芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第22号

2013/05/16

MUGA 第22号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇アート

・詩

『季節の詩』     rita

◇座談会

無我表現研究会編集会議  2013 5/3 in秋葉原

キリスト教的表現の再評価 

那=那智タケシ(ライター・無我研代表)
高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
土=土橋数子(ライター)

◇評論

コンピューターは無我か? 〜コンピューター将棋に想う
高橋ヒロヤス

無我的観照第8回

ロダンの創造に見る新たな時代の芸術         
那智タケシ
 『ロダン』リルケ著 高安国世訳(岩波文庫)


日本近代絵画における無我表現
〜坂本繁二郎と熊谷守一
高橋ヒロヤス


                                      
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◇アート

★詩

季節の詩     rita 


  【・花水木・】
  
ぼくの窓に小さくピースをして生まれた花水木 
  
青空の白い雲よりも白く 
ビルの白い壁よりも白く 
白い小鳥が群れをなすように咲いている 
  
白は世の中から剥がれ落ちた色じゃないって 
色の無い胸を張って 
そよ風に羽ばたくように咲いている 
  
花はわれもわれもと群れ集い 
大きな一つのチューインガムの 
白い素地になったの 
  
風船よりも膨らんで 
街路を、公園を、ぼくの心を楽しませたよ 
  
  
  【・鈴 蘭・】 
  
空は両手を開け広げている 
花々は足下を包んでくれる 
春爛漫の陽気に 
緑の波間へ舟を浮かべよう 
  
ゆらゆら揺らぐ丸い泡は鈴蘭の花
ぼくの舟底をとんとんたたいて挨拶するよ 
首を傾げてりんりん囁やいてるよ 
  
耳をすまして
しばらくしゃがんで聞いていたの 
  
心地よい水深に目をつむる 
昼寝をするように 
溺れるように 
  
そうして少しして 
寝言のうちに
「あのね、あのね、ほんとはね」って
ぼくの口から言葉がぽろぽろと浮上した 
  
光を浴びた輝くみなもへ 
黒いシミが織り込まれて消えていく 
  
ほんのひと時 
ぼくは気持ちを零してた 
  
  
  【・棕 櫚・】 
  
棕櫚の木が分かれ道に生えていた 
生ぬるい心象風景の突き当たりで 
舌を垂らして笑っていた 
  
どっちに行こうか迷っているぼくをよそ目に 
気持ちよく生殖活動に勤しんでいた 
  
ぼくは手放したくなくて守られたくて 
どうしたら難なく生きられるのか 
考えがまとまらなくて 
途方に暮れているというのに 
  
双方の難の重さを天秤にかけてみよう 
糖度計と塩分計を持ち出して 
これからの行路を推測しよう 
  
ところでぼくは 
どこへ行こうとしているんだろう 
どんな太陽を見上げたいんだろう 
想定先の到達地点は不明瞭 
  
定見が舌を垂らしてあざ笑っていた 
空っぽのぼくの腹を覗いて笑っていた 
何の構えも覚悟もないなんて! 
  
徒労感にぼくはやおら 
ユーモアの椅子に腰掛けて 
ゆるりと棕櫚を眺めたの 
  
ボサボサ頭の一本足オバケが 
茶目っ気たっぷりにウインクしたよ 
  
どっちへ行ったって 
たいして変わりはないものさ 
棕櫚で別れた二つの道は 
やがては気概の砦にて 
一つに交わるものだもの 
 

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◇無我表現研究会編集会議  2013 5/3 in秋葉原

キリスト教的表現の再評価 

那=那智タケシ(ライター・無我研代表)
高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
土=土橋数子(ライター)

●賀川豊彦、伊福部隆彦、出口王仁三郎

 土 賀川豊彦。現在に蘇らせたい人なんですけど。
 高 ぼくはこの人の思想はよく知らないんだけど、もし無我的なものがあるんだったら。
 土 そうですね。評論とか、昔、大ベストセラーを出したんですよ。「死線を越えて」っていう。
 高 それは知ってます。
 土 それ以降、昭和天皇と並んで海外に知られる日本人ベスト3か何かに入っていたんです。ノーベル賞候補にもなったらしいんですけど、おそらくキリスト教の正統派の人たちからわりと異端視されていたというか。
 那 キリスト教系なんだ?
 土 そうなんですよ。キリスト教系というよりキリスト教。カトリックでもプロテスタントでもなく、キリスト教。
 高 細かい宗派を超えた、直接的にキリストの精神に根ざした活動を。
 土 そうなんですよ。それで正教会に属していないので、いまひとつ、内村鑑三にはなれなかったという。そうですね、貧民窟に真実があるという考えでもってそこに飛び込んで。
 那 なるほどね。

※ 賀川豊彦=大正、昭和期のキリスト教社会運動家。戦前日本の労働運度、農民運動、無産政党運動、生活共同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創設者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。ノーベル平和賞に3回、ノーベル文学賞に2回ノミネート。

 高 ひとつひとつについて話し出すときりがなくなっちゃうけれど。あと伊福部隆彦さんですか? ダンテス・ダイジの師匠で有名な人。ご親戚が門下生だった? 珍しいですね?
 土 はい、珍しいですね。
 高 ぼくはダンテス・ダイジはよく読んだりしているんですけど、伊福部さんについてはあまり本とかも手に入らないし。
 那 完全に禅の人でしょ?
 土 そうですね。伊副部さんは書道家で、文筆家でもありました。
 那 昔ながらの禅師ですね。
 土 そうですね、親戚はお習字を習っていたくらいだと思うんですけど。親戚は売れない出版社をやっていて、そこで伊服部先生の本も出していたんです。会社はもうつぶれましたけど。
 高 そうなんですか。それはもう手に入らない? 絶版?
 土 この間、親戚の家に本がいっぱいあるというので、本を売るにはどうしたらいいかって。青空市で売ってくれないかって(笑) まぁ、古本屋探しておきますって言ったんですけど、もう80いくつで、いろいろ処分しようと思っているみたいなんですけど、本はあると思います。
 高 もし手に入るんだったら欲しいです。
 土 はい、持ってきます。
 那 昔の禅師とかって教養人ですよね。オールラウンダーというか。昔の人の方がすごいというか。空海までさかのぼるとあれだけど。
 高 大本教が好きってメールに書いてあったんですけど?
 土 いや、普通に出口王仁三郎とか文庫本で読んで。弾圧された経緯とかですね、どちらかというと弾圧された方に、共感というか、良いこと言っているのに、とかね。
 高 好きなんですね。
 土 9月8日が大本教にとって大事な日だと書いてあったんで、9月8日生まれなんで、なんか(笑)
 高 なんで大事な日なんですかね?
 土 本に書いてあったんですよ。
 高 12月8日に弾圧があったんですよね。捜索が入って。第二次大戦とシンクロしてる。
 土 大本教は数字に意味を持たせるので。
 高 数字を大事にしてる。
 土 占いとかそういうのがあって。それもだいぶ前に読んで、生長の家とかもけっこう好きで。好きというと語弊がありますけど、興味があって。
 高 そういうのをけっこう読んだりしてる。
 土 小さい頃、バス停で「白鳩」とか置いてあったりして。
 高 あまり身のある話になってないですけど(笑)
 那 とりあえずは挨拶がてら。こういうのが好きって。
 高 奥崎謙三が好きってことですけど、「ゆきゆきて、神軍」は好きだったけど、次の映画がひどかった。

※奥崎謙三=アナーキスト。昭和天皇パチンコ狙撃事件、皇室ポルノビラ事件やドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」への出演で知られる。自らを「神軍平等兵」と称していた。

 土 知人が身元引受人をやっていました。
 高 すごいな。
 土 それで。それで私がうっかり読書感想文を送ってしまったんですよ、彼に。
 高 獄中に?
 土 そうそう、そしたら最初の結婚の時に5万円くらい送ってきて、お金を。もちろん返しましたけどね。身元引受人の人に。
 那 パチンコで天皇のこと打った人でしょ?
 土 そうです、そうです。一時、ブームというか、取り上げられた。知人はかなり真剣に。たいへんなんですよ、ああいう人と付き合うの。
 高 そうでしょうね。あと、いただいたメールに書いてあった、画家の熊谷守一さんですか? ぼくも池袋の美術館で見てきたんですけど、すごいいいなって。志賀直哉の文庫本の表紙にもなっているんです。
 土 そうですか。そうかもしれない。よくいろいろ使われていますよね。「下手も絵のうち」って本があって、そこに書いてあることが「無我的」というか。改めてそう言っちゃうと、もっとすごい河合寛次郎とか出てきちゃうんで。切り口を変えて無我を見出したら面白い。
 高 すごいですね。まぁ、一通りこんなとこなんですけど(笑)
 那 引き出しが多くて頼もしいです。

●エンタメには「答え」がある。芸術には「答え」はない。

 土 私は悪名高きバブル世代なんですけど、少し上ですよね。
 那 でも、昭和40年代生まれというくくりなら同じってことで(笑) 
 高 お仕事はライターさんですよね。
 土 いちおう(笑)
 高 いただいた文章(メルマガへの感想)を見てそんな感じを受けましたよ。書いてる人だなって。ぜひね、記事もお願いしたいですよね。
 那 我々にはない切り口があると思うので。
 土 無我と言えるかどうかが大前提の問題です(笑)
 那 それ言ったら、何でもありだから、最近。何でも好きなものを書いてもらえばいいんですよ。ピンポイントでも結びつけてもらえれば。
 土 結びつけて。
 高 あまりガチガチにね、大上段な記事ばかりでは面白くない。
 那 AKBをネタにした時点ですべてがOKになったってことでしょ(笑)
 高 あれは拡げるためにというのもあったけど、何でもいいんですよ。
 那 書き手が少ないので。
 土 よくあのボリュームでやれていますよね。
 那 月一回だから。逆に言うと、それ以外のことやっていないし。
 高 書き手を増やしたいと思っていたんです。
 那 完全に無報酬の奉仕みたいなものですけどね。無料メルマガですから。好きな人なら何でも書いてもらえれば。
 高 仕事だと思うとつらくなるから、本当に好きなことを好きに書いてもらえれば。そのためにはある程度感性が同じ方向にないといけないんだけど。まったく違う方向いている人が好きなこと書いても違うけど、いただいたメールを見ると近い方の気がしたので。
 土 まぁ、スピリチュアルも嫌いじゃないというのが微妙なんですけど(笑)
 高 ぼくもそうですよ。
 那 ぼくがこの業界を知った時の拒否反応が半端なかったので、そっちにいっちゃったんですよ。
 土 (笑)
 那 別に、嫌いじゃないですよ。スピリチュアルは。あまり言わないようにしているけど、感覚的にはそっちの人だし。ただ業界が肌に合わないだけで。
 土 例えばどういうやつですか?
 那 まぁ、具体的には表立って言わないようにしているんですけど、なんかインスタントだなって。最近ね、わりとエンタメ系の小説とかも読むようにしているんですよ。
 土 はい。
 那 それで、元々文学好きの人だったんだけど、エンタメと文学の差ってひとことで言って何かなって、思った時に、何となく感覚的には線引きはあるとしても、自分の中で、「ああ、これだな」と最近思ったのが、エンタメには答えがある。文学には答えがなくて、生それ自体が答えというか、表現形式それ自体に意味がある。
 土 ええ。
 那 エンタメ系だったらトリックがあったり、落ちがあったり、犯人がいたり、人生ってこんなもんだよって答えがある。わかりやすかったり、安心したりする。それはそれでいいんだけど、じゃあ、スピリチュアル業界にそれを当てはめると、99%エンタメの世界。
 土 そうですよね。
 那 答えがあって安心? この迷い多き世界で、やっとここに答えがあったと。真実を教えてくれたと。でも、それエンタメで、これは癒しですよ、娯楽ですよって教えているんならいいんだけど、これが人生の答えだと教えちゃうから、全部が浅くなっちゃうっていうの? 方向性としては正しくても、それはあくまで元気付けたり、こっちの道が正しいって方向性だけで、それは答えではないんですよね。それが答えになった時に、人生は逆に浅くなる。だから、こういう業界ってエンタメなんだなって。エンタメだから人が集まるのかもしれないけど。
 土 まぁ、そうですよね。
 那 そして人が集まっているとこほど、本物なんだみたいになっちゃうと。ぼくは古臭い価値観かもしれないけど、文学があってのエンタメで、芸術があっての娯楽だと思っていて、その軸というか、それがない世界になっちゃっているというの? だから「答え」をコピーみたいに繰り返す人をたくさん見るけど、「今ここでOK」「あるがままでOK」みたいな。「今ここ」と「あるがまま」って言う前に、本当はものすごい自己否定とか、自己認識とか、自己破壊とか段階があるんですけど。自己陶冶というかね。
 土 そうですよね。
 那 それを全部省いて瞬間なら何も考えなくていいですよ、というのは違う。
 土 考えるなっていう言い方しますよね。
 高 考えさせないようにする。
 那 だからこれはエンタメなんだって気づいた時に、薄いなっていうかさ。その薄いものを本物だって教えている時に、それは罪だなって思う。あくまでああいうものは癒しだったり、道しるべであるべきで。方向性としては間違っていなくてもさ。
 土 うん。
 那 だから、そういうのおかしいんじゃないかって思うような人が連絡を取ってきてくれたりするんですよ。だからスピリチュアル自体を否定しているわけじゃなくて、感覚的にはそれはあるけれど、あまりにアミューズメント的になっているから、同じと思われたくないから言えなくなってきたという(笑) 「あるがまま」とか今、言いづらい。単に癒しの道具ですものね、今。そういうものは生きるか死ぬかの命がけのものですよ。いろいろなものを破壊して、落として、地に足着いて、落ち着いて「あるがまま」。自分が自分になるというかね。そこでようやくぶれない。認識から先の道なんですよ、あるがままって。だからこういうところって知らなかったからびっくりしたんですよ。
 土 事例として上がるのが、今ここ系とかそういうのですか?
 那 それとアドヴァイタ系? すべてが真我なんだからごちゃごちゃ言うなみたいなね。これもまた同じ原理。ものすごく攻撃的で、もうカルトですよね。怖いですよ。呪文みたいに同じこと言っている。
 土 ええ。
 那 でも、そういう人に、「それ、違うよ」と言ったら、揺れちゃうでしょ? ものすごく傷つく。傷つくから相手を否定しようと攻撃してくる。あるいは世界から異なる存在を排除しようとする。そんな風に傷つくってことは、その真実は自我の延長線上にあるものでしかないってことです。中核に固いに自我があるのと同じ。自我が真我になっただけ。だから無我って言葉にあえてこだわったのは、「私が」とか、「真我が」とか、「今ここが」とか、そういうのも全部捨てて、つまり自我肯定のベクトルを全部捨てた先に見えてくるもの、触れるものを手探りで表現していければということなんですよ。それは確かに事物のように存在するけれど、答えじゃなくて、手探りでつかんで、試行錯誤しながら工夫して表現してゆく、未知なものなんです。未知な空間だから自由があって、自由があるから創造があると思うんです。
 土 こんなんでいいはずはないなって思いつつ、心が折れている人には、あまり言っちゃ悪いのかなっていうのはありますよね。
 那 だから普段は言わないですよ。そこでおかしいとか。ブログでも直接は言わない。こういうメルマガみたいなコアな場所だから言えるけど。逆に、そういうのに触れて精神病みたいになっちゃった人がいて、聞かれたらある程度論理的に、こういう理屈で苦しんでいると思うよというのは助言します。なんでかって言うと、論理的に言える人はいないから。金取ってるから悪いという人はいますけど、なぜそれが人を逆に苦しめるのかということを論理的に言える人がいないみたいなので。
 土 そうですよね。その人がいいのならいいのかな、とか思っちゃうし。うやむやにしがちなので。
 那 でも、これを表立って言うと、そういうことのためにやっているのではないから。ただ、ピンポイントで来てくれた人にはね、少し言うくらいです。要は新興宗教ですよね。カルトから抜けた人は悪魔になったとか。精神的に不安定になるから。それとまったく同じ理屈を感じちゃうんです。例えば、昔、土橋さんが原理研に喧嘩を売ったことがあるということですけど、まるきり同じなんですよ。
 土 ええ。
 那 原理を信じない人は悪魔の側に落ちるとか、そういうことでしょ? それと近いものを感じちゃう。
 土 原理研も19歳くらいの時の話ですけど、センターに誘われるわけですよ。
 高 ビデオ見に行かせられる。
 土 そう、ビデオ見に行って、何かおかしいんじゃないかって。段階的に言ってきますよね、最初、原理って言わないで。
 那 ちょっと勉強するお茶会みたいのしませんか?という感じ。
 土 そう、すごい夜中まで、みんなを幸せにしたいと言っているんですよ。すごい真面目なんです。
 那 皮肉なことに、真面目な人ほどそうなってしまう。頭の良さも関係ないんですよね、あれ。ぼくも早稲田でしたけど、そっち系の人はよくキャンパスでうろうろしていましたよ。早稲田の政経とかね、頭いい人ほど、真剣に考察した結果、これが真理だと判断した、となってしまう。カルトのシステムというのは怖いですよ。これほど真面目で頭よくても、その中に入っちゃうとわからなくなってしまうんだって。
 土 若い頃から洗脳というのが興味あるテーマで、オウム真理教とかで脱洗脳した人誰でしたっけ?
 那 苫米地氏? 
 土 そう、それとかヤマギシ会とかにも興味があって、なぜに洗脳されるのかということですね。そういうプロセスになぜかわからないけど関心があったんです。
 那 カルトのシステムというのは、そのカルトの内部では筋が通っているのが特徴なんです。ヤマギシでもオウムでも、原理でも。隙がないんですよ。その中にいると、筋が通っているから完璧な論理に見えてしまう。真実というのはこれだったんだと真剣に考察した結果、信じてしまう。一歩外に出ると違うんだけど、中にいるとわからなくなっちゃう。知で追えば追うほど、思考を積み重ねるタイプであればあるほどはまっちゃうんですよね。直感的に何かおかしいとか、体感覚で、まぁ、今の人はそういうの減ってるけど、ある種の人は生理的に受け付けないというのはあると思うけど、真面目に勉強、勉強でやってきた人ほどはまる気がする。そういう人を実際に見てきたから、それがわかる。洗脳ってこういう風になるんだって。人間がまるきり変わってしまう。顔つきも、目つきも。環境や条件付けによって、どんな風にでも人はなってしまうというのを目の前で見ることができる。
 土 ええ。
 那 だからよくできてますよ。ぼくも新興宗教については個人的に興味があって、いろいろ読んだ時期はあるけど。一見、その中では正しくなってしまう。それを信じている人は、この教祖が真のメシアで間違いないんだと言う。間違いあるだろ、と思うけど、全人生を賭けて間違いないと。
 高 スピリチュアル系でもカルト化しているところがありますよね。
 土 偵察に行ったことはあるんですけど、みんなどっかんどっかん笑っている。何か違うな、と。
 那 テクニックがあるんでしょうね。

●自分の外の断片を全体化した時に、カルトが始まる

 土 オーロビンドという人がいて・・・
 高 シュリ・オーロビンド。
 土 そうそう、インドでオーロビルという場所に行ったんですよ。インドは観光というか、ヨガとかそういうのではなく、ただ猿岩石みたいにインドに行って。命からがら帰って来たんです。
 高 ご主人がアウトローな感じ?
 土 前のね。私は田舎者のまじめっこで、向こうは都会の不良っぽい感じの人。田舎者だからかっこいいと思っちゃった(笑)
 それでオーロビルという所に行ったんです。中に入れさせてもらって、観光気分で行って。そこは理想都市ということで。インドというのはどこもすごい貧民窟みたいな感じなんですけど、その町が理想都市と普通にインドの人たちが住んでいる町の落差が激しすぎて、何か受け入れられないというか。そういう気分で帰って来たんですけど。そこは白人や日本人の人が移住していたんですけど。
 高 ラジニーシもアメリカにアシュラム作って失敗しましたけど。金持ちの白人相手に。
 那 なんであの人人気あるんだろうね?
 高 本がたくさん出ているからでしょ?
 那 あの人の本読んでわかるのは、やっぱりエンタメなんですよ。こういう修行したらこうなるって答えが書いてある気がする。ハートが開くとかどうとか。わかりやすいし人気が出るのも何となくわかる。雰囲気もそれっぽいしね。クリシュナムルティは一見、わかりにくいけど文学ですよね。文体自体が形式自体が彼の境地を表現できてる。翻訳でもそれがわかります。ラジニーシはエンタメだと思う。あえてそれを広めるためにやったって言ったらそうなのかもしれないけど、そこまでこっちは考える必要もないから。
 土 何となく、私もそんな気がします。よく読んでの結論じゃないですけど。
 那 ぼくもたいして読んでないですよ。でも、一、二冊読めばわかります。マニュアルというか、信仰と同じですよね。
 高 一人のグルをあがめる宗教。
 那 例えば、ラジニーシから学んで修行した人が、ラジニーシをこういう風に否定されて傷つくとしたら、それはラジニーシが彼の自我の延長線上の存在に過ぎなかったということです。クリシュナムルティの私生活でいろいろ言う人もいるけど、自分は興味もないし、むしろいろいろあって当然でしょ? 逆に、文学的だな、と感じましたよ。だからそこで傷つくとかもない。一人の人生ってのはとんでもないものですよ。イメージとか理想とは全然違う。マザーテレサもガンジーも一般的な「聖者」のイメージとは全然違う生活を送ってきたわけでしょ? とりわけ内的生活なんて想像もつかないですよ。だから一人の人生が100だとしたら、グルなんて断片じゃなくちゃいけないんですよ。人は、人生の偉大さ、大きさをこそ信じるべきで。グルが自分より大きな断片になってしまった時に宗教が始まる。
 土 最初から、そうなんでしょうか? それとも途中から変わっていってしまうんでしょうかね?
 那 断片を全体にしてしまった時に、変わってしまう。
 土 ああ……
 高 探求している間はいいんだけど、それを固定化した真実だと言ってしまった時に、カルト化していく。答えを得たと思っちゃったらそこでストップしてしまう。
 那 最近、思うのは、スピリチュアル系の人がこういう修行をしたらこうなるとみんな言っている。ぼくも多少言っている。でも、それって何々に「ついて」の記述なんですよね。「それ自体」を表現したものは皆無に近い。例えば、ここにコーヒーがある。コーヒーとはこういうものだという記述はあっても、コーヒーの味を感じさせるような表現はほとんどないということです。一人の人間を見てみても「それについて」語る人と、「それ自体」になった人では天と地ほどの差があって、それ自体を感じさせるような人はほぼいないということですかね。問題は。肉化していないんですよ。だから社会的指針としての影響力を持たない。
 高 だからそれは言葉によって説明するのは不可能ということでもある。それが唯一できるのが芸術ということになる。
 土 そうですよね。
 那 逆に言えばね、芸術とか、文学とか、コンテンポラリーアートでも何でもいいけど、そういう世界には良くも悪くも評論家がいて、審美眼がある人がいて、「これはまがいもんだ」とか「これは本物だ」とか、それなりの価値判断があると思う。相対主義ではなく、絶対的な軸のようなものが。好き嫌いの相対主義だけだと、文化は堕落するんです。今の日本はもろにそれですよね。「私が好きなんだからいいじゃん」で終わり。でも、それは横軸でしかないんです。成熟したジャンルには縦の絶対軸がある。ピアノとか、バイオリンでもね。例えばモナリザだったらこれは誰が見ても本物だと。事物である、宇宙である。じゃあ、スピリチュアル業界にそれがあるかって言ったらないわけでしょ?
 土 そうですね。
 那 だから何が本物でまがい物かっていう軸がない。そこに浅さがある。成熟していないから。逆に言うと、「それまがい物だよ」と言った時に、それを全人生賭けてやっちゃっている人もいるから言いづらいというのもあるんだけど。
 土 わかります。

●具体的表現の中の変性意識

 土 心理学的なアプローチとか、トランスパーソナルとかありますよね。それはそれで否定のしようがない。自分が求めているものがどこにあるのかなと考えると、特にスピをさまよっているわけではないですけど、家のことも忙しいくせにこういうことになぜ興味があるかというと、幼少期のとある体験があるんですよ。
 父親が仏教の話とかする人で、今は認知症で話できないんですが、小さな時にその父親が台所に立っていたんです。それを見た私が「これはうちのお父さんだな」と。「この人はうちのお父さんだけど、ある側面では商店の店長」。でも、そういう意味ではなく、「うちのお父さん」「うちのお父さん」というレッテルを貼らないと「存在」って感じに見えちゃったんですよね。「うちのお父さん」というシールを貼らないと何かわからないものに見えた、人が。そういう感覚というのがちょいちょいあって、認知というものですかね。これって何なんだろうなって?
 那 それはお父さんがそういう人だったのか、それとも自分の目がそういう風に世界を認識したのかっていう……
 土 それはお母さんでも良かったんですよ。たまたまそこに立っていた人がお父さん。あれっ?っていう。この人は私のお父さんって存在でも、商店の店長でもないって見えてしまった。
 那 社会的記号ではなく、存在そのものが見えてしまった。
 土 それで自分で安心できるレッテルを一生懸命貼っていた。
 那 それが俗に言う大人になる過程と言われるんだろうけど(笑)
 土 そうかもしれない(笑)
 那 社会的生き物になってしまう。
 高 その辺の折り合いというのはついたんですか?
 土 大丈夫です。子供の頃のことなので。一瞬、そうなるとか。子供の頃、目が見えていない時に、人は違う姿をしているだろうと信じ込んで、瞬きの瞬間を見逃さないようにやってみたりとか。宗教というか、何か、世界を認知する。
 高 タモリじゃないけど、実存のゼロ地点。レッテルを全部剥ぎ取った時の存在それ自体というか。
 土 ええ。
 那 これが、これであるとか。水が、水である、とか。氷水じゃないよ、とか。ぼくなんか徹夜マージャンして、二十四時間集中して、頭てんぱった状態で明け方店出た時とか、今までと違う世界があったりしてね。存在それ自体が輝いているような世界がある。日常のレッテルとか条件付けがいつもより外れているから。子供の時はそういうのが強い。
 土 そうですね。私も昔、カラオケで徹夜した翌朝とか、自分のために世界がある、みたいにまぶしく感じたりしてね(笑)
 那 宗教的な修行というのもそういうのを意図的に作り出すのかもしれないけれど、日常の中でもままありますよね。アルパインクライマーが氷の絶壁と何日も格闘して、凍傷になって、ようやく登って見た光景とか。神々しい。宗教に限らず何でもある。
 土 そうですね。昔、80年代とかって良くも悪くもアンダーグラウンドカルチャーっていうのがいっぱいあって、変性意識というかね、そういうのを求めて、カルチャーとしてやっていたと思うんです。
 那 サイケ的なね。
 土 そうですね、サイケに限定せず、感動というものも含めて変性意識を求めていたと思うんですね。80年代のアンダーグラウンドカルチャーは。それで今の若い人は何を求めているんだろうって思った時に、昔みたいに少ない小遣いの中からライブに行ったり、レコード買ったりしないで何をしているんだろうね?って知人と話した時に、それでスピリチュアル行ったりしているかなって話していたんですけど。
 那 でもさ、アングラっていうのはある種カウンターカルチャーでしょ? 
 土 ええ。
 那 80年代のバブルとかで、記号社会の価値が高まって、反動として「これ全部ぶっ壊したもんがリアルじゃないか」っていう、対抗文化だったわけじゃないですか? 昔のヒッピーとかもそうだったのかもしれないけど。じゃぁ、今って何にカウンターするかっていうと、現実もそんなたいしたことなくて。
 高 最初から相対化されちゃっているから。
 那 そう、若者たちにとって、否定したり、乗り越えたりする壁というか、それだけの魅力もない社会だから。だから、ぼくも思うんですよ。今の若い人って、そういう感性が鋭い人って、何が好きで、どういう所に生息しているんだろうなって。
 土 そうですね。昔は仮にカルチャーを通して変性意識というか、違う世界っていうのを感じる機会があって、そういうのがなくなって、普通にテレビで流れている音楽ではそういう気分になれないものなので、それで何となくカルチャーを通した感動を通して変性意識に入るんじゃなくて、すぐに変性意識に入るにはどうすればいいですか?っていう感じで(笑)
 那 すごいわかる。だから、端的に言っちゃうと、教養がないんですよ。まぁ、ぼくらも昔の人に比べたらないのかもしれないけど。
 土 そう、だからお薬とかそういうのに走ってみたり。ものを知っているからいいというわけではないんですけれども、私たちみたいなカルチャー女子は詳しい男の子みたいなのが好きって感じで(笑)みんなミュージシャンにしろ何にしろ、いろいろな音楽を聴いて、耳を鍛えてみたいなところがあって。
 高 今、教養って呼べるものがないんですよ。
 那 だから、リアルが何かを感じられない。リアルな具体的表現に触れていないから。判断材料がない。
 高 だから無我研ではそうした情報を提供すればいいと思っているんです。本物と偽物を見分ける判断材料がないとしたら。
 那 これだけネットで情報が何でも手に入れられるように見えて、やっぱり、本物って自分でつかめないんですよ、最初は。
 土 そうですよね。
 那 これ、よく話すんですけど、昔は深夜テレビでタルコフスキーとかやってて、「八時だよ全員集合」見てた男の子が、何だこの映像は?ってなるわけですよ。カルチャーショックを受ける。驚きですよね、こんな世界があるんだって。そういう異世界、異物との出会いっていうのは自分では選べない。突き破るっていうの? ネットっていうのは、基本的に自分の思考の範囲内のものしかつかめないんです。自分でクリックするんですから。
 土 そうですよね、結局いろんなところから様々な情報をたくさん得ているようで、自分とつながっているとこからしか。
 那 そうです。だから、甲殻機動隊で「電脳」というキーワードがあるんですけど、人間にコンピューターを埋め込むことで意識が拡大すると。でも、それは拡がらないと思う。SF的な幻想としてはわかるけど。一人の人間にとって、世界を広げる情報というのは常に自分の枠の外から来るものだと思う。常にまったく意外な形で訪れる。意外な形でリアルが現れて、世界を拡げる。何で意外かというと、自分の外にあるから。自分の思考世界の外にあるから、「嘘?」っていうものがあるんですよね。こんなすごいリアルがあるんだ、とか。驚きっていうの? ネットからじゃなかなか難しい。もっとリアルな現実世界のつながりの中で、ふっと出てきたりする。他人との関わりの中でね。だから意外と今の若い人って、自由に何でも手に入れられるように見えて、手に届く範囲しかつかめない。そういう狭さとか浅さを感じてしまうんです。その狭さとか浅さは、その人の世界観そのものになってくる。当然、感受性も表現世界もその世界の中からしか出てこないわけですから。常に開いてあるというのは、手に届く範囲までが世界というネット的なものと反対に、未知なるものに開いてあるってことだと思うんです。

●村上春樹的世界観の弊害

 那 今の若い人はある種のトラウマ論が好きですよね。
 高 今のテレビドラマでもそういうのが多い。村上春樹的世界観というのが蔓延しているような気がする。
 那 こういう過去があるから、今の至らない状態が許されていると言っちゃう。そういう人もすごく増えている気がします。これは中年の人にもたくさんいる。
 土 アダルトチルドレンというんですか? 親に対してのいろいろなことを最後まで言っていて、今の自分を肯定するというか。
 高 自分を正当化しゃってる。トラウマで。
 那 特別な自我の履歴なんて大してない。みんな何かあるんだから。
 土 でも、「私がない」ということって、普通に言ったら、とっぴですよね。
 高 スピリチュアル業界で無我だと言っているけど、その無我もまた違う。だから難しいですよ。
 那 ぼくはそういう人たちと会ったことはないけど、そういう人に無我って何かって聞いた時に、なんて答えるのかなって。自分なら「これだよ」(目の前のコップを指す)、「これだよ」と言うと思う。自分も「これ」と同じ。石ころやコップと同じと捉えられた時に無我で、世界で、構成物質のひとつとして捉えた時に、足が着く? 妄想の無我ではなくて、リアルな事物としての。
 例えば、ぼくなんか麻雀やってるけど、「勝ちたい」とか、「やっつけたい」とか妄想が生まれるとリアルな流れとの分離が生まれる。でも、「自分は今こういう状態だ」と。「ミスった後だから苦しい状態にある」とあるがままを認識した時に流れに落ち着く。リアルにつながって、流れを動かすこともできる。だからだいたい勝てるけど、状態を測って、その中で正しい行為があるという原理的なものを感じているから。人より早く修正して、早く触れることができるから負けにくい。それは無我的な観念ではなくて、触れるものであって、自分も「これ」と同じくらいのところまで降りたところで、無我って感じ。その時、世界が地平線に向かって拡がっていく。まぁ、「こうやって勝ってる」とか、こういうことは自慢っぽいからあまり言わないようにしてるけど(笑)20年以上試行錯誤してきてようやく落ち着いた感じです。
 ただ、最近ですよ。ああっと。常にこれくらいで落とせるなって。「無我」って言っても、それは大抵観念だと思う。ぼくは自己否定から入るべきだと思っていて、「おまえ、どうしようもないよ」って言われて震えてしまうような人はまだ全然だめだと思う。真実は同じだから、表現も同じですよねっていう人たちはたくさんいるけど、もし事物そのものになったら、絶対違う。最終的には同じこと言うんだね、と言う人はいるけどそれは違う。それは芸術になるんです。真実というのは究極の個性を通して表現されるべきで、ああいう風な宗教的ごたくにはならない。まぁ、こういうこと言うと人気ないというね。
 土 でも、それを感じている人も潜在的にたくさんいると思いますよ。
 高 でも、ずっと読んでくれているということは、土橋さんもそういう感覚の人なわけですよね。
 土 いろいろ、似たようなジャンルの仕事もしてきて、たどり着いたのですが、興味深く読ませていただいています。
 那 マイノリティがマジョリティになるためには、やはり普遍的な表現が必要になるわけですけど、アートとして表現することそれ自体は難しくても、表現されたものを紹介することはできると思うんです。だから、土橋さんはいろいろな引き出しをお持ちなのですから、ぜひ書いて欲しいんですよね。読者の方々の中にも、コンセプトに共感してくれる方がいたらぜひ寄稿していただければ、どんどん拡がってうれしいんですけどね。

●タモリはすごい

 土 先月号で高橋さんの無我タモリの原稿を読んですごく共感したんですけど、タモリはすごいと思う。小学生の頃からファンなんで。
 那 ぼくもタモリはすごいと思う。今はちょっと、業界の中で記号的存在になってしまった感じだけど。
 高 日本の芸能界のど真ん中で、誰でも知っている人なわけでしょ? その人が実はそういうものを表現しているということだから、そういう見方ってなかなかしないじゃないですか?
 土 うちの旦那はこういうの興味ないんですけど、タモリが無我だってって言ったら大納得で「だって、早稲田の哲学科でしょ」という一般人の反応なんですけど(笑)
 那 具体的な影響力があると思うんですよね、ああいう人がやっていたというのは。あの番組を。芸人でも、俳優でも、スポーツ選手でも、新しいものを表現している人がいたらものすごく影響力がある。例えば、イチローとか、これまでと違う軸があるような人。社会と関係ないところで自分の軸がある。
 土 そうですね。
 那 潜在意識の上でもものすごい影響力があるからメジャーな表現者のスタイルというのはとても重要なんですよね。
 土 イチローと松井なら、松井の方がそうだ、と言うイメージが一般的にある。でも、イチローの方が仏教的だと河合隼男からも言われていたし、どうなんだろうと。松井は全部の打席覚えていて、すべてわかっているとか言う人もいる。
 高 イチローってどうなのですかね?
 那 イチローはそういう人だと思う。社会性と関係ない天地の軸があって、その中を生きているよね。余分なものを落として、自由になってしまった人。

●無我表現の究極の形=キリスト

 高 ちょっとブログにも書いたんだけど、「広島」とかの交響曲を作ってる佐村河内守って知ってます?
 土 はい、最近、知人がはまっていて。
 高 はまってる? よくNHKとかでドキュメンタリーやってますけど。
 土 泣けるよーって。テレビ見ないので私はドキュメンタリー見ないんですけど。
 那 最近、やたら出てるよね。ぼくも見ました。
 高 あそこまで過酷な人生を送っていたら、ある境地に達しているかなとか。
 那 今の時代にクラシックやるってたいへんなことじゃないですか?
 土 そうですね。
 那 クラシックってのは、トータルな世界観だから。トータリティというのはこれだけ相対化されて、多様化した世界で一つの世界を作るってのはたいへんなことだから、それで伝わるものを作るっていうのはすごいことだと思う。音楽的価値はわからないし、「現代のベートーベン」ってキャッチフレーズはちょっと抵抗も感じるけど。
 高 ぼくはショスタコーヴィチとか、そういう系統と近いかな、と思ってる。すごい自分の中の抑圧と戦っているというのはわかる。ただ、自分の中のそういうものを非常に純化した表現になっているのはわかる。
 土 知人も身内が衝撃的に亡くなったりして、いろいろ苦労した人なので、共感できるのではと。
 高 そういうところで共感する人はもちろんいるでしょうね。
 那 どんな形であれ、ああいうものが評価される、というのはいいことですよね。
 高 それはそうでしょうね。交響曲が今の時代にあれだけ脚光を浴びること自体良いこと。
 那 今の時代を汲み取って。
 高 そう、時代を反映している。ショスターコーヴィチみたいな存在になるんじゃないかな、とか。まぁ、だから聴いてますよ。バイオリンの弦楽四重奏とか。
 土 80年代カルチャーから、那智さんが書いてらっしゃるようにバッハとか、最近はそれになっちゃって、私も。
 高 ぼくも90年代以降はリアルタイムではほとんど聴いてないので。
 土 早川義夫とかは?
 高 ぼくよりも世代前ですけどね。ジャックス(日本のサイケデリックバンド・早川義夫が所属)とかね。
 土 この間、行ったんですよ。
 高 そうなんですか、あの人は最近、活発にやっているんですか?
 土 昔のイメージとは違うかも。すごいいいライブやっていました。
 高 そうなんだ、岡林信康(フォークの神様と呼ばれた伝説的ミュージシャン)のもう一つ下の世代くらいですかね?
 那 岡林さんと全然関係ない趣味の雑誌の仕事でたまたま一緒になって、何度か取材したことはありますけど。
 土 あの人もキリスト教の家庭に生まれ育って、いろいろな矛盾を乗り越えて、今は何か別の境地でやってるんですよね?
 那 そう、日本の民謡を取り組んだ独自の境地にたどり着いて、精力的にライブをやっています。
 土 日本のキリスト教系の人は、賀川豊彦とか、あの時代の人たちはすごかったなって。
 高 純粋ですよね。
 土 大竹しのぶのおじいさんもキリスト教のえらい人みたいで。筋の通った人みたいで、だから大竹しのぶなんだっていうのが、そのラインで見るとわかる。
 那 日本でも、キリスト教ってもっと再評価されていいと思うんですよね。
 土 ええ。
 那 なんでかって言うと、キリスト教文化って表現の文化じゃないですか? ミケランジェロにしてもダヴィンチにしても、何にしても。形にして表現していく。仏教って仏像とかあるけど、限定されている。
 土 ええ。
 那 無我って言っても、無我を具体的に表現したのがキリストであり、十字架であるという時に、仏教ってわりと、表現もしなくて、この世界から消えるみたいなところに行っちゃうから、空とかに無なっちゃうと、表現しない方向に行く。でも、無を有で現すのがキリスト教的な方向。だから、神的なるものを形にする時に、西洋芸術の根元は絵画であれ、文学であれ、音楽であれキリスト教から来ていて、それは日本をはじめ、キリスト教圏の外の世界をも覆っている。だから、キリスト教的表現というものを日本で意識して再評価すれば、面白いかな、とか。仏教的表現というのは宗教的すぎるから。
 土 白隠さんの力の抜けた絵とか好きですし、親の影響か仏教がいいんだ、というニュアンスで来ていたんですが、ところどころで涙が出るほど感動したのってキリスト教文化なんですよ。
 那 ぼくも最初、ロシア文学とかの影響でキリスト教が好きだったんですよ。でも、クリシュナムルティとか、仏教的な方向に行ってたんですけど、結局、キリスト教的な方に戻ってきた。表現の文化に。
 土 賛美歌ひとつとっても、すごい。
 那 だから無我表現っていうキーワードを考えた時に、これはキリストのことだったんじゃないかな、と思うようになったんです。生きた無我表現っていうの?
 土 ええ。
 那 右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、とか、普通、そんなこと言えるかっていう?
 土 ええ。
 那 アンビバレンツな形を生それ自体で表現してしまった。実在したかどうかはともかく。四つ福音書があるとしても、あれだけの短いエピソードが2000年世界に影響を与えた。まさに神の受肉なんですよね。だから、究極言えば、キリストなのかなって。
 高 一番純粋な表現として。
 土 なんで自分が、仏教が好きで、お釈迦様の本ばかり読まされていた自分が、キリスト教にきたのかなって思っていたんですよね。それでもうちの家は偏らないように、自分で何かを選択できるように、私は仏教系の保育園に行ったんですけど、弟はカトリック系の幼稚園に行ったんですよ。弟が持って帰って来る聖書とかもすごい読んでいて、二つの世界が小さい時から常にあって。そういう中で、仏教の我をなくすっていう、那智さんの本にあるようなそういうところまででなくても、なんとなく教えとして、道徳的な感じで仏教に触れてきて、ある時、ちょっとした付き合いで行った賛美歌の合唱だとか、山谷(日雇い労働者の土地で有名)のシスターがやっているNPO団体の無料の診療所があるんですが、そこに取材に行ったんです。
 そこの看護師のシスターが、シスターの格好もしていないんですが、すごいにこやかな感じで、外国人なんですけど、日本で看護師資格を取って、ずっと山谷にいるんですよ。一応派遣されては来ているんですけど、10年くらい前、たまたま仕事でお話を聞いた時に、「山谷でシスターで奉仕」と言ったら、三拍子そろっている感じなんですけど、そういう表面的なもの一切抜きにして、すごい涙が出てきて。なんでかって言うと、まったく聖書とかを人に勧めないというんですね。もちろん、シスターですから、布教で来ているんです。「来てくださる方々に聖書を読みましょう、とは私は言わないし、この人たちからいろいろな神のことを学ばせてもらっている」と言うんです。「ここに来る人たちは紙袋一つしか持っていないので、正真正銘それしか持っていないので、私も一切何も持たないで対峙している」と言うんです。それで泣いてしまった。
 那 マザーテレサじゃないけど、肉体的表現が神父さんとかシスターとか、ありますよね。
 土 「置かれた場所で咲きなさい」の人にはそれを感じなかったんですよ。
 那 わかります。ぼくもちらっと読んだけど。
 土 私は山谷のシスターの方が感じたんです。それはいい人でしょって言われるんですね。シスターでボランティアして、アルコール依存症の人のケアでずっと活動してる。でも、それを抜きにしてもすごいというのをいずれ何か書きたいなと思っているんですけどね。もう、接点はなくって取材にも行ってないですし、ただ細々とちょっとした金額を寄付するだけでつながりを保っている感じで。私はそういうところでキリスト教文化に惹かれるんです。
 那 キリスト教って枠組みを外したとこでのキリスト教の良さですよね。
 土 そうなんです。
 高 純粋な信仰ですね。
 那 そこにすごいいいものが残る。
 高 組織を取っ払った生の信仰。
 土 賀川豊彦なんかも、そういう部分をどっぷり社会福祉の中でやっていた方なんで。
 高 本当の意味で、社会とのつながりがあるんですよね。今のスピリチュアルにはそれがない。ビジネスでやっているだけで。
 土 長崎の隠れキリシタンなんかもすごいなと思うんですよね。やっぱりあれは日本人の何かにヒットした。
 高 日本に入ってきたキリスト教ってすごい純粋な形になってきますよね。賀川豊彦もそうだけど。ダイレクトな。そういうものがもっともっと評価されてもいいんじゃないかな。
 那 原始キリスト教だよね。国家に守られてないんだからさ。弾圧されているんだから。
 土 正教とかバチカンとか、わからないですけど、そういうものを取っ払ったところで、日本人の持っている良さ、琴線に触れて、そういうものがああいうキリシタンたちがいて、やっぱりびっくりしたみたいですね。ここまで頑なに信仰を守って弾圧されてもやってきたという長崎の日本人のキリシタンの態度に、本場の人が仰天していたというくらいのあれなので。
 那 つまり、人の命より重いものがあることを信じている人たち。それはある種、民衆化された宗教だから、信じるものがあるという形で自我を超えたものを。
 高 日本にとってはそれが天皇だったわけだれど。明治以降は。
 土 そうですね。
 那 だから、すごい個別の人間の命より価値があるものが導入されたということは、人間の精神を進化させる。そういう意味ですごく重要なことだった。今、ないでしょ? 自分たちの命とか、金とか家族よりも大事なものがあるかと言われたら、みんな答えられない国になっている。
 高 保守的な人が言っているのは、国家を神的なものにしようという、ウルトラ右翼っていうのはそういう考え方。人間は超越的なものを欲するから。
 土 国は大事にしたいと思うんですけどね。私は何とか。グローバル企業に侵食されたくないなというのがちょっとあるんですけど。どうでしょう、その辺(笑)
 那 今、やばいですよね。TPPとか。明らかにやられているよね?
 土 国民経済としては、国の中で雇用をやって、という考え方が必要なのかなと。小学校からグローバル人材になるために、みたいな感じなんですよ。
 政治、経済談義が続く。
 那 そっちの話になると切りがないので、今日はこの辺で。刺激的な話をいろいろとありがとうございました。
 
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★評論

コンピューターは無我か? 〜コンピューター将棋に想う

高橋ヒロヤス

コンピューター将棋ソフトの衝撃

自分は将棋を見るのが好きで、プロ棋士の対局をリアルタイムで見ることのできるアプリを購入してからは、毎日主だった対局をほとんどチェックしている。
将棋そのものは弱いから、自分で指したいとは思わない。たまにコンピューターの将棋ソフトと指すと、嫌になるほど強いので腹が立つ。プロ野球やサッカーのファンと同じ感覚で、野次馬的にプロ棋士の将棋を見ているのが好きだ。

今年の3月から4月にかけて電王戦というコンピューターとプロ棋士の5番勝負が企画された。結果はプロ棋士側の1勝1分3敗。この結果は、ニュースなどでかなり大きく報道された。

自分も随分興味を持って見守っていたが、負け越しという結果そのものよりも、将棋の内容にショックを受けた。

第4戦の塚田九段戦と第5戦の三浦八段戦は、いずれも内容的にはコンピューターの圧勝と言ってよいものだった。中でも三浦八段は、プロ棋士の中でも「トッププロ」と呼ばれる実力者だっただけに、手も足も出ない敗北は衝撃的だった。

チェスの世界では、すでに10年以上前に世界チャンピオンでもコンピューターに勝てないことが明らかになってしまっている。将棋はチェスに比べれば盤上の変化の種類が段違いに多いから、プロ並みになるのは当分先のことと思っていた。

もっとも、プロ棋士とコンピューターの非公開対局はすでに多く行われており、勝率は五分五分に近い(?)とも言われているから、この日が来ることは既に予見されていたし、青天の霹靂のような衝撃を与えたわけではない。むしろ、ついに来るべき日が来たか、という確認の意味が大きい。

ロボットが重量挙げの世界チャンピオンに買ったり、マシンが100メートル走でウサイン・ボルトに勝ったりしても、誰もまったく驚かないだろう(二足歩行ロボットなら別だが。しかしそんな時代は当分来そうにない)。

それなのに、コンピューターがチェスや将棋で人間のトッププロに勝つことが、なぜそんなに衝撃をもって迎えられるのか。

単純計算だけでなく、どんな複雑な計算処理においても、人間よりもコンピューターの方が遥かに速いことは当然ではないか。

それなのに、なぜ計算の積み重ねであるボードゲーム(将棋)においてコンピューターが人間を遥かに上回らないことがあるだろうか。

この出来事が特別視される理由は主に二つある。一つは、(運動能力ではなく)思考能力を人間の特権とみなし、人間を複雑な思考機械とみなす唯物論的世界観に基づくものであり、もう一つは、将棋に勝つためには単純思考を超えたいわば直観的な能力が要求され、それはどんなに高速なコンピューターの思考能力をも凌駕するものであるという一種の神秘的な世界観に基づくものである。

これらの理由のために、人間がコンピューターに負けたという事実は、極端にいえば、万物の霊長たる人間の尊厳を侵されたような感覚を人間に与えるのである(その感覚の源は異なっているにせよ)。

しかし私見では、どちらの理由(世界観)も幻想にすぎない。

史上最高の棋士の一人である羽生善治が史上最強の棋士と認める故大山康晴名人は、「コンピューターに将棋なんかさせてはいけない。やがて人間を負かすに決まっている」と語っていたという。

大山名人はいかなる幻想も抱かない徹底したリアリストだったから、何十年も前に今日の事態を見抜いていた。

小林秀雄は、半世紀以上前の昭和34年に書かれたエッセイの中で、既にこのテーマについて考察している。

(小林秀雄、「考えるヒント」所収「常識」より 引用始め)

常識で考えれば、将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としている筈である。名人達の読みがどんなに深いと言っても、たかが知れているからこそ、勝負はつくのであろう。では、読みというものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういう事になるだろうか。…

丁度その時、銀座で、中谷宇吉郎に、久し振りでぱったり出食わした。この種の愚問を持ち出すには、一番適当な人物だとかねがね思っていたから、早速、聞いてみた。

「ともかく、先手必勝であるか、後手必勝であるか、それとも千日手になるか、三つのうち、どれかになる事は判明する筈だな」
「そういう筈だ」
「仮りに、後手必勝の結果が出たら、神様は、お互にどうぞお先きへ、という事になるな」
「当り前じゃないか。先手を決める振り駒だけが勝負になる」
「神様なら振り駒の偶然も見透しのわけだな」
「そう考えても何も悪くはない」
「すると神様を二人仮定したのが、そもそも不合理だったわけだ」
「理窟はそうだ」
「それで安心した」
「何が安心したんだ」
「結論が常識に一致したからさ」

(中略)

機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反覆運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。

常識は、計算することと考えることとを混同してはいない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現している。

(引用おわり)

小林のこの考察は今でも完全に有効である。ここに付け加えることは何もない。

羽生将棋の革新性

羽生善治という名前は、将棋を知らない人でも聞いたことくらいはあるのではないか。
20代の若さで将棋界の七大タイトルを総なめにするという前人未到の快挙をやってのけ、その圧倒的な強さは生ける伝説である。

羽生は1970年生まれだが、この年には羽生以外にも森内名人はじめ、飛び抜けた才能を持つ強豪棋士が大量に生まれており、将棋界に画期的な進歩をもたらした「羽生世代」と呼ばれている(自分は密かに、彼らは江戸時代の大橋宗桂や伊藤宗看などの伝説的な名人たちの生まれ変わりではないかと思っている)。

中でも、羽生の発想が従来のプロ棋士の常識を破る革命的なものであった理由は、羽生が持っている次のような将棋観にある。

(保坂和志著『羽生』より)

人は将棋を指しているのではなく将棋に指されている。

一局の将棋とは、その将棋がある時点から固有に持った運動や法則の実現として存在するものであって、棋士の工夫とはそういった運動や法則を素直に実現させるものでなければならないし、そのような指し方に近い指し方のできた者が勝つはずだ。

将棋とは個人の欲望や執念の産物ではない。したがって、従来のプロ棋士が尊んできた棋風・個性・スタイルを磨くという考え方は、将棋の可能性を狭めるものでしかない。

(引用おわり)

簡単に言えば、羽生はそれまでの将棋界の自我中心主義を否定し、将棋の本来の姿は「無我表現」に他ならないことを示したのだと言える。

コンピューターは無我か?

人工知能の研究家が実際にどう思っているかは知らないが、巷では、コンピューターが発達して「自我意識」を持つようになる時代が来るのかどうかに関心があるようだ。

ひとつ確実に言えることがあるとすれば、コンピューターが「自我」を持ったら、ひどく不効率になり、今のような優秀な働きはできなくなるだろうということだ。

「常識は、計算することと考えることとを混同してはいない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現している」と小林秀雄は言う。

コンピューターに過去の大作曲家の作品をすべてインプットすれば、バッハやベートーヴェンに優るような名曲を書くソフトが誕生するだろうか。

コンピューター将棋を巡る議論を見ていると、こんなことを大真面目で論じているような滑稽な気分になってくる。

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◇評論

無我的観照第8回

ロダンの創造に見る新たな時代の芸術         那智タケシ

 『ロダン』リルケ著 高安国世訳(岩波文庫)

「ロダンは名声を得る前、孤独だった。だがやがておとずれた名声は、彼をいっそう個時にした」

 この一説から始まる詩人ライナー・マリア・リルケの評論「ロダン」は、「考える人」等で有名な彫刻家ロダンの秘書を務めた彼が、天才の仕事ぶりを間近で観察しながら書き記した稀有な作品である。この評論それ自体がロダンの芸術的法則を文章化した芸術作品であり、ロダンの彫刻それ自体に劣らぬ「事物」表現にまで高められている。

 リルケの書くものは詩のみならず、小説から評論、個人的な書簡まで、すべて彼自身の内的原理によって形式化され、もはや彼の手に触れたもの、目で見たもの、聞いたものすべてが独自な詩の原理に貫かれているようである。実際、リルケは個人ではなく、詩人として、芸術家として生きた。彼は、道を歩いていてもリルケであり、一人でいても、誰かと話していても、固有のリズム、固有の法則、固有の形式を表現した。道を歩く詩人を見て、「あっリルケだ」と誰かが言ったとか、言わないとか。彼はそういう人だった。存在形式それ自体が芸術であり、芸術は、日々の生活における徹底した観察の積み重ねの結晶であった。

「彼は詩人であって、曖昧なものが嫌いであった」と語ったリルケ。

 しかし、こうした芸術的作法、法則の根底にあるものを彼はロダンから学んだのであった。このロダン論は一人の偉大な彫刻家の評伝という範囲を超えてしまっている。これはリルケ自身の芸術論であると同時に、「未来の芸術のあるべき姿」として、「我」という観念的存在を超えた、とある神秘的法則を見ることができる。

 それではリルケがこの彫刻家から何を学んだだろうか? 実を言えば、彼はロダンの仕事の中から、感傷や思想ではなく、絶対的で、自然の創造と同じような確固たる「事物」を創造することを学んだのである。つまり、そこにあるのは裸の、「あるがまま」の事物を作り出す手仕事、ただそれだけであり、創造の独自性や思想といったものではなかった。彼自身の言葉の引用によって、それを見ていこう。

「どういう物を作ろうとするのでしょう。美しい物をでしょうか、いいえ、そうではありません。誰が一体美とは何であるかを知っていたでしょう。似た物を作ろうとしたのです。一つの物をです。その中に自分らの愛しているものが、また恐れているものが、またそのすべての中にある理解しがたい或るものが再現されているのを見る、そういう一つの物を欲したのでありました」p82

「美を捉えるものだと思っていた美学的見解の存在が皆さんを迷わせて来たのです。また美を作ることを自分の務めだと心得るような芸術家を生み出したのです。それで、美を「作る」ことはできない、とくりかえしここに述べることはやはりまだむだではないのです。誰もまだ美を作った者はありません」p83 

「ところで或る創作者がこういう認識に達すると、これがどんなにすべてを変えてしまわずにはおかぬかを御想像ください。こういう認識にみちびかれる芸術家は、美について考えるという必要はないのです。美がどこに成り立つかというようなことは、ほかの人同様ほとんど知らないのです。ただ、自分を凌駕する有用な品々を作り出そうという衝動にみちびかれて、彼は自分の作るものに美がおそらく来てくれるであろうようななんらかの条件の存在することを知っているばかりです。そして彼の使命は、この条件を熟知することであり、この条件を作り出す能力をやしなうことにほかならないのです」p83

 ここには、恣意的でオリジナルな美的創造という我々が芸術家に抱きがちなロマンティックなイメージはかけらも存在しないことは何となく感じられるだろう。バラの棘に刺され、白血病になって死んだかよわき、少女趣味の、ロマンティックな詩人の相貌はここにはどこにもない。あるのは一つの宇宙的法則にのっとった自然の営みと芸術を結びつける地に足の着いた確固とした見解、及び純粋な信仰にも似た力強さである。彼はこの確実な道をロダンから学んだのであった。

「なぜかといえば、かつて心をふるわせたすべての幸福、考えるだけでも私たちをほとんど破壊しそうになるすべての偉大さ、ひとを変化させずにはおかぬ広大な思想の一つ――そういうものが、ふと唇をすぼめることや、眉をあげることにほかならなかったり、額の上のかげった部分にほかならなかった瞬間があったのです」p85

「あるのは種々さまざまに動かされ変化されたただ一つの表面にすぎないのです。この思想の中に、ひとは一瞬全世界を考えることができました。すると全世界は単純となり。この思想を思っている人の手の中に課題として置かれました。なぜなら、何物かが一つの生命となり得るか否かは、けっして偉大な理念によるものではなく、ひとがそういう理念から一つの手仕事を、日常的な或るものを、ひとのところにとどまる或るものを作るか否かにかかっているのです」p85

 リルケは、ロダンのただただ「事物」を信仰し、独自な形を作り出そうとする着実な営みに新たな時代を切り開く芸術のあり方を見た。彼は――天使が舞い降りたような、あれほど霊感に満ちた詩を書いた彼は―経インスピレーションやひらめきによるのではなく、この日常の中の観察とたゆみのない手仕事というロダンの芸術的手法(というよりも、人生のあり方それ自体の法則)に偉大さを見た。ロダンの中では、インスピレーションは天から降ってくるものではなく、「事物」そのものの中に発見されるものであった。つまり、彼はそれほどまでに仕事と一体化して生きていたので、インスピレーションそれ自体が生活となり、手仕事の一環となっていたのである。神は、観察と手仕事の中に宿る。ここに偶然性は存在しない。彼は手に触れる事物の中に神を見出していたのであった。そして、その迷いなき仕事を通して、彼は新たな創造者となった。一切の批評や批判は、もはや彼の作品に届かぬほどに、彼は確固とした「物」を作り続けた。
 しかし、この自ら作品によって以外、語ろうとしない彫刻家の情熱の奥底にあるものは何だったのだろうか? 彼は何ゆえに事物を信頼し、新たな事物を生み出すこと、世界の結晶たるオリジナルの事物を作ることにのみかくまで純粋になれたのだろうか? ロダンの仕事を間近で観察し続けたリルケはその秘密をこのように語る。

「一種の手仕事が成立するのです。しかしこれは不死の運命を持つ者のための手仕事と思われるほど、そんなに遠大なものです、見きわめもつかず終わりもなく、「たえずまなぶ」ことを目あてとしているのです。ではこのような手仕事にふさわしい忍耐というものはどこにあったでしょうか。
 それはこの労作者の中の愛にありました。それはたえずこの愛の中からあらたによみがえって来ました。なぜなら、何物もそれに抵抗することのできぬ「愛する人」であったこと、これがおそらくこの巨匠の秘密なのです。彼の求め方はながく、熱情的で、たえまがありませんでしたから、すべての物は彼に許したのでした。それは自然の事物のみではなく、その中で人間的なものが自然になりたいとあこがれているあらゆる時代のすべての謎めいた事物もそうでした」p89

「この「よく作ること」、このもっとも曇りない良心をもって働くこと、これがすべてなのでした。一つの物の形を写し取ること、それはこういうことでした、どの部分ものこりなく行きめぐったこと、何事をも黙殺せず、何事を看過せず、どこにおいても偽らなかったこと、そして百とあるすべてのプロフィルを、すべての仰視やすべての俯瞰を、すべての交差を知ることでありました。こうしてはじめて一つの物ができあがるのでした。こうしてはじめて、それはいたるところの不確実の大陸から解き放された島になるのでした」p90

 愛をもって事物に系統し、一体化し、新たな事物を創造し続けたロダン。そこにあるのは「何事をも黙殺せず、何事をも看過せず、どこにおいても偽らなかったこと」という事物それ自体への曇りなき観察と対象への愛をも超えた没我的作業であった。
 確固とした、絶対的事物の創造。これは、この世界それ自体への愛の証であると同時に信仰である。幼児が母を思うような絶対的信頼を持って、彼は事物の中に傾倒した。ここには「個性」はおろか、「思想」さえ存在しない。しかし、彼の作り出した作品はすべてが独自で、偉大な思想を帯びた神々しいものに見えてくる。ここに、我々は一人の人間の「我」を超えた、事物の中に眠る神の恩寵と「独自」を見ることができるのである。
 セザンヌやトルストイを絶賛したのと同様、リルケの天才はロダンの中に同じ価値を見出したのであった。つまり芸術、及び芸術的生き方とは、小世界たる壁に囲まれた「我」の中にあるのではなく、目の前の「事物」や「現象」そのものの中に眠る法則を理解することにあるのだと。リルケはこうした寡黙な芸術家の中にこそ、未来の芸術のあり方を、つまりは未来の人間の理想の道を見出していたのである。

「「よく仕事ができましたか。」これがロダンの、お気に入りの誰に向かっても挨拶がわりにする問です。なぜなら、もしこの問に「はい」と答えられたなら、それ以上もう問うことはないのですし、安心していいのです。仕事をしているものは幸福なのです。
 信じられないほどの力の蓄えを自由に駆使するロダンの、単純な統一的な天性にとっては、こういう回答が可能なのでしたし、彼の天才にとっては、これは必然のことだったのです。ただこういうふうにしてだけ、彼は世界を征服することができたのです。人間のようにではなく、自然そのもののように働くこと、これが彼の定めだったのです」p101

※参考文献『ロダン』リルケ著 高安国世訳(岩波文庫)


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★評論

日本近代絵画における無我表現
〜坂本繁二郎と熊谷守一

高橋ヒロヤス

これまで、日本の近代絵画にはほとんど関心がなく、見る機会もなかったのだが、最近、坂本繁二郎や熊谷守一といった日本近代画家の作品を見る機会があり、感銘を受けた。

坂本繁二郎(1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、近代日本美術史上もっとも著名な洋画家の一人である青木繁と同郷(久留米市)で、能面や馬の絵が有名だ(といっても自分は全く知らなかったのだが)。晩年は月の絵をよく描いた。
坂本はまだ若い頃にこんな文章を書いている。画家の思想は、その作品を見ることによってのみ理解できるものだと思うが、この文章からは彼が描いている境地が伝わってくる。

「物の存在を認むる事に依って、自分も始めて存在する。
 存在によりて存在する意識は、自分の外には何物もないけれども、物の存在を認むる事は、自他同存でありながら、意識には物なる只其事のみである、自分なる者があっては、それだけ認識の限度が狭くなる、自分を虚にして始めて物の存在をよりよく認め、認めて自己の拡大となる。
 この存在の心は、自然力その脈動する意識であるかもしれない、刹那刹那のみを自分たり得る心である。強いて説明すれば消滅する心だろう、仮に一元と名付けるがここにいう一元は物の力の根源が、自然力という一原に起因したという理論の一元ではない、意識の同化である、理論にはその意識をも一元と名付けるかもしれぬが、しかし理屈そのままを意識たり得ることのできないように、意識そのままを理屈することもできない、(略)
 一元意識に住する間は、その脈動の通じ得るすべては自分たり得る境地である、他人は勿論木片草虫その事の存在を認め、真にこれを意識しそこに自己を認めたものである、脈動界のそのすべては之れ自分の生存である、頭である、血である」(『存在』、明治44年)

熊谷守一(1880年4月2日 - 1977年8月1日)は、その作品が志賀直哉の新潮文庫の表紙絵になっている人だ。自分は熊谷守一という画家を知らずに、文庫の表紙になっている蟻の画を見て、志賀直哉の世界にぴったりの画だなあと思っていた。

守一も東京美術学校(東京芸大)で青木繁と同窓であった。画才を評価されながら、絵を描く気にならないという理由から一時期はまったく描かず、音の周波数の研究などに没頭していた。晩年は自宅から一歩も出ずに、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。晩年描かれた多くの油絵作品のモチーフは、ほぼすべてが熊谷邸の庭にあったものであるという。
彼の言葉に、次のようなものがある。

「紙でもキャンバスでも何も描かない白いままが一番美しい。日本画でも墨だけで描いたものの方が私はいいと思います。」

「私は石ころ一つでも十分暮らせます。石ころをじっと眺めているだけで、何日も何日も暮らせます。監獄に入って、一番楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かもしれません。」

「地面に頬杖をつきながら、蟻の歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです」

自分は西洋画ではマチスを好むが、熊谷の晩年の油絵に見られる形と色には、ある種東洋的なマチスとでもいう趣で、非常に心を捉えられた。

坂本と熊谷、両者の画に通じるのは、日常に存在する事物について、とことんまで削ぎ落した末に残される美を表現しているということだと思う。特に晩年の坂本の月の画と、熊谷の「日輪」の画は、共にこれ以上ないほど簡素にして相通じる雰囲気を醸し出している。

以上、ほんの素人の感想にすぎないが、これほど魅力的な無我表現に出くわすと、これからもますます色んな絵が見てみたくなった。

参考文献:
「坂本繁二郎画集」(求龍堂)
「私の絵 私のこころ」坂本 繁二郎(日本経済新聞社)
「ひとりたのしむ―熊谷守一画文集」(求龍堂)
「へたも絵のうち」熊谷守一(平凡社ライブラリー)

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★編集後記
◎今月は、ご連絡をいただいた土橋さんというライターの方に加わっていただき、編集会議を開きました。ご覧いただければわかるように、博学な方で、私や高橋氏とは異なるフィールドをお持ちなので、大いに刺激されました。今後、新たな書き手としても、期待しております。地道にやっている活動ですが、真摯な方々が見守ってくれていること、こうして新たな出会いに恵まれることが一つの励みになっています。今後も、新たな出会いを期待しています。(那智)

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