芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第29号

2013/12/15

MUGA 第29号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇年末企画 

MUGA執筆陣が選ぶ、2013年度 無我表現BEST5

◇アート

・詩

『季節の詩』     rita

・小説 

超人群像5
主よ、人の望みの喜びよ

那智タケシ
      
・小説

ぐるごっこ 番外編 自己啓発セミナー体験記(3)

高橋ヒロヤス

◇評論

古谷栄一「錯覚自我説」について

高橋ヒロヤス

★数子のマイナーカルチャー探訪「MUGAを探せ!」第7回

「戸川純」エロスとタトナス、自我と無我

土橋数子

◇エッセイ

潜態論と老子をつなぐもの   ティモ伯爵

                                   
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◇年末企画 

MUGA執筆陣が選ぶ、2013年度 無我表現BEST5

 年末ということで、執筆陣に2013年度の「無我表現」のベストを5つ挙げてもらいました。あくまで今年の発表作品ではなく(すべてを網羅できる人はいません)、それぞれが出逢って、インパクトがあった順です。お遊びの企画として楽しんでもらえれば幸いです。

●2013年度 無我表現ベスト5 那智タケシ

 個人的に、今年出会った様々な「表現」から無我表現というキーワードを軸に★をつけてみました。順位は一応、自分のインパクト順で作品それ自体の評価というわけではありません。小説等にはいい出会いがなく、すべて映画作品になってしまいました。2013年度とありますが、作品の発表年ではなく、筆者が今年、出会った作品です。

1.「処女の泉」イングマール・ベルイマン 1960  ★★★★★
 ユーロスペースで観た神の沈黙三部作シリーズの一作(三部作でこの作品のみ未見だった)。強姦され、殺された娘の復讐に、無実の子供も含んだ三兄弟を殺してしまう父親の物語。処女が殺された場所から泉が湧き、父はそこに教会を建てることを誓う。完璧な構成、テーマの深さ、宗教性、共に文句なしの傑作。

2.「バルタザールどこへ行く」ロベール・ブレッソン 1970  ★★★★★
 最近、ブレッソンのDVDボックスを買ったのだが、最初に見たのがこれ。一頭のかわいいロバ(バルタザール)が人手から人手に渡り、過酷な労働と虐待に忍従しながら、身勝手で欲望に翻弄される人々の悲劇を無垢な瞳でただ黙って見ているという話。ロバをキリストになぞらえているのは明白だが、それ以上にブレッソンの透徹した眼差しがすべての事物にひとしなみに注がれ、究極の形式に昇華されていることに驚く。ただただ美しい映画。

3.「劇場版魔法少女まどか☆マギカ」「始まりの物語」「永遠の物語」2012 ★★★★☆
 最近、観たのでインパクト大。テレビアニメの総集編的な映画ということらしいが、ストーリー、美術レベルも含めて完成度が高い。絶対に誰にも理解されることなく、知られることもない境遇で、一人、愛する人を救おうと運命に立ち向かい続ける少女の物語。そのけなざけさが胸を打つ。萌え系アニメとして敬遠していた分、驚きも含めての★4.5。新作「叛逆の物語」は評価を保留中。

4.「白夜」ロベール・ブレッソン 1972  ★★★★☆
 10月末にユーロスペースで観た初見の作品。ドストエフスキー原作の情緒的な物語を、ブレッソン独特の突き放した形式で描ききる。人間の情緒的側面をそぎ落とし、人間も含めたすべての事物を等価的に淡々と描くストイックさに脱帽。ブレッソンは自らの作品を映画ではなくシネマトグラフと呼び、俳優をモデルと呼んだが、この人の作品は、確かに映画というジャンルも超えている。

5.「桐島、部活やめるってよ」吉田大八 2013  ★★★★
 朝井リョウの小説の映画化。クラスカーストを描いた作品だが、もはや「社会」という共同幻想が崩れ去った現代においては、コンプレックスや優越感等の上下の感情も無意味に化してしまったことを「学校」という共同体の中で明晰、自覚的に描き切った。関わり合えず、つながることさえできないカースト構造の中にいる若者たちが、最後に出会った場所とは。

次点.「ぼっちゃん」大森立嗣 2013
 秋葉原無差別殺傷事件を題材にした映画。主演の水澤紳吾の演技がただただ強烈。社会の最底辺にいる孤独な男たちの異常な友情と破綻を描いた力作。扱いづらい題材に直球でぶつかっていく監督の勇気に敬意を表しての一票。当たってくだけても構わないという感じが潔い。とにかくインパクトが残った。

●2013年度 無我表現ベスト5 高橋ヒロヤス

とても「2013年の」ベストとは言い難いセレクションですが、今年出会った表現の中で、自分にとってインパクトがあったものを選びました。

1.『老子眼蔵』伊福部隆彦著 1953 ★★★★★
 MUGAの記事にも書いたが、絶版のままにしておくのは余りに惜しい名著。昨今の「老子ブーム」に乗じた書物とは次元が違う。道徳の教科書として全国の学校に配ったらどうか。

2.『循環論証の新世界観と錯覚自我説』古谷栄一 1926 ★★★★★
 詳しくは今月号のメルマガの記事に書いた。個人的には、科学分野の「潜態論」、倫理・道徳分野の「老子眼蔵」と並んで、この哲学分野の「錯覚自我説」の3セットは、現代日本が生みだした世界に誇るべき無我表現ではないかと思い始めている。

3.「あまちゃん」宮藤官九郎脚本、NHK 2013 ★★★★
 NHK朝ドラという舞台、脚本、キャスト、演出、音楽、東日本大震災という時事性、すべてが絶妙のバランスで成立した奇跡のような作品。主演の能年玲奈は今年の顔であると同時に、新時代の到来を告げるかのような新鮮さ(無我っぽさ)を感じさせてくれた。

4.『和解』志賀直哉 1917 ★★★★★
 今更どうなの、と言われても、読んだのが今年だったので仕方がない。志賀直哉はこの作品を10日位で一気に書き上げて読み直しもしなかったそうだ。そういうのが理想的な創作なのかなと思う。ドロドロした近代日本文学の中での無我表現の稀有な一例。

5.タモリ ★★★☆
 今年は『笑っていいとも!』が終わるのが決まり、タモリの芸歴の一つの区切りになった年だった。MUGA第21号の「ムガタモリ」という雑文がひとつの縁になって土橋さんが執筆陣に加わってくれたこともあり、感謝の意味も込めて。なお今年ベストセラーになった『タモリ論』という本よりは拙稿の方がタモリの本質を突いていると自負している。

次点.将棋電王戦 2013
 A級プロ棋士がコンピューターに敗北するという衝撃が大きかった。来年も開催が決定しているが、コンピューターと無我表現との関係を考える格好の題材として興味は尽きない。

●2013年度 無我表現ベスト5 土橋数子

 心を震わす表現のほとんどは無我表現と重なるのではないかと思うが、その中でも、「無我」および「無為」「無」をダイレクトに感じさせていただけた表現を選んでみた。私の場合もほとんどが今年発表された作品ではなく、今年出会った作品。今年の私に必要だったものなのだろう。

1.映画「霊魂の不滅」 ヴィクトル・シェストレム 1921  ★★★★★
 晩秋に開催されたスウェーデン映画祭で上映。サイレント映画の傑作。その場でのピアノ伴奏(柳下美恵)を目当てで観に行ったら、映画そのものがピンポイントで無我表現だった。幽霊となった主人公が放蕩の人生を悔恨し、妻子を心中から救おうと懇願するとき、「俺は誰に祈ればいい、神か?イエスか?」、差し出す“命”すらない彼が「“私”を闇にしてください。私のすべてを取り下げます」という境地に達したとき、願いは聞き入れられる。

2.書籍「老子眼蔵」伊福部隆彦 1964  ★★★★★
 無我研とのご縁ができたタイミングで、親戚から借りてきた古い書籍。編集会議に参加したメンバーで、回し読みしたことが私の今年の思い出、という一冊。「無は不断にその有への妙(はたらき)をあらわそうとしている。あらゆるものがこの現象界にあらわれてくるのは、無のはたらきのためである。」返却する前に、老子の無為自然について噛み締めながらもう一読したい。

3.音楽「東洋の奇跡」田中希代子 2006 ★★★★★
 今年お亡くなりになった音楽家・三善晃の随筆集『遠方より無へ』(1979)を古書で購入してパラパラと捲っていたら、ピアニスト・田中希代子のことに触れた難解だけど魅力的な文章に触れ、没後十年に発売されたCDを購入。稀有の天才と絶賛を浴びながら、難病のために30代で引退した伝説の奏者。その音楽は、音の光(有)だけでなく影(無)まで表すほど深い。おなじみのトルコ行進曲は、まろやかな音の粒が天国で転げまわっているよう。

4.舞台「文楽・伊賀越道中双六」近松半二 2013 9月 ★★★★☆
 お着物で古典芸能を観に行く趣味はないのだが(サブカル上等!)、たまたまチケットを譲っていただき文楽を初体験。鑑賞の仕方も知らない素人ながら、なぜだか感動した。劇場空間の配置の妙。三人で一つの人形を操り、そのうち一人はバッチリ顔出ししているのに、顔が見えなくなる不思議。仇討ちモノの愛の深さ、死との敷居の低さ。人形の個性(自我)は、人形遣いの滅私(無我)によって表現される。文楽の形式そのものが無我的と感じた。

5.ライブ「東京中でいちばん可愛い君」早川義夫 原マスミ 2013 3月  ★★★★☆
 今年も仕事と家庭をやりくりして、原マスミのライブには足を運んだ。中でも、早川義夫との共演は素晴らしかった。『この世で一番キレイなもの』(早川義夫)という歌の「♪キレイなものは どこかにあるのではなくて あなたの中に 眠っているものなんだ いい人はいいね 素直でいいね キレイと思う 心がキレイなのさ♪」は、聴くたびに涙。

次点.アイドル「君の名は希望」乃木坂46 2013
 あまりにも懐古趣味なセレクトになったので、もうちょっと今を生きようよ、ということで、アイドルの曲から。おばさんはよく知らなかったが、AKBとは違うグループなのね。美形が多い?ちょっと知的? 「希望とは〜、明日の空〜♪」でジーンとさせてくれた。いい曲に一票。 私の趣味的にはやっぱり「生田絵梨花×佐久間正英バージョン」かな。

●2013年度 無我表現ベスト5 ティモ伯爵

無我表現ベスト5とありますが、なかなか引っ掛かる作品等が自分の中に無いので、
今年特に印象に残り良いと思ったものを順不同に挙げてみます。

1.『ニッポンの嘘』報道写真家 福島菊次郎 2012 ★★★★★
「問題自体が法を犯したものであれば、報道カメラマンは法を犯してもかまわない」
と語る当時90歳にして現役の報道写真家を追ったドキュメンタリー映像。
敗戦後のヒロシマでの撮影から始まり、日本におけるタブーとされてきた暗部を明らかにし真実を追い求めてきた軌跡が垣間見える。
暴漢に襲われ家を放火されながらも、それでも写真を撮り続ける事をやめなかった並々ならぬ執念と信念。その徹底した生き様と真実を追い求め続ける姿勢に私心は一切無く、僕は無我表現的なものを感じました。なぜそこまでして写真を撮り続けるのか?その原動力は?それはこの映画を観ると分かります。最後のシーンで思わず号泣してしまいました。
今年一番印象に残った映画です。ほとんど知られていない様なので、未見の方は是非。

2.「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」 ★★★★★
真っ暗闇の中に初見の人とグループで入り、様々な体験をする真っ暗闇のソーシャルエンターテイメント。無我表現かは分かりませんが、とても興味深い体験が出来るので挙げてみました。
暗闇に入ると、個人という境界線は消え、普段感じる事の無い世界へ連れて行ってくれます。コミュニケーションの大切さや人の温かさに触れる事が出来、視覚が遮断されるので鈍っていた他の感覚が鋭敏になるのが感じられたり、とにかく面白い。
真暗闇は案外心地良い、そんな事にも気付かせてくれました。
色んな可能性があるこの空間。いまや企業の研修にも使われているとか。

3.「潜態論入門」 河野龍路氏著 ★★★★★
今回のメルマガでも紹介させていただいた潜態論の入門書。
新しい科学と言うべき潜態論との出会いはこの本から始まりました。難解と言われる潜態論を平易な言葉で、とても練られた文章で解説しています。潜態論の凄さ、可能性、面白さに触れる事が出来ます。

4. 「老子眼蔵」 無為隆彦氏著 ★★★★★
もう絶版となっている貴重な一冊ですが、知人からお借りして拝読。
今でも老子の解説本は書店に数多く有り、手に取る機会も増えていると思いますが、
それらの本が老子の思想を間違って解釈しているとしたら大変な事です。
この老子眼蔵は、老子ほど誤読されている思想は無いと説く所から始まります。
そして、誤読を正し今まで語られる事の無かった真の老子とは何かを解説してくれる、老子の真髄に迫る稀有な一冊。
僕も誤解していた、よく誤解されがちな【無為自然】の本当の意味とは。東洋的叡智の結晶がここにある!復刊が望まれます。

5.「エル・トポ」 アレハンドロ・ホドロフスキー 1970 ★★★★
言わずと知れたカルト映画の金字塔とでもいうべき映画。
レンタルDVDが出ていたので借りてみました。今まで観た事の無い類の映画で、
もの凄いインパクトでした。強烈な映像の数々に加え、宗教性や神秘主義的、哲学的な世雰囲気が漂う世界観。こんな映像を求めてた!って感じで、僕にとっては大のお気に入り作品となったのでした。無我表現作品の一つとして評価したい。
今この時代に同じ様な作品が無いものか・・・と探している状況です。まだ見つけられないのが残念。



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◇アート

★詩

季節の詩     rita 

 【・タンチョウ・】 
  
タンチョウを見たの 
  
それは愛する人の旅路を見送る婦人の後ろ姿みたい 
しなやかに伸びた首に黒髪のような色香が流れていたよ 
  
空虚な生活の慰みに誰かがつくったカラクリ人形みたい 
蒼くただよう寒気の中を運びゆく足が枯枝よりも細く乾いていたよ 
  
かくれんぼしてる子供が見つけたファンタスティックな場所 
自ずから発光する白い体には未来がいっぱい詰まってる? 
その胸に畳み込まれている翼を見せて欲しかったよ 
  
瞳は飴玉のように丸く艷やかで 
頭には朱が愛らしく添えられてるの 
  
冬の片隅で寒々としているぼくをポッと照らしてくれた 
白熱電球のようなタンチョウのありのままの命のあたたかさに 
静かに癒されていたんだ 
  
  
  【・冬の太陽・】 
  
月のいくばくもない光のかかる空に 
赤い太陽が顔を出したよ 
電線に並ぶ雀を黒々と影は写すの 
  
晴れの青色が落ち着いた空に 
黄色い太陽が腕を伸ばすよ 
壁越しに寝息のある家にも影は絵を描いてる 
  
熱を帯びはじめた空へ 
白い太陽が踏み出したよ 
地上にあらゆるものの抱える傷跡を影は表そうとしてるみたい 
  
太陽が救済の手を差し伸べるほどに 
影はおしなべて広がってゆく 
  
もれなくその庇護の下に入ったものの 
跨いだ光と影のつねに隣り合う摂理が 
意気地のないぼくをそっと悩ませた 
  
太陽が空を移る 
ゆったりと滑空できる軌道まで 
ぼくは正午を待っていた 
  
悠々と語らう冬の太陽の幸福論 
煩悩を払拭できるかもしれない白銀の世界に 
ぎこちなくぼくを委ねてみる 
頬にあたる風は冷たいけれど 
日だまりはいつわりなく穏やかだったよ 
  
  
  【・年の瀬・】 
  
大掃除やら買出しやら 
正月の準備をしたりして 
イメージ通りに帳尻を合わせては 
一年を振り返ってみたりして 
年の瀬は何かと忙しい 
  
ブラックコーヒーを飲んでやり過ごそう 
  
日々の暮らしにけじめをつけて 
新年をむかえる意義とは 
深い渓谷に掛けられた吊り橋を渡るような覚悟をもって 
ぼくは新天地にどんな夢を抱いてる? 
  
新たなかたちとなって苦患が姿を見せるばかりなのに 
人は苦しむために生まれてきたって先人の言葉のとおりなら 
思い描いていたことがひょっこり叶ったりする時もあるけれど 
神が見ているということを了得して感激して 
  
来年も苦しんでやる 
来年なんか怖くない 
ブラックコーヒーを飲んでやり過ごそう 
マフィンなんかあったら最高さ 
  
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・小説

超人群像5

主よ、人の望みの喜びよ

                          那智タケシ

    1

 緑色の蝶が、死んでいた。駅前の、階段の段差の影で、誰一人かえりみられることなしに、くずおれて、残骸となって眠っていた。未だに光沢を宿した羽は風雨に刻まれてほころび、触覚は頭を垂れて、片一方は、欠けていた。
 
 十二月の寒空の中、崇志は、階段の側で人を待っていたのだが、なんとはなしに、その季節外れの小さな死の残滓を見つけたのだった。彼は、別段、特別な感情を表すことなく、三秒ほど見つめた後、顔を上げた。そして、その面に光が差した。待っていた人が、やって来たからである。

 鏡子は、改札をくぐると、どこか楽しげな表情で、心持ち顎を上げて歩いて来た。まるで、すべての人間を上から見下ろして、見守っているようでさえあったが、傲慢な感じはしなかった。白いワンピースが光のように彼女の身体を包んでいて、何かこの世のものならぬ高貴な存在感を与えていた。彼女は、崇志に気づくと、手を挙げるでもなく、頷くでもなく、満足げに頷いた。そして歩み寄って来たが、話しかけることはなく、視線だけで相手を誘導し、共に歩き出した。

「商談、どうでした?」と崇志は聞いた。

「さぁ、わけのわからないことを言っていたわ」と鏡子は言った。「でも、どうってことないわよ」

「どうってことないって?」

「私は上手くいくってわかっているの」と鏡子は言って、焦点の合っていない目つきで遠くを見つめた。

「なぜわかるんです?」

「私にはわかっているのよ、何もかも」鏡子は、振り返ることもなく歩き出した。

 崇志が、輸入商品を扱う鏡子の会社に入って、一ヶ月。社員が五、六人ばかりの小さな会社だが、今では、地道な事務仕事や、営業のお供、梱包作業に至るまで、助手のような仕事に朝から晩まで明け暮れていたが、彼は、この年上の女性に心酔していたので、何一つ苦労というものは感じたことがなかった。

 高田馬場駅近くの地下にある喫茶店、白ユリに入り、一番奥まった席で待っていると、ほどなく、陰気な、無愛想な感じの若い女が店に入ってきて、辺りを見回した。黒いワンピースを着ていたので、魔女か何かのようであった。そして、こちらを見つけると、慎重な足取りで歩いてきて、笑うでもなく、一つ、頭を下げた。

「お久しぶりね」と鏡子は座ったまま言った。

「お久しぶりです」と相手は顔を上げて言った。お互いに自己紹介をした。篠宮洋子という二十一歳の大学生であった。商談帰りに、大学の近くのここで面接をすることにしたらしい。

 鏡子は、どういうわけか相手に話しかけようとせずに、再びメニューを手に取って眺めた。

「ケーキセットでコーヒーをちょうだい」と鏡子は近寄って来たウェイトレスに命令するように言った。崇志と洋子は、アイスコーヒーを頼んだ。

「ケーキはいらないの?」と鏡子は従兄弟に聞いた。
「いりません」と洋子は言った。「太るので」

「痩せてるのに?」鏡子は目を見開いた。

「太りやすいんです」と洋子は言って、肩をすくめた。

 崇志は、居心地が悪かった。二人の女性はタイプは異なるものの、どこか似ていた。まるで秘法を分かち合っているがゆえに多くの言葉を必要としない、魔術師同士のようであった。彼には、血縁に基づいた二人の秘密めいた関係に、自分のような半端者が入り込む余地はないように思えた。にもかかわらず、彼はバイトの面接に立ち会うように命令されてやって来たのであった。

 洋子は、なぜか正面にいる、崇志の顔を無表情で見つめていた。崇志は、ちらりと相手を見つめたが、居心地が悪くなって、目を伏せた。

「あなたとどこかで会いましたか?」と洋子はどこか真剣な様子で言った。

「いいえ、会っていないでしょう」と崇志はちらりと上目遣いをして答えた。

「ぼくは、長いこと引きこもっていたのです」

「そうですか」と洋子は言って、不思議そうに相手を見つめた。

「お母さんはお元気?」と鏡子が聞いた。

「相変わらずです」と洋子は答えた。「私には、どうすることもできなくて」

「あなたがどうかすることじゃないわ」と鏡子は言った。「あなたは、私たちと働いた方がいいと思う」

「私もそう思います」と洋子は言って、目を閉じ、深く深く、深呼吸した。まるで、長い放浪の末、ようやく毒気のない土地にやって来て、ひと心地着いた人のように。

    2

 その隣のテーブルでは、奇妙なカップルがひそひそと話しこんでいた。明らかにこの辺りの大学生らしい、童顔の若い男性と、三十半ばの、疲れた顔をした中年の女であった。青年は、ソファに身を仰け反らせるようにして座り、右腕を背もたれにのせ、どこか斜に構えた態度で相手に接していた。その顔は少しばかり傲岸なひらめきを宿していたが、それほど嫌味なものではなく、若者特有の生命力の表出のようにも見えた。彼は、昨日の競馬で万馬券を取ったという自慢話を延々としていた。

 目の前の壁際の席に腰掛けている三十半ばの女は、ソファに身をもたせることなく、背筋を伸ばしたまま、両手をお腹の辺りで組み合わせ、物静かな表情で相手の話に耳を傾けていた。彼女は、若者が自慢話をすることが嬉しいらしかった。クラシックの音楽に身を任せるように、時折、目を閉じて微笑んだ。

「でもさ、こんなことばかりしてられないのかもね」と青年は軽薄な調子で言った。

「こんなことって?」女は、不思議そうに尋ねた。

「だって、半年もすれば子供が生まれるでしょう? そうしたら遊んでばかりもいられじゃない?」

 女は目を伏せ、どこか寂しげな笑みを浮かべて、こうつぶやいた。
「私ね、何がどうあっても、この子を生むわ。例え、一人で育てることになったとしても」

 すると青年は、怪訝な様子で目を見開き、顎を上げて、相手を見下ろすような眼差しを投げた。
「どうしてそういうことを言うの?」と彼は不愉快そうに尋ねた。

 女は、たどたどしい口調で、必死に言った。
「だって、私たちがあなたの未来を奪ってしまうことになるとしたら、それはとても罪なことだと思うの。だから、あなたは私たちのことは忘れてもいいのよ。いいえ、その方がいいかもしれない」

 青年の面から、突然、表情が消えた。彼は、不思議なものでも見つめるように、長いことうつむいた女性の額の辺りを見ていた。するうち、その口元にどこか嘲笑的な笑みが浮かんだ。

「君は、余計なことを考えなくていい」と彼は断定的な口調で言った。「余計なことを考えるから、人生が上手くいかなくなるんだ」

 女は、おびえたように身をすくめた。
「あなたは、考えなさすぎなのよ」と彼女は言った。「私には、あなたが何かを考えているのかさっぱりわからないの」

 すると青年は、急に優しい口調になって言った。
「大丈夫、ぼくが何とかするから」

 女は、不安げな顔つきをした。
「でも、大学はどうするの?」

「どうするって?」

「だって……」女はうつむいた。

「ぼくはね、流れを止めたくないんだよ」と青年は何やら偉そうに言った。「大学も卒業するし、就職活動もしているし、君との結婚も、父親になることもすべて上手くやりたいんだ。そのためには、ごちゃごちゃ言われないことが、一番大切なんだ」

 女は、相手を哀れむような顔つきをして言った。
「だって、これはあなただけの問題ではない。あなたと私の問題でしょ?」

「それはわかってるさ」と青年は思わず、ひるんだ様子で言った。「でもさ、君は生き方が下手だから……」

「私、あなたとの子供ができて、離婚したのよ。家族も、友人も、誰一人味方はいないのよ。いなくなっちゃったのよ。今の私がどんな恐ろしい生活を送っているか、わかってる?」

「わかってるって……」

「わかってないわ。あなたは何もわかっていない」

「わかっていようが、わかっていまいが、関係ないさ」青年は、言い逃れをするように言って、目を反らした。

「私、やっぱりあなたとは暮らせない」女は、断定的に言った。「あなたはいつも自分のことばかり考えている」

「もう、そういう繰り言はいいよ」青年はうつむいて、左手の小指の腹をマッサージした。

「繰り言だなんて……」

「どうせ、ぼくらは一緒に暮らすことになるんだから」

 青年はそう言って、顔を上げた。瞬間、何かに気づいたように女の背後を見つめ、沈黙した。その瞳の虹彩は拡がり、口は半開きになり、驚嘆するような、畏敬の表情がその顔に生まれた。

 女は、青年のおかしな様子に気づいて、その視線の先にあるものを追いかけ、背後に振り返った。

 そこには、一枚の絵があった。一つ目の巨人が、山の向こうから顔を出し、こちらを見つめていた。その絵は恐ろしくもあったが、どこか滑稽でもあった。異世界の住人が、人間たちが織り成す悲喜劇を、好奇心で覗いているようだった。たまたま、この瞬間、この場所で、青年と異人は、目が合ってしまったのだ。
 
    3

 入り口近くのテーブルでは、二人の女性が顔をつき合せ、物静かに、親密そうに話していた。年齢不詳の奇妙な雰囲気を持つ中年女と、三十半ばの美女の組み合わせであった。二人は、親友というよりも、秘密の愛をささやき合う、同性愛者の恋人同士のようにさえ見えた。木佐貫紀子と辻弘美である。元同僚の彼女たちは連絡を取り合って、一ヶ月ぶりにお茶をすることになったのであった。

「私、今、とても居心地がいいんです」と紀子は言った。「あるべき場所にあるような、いるべき場所にいるような、そんな感じです。ようやく、自分の居場所を見つけたというか、おかしな気持ちなんです」

「不思議ね、私も同じ気持ちだわ」と弘美は言って、紅茶をすすった。

「結婚生活は、幸せではないんですか?」

「現実は、面倒なものだわ」と弘美は酷薄な笑みを浮かべて言った。「私は今、あなたといる方が幸せ。これ以上ないくらいに満ち足りているの」

「辻さん、おかしなことを聞いてもいいですか?」

「何かしら」

「もしもこの世界が滅びるようなことがあったとしても、ここだけは天国であるという、そんなことがありえるでしょうか?」

「ありえるわ」と弘美は断言するように言った。

「でも、この店を外に出たら、滅びた世界はどうなっているのでしょう?」紀子は、おびえるように聞いた。 

 弘美は、一つ、微笑して天を指差した。
「私たちがこの店を出たら、世界が救われているの。だからね、私たちがここで、こうしていることは、とても大事なことなのよ。あなたが思っているよりも、ずっとずっと、大事なことなの。本当よ?」

 すると紀子の顔が、喜びにぱっと輝いた。彼女は、相手に対する心からの信頼の念を込めて、こう言った。
「私は、あなたを信じます」

 弘美は、自分のことをまっすぐに見つめる、黒目がちな瞳の中に、別の宇宙につながる深淵を見出したような気がして、身震いした。

「あなたは、本当にかわいそうな人」と弘美は心からの慈しみを込めて言った。「きっと、あなたは誰からも理解されることはないし、認められることはないでしょう。今までも、そしてこれからもずっと」

 紀子は、恥ずかしそうにうつむいて、何も答えなかった。彼女は、本当は、自分の価値を知っていたのである。誰かが、自分の存在を見出してくれることを、生れ落ちてから何十年もの間、たった一人で待っていたのである。

 そして今、彼女は見出されたのだ。

 店内には、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」が流れていた。弘美は、人の望みの喜びとは、目の前の存在の中に神を見出し、手に触れることだと直観し、思わず、相手のこけた頬に右手を伸ばした。

 すると紀子は自分の頬に差し伸べられた手を両手でそっと握り、目を閉じると、自らの頬を押し当てて、こう言った。

「私、今、本当に幸せです」

 弘美は、自分を信じ切って身を任せる、純朴な少女のような中年女の顔を見つめながら、彼女のために時間が止まることを祈った。

                               (了)
 
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・小説

ぐるごっこ 番外編 自己啓発セミナー体験記(3)

高橋ヒロヤス

TさんとKさんが僕を家に呼んだ目的は、確かにセミナーとは直接関係がなかった。

Tさんの語るところによると、Kさんはあるビジネスのアイディアを持っているのだが、国家公務員である彼が民間企業に加わったり事業を始めることはできないので、誰かに彼のアイディアを元にしたベンチャービジネスを委ねたいという。

そのビジネスモデルについてKさんが概要を説明した。社会人経験のない当時の僕にはよく分からないことも多かったが、簡単に言えば、来るべき超高齢化社会に備えて、これから増え続ける老人(シニア世代)に向けた情報発信サイトを作ろうというものだった。そのサイトを基盤にしてシニア向け商品開発や販売、老後の生活相談、相互交流事業などを行っていくという。

要するに、高齢者向けのインターネット・ポータルサイトを作ろうというアイディアであり、今でこそ平凡な企画に聞こえるが、当時はインターネットそのものが今ほど普及しておらず、まして高齢者がパソコンでネットにアクセスすることは珍しかった時代であり、なかなか野心的で斬新なアイディアに思われた。

僕が呼ばれた目的は、そのベンチャー企業立ち上げの発起人(の一人)になってほしいというものであった。今でいうIT社長とかなんとかの類いである。青年実業家というのは自分から最も遠い世界の存在だと思っていただけに、Kさんの申し出には面食らうしかなかった。

Kさんには十分な勝算があった。その最大の理由は、Kさんが霞ヶ関のベンチャー企業育成部門で仕事をしていたことだ。彼はその分野で日本で最も情報を握っている人物の一人であり、どうすればこの国でさまざまな規制の網をかいくぐってベンチャー企業が成功できるかを熟知していた。

もちろん公務員である彼が利害関係者になることはできない。だからKさんは一切出資はしないし、無報酬のアドバイザーとして関わることもない。単にアイディアとヒントを提供するだけだという。

Kさんは発起人のメンバー候補に、僕を含めて3人を選んだ。3人ともセミナー受講生である。僕以外の2人の名前を告げられた時には、誰の事か分からなかったが、後に一度Kさんの手引きで顔を合わせて、セミナーで見おぼえがあったことに気付いた。

一人はW君といって僕と同い年の学生だった。物静かで考えを表に出さないタイプだが、体格がよく威圧感のある外観で、何とも言えない存在感があった。

もう一人はU君で、いつもニコニコしていて人当たりがよく、感激屋で、セミナーでは誰よりもよく泣いていた。セミナーの最終日には、参加者がお互いにハグして涙を流す光景が一種の儀礼化していたのだが、U君は中でもひときわ目立っていた。そこら中の人と抱き合い、顔をくしゃくしゃにして健闘を讃え合っていた。僕がU君のそんな姿を醒めた目で見守っていたことは言うまでもない。

今になって思えば、全く異質の個性を持つ3人を選んだKさんの意図は分かるような気がする。

社交的でコミュニケーション能力の高いU君には営業の仕事、威圧感のあるW君には押しの強さが必要な場面での仕事が適任であることは分かったが、これといって目立った個性のない自分には何が求められているのか、よく分からなかった。単なる後輩のよしみというには余りに何の面識もなかった。

色々ないきさつはあったが、結論を言うと、僕はKさんの誘いを断った。U君もW君も人間的には好感が持てたし、ビジネスの話も面白そうだとは思ったのだが、例によって「考え過ぎ」の虫が邪魔をしたのかもしれない。

U君もW君も「アドバンス・コース」を受講していた。その事を知って僕は、発起人への誘いは、結局は形を変えたセミナーへの勧誘行為だと感じた。成り行きで再びセミナーの世界に引きずり込まれるのが嫌だった。

後日談を書くと、断った僕の代わりに発起人になったY君というメンバー(僕とは面識なし)らの3人で立ち上げた会社(仮にSC社としておく)は、ベンチャー企業として高齢者向けポータルサイトの運営や高齢者向けマーケティングの分野でめきめき頭角を現し、一時は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。U君とW君は取締役となり、都心に立派なオフィスを構え、社長になったY君はしばしばテレビにも登場する若手のカリスマ経営者として一部では有名な存在にもなった。

ところが、上場して間もなく、悪質な粉飾決算の事実が明らかになった。会社は上場廃止され、取締役の3人は辞任し、会社及び株主から訴訟を提起されるという結果に終わった。この間の経緯は非常に興味深く、それだけで優に1冊の本ができるだろうが、本筋から外れるのでこれ以上は書かない。

会社の話を断った後も、Kさんとは何度か会った。その度にやはりセミナーの話になったが、もう露骨に「アドバンス・コース」への勧誘をしてくることはなく、むしろ「人生の意味」などを巡る抽象的な議論になることが多かった。

そのうち僕は自分の中で「霞ヶ関訪問」などと銘打って、Kさんの職場近くの喫茶店や食堂で定期的にKさんに会うようになっていた。就職についてアドバイスを受けるという建前で、実際には下に述べるような変な議論ばかりしていた。確かにKさんも相当な変わり者だった。

社会人になって久しいKさんが、いまだに青臭い議論を自分のような青二才と真剣に行ってくれることに好感を持った。Kさんは物事を突き詰めて考えるタイプの人だった。Kさんがセミナーを受けたのは「人生に意味を取り戻すため」だったというのは前に書いたが、セミナーによってもまだ満たされない心の隙間がKさんの中には存在しているようだった。

Kさんは、少し後に流行することになる「まったり革命」とか「終わりなき日常を生きろ」といった考え方を忌み嫌っていた。それは最終的にはニヒリズムしかもたらさない。自己肯定という名の堕落した文明を生みだすだけだ。

「『どうせ人生に意味なんかないさ』という相対主義がポストモダンとか何とか言って持て囃された時期があったけれど、結局人間は意味を求めざるを得ない生き物だと思う。・・君は人生の意味についてどう考えているの?」

「人生に意味なんかないというのはある意味では真実だと思います。というのも、人生から離れて抽象的な『意味』などというものは存在しないからです。それは単なるイメージであり、観念にすぎません。人生に意味を求めようとするのは、その人のあるがままの生活がどうしようもなく退屈なので、そこから逃避しているだけなのではないでしょうか。セミナーも宗教も逃避のための手段にすぎないのだと思います」

「そういう考え方は結局ニヒリズムに至るんじゃないのかな」

「ニヒリズムというのもエゴの逃避の一形式です。エゴを満足させてくれるような「意味」を人生に求めるのも、意味なんかないと開き直るのも、共に自我の反応でしかありません」

「自我の何が悪い? 自我の改善や満足を求めることの何がいけない?」

「善悪の話ではなく、単に事実を述べているだけです。自我の満足を求めることは苦しみを生みだすだけです。自我の満足というのは不可能を求めているのです。そして自我の改善によっては苦しみは解決されないのです」

確かに当時の僕は「クリシュナムルティ原理主義者」のようなところがあった。

Kさんは独身だったが、僕が当初勘繰ったようにTさんと付き合っているわけではなさそうだった。KさんとTさんの関係は僕には謎だった。僕自身は、Rちゃんに振られた後は、Tさんに好意以上の感情を持つようになってしまい、内面で葛藤が続いていた。

Tさんは当時の僕から見て「大人」で、クールで、何を考えているか掴めないところがあって、そこがまた神秘的で魅力的だった。一度好きだということを自覚してしまうと、寝ても覚めても頭からTさんのことが離れなくなった。それまでは煙草を吸う人が嫌いで仕方がなかったのに、彼女が煙草を吸う仕草にすら惹かれた。

Tさんとの接触を何とか続けるために、Tさんが働いている芸能事務所でバイトさせてもらったりもしたが、マネージメントの裏方の仕事がきつくて短期間で辞めてしまった。そんな不甲斐ない部分をTさんに見られたことに自己嫌悪に陥ったりもした。要するに「あるがまま」の自分は、『自我の終焉』(クリシュナムルティの著書)どころか、自意識の泥沼の中でひたすらあがいているだけだった。

そんなある日、Kさんが意外なことを口にした。

「実は僕はセミナーを辞めようと思っている」

Kさんはセミナー団体で重要な位置を占め、新メンバーの勧誘という活動に従事する一方で(彼はセミナー団体から報酬を受け取ってはいなかった)、個人的に瞑想などを実践していたという。が、本格的に修行するためには世俗的な生活を捨てて出家する必要があるというのだ(本当に出家するわけではなく、その位の覚悟をもって修行するということだ)。

僕はKさんがそこまで求道的なタイプだとは思っていなかった。Kさんは物事を突き詰めて考えるタイプなので、ある種の危険性も感じた。そもそも僕はKさんに「修行」することの無意味さをクリシュナムルティに倣って力説してきたのに、Kさんにはどうしても理解してもらえなかったようだ。

Kさんが「修行」するために加わったグループは、まもなく誇大妄想的な集団殺人計画を実行して日本中を揺るがせることになったカルト教団Aではなかった。

そのA教団については以前の「ぐるごっこ」でも書いた。教団幹部と長時間の論争をしたこともあるが、彼らの偏狭さや彼らの「グル」の卑俗な印象は僕に嫌悪感を抱かせただけだった。

Kさんが加わったのは、ある意味で、もっとコアでディープな集団であった。

つづく

(註)この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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◇評論

古谷栄一「錯覚自我説」について

高橋ヒロヤス

大正時代に、古谷栄一という人が「錯覚自我説」という興味深い論文を書いている、という話を知人から聞いた。どんなものかと思って、少しネットで調べてみても、ほとんど何も分からない。ダダイストの辻潤(辻まことの父親)が、古谷栄一の錯覚自我説について書いた文章が青空文庫で読める位だ。

そこではこう述べられている。

「錯覚自我説とはなにか?
 錯覚自我説とは人間の自我なる意識は万有者の持てる普遍意識で個体に現われた個体意識の錯覚だという説である。

 一切の存在は万有生命の惰性の表現である。宇宙は微分流動している。古谷栄一君の中に辻潤が存在し、辻潤は今これを書いている瞬間、かれの耳にしている蛙の音楽と交流している。かつてオランダの放浪哲学者はわれ等が太陽の子孫であることを説いてきかせた。人間の故郷は太陽であるという説である。かつてわれわれは太陽中に棲息していたことがあったともいえるのである。しかし、太陽は果して吾人の中に現に存在しているのである。」

「個体なるものはその如何なる個体でも本来が本当の個体ではないから本当の統一はない。一つの個体は無数の執意、無数の惰性の中心に過ぎない。ただその中の一つのものが偶然の事情で最も強い型式を獲得したので、他のものは亡びたのでなく、皆その下に雌伏(しふく)したのに過ぎぬ。それゆえ一朝事情が変ずれば勿ち雌伏したものは雄飛し、崛起(くっき)して第一のものを覆す。そうしてそれが調整する余地がなければその時に大抵個物は破壊される。個人は滅亡する。或は精神の破産となる。若し人間が真に永遠不滅な絶対統一的な強健な自我を持っているならこんなことはない筈である。が、自我はただ個人の存在の一追加物に過ぎない。個人が一時的事情によって自我的傾向を帯びたのである。

 個物、生物個体、これ等のものは本来一個とか二個とか一人とか二人とかいう数でかぞえられる存在ではない、数を超越した存在である。万有は一切が微分流動であるから海に立って水を数え、空に立って風を数えることの出来ぬように、形而上的には星を数え、魚を数えることが出来ない。ただ経験的に、方便的にある措定と仮定の上に立って数えるだけである。形而上的には一人の個人は一人でも二人でもなく、今や水の如く遍融無碍の流動在である。ただその流動が長い間の惰性によって一点を中心として緊縮せられたに過ぎぬ。死によらずんばこれ等何千万年の惰性を打砕して本然の微分流動に放化し、散却することが出来ぬ。が一度心眼を開いて黙想するならばこの縦鼻広目の活人そのままのかれを微分流動の中に放って数えることが出来る。要するに一の個人はただかれを中心として全宇宙の流動循環が浪打ち来るその一切の力の尖端における全宇宙の一表現、一仮現に過ぎない。それゆえ、個人はそのまま全宇宙である。」

国会図書館に行ってみた。
古谷栄一の名前で検索すると、彼の著作がヒットする。著作リストには、『循環論証の新世界観と錯覚自我説』や『人間の自我は錯覚』などの主著に混じって、『戦はずしてソ聯を倒す道 : 日独伊同盟の日迫る』、『天皇陛下の戦争御責任の有無 』などのような著書が挙げられている。
書籍自体はいずれも利用不可で、デジタルデータのみ閲覧できた。

『循環論証の新世界観と錯覚自我説』は400頁以上ある大著で、すべてをパソコンの画面で読み通すのは骨が折れるので、部分的に拾い読みしただけであったが、上に引用した辻潤による主張の要約は概ね適切だと思った。

古谷栄一の文章と論理は力強く、辻潤を敬服させただけの力を備えている。古谷は、自著を、当時誰もが知る哲学者として名を轟かせていた西田幾多郎氏らに贈呈したが、何の反応も得られなかったという。その理由は、古谷がその著書のまるまる一章を使って「純粋主観」や「純粋経験」という西田哲学のエッセンスを机上の空論として全否定していたことと無縁ではなかろう。

注目すべきは、彼は自己の思想を、西洋三千年の自我思想と東洋三千年の無我思想のいずれをも超克したものとみなしており、古谷栄一という肉体を通して時代が生み出した必然的産物であり、世界史の重要な転換点と考えていたことである。

彼の主張を些か意訳すれば、西洋は自我思想に基づいて工業産業文明を極限まで発達させ、そのインパクトは東洋(無我)思想を完全に凌駕するに至っている。しかし、西洋自我思想は、世界史的な必然として、その拠って立つ「自我」そのものが「錯覚」でしかないという認識に至る。これが人類の歴史における大きなターニング・ポイントとなる。

単なる「無我」を説くのではなく、「自我」を突きつめたところで、それが「錯覚」でしかないということを完膚なきまでにはっきりと示すこと。それが『循環論証の新世界観と錯覚自我説』の役割であり、その役割は世界史において日本が担っている。

このような自覚から、古谷栄一は戦中、政治的には国粋思想、天皇主義を掲げるに至ったのだろう。そして、このことが、彼の存在そのものが戦後日本において完全に否定され、ある意味で抹殺される要因ともなったのかもしれない…

と一時は納得しかけたが、あの哲学的大著の著者が、本当にウルトラ国粋主義者に変貌したのか(元々そうであったとは考えにくい)、という疑問が拭えなかったので、もう一度国会図書館に出かけ、古谷栄一について人名事典などで調べてみた。

結局何の情報も得られなかったが、もう一度ネットを検索してみると、古谷栄一という人物は、日本人の純血主義を危うくするという理由で、朝鮮における創氏改名政策に反対してアジビラを配ったり国会に陳情したりもしていたようだ。

さらに、国立公文書館には、大正7年に遼陽領事代理である古谷栄一に充てた外交文書が存在していることも分かった。

ダダイスト辻潤(アナーキスト大杉栄と伊藤野枝を巡る因縁を持つ)とも交友があった哲学者古谷栄一が『錯覚自我説』を出版したのは大正15年の事だから、この錯覚自我説の著者と、遼陽領事代理を務めていた外交官古谷栄一が同一人物とは考えにくい。外務省改革や日本の外交政策についての論文を書いたのは外交官古谷栄一であり、これは哲学者古谷栄一とは別人と考えるのが自然であろう。

そうなると、哲学者古谷栄一の生涯について、その多くは謎に包まれているというほかない。辻潤に感銘を与えたという『オイケン哲学の批難』という著書については、そもそも批難の対象とされているオイケン哲学なるものが不明である。大正12年には、『比喩的形象主義之世界文字論 概要』という本を私家版で出版し、反ローマ字主義を掲げて、自ら考案した「新世界文字」を人類共通の文字として普及させるべきと主張しているらしい。昭和6年(1931年)には、昭和農本主義運動の先駆けとなった「日本村治派同盟」の創立発起人として、武者小路実篤や辻潤らと共に名を連ねている。

大正14年(1925年)に辻潤が発刊した『虚無思想研究』という雑誌の第1号にも論文を寄稿しており、この雑誌には宮沢賢治も参加していたらしい。

今の日本には古谷栄一という名前を知る者はほとんどおらず、彼の「錯覚自我論」は歴史の彼方に永遠に忘却されようとしている。

しかし、彼の主張は、「潜態論」の小田切瑞穂博士や、「老子眼蔵」の無為隆彦氏にも通じるものがあり、わが国におけるユニークな「無我表現思想」として、今一度評価され直す必要があるのではないかという気がしている。

その第一歩は、彼の主著『循環論証の新世界観と錯覚自我説』の復刻・再刊であろう。

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◇評論 

★数子のマイナーカルチャー探訪「MUGAを探せ!」第7回

「戸川純」エロスとタトナス、自我と無我

土橋数子
俳句かい。
マイナーカルチャーから無我を探すこのコーナーもいよいよネタが尽きそうなので、いよいよ最終回かもしれない。80年代アンダーグランドカルチャーの香り漂うアーチストばかり取り上げて、自分で自分の守備範囲を狭くしていたが……。まあ、80年代カルチャーを語るなら、マイナーではないが、戸川純様は外せないだろう。
戸川純。子役として芸能界デビューし、ウォシュレットのCM、その他ドラマにも多数出演。ミュージシャンとしては、1982年に上野耕路とのユニット「ゲルニカ」でアルバムデビュー。「戸川純とヤプーズ」としてライブ活動を行い、1984年にソロでアルバム『玉姫様』を発売した。
知名度も高く、クオリティもご本人の志向も「メジャー」なのだが、その表現の深さゆえに「アンダーグランド」と形容されることが多かった。変化自在の天使の歌声、文学的な歌詞と独特のライブパフォーマンスで、80年代カルチャーシーンにおけるミューズ的存在。当時の自殺志願少女たちに泣いて寄り付かれていた。
独特の間をおいたしゃべり方が「わざとだ」などと揶揄されたり、確か「元祖不思議ちゃん」とも言われていたっけ? でも決してぽ〜っとした不思議ちゃんではなく、かなり思慮深い女性で、お若い頃は様々な偏見に苦しんでいた様子だ。不思議ちゃんとは、非凡な彼女に群がる平凡な人たちのことで、おそらく私もそのひとり。「純ちゃん、大好き!」な十代後半を生きていた。
ソロ・ファーストアルバムは、ヴェルベットアンダーグラウンドのファーストのアルバム(バナナ)と同様、捨て曲なしの名盤。中でも私がヘッドホンをかけて部屋の隅に座り込み、血沸き肉踊らせた一曲をご紹介しよう。

「諦念プシガンガ」(アルバム『玉姫様』より)
 空の彼方に浮かぶは雲  嗚呼我が恋愛の名において  
その暴虐の仕打ちさえ  もはやただ甘んじて許す 
 牛のように豚のように殺してもいい  いいのよ我一塊の肉塊なり

 空に消えゆくお昼のドン  嗚呼我が恋愛は終止せり 
 あの泥流の恩讐が  もはやただあとかたもなしや 
 愕然とする間もなく  腐敗し始める  我一塊の肉塊なり
(歌詞おわり)

 高校生は、タイトル冒頭から辞書引いたよ。「こんな言葉を知ってる、失恋をこんなに文学的(あるいは誇大妄想的)に表現できる純ちゃんってすごい」と思っていた。そのときは「諦念」を「諦めること」と解釈していたが、こうして何十年も経ってもこの曲をもう一度聴いてみると、その色あせない凄みに愕然とした。そして「諦念」については「真理を諦観する心」に寄った意味合いであると再確認した。
 
 戸川純の表現する歌からは、女性のエロスの探求、死の誘惑、自我の深層に向かってとことんまで進み、やがては崩壊するという、ドロドロとしたものに満ちているのだが、それは時に崇高な広い場所をイメージさせる瞬間がある。ファルセット(声の裏返り)の瞬間に光が見えたりする。
ドロドロは、エロスの深層のその先、自我の深層の先にあるものに向かっている。そこはおそらく無我の領域だと私は感じている。こうしたものをメジャー、つまり大衆表現として昇華していたことが凄いし、それを許容できた時代というものが、今とは違っていたのかもしれない。
 
 戸川純の哲学的探求が無我に帰結するか否かという以前に、戸川純の表現形式はかなり無我的だ。それは変化自在と言ってしまえばそれまでだが、これだけ自我を持て余していそうな本人像とは裏腹に、まったく自分というものを落とした「まな板の鯉」に徹しているからだ。アクセサリーを付け替えただけで、全身が変身を遂げることができる人。
ファッションや役柄もそうだが、パブリックイメージも変化自在。80年代当時、玄人音楽雑誌ではブリジットフォンテーヌを語り、メジャー誌ではチェッカーズと対談し、文芸誌では太宰治を語り、映画誌ではジュリエッタマシーナを語り、朝日ジャーナルでは「右翼的の父の影響で道路を左に曲がれなかった」というエピソードを披露し、女性週刊誌では恋多き私生活を暴露され、ロリータ趣味の雑誌ではお姫様扱いされていた。まあ、根っからの役者なのだろう。

戸川純はバブル華やかりし80年代の混沌とした文化を体現していた。当時も戸川純の天才性を賛美する人は多く、十分評価されていた。しかし、いま彼女はいわゆるメジャーシーンには居ない。
 80年代の終焉からほどなくしてバブルは崩壊し、人々の生活にも重く苦しいものが徐々にのしかかってきた。聴く歌くらい、明るいメッセージを求めたのだろうか。あまりディープなものは受け入れられなくなったのかもしれない。戸川純も妹さんが亡くなる、体調不良が続くなど、実生活でさまざまな苦難に見舞われていたようだ。

ならば、「時代に咲いた徒花」だったのだろうか。いや徒花も咲くだけ見事なのではあるが……。
 
戸川純は、時代を体現しつつ、やはり先を行き過ぎていたのだと私は思っている。ミュージシャンや俳優に彼女をリスペクトしている人は多いし。近年はライブに足を運んでいないのだが、観てきた人の話によると、体調も徐々に取り戻して、活動もコンスタントに続けているとのことだ。

写真集『戸川純JUNTOGAWAASONLYALUMPOFMEAT』に次のような文章がある。
 
「生命」
死と直面した刹那、人は生を生々しく実感する。
突然、自分に向かってとび出してきた車に
「死にたくない」と瞬間的に本能が反応する。
また、意識的に死と正面きって向かい合った時、急に五感が冴える。
鳥の声、車の音、心臓の鼓動、吸う息、吐く息、木々の緑色の鮮やか。
目もつぶれんばかりの陽の光。

(引用おわり)

 私はもう「純ちゃん」に依存する少女ではないし、ファンとしても随分遠ざかっていたが、これからの活動を楽しみにしたいと思っている。体を大切にして長生きして欲しい。そして、すごいおばあちゃんになって、確固たる再評価を得て(美輪様みたいに!)、自我崩壊の先にあった無我を表現してくれるのではないかと思っている。

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◇エッセイ

潜態論と老子をつなぐもの   ティモ伯爵
 
新しい科学【潜態論】

世界は何ゆえに存在しているのか?
私はなぜ生きているのか?
生きる目的は何なのか?
この問いかけは人類の大きなテーマである事は言うまでもない。
今この現代に於いてもそれは変わらないと思う。そしてこれからもその問いは人類の前に立ちはだかり続けるだろう。
しかし、この問題に真正面から向き合った科学者がいた。小田切瑞穂博士だ。
この神からのテストに対する小田切博士からの解答、それが潜態論である。

まず、潜態論というものがあるのは分かるが、その”潜態“とは一体何なのか。聞きなれない言葉だ。
以下、河野龍路氏著/態論入門を元に、引用及び考察してみたいと思う。

「科学の教える自然界の姿は、ありのままの自然のあり方を伝えてはいない。
人間の感覚器官あるいはその延長としての観測機器から得られた情報をもとに描き出される客観的な自然界の姿は、それをもたらした自然そのものとは異なるということです。
そして、私たちが共有している科学的自然観の奥には、その原因となる本質的状態が潜んでおり、それを把握しなければ本当の自然を知ることはできない。その隠れた本質的状態のことを【潜態】といい、そこから自然のありのままの姿を考察している学問、それが潜態論です。」

私は、この部分を読んで衝撃を受けた。現代科学はありのままの自然のあり方を伝えていないというのだ。現代科学では、素粒子を初め次々と現象の正体が解明されつつある。
しかし、潜態論によると、現象には本質的状態というものが潜んでおり、それを把握しなければ本当の自然、つまり科学が解明しようとしている現象の謎の究明、把握は出来ないというのである。
もし、これが真実だとしたら、凄い発見だと思う。
しかも、それを具体的に科学でもって明らかにしている点が潜態論の魅力である。
また、現代科学の態度である、客観的に現象を観察し、観測し、そこから物事の本質を追及していくという姿勢、この根本的な姿勢がそもそも間違いだと小田切博士は批判している点も注目すべきだと思う。
客観的だと思っていたものが、実は人間の主観である、と。科学において一つの現象に対して諸説あるのもその為だと言うのだ。
今の時代、科学というものは無くてはならない存在となっている。
人間の生活のあらゆる面において多大な影響を与えている事は明白だ。
科学のおかげで人間は物質的な豊かさを享受し、煩わしい事からも解放されてきた。
例えば【科学的に証明されている】というキーワードは人々を安心させる。一つの心の拠り所とさえなっている。そのくらい科学というものは人々から今も熱烈な信頼を寄せられていると言えよう。
一度振り返ってみたい。一方でこの度の東日本大震災における福島の原発事故が起き、取り返しのつかない事態となっているし、核兵器なんかも科学が生み出しものだろう。
今も次々と人を殺す為の兵器が開発されているし、物質的な豊かさや快適さの一方で科学の持つ負の部分はあまりにも大きい。人々の生活を豊かにする一方で、自然を破壊し、巡り巡って人間自身の生活に多大な悪影響を及ぼす始末となっている。
しかしながら、科学的方法論そのものに疑いを持つという事を、私の知る限りだと誰も行っていない。なぜこういった問題が起きているのか。それは、潜態論の言う自然本来のあり方とは違う方向に進んでいるからではないか、、そんな気もするのだ。
潜態論は、その科学的方法論そのものを批判し、根本的に書き改めた試みなのだ。

潜態論の科学態度と、現代科学の態度の違いと言うのを理解不足ながら私なりにまとめてみると次の様になると思う。

【潜態論】
現象を個として観察し、断片化して捉えない。
現象には人間の感覚器官や観察では捉えることの出来ない本質的状態、つまり【潜態】があり、そこから自然を考察していくという姿勢。

【現代科学】

現象を個として捉え、客観的に観察し、観測していき、分析し、そこから現象を解明し本質を追及していくという姿勢。
例えば、ここに一輪の花がある。そして、その花の色を分析して解明していくとするならば次の様になる。
花の色→色素→分子→原子→素粒子…といった具合だ。

単純な解釈で恐縮だが、このように見ていくと、根本的な発想の仕方が異なる事がわかる。
どちらが正しいかとか、優れているか等といった問題は私の及ぶ範囲では無いので、ここでは触れない。
ここで改めて見直してみたいのは、現象論的科学というものの姿勢だ。
一見、本質をどんどん追及しているように感じられるが、現象である【花の色】もより小さい【原子】や【素粒子】も結局は全て同じ現象だ。
従って、本質を追及しているはずがただ単に現象をこと細かく見ているに過ぎない事が分かってしまう。
「科学的説明とは、それらの現象を合理的につなぎあわせる事によって、より小さな方をたんなる現象ではなく本質とするところにあります。本来現象であるべきものを本質と見なすこの過程は人間の恣意的な判断です。恣意的とは人間の主観的な人間の創作ということですから、この段階で科学は、自然のありのままの姿を歪めるとともに、現象をもたらした本質(本当の原因)を覆い隠してしまうことになります。この、現象をもって現象を説明する科学のあり方を小田切は、批判的な意味を込めて“現象論的科学”と呼びました。」
この現象論的科学で歪められ、覆い隠されてしまった自然の本質である“潜態”。
これを明らかにして論じていく潜態論。ここに潜態論の可能性を改めて感じる。

その昔、科学は本質を追及する為に生まれた。科学は、芸術や思想、音楽と密接に結びついており、現代の様に明確な線引き、区分けが無かったのだと思う。
例えば、ゲーテやレオナルド・ダ・ヴィンチなどはそうだろう。
しかし、今現代に於いて、つながっていたはずの科学が、断片化し、大きく分けて人文科学と自然科学に分かれてしまっている。
よく、宗教と科学の対立が取り上げられたり、宗教と科学の統合を目指す取り組みがあったりするが、元々結びついていたものがいつの間にか対立してしまっているのではないか。
いくら歩み寄っても、出発点が違う、本質が違うのであればいつまでも対立する。
しかしながら、生と死を分けて考える事は出来ないように、自然科学と人文科学もまた本来分けられるものではないはずだ。

「自然科学は人文科学という枝葉を繁らせ、人文科学は自然科学という根っこを張っていなければならないと思うのです。同じく人間から発せられるものであるならば、大地に根ざした大樹のようにひとつであってはじめて健全なあり方だと考えられるからです。」

バラバラになっているものが、本来は一つのものから、つまり潜態論で言うと“潜態”から派生していなければならない。
潜態論はそんな事も教えてくれる。

・老子との共通性
驚くべき事に、東洋的叡智の結晶とでも言うべき老子と潜態論には共通点があるように思うので紹介してみたい。
それは、目に見える現象の奥に隠れた本質があるということ。
老子で言えば無為のはたらきであり、潜態論で言えば潜態だ。
姿なき姿の持ち主という言葉で両者は同じ事を言っている。
無の為たらき無しにはこの世界は成り立たない。無(潜態)を現象界以前、有をこの世界の現象界と名づけるわけだ。

老子の第一章に注目してみる。
「道可道不常道」

「道の道たるべき即ちほんとうの道というものは、常ざるの道ではない、絶対不変の固定した道ではないというのである。
道というものは、時々刻々千変万化して生成発展しているものであって、決して固定した恒常的な道というものがあるのではない。このことを老子はまず第一に喝破したのである。
それなら何故彼はこれを喝破しなければならなかったか?道なるものを恒常不変なものに考える思想があったからである。否、今もなおこの思想はなくなっていない。
真に倚るべきの道、絶対不変の道、そういうものが何処かにある、あらねばならぬ、という考えは洋の東西を問わず、時の古今を論ぜず人間の心の中にある一つの本能的な迷いである。この迷いを老子は我らに教える為にこの道可道非常道の語を先ず与えているのである。」無為隆彦氏著/老子眼蔵より引用

絶対不変な道というものはない。常に変化している。
変化する為には、固定的なもの、絶対変わらないもの、本体なるものがあるとなると矛盾が生じてしまう
老子は思想に於いて生きることを徹底的に否定した。
それはつまり、絶対的なものを求める事を否定したのである。

潜態論だと、現象そのものの性質や下位の現象を求めても、結局は現象であり、そこに本質は無い。見出すことは出来ないとある。
科学における本質追及と、絶対を求めるあらゆる思想などは同じ動機から出発しているのではないか。本質追及と、絶対を求める心は同じ人間の恣意的な判断あり、主観的な判断から来ているのだとしたら。
老子は、それを人間の浅ましい知性の本質的な弱さから来る迷いであり、思想において生きることを否定した。
潜態論に於いては、現象の本体などは存在しない、と説明する。
上手く説明できないが、ここに潜態論との共通点がある様に思うのだ。
自然本来の姿を見て観察していたはずが、実は人間の主観でもって判断し、解釈していて、それがいつの間にか歩むべき道を踏み外し、迷い出し、今の時代の様な様々な問題が起きているのだとしたら。もう一度、道を見つめ直し原点に帰り、修正する必要があるのは明白だ。
そこで、この潜態論というものが、道を修正し、これからの時代を生きていく上で必要なものになってくるのではないかと思うのだ。
また、本質の追及というものが潜態論では終わっていて、いわばその先の、終わった先の科学、一歩先の世界観というものを提示しているんじゃないかと思う。
現代の西洋科学では目的であるものが、潜態論では出発点になっているということ。
これが凄い。その出発点から科学していったものが潜態論であると言えるのかもしれない。
小田切博士は、原発について悪魔の産物だと強く批判していた。自然本来の姿から離れた科学の最たるものが原発だと。
それでどうなったかと言うと、先にも述べた様に東日本大震災が起き、福島の原発問題が起きたのである。
現在、今までと違った価値観、思想が求められている。これからの時代に必要なのはどういうものだろうか、と考える。
そこで、この潜態論を一つの可能性として、私は注目している。今の時代に必要とされているものだと思う。これを埋もれさせてはいけない。
潜態論的な捉え方、考え方だけでも価値があると私は感じている。色んな事に応用が効きそうだ。
私は、科学的な素養が無い人間なので、この潜態論がどこまで正しいのかというのは分からない。
しかし、この潜態論が、本当に自然本来の姿を映し出す鏡であるのだとしたら、この行き詰った時代に於いて認められるのは時間の問題なのではないか。
小田切博士はこう言う。「もし、誰かがそれを行わなければ、科学は永遠に現象の外にとどまり、事物の内面、すなわち自然の本質に迫ることが出来ないだろうと考えた」

以上、自分なりに考察してみた次第である。

尚、私が紹介したのは潜態論のほんの基礎の部分であり、極々一部である。

この潜態論の可能性、面白さに少しでも興味を持っていただけたら幸いだ。

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★編集後記
◎今年も日本は激動の一年だったのではないでしょうか? 東日本大震災と原発事故の傷も癒えぬままオリンピックが決まり、秘密保護法案が通り、原発も推進とどんどん危うい方向へとこの国は進んでいる気がしてなりません。前向きだけがいいのではありません。2011年の大きなターニングポイント(自然的、無我的価値観へのシフト)を見過ごし、なかったことにしてしまう流れだけは避けなくてはならないと思う今日この頃です。(那智)

◎身近な芸能から高峻な芸術まで、そして座談会の交流の輪をもって、今年のMUGAの誌面は去年にまして一層鮮やかに彩られたことと思います。MUGAの発展は那智さんの尽力のたまものであり敏腕参謀の高橋さんのおかげであります。
 私は書くことを重ねて稚拙のうちにも、詩について自然について何か学び得られたように思います。今年も大変お世話になりました。 
 来年も無我表現の必要性から点ずる目からウロコの発見をいっぱい刊行されますことを、悠々とMUGAコミュニティの広がっていきますことを期待いたしております。(rita)

◎「3号雑誌」などとよく言われますが、MUGAは、メルマガとはいえ、30号一歩手前の29号を発行し、3度目の年越しをすることができました。
私は毎号好き勝手な雑文を書き散らして送るだけのことしかしていません。ここまで続いているのは那智編集長の献身の賜です。このような持続的努力から、やがて真に新しいものが誕生するのだという予感がしています。それがどんなものかはまだ見当もつきませんが。
今後も読んでいただけたら嬉しいです。(高橋ヒロヤス)

メルマガのバックナンバーを集めた特集号第4巻(試行版)を作ってみました。
以下のアドレスから読んでみて下さい。
http://p.booklog.jp/book/79359/read

ちなみにこれまでの特集号のアドレスも挙げておきます。
(タブレット端末をお持ちの方は、ePub形式でダウンロードすると読みやすいです。)

第1巻(MUGA第1号〜第5号)
http://p.booklog.jp/book/69613/read

第2巻(MUGA第6号〜第10号)
http://p.booklog.jp/book/69885/read

第3巻(MUGA第11号〜第15号)
http://p.booklog.jp/book/71064/read

第4巻(MUGA第16号〜第20号)
http://p.booklog.jp/book/79359/read

◎今年の後半から執筆をさせていただきました。稚拙な文章をお読みいただき、誠にありがとうございました。なにかツッコミがございましたら、どしどしお寄せください。来年からは新たな切り口で無我表現を探求し、そして原稿が遅れないように、がんばりたいと思います。私自身の生き方も、いろいろなものを削ぎ落として精進していきたいです。(土)


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創刊日:2011-08-08  
最終発行日:  
発行周期:月刊  
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