 それはこういう監督というか、そういう人たちがそういう目的でというか、状態で作っているから。
 高 何か宿っていると思ったんだけど、その思いとかね。それは本当に日本的なものだと思うんだけど、そういうものがすごく映画全体に滲み出てるというか。
 那 韓流ドラマとも違うよね。泣いたり笑ったり怒ったりの強い感情ではなく、もっとじわーっと来るような。
 高 染み渡る。
 N 花は咲く。
 土 NHKのね。
 N あのスタッフさんが関わってその流れで作っているからかなっていうのは。
 高 あれも短いけど泣いちゃうね。
 土 印象に残りますよね。
 高 不思議な。あれは何なのだろ、と思うけど。情緒というか。

●のんの声は「2・5次元」

 土 それで人類の普遍的なという話になってきた時には、やっぱりジェルソミーナの場合は不朽の普遍性みたいのがある。
 高 ぼくはジェルソミーナを観ても泣いちゃうんだけど、フェリーニのあの作品なんかで言うと、やっぱりジェルソミーナはジェルソミーナで存在しているし、ザンパノはザンパノですごく生々しく存在しているんですよね。それがこの作品にあるかというと今、聞いて思ったんです。
 N それは思いました。『道』では各キャラクターがものすごく際立っているじゃないですか?
 高 うん。
 N それで調和している。
 那 綱渡り師とかね。
 N そう、一人ひとりこんなに色があるのにそれが合わさると、どうしてこんなにきれないな、きれいというか伝わる色になるんだろう?って。ただ『この世界の片隅に』というのは、ある意味ではいろいろな色を使っているのに同じ色に見える時があるんです。そこが素晴らしいと言えるのかもしれませんが。すずさんという大きな存在を中心にして、その周りに、すみません、言葉が良くないのかもしれませんが、そこだけ立体で、他は……
 高 わかるわかる。それはそう言われてみれば、ということかな……
 N ここで声の話になってしまうんですけど、水原さんの声の人というのは格好いい声をやることが多いんですよね。この方というのは。
 高 『おそ松さん』のジュウシマツ君なんかをやった小野大輔さんですよね。
 N も含めて、前から格好いい役をやっている。だから水原さんも二次元的で格好いいというか、すずちゃんが思いを寄せてしまうのがわかるような、テンプレートというと失礼ですけど、そういう作りをされているなというのは原作を読んだ時もちょっと思ったんですけど。そこと対比して周作さんという方が入って来た時に、私の中で正解の声がなかなか思い浮かばなかったんですね。まず、すずちゃんがいて、その周りがあることに関して、どこまで個性を出していいか、どこまで存在を出していいかとか、そのバランスがすごく難しいのかなと思いました時に、この方の声を聞いて、あっ、珍しくこう、ある意味では邪魔にならない――失礼ですね――バランスを取ったところにこの人を落とし込んだんだなというところが、それは意図したのか、プロデューサーが落とし込んだのかその辺はわからないですけど、この辺カットしていただいてかまわないんですけど。
 高 いやいや(笑)
 那 そういうマニアックな話は我々にはできない。
 高 周作さんの声が正解だったっていう?
 N その声があることで、すずちゃんの声とかが、別録りらしいんですけど、違和感がなくなっているのなかぁって。
 高 違和感がなかったよね。
 N 声優さんの声ってものすごく平面的な声になりがちなんですよね。だから『風立ちぬ』で庵野さんとかを含めて、それこそ『君の名は』で役者さんを起用したようなことをするとちょっとぼけたような、アニメアニメしない感じを表現できるんですけど、すずさんはその辺は、業界用語で言うと「2・5次元」的な声だなと思うんですけど、立体的で、それを周作さんの声が支えている気がしたんです。

●現実とフィクションの境目が揺らぐ映画

 土 すずさんが描いている絵が映画の画像になるシーンがありますね。『君の名は』は赤い糸の話でよかったなって感じで。でも、この映画はこちら側にも迫ってくるというか。誰かが描いて映画にして、またショッキングな出来事でひずんで、また描いてって中に、境目というのがなくなってくる。それが歴史的事実の地続きという脚本であるのと落書きみたいなものを描いているものが映画になるというシーンで観ている人を巻き込んでいく。一般的な情緒的な話というのではなくて、手法として意識されていたかわからないんですけど、境目がなくなってくる。
 那 そう、不思議な映画だなと思ったの。何かね、映画とも言えないようなそんな感じ。
 土 そうなんです。
 那 今までのおれのデータにない、何かを感じたの。
 土 (笑)
 那 それが良いのか悪いのかよくわからないところがあって、それは距離感が近すぎるんじゃないかって。爆弾の怖さとかも実際に自分がその場にいるような、それはすごいことなんだけど。
 土 音も工夫してあったんですよね。
 那 そうなんだ。これは何なのだろう?っていう今までの手法では計れないところはあったんだよね。
 高 バーチャルリアリティだって言っている人もいる。
 土 いるんですね? 描く世界に入っていって、あなたもその世界の一部ですよって、自分自身の存在が。そう言われている気がするんですね。
 高 すずさんと一体化しちゃう。
 那 でも、怖さもあるなと思ったんだよね。そこで、それこそある種の宗教性というものが、相対化する視点をなくしてしまう。
 土 そう、相対化する視点をなくしますよね。
 那 その怖さ。おれとかそういうのに敏感だから、ちょっと距離を置きたいなと思っちゃったんだよね、そこで。この中におれはずっと入ってじゃだめな人だって、立ち位置的にね。俯瞰でどこかで観てたい。それが何なのかわからないから聞いたら、「宗教性がある」と。
 土 それは宗教性という言葉で言っていいと思いますし、何かすごい現実と夢の境目が薄いから。
 那 だから難しい作品だなと思って。
 土 ちょっとした中間領域に人を連れて行ってしまう。
 那 そう、だから思ったよりシンプルな作品じゃない。クオリティが高い作品だ、だけではなくて、何かを感じたんだよね。それがメールでも伝えた戸惑いというか、でも何か、表立って言ってはいけないような。
 土 『君の名は』は映画の中に現実と異世界みたいのがあって、観ている人の世界がある。この映画は何か映画と自分の境界が揺らがせて、少し向こうに持っていかせる。それが意図的かはわからないですけど。
 那 意図的だと思いますけどね、当然。
 高 この作品と『シン・ゴジラ』といのうも、破局というかカタストロフというのをある意味、引き金にして観客の感情移入を強めているところもあるけれども。
 土 東京がめちゃくちゃになって。
 高 それはある意味、東日本大震災の経験というのが関係あると思うんだけれど、ドキュメンタリーを観ているようなすごい生々しい感覚というか。
 那 あれも震災の現場でかなり取材して作ったらしいですね。
 土 『君の名は』もそうだし、これもそうだし、ある意味では「破壊」というものが通呈している2016年。
 高 それがあるゆえに強まっているのかな。

●新海誠監督の作家性

 那 捉え方はそれぞれだよね。まあ、『君の名は』というのは完全に娯楽大作として作ろうという意図のもとに割り切って。だから、正直、こういう感じだなというので理解できちゃう作品じゃないですか? 心が落ち着いちゃう? これは何か揺らがせるものを持っていて。
 でもね、『君の名は』の何気ない風景描写は妙に惹かれるものがある。それで何となく新海監督が気になって全部観たんですけど、処女作の『ほしのこえ』と『秒速5センチメートル』の2作が抜群にいいんですよ。特に秒速は一昨日くらいに観たんですけど、ドツボに入ったんです。この人はちゃんと映像作家だと思って。
 要は、あの人って、『君の名は』でいいなと思ったのは、田舎のシーンの野花とか、すごい染み入ってくるわけ。あの人は自分のタッチで描けるんですよね。風景画家なんです。あるいは事物画家。そこだけはジブリ以上にすごいなと思った。他は作っちゃってて、ハリウッド的にやっているなと思ったけど。だいぶ前にデジタルな手法の『言葉の庭』を観たんだけど、あれは入って来なかったのね。最新技術に取り組んだのはいいと思うんだけど、あの人の良さってのは手描きの風景描写なのね。それでこのままいってれば素晴らしい芸術家になると思ったのに、エンタメに行ってしまった。商業主義の時代だし、アニメは金がかかるし、いろんな人がいるから仕方ないと思うけれど、大ヒットしたしね。でも、『秒速5センチメートル』は本当に良かった。
 N 新海さんを知っている方はだいたいその辺を観てから『君の名は』を観ているんですね。だからラストシーンはどきどきして。秒速を観ているとハッピーエンドになるかなって。
 那 バッドエンドなんだよね。
 N と言うよりもベターエンドなんです。
 那 つまり、言われているほどアンハッピーエンドではなくて、ストーリーとしては普通のアニメに見えた。要は、初恋の人とは結ばれない。
 N 新海さんを知っている方は、『君の名は』を作った後であの作品ができるかを心配しているんです。彼が本当に持っていたものが消えてしまうんじゃないかって。
 那 消えてたね。
 土 でも、前の作品知らなくても相当作家性を薄めたんだっていうのはわかりますよね?
 那 そう、だから今風のキャラクターを作っちゃったんだけど、前のものは没我的な顔をしているんだよね。表情がなくて、キャラクターデザイン下手だと言うんだけど、人間が描けていないとかではなくて、我がない人たちがそこにいる。風景とマッチしているからそれで素直に受け入れることができる。あの顔がすごい良かった。こんな作家いたんだってびっくりして。正直、好み的には新海派なんです。
 土 『君の名は』を観て、観た方が泣いたと言っていたんで、楽しみにしていたら最後、どこからか疾走感で走っていきますよね。するとどこからか「君の名は」というような台詞がすごい多い時があって、うわーって思って、こんなに説明しなきゃヒットしないんだ、今の映画って、もうやめてって感じで。
 那 そうそう(笑)
 土 ヒットしている。友達も良いって言っていたから観に来た映画なのに、帰りはとぼとぼ歩いていて、これだけのことを言い尽くさないとみんなが観ないとなってしまったのねって感じで。作品自体は楽しく観たんですけど、一抹の寂しさというか(笑)
 N 思いました。ああ、エンタメ作品作れたんですね、って。
 高 それは意図的なものでしょ?
 那 ネクスト宮崎駿を作ろうとして。細田監督も『バケモノの子』で失敗しちゃったと思うし。ジブリの真似事して失敗して。宮崎駿の壁って言うか。
 土 やっぱりすごかった。
 那 それを意識しちゃうと勝てないんですよ。片渕監督が全然違うラインでいったっていうのが。元々違う人だったんでしょうけど。
 土 でも一緒にやられていただけに。
 那 良いとこは真似ているんでしょうね。

●傾向性があるのか? ないのか?

 高 宗教的という視点は、自分も言われて初めて気づいたんですけど。
 N 言葉が悪いかもしれませんが。
 高 いや、でもずばり突いているのかもしれないと思ったけど。その辺はどうなんですかね? 映画よりも原作にそういうものが強く現れているのかな? ひょっとしたら。『夕凪の街 桜の国』の漫画も読んだけど、その後に『この世界の片隅に』なんですよね。
 N はい。
 高 『長い道』って読みました? あれは今日読んだんだけど面白いですよね。でも、宗教性というのは言い換えるとどういうことになるんだろう? 何かを信じているということ?
 那 だから思ったのは、さっきN山さんが絶賛する人は絶賛一色になると言ったのは、本当は芸術作品ってメッセージ性を出しちゃいけなくて、事物として、形式、フォルムとしてのみ表現されるべきだというヨーロッパのオーソドックスな芸術観がある時に、この作品ってあるメッセージをもしかしたら受け手に強いる傾向性がある。もちろん、原爆という重みに対して必然かもしれないのだけれど、原作者の中に「日本っていいものなんだ」とか「こういうものこそが大事なんだ、救いなんだ」という気持ちがあまりに強いがために、形式に落とし込みきれずに出ちゃってるのか、あえて出しているのか、あるいは戦争というものに対するメッセージとしてあえてやっているのかわからないけれども、何か傾向性を強いるところがある気がした。
 高 むしろ、そこは避けているというのが普通の評価。
 那 みんな、「これ反戦映画じゃないでしょ」「火垂るの墓じゃないでしょ」と言うけれど、何かこういう受け止め方こそ救いなんだというメッセージが、オーソドックスな芸術の手法から言うと……
 芸術かどうかとかね、それに意味があるかということもあるけれども、自分の中にあるものからしたら、例えばジェルソミーナの話は強いて来ない。事実が淡々と描かれていて、ヒロインは死んで、ザンパノ浜辺で飲んだくれて、わーっとなっていると。あるいは『サテリコン』ではキリスト以前のローマの世界でみんなが勝手に冒険して、殺しあったり、ホモセックスしたり、死んだりして、最後、海辺で新しい冒険の旅に出て何の説明もなく終わる。淡々としている。そこに何か強いるものはない。単にそこに花があるのと同じように、冒険している昔の若者たちがいたり、死んでゆくジェルソミーナがいたりする。
 土 うん。
 那 たぶんそれが芸術のあり方というのかな。これはタルコフスキーも繰り返し言っていたことなんだけど、そこにどんなものであれ、美しいものであれ、我意を込めてはいけない。メッセージや思想は作品の中で客観化されて形式に落とし込まれなくてはならない。そこで始めて深い部分で伝わるものがある。だから真の芸術は精神を鼓舞するけれど自我を刺激しない。そういう作品からすると、思いがすごく強く出ている作品。でもこれは、どうなんだろ? それが強みでもあるのかもしれないし、というところなんだよね。それがある意味強いられているというか、宗教性で、ある一点に集約していく? 自由に解放していくのではなくて。吸い寄せられていく気がするの。
 高 この映画が何か、原作者がすごい思い入れがあるとしたら、何への思い入れなんですかね?
 N すべてをそぎ落とした後に残るのはすずちゃんだけなのかなって。真っ白い世界の中ですずちゃんしか存在しなくなってしまっているような。それだけで世界が完結して話が進んで、それでも人を感動させてしまうのでしょうけれど、何かそんな感じが……
 高 すべてをそぎ落として、残るのがすずちゃんの自我ということ?
 N 自我というよりも、存在のあり方かもしれません。
 高 すずさんという存在が絶対化されているみたいな?
 那 曼荼羅の中心にいることは確かだよね。
 N 何となく、すみません。勝手なこと、見当違いなことを……
 高 いやいや、面白い視点だと思うけど。
 那 何かね、腑に落ちるところはある。
 高 ぼくはそういう観点はまったく持たなかったから、面白い意見だなと。

●自己犠牲ではなく、自分を貫く精神

 高 すずさんというのはすごくけなげで、素直で、素朴で、男性から見ると偶像崇拝したくなるような女性なんだけど、でもそれだけではない、何かある、何かを持っている。奥に。というのは、『長い道』の主人公とも共通すると思うのだけれど、その何かが何なのかというのが、はっきり言葉にしづらいというか。
 N 『長い道』の道さんの方がもっとそれが強い気がします。
 高 それはそう思うね。もっと闇が深いというか(笑)
 土 何か大いなるものに対しての犠牲精神を持ってそうですよね。
 高 すずさんが?
 土 自らを、何かを信仰している存在には見えなかったんですけど、オスカー・ワイルドの『幸福の王子』ってあるじゃないですか? 右手がなくなっても、左手と両足が残っているんだと。感情が爆発した時に、日本人的に良くなくなるとブラック企業になってしまうんだけど、自分を犠牲にするというか。
 高 滅私奉公?
 土 滅私奉公にいくとちょっと矮小化されてしまうと思うんですけど、もっと大きなものに対して差し出せるというか。
 高 自己犠牲の精神?
 土 それって日本的なものと近いんですかね? わからないですけど。
 N でも、『長い道』で感じたのは逆だったんです。一見、一読しただけですとこの方はとても自己犠牲的に見えると思ったのですけど、ふと思ったんですけど、すみません、やっぱり一般的ではないですね、まったく逆なのかなって。
 高 まったく逆……
 N 自己犠牲的に見えて、自己犠牲ではなくて返って自分の存在を貫いている感じがしたんです。
 高 わかるような気がします。
 土 まぁ、そうですね。幸福の王子であれば、すべてを投げ出して自分のことを貫く存在。
 高 N山さん、『じゃりんこチエ』って知ってます? あれを読んだことあります?
 N 原作全部ではないですけど。
 高 よしえさんっているじゃないですか? そういう感じですよね? そういう感じだとぼくは思ったんだけど、すごくよくできた女性で、勝手な夫にひたすら許してね、何でも許して、自分の我を一切出さないという出来すぎの人なんですけど、でも、結局、一番その人の思い通りになっているというか。
 N よしえさんの場合、すごく大きな愛情じゃないですけれど、みんながどうやってというか、それこそ本当に古き良き時代じゃないですけど、母性とか父性とか家族愛とか、そういうことに基づいて描かれていた感じがしたんですけど、道さんの場合はたぶん、そういう風にもしかしたら描いていて、そういう風にみんなが感じているのかもしれませんが、どこかにそれがいびつなものを感じてしまう時がありまして。何ででしょうかと思った時があります。
 高 まぁ、確かに母性とかそういう感じではないよね。そういう気はするんだよね。何だろうね。
 N そういう意味で言うと、昔の古き良き時代を描いているかというと、それはちょっと違うのかなと。
 高 それはそうだよね。だって夫婦しかいないわけだもんね。他者との関係が。
 N そうですね。子供が生まれていないと言うんでしょうか。この世界もそうですけど、最後に養い子と一緒になりますが、でも、こうのさんが描く女性というのは母にならない人が多いのかな、と。
 高 確かにそうだね。
 N ああ、そうか、母性が欠落した愛情? 今、勝手に思っただけですけど。
 那 それが宗教性なのかもしれないね。地に足が着いたおっかさん的な愛情だったらもっと落ち着いた感じで観れていると思うんだけど、良くも悪くもそこに神聖なものを見出そうというのがあるのかな。
 N でも、先ほどおっしゃったように、すずさんは幸福の王子のような存在としてあるんだなぁ、と感じることもありまして。
 土 あの王子も勝手ですもんね。
 N はい(笑) つばめを……

●時代に対する世界的自覚の有無

 高 ぼくもね、原作と映画で一点、すごく違和感を持ったのが、憲兵が出てくるシーンなんだけどね。すずさんが戦艦の絵を描いていたら憲兵に尋問されて、その後、家族で笑うんだよね。こんなぼーっとした子が憲兵にスパイと疑われるなんておかしくてしょうがないと。うーん、そこだけは素直に笑えなかったというか。
 土 原作とは違うんですか?
 高 原作もそうなんです。そこをギャグにしていいのかというね。
 那 すずさんの存在が時代を相対化して、家庭の方が上じゃないけど、そういうことを強調したかったのかもしれないけど、ぼくもそこに違和感を感じて。
 高 そこで現に憲兵に虐殺されている人もいるわけですよね。小林多喜二だけではなくて。だからそういう存在がひょっとしたら、目に入っていないのかな、というところの怖さというのがある。
 那 例えば同じ時期に『アンネの日記』のね、ああいうホロコーストの話があった時に、このノリで・・・同じ側でしょ? 同盟軍として? かたや原爆を落とされて、かたや、まぁナチスがやったことだけどユダヤ人を虐殺していたり、戦争の悲惨さが同時期にあった中で、このノリというのはどうかな、という。どこかでやっぱりぬるさというか、日本的ゆるさによって救われるという無自覚なところがやっぱりあるんだよね。
 高 おれもそう思った。ナチスのゲシュタポだったら、ああいうギャグにはできないですよね。
 土 しかも呉とかって軍事に関しての主要都市でしょ? 
 那 だからギャグにするとかしないではなくて、そこに少しでもそうしたことの自覚の表現があればだいぶ違ったと思うんだけど、そこでどこか無自覚なところがあるなぁ、とは正直、言いたくないけれど、思ったのね。ところどころあるわけ。
 N 原作は淡々と進んでいくので流せるというか、後であれ?って気づく時がある。
 高 映画は割とそこではっきりとギャグにして笑わせどころみたいなことになっているのが目立つんだよね。
 N そうですね。
 那 粗探しみたいになっちゃうんだけど。
 高 でも、全体が何か能年パワーでかなり(笑)
  (笑)
 高 頭がおかしくなっているから。もういいやってなっちゃうんだよね。でも何かそこは、っていうのは確かにある。

●実写よりもアニメの方がリアルな時代

 那 今、漫画やアニメがなんでこれだけ支持されているかというと、実写って、街の風景や恋人たちを映してもある種、記号しか写せなくなっていて、作家独自の視点でフィルムを切り取るとかね、それがあまりにも観念に侵されていて、美しいシーンでしょ、恋人のシーンでしょ、ジャニーズで格好いいでしょ、とかね。観念があまりにも強すぎちゃって、定型句しか映せなくなってきている中で、今回の映画とか新海さんの昔の作品とか、全部自分がどう見ているかって嘘を描けないじゃないですか? 
 写真で撮るのと違って。自分が見たものをごまかしなく描かなくてはならないから、必然的に自分のフォルム、形式で表現しなくてはならない。そこにごまかしが利かないから、観念が入り込みにくいというのかな。漫画やアニメでも定型化された作品はつまらないけれども、漫画やアニメはオリジナルなタッチが出しやすいというのはあるよね。そこにおいてみんな敏感なんじゃないかな。
 実写を観ていてもリアルではなくて、アニメの方がリアルになっちゃっているというのはそういうことで、記号化された、画像解像度の高いホームビデオで撮ったものよりもアニメの方がリアルに感じられるというのは、人間の目で見たものがリアルなんだよね、この世界は。それをどう表現するかということにおいて、アニメや漫画はごまかしが利きにくいから、リアルが残っていることがあると思う。
 『進撃の巨人』だってすごいと思うしね。若者は敏感だからトレンディドラマを観てもリアルに感じないけれど、『進撃の巨人』で人間が食べられてしまう方にリアルを感じるというのは単に刺激が強いからではなくて、リアルがあると思うのね。現代世界のリアルが巨人にある。あるいは壁という存在とかね。そこに商業主義が入り込みすぎちゃうとまた『君の名は』みたいな、タイムリープして、赤い糸に結ばれてと定型句を持ち込んじゃうと作家性がどんどん消えていってしまう。だからアニメはまだ自由が許されている。クラウドファンディングみたいな形で作家性を支持する基盤があれば変に大衆に媚びなくてもいい時代がやってくるかもしれない。
 土 定型句ではない、実写の日本映画のラインってどういうのがありますか?
 那 日本の映画で定型句ではないもの? 例えば溝口とか小津とかね、そこまでいけば。
 土 ああ、その時代まで。
 那 溝口の形式美とか、小津ならあのフォルムしかない。クローズアップで狭い空間にして。原節子って存在と、何か今回のすずさんというものを対比しても面白いかなと思ったんだけど、あの人もマドンナで日本的な良さの典型じゃないですか? でもやっぱり原節子は中心じゃないんですよね。笠智衆もいるし。
 高 なるほどね。

●事物それ自体に立ち返る表現

 那 『この世界の片隅に』は単体で見るとすごいけれども、全体の流れに新しいウェーブをもたらすかというとまた別な気がする。ちょっと。すごい作りこんで真似できないけれども、影響を与えるものというのは真似できるものなんですよね、どこかで。例えばヌーベル・バーグというスタジオの外で若い監督が映画を自由に撮り出す流れがあって、ゴダールの『勝手にしやがれ』とかね、みんな真似して、フランソワ・トリュフォーとか、独自な表現がばんばん出てきたと。ああいう流れとは違うよね。
 高 それはそうだね。この作品自体6年もかけてコツコツ作って来た。
 那 職人肌の作品。
 高 限りなく完成度は高いけど。
 那 そう、完成度の高さと新しさというのは別で。だから芸術の流れでいったら、ピカソのキュービズムとかね、印象派が出てきて、モネとかゴーギャンとか、ゴッホとかああいう流れとは違うよね。これはこれで素晴らしいと。それが日本の今後の表現とか世界にどう影響を与えていくかといった時に、真似できないというものは、大河にはならないかもしれない。この人は突き詰めていけばいいかもしれないけれど。それで新しい流れになりうるものは何かな、と考えた時に、かろうじて『シン・ゴジラ』を挙げたいと思うのね。今年は。
 高 『シン・ゴジラ』の新しさというのはどういうところなんですか?
 那 やっぱりあまりにCG全盛になっている時に、CGも多少は使っていると思うけれども、デジタル化されていない、もの自体の怖さというのかな、シン・ゴジラの怖さというのはもの自体の怖さというか。記号化されていないものを表現しようとしたんじゃないかな、というか。それをああいう形で象徴的にやったのではないかと。もうちょっと事物それ自体ではないけれども、脳で処理した、数字で処理したものの浅さというか、それに逆らう形でのリアリティを特撮というものを駆使して自覚的に表現した。
 やっぱりジョーズでも最初の作品が一番怖いし、模型でも10メートルのものが海の下のここにいたら怖いんですよね。デジタルでジュラシックパークやるよりも、船を漕いでいて、10メートルの黒い物質がここにいたらぞっとすると思いますよ。そういうものの怖さとか、生々しさというのかな、表現の。
 事物それ自体に立ち返っていかなければ、これだけネットとか情報が、あるいは観念が横行した時代において、もっとシンプルに人間を、それこそ心身脱落じゃないけれど、裸にしていく。裸の姿にしていった時に出てきたのがゴジラだったり、怖いものが出てくるんじゃないかという恐怖。きれいなものを積み重ねて真実を見ないようにしていくことで、実はとんでもない怪物が育っちゃってる。それが現れたら、そんな生々しい、幼虫みたいなゴジラだったりね。
 土 最初のあれ、怖かったですよね。
 那 でも、あれがリアルだと思う。『進撃の巨人』だったら巨人で表していたり、だから響くというのかな。そういうものがこれから、観念を落としていった方向性において表現していくべきなんじゃないかな、という意味では『シン・ゴジラ』が新しかったかな、と思うんですよね。だからおれは『シン・ゴジラ』で泣いちゃったんですよね。動いているだけで。その生々しさにおいて、動いているだけで、その作家の自覚性においておれは、すごいことやってくれてありがとうと、動いているだけで一瞬だけど泣けちゃったから。
 たぶんこういう直に触れたという感触に現代人は飢えているのにCGやバーチャルリアリティに行っちゃってるから。どんどんどん事物から乖離していく時代において、どう事物に立ち返っていくかというところかな。でないとあまりにもテロリズムの問題にしても、収拾つかないでしょ? 観念とか伝統の蓄積によっては。人間ってなんぞやとかさ。そういうところで、どうやったら握手して手の温かみを感じられるのかとかさ、そぎ落とすという表現の方向性かな。そういうものに期待したいとどうしても思ってしまうんです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★編集後記
◎今年はデビッド・ボウイ、プリンス、モハメド・アリ、フィデル・カストロ(?)など、ある意味自分の偶像だった存在が次々に亡くなる年だった気がします。ちょっと落ち込みがちだったときに『この世界の片隅に』という映画を見たので余計にグッと来てしまったのかもしれません(笑)。この映画は(原作も含めて)「情緒」というのが一つのキーワードな気がしていますが、座談会でも今もうまく言葉にできていません。また機会があれば記事にしたいと思っています。読者の皆様もよいお年を。(高橋)

◎今年も拙文をお読みくださった方には、ひたすら感謝です。人生の旅路においては、子育ても少し楽になってきましたので、積極的にいろんなカルチャーに触れたいと思っています。性格面では、自分のダメさを受け入れ、これでいいと思わず、もっと葛藤しようと思います。原稿も精進してまいります。来年もよろしくお願いします。良いお年をお迎えください。(土橋)

◎最近、淡々と毎日が過ぎてゆく気がしています。気づけば、一年が終わっている。こうしてメルマガの年末号の編集後記を書いている。いろいろあったはずなのに、今年に何があったのかもよく覚えていない。いろいろな思い出が遠くにあるように感じるのです。けれども、淡々としていることがありがたいのかな、とも感じます。日々、目の前の豊かさに気づいて、感謝していければそれが豊かさですね。少し早いですがよいお年を。(那智)


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創刊日:2011-08-08  
最終発行日:  
発行周期:月刊  
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