芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第24号

2013/07/15

MUGA 第24号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇アート

・詩

『季節の詩』     rita

◇評論

・無我的観照第9回

 映画『桐島、部活やめるってよ』吉田大八監督 2012年 
 
 物語なき世界における愛の可能性 那智タケシ


・伊福部隆彦著『老子眼蔵』復刊を望む

高橋ヒロヤス

・「あまちゃん」に観る無我と自我

高橋ヒロヤス

★数子のマイナーカルチャー探訪「MUGAを探せ!」第2回
「すきすきスウィッチ」のすき間的無我

土橋数子
                                   
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◇アート

★詩

季節の詩     rita 

  【・ひるがお・】   

頭上を離れてゆく大きな雲 
足もとに茂る小さなひるがお 
  
天と地と理想と現実 
  
運命に身を委ねたい彼と 
絆を確かめたい彼女 
  
それらを見つめる僕 
それらを繋ぎとめたい僕の 
眼差しの行方を気づかって 
風が添い過ぎる 
  
双方歩み寄れるかしら 
  
明るい方へ流れていくような気がするよ 

 
  【・ササユリ・】 
  
線路を沿うて自転車は走る 
日射しの狂喜と 
草いきれの怒涛の中で 
ぼくの視界にたびたび入る 
ササユリの白い花 
  
ササユリは 
嵐に荒れ狂う高波より 
そっと顔を出し 
外界の様子をうかがっている 
愛らしい人魚のよう 
  
夏になりたての径は 
だれかれ構わず執拗に威圧するの 
萎えた気分で如何せん行き過ぎていたら 
  
ササユリは 
ぼくのところどころに 
小さな穴をあけていき 
くたぶれの体を 
生き生きと蘇らせた 
ひんやりと碧海が広がっていった 
  
しなやかな人魚の尾に引き寄せられるように 
安らかな境地の果てに 
ぼくは解き放たれていた 
  

  【・朝 露・】 
  
太陽が近づくにつれ 
闇夜の腹より色は吐き出された 
色は太陽の膝元へと戻っていったよ 
  
朝、万物の歓喜のふ頭に立って 
胸をツンと張っているのは誰? 
その胸に息を潜める昨夜の静寂の奥 
天地の歌声がこだまする 

光に照らされて銀色に輝くあなたは 
誰の涙となってポロポロと 
太陽の前に姿をあらわすの? 
  
強大となった彼の汽笛が鳴り渡る 
黎明を希求した涙は溢れ出す 
訪れたこの時を朝露となって愛しているの   

鳥のさえずりに人や犬の足音がはじまると 
朝露は喜びもつかの間に 
一節一節その鼓動を閉じていった 
  
昼の営みへ移り変わるリズムに 
流れて消えゆくはかないきらめきよ 
 
 
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◇評論

・無我的観照第9回
 
 物語なき世界における愛の可能性
                      那智タケシ

 映画『桐島、部活やめるってよ』吉田大八監督 2012年 

 レンタルビデオ屋で何気なく借りたDVDだったが、久々に映画的カタルシスを味わうことができた。正直、現代の商業主義に毒された映画業界で、これほどの作品に出会えるとは思ってもみなかった。ありがちな青春映画だろう、などと油断していたので、ふいを突かれて驚愕したほどである。近年のメジャーな邦画でこれほどのクオリティのものはまず見当たらないのではないか、とさえ思えた。感動だった。(以下、ネタバレ的要素満載です)

 一度見て、その作品構成のすばらしさや、絶妙な間と自然な言葉遣いを重視したべとつかない演出、映画部のイケてない部長役の神木隆之介の演技の上手さに笑ってしまうほどに感動したが、二回目に見た時は、泣いてしまった。お涙ちょうだいのエモーショナルな演出や雰囲気に泣いたのではなく(その点、この映画はひどくストイックであり、青春物語を期待すると裏切られる)、その作品構成の見事さ、最終的にたどり着いた場所の高さに素直に感動してしまったのだ。朝井リョウの原作は後から読んだが、テーマ、内容共にまったく別物の作品として考えるべきだと思った。正直、この映画は原作をはるかに凌駕した高みに到達してしまっている。言わば、ヒューマンな青春物語を超え、構造主義も超え、ポストモダンも超え、新たな時代の神話を予感させることに成功した奇跡の作品が、この映画「桐島、部活やめるってよ」なのだ(褒めすぎかな?)。

 小説では、桐島というバレー部のキャプテン(イケメンで何でもできる万能型)が部活を辞めたことによって生まれた波紋の下、バレー部の仲間や、彼女、友人、全然関係ない映画部のイケてない級友等、「クラスカースト」と表現された様々な階層の高校生たちの心の揺れ動く様を、様々な角度から繊細に描写した作品である。文学的な評価はともかく、エンターテイメント作品としては、執筆当時、19歳だったという作者の等身大の言葉使いや、リズム、描写、テーマ等が評価された作品で、十分に楽しめる青春群像劇になっている。

 しかし、この映画版「桐島、部活やめるってよ」においては、「青春」や、「クラスカースト」や、劣等感等の「コンプレックス」は直接的なテーマにはなっていない。むしろ、トラウマ的な背景は意識的にショートカットされ、あるいはまったく画面から排除され、微妙で、表面的な少年たちのやり取りのみが映し出される。そう、この監督は極めて意識的に、自分の撮るべきものだけを選んで撮っている。

 桐島という、言わばクラスカーストの頂点にいる人物が、突然、部活をやめて、学校にも来なくなる。そこから混乱が生まれるというストーリーは同じだが、それら全体を一貫して流れる「物語」というものが、この映画では徹底的に欠如しているのだ。学校全体、社会全体を一つの大きな物語として成り立たせていたはずの「桐島」が突然、消えることによって、「クラスカースト」も、彼らが信じていた青春物語も消えうせてしまう。残ったのは、輪切りにされ、分断され、一つの形をなさない投げ出された大根のようなものである。

 大根の輪切りには、もはや上も下もなく、それぞれの階層の間には交流も、共感もない。コスメと恋愛に意味を見出す派手なイケてるグループ、熱血の運動部、独自な一体感のある吹奏楽部、根暗でイケてないゾンビ映画を撮る映画部――おそらく、桐島という運動も恋愛もできる頂点がいた世界では、カースト制度のようにこれらの序列がくっつき、重なり合い、一つの大根として成り立っていたことだろう。しかし、桐島がいなくなったとたん、劣等感と優越感もほとんどが消えうせ、あるのは他の階層に対する無関心と相手の存在の徹底した排除でしかない。

 ここに上の階層へのコンプレックスや、エゴの揺れ動き、青春物語への憧れを丹念に描き出した小説との決定的な違いがある。映画においては、この監督は意識的にカースト制度それ自体を解体してしまったのである。言わば、いくつかの輪切りにされた大根が転がっていて、彼らは、その世界においてどのように生きたらわからなくなっている。そこには人間存在の不安と混沌があり、虚無から逃れる衝動があり、実存主義的曖昧さがあり、僅かながら解体された後に生まれるであろう、真の愛への可能性がある。

 桐島は、言わばひとつの安定した世界を成り立たせる「モダン」の象徴であり、物語のちょうつがいであり、意味ある世界の神である。とりわけ、カースト制度の上位にいる生徒たちにとって、彼はいなくてはならない存在である。それゆえに、桐島が何の前触れもなく部活をやめ、学校にも来なくなり、一切の連絡を拒否して消えてしまった瞬間から、彼らの不安が始まる。彼らは、桐島の存在を追い求めるが、捕まえることができない。敏感な観客は、早い段階であることに気づくだろう。ネタバレになるが、そう、桐島はこの映画に現れないのである。最初から最後まで(桐島のような存在が遠景から僅かに目撃されるだけである)。

 この世界の意味を成り立たせるキーマンがいなくなった時、すべての階層は等価的な存在として画面に現れ出る。キモくて、軟弱な文科系の生徒たちもまた、一つのミクロコスモスとして意味ある存在として描かれる。彼らは、決して運動部や、モテる男女たちの下にいるのではない。運動部や、桐島の彼女といったカーストの上位たちが熱血に桐島を探し回っているさなか、教室の隅で映画部は「昨日、スクリーム3見たんだけど、2の方がいいね」などと話している。彼らにとっては、桐島の失踪は関係がない。彼らはただ、ゾンビ映画を撮ることに夢中なのだ。そして、この映画では、その等価性と交流の欠如を極めて意識的に観客に提示する。

 学園内でゾンビ映画を撮る彼らを、運動部や吹奏楽部の生徒たちは、「何あれ?」と嘲笑う。映画部は、同じクラスメイトでありながら、名前で呼ばれることさえない。「あれ」である。しかし、恋愛グループと運動部の間でも、桐島の代役となったリベロを「ちび」と呼ぶような無関心がある。しかし、二つの層にまたがる存在も僅かながらいる。「ちび」を好ましいと思っている恋愛グループと運動部両方に属する女子は、この発言に違和感を持ち、反発する。そう、この違和感こそがこの階層をつなぐ手がかりとなる。

 他の階層を人とも思わないような態度に違和感を覚え、仲間から疎外されるリスクを犯しながらも反発する勇気ある生徒たち――それは別の階層の中に、気になる異性がいる場合のみに限られているが、それもまた一つの愛の発露であるには違いない。しかし、その関心もまた、全体を包み込むものにはなりえず、僅かなきらめきとして留まるのみである(このきらめきこそが青春映画の肝であり、その点、この映画も十分にきらめいている。神木隆之介や橋本愛のデリケートな演技のなんとすばらしいことだろう!)。

 この映画には、小説にはない素敵なクライマックスがある。屋上で特殊メイクをした映画部がゾンビ映画を撮っているところに、「桐島を見かけた」という情報を元に、バレー部の生徒や、桐島の彼女、友人たちが一度に押しかけてくる。一同、全員集合である。現場は荒らされ、撮影は中断される。運動部の男は「桐島、いねえじゃねえかよ!」と怒鳴り、張りぼての隕石を蹴飛ばす。女子たちはゾンビに扮した映画部を見て「何、こいつら、キモい」というリアクションで笑っている。その瞬間、映画部の部長の前田(神木)の心境を慮っているのは、中学時代の同級生で、僅かに映画を通した交流があるかすみ(橋本愛)だけであった。

 現場を荒らすだけ荒らし、桐島がいないとわかると、さっさと帰ろうとした彼らに、普段、内向的な前田が叫ぶ。

「謝れ! 俺たちに謝れ!」

 バレー部の男は、意外に思って立ち止まる。彼にとっては、桐島の不在という事実だけがそこにあった。彼の青春物語には、映画部など存在しなかったのだ。彼にとって、物語の外にいる映画部は、おかしなことをやってる変なやつら、というだけのことだったろう。言わば、書割のような背景にすぎない。撮影を邪魔されたことを謝るように詰め寄られると、彼は、「こっちはこっちでぎりぎりなんだよ」と切れるが、前田は「俺たちの隕石を蹴っとばしてもいいのか」と詰め寄る。ゾンビの格好をした根暗な映画部員も「謝れ!」の大合唱になる。

「何だよ、桐島いねえし、おかしいのにからまれるし」これが彼の本音である。

「おまえらの方がおかしいじゃないか!」前田は切れる。

 ここから運動部、帰宅部、映画部がもみ合いの乱闘になる。前田はここで8ミリカメラを片手に、「こいつら全部、食い殺せ、ドキュメントタッチでいくんだよ!」とゾンビに襲いかかるように指示する。そう、この混乱をそのまま映画にしてしまおうとしたのだ。

 彼の脳内妄想では、バレー部の男たちが、イケてる男女が、ゾンビに食い殺されている。密かに思い続けてきた橋本愛もゾンビに食いちぎられ、血を吹いて倒れる。ここにおいて、混乱は映画的フォルムの中に昇華される。何一つ信じるべきものがない、設計図もない、混沌とした世界で、彼は映画表現への可能性にすべてを託したのだ。混沌を混沌のままに映し出し、一切を破壊して新たな物語を生み出すであろうフィルムの力に賭けたのだ。もちろん、それは現実となりえず、残されたのはぼろぼろに痛めつけられた映画部員と、壊れた機材があるだけであった。

 うなだれる映画部だけが取り残された荒涼とした屋上で、彼らは台詞のチェックをする。ここで、この映画を見た者なら、誰もが感動するであろう、象徴的な台詞が繰り返される。

「戦おう、ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」

 前田は、役者にこの台詞を言い聞かせながら、「覚えておいてよ」と念を押す。

 この神なき世界、愛の消えうせた世界において、虐げられ、バカにされ、無視されながらも、「それでも、俺たちはこの世界で生きていかなければならない」という決意表明、そして表現への信仰というものが、ここではっきりと提示される。この世界に答えも救いなんてないのかもしれない。それでも、俺たちはここで生きていかなければならない。何と言うストイックな響きを持つ台詞だろうか。しかも、これは彼らが撮っているB級ゾンビ映画のちょっとした台詞なのである。

 実は、サブストーリーとして、失恋した吹奏楽部の少女が、演奏の中で自らの喪失感を昇華していく様が平行して描かれているのだが(屋上のシーンにこの音楽が鳴り響いているのが上手い)、ここに芸術というものへの作り手の信頼、祈りが見て取れるのである。

 この大団円だけでも、十分に映画的カタルシスを得ることができたのだが、驚くべきことに、この映画はここで終わらない。もう一つ、表現への信仰を超えた現実世界における愛の可能性が提示される。それがこの映画を「奇跡」とでも言いたくなるような高みへと押し上げているのだ。

 菊池宏樹(東出昌大)という生徒がいる。彼は野球部に所属していながら、ほとんど試合にも練習にも出ておらず、帰宅部と遊んでいる。かわいい彼女もいる。背が高く、イケメンで、バスケでもサッカーでも、どんなスポーツも万能である。野球部の先輩である部長からも「試合だけ出てくれないか」と低姿勢で頼まれている。つまり、クラスカーストの最上位にいる、何でもできる存在。彼は、桐島のシャドウのような存在である。しかし桐島がいなくなった時、何でもできる自分は、何にも本気になれない、無意味な存在に墜落してしまう。実体のない、影になってしまう。

 彼は、それまで眼中になかった野球部の部長が夜中に一人、素振りをしているところを目撃すると、こそこそと隠れるようになる。楽しい高校生活を気ままに謳歌していたはずの彼が、いつの間にか虚無を感じている。そして、屋上での混乱の場から、仲間と立ち去ろうとする時、ふと8ミリカメラの部品を拾い上げた彼は、仲間に背を向けると、一人、前田の下へ向かう。彼には、これまで眼中になかった映画部の生徒たちが輝いて見える。本気で何かに向き合い、負けるとわかっていても戦った彼らに興味を持って、彼は初めて歩み寄る。そして、前田の肩を叩く。

「落ちてた」

 カーストの最上位者にやさしく話しかけられた前田は、どぎまぎした様子で礼を言う。そして8ミリカメラに興味を持った菊池に、その良さを喜んで話す。前田もまた、これまで話したことさえない雲の上の存在に話しかけられたことが嬉しかったのだ。8ミリカメラを手にした菊池は、相手にファインダーを向け、「将来は映画監督ですか?」「女優と結婚ですか?」とふざけた調子で聞く。「アカデミー賞ですか?」前田は少し考えたあげく、

「うーん、でも、それはないかな」と寂しげな口調でつぶやく。

「えっ?」と菊池は戸惑う。

「映画監督は、無理」

「じゃあ、なんでこんな汚いカメラで映画を?」

「うーん、でも時々ね、俺たちが好きな映画と、今、自分たちが撮っている映画がつながっているんだなと思う時があって、ほんとにたまになんだよ、たまになんだけど、へへへ」

 その言葉の真摯さにショックを受けた菊池が呆然と突っ立っていると、前田は8ミリを取り返し、相手にファインダーを向き返す。カメラを覗きながら、前田はつぶやく。

「やっぱ格好いいね」

「えっ?」

「格好いい」

 ここで、一つの奇跡が起こる。菊池は、「いいよ」とつぶやく。「俺はいいって」と言って、顔をゆがませ、ファインダーの中で泣き出しそうになるのだ。

 これまでの物語世界の頂点にいた男が、最下層にいたとされる男の前で、突然、顔をゆがませて泣き出しかける。前田は「大丈夫?」と心配する。ここにこれまでの競争社会がもたらした資本主義を超え、人間世界を安定していたものにしていた構造主義的世界観を超え、意味を喪失し、相対主義に陥ったポストモダンをも超え、階層をつなげ、円環させる愛の可能性が顕現する。高き者が低き者になり、それを認めることによって、彼らはほんの僅かながら新たな関係性を持ちえたのである。頂点にいた彼が、最下層にいるとされていた者に頭を垂れることで。

今、新たな神話が生まれようとしている。

 屋上を去った菊池は、桐島に電話をかける。ここで映画は終わる。おそらく、菊池は桐島に新たな世界を見たことを伝えたかったのだ。自分たちが安住していた物語世界は崩壊し、消えうせようとしている。しかし、その幻想に留まっていてはいけない。一切が崩れゆく世界においてさえ、再び人はつながり合い、関係し合うことができるということを。理解し合い、愛し合うこともできるのだということを。彼は、自らを低くすることでこの世界に再びつながる可能性を手に入れたのだ。それはまだ、ほんの僅かな可能性にすぎないが。
 
 現実は、そんなに簡単に変わらないのかもしれない。今日の気づきは、明日の希望にはならないのかもしれない。戦争も、飢餓も、汚職も、虐待も、人間の一切の悲劇と愚かしさは、いつまで経ってもなくならないかもしれない。おそらく、世界は、簡単に救われることはないだろう。それでも、

「俺たちはこの世界で生きていかなければならない」

 愛なき世界における新たな愛の曙光。何という映画的カタルシスだろうか。

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◇評論

伊福部隆彦著『老子眼蔵』復刊を望む

高橋ヒロヤス

MUGA執筆陣に新しく加わっていただいた土橋数子さんの親戚が伊福部隆彦氏のお弟子さんだったというご縁で、今では絶版となっておりアマゾンの古本市場では数万円の値がつけられている貴重な書、伊福部隆彦著『老子眼蔵』をお貸しいただいた。
その内容に、非常に感銘を受けた。
老子の教えは、素晴らしいことは直観できても、これまで読んだ邦訳では、どれもいまひとつピンと来なかったのだが、この『老子眼蔵』の冒頭部分を読んだだけで、初めて腑に落ちた気がした。
自分が伊福部隆彦氏の名前を知ったのは、以前「ぐるごっこ」などの記事でも触れたことのある、ダンテス・ダイジというヨガ行者兼禅師が、自らの師として伊福部隆彦氏の名前を筆頭に挙げていたからである。
彼は『老子狂言』という自著を伊福部氏に捧げ、序文に次のように書いている。

(以下、ダンテス・ダイジ『老子狂言』序より引用はじめ)
老子の体得者 無為隆彦先生について

無為隆彦先生は、本名は伊福部隆彦という。
40何歳かの年に、1年間の本当に正直な生活行為と、「老子道徳経」との体読により突如、タオを悟る。
以後、曹洞禅に参じ、老子のタオと道元の名づけた仏教とのまったき同一なるを参禅弁道により悟了す。
その教えの中心は、その時々に変化していく自己の義務すなわち「名」を徹底的に生き切るという、一切のものに対する報恩感謝の生活道にあった。
ヨーガで名づけるところのカルマ・ヨーガである。
この無為隆彦師との出会いなくして、現在の私の冥想はあり得ない。
(引用おわり)

力不足であることは自覚しつつ、『老子眼蔵』の内容について、自分の限られた理解力の及ぶ範囲で触れてみたい。

◎老子出現の眼目
 伊福部氏によれば、老子ほど誤解されている人物はいない。その書は、東洋無政府主義の書あるいは隠遁者の指南書であるように見られたり、または虚無思想、ひどい場合は功利主義等のレッテルを貼られることが多い。これらの誤解は主に、第1章の有名な「道可道非常道」という語句の誤読に由来するという。
 従来、この語句は「道の道とす可べきは常道に非ず」と読まれ、その意味は「語ることができる道は、常道(真の道)ではない」、すなわち「常道(常に変わることのない恒常的な道)は存在するが、それを語り尽くすことはできない」という風に解釈されている。
 しかし、『老子眼蔵』ではこれを「道の道たる可きは常(かわらざる)の道に非ず」と読む。その意味は、「道というものは時々刻々千変万化して生成発展しているものであって、決して固定した恒常的な道というものがあるのではない」ということである。
 伊福部氏によれば、老子出現の眼目は、「思想によって生きるということの否定」にある。つまり、固定した特定のイデオロギーや観念に基づいて生きることによっては時々刻々千変万化して生成発展している「道」(「リアリティ」と言ってもよいのではないかと思う)を生きることはできないといったのである。

(以下『老子眼蔵』より引用はじめ)
無為に生きようとするところに老子の思想がある。道に生きようとするところに老子の思想がある。しかし無為や道は、思想ではない。それは事実である。無為や道を思想と見るのが抑々の老子認識への間違いである。
思想によって生きるということを老子は否定したのである。われ等は既に生きる前に、生かされているのである。他の何物にもよらず、このわれ等を生かしているものによって、われ等は生きればよいのである。これを老子は無為に生きるという、無の為(はた)らきのままに生きるのである。ここに無碍の道がある。
思想によって生きるのは、そのこと自体が実は迷いである。必ず罣礙するものをもつ。
思想なるものは、それはそれが独自なるものであり体系的深さをもてばもつほど、それは仮設性をもつものであり、従ってそれによって生きようとする時われ等を生かしているもの、この世界を展開せしめているもの、無為、道と合致せざるものをもつのである。その為に必ず彼は現実において破れるのである。
(引用おわり)

 伊福部氏は道元禅をも実践していたから、道元と老子に共通点を見る。つまり、道元のいう「眼横鼻直(眼は横についており、鼻はまっすぐについていること=明々白々な当たり前の事実)」より他に真の認識はない。世界は色の外に空はなく、空の外に色はない。空の外に色を求めたり、色の外に空を求めたりするのが迷いである。道はわが前に現成している。この現前の道より他に、殊更に常道という如きものはないのである。常道を求める心そのものが迷いである。

(『老子眼蔵』より引用始め)
老子出現の眼目は、一切の仮設性を人間知性の中に絶たんとしたところにある。一切の仮設を脱落して、現前する道そのものに一如となり一体となって生きることの絶対的福音を伝えんとしたところにある。
その道とは何だ。
それが眼横鼻直なのだ。眼は横に切れており鼻は真っ直ぐについている。朝々太陽は東から出て夜々月は西に沈む、それが道なのだ。朝眼が覚める、起きるという道がそこにある。起きれば着物を着るという道がある。着物を着れば顔を洗い口を漱ぐという道がある。是くの如く道は刻々現前に現成する、それを行ずるのが道であり、行じてゆくところに更らに道は現成する。そこに何らの仮説を要しないのである。
(引用おわり)

◎無と有と玄

 自分が『老子眼蔵』で最も感銘を受けたのは、その「無」及び「無為」についての解説である。
 すなわち、無とは「何もないこと」ではなく、無為とは「何も為さないこと」ではないということである。このような誤解により、老子は虚無思想や隠遁の書という偏見の対象となってしまった。

 老子第1章は「無を天地の始に名づけ、有を万物の母に名づく。」と述べるが、これは、老子のいう無と有の語の概念を明らかにしたものである。
つまり、「現象界以前を無と名づけ、現象界を有と名づける」というのである。
『老子眼蔵』では、無有は単に場所を意味するのではなく、はたらきをもっているという。万物を誕生させたものは無であり、万物を生み育てているものは有である。しかも、その有は生み育てているだけでなく、生み育てながら、しかもそれが又、亡びさせてもいることなのである。
しかし、この無有の二つは、全然別な二つのものではない。二つと見えるが実は一つのものであり、一つのもののはたらきである。ただその場所によって呼び名が変わっているにすぎない。
そして、その同じきものが「玄」と呼ばれる。この玄のさらに玄なるもの、そこからすべてのはたらきが出てくるのである。老子は、この世界なるものは、玄のはたらきであるという。玄は無とあらわれ、有とあらわれて、この世界をあらわしているのである。

(『老子眼蔵』より引用始め)
無有は別々な二つではない。それは一つのもののあらわれで、そのあらわれの場所の相違によって呼び名が変わっているだけで、これを同じく玄と呼んでもいいと老子は言っている。
玄は不断の流動をもってあらわれている。しかもそれは、天地の生ずるに先立つもので、音もなく形もなく、しかも廓然として比べるもののない存在で、かつ永遠に死滅することのない存在である。それはあらゆるところに普くあらわれて極るところがなく、つねに休むことなく、一切のものを生々化々しているところのものである。
彼は瞬時も留まっていない。それは河水の流れるように無限の過去から無限の未来へと流れて逝っているが、流れて逝きっぱなしかというとそうでなく、草木が土に還っては芽を出して来るように、くりかえしている。
この循環流動の全体的過程において、われ等に認識されるものの上にあらわれる部分を有と呼び、認識できないところに隠れてしまう部分を無と呼ぶのである。
従って無も有も、ともに玄としてのはたらきをもつ。それは瞬時も停止しない展開であり、そしてそれは無は有へ、有は無へとゆくところの循環である。
この無自体のもっているはたらき、これを老子は無為という。
(引用おわり)

◎「無=不存在」ではない

『老子眼蔵』の「無」についての解説は実に明快なので、そのまま引用する。自分はこの解説に接して、老子がようやく腑に落ちた思いがした。

(引用始め)
心棒を入れる穴の部分、土器における空虚なところ、室における空間、それらのもののことを「無」というのではない。それらは事実として単に「無いもの」又は「空」にすぎない。
しかしこの「空」「無いもの」があることによって、「有るもの」即ち轂(こしき)や土器や室の壁やが、それぞれの用を為す、この無いものと有るものとの関係、これがちょうど無と有の関係と同じであると、現象界の一物の存在形式をとり来って、現象界をして現象界としてあらしめるもの(無)の存在を譬喩し象徴させているのである。
即ち、この現象界たる有のもつはたらきは、有だけでそれを為しているのではなく、有の奥にある、又は有のはじめにある無のはたらきの為であるというのである。ところが、人々は有のはたらき、この現象界のはたらきは悉く現象界自体のはたらきであると見ている。この考え方は人々の心の上に甚だ根深い。ギリシャ以来の西洋哲学の如きは全くこの有のみの考え方の上にある。唯物史観の如き特に然りである。今日の科学的世界観の如きまた然りである。
老子はこのような世界観に反対する。世界は有だけによって存在するのではなく、有が有としてのはたらきをもつのは、その奥に、又はその背後に無があり無のはたらきがあるからであると彼は言うのである。この真理の説明的表現として、轂(こしき)や土器や室の壁の例を譬喩としてとったのである。
この無有の世界観的認識は、老子哲学の根本思想であって、この観念がしっかり腹に入っていないと、老子五千言は到底理解できないのである。それにもかかわらず、多くの老子注釈者等は、無の語を単に、不存在の意味と見たり、存在の否定として解したりして、老子の思想哲学をまことに浅膚なものにしているのである。
(引用おわり)

◎無為の真義

 『老子眼蔵』の核心は、「無為」というものの解釈にあると思う。「無為」を「何もしないこと」ではなく、「無のはたらき」と解釈することによって、老子の姿はまったく異なった様相を見せる。

(引用始め)
 無為を、多くの老子注解者等は、既に言うように無を不存在と解した為に、為をツクル、ナス、オサメルなどと解し、結局無為をツクル、ナス、オサメルの否定語と解している。即ち無為はツクルナシ、ナスナシ、オサメルナシなどとするのであるが、これ甚だしき間違いと言わねばならない。
 それなら無為はいかなる意味に解すべきかといえば、無のハタラキ又は無の作用と解すべきである。これを無の正しい解釈とするのである。
 それなら、その無のはたらきとはいかなることか。既に言うように無は不断にその有への妙(はたらき)をあらわそうとしている。あらゆるものがこの現象界にあらわれてくるのは、無のはたらきのためである。
 春になる、草木が芽を出す、それも無のはたらきである。子供が生まれる、それも無のはたらきである。今まで風がなかったのに急に吹き出した、無のはたらきである。一天晴れ渡った空に雲が湧いてくる、無のはたらきである。われ等の住んでいるこの世界というものは、瞬時も同一状態にとどまっていない、不断に新しい状態が展開して進展している。それは何によるか、それは無のはたらきの為である。老子はこの無のはたらきを無為というのである。無為の為は、「はたらき」の意味なのである。
(引用おわり)

「無為」を「何も為さないこと」ではなく、「無のはたらき」と解釈することによって、老子は虚無思想から一転して積極的な活力の源泉となる。

◎無為の偉大さ

「この故に聖人は無為の事に処して、その天地をもってあらわす、教を行うのである。」(老子第2章)
この「無為に処して生きる」中に人としての正しい道の生き方があるとするところに老子の道がある。そして事実、この道以外に人の生きる道はないのである、と伊福部氏はいう。

(『老子眼蔵』より引用始め)
ところが、われわれ人間はこの無為の絶対を認めたがらない性質をもっている。それはわれわれの暗愚である、又は迷いと言うてもよい。そういう暗愚な迷いを持っていて、なかなかこの無為の絶対が認識されないのである。
即ちわれわれは私のはからいによって生きられるように思うのである。また、それによって生きようとするのである。
然るに無のはたらきは絶対である。従って思うとおりにゆかない。「あてごとと何とやらは向こうからはずれる」で、私のはからいは無為の前に破られる。それはつねに力ないのである。ここに人生、事志と違うものができ、憂鬱があり、苦悩があり、怒りがあり、悲しみがあり、焦燥があるのである。
これらの一切のものは、それ故に、もしもわれわれが無為の絶対を認得して、無為のままに私のはからいなく、響のものに応ずるように生きるならば、必ず雲散霧消して、そこに自由無碍の天地が現成する。所謂大道現成して天人合一の境を展開し、自ら大神通の中に大神通を行い得るのである。即ち、大神通現成するのである。

無為は然し自己の外にのみあると思ってはならぬ。無為は心外にあると共にまた、心の内にもある。自分の心の中に起こってくるいろいろな思想や感情、それらのものが、そのように起こってくるのもまた、無為によるのである。
それは正念正想のみではない、あらゆる妄念妄想の起こり来る悉くが無為である。観じ来れば、存在するもの悉くが無為によるのであって、無為の外にわれも他もないのである。

無為に生きるとは如何なることか。わが私のはからいを一切棄て去るのである。自分自身が無になるのである。既にわれがあって無に対し、無の絶対を認めて、それに随順するというのは、未だ真に無為を解するものではない。又それでは未だ無為を真に生きることはできない。自己自らが無と一体になるのである。無為以外に自己がなくなるのである。
天地もこの無為の中に呼吸し、自己心の一閃影もまたこの無為の中に生滅する。ここに至ってはじめてわれ道に一致するのである。道そのものになるのである。
(引用おわり)

老子は第37章でこのように述べる。
「道の本体は無のはたらきである。そのはたらきは、為さざるところがない。政治に与るものが、もしよくこの無のはたらきに従ってこれを守ることができるならば天下すべてのものは、自らにしてその徳に化するであろう。
もしまた、この化したる万物が、人為をもって更らに変じようとするならば、私はそれに名づくることのできない道自体をもって、これを鎮めるであろう。蓋し道自体はかく為そうという意欲をもっていない。自然そのものである。だから静そのものであり、それ故に天下は自らにして定まるのである。」

『老子眼蔵』はここから、老子の説いた「徳」、「天下」、「不争」などについても実に興味深い論を展開するが、長くなりすぎるので本稿では割愛する。これらについては是非原著をあたっていただきたいのだが、冒頭で述べたように今では容易に入手不可能なのが残念である。

◎潜態論との共通性

このように見てくると、『老子眼蔵』の説く老子哲学と、MUGA第1号から第5号にわたり河野龍路氏による連載記事で紹介した小田切瑞穂博士の「潜態論」との共通性を感じずにはおれない。

小田切博士の潜態論は、「一切の現象の本質は、感覚し得ない潜態にある」という前提に立って、これまでの西洋科学では無視されてきた潜態(=無)を世界記述の中に取り入れようとする試みであった。

無を「不存在」や「存在の否定」とみなすのではなく、有と切り離すことのできない万物の根源とみなす『老子眼蔵』の哲学は、潜態論が前提とする世界観と共通していると言ってよいのではないか。

『潜態論』は自然科学の立場から、『老子眼蔵』は人文科学(政治、道徳、哲学)の立場から、色心不二、無有一如の生命のありよう(「私=世界」という認識)を説き明かしている。「有」のみが存在のすべてであると考え、「有」の分析に終始した挙句に行き詰まりを見せている現代世界にあって、この世界観こそ、人類が21世紀を生き延びる道であると自分は信ずる。

西洋近代科学文明にブレイクスルーをもたらす画期的な世界観(とはいえそれは何千年も前から存在してきたのだが)が、日本という極東の地で二〇世紀に相次いで発見(再発見)されていたという事実には、ある種の歴史的な必然を感じる。

今こそ伊福部隆彦氏の老子思想と、小田切瑞穂博士の潜態論を再評価し、世界の前に提示すべきときではないか。そのためには、両者の著書の一刻も早い復刊が不可欠である。このままではせっかくの貴重な人類の知的遺産が宝の持ち腐れになってしまうという危惧を抱かざるを得ない。

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◇評論

「あまちゃん」に観る無我と自我

高橋ヒロヤス

NHK朝の連ドラ『あまちゃん』を見ている。

宮藤官九郎脚本ということで話題を呼び、4月に放送開始してからは、これまでのNHK朝ドラの常識を破るようなストーリー・演出や、ヒロイン・アキを演じる能年玲奈の爽やかな存在感をはじめユニークなキャストによる演技が評判で、今や「あまちゃんブーム」といってよいほどの現象になっている。
 
「物語は大きく2部構成で、前半の「故郷編」では、東北地方・三陸海岸にある架空の町・岩手県北三陸市を舞台に、引きこもりがちな東京の女子高生が夏休みに母の故郷である北三陸に行き、祖母の後を追って海女となるが、思いがけないことから人気を得て地元のアイドルとなる姿を描く。後半の「東京編」では、アキが東京に戻り、全国の地元アイドルたちを集めたアイドルグループ「GMT47」(ジーエムティー フォーティセブン)のメンバーとして成長する姿を描く。最終盤では、2011年(平成23年)3月11日発生の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)を扱う予定にしているという。」(wikipediaより引用)

 宮藤官九郎は自分と同い年で、彼が随所に挟んで来る小ネタは自分の世代にはツボにはまることが多く、逆に他の世代は置いてけぼりになっているんじゃないかという危惧感もありつつ、今のところ巧いバランス感覚を保っているようだ。

 この物語には、アキとユイという対照的な二人の少女が登場する。
主人公であるアキ(能年玲奈)は、東京で生まれ育ち、複雑な家庭環境もあって暗い高校生だったのが、岩手の海や自然や田舎の人々に触れて、海女である祖母・夏ばっば(宮本信子)の下で感情を解放され、屈託のない心を取り戻す。
一方のユイ(橋本愛)は、地元の名家に生まれ、容姿にも恵まれ、将来の人生も約束されているが、田舎の暮らしには満足できず、東京でアイドルになるという夢を持っている。東京や芸能界の事情についても自分なりに知識を仕入れている。
地元でアキとユイはアイドル・ユニットを組んで成功し、東京のプロダクションにも目をつけられ、アキはユイに引きずられるようにして東京でアイドルを目指すことになるが、家庭の事情で結局アキだけが上京することになる。

「あまちゃん」前半部(岩手編)においては、アキとユイの姿は悉く対照的に描かれており、前者を無我表現、後者を自我表現の象徴とみると興味深い(もちろんこれは便宜的な表現にすぎない)。
すなわち、アキは自ら夢を持って主体的に動くというよりは、周囲の環境に身を委ね、そこに心を開いて行くことで、「私」のはからいではなく「無」のはたらき(無為)に従って動いているように見える。もちろん、東京に戻らず海女になるとか、上京してアイドルを目指すという方向性は彼女自身の意思によって選択されるのだが、それは事象の必然的な流れの中に身を投じるという無我的行為の不可欠な一環なのである。
一方のユイは、絶えず流れに逆らって、「私」の夢を実現することに躍起になっている。それは必然的に周囲との軋轢を生みだし、結果的に夢の実現が阻まれるような出来事の現実化という帰結をもたらす。

この物語が優れているのは、単純にアキ=善・正義・明るさ、ユイ=悪・不正・暗さのような二項対立ではなく、お互いが補完し合う関係として描かれていることだ。アキはユイの美しさに憧れ、ユイは自分にはないアキの魅力に惹かれている。アキが「無」のはたらきの表現であるとすれば、ユイは「有」のはたらきを担っているといえる。
前半部のクライマックスは、二人が「潮騒のメモリーズ」というアイドル・ユニットを結成し、町おこしのイベントで熱唱するシーンだが、ここにはアキ(無)とユイ(有)の融合による「玄」の世界が見事に表現されている(別稿「伊福部隆彦著『老子眼蔵』復刊を望む」の「無と有と玄」の項参照)と見るのは無理がありすぎるだろうか。

現時点(7月5日)では、後半部(東京編)がスタートしたばかりで、東京で夢を追いかけ始めたアキの姿と、上京を断念せざるを得なくなったユイが自暴自棄になってヤンキー化する姿が極端に対比して描かれている。今後、この二人の運命がどんな形で交錯していくのか、どきどきしながら見守っていきたい。

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◇評論 

★数子のマイナーカルチャー探訪「MUGAを探せ!」第2回

「すきすきスウィッチ」のすき間的無我

土橋数子

「マイナーカルチャー」というカテゴリーが狭いのか、実は筆者がそれほど詳しくなかったのか、よく考えたらマイナーということは、インディーズ(自主制作)が多いなだけに、自我的表現だらけだったりして、早くもネタに苦労しそうだ……。
でもその自我だらけ(それはそれで面白い表現)のすき間を潜って、「アレ?」と思うような世界観を歌っている音楽があるので紹介したい。

 すきすきスウィッチ。1979年から80年代半ばまで活動。佐藤幸雄を中心としたニューウェーブバンド。スキマスイッチとは無関係(と思う)。83年に5枚組のソノシート『忘れてもいいよ』をリリース。浮世絵ちっくな背景に「す」がど〜んと浮かぶジャケットデザイン。20数年前、このバンドのことは何も知らなかったが、思わず“ジャケ買い”した。
ソノシートが入ったファイルタイプの中面は、迷路の中を「す」が、「すすすすす〜」と駆け回り、最後は炎上するマンガチックなイラスト。 この音楽の世界観とマッチしていたので、メンバーが描いていると思ったら、斬新なデザインで知られる装丁家・祖父江慎の最初の仕事だそうだ。ソノシートは、ほとんどライブ録音。後にCD化もされているが、すきすきスウィッチが残した作品はこれだけである。
私はこれをカセットテープに録音し、ひとりっきりのアパートでよく聴いた。そんなラジカセ生活は、当時としても十分アナクロであった。
 
 さて、その音楽はといえば、重厚の反対。ありていに言えば、ユニークなポップス。ギターとパーカッションとシンセと声が縦横無尽に織り成す、すきすき(隙き隙き)のチープシックなサウンドだ。拍子は風変わりだけど、それは実験的というより、実験に夢中になっている男子という感じ。この分野における後発の音楽に多大な影響を与えたということだ。
 
ここらで歌詞をご紹介しよう。
「水道管」(『忘れてもいいよ』ソノシートより)
ぼくときみと、むすぶ水道管。泳いでゆくから 今夜台所でまってて おフロ場でもいいけど
ジャ口開けて待ってて きみがいること想って 平泳ぎでゆくよ。
                        (歌詞おわり)

インターネット社会の今でこそ、「人はネットワークでつながっている」なんてことが当たり前の概念となったが、当時はつながりとか結ぶとか、ことさらに言われなかったきがする。言われてみれば、確かに水道管はつながっている。各台所をむすび、海や川ともつながり、全地球とつながっている。それに気がついたら、ひとりぼっちのアパートでも妙に安心したものだ。

次の歌も「私」をとりまくつながり環境のことを歌っている。
「機械のせいにしない」(ソノシートより)
テレビが眼になる 洋服が皮膚になる 僕らはこうしてつながっている 新聞が鼻になる洋服が皮膚になる 僕らはこうして広がっている いつものあの電車に君も乗ったね ぼくの足でもあるよ 今度のPINKの新曲はどうかな 君もラジオで聴いたろ 水道が知恵になる 電気が血になる 僕らはこうしておさまっている 機械のせいにしない メディアのせいにしない
                      (歌詞おわり)

古代の人々は、自分と他人との境目が薄かったと聞く。近代になって自我が強烈に意識され、そこを守るように硬い殻が作られてきた感がある。その一方で、テクノロジーが身体を拡張するような形で、世界中の人々がつながれてきた。人が次の時代へ向かって進化しようとするのなら、自我はある意味で最後の砦なのかもしれない。

さらに、パラパラと歌詞を拾い上げてみたい。
「街中アンテナ、空には電波、でもあれとこれとがつながらないね」「思い出が外にある 骨も外にある」「ビニールもガラスも溶けながら覚えている」「これだよと言い、ここと書く」「私は何人か」「言葉でのり付けしてしまうように」「わからないことがないことがなかった」

自分を自分として強く意識して守るような存在の仕方に揺さぶりをかけているような歌。私たちが自我を発達させてきた大きな要因の中に「言葉」がある。言葉のない世界で暮らしていた古代の人々は、自我はなかっただろう。少し言葉を持ち始めた時代には、言葉と言葉のすき間に、風通しの良い空き地があっただろう。

今の私たちは言葉を駆使して、あらゆるものにレッテルを貼りまくっている。それが既成概念となり、自我を強く守っている。言葉の領域ではない大切なものがあるはずだが、それが見えなくなるくらいに。

すきすきスウィッチの音楽は、飄々と、リズミカルに、そのすき間を狙う。あるいは、言葉のレッテルを貼ろうとする瞬間を、物事を認知する瞬間を狙って、ちょっとイタズラっぽく、飛び跳ねたり、間のびさせようとしたり。普段生活の中で凝り固まっている既成概念をほぐしてくれる。
全身全霊で没入する無我体験とは質が違うかもしれないけれど、すき間的なところから、一気につながった世界へと駆け出し、地球を七回半回って戻ってくるような愉しさがある。

さて、あれから月日が経った。私の手元には録音したカセットテープしかなかったし、ライブも観たことなかったし、正直言って忘れていた。ところが、去年になって久方ぶりにこの佐藤さんという人が音楽活動を開始した。日曜の昼間に、中古レコードショップで1時間ライブをするというのだ。家庭の事情で夜は出歩けない私も、そんなすき間時間ならなんとかなる。
 素晴らしいライブだった。フレッシュさと懐かしさがまぜこぜ。男子はおじさまになっていらしたが、再開した実験に、やはり夢中のようだった。

最後に、お店ライブでキャッチした新曲の歌詞をご紹介しよう。
「あなたと 話していると あなたとわたしは、わたしたち」

「主」と「客」のすき間を潜って、一周して、つなげちゃっている。レッテルを貼りまくったこの世界をほぐして、ほぐして、小さな粒にして、お互いに共鳴する世界観。「絆」という確固たる言葉を持ち出してつながりを強要されるのではない。しくみとしてもうすでにつながっていることに、「気がついて、思い出して」(歌詞より)。

「私」が溶け出して、すき間に流れ込むような、そんな無我的バンド。活動再開ということで音源も出るようなので、楽しみにしている今日この頃だ。

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★編集後記
◎最近は、よく邦画を見ています。『ライクサムワンインラブ』というイランの巨匠・キアロスタミが日本を舞台にして撮った映画が面白かったです。誰一人、共感できる人物がいないという・・・キアロスタミがこんなものを撮るのか?などと思って見ていたら、とんでもない映画でした。面白い作品を教えてくださると嬉しいです。(那智)


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