芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第23号

2013/06/15

MUGA 第23号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇アート

・詩

『季節の詩』     rita

◇対談(小説風)

北風と太陽とマンゴー

菊地久幸×那智タケシ

◇評論

村上春樹の何が問題なのか
高橋ヒロヤス

★数子のマイナーカルチャー探訪「MUGAを探せ!」第1回
「あぶらだこ」に無我をみる
土橋数子

                                   
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◇アート

★詩

季節の詩     rita 

  【・初夏の野・】

緑に包まれて花がおどってる 
風のリズムに体をあずけて 
光りを浴びて跳ねている 

小さくてもいいから 
ぼくに翼があったらなあ 
野を行くこの足が 
こまやかに咲いている花たちを踏まずにすむのに 
  
色とりどりの笑顔がかわいくて 
雲の上を歩いているみたいに 
ぼくの足はふわふわしてる 
  
色とりどりの笑顔がまぶしくて 
ほんの一瞬がふくれるみたいに 
ぼくの視線は泡立つよ 

 初夏の野はマシュマロのよう 
なんて時空がファンタスティック 
ぼくは今 
あまくてやわらかいお菓子の中にいるの 

  
  【・薔薇・】 

開いているようで閉ざされた 
たくさんの花びらにたたみこまれて 
薔薇の奥に秘める心は 
濃緑の枕にどんな夢を見ているのですか 
知りたいの 
静かに目を閉じている 
あなたの望みはなんですか 

ミステリアスな薔薇はアクトレス 
いつも美しさを演じている 
花の中の花 
蜂の羽音や人影が過ぎていく 
幻のように 
それは確かな視線のうちに 
留められた姿 
美しさは人々に喜びをもたらしている 

風が吹く 
揺れる姿はワルツを踊っているよう 
体を風にまかせて 
心は誰の手にも触れられないよう 
刺を添えて 
たとえ風が吹いていなくても 
踊っていることが生きること 

誰に気づいてもらいたいのですか 
何を待ち望んでいる香りなのですか 
あなたの夢の中にぼくは誘われる 
ふっとかいまみるやさしい想い 
そしてそのせつなさを 
いったい誰が咲かせたのでしょう 

  
  【・時計草・】 

受難の花といわれる時計草 
十字架のかたちに似ているのはすてきだけど 
そんな肩書きをつけられたら 
ぼくははうっとうしいなあ 
だけどそうしてもてはやされることに 
この花はそれほど悪い気分じゃないのかもしれない 

香りの良いジュースが採れる品種もあるって 
ハーブとして人の役に立つ効能もあるなんて 
そんな優れた個性をもってたら 
ぼくはうぬぼれるだろうなあ 
だけどそうした天賦に 
この花はそれほど頓着していないのかもしれない 

家の軒先を垣根のように覆い尽くして 
時計草が花をたくさん付けている 

たくさんの思いが咲いている 
ぼくの思いも 
きみの思いも 
いろんな思いの中の 
一つの花として咲いている
 

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◇対談(小説風)

北風と太陽とマンゴー

菊地久幸×那智タケシ   5月28日 茨城県稲敷市

 菊地氏と会うのは3ヶ月ぶりだった。5月末に出身地の函館に引っ越すとのことで(月に1、2回は施術等で都内に戻ってくるらしい)、今後の展開や今までのお礼もかねて稲敷市を訪ねた。待ち合わせは午前11時によく会っていた、ひたち野うしく駅近くのパスタ屋。手ぶらで行くのも何なので、朝、時間をつぶしていたデニーズのレジ脇にマンゴーのセットを見つけ、購入した。フィリピンからの直輸入品。3個で1290円が高いのか安いのかよくわからないが、箱に入っているし、格好もつくだろう。ひたち野うしく駅までの40分弱、常磐線の窓から、マンゴー片手に田園風景を眺めた。
 5分前に到着すると、店内は誰もいなかった。一人、水だけ飲みながらメニューを見ていると、菊地氏登場。都内から来たということで、同じ電車に乗っていたらしい。お礼を言って、いきなりマンゴーを渡す。ちょっとした雑談の後、リンパの話になった。ここで、せっかくだからとテープを回す。使えるところだけ使わせてもらおう。

●血液の循環が悪いと鬱病になる

 菊 痛風とかは、指先の手とか足の悪いもの、老廃物が回収されないからなる。で、血液がいかないから酸素がいかない、栄養がいかない。細胞分裂ができなくなって、腐ってゆく。
 那 通り道を作ってやる?
 菊 そうそう。体にはリンパのステーションがある。大きなステーション。腰を中心にした。それを開いてやって、悪いところに近づいてゆく。そうすると回収できるようになる。だから先っちょだけやってもだめだよね。
 那 指先だけやっても無理。
 菊 そう、腰をやって、尻をやって、膝の周りを開いて、悪い所に近づいてゆく。先だけ開いても回収されないよね?
 那 基本は腰?
 菊 そう、それから体全体をやる。だからおれの考えているリンパの基本は詰まっているんじゃなくて押さえつけられている。それを緩めてやることによって流れがよくなる。そうなると老廃物が回収される。
 那 その辺は改めて押さえておくべきですね。言葉だけじゃあれですけど、こういうイメージだという感じで。
 菊 そうそう。ウルトラリンパをした知人に言われたんだけど、私たちは治るから我慢できる。でも、最初の人は痛いから、あまり痛くないようにして、回数をやって治した方がいいんじゃないか、と。俺は痛くても1回で治った方がお金もかからないし、いいんじゃないかという主義。だけどもそうじゃなくて、3回、4回かけてもそれで治ればいいんじゃないかと言っていたけどね。いくらでも緩めて気持ちよくすることはできるんだよね。やり方としてはね。
 那 そうですね。今、そういう方が流行るでしょうね。
 菊 そうだろうね。
 那 その辺りは施術者のキャラクターにもよるし。一発で治せる菊地さんのような人なら痛くても説得力ありますけどね。痣作って治らなかったら、文句言う人もいるだろうし、それに対応できなかったら、また難しい。
 菊 内臓でもそうだよね。上つまんでいって、痛いところの奥が悪い。
 那 おなかの表面をつまんでね。
 菊 上をやっただけで奥が治っちゃう。面白いね。胃なんかでもすぐ治るよ。ちょっとした疲れとか。胃潰瘍とかね。痛いところを探してやってやる。
 那 腰痛とかもすぐ治りますね。即効性がある。長く座っていると痛いことがあるんですけど、自分でやって実感してます。
 菊 精神的な病ってあるでしょ?
 那 精神病? 鬱病とか?
 菊 あれは血液の循環が悪いんだよね。そういうところでなる人が多いんだよね。
 那 意外とフィジカル的になる人が多い。
 菊 そうそう、運動している人でなる人はあまりそういう人はいない。家にこもっている人とか。
 那 そうかもしれない。
 菊 そういうのを緩めることで精神的なものも治る。
 那 ただ精神病も治るとは言いづらいですよね。いろいろな要因があるし。
 菊 だから改善すると言えばいい。
 那 どう広めるかですね。
 菊 自民党の議員で知っている人がいるから、公の場でウルトラリンパを取り入れられるようなことができないかと思ってる。
 那 必要とされる技術だと思いますよ。
 菊 そうだよ。やってかないといけない。技術を広めることで治っていくんだから、実際ね。改善してゆく。それを保険利くようにするとか、持っていけばいいわけでしょ? 俺はスポーツ選手なんか特にいいと思う。
 那 ああ。
 菊 よく手術するじゃん。
 那 腱を切ったり貼ったりしているんでしょ?
 菊 四十肩と一緒で突っ張ってくると痛いのよ。ちゃんと緩めてやると治っちゃうのよ。それを手術してはがしてるんだから。大学のスポーツクラブか何かに行って、原因不明で痛いとかいう箇所を治してやればいいんだけどね。そこで実績が出来たらプロスポーツの中に入っていけたら面白い。
 那 公の機関に認めてもらえればすごく効果的ですよね。
 菊 だからまずはそういう所に行って、そういうのを改善させてあげて、データ取って、これは効果があるということになれば、そういう話もできるんだよね。

●エネルギーが変わると人が集まる

 近々作ろうと思っている無我研のホームページに「ウルトラリンパも紹介させていただきいたい」とお願いする。「一応、こんな感じの紹介文作ってみたんですけど」と、たたき台の文章を差し出す。赤ペンを渡すが、基本、口頭で修正点をいただく。
「ところでさ、何でウルトラリンパを紹介したいの?」
 改めて、超基本的なことを聞かれる。実を言うと、前々からウルトラリンパという技術は、無我研のコンセプトとダイレクトにリンクするものでもない気がしていたので、もごもご「エゴ的な表現、全体ではなく断片的な表現が蔓延している」と説明するが、微妙な空気。「これからの時代に必要な良いものを紹介したいという趣旨なんです」と言うとようやく腑に落ちてくれたようだ。
 ホリスティックなヘルスケアというものは、無我的と言えば無我的だろう。そもそも、菊地氏とは仕事で偶然会って縁を感じた人なので、別段、無我表現というキーワードで探した人でもない。いや、そもそも人を探していない。そういう人は、自然とやって来るものだと最近、知った。自然と会える人だけが、自分にとっては本物なのだ。

 那 最近思うんですけど、ビジネスだけのつながりって、困った時に冷たいじゃないですか? いざって時。
 菊 そうそう。
 那 最近、すごく思うんですよね。菊地さんが勝手にいろんな人が来るって言っていた意味が少しわかります。
 菊 自分が変わっていっているんだよね。健康になっているしね。だから自分から出るエネルギーが変わって来たんだよ。
 那 雀荘でも、若い子が勝手に自分のこと師匠にするんですよ。師匠には逆らえないとかね。何も教えてないのにね。
 菊 (笑)
 那 勝手に弟子になったりね、面白いですよ。
 菊 普通に、「何々さん」ってどんどん来たらもっとすごくなると思う。「何々君」じゃなくてね。
 那 結局、等身大でいればいいと思うんですよ。
 菊 そうそう。
 那 自分は自分でしかないんだから、身の丈に合ったね。今、ぼく、こんくらいですけどって言っておけば怖いものないじゃないですか?
 菊 失うものがないんだよ。
 那 裸でいればね。すごいそれを思うんですよね、最近。
 菊 いいんじゃない?
 那 地味でもやることをやればね。背伸びしないで。
 菊 いいんじゃない? 知り合ったいい人たちを導いて、エネルギーをもらい合えばいいんだよね。
 那 波紋が広がっていく感じになればいいんですけどね。ホームページも無料でやってくれる人がいるし、全部人様の協力でね。資金がないんで。
 菊 なんか、こういう集まる時でも、声かけてくれれば、誰か呼べば面白いじゃん。一流のオペラ歌手も知っているし、劇団四季のトップ女優をやっていた人も知っているから。何とかの怪人?
 那 オペラ座の怪人?
 菊 その主役をやっていた人。
 那 すごいですね。社会的信用度もありますしね。
 菊 霊的などうのこうのばかり言っていてもね。興味ある人にはいいかもしれないけど、普通の集まりに一流の人が来ている、とか。俳優でもスポーツマンでもね。そういうのが刺激になったりする。
 那 そういう人に話を聞かせてもらえればありがたいですけどね。そういう人も意外と人生論を語る場がなかったりするじゃないですか? だからこういう所で言いたいこと言ってもえらたらね。読者は少なくても影響力あるんですよね。本音って。
 菊 そうそう。何でもそうだけど30センチ上がるのがたいへん。今は声かけると10人、20人集まるの?
 那 今は編集会議と言って、書き手だけ集まってああだこうだと言って、それを掲載したりしているだけで、研究会の定期的な会合みたいのはやってないんですけど。ただ、表現してみたいという人も少しずつ集まっています。だから集まるための会というより編集会議というだけで。正直、10人もいたら話がまとまらないので、基本は雑誌作りというイメージで今はやっているんですよ。いずれは何でもできればと思いますけど。
 菊 そこでいい影響を与え合うような関係とか、そこに分野で一流の人を招いて話を聞くとかそういうことをやっていければいいよね。
 那 それは今後、必要なことだと思います。

●本当に強い人は、優しい

 菊 俺もいろんな人と出会ってきたけど、本当に強い人と出会ったことはほとんどないね。
 那 それは自分が強いからでしょ?
 菊 そうじゃなくて。
 那 どこかに弱さがあるってこと?
 菊 「北風と太陽」という話があるね。まったくあれなんだよね。北風って強そうじゃん。でも、結局、太陽には負けるんだよね。本当に強い人って優しいんだよ。だから出会えててもわからなかったりする。例えば、カナダにインディアンのサムとかいるでしょ? 彼らは本当に強いと思う。千日修行したアジャリさんでもね、金払って、頭を下げている。
 那 自然のスピリットと一体化したエナジーがあるんでしょうね?
 菊 そう。人にプレッシャーを与えるんじゃなくて、優しさで対応できる。あれが本当の強さで優しさだと思うんだよな。昔は負けられないとか隙見せないとかがあった。今は来てから対応する。それが一番強いよね。
 那 機会があったら、カナダもお願いしたいですね。
 菊 そうだよ、1回行った方がいいよ。
 那 目先の仕事ばっかりやっていてもあれだから。
 菊 時間があり余るところで何もすることがなくてどうやって過ごすかっていう(笑)
 那 今なら行けそうな気がする。
 菊 1ヶ月でも2ヶ月でも何も邪魔されないよ。ただ頼めば情報をくれるし、どこか連れて行ってくれるかもしれない。自分で自分の行動を全部作って、動いてゆく。雀荘もないし(笑)
 那 ないんだ?(笑)

 カナダの自然の写真をスマホで拝見する。ヒノキの貿易(神社仏閣に使われる木を輸出していた)をしていた菊地氏は、樹齢600年のヒノキの前に立つ写真(人が小さく見える)をたくさん持っている。ヒノキは、日本では非常に重宝されるが、カナダではそれほど需要はないらしい。
「ヒノキってどうやって切り出すんですか?」と質問。
「切り出すんじゃなくて山の中に倒れているんだよ。それを切ってヘリコプターで道に運ぶ」
 何でも、カナダの山は岩が多く、根っこが深く張れないので横に張るらしい。しかし、樹齢600年とか1000年とかの木になると、支えきれずに倒れてしまう。そうした木をハンターのような人たちが山に入って見つけて来るのだという。それでも使えるヒノキは少ないのだとか。
 それから、熊と会った時の対処法。戦うか、逃げるか、にっこり笑うか。どうやら、三番目が正解らしいが、正解したところでどうにもならない場合もあるらしい。カナダの熊は大きい。「ナイフとか持ってた方がいいんですかね?」と聞くと、「それで勝てると思う?」無理に決まってる。アメリカライオンも人を襲うことがあるとか。「2メートル半あるよ」軟弱な自分にはどうにもならない世界である気がしてきたので、話を変える。

 那 でも、やっぱり教えるってたいへんだったでしょ? 月に1回じゃなかなか身につかないし。
 菊 うん、だいたい次に来た時、みんな忘れてる(笑) 
 那 毎週やるくらいじゃないと。
 菊 その間、誰か人の体をいじっているならいいよ? でも、いじんないで1ヶ月経ったら、あれ、簡単そうですごい難しい。ちょっした角度でしょ? 効く効かないというのは。ただ引っ張ればいいってものじゃないから。角度とか、タイミングとかってあるから。それをちゃんとやれば治るわけだから。それを覚えて欲しいよね。
 那 自分の体はだいぶやっているんですけどね。
 菊 それでもだいぶ違うでしょ?
 那 顔とかもやるし。
 菊 頭痛の人は頭の上の皮をゆるめてやるのね。するとだいたい治るね。頭痛は中から来ていると思うかもしれないけどそうじゃない。皮が絞まる感じになっている。頭が絞められる。だから痛くなる。

●勝つということは、相手を苦しめているということ

 那 今の人って頭でっかちになりすぎていると思うんですよね。麻雀やっていてもわかるんですけど、負けている人ってだいたい考えすぎているか、迷ってる。こっち側(下の方)に現象があるわけじゃないですか? でも、勝ちたいとか、お金を損したくないとか、こいつには負けたくないとか、こっち(頭の辺り)だけで動いちゃうと欲だけで動いちゃうから。
 菊 冷静な状況判断ができない。
 那 だからそうしたものを落として、現象と一体化していると強いというか。
 菊 うんうん。
 那 そういう風にぼく、今、できるんで、ほとんど負けないんです。
 菊 へぇー。
 那 だから独り身でいるなら麻雀だけで暮らしていけるなとも思うけど、そればっかりやっていると良くないと思うんで。負けてる人はみんな分離しているんですよ。
 菊 集中していない。
 那 自分のイメージだけで動いてて、現実は潮の流れと一緒で動いているわけじゃないですか? でも、こっち(頭の辺り)で動いているから、ああ、この人、顔上がっちゃってるなというか。ばらばらになっているんです。一体化していない。だから自分で自分を苦しめているのがわかる。妄想をなくすと一体化していく。
 菊 人間ってすごい能力あるんだけども、その能力の十分の一も使ってないんだよね。それが自然に入ると使わざるを得なくなる。日本でこういう所にいると使う必要が全然ないわけなんだよね。
 那 だから、自然になかなか触れる機会がないじゃないですか? ばくちの場は非日常だから直観力とか使わないと。
 菊 それは自然の場に似ているんだよね。麻雀をやっている状況というのがね、たぶん。
 那 そう思います。
 菊 みんな、自然の中に入っている状況の頭を使っていないんだよね。能力をね。
 那 最近、ゴールデンウイークから20回行って19回勝って帰ってるんですよ。
 菊 すごいね。
 那 場代払って毎回浮ける人は少ないと思いますよ。後ろで人が見ていて、何でこの人は毎回勝ってるんだろうって。見ていてもわからないと思うんですよ。
 菊 勝ち始めるでしょ? 勝ち始めるということは必ず自分の能力を使っているんだね。でも、必ず周期があるんだね? それでも。
 那 そう思います、そう思います。
 菊 そうでしょ? 勝っている時に、麻雀なんてどうってことないかもしれないけど、人生でもそうだね。成功してぐーっと金が入ってくる時に、松下幸之助はちゃんと先祖に感謝しているんだよ。
 那 なるほどね。
 菊 だって、勝つってことは、相手を苦しめていることだから。
 那 そう思う。だからよくないと思うの。いっつも同じ人からもらっているから、お金をね。
 菊 だから、それをわかってればいいんだよ。
 那 それをどこかで返さないと。だから悪いことできないと思う。悪いことしたら絶対運気もなくなるし、こういうこととか、神社で手を合わせたりとか、なんか裏でやっているんですよ、ぼくも。帳尻合わないから。
 菊 足し算、引き算っていうの? 貯金っていうの? それをわかっていてやればいいけど、それが今度命にかかわってくるからね。
 那 それと時々反動がありますよね。周期が。どうにもならない日もあるし、感覚が冴えないというか、心身の疲れもあるんですよね。この日は何やってもだめ、と。そういう日はおとなしくしてる。
 菊 そうそう、それが一番。
 那 台風の日に漁に出るようなもので、自分の力ではどうにもならない。
 菊 そうそう。そういうことがあるんだってわかってればいいんだよね。それで止まっていればいいんだよね。なかなかみんな止まれないからね。よく車運転していてあることだけど、ワンテンポ遅くスタートすると、必ず車が来たりね。予感があるんだよ。
 那 なんか、運の周期をすごく感じますね、最近。月に一回くらいあるんですよ、落とし穴が。
 菊 いつもいいと、でかいのが来るからね、反動が。それをちゃんとわかっていないと。

●運の総量は一定か否か

 那 よくね、運の総量は人生で一定だという人がいるけど、そうじゃないなと思う。
 菊 違うよ。
 那 だって、悪いことばっかりして、自分中心で生きていて、人を傷つけている人が運なんかあるわけないじゃないですか?
 菊 だから同じものを使えるわけないよね?
 那 自分の欲とか捨てたところで流れに乗るとか。自分の外にあるものをいただくという感じがあるんですよ。そういうことができる人はついてるとか。
 菊 結局は努力しているんだけどね。俺は運っていうのはさ、99%努力して、100のものができたら運が良かった。120%努力して100のものができなかったら運が悪かった。でしょ? 100のものを120やってできたら当たり前だよね? 俺はそう思う。やっぱりね、それだけのことをやっているんだよ。運っていうのはそういうもの。実力があって、努力して、で、当たり前のように勝っている。
 那 あんまり、自分のためだけに動かないってのも大事な気がするんですね。自分のために動く人はいい時はいいけど、悪くなると修正が効かない。
 菊 だから人のために何かやっていれば回ってくるよね。
 那 そう思います。
 菊 でも、そういう勝つことを続けられるってことができるってことが、わかっただけでもすごいよね?
 那 原理的な何かがあるんですよね。
 菊 何かが変わったんだよ。
 那 妄想をなくすというか、二重性をなくして、事物になる。そういう感覚があるんですよ。だめな時は頭の中だけの自分っていうの? それを落としていくと石ころみたいになっていく。結局、等身大ってこと。自分が自分になる。それは自然と同じ。みんな背伸びしたいから。
 菊 大きく見せようとするよね? 強そうに見せる。
 那 それが逆に、そう見られないから苦しいとか。理想が人を苦しめる。
 菊 そうだね。だから俺は昔はね、仕事ばかりやっていた時は、ひと月一千万使っていた。クルーザー乗ったり、飛行機で遊んだり、ゴルフしたりしてね。だけど、満足しなかったね。今の方が人がよく見えるし、自分らしく生きていける。お金のない人の方がいい人多いね? だからお金がないんだよ(笑)
 那 ぼくも最低限しかないですよ。でも、自分の時間はあるし、誰に媚びる必要もないしね、仕事を頼んできてくれる人もいる。ありがたいことにね。まぁ、今はこれでいいのかなって。
 菊 いいんじゃない?
 那 後は、何か公的なことをやっていければと思うけど、まだ全然。
 菊 どんどんやっていけばいいと思うよ。

 菊地氏と話していつも思うのは、これほど自信に満ち溢れた人なのに、とことん優しい、ということ。人を肩書きや年齢で測らないし、裁かない。だから、とにかく話しやすい。思春期に対人恐怖症(ほとんど離人症に近かったかもしれない)になった自分は、未だに人の目をじっと見て話すのが苦手なのだが、菊地氏の目は正面から見ることができる。そこに人を裁く中核のようなものがないからだろう。これは、初めて対面で話した時から、変わらない印象だ。強力なキャラクターなのに、対面してプレッシャーがないのである。それが彼の言う、本当の強さなのかもしれない。自分はその点、全然至らないな、といつも思う。とにもかくにも、包容力とか、寛容さというものが徹底的に欠如しているのだ。だから、時に人を傷つけてしまう。

「これ? もらっていいの?」
 2時間ばかりのトークの後、最初に渡したマンゴーの箱を手に持って菊地氏が立ち上がった。ここで、思わず自分はわけのわからない返答をしてしまった。
「ぜひぜひ」
 ぜひぜひはないだろう、と思いながら頭を下げて別れる。「つまらないものですが」とか、「どうぞ、どうぞ」とか、そんなことを言うのが日本人的返答だったよな、と反省しつつ、一人、駅に向かって歩いた。
「ぜひぜひはないよな」
 なぜか、最後に冴えない一言を口にしてしまったことが気にかかる。それに、麻雀の話やら何やら、少し自慢げに話してしまったかな、などと少しばかり自己嫌悪しながら空を見上げる。
 北風は微塵も吹いていなかった。初夏の大気は澄んでいて、世界は、無音だった。太陽だけが、どこまでも深く、暖かく、世界の隅々まで浸透し、事物に色と形を与えていた。瞬間、誰かの笑い声が背後から聞こえたが、それは決して人をばかにする笑いではなく、ただただ楽しいから笑っているにすぎなかった。それはこの奇跡的なまでに偉大なる世界に対する、呆れるほどに衒いのない、喜びの表現のようでもあった。
 
 
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★評論

村上春樹の何が問題なのか

高橋ヒロヤス

◎村上春樹を読むという冒険

前回のメルマガの対談の中に、僕の村上春樹に対するいささか批判めいた発言が収録されている。しかし、実は僕はそれまで村上春樹の小説をまったく読んだことがなかった。読まずに批判するのはいくらなんでもひどいので、責任を感じた。それで一番簡単に読めそうなものをブックオフで買って読むことにした。

僕は以前から、村上春樹がなぜこんなにも(「異常なほど」と言ってよいくらいに)多数の読者を獲得しているのかに興味があった。

出版不況と言われて久しい中で、村上春樹は新作を出すたびに驚異的な売れ行きを示す。彼の長編小説は、軒並み数百万部という信じられないセールスを記録し、先日出版された新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に至っては、アップルの新製品や新作ゲーム発売前の秋葉原のように、書店の前に徹夜組が列をなしたと報道された。

出版不況にあえぐ出版業界が敢えて話題性を煽っている部分もあるとは思うが、それだけではどうも説明がつかない。本気で村上春樹を愛読している人々が、仮に実売数の十分の一だったとしても、数万人から数十万人の愛読者が国内に存在することになる。これは思い切り少なめに見積もった場合だから、実際には全国に数百万人いる可能性もある。

さらに、彼の本は海外でも多数の愛読者を持つという事情もある。村上春樹は自身で海外小説の翻訳も手がけるが、彼の作品も多数翻訳され、世界中で読まれている。大江健三郎に続く日本人のノーベル文学賞に最も近いのは村上春樹だとみなされている。

僕は、何度も言うように、彼の本を一冊も読んだことがなかった。その理由は、流行ものに抵抗感を抱きがちであるという自分の気質のせいというよりは、ただ単に個人的な興味が持てなかったという方が近い。

心のどこかに、「自分の人生に村上春樹の小説は必要ない」という思い込みがあった。もっとも、その思い込みがどこから来たのかきちんと考えたことはなかった。

ブックオフの文庫本の棚で「村上春樹」を探すと、『東京奇譚集』という短編集が目に付いた。『ノルウェーの森』とか『IQ1984』とか世界の終わりとハードボイルドなんとかいう長編は途中で挫折しそうだから、手始めにこれを105円で買って読むことにした。

僕は郊外にあるアウトレット・ショッピングモールへ車を走らせ、書店の一角に設けられたカフェで快適なチェアのクッションに身を沈めながら、アイスコーヒーを片手に村上春樹の小説を読み始めた(若干フィクションが混じっています)。

この短編集は、著者である村上春樹が体験した、偶然の一致やシンクロニシティのような「不思議な出来事」の話を呼び水にして始まる。若干ネタバレになるが、冒頭に収められた「偶然の旅人」という一編を読んだとき、これを読んだ日が、偶々アンジェリーナ・ジョリーが両乳房を切除する手術を受けたことを公表したというニュースが世界を駆け巡った直後だったことを、彼の言う「不思議な出来事」のように感じた。これが読後の最初の感想だった。

5,6編の短編小説から成る一冊の文庫本を一気に読了した。最も印象深かったのは、彼の文章の「読みやすさ」である。

村上春樹の文章には、彼自身の表現を借りれば、「我々の心を別の場所に送り届けてくれるような」独特のリズムがある。ストーリーテラーとしての才能と、読者の心にすんなりと入ってくる文章能力の高さには素晴らしいものがある。おそらくこれが彼の才能の本質であり、彼の作品の生命線であり、これほど多くの読者を獲得することを可能にした魅力の源泉であるのだろうと思った。

短編集を読んで、内容はともかく(これについては後述)、文章が意外に抵抗なく読めることが分かったので、今度は、話題沸騰の長編最新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も買ってみた。これも読みやすく、ほとんど一気に読めた。

続けて、神戸の震災を間接的なテーマにした比較的最近の作品『神の子どもたちはみな踊る』という短編集も買い、これも一気に読んだ。

この段階で、僕は村上文学の虜になって来たといってよいかもしれない。とにかく読みやすい。さらさらと一気に読めてしまう(もっとも、村上作品の特徴でもある、いささか都合のよすぎる展開やお洒落すぎる会話に対する抵抗感を無視することに決めればという条件はつくけれども)。

このあたりで、ひとつとても奇妙な感覚を覚えた。彼の作品はどれも非常に読みやすく、次々に読めてしまうのだが(そして読んでいる間は大変心地よいのだが)、その内容がまったく心に残らないのである。読んでいる間はよくても、後で思い出そうという気にもならないほど、自分の内面に何のインパクトも残さないのだ。

村上作品を読んだ後で、どうもこの読後感はかつて経験した何かに似ていると感じた。しばらく考えて思い当たったのが、ショート・ショートの大家、星新一の作品を読んだときの感覚だった。

しかし村上作品には、星新一の作品には出てこないものがいくつか出てくる。それを除けば、実は両者の作品に本質的な違いはないのではないかとさえ思えた。
その「星新一にはないが村上春樹にはあるもの」とは、村上春樹の読者なら既にお気づきのとおり、「セックス」と「トラウマ」である。

村上作品には、しばしば唐突に「セックス」という単語が出てきて、初めての読者を少しはっとさせる。主人公はちょっとお洒落な場所で「偶然に」巡り会った女たちといきなりセックスしたりする(だから、ちょっと子どもには読ませられない)。だが彼の作品にいくつも親しむようになれば、これが彼の小説の一種の「お約束」であり、読者の心にインパクトを与えるための「仕掛け」以上のものではないことが分かってくる。

だが、もう一つの村上作品の特徴である、「トラウマ」については、事情はもう少し複雑である。

◎トラウマ込みのエンターテイメント

これまで村上春樹を読む気がしなかった理由を、自分なりに考えてみた。行き当たったのは、前回のメルマガの対談で、やや辛辣すぎるきらいはあるが一言で表現したとおり、彼の小説が「トラウマでエゴを正当化している」のではないかという先入観にあった。

彼の小説を実際に読んでみたところ、いわゆる村上春樹的小説世界が、「心の傷(トラウマ)を抱えて生きていく主人公が現実世界といかに折り合いをつけるかの物語」であるという従前からの印象が裏切られることはなかった。

ほぼすべての村上作品で、ほぼすべての登場人物が、過去に何らかのトラウマを抱えている。そして、ほぼすべての作品は、最後には、主人公がトラウマと向き合い、それを受容し、それを折り合うための術を暗示して終わる。

彼の作品から受ける印象を単語化すれば、次のようなものだ。「現実世界からほんの少し浮遊した非現実感」、「セラピー的」、「精神分析的」、「記号的」・・・
このような単語を散りばめた村上春樹論はおそらくいろんなところで書かれているのだろう(具体的に読んだことはないが)。

僕が村上作品の持つ一種の「安心感」のようなものはどこに由来するのかについて思いめぐらしていたとき、不意に次のような考えが浮かんだ。
――彼の小説は、「答えが決まっている」という点で、文学ではなくエンターテイメントだといえるのではないだろうか?

(MUGA第22号「無我表現研究会編集会議」より引用始め)
那 それで、元々文学好きの人だったんだけど、エンタメと文学の差ってひとことで言って何かなって、思った時に、何となく感覚的には線引きはあるとしても、自分の中で、「ああ、これだな」と最近思ったのが、エンタメには答えがある。文学には答えがなくて、生それ自体が答えというか、表現形式それ自体に意味がある。
 土 ええ。
 那 エンタメ系だったらトリックがあったり、落ちがあったり、犯人がいたり、人生ってこんなもんだよって答えがある。わかりやすかったり、安心したりする。それはそれでいいんだけど、じゃあ、スピリチュアル業界にそれを当てはめると、99%エンタメの世界。
 土 そうですよね。
 那 答えがあって安心? この迷い多き世界で、やっとここに答えがあったと。真実を教えてくれたと。でも、それエンタメで、これは癒しですよ、娯楽ですよって教えているんならいいんだけど、これが人生の答えだと教えちゃうから、全部が浅くなっちゃうっていうの? 方向性としては正しくても、それはあくまで元気付けたり、こっちの道が正しいって方向性だけで、それは答えではないんですよね。それが答えになった時に、人生は逆に浅くなる。だから、こういう業界ってエンタメなんだなって。エンタメだから人が集まるのかもしれないけど。
(引用おわり)

今スピリチュアル業界では、「あるがまま」とか「今ここがすべて」、「そのままでいい」「求めなくてもすべては与えられている」云々といった「答え」が大流行している。そのような紋切り型の結論が最初から用意されていて、本や講義(セミナー)などは読者をそこに誘うための仕掛けであるという点で、それはエンタメの世界だ。

村上春樹の小説では、「答え」は明示されないが、ある意味で着地点は最初から見えている。

◎「エゴにとっての心地よさ」の提供

村上春樹は主人公の絶望を描く。非常に巧みな暗喩を用いて詳細に描写されているため、それは途方もない深さを持つような錯覚を受けるが、実のところそれらは文学的修辞に彩られたつくりものの匂いしかしない。

たとえば、最新作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』においては、主人公の口から、作品それ自体のテーマのようなものが語られる。

(引用はじめ)
「そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ、傷と傷によって結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通りぬけない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。」
(引用おわり)

これらの言葉は、適度に感傷的ではある。が、魂の内奥から発せられる叫びではない。要するに「エゴにとっての心地よさ」を提供してくれるものでしかない。
彼の作品がこれほど共感される理由は、この「エゴにとっての心地よさ」だろう。

最終的に「心地よさ」に着地するという点(そしてそれがあらかじめ約束されているという点)で、村上春樹の文学はやはりエンターテイメントなのだろうと思う。

村上春樹の小説を読み続けるのは延々と心理セラピーを受け続けるようなものだ。それは一時的な慰めを提供するが、決して解決はもたらさない。否、読者はそもそも解決など求めていないのかもしれない。

村上春樹はドストエフスキーに影響を受けていると公言しているが、彼の小説はドストエフスキーとは違い、求道的な文学ではない。村上春樹の作品が、そういう観点で文学を捉えている読者(「小説家とは求道家であるべきだ」と考えている人たち)に嫌悪感をもたらす類いの作品だということはよく理解できる。「解決」を求めるのが求道的な人たちだとすれば、本当に解決を求めているわけではないのが村上春樹の愛読者ではなかろうか。

案の定、村上春樹を辛辣に批判する内容になってしまった。しかし、僕は決して村上春樹という人が嫌いではない。彼が世界に向けて発信した政治的な意味を持つスピーチのいくつかには、勇気ある発言として感銘を受けたこともある。

彼のような小説家はいてもいい。村上春樹がノーベル賞を受賞するとしたら、それは大変素晴らしいことだと思う(きっと素晴らしい受賞スピーチをしてくれることだろう)。言語の壁を超えて人間の心の琴線に触れる普遍的な彼の文体、そして彼の物語小説家(ストーリーテラー)としての才能は、それに値すると思う。

ただし、彼の小説は、少なくとも無我表現ではない(その事実が彼の小説の価値を貶めるものではないにせよ)。

・・・と、ここまで書いて、僕は、なんだかありきたりな感想だなあ、と思った。
この冒険はまだ終わっていないと感じた。

◎村上春樹自身が語る「自我表現」

そんな風に感じた数日後、偶然立ち寄った本屋で、村上春樹が日本作家の短編小説を解説するという、面白そうな本をみつけたので、『若い読者のための短編小説案内』というのを買った。

この本の冒頭部分の、「僕にとっての短編小説」という文章を読んで、なんとなくモヤモヤしていた部分について少し霧が晴れたような気がした。
そして、村上春樹の作品ではなく、村上春樹という作家自身に興味を覚えた。
この本の中で村上春樹は、自分の創作態度についてかなり率直に語っていて、それは大変興味深いのだが、もっとも注目すべきは、彼の口から「自我表現」という言葉が飛び出していたことだ。
「まずはじめに」という序文の中で村上は、自分は若い頃日本の近代小説にはまったく興味が持てなかったが、外国で日本語の小説を書くという仕事をしているうちに、日本の小説を意識せざるを得なくなったことや、アメリカのプリンストン大学に講師として招かれた時に、日本の小説について講義をするためそれに取り組むことになった経緯などを語りながら、次のように述べている。

「僕はこれらの作家(引用者註:日本の近代小説家)が小説を作り上げる上で、自分の自我(エゴ)と自己(セルフ)の関係をどのように位置付けてやってきたか、ということを中心的な論題に据えて、それを縦糸に作品を読んでいくことにしました。それはある意味では僕自身の創作上の大きな命題でもあったからですし、またその『自我表現』の問題こそが、僕を日本文学から長い間遠ざけていたいちばんの要因ではあるまいかと、薄々ではあるけれど以前から感じていたからです。」

この文章を読む限り、彼は「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」を明確に区別している。そして、大半の日本文学が「自我表現」でしかないことを暗に主張しているようだ。
村上春樹のこの問題意識が、日本の現代小説を巡ってどのように展開されていくのか、これは是非見届けなくてはならない。僕は夢中になって頁をめくった。

すると、僕の目の前に、ある衝撃的なものが出現した。
それは村上の文章ではなく、彼が手書きで描いたきわめてシンプルな図であった。

簡単な図ではあるが、言葉で説明するのはまどろっこしいので、暇と興味のある方は、この本の文庫版62ページを見ていただきたい。それは「自我」という小さな固まりが中心にあり、「外界」という広い世界が外側にある、その自我と外界に挟まれた中間地帯が「自己(セルフ)」であるという図だ。要するに、二重丸が書いてあって、一番外が「外界」、中心が「自我(エゴ)」、小さな円と大きな円の間が「自己(セルフ)」というものだ。

彼はこう述べる。
「図にしてみると比較的わかりやすいのですが、僕らの人間的存在は簡単に説明すると図(1)<62頁>のようになると思うのです。自己(セルフ)は外界と自我(エゴ)に挟みこまれて、その両方からの力を等圧的に受けている。それが等圧であることによって、僕らはある意味では正気を保っている。しかしそれは決して心地よい状況ではない。なにしろ僕らは弁当箱の中の、サンドイッチの中身みたいにぎゅっと押しつぶされた格好で生きているわけですから。」
「でもとにかくこれが基本的なかたちです。作家が小説を書こうとするとき、僕らはこの構図をどのように小説的に解決していくか、相対化していくかという決定を多かれ少なかれ迫られるわけです」

彼はこのような観点から、さまざまな作家―吉行淳之介、小島信夫、安岡章太郎などのいわゆる戦後文学の「第三の新人」と呼ばれる人々―の短編小説を図式的に解説する。それはそれで面白く興味深い分析になっている。

別の場所で村上はこう述べる。
「僕らは―つまり小説家はということですが―自我というものに嫌でも向かい合わなくてはならない。それもできる限り誠実に向かい合わなくてはならない。それが文学の、あるいはブンガクの職務です。」

これはきわめてまっとうな主張である。ただ、なぜ彼はここで「文学の、あるいはブンガクの職務」という言い方をするのだろうか。彼は自分の作品が「文学」ではなく「ブンガク」だという自覚があるのだろうか(そうだとすれば、彼はそれを肯定的な意味で捉えているのかもしれない)。

では(ここが一番重要なのだが)、村上春樹自身は、自我というものに誠実に向かい合っているのだろうか。
僕にはどうもそうは思えないのである(彼が不誠実な作家だと言いたいわけではない)。
彼が他の作家を評した表現を模して言うなら、村上春樹は、むきだしの自我に誠実に向き合うふりをしながら、その実は、自我に暖かい毛布をかけてそれを包みこんで、その本性を見ないようにしているように僕には思われる。

そもそも、彼の中には、「自我というものは本来存在しない」という発想はまったく存在しない。もちろん彼がそのような発想を持たないことを批判するつもりはない(そんな発想を持つ作家の方が珍しいだろう)。言いたいのは、彼が「自我と対立する世界、その中間地点にあって伸びたり縮んだり変形したりするものとしての自己」という閉ざされた図式を<強固に自覚しながら>小説を創作しているということだ。この<強固に自覚しながら>という部分がポイントで、おそらく、この点が村上文学の最大の特徴ではないかという気がしている。

したがって彼の小説の「答え」は、常に主人公が「傷を持ったエゴを抱えながらなんとか世界と折り合いをつける」という地点に収束し、自我破壊によって現れ出る「私=世界」という認識には決して到達しない。

芸術作品というものには、意識するにせよしないにせよ、また成功するかどうかはともかくとして、自我を超越しようとする志向性(それは自我破壊への志向性でもある)が必ず内在されていると僕は思っている。ところが、村上春樹の小説にはそれがない。というか、著者がそれを明確に拒絶しているから、構造的にそのような志向を持ちようがない作品になっている。だから、彼の作品は、どことなく自閉的で自己完結的な印象を与える。

◎村上春樹が語る村上春樹の作家としての致命的な弱点

その後、村上春樹が書いた『意味がなければスイングはない』という音楽評論を読んでみた。これも大変面白く読んだ。彼の評論は実に読みやすく面白いのに加えて、実に鋭い。そして、時にはその鋭さが自分自身に跳ね返ってくる危なさがある。

村上が、現代ジャズの第一人者ウィントン・マルサリスについて評した、「ウィントン・マルサリスの音楽は、なぜ(どのように)退屈なのか?」という一編がある。
この中の次の一節は、まさに村上春樹本人に当てはまるような気がしたので、引用する。

「こういう言い方は酷かもしれないけれど、ウィントンの演奏からは、『この音楽を通して、自分はどうしてもこういうことが言いたいのだ』という切迫した魂の欲求みたいなものがこちらにあまり伝わってこないのだ。だから本人はいかにも気持ちよさそうに朗々とトランペットを吹いているのだが、本当の意味での歌心のようなものが見えてこない。」
「マイルズ・デイヴィスにはマルサリスほどの、融通無碍なテクニックはない。人間的には鼻持ちならないエゴイストだった。しかしマイルズにはどうしても語りたい自分の『物語』があったし、その物語を相手に生き生きと届けられるだけの、自分自身の言葉があった。マイルズ自身の目が捉えた固有の風景があったし、その風景を相手に『ほら、これだよ』とそのまま見せられるだけの画法(語法)があった。だからこそマイルズと彼のオーディエンスは、その物語や風景を心に分かち合うことができたのだ。マルサリスには(まだ)それができない。」

◎村上春樹を超えて

新刊『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に対するアマゾンのレビューを読むと、これまでにないほど村上作品を強烈に批判する感想が多数目に付く。

中には、単なる罵詈雑言に近いような内容もあるが(そういうものの方が分かりやすくてレビューとしての評価が高かったりもする)、そこでの種々の批判が示唆しているのは、良質なエンタメでしかないものが高度な文学作品であるかのようにみなされていることへの(意識下の)反発のような気がする。

これは、多くの読者が無意識のうちに村上作品という「自我表現」の持つ一種の閉塞性に飽き足らず、文学における「無我表現」的なものを求めていることの一つの表れと解釈することはできないだろうか。

参考文献:
『東京奇譚集』(2005年)
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)
『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)
『若い読者のための短編小説案内』(1997年)
『意味がなければスイングはない』(2005年)

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◇評論 

★数子のマイナーカルチャー探訪「MUGAを探せ!」第1回

「あぶらだこ」に無我をみる
                 土橋数子

半年間愛読していたメルマガに原稿を書くことになった。妙な気持ちだ。無我をテーマになんて、単なるサブカル女には荷が重いのだが、先月は編集会議まで出しゃばり、あることないことしゃべり倒して自我三昧。お詫びのつもりで書かせていただきます。読者の皆様、おじゃまします。

まずは簡単なプロフィールを。世代はバブル、趣味はサブカル、職は転々としてゴーストライター。思春期の拒食症に始まり、アングラロック、バックパッカー、ブラック会社勤務、DV離婚等の現代の病を経て、現職。性に合った楽しい毎日を送っている。「大いなる宇宙と自分がワンネスだとわかりました体験」は、したことがないのであしからず。

興味の範囲はとっ散らかっているのだが、「アングラ・サブカル」のプラカードで名乗りをあげたので、まずは「あぶらだこ」というロックバンドについて書いてみたい。

あぶらだこ 1983年に結成。変拍子に難解な歌詞、異様な歌い方、パンク、ハードコアというジャンルに括りきれない孤高の音楽性、などと評されている。ボーカルの長谷川裕倫を中心として若干のメンバーチェンジがありつつ、現在まで活動を続けている。メンバーは全員勤め人の兼業音楽家ということらしい。

数年前、女優の成海璃子が、あぶらだこなどのインディーズバンドが好きだという発言をしたらしく、ネット上で感嘆符が飛び交った。若くてかわいい女優さんが、あぶらだこ。私の場合はかわいくもなく、まったく意外性もない「あぶらだことか好きそうな女」なのだが、それでも少しばかり若かった頃にあぶらだこを聴きながら、日々の勤務を乗り切っていた時期がある。

ここで歌詞をご紹介しよう。
「秘境にて」:あぶらだこ(通称 亀盤より)
山腹の主の小陰で 息を潜め天を塞ぎ 乾気な穴を一つ明け 畳の木目の卑劣  
溶解する大理石で 世界を許す 眉間をさす 魑魅魍魎の児玉  
ソフィア・ローレン 虚実皮膜(←ここがサビ?)
アルカリにて酸性 賛成にて反対 夏眠にて冬眠 蛋白にて潔白 詩的にて的屋 デリダにてダレダ 自立にて倒立 洞窟にて卑屈 卑怯にて秘境 汚水を啜り 雨水を食べ 塩水を拝み 睡蓮を握り かやを噛む道化師 ベンガルタイガーの尻尾
吃り吃られ どこまでもどこまでも 悟り悟られ どこまでも 炮烙の桃源郷にて
只今参ります
                  (歌詞おわり)

えっと、漢字が多いな。もし日本漢字熟語保存委員会というような団体があれば、表彰ものだ。当用漢字の運用に最後まで反対していた、かの無我的数学者・岡潔(おかきよし)も喜ばれるに違いない。文意不明にて意味深長。これが韻を踏んでいるだけのダジャレであったとしても、それはそれで許すと思える程、魂を揺さぶられていたねえおかしいでしょ若い頃。人生いろいろあった後の今聴き返してみても眼前に漆黒の宇宙が広がる、コスモミュージックだ。

いずれにしろ、あぶらだこの歌詞は哲学的とも前衛的とも評されているので、無我っぽいと言えばどの曲も全編そう聴こえる。ここでは私なりに的を絞って無我を見いだしてみよう。

初期のアルバムの中から一曲ご紹介する。
「象の背」:あぶらだこ(通称 木盤より)
なぜ生きているのか分からなくて一人で外に出てみる  もっと自由の偽善の嘘で楽しく暮らしたかった  僕らの未来は全然暗くないと信じてみる  嫌われ者の行く先は聖人を超えて快感  貧困の翼を靡かせて歩く象の群れの声  象の上に乗って君らをみんな踏み潰してあげたい

                  (歌詞おわり)

まず一行目。この衝動の描写に共感する。なぜ生きているのか分からなくて一人で外に出てみたこと、あるあるある〜。後半は、ぼやっと聴いていると社会からつまはじきにされた者のウサ晴らしのように思える歌詞だ。しかし、違うのだ。「もっと自由の偽善の嘘」とは、人が得てしてはまりやすい「個人的幸せの追求に躍起になる、そこに安住する」といったことを指しているのだと思う。聖人は嫌われ者として現れるものさ。そう、このことに私たちは「踏み潰されて」からでないと気づかないんだ、気づかないんだ〜〜〜!!! コホン、失礼しました。

最後に同じアルバムから一曲。私のあぶらだこテーマソングをご紹介する。
「パラノイア」:あぶらだこ(通称 木盤より)。
打ち砕かれたのは 43回目の春 霧の中で遊ぶ 7人の小人の山
救われたのは ユダの紙きれ一つ  黄泉の国から  プランクトンの嵐
気がつかなかったのは 後ろから4つ 眼が 二つとも遠くを見る 冷たい血管の中まで
ただ うろたえる ただ うろたえる 忘れかけたのは ただ うろたえる

                  (歌詞おわり)

この曲を、繰り返し聴いて、通勤していた。心の均衡をサポートしてくれていた。タイトルの精神疾患については明るくないが、タイトルから受ける印象の割に曲は明るく、心地よい疾走感がある。「これがパラノイアなら、パラノイアって悪くなさそう」なんて思ってしまう。ふと思う。これは長谷川さんという人の無我体験ではないのだろうか。こうした体験は精神疾患と呼ばれる状態とも紙一重であろうことは、想像に難くない。

「二つとも遠くを見る 冷たい血管の中まで」あたり、「見る」という認知行為がいつもとは違う位置に逆転したような、うらがえったような座標に立ち、「うろたえる」。このうろたえ方が、なんというか、落ち着いているのだ。歌詞だけだと、肉眼だけだと分かりづらいのだが、歌を聴くと見える。もう肉体を突き抜けて宇宙の彼方からの視点になったので「ちょっとうろたえてみせている」という風にも見える。それくらい、解き放たれている。

このバンドのアルバム名は一貫して「あぶらだこ」だ。今に至るまで活動の仕方も一貫している。音楽業界は「昔ちょっと売れて、今は過去の人」というケースが多いように見えるが、売れもせず、辞めもせず、おそらく会社勤めをしながら音楽を続けているその活動スタイルこそが、まさに無我的バンドだと思う。

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★編集後記
◎今月は、土橋さんの新連載が始まりました。「マイナーカルチャー」という領域でいろいろなアーティストや作品を紹介していただけるとのことで、こちらも楽しみにしています。最近は、観念的なものは一切、受け付けなくなってしまいました。身体感覚から生まれた言葉、思想、表現だけがリアルだなと思います。ただ、自分の感覚に満足してしまうと何もする気が起きないので、多少、観念に触れて触発されることも大事かな、と。(那智)

◎MUGAのバックナンバー電子書籍の第2弾をつくってみました。今回は6号から10号までを特集号という形でまとめています。

今回は菊地氏との対談・インタビューやウルトラリンパ講座、内城菌取材など、わりと「健康志向」の内容がまとまっています。

以下のアドレスにアクセスすれば、パソコンでもスマートフォンでも読めます。目次の欄をクリックすれば、記事別に飛べます。
http://p.booklog.jp/book/69885/read

前回も書きましたが、たぶん一番読みやすいのは、iPadやiPhoneのようなタブレット端末で、ePub版をダウンロードして読むことだと思います(右側の「ファイルをダウンロードする」をクリック)。本をめくるような感覚で読むことができ、極めて快適で自分で初めて読んだときは感動しました。

第1巻は現時点で延べ600人以上の方に読んでいただいているようです。好評をいただければ今後も作成していきたいと思いますので宜しくお願いします。(高橋)


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  • 名無しさん2013/06/22

    ウルトラリンパの人の自画自賛はもううんざり。どこが無我なのか?村上春樹の記事もそうだが、世間を自分の価値観で批評してるだけのようで、趣旨ずれなのでは?

  • リタ2013/06/19

    ウルトラリンパのお話に今回も自分を省みました。エネルギーが変わると人との出会いが変化するとか、運との関わり方とか、いろいろ説いて頂いた感じです。

    村上春樹さんの作品を斬ってましたね。自我表現としての魅力や多くの人に支持される所以などのお話に(今まで興味を感じなかったのですが)読んでみたいなあと思いました。閉ざされた感覚の二重丸のお話しで自我と無我の違いが、目からウロコみたい!分かりやすかったです。

    マイナーカルチャーといわれる方々の個性を貫くスタンスや、その趣向の醍醐味とは。。興味深い新連載が始まりましたです。あぶらだこさん、頭のいい音楽だなあと思いました。

  • 名無しさん2013/06/15

    いつもありがとうございます!

  • 名無しさん2013/06/15

    詩、菊地さん、あぶらだこ、村上春樹と話題がそれぞれ違って面白かったです。

    現在のエセスピが外を遮断するものなら、無我表現は外に関っていく方針が健康的だと思います。