芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
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MUGA第51号

2015/10/15

MUGA 第51号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇座談会

永続的な「悟り」という幻想

船=船江霊基(アウェアネス・リトリートセンター「気づきの研修所」主宰)
那=那智タケシ(ライター・無我研代表)
高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)

◇エッセイ

片山洋次郎『整体。共鳴から始まる』に見る無我表現との共鳴

高橋ヒロヤス

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◇座談会  2015 10/3  四谷の事務所にて

永続的な「悟り」という幻想

船=船江霊基(アウェアネス・リトリートセンター「気づきの研修所」主宰)
那=那智タケシ(ライター・無我研代表)
高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)

●瞑想の行き詰まりのほとんどは身体的問題

 高 今日はこちらからお声をかけて船江さんにいらしていただいたんですけど。我々が親近感を持っているということで。
 船 はい。
 那 孤立感というのかな? ぼくもこういう業界の全然外にいた人間なんで。クリシュナムルティとかは読んでましたけど。中に入ったらあれって?
 船 外から見たらひとくくりだけど、中に入ったら、色んな幅と云うか距離がありますよね。
 那 それで、違うなと思ってて。それで自分でこういう会とか、まぁ、近い価値観の人も少しいたので、こういう具体性の中に無我を見るではないですけれども、表現の中に諸法無我的な現われではないですけれども、美を見るとか評価するみたいなことがやれたら面白いんじゃないかなというところで始めたんですよね。それで4年くらいやってきたんですけど、たまには近いなという人もいないでもないですけれど、全体的な流れとはやっぱりちょっと違うという感じで。
 船 今はワンネス系、ノンデュアリティ系が主流派で、気づき系というのはちょっと違いますよね。
 那 だから船江さんがやっていることってたぶん、砕いていくというかね。
 船 はい。
 那 気づきによって、内観することで自分の中の固定観念とか、トラウマ、思い込み、条件付けみたいなものを砕いていったうえで、また調和させていくではないですけれども、ダンスとかやられていますけれど、一つの意味をこの地上に生み出す方向というのかな? 砕いたうえで調和させていくというか、ぼくの感覚もそれに近いところがあって、それをぼくは客観的なものの中に実現したいと思っていますけれども。
 船 はい。
 那 気づき系というかね、観念系で「全体だ」とか、「一つだ」とか、ある一断片を絶対化して存在の上に置くのではなくて、それを砕いていって、何かこう、独自なものの中に意味を見出していく。
 船 同じことを私の言葉で言えば「分化と統合」ですよね。まず「分化」があり、その後「統合」していく。
 那 ぼくは「断片と統合」という本を出したんですけれども(笑)だから非常にたぶん、入り口としてクリシュナムルティとかから入っていると思うので、何となく近い方向性で。全然違う環境で、キャラクターも、経験も、全部違うとしてもなぜか近いところにいっている、おこがましいですけど(笑)そういうのを感じたんですよね。
 船 瞑想系とかいっても、例えば、クリシュナムルティが好きな人はシュタイナーって大抵ピンとこなくって。シュタイナーが好きな人は逆にクリシュナムルティの面白さがよく分からない。私はシュタイナーは全然わからないんですね、良い悪いじゃなくて。
 那 ぼくもそうですね。
 船 特殊な人で、何かの能力があるのはわかるけど、特に自分の心に響かないというか、皆、なんで入れ込むのかよく分からないというのが昔からあって、あるいは和尚好きな人はクリシュナムルティとまた感覚が違って。
 那 ぼくは和尚だめなんです。
 船 その辺は先天的なもので、なぜか分からないけれど、ある特定のものが自分の魂に響くと云う、感覚的なものですよね。どの画家の絵が好きかとか、そういう風な、理屈ではなくて感覚的なものとして初めからありますよね。それでクリシュナムルティが好きな人って、他の部分では色々と違っても、ある一定の部分で非常に似通った感性の質を持ち、似たものに反応してる。
 那 そうなんですよ。だから前来たスピリチュアルな世界に叛逆するんだ、みたいな活動してた女の人がいたんですよ。その人はクリシュナムルティの感覚と自分の体験したことが近いと。自分の体験を人に語ったら、それはクリシュナムルティの本に書いてあることみたいと言われて読んだらびびっと来たと。そしたら好きな画家とか、似てるんですよ。ルドンが好きとかね。全然キャラクターが違うんだけれど、何だろ? 体感があるのがわかるんですよ。ああ、この人自分の言葉で語っているというか。
 船 はい。
 那 パウダー化するとかね、わかるんですよ。
 船 パウダー化?
 那 砕いてパウダーにする。
 船 ああ……
 那 わかるんですよ。砕いて脱落させるという感覚があったから。
 船 はい、なるほど。
 那 たまーにだけど、そういう人もいたんですよね。近いな、というか。だから、希少というか。何でこんなに通じる人がいないのかなってそういうことを感じている中で、船江さんのHPとかね、ダンスとか見ていると、この人と話してみたいな、とか。
 船 ウチは、超マイナーでやっていますからね(笑)
 高 でも、研修なんかはけっこう申し込みがあるみたいですね?
 船 まぁ、ぼちぼちですけど。ただ、多くの方は具体的な問題解決が目的で来られているので、うちのやり方・方法論で長期的にやる人はほとんどいないですね。大きな問題があってそれが解決したら世間に戻る。まぁ、その方がいいですし、それが理想的だとは思っているのですが(笑)
 那 求道し続ける人とまた別ですからね。
 船 一生やり続ける人と、具体的な問題解決のために即効性のある方法を求めてやってきて、それで研修一発で社会復帰できる人と。「ずっと修行する」というのはみんながやるべきことではないように思っています。
 那 そうですね。
 船 そうしないとやっていけない、生きていけない社会不適合者みたいのがそれをやっていくだけで。
 高 まぁ、でも研修の体験記とか載っているのを見ると、それで非常に効果があったとか言われているから、対処療法的なところでも効果があるんですかね。
 船 そうですね。二種類の人がいて、決して修行に入る人が上位にいる訳ではないと思うのですけど、例えば、通常の現代医学では治らない深刻な病を抱えている人が居て(例えば、癌とか)、そういう人が世界中、必死になって色んな治療法を探し求めて、最終的にインド伝来の秘薬か何か(特別な抗がん剤みたいなもの?)を手に入れて、それを使って治癒し、復活し、それだけじゃなく一般人を越えた「超健康体」になって、その経験の結果、普通の人には分からない色んなことが分かる、みたいな特殊な人が稀に居るだけで、それは、そういう病を持って生まれた人にだけ必要なことで、そうでないのならそんなことする必要無い訳で、普通に病院に云って、普通に適切な治療を受けたら、治るだろうし、それで速やかに社会復帰すれば良い訳で。それは、どちらが良いとか偉いとかとは違う、単純に病の重さ・深刻さの違いだと思います。
 高 船江さんは元々肉体的な病はあるんですか?
 船 ありますね。自分では「身体イメージ障害」と呼んでいるのですが、これ目に見える身体の障害でなくて、身体イメージ(脳のなかにある身体表象)の障害です。子供の頃に目を怪我して、成人した頃に気がついてみたら、身体と身体の認識がずれていて、自分の中心が右にずれていて、左半身が欠けているんですね、完全に変なんです。ただ外からは分からない特殊な問題で。身体は何ともないのですが、右と左の感覚が全然違うんです。ここ(左の頭部)を触ってもどこかよく分からない、意識のなかで結像しないんです。
 20代前半の頃からその問題が深刻にあって、それを解決するためにボディワークやら何やら、何も分からないなかやり始めて、それで10年以上経って、やっとある程度、自分の抱えている問題の見当がついてきて、対策も見えてきて。その頃に、これって自分だけの特殊な問題じゃなくて、汎用性というか、一般性がある問題なんだな、と思うようになりまして、いまはそれを応用している感じですね。始まりは純粋に自分のためです。
 那 今もそんな感じですか?
 船 今は、その欠落している左半身を、瞑想やボディワークを使って、気づきによって作り上げ、補填しつつあるところです。
 那 ぼくは高岡英夫氏の本を作ったことがあるのですが、身体意識の濃さというものがあって、右手と左手だったら右手の方が濃いとか、脱力とかゆる体操で意識を染み渡らせるというメソッドがあるんですけど、それに近いことをご自分のやり方で?
 船 そういう(身体意識の)濃淡は、程度の差はありつつも、みんなあるんですけどね。ただそれが非常に極端だったり、変な風にまだらに抜けてたりする。例えば、肉屋さんで、冷凍室から出した大きい牛肉を吊り下げていて、まだらに解凍されてるみたいな感じです。その程度のひどい人が原因不明の痛みに悩まされたり、あるいは妙にぶきっちょで、走るのが遅いとかとか、そういう人って調べてみると、たいてい身体意識が整ってない。それをボディワークによって補充して、意識で作り直していくという作業です。
 那 現代人は身体意識が薄いというか、江戸時代とか身体を使う文化の中にいた人の方が濃いとは聞きますね。
 船 原始的な身体の使い方をして育っている方が、当然、身体意識が発達している、と云うのはあると思います。ただ現代人が全ての面において劣るか・欠けるかと云うとそうでもなく、たとえばゲーム少年は指先だけ身体意識が異様に濃かったりしそうですよね。それは今後、この社会で生きてゆく上では強力な武器になったり。そこだけ別次元に開発されている。だから一概にゲームが悪いとは言えないですよね。
 高 それによってほかのところのバランスが崩れたりとかは?
 船 片手だけを筋トレしまくったら全身のバランスがおかしくなる。それと同じことは起こり得ますよね。普通の意味での身体運動経験のないまま、目とか指だけを発達させているというのは不自然ではあると思います。
 那 偏りがね、ありますよね。
 船 だから、この時代、これからは質の良いボディワークが求められると思います。
 高 船江さんがボディワークを重視されているというのはやはりご自身の?
 船 そうです。それとヨガなんかはハタヨガがあって、ラージャヨガがあって、総合的に身体を整えて瞑想して、あるいはカルマヨーガとかバクティヨーガがあったり、心身全体を開発する総合的な体系があるのですけど、仏教の、特にテーラワーダーって身体軽視な感じがあります。この肉体を持った世間自体をわりと否定するので、身体を整えるではなくて、さっさと身体を捨てちゃいたい、離脱したいという感じが強いので、ボディワークという発想はないんですよね。これは、宗派によって違って、禅宗は、そこまでの身体軽視の感じはないのですが、今度は逆に身体酷使の傾向があったりして。
 那 なるほどね。
 船 そういう面で、仏教系の瞑想をしている方で身体の問題で行き詰っている人が実際多くて、研修とか来られても、なんでこれだけ熱意を持って長期間取り組まれてきて、どうして瞑想が上手くいかないのかというのは、ほとんど身体的な問題が根にある場合が多いです。睡眠が上手く取れていない、常に無自覚的な眠気が残っているとか、あるいは食べ物、食事の取り方に問題があったり。で、身体の、体幹の歪みがある、骨盤が前傾している、などの前後左右の歪み、つまり身体の軸ができていないというのはけっこう致命的です。
 瞑想って、意識の中で空間的にも時間的にも一点に意識を集中する・標準を合わすことが要求されるのですけど、身体の軸、体幹が左右にゆがんでいると、意識そのものの標準合わない、ベクトルがぶれるんですよね。私自身、このことではずいぶん苦しみました。良い、整った身体を作らない限り、良い瞑想は難しいと感じます。そういうことがあって、もし楽に結果を出そうと思うなら、身体と心と両方から攻めていくのが良いですね。車の両輪、あるいは右足と左足みたいな感じです。
 那 結局、何だろ? 身体意識も自我意識も同じって言えば同じで、それが染み渡っているかどうかというところで。身体を軽視してしまうとどうしても頭でっかちで、気づけない部分が出てくる。まだらになってしまうというか。ありますよね?
 船 そうですねー。
 那 ぼくなんかはボクシングをやっていて、ジャブを打つと、普段意識しない拳の先端にウェイトを乗せるためには左手をいつも意識している。シャドウボクシングすると意識が普段いかないところに染み渡るというか活性化する。だからクリシュナムルティは「観る」ことを重視するけれども、それも大事だけどぼくなんかいいとこ取りで、ゆる体操なら脱力のためにやってみようとか、ボクシングとか、正しい姿勢で打つ麻雀とか、船江さんのように本格的にボディワークを研究しているわけではないですけれど、俗なところで本能的に補っているというか。総合して何ができるかな、というのが大事ではないかと。それが無我的な表現というものにつながってゆく。
 船 なるほど。

●気づきの動きを動画に撮る

 那 自我でない単位で、分化と統合とおっしゃいましたけど、統合した何を生み出すかというところが大事かな、と。ブログで船江さんのダンスとか見ると、細分化して統合した動きを見ることができますよね。
 高 あれは何か自分の中から出てきたものなんですか?
 船 そうですね。まず、一般的に、外から見れば、あれはダンスなんですけども、自分としては、あれはダンスではなく(私はダンス自体は習ったことはなく、知りません)、瞑想とかボディワークの延長ですし、うーん、自分としては、瞑想とかボディワークそれ自体です、とお答えしたいです。
 以前から感じていたことですが、例えば私が「自分の瞑想状態・瞑想意識は、とても深いよ」とか「凄いよ」とか言ったとしても、それは言葉だけのもので、他人には、それを直接見ることも味わうこともできません。そういうところに、瞑想とか気づきとかの伝達の限界を感じていて、ある種の物足りなさ・詰まんなさを感じていたのですが、あるときに、ふと「気づきを動画で取ることができるんじゃないか」と思いつきました。
 昔で言えば禅僧の墨跡なんかがそうですね。その人の瞑想の境地・意識状態を、筆を使って、紙の上に、時間とか、スピード感とか、粘り気とか、重みとかを封じ込めて、可視化します。たとえば、宮本武蔵の墨跡など見ると、造形だけの話ではなく、武蔵の時間感覚・動きが記録されています。(宮本武蔵の墨跡→http://awarenessism.jp/?p=16043)。
 それと同じように、(昔だったら墨跡という手段があったりするんですけど)、今だったら誰でも動画が撮れるんだから、動画で撮ればAwareness(気づき-意識)そのものを動画で撮れる・残せるんじゃないかという発想があったんです(笑)
 高 はい。
 船 それともう一つは、ある程度瞑想してボディワークをするといわゆる活元運動(自働運動)みたいなのが出るようになって面白がっていたのですけど、それを単に「活元が出て面白い」だけじゃなく、もっと洗練させて、レベルを上げていけないかな、と思うようになりまして、それで色々やっているうちに活元を誘発するのには音楽を使うのが簡単だと気がついて、それで音楽を使って、活元を出して、それを撮影して、色んな自覚してない癖が混じってたりするので、鑑賞しながら独り反省会して、自己チェックして、更に純度・レベルを上げていこう、と。まあ、そういうのがあります。更にそれを、恥じらいはありながらもYoutubeで公開して、記録として留めておこう、と。「これが俺の現実のレベルだ。現時点での到達地点だ」、と。(笑)
 高 今日はかなりハイレベルな話になっていますね。
 那 定型句じゃないから面白いですよね。自分の体感でもって話してくれるから。観念をそのまま繰り返す人は多いけれども、体感でもって、それを組み合わせて自分の言語で語ってくれるから。
 船 私はいわゆる宗教的指導者という人でも、芸術的な手段を一個持っていると面白いなぁと思っています。指導者としての本業とは別に、絵でも詩でも持っていると深まりやすいんじゃないかな、と。私の場合、たまたまそれがああいう動きということだったということです。
 那 だから芸術でも、スポーツでもいいですけど、ある程度形になって結果として出て、初めて・・・
 船 はい。
 那 我々はこの地上に肉体を持って生まれているわけですから、悟って山の中にいて、思い込んでいれば世界が変わるとかいう人もいるけどぼくは全然ダメだと思っていて。
 船 はい。
 那 やっぱり俗な中に出て、人と関わったり、何か生み出したり、奉仕したり、その振る舞い方が人とちょっと違うというところに救いがあったり、その表現されたものがちょっと我から生まれたものではない何かが宿っているというだけで影響を与える。関係性の中において影響が出て、現われ出てこそなんぼじゃないかなとぼくなんかは思っていて、だから今のお話はすごくね、共感をしましたよね。
 船 はい、ありがとうございます。
 那 っていうか、ずっとこういうことを話してきたんですけどね、ここでは(笑)
 高 まさにずっと話してきたことをね、実践されているという。
 那 そうそう、現実に。
 船 だからなんて言うんですかね、「俺はすごい体験した」という人がいて、「でも、それは言葉を超えた体験なんで表現できないんだ、伝えられないんだ」と言って終わるとしたら、それは本人自体が本当にはつかめていない、自分の意識には本当には定着できていない、と思うんですよね。
 その体験を、自分の身体化された言葉に落とし込む、あるいはそれが言語以外の媒体であれ、そういう作業によって、やっと、その言葉を超えた体験が、その人のものになる、肉体化される。
 那 だからそれをいい言葉で、観念で強化してしまうからなおさらやっかいなんですよね。一見、いいことを言うから。でも、絵とか見てもわかるんですけど、オリジナリティというのは断片の組み合わせ方の独自性なんですよね。文学形式でもそうですけど。
 船 はい。
 那 形式があって初めて表現があるわけで、自分独自の表現というのは、何を表現するかではなくて、どう表現するかなんですよね。ゴッホのタッチが彼の形式じゃないですか。世界との関わり方ですよね。ひまわりそのものではなくて。世界との関わり方の中に繊細さとか深さとか、愛があるかというところで、そこでオリジナリティが出てくると芸術になるわけで、何を言っているかよりもどう言っているかでぼくなんかは真実が測られると思っていて、そういう宗教性と芸術性というのを普通に結びつけて考えて当然だと思っていたわけですけれども、なかなか共感してくれる人がいないんだなぁ、と。
 船 そうですね。
 那 これ、いくら言っても、だめなんですよ。なぜなら独自な表現というのはごまかしが利かないから。きれいなお題目はもう十分という感じです。
 船 何事にも時期・タイミングと云うのはあって、今の世の中では「覚醒話」は目新しくてお金にもなるけれど、ある程度時間が経ってくるとそのレベルの話では誰も面白がらなくなってきて、そこからが本番と云う感じはありますよね。みんなが日常的に、あちこちで、気づき体験、いわゆる覚醒体験しているのは当たり前で、「それ当たり前じゃん、そんな誰でも経験してるよ」くらいになって、そこから面白くなる。ヨガなんかもそうですね。2、30年前はまだ質の良いものが入って来てなくて、それほどのレベルでもない指導者でも食っていけたし、本も売れたけど、現在、ヨガがこれだけ入ってくると、レベル自体が上がってくるんで、変なものが全然魅力がなくなってきて。
 那 目が肥えるというか。
 船 そうですね。日本は、元々、禅の本場でもあり、世界に誇れる優れた精神性を持った国のはずなんですが、今は悟り話も逆輸入されたものにしびれている状態というか、素朴と云うか。でも、いま流布している、そんな「悟り話」が世間でも目新しくもない退屈な話になって、それからが本番で、そこからの段階に期待が持てるんじゃないかと思います。

●「苦しみから免れたい」が修行の正しい出発地点

 船 研修に申し込んでこられる方に二種類あって、ひとつは「悟りたい、覚醒したい、意識のレベルを上げたい」みたいな、肯定的な目的を持って研修を考えておられる方で、もうひとつは「今ある、この具体的な問題・苦しみを、どうにかして無くしたい。その苦しみから逃れたい」と云う、かなり具体的な切実な問題を抱えておられる方です。その具体的な問題には、家族とか人間関係の問題もあれば、自分自身の精神疾患とか虚無感とかの場合もあります。
 私は、正直、「悟りたいとか、覚醒したい」といって研修に来られる方はちょっと苦手です。それは基本的に、出発地点で間違っているというか、幻を追いかけてるというか…
 逆に、私が好きなのは、「こういう苦しみがあるからそこから免れたい」という、抜苦(ばっく)ですよね、苦を抜きたい、この苦しみから免れたい、どうしたらこの苦しみから逃げられるか。それが唯一の正しい修行の出発地点だと思います。
 自分は、すでに平均的なレベルに居て、そこから更に上のレベルに行きたい、もっとすごくなりたいって感じで修行に入ると・・・
 那 プラスアルファ。
 船 そうですね、プラスを求める。どうしようもない状態に居る自分が、もう本当にどうしようもないから、何でもいいからどうにかしてくれ、みたいな人はモノになるんですよね。正しい修行の出発地点は、この現にある強烈な不全感・苦しみ・満たされなさから免れたいという以外に無くって、どんな人も本当のところはそうなんですね。
 悟りたいとか言っている人も、悟りなんていう観念はもともとないわけで、何か話がへんてこりんになっていて。はじめは苦しみがあって、楽になりたいというのを、それがいつの間にか、悟れば楽になると聞いているうちに、悟ればいいんだということになって、いつの間にか、元々、覚醒体験を求めたいたような気持ちになって錯覚して、変な風にズレちゃってて、そういう人はやっぱり上手くいかないですね。
 那 カルチャーセンターノリでプラスアルファの技術とか、何か資格をとか、何か特別な自分になりたいとかになると。
 船 プラスにいい経験をしたいという話になる。
 那 マイナスから始めて、あるいは自分の自我っていうのはろくでもないんだっていう、ぼくはネガティブな入り口しかないと正直思っていて、あまりこういうことが言えなくなってくるくらい何かポジティブな世界になっちゃってるけれども、正直、絶望から始めない限りはと思っちゃうんですね。
 船 まぁ、その通りですね。身体的な苦しみであれ、心理的な苦しみであれ、この苦しみをどうして解決したいか、というところにしか現実の出発地点はない訳で。
 那 それはつながっているものですよね。身体性と自我の苦しみは。だから、それこそ命がけにならざるを得ないわけで。
 船 はい。
 那 だからどれだけ社会的に成功しても自分は絶対に幸福になれない。何も信じていないし、笑えないし、人間の顔さえできなくなるだろう。人とつながれない、仲間になれないという絶望感? 意味がわからないから。そこから始めているからやるしかないんですよね。海で溺れて水面を目指して必死に無手勝流であがくように。泳ぎ方がこうだじゃなくて、犬かきでもなんでも、水面に上がりたい。それだけで十年、二十年、一人でやっているというか、それくらいの必死さがある人が致し方なくやればいいもので。
 船 修行ってそうですよね。
 那 禅僧が崖から飛び降りそうになって悟ったとか。
 船 はい。
 那 でも、それは悟りたいからではなくて、絶体絶命ってことですよね、常に、二十四時間。
 船 逆に言えば、悟りって云う観念がある限りゴールには行かない。
 那 そういうことではないですものね。
 船 それは悟りなんていうものを諦めるというか、なくならない限り。今、情報が多すぎるんで、覚醒体験というものを不幸なことに知ってしまっているというか。絶望すれば起こるとか。擬似絶望みたいのを自分でやってみて、それでちょっとした体験が起こったら、その時の描写もいっぱい本で出ちゃっているんで、答えを知っちゃってるんで。
 那 ぼくは絶望者専門の小路みたいに思っているんですけど、必要ないんですよ。普通の人には、正直言うと。愛がある人もたくさんいるし、地に足を着けて生活して、温かい家庭を築いていい仕事をしている尊敬できる人もいる。だからどうしようもない人だけがやればいいと思う。
 船 はい。
 那 ただどうしようもない人が抜けた時に、どうしようもなかったがゆえに語れることとか、言えることがあって、それはそれぞれその人の役割があるわけで、セミナー行って、百人が百人悟りましょうって話ではないと思うんですよね。イタコになる人は目が見えないからイタコになるとかね。それと同じくらいでぼくはいいと思っていて。問題は悟ることじゃなくて、その価値観をベースにした文化が生まれるかとか、そういう意識が新しい神話というかね、この文明に新しい形式を与える影響力があればとは思うけれど、全員がなれというのは違うと思うんです。悟りとか何の関係もない人格者や素晴らしい仕事をしている人はいっぱいいるわけじゃないですか?
 だからこれは特別な、プラスなことじゃなくて、マイナスの人がどうしようもないから、そういう運命の人がやるだけであって、そこから得たエキスなりなんなりを生かして、日常の中に戻っていく。それでいいと思うんですよね。みんな仏陀になる必要も、目指す必要もない。どん底を知っているから全体を知ったという、そういう人がいてもいいけど、全員がそうなるとか、ある特定のメソッドをやってそうなるとかいうのは何かズレている。

●目的地の奥深さと具体的方法論を兼ね備えた刀禅

 高 船江さんはご自分のホームページのブログで世界で起こっている色々な面白い動きをよく紹介なさっていますが、船江さんから見て、今の世界で注目すべき動きというのはありますか?
 船 うーん… そうですね。いま自分があえて挙げれるものといえば、やはり刀禅ですかね。刀禅はすごい体系ですね。いまは、瞑想とかよりそちちの方に心奪われています。瞑想とかボディワークとか武術とか、そういうジャンルを超えた凄い体系が、今まさに、この時代に成立しつつあると云うか。
 高 刀禅を修行するためにこちらにいらしたんですよね?
 船 そうです。
 高 広島から埼玉の蕨にいらして。
 那 しばらくはこちらで?
 船 そうです、先生の元で、ひとまず、二、三年は修行しようかと。
 高 ボディワークですか?
 船 ボディワークと考えていいと思います。日本発祥で、武術から抽出されたボディワークですね。
 高 先生が体系化されているんですか?
 船 そうです。奥行きというか、目的地の奥深さと方法論の具体性との両方を兼ね備えていて、学ぶには素晴らしいです。精神世界ではよく、センタリングとかグラウディングとか言いますけど、あれは主に精神的な話としてしているんだと思いますけど、刀禅はそれを本当に身体で作っちゃおう、というやり方ですよね。まさに、肉体で実現する。
 覚醒した、自分がなくなった、一体化した、それでセンタリングができてグラウディングができたと、それはある程度起こるんですけど、ただ厳密に言うとそれまでの癖とかがあるんで百パーセントできるのは難しい。刀禅はまず身体でそれを作っちゃうんですよ。身体から入る。面白いです。
 修行の話になると、「おれ、センタリングできてるよ、おまえより」と言われたら「ああ、そうなんだ」と言うしかないわけですが、刀禅だとごまかしが利かない。私もそれなりに、それまで色々やってきて行ったつもりだったので、初めはショックでした。「軸ができてない」とか「重心が高い」とかの指摘の繰り返しで。でも、それが良いところで、自分の身の程を知って謙虚になりますよね。
 あっちは武術の人たちなので言葉だけじゃ駄目じゃないですか? 殴りあって本当のことが分かったときには終わりなんだから、本当にできているかできていないかを確認しておかないと、自分は無敵だと思っていても、実際に戦ったら負けちゃうわけで、シビアですよね。
 那 結果が出るというのはいいですよね。ぼくも麻雀が一つの基準になっているんです。
 船 ああ、なるほど。それはいいですよね。
 那 自分がもうこの世界の原理を全部わかっちゃったと思って、高揚した気分でいくと、ある原理を当てはめようとするとぼこぼこになっちゃうんですよね。それを百万回くらい繰り返して、だんだんこなれていくというか。
 船 ああ、なるほど。
 那 結果が出ない限りは。
 船 現実でチェックされる。
 那 そこには変な親父がいたり人間関係も試されるし、麻雀が上手ければいいいという話でもないし、強くても嫌な奴になっていたらみんな打ってくれないし、総合力が人として問われるわけですよね。昨日も遊んでたけど、楽しく、笑いながらお金をもらうというか(笑)そうやってやっていくと、今日はフィットしているとか。今日は調和しているとか、流れを感じて全体を操れているとか、次、この人があがるわ、とか何となくわかるんですよね。だから今日は感覚はまっているわ、とか。それは理でもって現象に当てはめようとすると、だめなんですよね。
 昔は方程式を求めていたんです。絶対的な。この方程式を理解すれば人間関係も麻雀も芸術も全部上手くいくと。でも今は困難な状況でも埋没していくというかね。自分の中で原理的なものもあるんですけど、それを一旦捨てて入っていって、フィットしていくというのかな? 歩いていても緑とフィットしていたり、花や蝶を触れるように感じていたり、そうしていると麻雀の時でも場にフィットして徐々に操れる。だから全体というのは観念ではなくて、触れえるもので、変えれるもので、創造できるものでというのがわかってくる。ちゃんと結果でできているかだめかわかる。だから収支もちゃんとつけているし、だいたい勝ってますよ、一応(笑)
 船 それはあれですよね。だからおれは全部わかった、おれは世の中の原理がすべてわかった。でもチェックする手段がなかったら、脳内妄想ですものね。
 宝くじか何かで未来予想ができると言い始めても、黒白はっきりする世界だったら実は当たらなかったりする。それがあるかないかで妄想か、現実から離れていないか決まってきますよね。
 那 自分をチェックする場というのかな?
 船 だからそれが私からしたら刀禅の稽古会なんですね。
 那 何かあるといいですよね、一つね。
 船 瞑想系というのはそこがはっきりしない。できてる・できてないがはっきりしないので。
 高 主観だけですよね。
 船 例えば、ぼろくそに負けてても、「いや、実は、おれが勝ってたんだよ。余裕で笑っていただけで。全部一つなんだから、勝ってる貴方も、負けてる私も居ないんだから」となってしまう。最強理論で、脳内無敵に簡単になれる。
 那 だから一つの原理で全部わかるということはなかなかなくて、例えば僕は心身脱落体験みたいな、自我が崩れ落ちるみたいなことがあったんですけど、それだけで麻雀やっていると意外と勝てないんですよ。つまり、何が起こっても、嫌なことがあっても人よりも早く感情が落ちると。でも、それだけじゃだめで、今度つながって、縦軸だけではなくて横軸も必要で、そこを縦軸を意識しすぎてないがしろにしてしまうとだめになる。ここ(胸)だけにこだわって今、自分は平静だからといっても結果がついてこない。ここだけじゃ足りない。今度横を意識しようとか、常にチェックしながら気づきを拡げていくというのかな。それを延々と繰り返していく中で、何か今日は良かった、今日はだめだったという微妙な進歩じゃないですか?
 船 はい。
 那 それを積み重ねていく中で宇宙が広がっていったり、この指一本上げる仕草だけで調和しているとか、その指一本で意味が生まれるとか、そういうデリケートなところじゃないですか? 麻雀とか特殊な場だけではなくてつながって見えてくるというのかな? 非日常と日常がつながってくるから意味がある。
 今、お話している瞬間、この関係から意味が生まれる。積み木じゃないけれども、組み合わせるところで何か意味が生まれる。しゃべり方とか仕草とか、こういう瞬間から何か生まれる、それを大事にしたいし、そこに価値を見出したいなぁ、とか。刀禅もたぶんものすごいデリケートなものだと思うんですね。一ミリ違うだけで達人とそうでない人の違いが出てくる。それを日々確かめる中で身体意識が精妙に……
 船 たぶん麻雀と似ているのは、基本的に戦いという設定で、殺し合いであれ、奪い合いであれ、基本的に美しくない世界で、その中でいかに美しく、優雅に、つながった感じで、きれいに勝つか、という点じゃないですかね。
 高 刀禅に試合というのはあるんですか?
 船 試合というのはないんです。でも、試合をしなくても二人組みで、稽古の中で手を合わすと、もう分かりますよね。結果はやらなくとも分かる。接触してやったら、ああ、すごいというのは分かります。だから、何も殴り合いをしなくてもいいんだ、と先生は仰っています。
 高 それは傍から見てもわかる?
 船 あるレベルにいけば分かる感じはあります。ただ、初めての人は先生の何がすごいのか、見ても触って貰っても分からないかも知れません、その可能性が高いです。
 那 面白いね。僕なんかはボクシングが本当に好きなんですけど、今のトップは見るべきものがあるんですよね。メイウェザーとか。もう根性とかガッツじゃないんですよね。瞬間、瞬間の関係性の正しさというのかな? 気づきの速さなんですよね。今のボクシングって殴り合いじゃなくて。それを精密機械のようにこなしている選手を見ると、ここまでいくとスポーツがアートになる。サッカーでもジダンとかメッシを見てると、こういう動きって脱力しているし軸も通っているからできるんだ、とか、わかるようになる。スポーツってばかにしたもんじゃなくて、頂点行くとすごいですよね。勝負で培われた厳しさがある。
 船 ある段階を超えるとアートになって、単なる体力どうこうの話ではなくなりますよね。
 那 バレエの世界ではギエムとかいますけど、最近はジョルジュ・ドンの動画とか見直してすごいなとか、何かが宿って神がかってる。
 船 ジョルジュ・ドンは別格ですね。
 那 特別ですよね。でも、そういうのって人間の可能性としてね、人間ってここまでいけるんだという希望になる。人間なんてこんなもんさ、とか人生に出口がないと思っている人にとって、もしかしたら、全然もっと自由で、壁を壊したらいくらでも変化できるし、年齢は関係ないよ。人間ってどんな風にでもなれるし、壁を壊せばもっと自由だよって閉塞感を打ち破るきっかけになる。表現されたものにおいて希望を……

●永続的な悟りは存在しない、気づきだけがある

 高 悟り=気持ちいいことというか。永遠の至福感という一般の思い込みがありますよね。
 那 でも、そんなのは続かない。ラリっているだけで。その状態を維持することが大事だと言う人がほとんどだけれど、ぼくはそうは思わない。それは結局のところ一断片に対する執着になってしまうし、新しい核を生み出してしまう。それがどんな美しい体験であれ、至福の状態であれね。だから禅もクリシュナムルティもそんなことは言っていない。もっと心身脱落系で話が合う人が出てくればなぁ、と思っていたんですけど。まぁ、心身脱落というと道元の・・・
 船 まぁ、文化を背負った言葉なので色がありますよね。
 那 でも、落ちるって確かにあるわけで、その感覚っていうのが観念ではなくて、実際に落ちているというのがあるわけで、でもそれが別にゴールではないというところで。そこからが始まり。船江さんのHPで大智老尼という女性の禅者の文章があって、すごく共感したんです。これいいなと思って。禅宗の人って「風が吹いてていいね」で終わっちゃう人も多いんですけど、あの人の言葉って「宇宙を練っていく」とか「全然こんなのじゃ終わらない」とか女性なのに論理的だったり。
 船 あの方は実力があるというか。でも、伝統的な禅はそうですよ。見性体験が終わりではなくて、そこが入り口でそこから本格的な修行行程が始まる。
 那 そこは言語では言えない領域があるんでしょうけれど。
 船 はい。
 那 でも「練っていく」というとかものすごくわかると思って。こういうものがなんでマイナーでと思っちゃうんですけど。
 船 今、西洋から入ってきた悟り系は自分がなくなる爆発体験みたいなものをゴールのように考えるんですよね。それは伝統的な体系においても、勿論、重要な一歩ではあるんですけれども、問題は、そこから始まるのであって。正直、今はあまりにもイージーになっていて。
 那 何かそのメッセージとか言うもの自体が、自我に変わる新しい核になっている気がします。
 船 最近、強く思っていることがあって、これはまだ文章に書いたりもしていない「新ネタ」なんで、うまく伝えられるか分からないのですけども…
 いわゆる、この精神世界・瞑想宗教の世界には「悟り・覚醒」と云う観念があります。それを求めて、この業界全体が動いているのですが、それに対して「悟りというのは無い」と云うことを、言葉通り主張したい、と思っているんです。
 これは、単なる言葉遊び、解釈の違いとかの話ではなくて、私が言いたいのは、本当に、言葉通り、「いま、皆が信じていて、そして、私自身も長い間信じていた、悟りと言うものは、言葉通り、無いんだ」と云うことです。
 ―気づきはあるんです。神秘体験、瞑想経験、ワンネス体験、至高体験、そういうものは、幾らでもあります。それが自然発生的に起こることもあれば、ある方法論・体系のなかで訓練して、誘発することもできる。それは間違いなく、ありふれている話で。
 いま、私が言いたい「悟り」っていうのは、そういう一時的な意識状態ではなくて、継続的で、持続する、いわゆる「いい状態」「悟った状態」です。
 いわゆる瞑想経験、神秘体験、気づきの高まった状態というのはある条件があれば起こる。絶望してばーんっと幸せになったり。でも、それは必ず壊れていく。戻ってしまう。そこで多くの人は戻らないのが本当の悟りだから、あなたのはまだ定着していないから、定着させるためにがんばりましょうっていう話になって、永続した状態をゴールに考えるんですけど、他ならぬ、私自身もそう思って、ずっとやって来たんですね。
 ウチのHPに「夕日の体験」というのを載せているんですが、私にとって初めの大きな体験で、こういう状態で楽になるのかとわかって、そこからそれを再現させようと思ってけっこう苦しんで、で、再現できなくて戻ってしまう。やっているうちにまた起こって戻っちゃう。どこまでいってもあの最高の状態と日常という二元性というものがあって、それは自分の才能が足りない・センスに欠けてるからだ、あるいは努力が足りないからだと思って二十年くらいそれでやって来たわけでね。本とかを読むとみんなそれが定着すると言っているんだけど、自分の場合はけっこう簡単に壊れちゃうんですよね。
 で、再現は上手くなるし、その意識状態と、より親しくはなるんですけど、ずっとそこにいることができないというのは、最近までは自分が悪いんだっていうのがどうしてもあったんです。挫折感というのがあって、でももう諦めよう、無理だ、開き直って、これで生きようと思ってたんですが、でも最近ですね、何でもないときに歩いていて、ふと思ったんですね。「もしかして……そもそもの始めから無かったんじゃないか?」って。みんないわゆる一時的な瞑想経験の話をしているだけであって、その時はあるけれど、元に戻るだけのものをまるで戻っていないかのように言っているだけで、ある種の勘違いなんじゃないかと思ったんですね。スタート地点から勘違いしていて、永続化できないものを永続化させられると思ってずっと苦しんでいたけど、そもそも高まったり落ちたりっていう変化の中でしか生きていなくて。
 那 それはそうですよね。
 船 そう考えてみると、禅宗とか始めからその話しかしてないんですよ。
 「お前が思っている、その悟りはないんだ」って言われているんだけど、私は「悟りじゃない悟り・悟りを超えたあるがままの状態」があるんだと思っていたので、この先に、「いま」とか、「ただ」という「悟りを超えた悟り」がある、もっとハイレベルな悟りがあるとどうしてもそういう風に聞いちゃって、それはクリシュナムルティとかも「あるがままの今しかない」と言っているのに、あるがままの今になりきれるステージがあるとどうしても思っちゃうんですね。
 で、伝わらない話なんですよ。言葉でどうしても伝わらないから、たぶん私の話を誰かにしても、「悟りがないという次の段階の悟り」の話をしているんだと思われちゃうんですね。それ話すと、みんなまた、「それ、どうやったらなれるの?」って話になる。いや、そもそもないんだよ、言葉通り、いまのこの状態しかないんだよ、っていう。何て言うんですかね? とんでもない錯覚なんだけど、今の精神世界はそれの中で動いている。
 那 そうですね。悟りを維持するという方向。
 船 ある方の本に「定着(継続)する悟り」と「定着(継続)しない悟り」と云うことが書かれていると聞いたのですが、いや、悟りは定着しないんじゃないの?って。そもそも定着させるべき悟りなんてないし、悟りを定着させるなんて発想が間違えていると感じるわけです。
 那 そう思います。
 船 禅とかクリシュナムルティとかこれだけ言いながらも、今の自分を超えた境地・ステージが存在して、自分は死ぬまでそれを達成できないかもしれないって感覚がどうしてもあって。だって今、自分が知っている最高の瞑想状態から落ちているわけです。雑念もあるし、分離感もあるんですよね。それが、何ヶ月か前なんですけど、歩いていて、待てよ?とか思って。
 一同 (笑)
 船 おれ、とんでもないばかなことをやっていたかもしれないって。まじか、二十年勘違いしていたかもって。それはすごく救われましたね。ただその時に、ああ、これが(そもそも出発もしていないんですが)ゴールなんだと思ったけど、今でも信じきれないんですよ。やっぱりまだ何か、もうそうだと思いながら、やっぱりその先があるんじゃないかっていうのが止められないですね(笑) その理解・認識を定着させることが、やっぱりできない(笑)
 那 答えが、不動の答えがあると言った時点で、もう諸法無我じゃないじゃないですか? 常に、落ちて、常に最高さえ落とすことで新しいものを待ち構える。
 船 全面的に更新されて、ゼロからという形になる。
 那 そういう形に。でもそれは最高の体験も一つの自分を構成する因子として組み込まれているわけですよね。だから宇宙は拡がっているわけですよ、当然。自然だってなんだって固定化したものはなくて、相互作用で常に組み替えていく。でも成長していく。それが宇宙を大きく、偉大なものにしていく。あるいは人間が神に近づく終わりなきプロセスとしてあるわけで、恩寵体験をした人とも時々話しますけど、「これはどうなんですか?」と聞かれて、「それは飴玉だから」と言うんです。飴玉は美味しかったでしょ?って。でも、その甘いのをずっと口の中に入れていたら気持ち悪くなる。それはそれで味わったら、もうその味をわかったんだから、その味をわかった人間として新しく生きればいいんじゃない?って言ったんですけど。エックハルト・トールなんかは維持しましょう、と言っている。でも、そんなのは抜けてないし、有名な教師が何と言おうと、自分は違うと思うと言っていたんです。常に、その気持ちいいのも抜いて、落としてゆく。
 ぼくもね、再現できないかとやっていた時もあった。でも、麻雀やっていてふわーってなっていたら勝てないわけですよ。常にその気持ちいいのも落として、空になって、常に何か新しい変化に気づける状態じゃないと、剣豪だって斬られちゃうわけでしょ? 常に無心で、落とした状態で、新しく創造したり、瞬間、瞬間、変化に対応して、関係していく。そういう状態が空なんだから、色即是空、空即是色でさ、それが仏教だと思うから、最高の状態でふわーっと維持するということは、釈迦が言った涅槃とちょっと違うんじゃないかなと僕は、麻雀やっててわかったんですよ。気持ちよくなってちゃ勝てないから。麻雀で最高の和がりして気持ちよかったーってなってても、気持ちいいのをすぐに落とさないと流れから外れてうわずってしまう。嫌なことあったり失敗して、うわーって引きずってても流れから落ちて勝てない。いいことあっても、悪いことあっても全部落とし続けて、無で、明鏡止水でいたら最強なんですよね。
 だから結果が出る世界だからわかりやすいけど芸術でも全部同じだと思うし、最高だと思っても捨てなくちゃならない。それを捨てたけれども、どこか自我も含めてあるわけですよね。自我がないというのは嘘だと思うけれど、自我も一断片だし、至福体験も一断片だし、パーツが増えたわけだから、武器が増えたわけだから、そこからさらに何かを立ち上げていって。でもそれも維持しなくていいと思う。波みたいなもので。落とし続けるから自由で、体験からも自由で、常にビビッドな状態でいられる。そういうところだけはなぜかぼくはあるんですよね。
 船 ただ難しいのは、今の話の、「何も持たない空」の話をすると、次のステージがそれだという、もっと上のレベルの話になる。
 高 そうそう。
 那 そこに観念が入り込む……
 船 どう語ろうと、同じ構図になってしまうんですよね。
 高 マインドの罠というかね。
 船 それがすごい微妙で、伝えられないんですよね。その時思ったのは、禅宗もクリシュナムルティも結局、悟りの話をしちゃってるんですよ。本人たちはしてないんですよ。だからそれはないんだって百万回くらい言っているんだけど、みんなが、そうじゃない、悟りがある、悟りを超えた「あるがまま」とか「いま」という「ただ」という悟りがあるんだ、という(次の段階の)話にズレこんでいってしまって、たぶんそれが超えられないんですよ、言語による表現では。
 那 はい。
 船 で、自分自身がそういう感覚が微妙に残っていて。だから何かこうじゃない、次に未来に、こうじゃない段階があると。まさにクリシュナムルティが言い続けていることですよ。その話なんですよ。
 高 「あるがまま」と「あるべき」とね。
 船 そう。それが覚醒体験とかどんなにやっても、その中に混じってくるんですよね、だからそこを使えば商売ができちゃうわけですよ。
 那 仏教では最終的にダルマ(仏法)ってものが永遠だっていう派と、ダルマさえ実在しないという中観派みたいのがある。ぼくはどっちかっていうとそっちで、結局は絶対的なものなんてない。でも、その絶対を自分で瞬間に生み出すことはできるっていう。ある種の超人思想と言いますか。個人だけがこの宇宙を超えることができる。神になることができる。そういうものの見方なんです。だから別に仏陀がこう言った、クリシュナムルティがこう言った、そんなの関係ないじゃん、そんなの俺よりは下だよって思えるくらいじゃなきゃだめで、これ言うとまた誤解されちゃうんだけど。
 船 いやいや。
 那 そういうことだと思っていて。どんな体験も、どんな偉大な言葉も、聖人も、悟りも何もかも一人の人間よりは小さいと思っているから、常に新しく、自分がそういう体験より大きなものとして現れてくるようなあり方でない限りは、それがたぶん本当の意味での悟りなのかもれしないけれど、だから結局、何も信じないってところになっちゃうんですよね。その体験さえ永続的なものじゃないものとしてみなすというか。何か言葉でちょっと言いづらい……
 船 (笑)
 高 だからそれを言葉で言った瞬間にそれがまた新たなイメージになっちゃう。
 那 人に説明しなくちゃ、別におれはいいんだけど、説明を求められたら、口で言わざるをえない。
 船 そんなのホントの悟りじゃない、って言った時点で、それを超えた「ホントの悟り」の話になっちゃって。そしたらそれを聞いた人は、そうか、その次、その先があるんだという風に理解しちゃう。その構造を超えられない。
 那 「あるべき」を、自分よりプラスなものを前提にして、まさに既知なるものではなく未知なるものを前提にしているからで、みんな恩寵を維持しようという話をするけど、まずその維持しようしている自分の自我を観ることが大事になってくる。自我さえ見ていればぼくはいいと思っていて、悟りがどうとか恩寵とか、神秘体験とか、そんなこと言ってちゃだめって言う。まずは求めている自分だけ見ていれば、自ずと何かちっぽけな自分を超えたものが立ち現れる瞬間があるからそのリアリティだけが事実であって、前提として先に悟りなり神秘があるという、その構図で求めていること自体が自我の罠というかね。でも、そこって一番突かれると嫌なところなんですよね。求道している人にとって。あなたは自分がちっぽけだからやりたいんじゃないのって。そこだけは言われたくないところがある。でも、真実はそこにしかないというか。それが見えちゃうから。だからこういうことを指摘するのは傷つけてしまうかもしれないし、難しいんだけれど、結局は「あるべき」をみんな求めているんだなってところで共通してますよね。
 船 はい。
 高 構造的な問題というかね。悟りとか扱う分野の構造的なジレンマだよね。
 那 だから船江さんが、あれ?もしかしてこれって違うんじゃないっていうのはものすごい気づきで、解放感があったと。
 船 だからこれまでの瞑想体験よりそっちの方が、とんでもない宇宙的ジョークにかかっていたみたいな、ええーっ!?みたいな(笑)感じで、眩暈がするような、衝撃と解放感がありますよね。
 那 だから今のお話はこういう世界で実は一番リアルな話ですよね。そこなんですよね、肝はね。でも、みんな権威を求める。いろんな教師の名前を挙げる。でも、なぜかクリシュナムルティには触れたがらないのは何となくわかる。
 船 始めの一歩が違うんだよ、みたいな。
 那 それを求めている自分だけ見ていなさい、ブラフマンとかアートマンじゃないよって言っちゃってるから、みんな見たくないですよね。でも、それって自分の自我を見たくないのと同じで、まさにネガティブなものから。ポジティブイメージとか限界がある。
 船 禅もクリシュナムルティも悪くない、素晴らしいけど、結局、誤解させちゃっているというか、「禅の悟り」って言うじゃないですか? 「クリシュナムルティの境地」とか。それが「無い」ということを伝え損なっているから、あの人たちは結局、伝達において同じ失敗を、まぁ、本人達が悪いわけじゃないですけど、言葉の限界みたいなもので。
 那 そうなんですよね。
 船 だから、いまここで「悟りは無いんだ」というメッセージを、真っ当から伝えたいみたいな。いわゆる悟りはありません。ただ終わりの無い気づきのプロセスだけがあります、みたいな。でも、これも伝わらないですよね。
 高 確かに、言葉の限界っていうか。
 船 これを言うと、もっと上の悟りの話をしていると思われちゃうんですよね。そうじゃなくて、(そもそも、本当に)ないんだっていう話なんですよね。だからこの業界の存在意義がないんだって話になってしまう(笑)
 苦しんでいるも何も、これしかなんだからっていうことが納得いくかどうかなんですけど、その話が、もっとすごい悟りの話だって思われる。微妙に今と未来、現実と理想の間の――何だろ? 脳が持っている何かなんですかね?
 高 イメージする能力。
 那 ただね、一つここにも誤解の危険性があると思うのは、よく「今ここ、あるがまま」と言われるけれども、それは確かにその通りだけれども、じゃあ、そのままでいいのかなといった時に、そのままが見えた時に、どうしようもない自分が見えた時に、たぶん、そのままが変わっていると思うんですね。
 船 それは間違いなくそうですね。
 那 それが見えたら変わる。
 船 そうですね。だから「あるがまま」「あるべき」といった時に、あるがままを見て一つになると言うけれども、実際にはあるがままと一つになる瞬間、一つになる自分がなくなるから、あるがままと一つにはなれないんですよね。あるがままと一体化する瞬間、あるがままがとてつもないものに変貌して、本当の意味での変化が起こるから。
 那 そこに常に新しいものが生まれているはずなんですよね。
 船 あるがままで、今ここで、このままでいいでしょって言うのは、それに本当になれてないから残っている訳で。
 那 自己中心的な身勝手な自分でいいでしょってわけではない。
 船 そういう話ではないですね。
 那 身勝手な自分に気づいた時に変わる。罪深い自分に気づいた時に、罪深い人間じゃなくなっていくと、そういう変化があるのがあるがままで、今ここということだと思うし。
 船 それは間違いないです。密教とかだと煩悩を菩提に変容させるとか、エネルギー変換とか言いますけど。クリシュナムルティはフラワリングという言い方をしますよね。あれは禅とか仏教系のエッセンスの部分だと思います。「あるがまま」がただの開き直りになってしまってはいけない。
 那 あるがままを見て、受け入れるということですよね。どうしようもないんだ、おれ、みたいな。嘘吐きだおれって気づいたら嘘吐きじゃなくなるわけだから。そこに変化があって、そこに人間の可能性があるわけで、そこを誤解させて自我を肯定させる方向に誘導する人がすごく多い世界だから。
 船 先ほどの話に戻りつつ総括すれば、今の精神世界は、ひとつは、もっと上の悟りを求める、いい意識状態・瞑想体験を定着させると云う「さとり路線」と、もう一つは、そんな未来の上・先を求めずに、この、あるがままの自分を肯定して、そのままでいいじゃん、と云う「現成肯定路線」の二つに分かれるように感じますが、その双方が、微妙にだけど決定的にずれている、安易な類似品・紛い物になってしまっていると云うのが私の印象です。そのどちらでもないところに、進むべき、道ならぬ道があるように感じます。
 ただ否定的なアプローチというのは地味でなかなか面白みがないですから。それと初めに言ったように誰でもやるべきことでもないというところがあって、幸せな人は幸せで、ある種救われているんで、誰もがこんな修行とかする必要があるかと言ったらないんですね。
 那 それが人間の価値の最高だというのもまた一つの幻想というか。
 船 そうですね。病気の重い人はやらなきゃしょうがないと云う感じで。病気であるが故にわかる面白い経験はある。発狂したあと正常に戻ったら狂気を経験している分、人生経験が広い。それで言えることが幾らかあるってだけですよね。
 那 そうですね。
 船 ただ、学校出て、就職して、子供持って幸せに暮らしている人はやっぱりすごいというか、いいなぁと思いますよね。救われているわけですからね。
 那 そこに現代の自我中心性みたいなものを極力なくす方向で、我々みたいのが端の方から何か発信して、ちっちゃい影響でも与えれば波紋のように拡がるかもしれないし、その可能性に賭けていくというのはありますね。関係性の波紋の可能性に賭けるということかな。
 船 質の良いものを出していけば、それは間違いなく世界に木霊して残っていくと思います。いまのネット世界に、タンポポの綿毛が風に乗って舞う、という風なイメージを持っています。質の良い情報を発信していきたいですね。
 高 今日は本質的なところまで話せましたね。
 那 とても刺激的で、楽しい時間でした。ありがとうございました。


★船江霊基プロフィール

1970年生まれ 20代より伝統仏教各派の修行に入る。その間、各種ボディワークにも取り組む。
2007年より、アウェアネス・リトリートセンター(気づきの研修所)主宰
詳細なプロフィールは、こちらを→ http://awarenessism.jp/?page_id=13553

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◇エッセイ

片山洋次郎『整体。共鳴から始まる』に見る無我表現との共鳴

高橋ヒロヤス

ジャズを色々聴くようになって、今注目しているのが菊地成孔というジャズ・ミュージシャンである。この人は音楽家であると同時に理論家でもあり、さまざまなジャンルの批評家でもあるという多芸多才な人物で、彼の著書を読むのが最近の楽しみの一つになっている(もちろん彼の音楽も好きだ)。

しかし今回は菊地成孔についてではなく、彼が一時期身心を壊したときにお世話になったという整体師、片山洋次郎氏の著書『整体。共鳴から始まる』(ちくま文庫)を読んで、MUGA的観点から興味深いと思ったことついて書く。

片山洋次郎は、野口晴哉が創始した野口整体をベースに、現代社会に適した独自の手法を開発し発展させているといわれる。

まず彼の「気」というものについての考え方が興味深い。「気」を具体的なエネルギーとして実体的に捉えるのではなく、「共鳴する感覚」として捉える。

(以下、『整体。共鳴から始まる』より引用)

「気」とは、心身のあいだ、体内諸器官のあいだ、人と人のあいだ、人と環境のあいだに響きあう何か。「気が合う」のは意識や意図以前に互いに「合って」しまうもので、「気が付く」のも思わず自然発生的に立ち現れるものであり、「気持ちいい」も心持のことであり、身体そのものの気持ちいいとしか言いようのない感覚でもあり、居場所(環境)そのものの気分の良さでもある。

意識‐身体‐環境のどこかに主体があるとも言えるし、どこにも主体がないとも言えます。
この身体の内側から湧き上がり、のびのびと何か(=気)が世界に広がることが、深く息をしているということであり、安心感そのものであり、良く生きることそのものでもあります。

人と人、人と動物、植物、モノ・・・その間に何らかのつながり、連続性、浸透性を実感する瞬間がある。この互いに共鳴し合う作用が、あらゆるものが「存在」するということへの根本であると思っている。この共鳴する作用あるいは働きあう意思を「気」と呼びたい。

(引用終わり)

片山は、いわゆる「自己」が強い人よりも、自己の感覚が希薄な人の方が共鳴力があり、世の中に大きな影響を与えていると指摘する。

(以下同書より引用)

後で経験的に分かってきたのだが、言語を持たない子供たち(自己を強く持たない、自己が希薄)は、みな気的コミュニケーション(共鳴力)を持っている。

役に立つ、自己主張がある、という人は、存在感があって目立つが、共鳴力は弱く、緊張関係を生み出す。気的コミュニケーションは誰でも意識下に行っていることなのだが、それは自己を強く持とうとしたり、人を支配しようとするほど弱くなり、自己を希薄にするほど強くなる。

共鳴する力は目に見えないから、そういう力をもっている人たちは単に役に立たない人と見られている場合が多いし、一人の人の中でそういう側面は評価されない。見方を変えれば、そういう力をもっていて知らないうちに人を元気づけている人がいるのだが、評価されないばかりでなく、無意識的に拒絶されることも多い。逆に『役に立つ』『自己主張がある』という人は、存在感があって目立つが、共鳴力は弱く、緊張関係を生み出す。

障害を持っているようにも見えず、幼児でもないが、共鳴力の高い人たちというのがある。障害児や幼児がそうであるように、自己が希薄で存在を照らす鏡のような存在であり、無欲で透明感が高く、存在感は薄い。誰にも存在価値を認められない場合も多く、気的に果たしている役割が大きいのに、それは目に見えないので無理解にさらされやすい。

自己の希薄な、気的に過敏な存在は、目に見えない、役に立たない、無視されやすい存在だが、見方を変えれば気的コミュニケーションの中心であり、家族のつながりや社会的なつながりを内で支えているのは、そういう存在である。

(引用終わり)

一般的には、自己の感覚が強い人の方が社会的に強い影響力を持つと信じられているし、今の教育も、小学生から「自己」感覚を強める方向が奨励され、自己の希薄な子供は、集団の中で目立たず、いじめにも遭いやすい傾向にある。

しかし、インパクトのあるものは、はっきり目に見えるから大きな影響があるように見えるだけで、実際には影響力は少ない。誰かの言った何気ない一言、一つの個のわずかな振舞いが全体に影響を与える。むしろ大きな振舞いは秩序そのものに与える変化は小さく、微妙な振舞いの方が全体の秩序にズレをもちこむ。

(引用はじめ)

この超多次元的、気的意味空間では、個的なことはただちに全体的なコトである。個的なコトほど全体的に与える変化という意味は大きい。逆に組織的全体的なアプローチは秩序内的である。

個的変化が常にただちに全体を動かしているから、逆に常に全体は生まれ続け、新しい秩序になりうるのだ。

目には見えないが、一見何でもない日常の一瞬が世界を動かしているかもしれない。個的日常的なコトが世界を動かす。個と日常はカオスの本質だからだ。

(引用終わり)

片山のような見解は、まだ少数ではあるものの、今後ゆっくりと認知されていくのではないかと思う。それはまたMUGAの目指す方向性とも一致するものだろう。

本の大半は、整体術の観点から、人体の具体的箇所と意識との関係や、野口氏のいう「体癖」についてそれを補充する詳しい解説に充てられているが、僕自身はそのへんはあまりよく分からないので割愛する。興味のある方は読んでみると面白いと思う。

自分が興味を持ったのは、「自己」に関する考え方だ。

(以下引用はじめ)

私は自立した意思をもっているのだろうか。
もしそうならば、なぜ潜在意識という闇があるのか。意味化できない意識があるのか。
もし完全に自他が区別されているものだとしたら、自己が自明なものでありすぎて必要のないことのはずである。

意識は自己に中心を持つ波動と他の波動の間にある、双方の干渉し合う場にある。
ホログラムが二つの光源からくるレーザーの光の干渉の場で像を結ぶように、自他の際によって立ち上がる。

特にヒトの場合、純粋で素直な自己(他と完全に共鳴している自己)から大きく逸脱しようとする欲望がある。
つまり、完全な共鳴状態からのズレが自己として立ち上がる。

世界からの屹立(きつりつ)・突出と、世界との共鳴・一体化という往復運動そのものが自己の場であり、自己を自己として区別し、世界を自己の下に秩序化する欲望と自己を他と一体化(無化)する欲望の往復運動、エネルギーの集中(自己化)、エネルギーの発散(一体化)が同時進行して、エネルギーの場を創り出している。

自己は不断に解体すると同時に生成している。意識の中心も意識の位置も不断に変化している。

一人の人間は他者との間に初めて立ち現れるものであって、「あるがままの個」は他者との境界を強固にすることによっても、また他者との安易な同一化によってももちろん実現されず、他者との共鳴できる間合いにあるとき体現される。

(引用終わり)

直接彼の文章を読んでもらう方が伝わると思うので長々と引用しているが、「自己は不断に解体すると同時に生成している」という片山の発想(仏教的ともいえる)は、固定的な自我という存在を前提とする西洋的自我観を軽々と超越しているだけでなく、確かな体感に基づくものであるために強い説得力を持っている。

他にも、なるほどと思うような箇所が多い。

(引用はじめ)

たとえば墜落した飛行機に乗りそこなった人は運がいいが、乗ろうとも思わなかった人はもっと運が良いのだ。
当たり前の人の当たり前の生活がすごいパワーと不思議に満ちている。

俳句は作家のオリジナリティーとか創造性とか前衛性とは本来違うところに活力がある。
むしろ時間的にいえば日常的瞬間の意識の変化、加速度への気づき、飛び込み、そこに時空の無限のサイクルのたたみこみを見る態度そのもの、そのような生き方、遊び方を言うのだろう。句はその日常を生きる身体が生みだすものである。

恋愛の中では誰でも経験する事だが、その他のことでも根本的に求めるのは世界との一体性だと思うのだが、実際にはずれてしまう。
本当の要求は現象に隠れて見えなくなり、ほとんど意識されることもなくなってしまう。思いこみ、思い入れが強いほど難しい。

「今までの人生の中で待っていたのはコレだ!」と思うような強い思い込みがある場合ほど難しいし、たぶん本物ではない。本当の体験はむしろ静かにやってくる。
あらゆる知覚、情報、知性といったものは自己と世界の間に壁をつくる。それはエネルギーをせきとめるダムのようなものであり、エネルギーのポテンシャルを高めるが、世界との共鳴を阻害する。

(引用終わり)

ちなみに、片山はオウム真理教事件の直後に『オウムと身体』という著書を発表し、オウムの修行法の持つ根本的な問題点を整体の観点からいち早く指摘している。当時、ほとんどの既成宗教や修行団体がオウム事件の衝撃を前にひたすら困惑し、沈黙することしかできなかった状況を考えると、彼の行動と態度は非常にストレートで誠実なものに思える。

なお、『整体。共鳴から始まる』(ちくま文庫)の解説を書いているのが冒頭に挙げたジャズ・ミュージシャン菊地成孔で、彼のような人が、具合がよくなってからも月に1度のペースで道場に通い続けているということ自体が、僕なんかから見ると、片山の見識と実践が確かなものであることの証左であるようにも思える。

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◎編集後記
 今回は、アウェアネス・リトリートセンター「気づきの研修所」主宰の船江霊基さんをお招きして座談会を開きました。クリシュナムルティやダンテス・ダイジ、禅など様々な資料を掲載したHPを前々から利用させていただいていたのですが、屋久島で研修をされていた時から注目していた方です。座談会をご覧いただければわかるように、心身の両面から気づきを促す方法論をお持ちの本格派で、お話を聞いていて大きな学びになり、身が引き締まりました。タイプも経験も違えど(自分が俗人に感じましたが)共感の空間のようなものは生まれたと思います。まだまだマイナーなMUGAですが、今後もニュートラルな立ち位置で、無我研を様々な人々と価値観をつなぐ共感の場にしていければと思います。(那智)


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  • 名無しさん2015/10/20

    今回は、本当に面白かったです!少数派の私としても、納得のいく話題でした!

    久々に、共感できました!