芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第47号

2015/06/15

MUGA 第47号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇エッセイ

異端が普遍になる時 ――例外者たちの声に耳を澄ませて――

    那智タケシ

◇スピリチュアル

クリシュナムルティは「役に立たない」のか?

高橋ヒロヤス

◇スピリチュアル

クリシュナムルティの陰の生活?

高橋ヒロヤス

◇勉強会

●無我表現研究会第2回勉強会  2015 5/26 四谷の事務所にて

裸の自分でいることを恐れない


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◇エッセイ

異端が普遍になる時 ――例外者たちの声に耳を澄ませて――

    那智タケシ

 気づけば、ぼくの周りにはどういうわけか、少し不思議な人たちが近寄って来ることがある。彼らの言葉はあまりにも独自な構造を持っていて、時に非論理的であり、日常的な思考法では理解できなかったりする。こうした人々は大抵、社会の端の方で目立たないように息を潜めて生きており、時に、薄暗がりから顔を出して誰かに見つけてもらえないかと辺りを見回していることもあるが、すぐにおびえた様子で首を引っ込めてしまう。

 ぼくは彼らのことを親愛の情を持って、「例外者」と名づけている。そしてどういうわけか、例外者は例外者を見分けることができ、お互いに何となく見守っているのだが、それぞれが他の国に住んでいる人のように独自な宇宙を持っているために共通の言語が見つからない。なんと声をかけてよいかわからないでいたり、あるいは自己充足していたり、ちらりと確認するだけして、歩き去ったりする。彼らの行動はあまりにこの定型の記号、観念に満ちた現象世界に非執着であるがゆえに、非合理で、まったく先が読めないのである。

 例外者は自我によって構成されたこの世の価値観、社会的記号を信じられない人々である。ゆえに彼らはこの世界の中に自分の居場所を見つけることができず、必ずといっていいほど誰も使っていない廃屋や舞台裏、暗がりに追いやられ、一人、奇妙な法則を守って暮らしている。この秘密の法則を遵守すればするほど、彼らはますます独自になり、ますます孤独になってゆき、ますます人間離れした運命の中に入り込んでゆかざるをえない。

 社会的な共通語を持たない彼らがどうやってお互いを見分け、あるいは僅かでも交流をすることができるかというと、それは「響き」である。あるいは、匂いのようなものかもしれない。独自な存在形式から生まれる響きや匂いがあって、それが遠くからでも伝わることがあるのだ。だからこそ記号的言語を超えて、彼らは僅かでも共通の何かを分かち合うことができるのである。そしてごく稀にだが交流することもあるし、共に歩くこともあるし、もちろん、何ごともなかったかのようにお互いに執着せず、離れ離れになることもある。そして、それぞれ、自分だけの手作業に没頭して、顔も上げなかったりする。けれどもその何年もかけて作り上げたものを、誰にも見せずに机の中に眠らせてしまうこともざらなのだ。なぜなら、彼らはあまりにも自分が理解されないことに慣れ過ぎているからだし、時によると諦めているからである。

通り雨が空を飲み込み、
時計のことを忘れさせる。
今日の天気は、お待ちなさい。
雨上がりのアスファルトの匂いがすき。
どこまでも続く坂の上
とげの刺さった手紙を見つけました。

太陽が、割れた化石を飲み込み
静かな冬が、時計のように続きます。
飲み込まれた化石が消化されるころ
にぎやかな春がそっと訪れる。

※紹介した詩については、許可を得たうえで掲載させていただきました。

 別に、本稿では特殊な表現をしている者や、存在形式を持つ者の中にある種の特権性や、特別な美点を認めているわけではない。アウトサイダーの中にのみ真実があると言いたいわけでもない。ただ、こうした誰の目にも止まらない、社会から理解され難い運命を生きる例外者たちの宇宙の中にこそ、我々が忘れてしまった大事なものが眠っていて、それが日の光に当たった時に、世界全体を表現する「美」として感じられることがあるのではないか。その薄暗がりの中に眠っていた「美」こそがこの世界を覆す新たな愛の形なのではないか、と夢想することがあるのである。例えば、カフカのように。例えば、リルケのように。

 ただ、偉大な、――途方もなく偉大な世界だけがある。それゆえに本質的な絶望、苦悩は存在しない、という叡智も存在する。一切は許され、愛されているのかもしれない。しかし、その非個人的な事実を意味のある真実として一瞬でも形にすることこそが、一人の人間の主体的役割であるという逆説こそが創造の秘密だとしたらどうだろう? 全体を一にするもの。一を全体にするもの――ここにきてようやく、芸術と宗教が一つになる可能性を秘めてくる。

 真実と美は、定型のメッセージの中にあるのではなく、観念や美しいメッセージの中にあるのではなく、現象それ自体の中にあるのでもない。その現象が通過した一人の人間という独自な存在の中から、個性的な形で現れ出てくる。より正確に言えば、一切の地上的断片に捉われることなく、それを乗り越え、統合した一人の人間の独自な存在形式の中からこそ、新たな愛の形がこの大地に顕現するのだ。そう、二千年前のあの人がそうであったように。

 異端が普遍になる時――それはこの世界に創造が起きたことを意味する。そしてその暗がりから起こった創造は、決して誰の目にも止まることなく、認められず、愛されずに消えていった者たちが住んでいる僻地や穴倉をも包含しているがゆえに、一瞬にしてこの世界全体を統合し、未だかつてない意味を与える。その光と闇を統合した何ものかが現れる瞬間の中にこそ、生きとし生けるものたちの救済の可能性があるのである。絶対に光が届かなかった場所にさえ、僅かに微細な光が届く奇跡が生じるのである。その光は強烈ではなく、微細であるがゆえに届くのだ。悲しみと沈黙を宿しているがゆえに、孤独な瞑想者の夜の奇妙な夢の中にも入り込むことができる。そして暗闇の中に浸透し、ひっそりと、優しく、虐げられた者たちを包み込んで、共に眠ることもできるだろう――そんな沈黙を宿した光。

 薔薇園の薔薇は、確かに美しい。目がくらむような華やかさ――それは万人の認める美であり、我々は賛美してやまない。けれどもふと、暗がりの草むらの中に目をやるのもいいかもしれない。その時、意外な場所に、意外な美しい花が咲いているのを見るかもしれない。その花はもしかすると、あなたに発見されることをたった一人、辛抱強く待っていたのかもしれないのだ。

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◇スピリチュアル

クリシュナムルティは「役に立たない」のか?

高橋ヒロヤス

「スター・ピープル」というスピリチュアル系雑誌の中で「ノン・デュアリティ(非二元)」の特集が組まれていた。別に「ノン・デュアリティ」というムーブメントについて何か言いたいわけではない。ただ、彼らが語っている言葉の中に、「ある傾向」を見出したことについて気になったことがあるのでそれについて書いてみたいと思う。

彼らに共通している体験というのがあって、それは「クリシュナムルティの本を一生懸命読んだが、それでは救われず、ノン・デュアリティの教えに救われた」というものだ。

繰り返すが、ノン・デュアリティそのものについて語るのはこの記事のテーマではない。那智タケシ氏のブログ「断片と統合」の中の「空とは動的なものである」という記事
http://ameblo.jp/greengod/entry-12023327540.htmlが示唆的な内容を含んでいると思うので、興味のある方はそちらをご一読願いたい。

この雑誌の記事を読んで、「クリシュナムルティは役に立たない(から読む必要はない)」と早合点する人がいるかもしれないので、老婆心ながらちょっと書いておこうと思った。

私自身とクリシュナムルティの関わりについて書いておきたい。

精神世界に興味を持ち始めた矢先、最初に出会った本がクリシュナムルティの『自我の終焉―絶対自由への道』(篠崎書林)だった。当時の自分は、何だか神に酔って恍惚としたような状態になって、キリスト教神秘主義者(アウグクティヌス、ヤコブ・ベーメ、スウェーデンボルグなど)を読み漁っていたから、なぜ、よりによって、そういう傾向とは真逆のクリシュナムルティの本を手に取ったのか、その理由はもう不明である。

憶えているのは、冒頭の第一章「はじめに〜あるがままのものを、あるがままに見よ」という章を読んで、「これはついていけない」と感じたということだ。神秘的なビジョンの中でうっとりと夢見心地の自分に向かって、「あるがままのものを見よ」と言われても、そんな汚い現実世界に絶望したからこっちの世界に来たんであって、余計なことを言ってくれるな、と今から思えばそういう反応だったのだろう。

その後、めるくまーる社から当時出ていたクリシュナムルティの伝記三部作を読んで、特に第一巻『目覚めの時代』で、彼が少年時代に神智学協会というオカルト団体にキリストの再来として育てられたというトンデモなバックグラウンドを持っていたことを知った。そして若い頃のクリシュナムルティは、それこそ神に陶酔したような神秘主義的な詩をたくさん書いているのである。なるほど、彼もこういう境地を経て、「あるがまま」に辿り着いたのか、などと早合点して、クリシュナムルティの厳しい教えは、一つの方便なのだ、と思うようになった。つまり、宗教を信じない人々に対して、「神」などという言葉を一切使わずに、宗教的境地を伝えるための彼独特のレトリックなのだと考えた。

そういう時期がしばらく続いた。クリシュナムルティも一つの方便、瞑想や坐禅も一つの方便、悟らせるためには自己セミナーやチャネリングでさえも一つの方便である、という、今から考えれば「悪しき相対主義」に陥っていた。

MUGA創刊当時に自分が書いた記事も、基本的にはそういう認識に基づいて書かれている。その中で自分は、エックハルト・トールとクリシュナムルティとダグラス・ハーディングを同列に論じている。もっといえば、クリシュナムルティをノン・デュアリティにひっくるめている。今から考えればこれは明確な誤りである。先述の『スター・ピープル』は「ノン・デュアリティ覚者」の中にクリシュナムルティを含めていない(覚者名鑑に載っていない)。こちらが正しい認識である。

実を言えば、クリシュナムルティが「あるがまま」以外を徹頭徹尾まったく相手にしていない(いわんやノン・デュアリティをや)という厳然たる事実に気づいたのは比較的最近のことだ。別に気づくきっかけがあったわけでもない。特別な「恩寵体験」があったわけでもない。個人的な体験など、それが体験である限りたいして重要なことではない。

クリシュナムルティがピンと来るのは、自我のドン詰まりまで来た人だろう。相当色んなものを見て、色んなものを諦めたエゴでないと理解不能だろう。彼が何を言っているのか分からないだろう。一見哲学的なことも言うから、教養のあるインテリも惹かれるかもしれない。しかし彼の言っていることがたぶん実感として分かるのは、絶望を経験した人だけだ。別段これは「クリシュナムルティが分かる奴は偉い」などという幼稚なことが言いたいのではなく、それだけ絶望が深いか切羽詰まっている人がKを必要とするのだろうと言っているだけだ。

フワフワした観念で救われたような気になれる人は、クリシュナムルティには近づかないだろうしその必要もないだろう。観念で救われるなら、その絶望は所詮観念的なものでしかない。クリシュナムルティは観念を一切相手にしない所から始まっている。

今スピリチュアルと呼ばれているものの中には、美辞麗句の中に逃げ込んで一番見たくないエゴを見ることを避けているように感じられるものがある。クリシュナムルティは、美辞麗句の中で美しい真理を見たがっている人に対して、一番見たくない醜い自我(あるがまま)を見ることを求めるので、その段階に来ていない人にとっては近寄りたくない代物に違いない。

しかしもちろんそれは、クリシュナムルティが「役に立たない」ことを意味しない。
クリシュナムルティを「役に立たない」と決めつけて、果てしないグル巡りの旅に出たい人は好きにすればいいが、それは結局は時間を無駄にするだけだろう、と思う。

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◇スピリチュアル

クリシュナムルティの陰の生活?

高橋ヒロヤス

クリシュナムルティ偏重と誤解されても困るのだが、様々な資料を当たっていた時期だったため、モチベーションがあるうちに続けてもう一本、Kのネタを書いてみたい。
以前このメルマガで、クリシュナムルティの不倫問題その他について取り上げたことがあったが(http://www.mugaken.jp/spirituals/Krishnamurti.html)、当時はスキャンダルの発端となった書物、不倫相手であるロザリンドの娘ラーダ・ラージャゴパル・スロス(以下「スロス女史」と呼ぶことにする。)が書いた“Lives in the Shadow with J. Krishnamurti”(London, 1991)を全部読んでおらず、これに対する反論本であるメアリー・ルティエンスの本に依拠して描いた。

今回、件のスロス女史の本を一応読み通したので、この機会に再びこの問題をもう少し詳しく取り上げてみたい。

最初に結論めいたことを述べると、スロス女史の出版の意図が、この“暴露本”によってクリシュナムルティ(以下K)の人格を貶めることにあったとしたら(多分そうだと思うが)、その目的はまったく果たされていない。

逆に、Kのプライベートを知る彼女の詳しい描写によって、ありのままのKの人格的魅力が漏れ伝わってくる結果となってしまっている。

この本で一番読むに値する、生き生きとした描写は、幼少時代のスロス女史がKやロザリンドと共に過ごしたカリフォルニアでの生活(主に第二次世界大戦中の時期)を描いた章である。

他の部分は、彼女自身の神智学的偏見と、両親から受け継いだ怨念に染まった描写に終始しており、冗長でもあり正直読むに堪えなかったが、その中でも興味深い箇所はいくつかあった。それについては別の機会に取り上げることにしたい。

ロザリンドの合法的な夫であるラージャゴパルは、新婚直後から、自分のオフィスで仕事に没頭し続け、生活のリズムも不規則で、ほとんど家庭生活を持たなかった。ラージャゴパルは、最初の子供(ラーダ、つまりスロス女史)の妊娠が分かった時、子供ができた以上、もう夫婦関係を持たないと妻に宣言した。ロザリンドはそれを聞いてわが耳を疑ったという。赤ん坊が生まれた後、ロザリンドが昼寝している間にラーダのおむつを替えたり、抱っこしたり揺りかごを揺らしたり、オイル・マッサージしたりと赤ん坊の世話をすべて引き受けたのは、当時の夫妻の住居(アーリア・ビハーラ)の近くの別荘で暮らしていたKだった。

Kとロザリンドの関係の発端は、1932年春のことだったという。Kは、集会で多くの聴衆に講話した夜は、しばらく興奮状態(いわゆる“ハイ”な状態)になり、寝つけないことが多かった。そんなある日の夜、集会が終わった後、Kは上機嫌で落ち着きがない様子だったが、解散して皆が寝静まった夜中に、別荘からアーリア・ビハーラに引き返してきて、ロザリンドのベッドに入ってきた。

Kは若い頃から、「プロセス」と呼ばれる肉体的激痛を伴う症状に襲われることがしばしばあった(リードビーターなどの神智学者は、それをクンダリーニ上昇やエネルギーの浄化作用とみなしていた)。弟のニティヤは、そんなKの恐ろしく苦しむ姿を見て、「まるで生きながら身体が焼き尽くされる人間の苦悶を見ているような」耐え難い気分になったと記している。「プロセス」が起こる時期になると、Kはロザリンドや他の女性に、まるで母親に対するかのように縋り付き、苦しみに耐えようとしたという。

ロザリンドは、このときも傷ついた子供が母親の慰めを得ようとしているのかと思った。しかしそうではなかった。

ロザリンドは一時期Kの弟ニティヤに恋しており、ニティヤが死んだ後は、Kに惹かれていた。彼女がKではなくラージャゴパルと結婚したのは一つの謎である、とメアリー・ルティエンスは書いている。憧れだったKから熱烈に求愛されたことはロザリンドにとって夢のような経験だったろう。彼女はKの情熱に応えたが、ラージャゴパルに対する罪悪感に苦しめられることはなかったとスロス女史自身が述べている。ロザリンドとラージャゴパルとの間に夫婦生活は全くなく、ラージャゴパルに愛人ができると二人は離婚した。

ロザリンドは、ある夏の夜、Kと一緒にアーリヤ・ビハーラの屋根の上に並んで座り、星空を見ながら、愛の詩を語り続けるKの横顔にうっとりと見惚れていたことを覚えている。ロザリンドは、ラージャゴパルとの結婚生活に欠けていた愛情と温もりをKとの関係の中に見出していた。あまりゴシップ的なことは書きたくないのだが、この本によれば、60歳近くになってもKのロザリンドに対する肉体的情熱は衰えなかったようだ。

ラーダ(スロス女史)は、あたかも父親が二人いるかのように感じていた。気難しくて近づき難いラージャゴパルよりも、いつも一緒にかくれんぼをしたり、熟した果物を木の上から投げつけても決して怒らずに常に愉快なリアクションを取ってくれるKに家族としての親しみを感じていた。このような家族の在り方が正常ではないことに気づいたのは彼女が大きくなって学校に通うようになってからだったという。

Kは、ラーダが小学校に入学すると、家の近くのバス停まで毎日一緒に送って行った。帰りにも毎日迎えに行った。有名人であったことから、Kは目立たないように大きな麦わら帽子を目深に被っていた(彼が「世界教師」であったことを知っている人々もいたのだ)。ラーダは学校の友達と一緒にKにいろんな悪戯を仕掛けた。石を投げたり虫を目の前に突き付けたりしたが、Kはニコニコしたりびっくりするふりをしたりして皆を楽しませた。

Kが他のどんな大人たちとも違うことを子供たちはよく理解していた。Kはしばしば子供のように振る舞った(彼はいつも食べ物を半分残す癖があって、ロザリンドによく怒られていた)。ラーダは自分よりもKに注目が集まるおかげで、自分の悪戯がしばしば見逃されたことを感謝している。おもちゃがなくてもKと一緒に過ごすことが楽しかったので、広い家の中で全然退屈することがなかった。他の大人たちと違って厳格ではなく、いつも遊ぶことに熱心だった。Kという愉快な大人の存在はラーダにとって他の子供たちへの自慢だった。

スロス女史の本は、ペーパーバックで400頁近くに及ぶ大著にもかかわらず、直接引用する価値のある記述がほとんどない。そのことが、この書物の質を物語っている。せっかくKの身近にいながら、この程度の本しか書くことができなかった原因は、彼女の直接体験による記述が、Kと幼年時代を共に過ごした日々のことに限られており、それ以外は母親のロザリンドや父親のラージャゴパルの意見を代弁した主張にすぎないことから来ている。冒頭にも書いたように、結果的にこの本は、素顔のクリシュナムルティがいかに愛すべき存在であったか(とりわけ子供にとって)を明らかにすることには役立っている。

興味深いのは、Kの代表的著作である『自我の終焉』や『生と覚醒のコメンタリー』、『道徳教育を超えて』などを編集したのはラージャゴパルであるということだ。彼の編集手腕は見事であるというほかない。もっとも、それ以外のKの著作も同じようなクオリティを保っているという事実は、誰が編集してもKの言葉の質は不変だということを示している。

スロス女史自身は、クリシュナムルティの言葉を極めて表面的にしか理解していないように思われる。彼女は、Kが自分自身の言葉を実践していなかったこと(特に性的な関係において)を問題にしているが、彼女はKの次の言葉を読んだことがなかったのだろうか。

「いわゆる聖なる人々は、セックスに耽っているなら神に近づくことはできないと主張し、それを押しのけますが、実際にはそれに取りつかれているのです。性を否定することによって彼らは自分の眼を抉り取り、舌を噛み切り、地上のすべての美を否定しているのです。彼らは自らのハートと精神を飢えさせ、生気を失った人間です。彼らは、美は女性に関係するからという理由で、美を追放したのです。」

「愛と貞節とは何かを理解する必要があります。貞節の誓いはまったく貞節ではありません。なぜなら言葉の下には欲望が渦巻いており、様々なやり方でそれを抑圧しようとすることは、それが宗教的であれ何であれ、醜悪さの一形態であり、その本質において貞節ではないからです。誓いや禁欲による僧侶の貞節は、本質的に貞節ではない世俗性です。あらゆる形の抵抗は、分離の壁を築き上げ、それが人生を一つの戦場に変えます。そして人生はまったく貞節ではなくなります。」

「セックスを否定することは別の形の残忍さです。それはそこにあります。それは事実です。私たちが知的な奴隷であるとき、他人の言葉を際限なく繰り返し、服従し、従い、模倣するとき、人生のすべての道は閉ざされます。行為が単なる機械的な反復にすぎず、自由な運動ではないとき、解放はありません。この絶え間ない存在の充足への欲求があるとき、私たちは感情的に歪められ、閉塞があります。そこでセックスは、自分自身の、中古ではない唯一の問題になります。そしてセックスの行為においては忘我があり、自分の問題や恐怖を忘れることができます。その行為の中で自我は存在しなくなるのです。」

「男と女が一緒に暮らし、セックスして子供を作り、その関係の中に争いや苦々しさや葛藤を持ち込まないでいることは可能でしょうか? 恋に落ちて、所有欲に基づく関係を持たないことは可能でしょうか。誰かを愛し、彼女も私を愛し、結婚する――それは完全に真っすぐで単純なことです。その中に葛藤はまったくありません(結婚するというのは、共に暮らすことを決意するという意味です)。他方なしに一方を持つことはできないでしょうか―その後にわだかまりをつくることなく。二人の人間が恋愛し、共に知的で感受性があり、そこには自由があり、葛藤をもたらす中心がないということはありえないでしょうか。愛しているという感情の中に葛藤はありません。愛しているという感情にはまったく葛藤がありません。愛していることにはまったくエネルギーのロスがありません。エネルギーの損失は、嫉妬、所有欲、疑念、疑い、愛を失うことへの恐れ、保証と安全への絶え間ない欲求といったものの中にあるのです。誰かと性的な関係を持ちながら、通常その後に生じる悪夢なしに過ごすことは確かに可能です。それは自然なことです。」

Kはロザリンドを愛し続けたが、ロザリンドは疑念を膨らませていった。特にKがインドでナンディニ・メータという美しい未亡人と知り合ったことを知ってからは疑いがひどくなった。ロザリンドはKを問い詰め、直接ナンディニを見ようとインドまで行った。ロザリンドの味方であるスロス女史(ラーダ)も書かざるを得なかったことは、Kとナンディニの間に関係があったという疑いに何の根拠もなかったこと、嫉妬に狂ったロザリンドが、Kが1年のうち数か月を過ごしていたカリフォルニアに滞在することを拒否し、ロンドンの寒い気候に晒したこと、Kが自らの正当な権利を取り戻すためにラージャゴパルに対して訴訟を提起しようとしたとき、法廷で二人の関係を暴露するとロザリンドがKを脅す手紙を書いたことなどである。

スロス女史自身、Kに何度も電話や直接面会で訴訟を思いとどまるよう直談判を行い、大手術の後で体が弱っている高齢のKにラージャゴパルとの面会を強要し(結局ラージャ側のドタキャンで面会は流れた)、その顛末をKがスロス女史に電話で報告すると、その会話を録音してKを名誉棄損で訴えたりしている。スロス女史は、法廷でKの私生活が暴露されるとKの全業績は地に堕ちることになると散々脅しているが、この本に書いてある以上の材料はどうやら存在しないようである。

90歳を超えた老齢のKに対し、何十年も前の関係を持ち出して恫喝を繰り返すスロス女史の行動は常軌を逸しているとしか思えないのだが、Kはそんな彼女にも一貫して愛情を示している(さすがにラージャゴパルとロザリンドのことは無視するようになった)。

自分は、スロス女史の本を読み通してよかったと思う。そのおかげで、プライベートなKの純粋で温かい人間性を知ることができたし(高橋繁敏氏が翻訳したマイケル・クローネンの『キッチン日記』という本でもその一端を窺うことはできたが)、「クリシュナムルティは高尚な教えを説きながら実生活では女にだらしない男だった」というような下世話な批判がまったく不当なものであることを確信できたからである。
以上

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◇勉強会

●無我表現研究会第2回勉強会  2015 5/26 四谷の事務所にて

裸の自分でいることを恐れない

テキスト『二十一世紀の諸法無我 断片と統合――新しき超人たちへの福音』那智タケシ著(ナチュラルスピリット社)

那=那智タケシ(ライター・無我研代表)
高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
土=土橋数子(ライター)
エ=エリナ(占い師・アーティスト)
テ=ティモ(会社員・岩手出身)
ク=クニさん(会社員・男性・福島県在住・震災後に精神世界に興味を持つ)

●震災後に精神世界に興味を持つ

 那 クニさんは福島出身ということで震災後から精神世界系のブログを読み始めたということですけど?
 ク はい。
 那 それまではこういう世界にそれほど興味はなかった?
 ク いろいろ哲学的なこととかには興味はありましたけど、実際、詳しく本を読んだりとかはしてなかったんですけど。
 那 やっぱり震災で、福島ということなんで、どうしても原発のこととか考えざるをえなくなったことですか?
 ク そうですね、それもあります。
 那 それで、そういうブログを……
 ク はい、見て回りました。
 那 それは精神世界系にそういう答えと言うか、救いがあるんじゃないかっていう感じで見ていったということですか?
 ク そうですね。
 那 動機としては?
 ク それもありますけど、一番最初のきっかけというのは「マトリックス」って映画があるじゃないですか? 昔からそれを見た時にこれって何か、この世の仕組みか何かを現しているんじゃないかなって思ったことがあって、たまたまネットで調べたところ、そういうブログに出会って、今の時代に悟りを開いている人がいるのかと。
 那 なるほどね。
 ク そこからだんだんだん回りはじめるんですけど、これは違うな、この人が言っていることはおかしいんじゃないかっていうのもありまして、まぁ、そうした中で那智さんのブログを見つけて、というのが正直な流れですね。
那 ある意味では、昔からそういう世界に浸って、いっぱい知識があって、いろんな固定観念を持っている人ではなくって、本当に現実世界はおかしい、というところでリアリティというかね、真実をこういう世界に求めて。
 ク はい。
 那 それで直感や体感で何か違うということで、ここにチャンネルが合ってくれた?
 ク そうですね。那智さんのブログは4年くらい前から読んでいたんですが、実際になかなかコンタクトを取ろうというところまでいかなかったんですけど。その間にある先生のところに3年くらい勉強会に通ってはいたんですね。
 那 関東の人?
 ク 関東の人です。とあるブログで知って、この人の話を聞いてみたいと思って月に一回くらい通っていたんですけど。
 那 今も通ってらっしゃるんですか?
 ク 去年の5月くらいから、ペースを落としてて。いやになったとかではなくて、私がこの先生から吸収できるところはぼぼできたというか、私が変わればまだのびしろはあると思うんですけど、現段階ではとりあえず学ぶところは学ばせていただいたという感じがしたので。
 那 自然とそうなったというか、そういう流れだったんですかね。
 ク はい、そう思います。
 那 まぁ、ここは本音をある程度言える場になってればいいのかな、と思ってます。クニさんみたいな疑問を抱いた方の受け皿というか、自分だけおかしいのかなと思っている人はけっこういるんですね。
 ク そうかもしれませんね。
 那 俺みたいにはっきり、ばしっと言う人がいると、ああ、こういう人もいるんだという、団体というか、そういう情報の場っていうのがあると、もしかしたらざるの目からこぼれ落ちた人の救いになるというかね、話し合える場があるというだけで何か違ってくるから。
 ク はい。
 那 そういう立ち位置も、スピリチュアルな世界ってことに関していえばあるのかな、と我々の運動は。もちろん、そのためにやっているわけではないんだけれども。
 ク あると思いますし、大事だと思います。
 那 だから細々とでも存続していることが、あり続けることが大事かなと思っていて。でも、こうやって来ていただいたということはどこか近いものが当然、感覚があるということですから。
 ク 私が行っていた先生のところは、ぜんぜん縛りがなくて、少なくとも人を誤った方向に導くことはしないだろうという思いはあったんですけど、やっぱり先生と生徒という立場で、ほかの人たちはいいんでしょうけど、私としてはもっと気楽と言いますか、友達感覚で話し合える人がいないかなと前から求めていたことがありまして。それで那智さんのブログ見て麻雀が好きだとか読むと、共感するところがあって。
 那 やっている人は共感するでしょうね。
 ク 麻雀の話がなければなかなかここまで会いたいと思わなかったかもしれないです(笑)
 那 (笑)麻雀が大きかったんだ? でも、普通の人だと思ってもらえれば。フリー雀荘行っているんだって。
 確かに、オーソドックスなものはオーソドックスで尊重するし、ちゃんとやってきた方もいると思うんですけど、うちらとしては時代に即した新しい関係というか、愛の形というかね? そういうものを作り出せないかとか、この世界の表現の中に見出せないかということをテーマに、具体的表現の中に、俗の中に聖を見る、新しさを見るというところを物差しにやっているんで、芸術でも何でも、時代に即した新しいものの中に真実というものが付与されるんじゃないかってところでやっているところがあるんで、宗教と芸術を別々に考えていないというか、むしろ一つに考えた時に、これからの時代に即した表現なり文化なりが生まれるんじゃないかっていうのが骨子になっていて、この本も宗教性を超えたところで芸術とは何ぞやとか、新しい人間のあり方とはとか、超人とは何ぞやとかそういうところで自分なりに一つの宇宙を提示しようっていう、まぁ、理解されたかはともかくとして、やってみたと。
 で、ここにいる人たちはそれぞれ得意分野とか好きなジャンルもいろいろあるわけですけど、その具体的表現とか新しさの中に真実を見出すということにおいては共感してもらっていたり、違うジャンルでそれぞれ情報発信とか、いい作品を見つけたら紹介してもらったり、ここで本を交換し合ったり、そういう場にしてそれを地道でも発信することでこの世界に影響を与えられないかとか、まだ全然だめで、微力ですけど、まぁ、そういうことを目標にやっていると。
 わかりやすい会だと思うんですね。ある意味では。宗教の枠とかスピリチュアルの枠ではない俗の中にそういうものを見出していくということがむしろ愛なんじゃないかなっていうところで。

●目の前でアスファルトが割れる

 高 福島在住ということで震災の被害はあったのですか?
 ク 私が住んでいる所は福島でも南の方で震災の被害にはあまり関わらなかったところで、放射能の数値が多少上がったくらいで。原発の近くとか津波の被害に会った人たちの苦労とか、悲惨さはわからないし、実際、近くに避難民の方もいるんでしょうけど、日常的に触れ合う機会がなくて、福島といってもお気楽な感じで。
 土 その時、おうちがどしゃで崩れたりとかはなかったんですね?
 ク その時は仕事場にいたんですけど、目の前でアスファルトが割れるのを見たのははじめてですね。
 土 へぇー、すごい……
 ク 会社から三日ほど帰れなくなって、道が……
 エ 昨日も地震ありましたよね。震度4くらい?
 高 最近多いよね。
 土 火山も爆発しそうだったりね。
 那 不穏な時代ですね。
 高 日本は地震大国だからね。
 エ 地震だけだったらよかったんですけど、家のなかにトカゲが出たんですよ。
 那 ?
 エ 飼いたかったんですけど。逃がしてあげました。
 那 昨日もここに来てたんですけど、その前に近くの出版社で取材の仕事してたら地震がきて、女の編集者が「箱根山が噴火したのかもしれない」とかテンパッてて、待ってよ、みたいな(笑)でも、ビルってすごい揺れるんですよね。
 土 ビルって揺れて倒れないようにしようっていう構造のところもあるから。
 那 それじゃ、そろそろやりましょうか。

●等身大ゆえの共感

「闇夜に、白い花が咲いていた。白い花は、暗闇にあっても、白かった。花は、花であり、白は、白である」(10P)

 那 花というものに余計なものはいらないってことですよね。花は花であり、白は白であり、それだけなんだから、そこに何か下手にオブラートを付け加える必要はないというものの見方? つまり事物は事物であり、花は花であるというところで、その価値が逆に輝いてくるというか。次の行も同じですね。

「一輪の花を見る時、そこには何の虚飾も、観念もないことを理解できるだろう。しかし、自分自身を見る時、そこには美しい観念という衣が幾重にも重ねられているのを見るだろう。我々は、花を目指せば目指すほど、花から遠ざかる」(10P)

 那 何も付け加える必要がなくて、それ自体が仏ってことですよね。それにいろいろ付け加えることで真実から遠ざかってしまう。もしかしたら愛というものからも遠ざかってしまうと言っていいのかな。それが怖いから、付け加えたがるという人がいっぱいいて、クニさんがいろんなブログを見て、愛とか、アセンションとか、いろんな、きれいな言葉が書いてあったと思うんですね。でも、何か違う。それよりも、怒っている時は「俺、怒っているよ」って言う方が愛なんですよ。「こんなどうしようもないのが俺だけど何か?」って言った時に、横並びになって共感が生まれるわけですよね。「そんなもんだよ」って言えた時に地に足が着いて、花とかと同じところまで自分を落としこめているわけでしょ? 認めているわけだから。その時に初めて、愛が生まれるかもしれないってことですね。横並びの共感の中に。真実の中に愛がある。真実の上に、ふわーっとした愛があるのではなくてね。それが仏法だと思うんですけど、今の時代においては座禅して山寺に籠もるのはたいへんだから、現実世界の中で自分自身の真実を直視して、現象世界の中に落とし込むというか、それが諸法無我の認識になっていくと思うんですけど、どうでしょう? 
 ク 本当に、すごく読んでいて、詩的と言いますか、陳腐な言い方ですけどいいフレーズだな、と。昔、アシタバクラギータという白い本を買ったことがあるんですよ。
 高 アドヴァイタのですよね、真我の。
 ク あれを読んでいい気分になる時もありましたけど、その時の気持ちを思い出させるような、私にとっては、本だなと思ったんですね。
 高 あれも短いフレーズでね。
 ク そうです。あれはもう本当に、わかった状態の時に読んだらすごいんだろうな、と思います。たまに、読み返す時もあるんですけど、その時の感覚に通じるものに私は感じまして、この気持ちがすごく大事なんだろうなって。
 那 そうそう。ぼくは書いた人だから理でもって語るところもあるけれど、別にそれが共通の見解というわけではない。
 ク 今、愛とかって言われましても、正直、愛って何なのか今でもよくわかりません。ただおそらく自分の中でこれなんじゃないかな、という気持ち忘れないようにして、大事にして、それを基準にしていこうかなって思うくらいであって、結局、何ですか?と聞かれたらわかりませんとしか言えません。
 那 それがね、誠実な答えというか、等身大のね、愛とはこうなんですよ、とごまかさないというのかな、その点においてたぶん横並びになって話し合えると思うんですよね。ここで愛ってこうなんですよって人が来たら、やっぱり良くも悪くも上下関係というかね、グルと弟子になってしまうから。一方的に愛について話すときに本当に愛かなって思う時はありますけれども、ぼくもこういうことをやっていると危険がありますけれども、常に落としていくというかね、「こんなもんだよ」って言うところで裸の自分でいるということが大事かなと思いますけど。
 ク 落としていくという表現は共感するところがありますね。本当に固定したものがないというか。
 那 付け加えていくということじゃないということですよね。重ね着していく人が多いと思いますけれども、落とす方がたいへんなんですね。裸でいるってのは怖いことでしょ? だって。本当の自分をさらけ出すというのは。
 ク はい、そうですね。
 那 でもそれで、あっ、かぶっちゃったなと思ったら落としていくことを繰り返す。じゃあ、裸のまんまで赤ちゃんみたいになればいいのかというとそうでなくて、むしろ、裸のものがいっぱいあると、世界に。その時にはじめてつながれるわけですね、裸同士じゃないけど他者や、自然と触れ合える。その時に、自分以外のものとつながって、関係して何が立ち上げられるのかというのがアートだったりするわけで、自分中心に重ね着していくのはアートじゃないわけですね。むしろ、自分というものを事物の中に、無名性の中に落とし込んだ時に、事物の中から何かが立ち上がる。普遍が立ち上がるというのがアートであって、それは実は、諸法無我という仏教の考え方にも近いんですね。私とは幻想である、とか。諸法無我というのはすべてが無我であり、すべてが仏であり、ゆえに実体もなく、縁起からすべてが成り立っている認識で人は救われると。その認識を押し進めていくと、創造的でアートな領域にまでいくというのがこの本で言いたかったことですけど、芸術家は勝手にやっていると思うんですけど、仏教的視点からこういう表現が出てきたということですかね。
 土 いろいろ飾るというか、いい意味でも経験を重ねて自分自身を形作っていくということがいいことだとは思いますけれども、その中に固定観念とか知らないうちにつけてしまうんだなっていうのがあって、それで何が真実かっていうのがわからないんですよね。高校生くらいの時から筒井康隆の本ばかり読んでいて、自分の考えと筒井康隆の考えのどこに境目があるんだろうって疑問に思って、自分というものはどの程度のものなのかというのが。面白いな、この考え方、と。じゃあ、影響を受けてますという時に、そういうものを重ねて成長していくと思うんですけれども、大学に行けばまたたくさんの知識を得ていくと思うんですけど、世の中でこういう社会にしていかなければならない、とか、こういう世界は真実の社会だとかスピリチュアルじゃなくてもあるじゃないですか? いいなと思うんですけど、自分自身をそぎ落としてないと何かだめなのかな、とか。
 那 だからいいものであればあるほど、自我が同一化してしまう場合があるんですよね。つまり、自我の拡大になってしまう場合があると思うんですけど、さっき言った知識と固定観念とどう違うのかなというところで、当然、勉強していくことも大事だし、ただ自我を強化してしまうためにべたべたくっつけてしまってはだめなんですよね。ストックしてもいいけれども、それを自我を守るため、強化するための鎧や衣服として使わないということですよね。それと合一化して俺はこんなにすごいんだとか、こんなすごい真実を知っているんだとか、こんなすごい師匠を知っているんだ、とか自我と一体化した時に世界をゆがめてしまう。それがどんなにすごいものであっても。素晴らしい存在であっても。
 だからいいものはいいでいいけど、まずは自分というものを落とし込んで、断片の一つとして謙虚に横並びになっていれば世界は拡がるけど、真ん中に固い自我があるままべたべたくっつけていくと、それで大きくなった時に、他の思想を否定するような、あるいは上から見てしまう暴力性に転化してしまうことがある。だからまずは自分のそんな自我の動きを直視して、真ん中にある固い核をどこまで下げて、事物と等価にした状態で吸収していけばそれはそのまま自分の宇宙を大きくしていく創造的な作業になると思いますけれども。
 土 だからいいこと言っている人はいっぱいいるじゃないですか? なまじっか、出版なんかにかかわっていると。
 那 そうなの。
 土 資料読んでいると、この人もいいこと言ってる、この人もいいこと言ってる。
 那 みんないいこと言ってるの。
 土 それで今、ビジネス系の本をやっていて、神の啓示をコピペしたような本なんですよね。でも、その人の本はみんな同じようなこと書いてある。コピーみたいな。すごいいいこと書いてあるんですよ。そういうのをみんなブログに転載とかしていて、何か浮いた言葉になってしまう。いい言葉なんだけど実体がないような。
 那 いい言葉と真実の言葉は違うから。いい言葉はいっぱいあるし、それから影響を受けて人生のヒントになる人もいるんだろうけれど、たぶん、いい言葉だけでは世界は救われないし、何かおかしいという人は置き去りにされてしまう。そういう人はいっぱいいるわけですね。実は。クニさんもその一人だったのかもしれない。
 ク はい。
 那 いい言葉だけれども、発信者の中にもしかすると真実がないことがある。
 ク 思い当たることはあります。ただあくまでも自分の感覚を信じるしかないんでしょうね。自分がいいと思っても他の人にとってはそうでないかもしれない。でも、それはしょうがないというか。
 那 そうなの。ただ、これがいいんだっていう人がいて、これで世界が救われる真実なんだって言うわけだけれども、俺はそれでは救われないからって言う人がいるってこともわかってほしいってことかな。
 ク あとすごく、ブログなんかを読んでいて、この人はいい人だな、この人の文章は好きだなと思っていても、その人がリンクを貼っているじゃないですか、それを辿っていくと全然違うところにいってしまったりする。
 那 わかるわかる。ぼくも読者申請があったら自動的に返してしまうところがあるから、全然関係ない人ともつながっている。まぁ、こういう会をやっているからある程度開いてないといけないところもあるけど。
 ク この人がリンクを認めたブログならいいこと書いてあると思うと、全然違うこと書いてあることがありますね。方向性、違っちゃったのかな、とか。
 那 あるあるネタですね(笑)
 ク 本当にいいこと書いてある人ほどなかなか自分の正体を出したりしない。
 那 そうそう、そうなの。
 ク 私がそう思っているだけなんですけど。
 エ でも、いいことって何だろうって感じですよね。定義はないから。逆に悪いこと書いている人がいたら面白いですよね。ひねくれたこととか。カフカの名言集とか読んでいるとすごいネガティブで。でも、ネガティブな人が見ると自分だけじゃないんだってすごい共感できる。
 那 だからカフカみたいな人がああいう普遍的な表現をしたっていうことは、天才だからといえばそうだし、すごいんだけれども、そういう人が「朝、生まれたら毒虫になっていた」と。ネガティブじゃないですか?それで最後、何の救いもなく死んじゃったと。『審判』では、最後、犬のように殺されて終わり、と。
 エ (笑)
 那 それでこんなの世の中に認められるはずもないから、世に出さないでくれ、燃やしてくれと言って死んでいったと。でもその価値を友人の編集者であるマックス・ブロートが認めて、遺言を無視して世に出したら世界文学になってしまった。だからぼくが思うのはカフカの話が出たからあれですけど、むしろ異端の、認められない、光の世界では認められない異端の中にある者の中にこそ実は、この世界を覆すような真実が秘められていて。
 エ そう思います。
 那 闇の中から光が現れた時にこの世界を更新する?価値が生まれると。それはまぁ、ある特殊な才能があったり、煮詰まった者たちの役割であるかもしれないけれど、もしこの編集者がその価値を見出さなかったら、燃やされていた。カフカという存在はなかったことになってしまった。多少は短編小説家としては知られていたらしいですけど、『審判』とか『城』のような作品がなかったと。それを発見してこれはすごいんだと。そして読者の中にもカフカの小説から何か感じた人たちがいたわけでしょ?だからこうやって広がったわけで。ドストエフスキーだって、『悪霊』みたいなとんでもない小説を書いているけれども、これがいいんだ、という人たちがいたわけでしょ? 闇の中から光が生まれるという逆転現象。革命というのはルソーもそうだけど常にマイノリティから生まれて、それに大衆が共感した時に実現する。そういうところに賭けたいなぁ、と。異端が普遍になる時というテーマで今月書きたいなぁ、と思っているんですけど、少数であることを恐れないということかな。むしろそこに価値を見出したいというか、そういうところがありますね。それが表現によって広がった時に、愛の可能性が生まれる。実は、芸術というのはその繰り返しなんですよね。常にマイノリティがモダンを覆してきた。真実の更新なんです。ポップなところで言えば、ビートルズだってそうでしょ?
 エ 前例のないこと。
 那 そうそう、それを恐れないということだよね。自分の感覚にしたがって、いろいろな外にある断片を信じるのではなく、妥協せずに自分の宇宙を創造するという方がこの世界に深くコミットすることができるという確信が最近、すごく強まっています。

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◎編集後記

今月号はたまたまモチベーションに駆られてクリシュナムルティについて原稿を2本も載せてしまいましたが、別に彼のことを絶対視しているつもりはありません(説得力に欠ける?)。クリシュナムルティとダンテス・ダイジは、いわゆる精神世界のジャンルの中で共感できる数少ない存在でした。那智氏の言葉を借りれば、「独自な存在形式から生まれる響きや匂い」に共感するところがありました。しかし彼らの「教え」を観念化し、固定化し、絶対化した時点で、もう輝きは失われ、腐敗の過程が始まります。彼らの言葉をエピゴーネンのように繰り返すことも同様です。それは罪であるとさえ思います。
もういわゆる「スピリチュナル」なジャンルについての記事は当分書かないでいいかな、と思っています。むしろ全然違うジャンル、かけ離れた世界で「無我表現」の輝きを見出したいという思いが本格化しつつあります。
来月号でちょうど48号、4周年ということで、一つの区切りになるのかなという気もしています。これからも読んでいたければ嬉しいです。(高橋)


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  • 名無しさん2015/07/16

    カフカに例えて、マイノリティーから新しいものが生まれると言うのは本当にそう思います。

    大きいものに乗っかって同化してしまう事の怖さは色々な場面で感じます