芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
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MUGA第41号

2014/12/15

MUGA 第41号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇インタビュー

●『二十一世紀の諸法無我 断片と統合――新しき超人たちへの福音』那智タケシ著(ナチュラルスピリット社)刊行にあたって 2014 12/4 四谷の某事務所にて

形式の中に宿る真実を求めて

◇評論

『二十一世紀の諸法無我 断片と統合―新しき超人たちへの福音』(那智タケシ、ナチュラルスピリット社)を読んでの雑感

現代的宗教精神のアヴァンギャルドな結晶

高橋ヒロヤス

◇科学 

かずの独り言 第1回

※「かず」氏は高橋の高校時代の友人で、現在は大阪で開業医を営む傍ら、最先端科学にも造詣が深い。メルマガ用に記事をお願いしたところ、快く寄稿してくれたので掲載させていただくことにした。

◇エッセイ

 持続可能な社会をつくるのは、無我的振る舞い
    〜ESD教育の可能性〜

土橋数子

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◇インタビュー

●『二十一世紀の諸法無我 断片と統合――新しき超人たちへの福音』那智タケシ著(ナチュラルスピリット社)刊行にあたって 2014 12/4 四谷の某事務所にて

形式の中に宿る真実を求めて

語り手:那=那智タケシ(ライター・無我研代表)
聞き手:高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)

 高 この本の読者層というか、どういう人に訴えるのかなと思うと、安心、安全を求めている人ではなくて、何だろうね? もっと究極のというか……
 那 この世界の意味とは何ぞや、とか、実存的不安とかね、実際に現世でお金持ちになったり、会社で出世したり、温かい家庭で満たされて幸福という人にとっては、本来、仏教とか、原始キリスト教というのは必要なかったと思うんですよ。現世で満たされない人たちというのが一定数いて、下手するとオウムにね? エリートであっても、こんな社会じゃ満たされない、つまらない、金だけだろ? とオウムに行っちゃったケースもあるんだけど、目に見えるもので満たされない人たちの中で、これまでの宗教や流行のスピリチュアルに満足する答えを得られない人達がいる。俗な世界で、日常の中で通じる言葉で、自我というものを超えた表現がもっと出てきていいと思っているんだけど、微力だけれども、自分もその端にいる一員として、がんばって形にしてみたのがこういう象徴的な作品になって。どういう風に受け止められるかわからないけれど、響く人には響くものになったと信じているということです。ただ作品は作品だから、どう影響を与えるかというのは作者はもう、どうにもならないので。ただそういう客観性のあるところまで持っていけたかな、という手ごたえがあるので、4年ぶりに書いたというか。自然にできた作品だな、とは思っていますけど。
 高 本当にもう、身体感覚というか、那智さんの中から出てきたものでしか書いていない、というのがすごくわかる作品ですね。どこから借りてきた言葉ではなくね。
 那 そこがだから、日常でチェックしているというか。自分で「これは受け売りだな」とかね。書いていてもすぐ自分で気づいているんですよ、ぼくの場合。全部が全部、100%身体感覚でいけているわけではなくて、ああ、これって妥協しちゃったな、とか、正直あるんだけど、それに気づいているわけ。
 高 うん。
 那 例えば、恐竜が絶滅させられた話とかね。ただこれはこの流れの中でこう書くしかないから、ありがちだけどいいか、とか。それも何て言うの? 気づいているわけですよね。思考は時間だ、とかクリシュナムルティっぽいなと思いながらも、ある程度普遍性を考えると……。「私は存在しない」というのも、最初の数行目に出てくると、こっち系統の本なんだ、と読者がある程度、方向性というか目星がつくわけですよね。この本をぱらぱらっとめくった時に。多少、そういう風に読者層を考えて共通の言語は意図的に入れて、でも、この方向だね、と安心させておいて、ずばっとぶった切っちゃうような、あれ?っていうところで、本音を出しているのね。
 高 うん。
 那 でも、そこについて詳しく説明しない、というのがこの本で。行間から読み取って欲しいというか。一つ一つの断片的表現は矛盾しているけれど、10個、20個と読んでいくうちに何か腑に落ちていくというところを狙っていて。形式それ自体が断片と統合になっている。内容よりも、形式ですよね。それ自体がこの表題、サブタイトルを――元々は「断片と統合」が本タイトルだったんですけれども、断片と統合の関係性を表現している、というところでやってみようかな、ということでこういう形式にしたんですけど。
 高 断片という表現は、けっこう以前から那智さんの中にあったんですよね?
 那 ありました。やっぱり、「もの自体」というか、「事物自体」を純化したいという気持ちがすごい強くなったのは、観念がどんなものを見てもまとわりついている世界になっちゃったなというか。だから、穢れを落とすじゃないけれどもね。一切を断片と見るのが諸法無我であるという言い方をした時に、仏教的に見たら表現としておかしいという人もいるかもしれないけれども、固有の事物は存在せず、すべて関係性で成り立っていて、現れたり消えたりするという、つまりそれが自我にも当てはまるというのが諸法無我の認識だと思うけれど、それは究極言えば、断片がくっついたり、ばらばらになったり、何か生み出しては、花でもそうだけどね、そういう現象のあり方というものを「断片と統合」――まとめて言えば「諸法無我」という言い方で現している。「二十一世紀の」とつけたのは、自分なりの諸法無我を断片と統合という原理で表現できたらな、と思って。
 高 まぁ、断片という言葉で言わんとしているところは、ぼくなんかはよくわかるというか、直感的にそうかと思ったんだけれども、普通の人というか、今までそういうものに触れたことのない人にとっては……
 那 逆に見えちゃう。
 高 ワンネスとか言っている人は結局、統合というか、すべては一つとよく言うじゃない? それは断片と言う考えとは真逆に見える。
 那 だからこの本で使っている「断片」というのは二重の意味があって、「ものそれ自体」を観念のオブラートから守るというか、純化するという意味での断片。もう一つは――そこを説明していないのがこの本の肝でもあるんだけれども――世界の断片化という意味。ある種、宗教的条件付けであるとか、人間自体が断片化して、いくつかの固まり、いびつになって凝り固まったものに世界が分化されていると。それが戦争とかの温床になっている。だから、間違った形でのその、くっつき方というのかな? 断片? 
 高 うん。
 那 だから悪い意味での断片化として使っているのと、いい意味での条件付けを全部落として、世界をあるがままの――花は花であり、山は山であり、石は石であり、感情は一つの感情であるというところまで純化して清い形に返すのがぼくの言う意味での、断片というか使い方で、一旦穢れを落とした材料でもってどうやって統合していくかというのが人間の主体性、存在の意味じゃないかという。だからそれはそれ自体に任せられた創造性というか独自性というか、責任というか、そこに人間のオリジナリティが現れる。そのオリジナリティの中に神性というか、神と呼ばれるものが顕現するんじゃないか、っていう考え方。それは別にぼくがオリジナルに言っていることではなくて、たぶん、原理とかね、それに近い理論はいくらでもあると思うんだけれども、唯一、この本の新しさというか、何がこれまでないものかなと言った時に、仏教の概念である諸法無我とか、あるいは心身脱落という身体感覚から、人間を超える意味での超人という――まぁ、今まではニーチェの概念でしたけれど――概念に仏教的なものをくっつけたというかね、自分の中ではつながっているわけですけれども、新しい超人像を提示できたんじゃないかと。
 高 うん。
 那 超人というのはスーパーマンになることではなくて、新しい人間像ですよね。早い話が。これまでの人間像というのは宗教的条件付け、文化的条件付け、まぁ、経済的なものもあるだろうけれども、限界がきていて、どういう人間であれば美しいのかとか正しいのかとかっていうのが、イスラム世界の正しさキリスト教世界の正しさと仏教、儒教の正しさが違ってきていて、グローバルな世界で人間とはどうあるべきかという理想像がない世界において、普遍的な、ポジティブな価値を持ったモデルというかね、新しい人間像として超人と言う、ちょっと比喩的な言い方をしているわけですけれども、仏教で言えば、苦しみとか、執着とか、いろんな条件付けとかを乗り越えた存在としての超人という意味もあって、そこで宗教性と現世における積極的価値観というか、あり方を付随した存在というものを自分なりに融合させたというか、ある程度理でもっても理解できるというところまで、短い本だけれども、濃縮して書いたつもりです。だからこれは非常にマニアックな表現ということは自分でもわかっているんだけれども、こういうものを期待するというか、待っている読者層は必ずいると信じていて、そういうところで、濃厚な関係というか、濃いものが人を変えるというか、そういうところに期待しているのだけれど……
 高 「新しき超人たちへの福音」というサブタイトルがまさにね。
 那 大言壮語というかね、大げさなタイトルに見えるかもしれないけれど。読んでもらうと意外と、ああそういうことをやろうと試みている本なんだな、というのは感じてもらえると思う。
 高 そういう人はこれを読んで共感して、自分の身体感覚で理解できる人がたぶんいるのだろうと。
 那 そう思いたいですけどね。でも、中にはね、すごい仏教とかを真面目にね、大乗であれ、上座部であれ、中観であれ何であれ、勉強している人にとっては、心身脱落とか諸法無我とかいう言葉を安易に使うなというあれもあるかもしれないし、逆にスピリチュアルな人たちにとっては、こんなにね、自我を破壊するとか、辛口なことばかり言ってね、どうやったら心が休まるんだ、という、いろいろなそれぞれの世界観からしたら抵抗がある人も出てくるかもしれない。表現というのはそういうもので、それ全部気を使って書いたら、何も影響を与えないね、折衷主義のね、誰も傷つけない、かと言って影響も与えない。それは表現ではなくて。本にして出す意味もないわけです。
 高 まぁ、特定の立場を取っている人から見ればね、この言葉の使い方がおかしいとか、批判はいくらでもあるだろうけれど。
 那 でも、問題はやっぱり、この本がメッセージではなく、表現になっていれば、鋭いこと言っていてもまろやかになるというか。直球じゃなくさ、何か感じてくれると。そういうところまで。多少メッセージ的なところがあるのは致し方ないとしても、全体としては表現になっているんじゃないかな、と、思っているんです。
 高 そうですね。そこが大事なところですね。メッセージがどうのというより、この形式そのものが、スタイルそのものが格好いいというか、感動するというかそういうものを与えるというのが大事かもしれないね。
 那 前の本だとね、メッセージだったんですよ。あえて、それは自我なんじゃない? 自我文化じゃない? というか糾弾するじゃないけれども、まぁ、そういうところがあった。それはそれで自分の中から出てきたものだから、書きたかったから書いたわけで、たまたま世に出たわけですけど、今回は自然に熟すまで待って、それで高橋さんに書いてみたら、と言われたから書いてみようかな、というくらいで、自然に、別に、悩んだり、考えたり、頭こねくり回していいものを作ってやろうなんて、あざとさもなく、自然にすらすら書けたので、これはもう書くべき時期にきてたんだと思って。
 だから何でもそうだけど、がんばって、努力して書くという人はいっぱいいて、資料探したり、勉強したり、こう、表現磨いたりね。それはそれで大事なこと。でも、ぼくはそういう努力とか小手先ではなくて、なんだろ? 自然に認識が深まることによって、世界観が熟して形になることによって、ただそれを表記するだけで作品になるというのが目指すところであって、だからただやってきたことは、認識を深めるとか、身体感覚で理解するとか、そういうものをひたすら、孤独にやってきて、まぁ、こういう形が、客観的作品として現れたというか。そういう、流れですね。
 高 こういうメッセージを発しようとかそういうことではなくて、自然に自分の中から出てきた言葉をつづっていったらこうなったっていうことですかね?
 那 だからそれが、もしかしたら、こういう表現を待っている人もいるんじゃないかって、そういう期待も当然、あったわけですけれども。
 高 まぁ、最初のね、「悟り系で行こう」という本があって、この本も「あなたは存在しない」とか、通じるところはあるんですけど、そこからまた出発して、さらに深まっているということなのかな?
 那 やっぱり自分の中でその、心身脱落体験というかね、その、ぼくの場合は肉体的な苦痛が――昔は精神的な苦痛があったわけですけれども――肉体的苦痛が契機になったというちょっと特殊なね、あれなんですけれども、それを受け入れることで落ちると。ああ、精神的なものも落ちると気づいた時に、ばーっと落ちた。それっていうのは何だろ? よくね、そういう体験というのは一回すればいいとか、一瞥は一回でいいとか、それはそれでわかるんだけど、実は、心身脱落というのは、身体の構造、精神の構造それ自体が変化することであって、日常から変わっているわけですよね、正直言えば。だから、葛藤が溜まらない体になっているというか、自我の底蓋が開いた。時にはね、詰まる時もあるんだけれども、その、心身の状態によって。でも、基本的には開き方を知っているというか、落ちる。そういう構造が自分の中にできていて、それは実は「悟り系で行こう」の後だから、順番的には心身脱落があって覚醒とかじゃないけれども、アプローチとしてはこっちの方が先だと思っていて。
 今、味わうとかね、マインドフルネスとか流行っているらしいけれども、自分の感情をしっかり味わって残さないとか、それって仏教でも基本じゃないかなと思うんですけれども、それを徹底的に、余すことなく、嫌なものも含めて、肉体的な痛みも含めて、受け入れて、運命として受け入れて味わう。そうなった時に、究極までいくとどうなるかというと、自分の感情ではなく、それはたまたま自分がこの世界からいただいたひずみをね、ここにあるひずみが自分のものにきて、それを味わって、あの、消せっていう意味なんだなっていうところまでいく。つまり、その痛みは自分のものではなくて、もしかしたら子供とか、虐待されている子供、あるいは不幸な病気になっている人とか、そういう人の身代わりになっているんじゃないか、というところまでいくわけです。するとそれが原理になる。痛みを味わうことが。もしかしたら喜びもそうかもしれないけれども。基本的には、ネガティブなものを自分が能動的に受け入れて味わう。そういう認識に立った時に、それは自分のものではないわけだから、根付かないわけですよね。でもそれは電流が走るくらいの、ぼくの場合は体験というかね、一日中、頭がいかれちゃうくらいのことはあったわけですけれども、ある種の恍惚感とか、エネルギーの奔流とか、でも、それはずっと続くわけではないけれども、その通った、パイプが通ったという事実はあって、それがこの本の、一つの、あの、新しい世界観としては、前の本よりはふくらみが出たのかな、という。
 砕いて、ああ、自分ってのはなくて世界だけがあったというところから前の本は書いているわけですけれども、そこから先に、今度、じゃあ、でも日常ではいろいろ嫌なことがあったり、溜まってくると。その砕いた砂利みたいなものがいっぱい溜まっている自分というものを今度、袋に穴を開けてばーっと落とすと。それだと宗教的な自分が楽になったとか、祈りとか浄化で終わっちゃうけれども、ぼくの場合また特殊なんで、悟りたいと思ったことは昔から一度もなくて、ただ、この世界に生きていることの苦しさとか、意味とか、人間以前の存在というか、笑えない、とかね、人の顔ができないとかいうレベル、妖怪人間の世界に生きていたんで、人間になりたい、と。みんなと同じように振る舞いたいという、仲間なんだよ、と証明したいという、そういうところから始めて、あの、まともでありたい。世慣れた風を装いたい。今でもそういう悪癖はあるわけですけれども、生きていること自体の意味がわからないから辛いわけですよ。そういうレベルなんで、悟りたいとか幸福になりたいとかではなく、人間になりたい。そういう人間というのは弱いわけですよ。人間であることを信じている人に比べて。だから超人になりたいとか、苦しみとか面倒くさいことを超えた、超越的存在になりたいとか、10代、20代からあって、そういうものの延長でいろいろやってきたんですけれど、そこに超人というものと仏教的認識がようやく折り合いがついて、自分で作りたいというところから芸術表現もくっついて、最後の進化論については、じゃあ、この世界観で進化論を、自分の切り口で語った時に、どういうものが見えてくるかという、まぁ、遊び的なものでもあるんですけど、まぁ、一つ、この世界の流れ自体のようなものをこの原理で語れちゃうよ、妥当性があるよというところ、まぁ、いろんな切り口があると思うんだけど、この切り口でも語れるだけの世界観はあるよ、というところで遊びでやったところもある。でも、こういうものというのは説明すると陳腐になるというか(笑)
 高 こういう形で出しているものをまた、言葉で説明するというのは……
 那 個人的なものだし、説明しづらいものであって、いろんなものが人間ってあるわけじゃないですか? それぞれ人生の中で。それがまぁ、自分は端の方にいた人間なんで王道じゃないわけですよね。だからノウハウとかプロセスとか、あまり普遍化できない話なんで、作品それ自体で感じてもらうのが一番で。
 高 まぁ、読者にとっては、この作品を書いたのはどういう人なんだということにもたぶん関心はあると思うんですけど。
 那 普通の俗人と書いているんですけど、ぼくはよく。それでいいと思うんですよね。そんな変人みたいなのだったら普遍性がなくなっちゃうし。どこかちょっと精神的に病んだ、ぼくは肉体的にも病んでいたんで、どうしても人生とは苦であるという仏教的な方向にいっちゃったのかもしれないけれど、まぁ、それはそれぞれあるわけだから、結局は、作品でもってぼくの場合は語るしかないというか、人は表現されたもので判断されるべきだと思っていて、それは生き方とかね、仕事場での振る舞いとか、言動とかで人は測られるべきで、これだけ苦労してきたんだからとか、こんなトラウマがあってとかいう人はけっこういるけど、それは別に、たいへんだったね、というだけであって、それによってあなたの今の表現、行動が許されるわけでもないし、肯定されるわけでもないから、それはそれでどうでもいい話で、だからぼくもそういうの話したくないし。
 高 何か世界に絶望しているとか、何か信用できないとか、弱い人というのは何かにすがりつきたいとか、何かを信じたいというのがずっとあると思うんですね。
 那 そうですね。
 高 それを見つけたくて、いろいろ求めて宗教に行っちゃう人もいるし、他の分野でもいいけど、極端に言うと、お金がすべてだ、みたいな信念に行く人もいるし、そんな中で那智さんが何かにすがりつきたいとか信じたいではなく、心身脱落の方向に行ったというのは何かあるんですかね?
 那 だから、その、何だろ? 依存するとかね、そういうものっていうのは、元からね、何かね、信じてないんですよ、何も(笑)ぼくは。信じられない人間なんで。信じたいと思っても信じられないというところから始まっているんで。
 高 うん。
 那 あと、人間というのはどんな風にでもありえるって昔から思っていて、条件付けって、本当に。例えば自分が宗教の世界に入ったら、その宗教が絶対に正しいって思っちゃう生き物で、逆に言えば自分次第でどんな風にでもあり得るのが人間っていうのが、なぜか前からわかっていて。仮にね? UFOが好きな人がいて、彼にとってはそれはもう、まぎれもない事実なんですよ。それはもうしようがないんですよ。そうなったら。人間ってそういう生き物で、自分ももしかしたら共産主義全盛の時代に生きていたら共産思想の持ち主になっていたかもしれない。そんな風に人間というのは条件付けの中でどんな風にでもなってしまう。でも、その条件付けが人間をこれだけ衝突させて、苦しめている。そういうのはなぜか前から感じていたんですよ。それでクリシュナムルティとか読んで、ああ、やっぱりな、というか。その感覚がこの本のベースになっている。まぁ、この本の宣伝は軽めにやって……
 高 宣伝というかね……
 那 だって、これ語ったってしょうがいなからさ。読んでくれて何か感じてくれたらそれがすべてだから。
 高 この本そのものについて語るというのは……
 那 難しいんですよね。蛇足なんですよね。これはこれで……。いや、珍しく何回も読み返したんですよ。そしたら、ちゃんと、メンタルがそれなりの時に読むと、それなりの、何か、何だろ?
 高 まぁ、ぼくは読む瞑想になると思ったんですけど。
 那 ぼくもね、浄化されるような感覚があるんですよ、残らないんですよ、意外と。棘がある表現も多いんだけど、意外と残らないんでしょ?
 高 そうそう。
 那 それはそぎ落としているからです。変なものを。夜な夜な歩いて、落としている作業の中で出てきたものだから。自分で言うのもなんだけど、変な観念とか、贅肉がない表現にしているんですよ。
 高 これを一つひとつ味わうというかね、読み方もできると思うし。
 那 だから何だろ? 人を洗脳しないんですよ。
 高 そうそう。
 那 花を見て、人は洗脳されないでしょ? 雲を見て、きれいだな、とか、不思議な形しているな、とか。
 高 そうなんだよね。
 那 事物というのは、それこそ断片というのは人を洗脳しない。条件付けないんですよ。だから自然の中から学ぶ方が、セミナーに行くより百倍ね、闇夜に花を見て、おおっと思っている方が、人の言葉より一万倍の情報が入ってきているわけですよね。存在それ自体の無限の情報というか。芸術表現というのはすべからくそうあるべきだと思うし、象徴的な例で言うと、リルケの詩を読んでもね。そういうものが、ありますね。

※『二十一世紀の諸法無我 断片と統合――新しき超人たちへの福音』那智タケシ著(ナチュラルスピリット社)は、12月18日発売予定です。定価は1080円になります。大手書店かアマゾン等でお買い求めいただけますので、興味を感じられた方は手に取っていただけると嬉しく思います。(那智)

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◇評論

『二十一世紀の諸法無我 断片と統合―新しき超人たちへの福音』(那智タケシ、ナチュラルスピリット社)を読んでの雑感

高橋ヒロヤス

現代的宗教精神のアヴァンギャルドな結晶

この本は、いわゆる宗教書ではない。書店などでスピリチュアル系の書籍と同じ棚に並べられたとしても、「スピリチュアル本」と安易にカテゴライズされるべきではないと思う。  
だが、言葉本来の意味における宗教書といえるかもしれない。

本書は、大げさに言えば、時代精神の一つの結晶であり、本書の言葉を借りていえば、現代世界を取り巻くあらゆる「断片」を「統合」した独自の一形式である。タイトルが示しているとおり、この書は21世紀の今、歴史の必然として世に出るべくして出された新時代の幕開けを告げるものであると思う。

重要なのは、ここに書かれている言葉のすべては、他のどこかからの受け売りでもなく、著者自身が述べているように、「一切の外からやってくる断片的情報を却下し、自らの内部で肉化した言語だけで構成」したものであるということだ。一つひとつのフレーズは、著者自身の肉体の中で深化し、濃縮された、結晶の如き内実を備えている。少なくとも、ここに嘘は書かれていない。嘘というのは、自分自身で体験したものではないただの観念という意味だ。

昨今よく耳にする、インド発欧米経由のアドワイタ(不二一元論)的な言説は、我が国においては一部の精神世界愛好家にとっての心地よいモダニズムとしての役割を持つにしても、時代を創造していくアヴァンギャルドのみが有するエネルギーを持つことはない。

本書は、真に創造的であるという意味において「アヴァンギャルド」であり、既存のあらゆる観念、イメージを根こそぎ破壊する計り知れないエネルギーを内在している。

『悟り系で行こう』を超えて

著者は、前著『悟り系で行こう』において、「世界=私」というコペルニクス的認識転換の体験に基づいて、既存の宗教やイデオロギーを「私と世界との分離という誤った世界観(自我観)に基づくもの」として否定した。
 その認識は、ここでも維持されている。
しかし、この書では、著者の主張はさらに押し進められ、「世界との新たな関係性」について語られることになる。

この歪み切った醜悪な世界で、「自分(世界)は完全に満たされている」という充足感の中に満足している人がいるとすれば、それは現実から目を背けた自己欺瞞にすぎない。いかに「すべてはOK」という振りをしたところで、この競争と憎悪と放射能にまみれた世界の「悲しみ」を自覚しないならば、それは本当の意味での悟りではない。

自我の問題を克服することは決してゴールではない。自我の問題を浄化した時に初めて、人は世界が歪みと悲しみに覆われていることをリアルな事実として認識する。それまでは「私」とは別の「世界」の苦しみや悲しみでしかなかったものが、初めて自分自身の問題として切実に自覚される。だから

「悲しみを終わらせるために、あなたは行動する。その行動の源にあるものこそが、慈悲である。」(第2章「悟り」より)

求道の段階は終わりを告げ、「表現」(無我表現)の道が始まる。

真実と虚偽〜〜形式のオリジナリティ

第3章「芸術」からは、「表現」としての芸術の意義が語られる。

「断片を統合することによる芸術――これは、一つの新しい生き方そのものである。」

 著者は、形式のオリジナリティの中にこそ本物と偽物を識別する鍵があるという。

 「一つの観念を信じる者は、一つの言葉しか持たない。
 一つの断片からは、似たようなもう一つの断片しか生まれない。
  何が真実で、何が偽りかを見抜くことは簡単だ。そこにオリジナリティがあるか否かだけを見ればいい。もしもそれがなかったら、それは与えられた一つの断片を繰り返しているだけの偽物である。」

「独自の形式によってのみ、真実は表現される。
 独自の形式とは、世界との独自な関係性である。
 独自な関係性とは、あなたと花の関係そのものである。」

アフォリズム形式で書かれた本書は、それ自体が独自の形式による「断片の統合」であり、解説を読んで分かったつもりになるよりは、この作品が真実を提示する形式(フォルム)そのものを味わうべきであろう。

「芸術は心地よくあってはならない」というのは岡本太郎の言葉だが、この本に書かれている言葉は、決して心地よくはない。それどころか、「すべてはうまくいっている」という自己満足的な充足感や「自分は悟った」という個人的多幸感の中に安住している人々の意識に揺さぶりをかけ、挑発し、居心地のよさを破壊する力が込められている。ある種の人々にとっては、不快にすら感じられるフレーズを含んでいるかもしれない。そういう意味では、読者を選ぶ本だともいえる。

本当に「悟った」のならば、その人の表現は真に新しい形式を持たなければならない。では、悟ったと自称する人々のうち、オリジナルな、周囲の世界を根こそぎ変えてしまうような独自の表現活動を行っている人はどれほどいるか、と著者は問いかけているように思われる。

本書は、著者自身によるその解答である。

読む冥想

本書は「読む冥想」だと思う。自分とは何か? という探究に始まり、「諸法無我」から「超人」の誕生へと至る一つの孤独な冥想の道程である。

真我実現というのは実在論だと著者は言う。心身脱落を経た諸法無我の認識は、真我というような実体を認めない。全ては移りゆく。固定された永遠の自我というものはない(諸行無常、諸法無我)。ではどこに救いがあるのか? 救いというものはないと見切ることか? 
救いはある。が、それも一つの体験(断片)であり、通過すべきもの、超克されるべきものだ。それが21世紀の超人の生の在り方だ。

最初の一文から最後の一文まで、バラバラの断片が一本のロープのようにつなぎ合わされ、読者は、あたかもそのロープの上を綱渡りしているかのような集中力と緊張感を持って読み進めることになる。
その静謐なスリル感をもって、最後までロープを渡り切った時、いつの間にか「向こう岸」に辿り着いていることに気付く。そんな本だと思う。
以上

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◇科学 

かずの独り言 第1回

※「かず」氏は高橋の高校時代の友人で、現在は大阪で開業医を営む傍ら、最先端科学にも造詣が深い。メルマガ用に記事をお願いしたところ、快く寄稿してくれたので掲載させていただくことにした。

 皆さま、はじめまして。かずと申します。

 世の中には不思議なことがいっぱいで、「わかった!」と思っても、またどんどんわからないことが湧いてきますよね。

 このコラムではそんな不思議なことの中から、私が面白いなと感じたことを、皆さまにご紹介させていただこうかと思います。

 今回ご紹介させていただくのは、「原子とは何?」というお話です。

 私たちの体は、水・タンパク質・アミノ酸・糖・ホルモン・コレステロール・ビタミン・デオキシリボ核酸(DNA)などからできていますが、さらに小さな視点でみると、酸素(元素記号O)・炭素(C)・水素(H)・窒素(N)・カルシウム(Ca)・リン(P)・ナトリウム(Na)・カリウム(K)などの原子からできています。
 このように私たちの体も、ウッドデスクも、椅子も、冷蔵庫も、エアコンも、川の水も、カエルもみんな原子からできています。

 次に原子1個の構造をみていきます。

 原子核と1個以上の電子とから原子は構成されていて、原子の中心に原子核があり、原子核の周りに電子があります。まるで地球を中心として円を描くように回転する(公転する)月のように、原子核の周りを電子がぐるぐると回っているとされます。 
 ちょうどこんな具合に。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90#mediaviewer/File:Atome_de_Rutherford.png

 それでは、原子核からどれくらいの距離のところに電子はあるのでしょうか?縮尺を拡大して、この原子核を直径1メートルのボールと仮定すると、電子に相当するボールはどのあたりにあると思われますか?
 少し考えてみて下さい。




 実は、その原子核ボールをJR東京駅におくと、

電子ボールは、東京駅から約100 km離れた甲府市(山梨県)・銚子市(千葉県)・宇都宮市(栃木県)・伊豆市(静岡県)あたりを通る球面上にあるのです。

 関西でいうなら、同じ原子核ボールをJR大阪駅におくと、電子ボールは、天橋立(京都府)・鈴鹿市(三重県)・長浜市(滋賀県)・鳴門市(徳島県)あたりを通る球面上にあることになります。

 しかも、電子ボールの大きさは砂粒よりもずっと小さくなります。

 原子を1個のボールに例えるなら、原子ボールの中心にある原子核から電子の回るボール表面までが1個の原子ボールになります。すると、原子ボールの体積の99.999999999 %以上が空洞(つまり真空)で、残りのわずかな部分が原子核と電子という物質になるのです。
 つまり、原子はほとんど真空なのです。

 それでは、原子が集まってできているといわれる私たちの体も、ほとんど真空なのでしょうか?冷蔵庫やウッドデスクもほとんど真空なのでしょうか?

 原子の計測結果からは、あらゆる物質がほとんど真空であるということになります。つまりそのレベルにおいては、私たちの体もほとんど真空である、言い換えると「限りなく無に近い存在」であるとも言えます。誤解を恐れずに数式らしく表現するなら、原子より小さなレベルでは、私たちの体を「我」と書くと次のようになります。

無 ≒ 我

 もし私たちが原子のレベルより小さくなって人間の体を眺めることができれば、人間の体はまるで「原子核や電子が星のようにちりばめられた宇宙」のようなものに見える『かも』しれないですね。

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◇エッセイ

 持続可能な社会をつくるのは、無我的振る舞い
    〜ESD教育の可能性〜

土橋数子

な〜んちゃって。アカデミックな分野とはたいしてご縁のない私のネタにしては、ずいぶん大きく出たな。でもこんな私でも、曲がりなりにも子育てをしているならば、この先の人類の未来に思いを馳せて眠れなくなる日も、たまにはあるというものだ。

近年、「持続可能な開発」や「持続可能な社会」という文字を目にすることも増えている。「企業の社会的貢献=CSR」の中で言われることもあるし、「持続可能な開発のための教育=ESD」の中で言われることもある。いずれの場合も、いま人類が抱える問題のなかの、「環境破壊」というところに主にフォーカスして、地球を「持続可能」にするための取り組みや、そのための教育がなされているようだ。
「サスティナビリティ=持続可能な取り組み」。十年くらい前だったら、「今流行りのお題目かな」というくらいで、「きれいごと」の域を出ていなかったかもしれない。「ロハス」という言葉だって、広告代理店が作ったきれいごとだと斜に構えていたし(←やな性格 笑)。
CSRは、企業が開発をするにせよ、なるべく環境に配慮する、という程度のことで、「じゃんじゃん生産して、廃棄するけど、植樹活動もするからね」という免罪符のようなものであったことも否めない。その免罪符ですら、このところの苦しい企業経営事情を反映して、縮小気味のようである。
 ESDについては、はっきりいってつかみどころのない概念である。世界で起こっている危機は、環境問題だけでなく、貧困、人権、平和、開発に関係する様々な問題があるが、「ESDは、これらの現代社会の課題を自らの問題として捉え、身近なところから取り組むことにより、それらの課題の解決につながる新たな価値観や行動を生み出すこと、そしてそれによって持続可能な社会を創造していくことを目指す学習や活動です。」(文科省サイトより)だそうだ。
よ・く・わ・か・ら・な・い。
確かに現代社会の問題は解決を目指さなくてはならないが、それって教育ですることなのか? できるのか? 教育は普通に勉強して知識を得て、志ある人がこうした取り組みに果敢に挑戦するということではダメなのか。普通に「環境教育」とか「国際理解教育」という単元があるだけではダメなのか。と、学生の時にちっとも勉強しなかったくせに、そんなことを思ったのだ。
この言葉を聞いた、2年半前はね。
実は、いろいろ自分でも学ぶうちに、いまではすっかりESDの虜になり(笑)、仕事関係や友人と話していても、無我研の編集会議でも、「ESD、ESD」とうるさいおばちゃんになってしまった。まあ、もちろん、いろんな疑問や理解が及ばないところはあるにせよ、少しでも理解を深めて、ESDのセンスを持った振る舞いをしたいと思うようになったのだ。
これをESD風に言えば、トランスフォーメーション(変容)したということになるだろう。
「え? なんか聞いたことのあるスピ用語が出てきたけど、ESDって、スピリチュアルかなんかなの?」と思った方もいるかもしれない。実は、ある側面で近いものがある。だだし、天使様やハイヤーセルフにお願いしてトランスフォーメーションするのではない(笑)。全人的な学びによって変容するということである。

例えば、学び方の中でも、対話を重視した学びが大切で、深い対話(他社との対話だけでなく、自己との対話も含む)をするためには、「沈黙の時間」が必要であり、その沈黙・混沌という無為に見える時間が、創発への胎動の時間であるということが示されている資料もある。
こうした哲学的なことを根底に据えて、競争優位ではなく、協同の学びへとシフトチェンジしていこうという教育、ということなのだ。
なんだかんだ言って、「競争優位ではない」というところがいい。点取り競争ではないというと、これまたきれいごとなのかもしれないが、点取り競争でないからこそ、学びの意欲が高まるのではないだろうか。ここに期待することは大きいのではないかと、落ちこぼれのままで、学ぶ機会を逸した私なんかは思うのである。
また、関連の資料には、随所に「自己中心的」な考えから、「利他的振る舞い」が大切だということが示されており、それが単にマナーや合意形成のためだけでなく、根源的に必要だということを訴えていると読み取れた。
従来の、知識偏重・競争優位な教育が、ざっくりとだが「自我的」であるなら、教科横断的で探求的で協同的なESD教育は、「無我的」であると言えるのではないだろうか。
ESDは文科省も推奨しているようだが、真に持続可能な社会を志向したとき、現在のような経済至上主義に基づいた社会の枠組みではなく、革命というか、まったく違う社会のあり方でなければ、持続は不可能であろう。そういった意味で、ある意味ラディカルな部分を含みながら、文科省お墨付きというところも、なかなか振るっていると思う次第。

まあ、私の稚拙な理解では、ESDのことを断片的にしか紹介できなくて申し訳ないが、こうした「持続可能な未来をつくるため」という思いを持った先生から教育を受けた子の中から、きっと新しい時代の人や技術のあり方をつくっていく人が出てくることを願いたい。そして、既存社会にどっぷり浸かっている私としては、そうした改革者が現れたとき、無用な抵抗勢力にならぬよう、自分自身も持続可能な世界について、思いを巡らせておきたい。そんな2014年の、年の瀬です。

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◎編集後記
 今月号で告知させていただいたように、12月18日にナチュラルスピリット社から新刊を刊行させてもらうことになりました。ありがたいことに電子書籍でも読んでみたいという声もいただいていましたが、より多くの読者の方々の目に触れる形で世に出せたことに感謝しています。
今月は、高橋氏の友人、医師で科学研究者のかず氏の新連載も始まりました。理系オンチな私のような者にもわかりやすく、なおかつ深い考察を表現してくれる強力な書き手が加わってくれたことを嬉しく思います。少し早いですが、よいお年を。(那智)

★無料法律相談は、MUGA副編集長・高橋弘泰弁護士事務所へ
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「MUGAの案内を見た」旨お伝えいただければ迅速に対応いたします。

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  • 名無しさん2014/12/18

    文字化けの件、少し調べたのですが、文字コードが違うからかもしれません。Macの場合「UTF-8」になっているらしいのですが、「ISO-2022-JP」にする方が問題が少ないとありました。問題が解決しない場合は、メルマガの登録頁のバックナンバーから閲覧をお願いできればと思います。お手数かけますがよろしくお願いします。那智

  • 名無しさん2014/12/16

    内容は良いのですが、最近文字化けが多いです。

    文字化けの最初には必ず「�」が入ります。

    ブラウザーを変えても同じです。

    Macだからでしょうか?

    iPadでもiPhoneでも同じです。

    Windowで確認したことはないのですが、アップル社の端末しか持っていないので、読めない部分が多くて残念です。

    「�」に心当たりがあればご考察お願いします。



    「�」の前の文章引用一部

    >>――概念に仏教的なものをくっつけたというかね、自分の中ではつながっているわけですけれど&#65533;$b!"?7$7$$D6?MA|$rDs<($G$-$?$s$8$c$J$$$+$H!#