芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第20号

2013/03/15

MUGA 第20号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇アート

・詩

『季節の詩』     rita

◇評論

・無我的観照第6回
「遠野物語」と「新約聖書」に見る裸の神の表現
 那智タケシ

・志賀直哉にみる無我表現
高橋ヒロヤス

・激情と静寂 Envy
        ティモ伯爵



◇ヘルスケア

・ウルトラリンパ受講者の手記&感想
★菊地さん曰く 〜ウルトラリンパ講座おぼえがき〜
りんりん

★退化してしまった感覚を呼び戻す
加藤ミチコ


◇無我表現研究会編集会議 

「石ころ」になって見えてくるもの 

                                      
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◇アート

★詩

季節の詩     rita 


  【・ツクシ・】 
  
ツクシの土手を散歩すると
足下がなんだかくすぐったいよ

ツクシの家族は土の中で手を繋ぐ
ぼくには見えない
だけど確かな絆で生きている
心置きなくすくすく伸びる

春の淡い光にのぼせちゃったかな
ツクシたちがちらほら
頭を開いてゆく
おもわずこぼれ落ちる笑みのように
萌黄に染まった愛の因子を散布する

飛んでけ胞子
正真正銘の豊かさを継承していこう
疑いようもなく美しい生命のリレー
武者震いしてる風はファンファーレ

ここはずっと変わらないでほしいよ 
ぼくは包まれていた土のフレーバー 
  
  
  【・沈丁花・】 
  
宵に暮れる道を行くとき
夢へ導く水脈を流れる

不意に心が幸せに満たされたんだ
ぼくはこの不可解な幸せを知っている

体はどうしようもなく
夢の入口をたもとほり
小舟の我は螺旋を描く

見つけたい 確かめたい

夜のとばりが下りるところに
沈丁花の香りは立ち広がる

手さぐりの現実までその形を留めないほど
馥郁たる幸福感にお手上げなの 
  
白い妖怪は 
塀の向うか闇のどこかに 
  
姿を拝めなくても 
もういいや
存分に楽しませよ沈丁花 
  
  
  【・春一番・】 
  
景色が脱皮してるみたい 
陽光のルネサンス 
うつろな枯芝の裂け目に滑り込んで
冬の輪郭を破壊していくの 
  
指先の冷たさはもうないよ 
アスファルトに反射する光が眩しくて

街はところどころで
指を鳴らしている
口笛をふいている 
風がひどく興奮していた 

青空のたぎる思いに 
せっかくのぬくもりをひっくり返されたぼくは 
いささかブルルと震えているの

どよめく電線 
狼狽する木々
視界は斜交いに刻まれ
影はくるくると巻き上げられた 
  
日向の欠片が道を転がっていく行方に
今、僕は聞いている
バリバリという音 

移ろいが迸り奔流となり
季節を飲み込んでいく様子に 
耳を澄ますんだ

彼らが過ぎ去った後には
花が次々とほころぶよ 
爛漫とした装いのシンフォニーを 
今か今かと待っている  

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◇評論

無我的観照第6回

「遠野物語」と「新約聖書」に見る裸の神の表現

                       那智タケシ

「国内の山村にして遠野よりさらに深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広(ちんしょうごこう)のみ」

 有名な、「遠野物語」の冒頭の中の一文である。「平地人を戦慄せしめよ」このフレーズは一度聞いたら忘れられないが、そこには柳田国男のこの民俗学の源流にもなった不思議な書物への絶対的自信、信頼を感じることができる。
 最近、ふとしたきっかけから「遠野物語」を読み直し、文字通り戦慄を覚えてしまった。とは言っても、これまで気づかなかった、この説話の表現形式それ自体の完璧さに、驚き打たれたのだ。

「遠野物語」は実にシンプルな形式を持った文学作品である。そこにあるのは、岩手の山の奥にいた山人たちの怪しげだが、シンプルな息遣いであり、それに出会った朴訥な人々のこれまたシンプルな驚きが記されているだけであった。つまり、いつ、誰々がこういう奇怪なものを見て、驚いて逃げた、とか、打ち殺した、とか、病で死んでしまった、とか、事実のみが提示され、ピリオドが打たれている。ある男が、幽霊を見て、驚いて、三日後に死んだ。それ以上のものは何も書き記されていないのだ。

 何の主観的説明もないし、観念も入り込まない。事実のみが提示される(柳田の手により事実が編集された問題はまったく別である。ここで重要なのは文学形式の簡素さそのものなのだ)。それでいて、この物語の豊かさ、深さはどこからやってくるのか。素材の豊かさや、柳田の文語体を自由に操る文才もありこそすれ、そこにあるのは裸にされた事実のみである。にもかかわらず、恐ろしい深さを宿した文学になっている。その形式の簡素さと完璧な効果に、私は驚愕したのである。日本にも、こんなに優れた文学があったのか、と。

「裸の事実」だけを記し、一切の説明、解釈を捨て去ることで、我々はその不合理で不可解な物語の隙間から漂ってくるものに戦慄する。埋められなかった行間から、昔々の、異世界の暗闇が匂いたち、ゆらめき上がるのを肌で感じる。その時、我々は現代社会にいながら、一歩だけ、遠野物語の世界に足を踏み込んでいる。我々は、事実そのものではなく、その事実と事実の間にある、ほの暗い隙間に吸い寄せられる。そして、恐ろしい山人や、天狗や、山姥に囲まれていることに気づき、恍惚とした気分になる。例えば、こんな具合である。

「白望(しろみ)の山続きに離森というところあり。その小字に長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。或る夜その小屋の垂菰(たれこも)をかかげて、内を窺う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず」

 我々は、これと同じ効果を持つ作品をいくつか思い浮かべることができる。説話形式の前身たる今昔物語集はさておき、例えば、紀元前のローマの退廃の生活を描いたフェリーニのカルト映画「サテリコン」や、様々な仏説、そして聖書である。とりわけ新約聖書は、イエス・キリストが起こした奇跡の事実を淡々と述べているだけのように感じるが、西洋文化・芸術の基礎として、爆発的なエネルギーを秘めた物語となっていることは言うまでもない。

 イエス・キリストという受肉化した神が、この地上に光臨した。その神の子は、生きた、肉体を持つ、一人の男であり、具体的な身振りを持ち、人にこうやって話しかけ、病を治し、死人を生き返らせ、罪もないのに十字架にかけられて死に、三日後に復活した。これだけの事実が、どんな神聖な言葉や観念、神学的体系、深遠な哲学よりも、人々の魂を震えさせたのである。なぜなら、それは手に取れない曖昧なものではなく、とにもかくにも「事実」として記されていたからである。

 柳田国男は、日露戦争の勝利で日本が高揚し、近代化に向けて突っ走る中で、忘れ去られた日本の闇の世界、つまり山に隠れて住んでいた山人と呼ばれる存在や、遠野の古き神々、妖怪、幽霊を救い出し、我々の前に列挙する。これが日本と言うものではないですか、こうした異界の者たちとの交流こそが、私たちの世界を豊かにし、意味あるものにしていたのではないですか、私たちはもっとも大事なものを忘れているのではないですか、と迫る。しかし、彼の様々な論文はさておき、この「遠野物語」ではただただ事実が語られるのみであり、そこには一切の主張も、メッセージも、解釈も、含まれていない。何一つ、彼は自分の言葉では訴えない。この物語の武器は、唯一「事実」である。

 しかし、事実とは何だろう? 実際にあったとされていることだろうか? 

 こうした説話的文学において、物語作者が「事実」として読者に提示するものは、実は、彼が最も大事だとしているものである。すなわち、彼は一切の主観を排して――いわば無我的な眼差しによって観念の贅肉や、くだらぬものを消し去り、浄化して――それでもなお残るものを提示する。まるで、この観念という不浄な液体で汚染された世界から、その液体のみを吸い上げ、真空にすることで裸の姿を復活させるように。そしてその真空世界に残った事実だけを提示すれば、彼が言いたいことのすべてがあり、いや、それ以上のものがある。彼はそれを知っている。それが優れた説話文学作者に共通する秘密である。つまり、作者は、「事実」として、彼の「神」を提示するのだ。

 新約聖書の作者は、イエス・キリストという神の子を「事実」として書き記し、それだけで事足りることを知っている。なぜなら、肉体を持ったイエスこそが、この地上における神のあらわれそのものであり、余計な解釈は一切必要ないからだ。神学は、単なる後付にすぎない。ここにおいて、神はひとつの事実であり、事実は真実そのものである。しかし、その事実(すなわち神)に触れた人々の驚きや、憎しみ、裏切りもまた、神に出会った人々の裸の事実として書き記される。たった一つの事実を通して、つまり神の受肉化というありえない事実に対して、人々は常識を剥ぎ取られ、あるがままの、裸の人間として関係せざるを得ない。そして、そこに新たな事実が生まれ、波紋となって広がってゆく。

 信じる者、奇跡を祈る者、軽蔑する者、嫉妬する者、裏切る者――あるがままを照らし出す光によって、これまでの安逸な日常性は破られ、新たな事実がバリエーションとして現れてくる。つまり、イエスであり、ペテロであり、マグダラのマリアであり、パリサイ人であり、ヘドロであり、ユダである。こうして、一つのあるがままの事実を前にして、あるがままの事実で対応せざるを得なくなった人々の関係性の中から神話が生まれる。

「遠野物語」では、山人たちは、当時の柳田にとって最も重要な「神」であった。いわば、日本本来の神であり、彼はその事実の強力な力を信じることによって、この説話文学を成立させてしまったのである。民俗学の原典となった学術書という見方はさておくとして、これは一つの信仰の書であることに違いない。山人の伝説を事実として捉え、淡々と書き記すことによって、彼は日本の淵に眠っていた神話を掘り起こしたのである。

 我々は今、信じるに値する神(事実)を持っているだろうか? この事実だけを記せば、自分にとって最も重要なものすべてが表現されているのだ、という、神聖なものを持っているだろうか? もはや、山人たちはどこかに行ってしまった。宗教の神話は崩れ去った。一神教は、世界を分裂させた。ありとあらゆるイデオロギー、哲学、観念は幻想であった。我々は今、具体的な事実を求めている。事実の中に、この混沌とした世界を打ち砕き、生きるに値する新たな神を求めている。新たな光を求めている。

 その事実は天から降ってくるのでも、山の中にいるのでもなく、今、あなたの目の前に存在しているのかもしれない。我々はただ、眼を見開けばよいだけなのだ。しかし、それが美しいものであれ、俗悪なものであれ、聖なるものであれ何であれ、様々な情報を次から次へと浴びせられ、曇った我々の瞳は、目の前の存在の中にある「裸の神」を見ることができなくなってしまった。手に取れる事実を失ったのではなく、それを見る目と、感じる手をなくしてしまったのだ。それゆえに我々は事実を離れ、観念世界に神と救いを構築せざるを得ない。ここに現代の悲劇のすべてがあるのである。

※参考書籍
「遠野物語 山の人生」柳田国男著(岩波文庫)
「聖書」(日本聖書協会)


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志賀直哉にみる無我表現

高橋ヒロヤス

志賀直哉は、小林秀雄の評論を読んで読みたくなった。太宰治の『如是我聞』のイメージがあり、敬遠していたので、一篇も読んだことがなかったが、『和解』と『暗夜行路』を一気に読み、大変面白かった。然しこれまで読まなかったことを後悔はしていない。この作品は、自分の人生の今この時期に読むべきものだと思った。

直哉は「小説の神様」と呼ばれ、その簡潔にして要を得た文章は、日本語による散文表現の模範とされている。確かに読んでみて、筆致の無駄のなさと描写の的確性に驚嘆する。内面描写には必要最低限しか筆を裂かず、外面の観察描写が自ずと内面世界を浮かび上がらせる。

芥川龍之介が夏目漱石に「志賀さんみたいな文章がどうすれば書けるんでしょうか」と尋ねたら、漱石は「上手く書こうと思わず、思ったままに書くからああなるんだろう。俺にもああいうのは書けない」と答えたという。

確かにそうかもしれない、だとすれば誰にも真似ができない。だが、理論的にいえば、誰でも「思ったままに」正直に書くことはできるはずだ。しかし、それがいかに難しいことか。志賀直哉の文章の良さは、技巧やレトリックにあるのではなく、思考と文体の「正直さ」にある。

「透徹したまなざし」ともよく言われる。確かにその通りだ。とりわけ初期の諸作品において、作者が強烈なエゴイストであることは明らかだが(そもそもエゴイストでない若者など存在するだろうか)、その文章はエゴの彼方からエゴを貫く眼差しによって書かれている。だからそれは無我表現になっている。

かつて私は太宰の志賀直哉に対する激しい批判に共感した。それは家父長的な権威主義に対して理想主義に燃えた心優しき男による抗議行動に思われた。しかし今は太宰の言い分に疑問を感じるところがある。太宰の文章は、死を覚悟した破れかぶれの自爆テロのようなところがあり(実際彼はこれを書いてまもなく自殺した)、その書き方が批判を超えた単なる罵詈雑言の類に堕しているという点は責められるべきである(裏返せば、娯楽読物として週刊誌のゴシップ記事のような低劣な面白さはある。面白い文章を書かせたら日本文学史上太宰の右に出る者はいない)。しかし彼の言い分の欠点はそれだけではない。

太宰は志賀直哉を含む文壇の大御所たちに次のように食ってかかる。最も念頭に置かれているのは志賀直哉であることは明らかだ。

(『如是我聞』より引用はじめ)

 まるで、あの人たちには、苦悩が無い。私が日本の諸先輩に対して、最も不満に思う点は、苦悩というものについて、全くチンプンカンプンであることである。
 何処(どこ)に「暗夜」があるのだろうか。ご自身が人を、許す許さぬで、てんてこ舞いしているだけではないか。許す許さぬなどというそんな大それた権利が、ご自身にあると思っていらっしゃる。いったい、ご自身はどうなのか。人を審判出来るがらでもなかろう。

(引用おわり)

ここで太宰の言う「苦悩」とは、私が「エゴの泥沼の格闘」と呼んできたものに他ならない。私が理解する所の近代日本文学とは、端的にいえばこのエゴ(高級そうに言えば近代的自我)の苦悩の表現である。私は志賀直哉の文学もそうだと考えていた。しかし、どうやらそうではなかった(だからこそ太宰が食ってかかったのだともいえる)。

『暗夜行路』は、太宰の指摘する通り、主人公の「赦し」がテーマである。不義の子として生まれた己の運命への処し方、妻の犯した過ちへの赦しを巡って、主人公時任謙作は激しく苦悩する。然し当たり前のことだが、ここで大切なのは、「人を許す許さぬで、てんてこ舞いしている」のは、小説の主人公である時任謙作であって、小説の作者である志賀直哉自身ではないという事だ。時任謙作は明らかに志賀直哉自身をモデルにした人物であるために、この部分に誤解が生じやすくなっている。

この作品を書いているときの志賀直哉は、時任謙作の苦悩になり切って(作者自身の言葉でいえば「気持ちが入り切って」)その内面心理や周囲の自然環境などの様子を綴っている。最も重要なのは、そのとき書いているのはもはや志賀直哉という自我ではないということだ。つまりこの作品はひとつの「無我表現」足り得ている。そこに志賀文学と太宰文学(ひいては太宰に代表される近代日本文学の大部分)の決定的な違いがある。

このことを、小林秀雄は「志賀直哉論」の中で、いわゆる「慧眼」と志賀直哉の「眼」の違いという観点から上手く説明している。

(引用はじめ)

慧眼の出来る事はせいぜい私の虚言を見抜く位が関の山である。
私に恐ろしいのは決して見ようとはしないで見ている眼である。
物を見るのに、どんな角度から眺めるかという事を必要としない眼、吾々がその眼の視点の自由度を定める事が出来ない態 (てい)の眼である。志賀氏の全作の底に光る眼はそういう眼なのである。

恐らく氏にとっては、見ようともしない処を、覚えようともしないでまざまざと覚えていたに過ぎない。これは驚くべき事であるが、一層重要な事は、氏の眼が見ようとしないで見ているばかりでなく、見ようとすれば無駄なものを見てしまうという事を心得ているという事だ。氏の視点の自由度は、氏の資質という一自然によってあやまつ事なく定められるのだ。氏にとって対象は、表現されるために氏の意識によって改変されるべきもの    として現れるのではない。氏の眺める諸風景が表現そのものなのである。
(『作家の顔』新潮文庫、「志賀直哉論」)

(引用おわり)

この「眼」があるが故に、志賀直哉の文章はあんなにも簡潔に事象の本質を捉えた描写ができるのだろう。

長年激しく対立してきた父親との和解のプロセスを描いた『和解』という小説は、志賀直哉の最高の入門書だと思っているが、一見すると、それは小説というよりはただの公開日記のようにすら思われる(書評をインターネットで探していたら、誰かが志賀直哉の作品を「個人のブログで足りるようなもの」といって批判していた)。

だが、誰でも試しに、親子関係でも夫婦関係でも友人関係でもよいが、自分にとって最も切実な人間同士の関係を、これほど明瞭に描写できるかどうか自問してみることをお勧めする(文章の巧拙はどうでもよい)。

志賀の作品は決して内面の吐露や告白に終始するものではないから、「私小説」というのは誤解を招く。それは「私」を主人公にした一種の叙事詩のようなものだ。的確に描かれた叙事詩というものは、文章による無我表現の典型であるといってよい。なぜなら、そこには書き手の側に登場人物の誰かをありのままの姿より良く見せようとか貶めようとかいう自意識というものが完全に欠如しているからだ。

小林秀雄は志賀直哉の後期の作品『豊年虫』について次のように述べる。自分は志賀直哉の作品理解として、これ以上に適切な表現を知らない。

(引用はじめ)

彼は自然が幸福でも不幸でもないように幸福でも不幸でもない、快活でも憂欝でもない。
彼の肉体は車に揺られて車夫とその密度を同じくし、車夫は停車場とその密度を同じくし、停車場は豊年虫とその密度を同じくする。主人公は床に寝そべって豊年虫の死んで行くのを眺めている、豊年虫が彼を眺めている様に。この時、眼を所有しているものは彼でもない、豊年虫でもない。(「志賀直哉」)

(引用おわり)

若き日に武者小路実篤らと『白樺』を創刊した志賀直哉が、晩年に至り、彼の周囲には、彼の人格の力に引き付けられて、小林秀雄、広津和郎、阿川弘之はじめ多くの文人が集っていた。しかしそれは脂っこい文壇サロンのようなものではなく、そこにいる人の心持がいつの間にかすっきりと浄化されるような自然で淡々とした集いだったような印象を受ける。

私は、志賀直哉の末弟子を自認する作家阿川弘之による詳細な伝記『志賀直哉』を読み通して、いつの間にか彼に対し一人の人間として深い愛着を抱いている自分に気づいた。

ちなみに、これは本論とは関係ないが、小林秀雄が敬愛する志賀直哉に食ってかかった太宰治に対して、意外なことに、小林は同情的とも言える評価をしている。

(引用始め)

「あの人の文章は特色あるものだと思った。…やっぱり人間が変わっているんでしょうね。それが文章によく出て生きている。あのくらい気性のよく出た文章は少ないでしょう。あの人の文章を読んでみると、僕の感じでは、一見観念的だが、実は非常に肉体的ですよ。だから、太宰の言っていることはわからんでも、人間のヘンな体臭ね、これは分かるんです。それだけで売れますね。素質を充分に発揮しているが、性格の発見がないといった感じがしました。ただの才能ではないですね。」

「太宰っていう人は、バカじゃありません。ヒステリイです。バカとヒステリイは違いますからなあ。ヒステリイにはヒステリイの智恵がある。志賀直哉という人を亭主関白に見立てた、あれは文章だと思ったです。あのくらい素質をぶちまけた文章は珍しいですな。素質の氾濫なのですよ。礼を失したとかなんとかそんなつまらんことではない。つらい話です。文士稼業もつらいこったということです。」

(引用おわり)

小林先生、さすがによく分かっていらっしゃる、といったところか。
今の自分はやはり、太宰は志賀の愛を受けられなかったことに心が痛んだのだと思う。
太宰に対する志賀の印象は、「太宰治の死」という文章に過不足なく描かれているから、興味のある人は読めばいいと思う。


参考書籍
志賀直哉全集(全22巻、岩波書店)
『ひき裂かれた“わたし”―思想としての志賀直哉』新形信和
『志賀直哉論』小林秀雄
『志賀直哉(上・下)』阿川弘之
『志賀直哉・天皇・中野重治』藤枝 静男
『志賀直哉はなぜ名文か』山口翼
『如是我聞』太宰治
『小林秀雄対話集』講談社文芸文庫

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激情と静寂 Envy

        ティモ伯爵
岩手県出身。現在神奈川県在住の20代男子。
音楽、哲学、思想などを独自に研究。

高校時代、毎日学校では寝てばかり、周囲とも馴染めず自意識過剰で、多感、
暗い高校生活を送っていたときだった。

周りの友達が聴いている音楽、テレビ、ラジオ等から聴こえてくる安っぽい音楽、愛だの恋だのを聴いても、何かが違う。現代の閉塞感や、悲しみ、世界に対する敵意や不安、絶望など、自分の内面と照らし合わせてみてもどうもしっくりこない。

日本は平和だという一方で、年間3万人の自殺者がいる。毎日人身事故が起きている。
混沌から目を逸させる様なものばかりが溢れていて、意図的気に平和ボケさせられているのでは?なんて思っていた。

もっと切実なものが欲しかった。もっと本質的なものが。
この内面の不安と苦しみに真正面から向き合っているものが。

Envyの音楽を聴いた時、最初は戸惑った。代表曲の一つと言っていいLefthandや、chainwanderring deeplyを聴いた時の衝撃は大きかった。

自分の内面にフィットし、
絶望や怒り、悲しみといった感情を、ここまでストレートに表現した音楽には出会った事が無かったのだから。心を鷲掴みにされた気分だった。

偽善や癒しなんかここには無い。耳障りの良い言葉など一切ない。
ストレートに表現するからこその切実さと、そして何よりそこには誠実さがあった。
だからこそ、救いがあった。このままの、ありのままの状態でいいんだ、と。

音楽的には激しくて暗いかもしれないが、不思議な安心感と、そのままを表現、見ることによる解放と癒しがあった。
そして、誠実だからこそ得られる、表現することができる、
希望や、優しさ、強さにも同時に出会う事ができた。
また、雑誌のインタビューなども受けず、ひたすらストイックに、
純粋に音楽のみで勝負している、という姿勢に感銘を受けたと同時に、
現代のヴィジュアルありきの音楽シーンがいかに本質からかけ離れているかという事を感じた。

「言葉で表現するのは野暮だと思うんで」と、Voの深川氏はライブの時に言っていたが、
ここまで言えるのは、純粋に音楽の伝わる力というものを分かっているからなのだと感じた。

情報ばかりが頭に入り、目と脳だけ動かしがちで、感性というものが育ちにくい、無視されやすいのが今の環境なのかもしれない。
しかし、感性こそが本当に人を豊かにし、同時にこれからの未来を切り開いていく力にもなるのではないだろうか。
そういった、感性を育てる、拡げる、といった意味でも、Envyの様な音楽に触れてみる事は価値のあることだと思う。

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◇ヘルスケア

・ウルトラリンパ受講者の手記&感想

★菊地さん曰く 〜ウルトラリンパ講座おぼえがき〜

りんりん

【指先に集中する】
実はこの意味がよくわからない。自分の施術を振り返ると、「集中」とはこうなるのかな。
わたしの指先と相手の患部に、入り込む。思いっきりつかんで振る。施術前、とくに気合は入れてない。始めに腰をつかむとあとは筋肉に沿って、一点一点固さを感じながら夢中になっている。痛がる友だちは「この鬼ぃ〜」とわめくけれど、躊躇(限度はあるが)せず緩急をつける。

【施術後は、体の部品を取り替えたようになる】
血液もリンパも、細胞も各器官も、体中が一晩中お祭り騒ぎになって眠れない。いろんな部分が「活性化してるよー」と同時にアピールしてくる。この前園児に囲まれて、工作や絵本、ケガのアピール攻撃にあったけれどうれしくもある、そんな感じ。

もっと不思議なのは、受講生で施術し合った日の夜も同じ状態になり、自然治癒力が活発になったのか、体内は休まず踊っている。わたしは、ただ横になって朝を待つ。翌日は体が軽くなっている。

【人を施術すると、自分も元気になる】
これまた不思議。施術すると、施術してもらった後と同じように体中が燃えに燃える。全身炎上。老廃物大放出。なんで? と考えていたら、あるシンプルな教えに行き着いた。昔からいわれていること、法話や童話、どの民族でも語られていること、祖母や母は当然のようにしていたこと。菊地さんには話したが、言葉にすると当たり前すぎて拍子抜けする。でも、それすらできていなかった自分に愕然とする。まだうまく表現できないし、もっと掘り下げたいから暫定教訓としてとどめておこう。ここがウルトラリンパの真髄でもある気がしている。

相手にもよるけれど、最初のひとつかみで指先を始点に一瞬で全身がカーッとなる。ちょっとつかんだだけで「ポカポカする」という人もいるし、わたしの体が反応しないこともある。相性なのか、相手の何かが伝わるのか、体調によるのか、その辺も追究したい。
卒業試験では初対面の人に施術をしたけれど、腫れていた指のしもやけがぴたりと治った。

【一番大事なのは、腰とお尻。ここをほぐさないと全体がよくならない】
ある回の講座で、始めに取りかかる腰とお尻を飛ばしたことがある。すると、全体で循環しているあの迫力がいまいちで、独特のうねりがない。施術で力を出し切れなかったときと同じように物足りなく、体も気持ちもしらけてしまう。

肝心な腰とお尻がほぐれると、心臓のリズムなど器官の規則性を押しのけ、おのおのが好き勝手に踊りながらも、全体が流れては巡る大循環が起こっているようなグルーヴ感がある。それを司っているのが、きっと腰とお尻。腰とお尻は、場をあたためる役割もしているから、みんなノリノリで弾けることができるのだと思う。

さらに、腰とお尻の奥の奥、子宮というより腸に秘密がありそう。腸に生物の発生源があると仮定して、それが施術によって刺激され、うず潮のように回転しながら全体を整えているような感覚がある。うず潮は熱を持っていて、肩や太ももなどあらゆるところに生まれるのだけれど、最大勢力は腸のような気がする。熱いだの祭りだのと書いたけれど、うず潮が発生すると体内の大循環が起こるのだと考えている。これも暫定ね。

【リンパを習得するには、センスとメンタルの強さが必要】
メンタルの強さとは、一般的には精神面の強さや安定感をいうのだろうが、菊地さんを見てきた今はこう解釈している。

「体の悪い人や心の腐った人にひっぱられない強さと、相手の筋や筋肉を痛めかねないリスクを背負う怖さもあるけれど、それ以上に大切なのは、相手をラクにしてあげたいという気持ち、人の体に触れることへの自覚と責任感が持てるのか?」。つまり、あなた生きてますか、と問われている。

それに何とか応えようと、施術中「ぎゃー」と騒ぎながらも肉体的拷問にどうにか耐えることで、今までの行いを猛省し、「もう逃げません」と意思表示をしていたのかもしれない。頭では、まだ大丈夫と体を過信してケアを怠り、一方では体本来の修正する力や素直さを軽んじていたのだと痛感した。

良くも悪くも人は目には見えない力で影響し合っている。だから、人と関わるには覚悟がいる。それが強さ。いい状態で人と会い、仕事をし、遊びたいから、常に自分で調整しなくては。そうでないと、相手にもモノにも、何より自分自身に失礼だ。

覚悟ができていないから何事も適当に済ませ、すぐシステムや誰かのせいにして言い訳を吐き散らし、醜く老いていくのはごめんです。そんな自分や人と出会ったら、わたしは自身の責任において切る、心を込めることができなければ断ればいい、通じないのであればそれだけのこと。

【リンパで周りの人をラクにしてあげてください】
まずは、お世話になっている人をほぐし、指にたくさんの症状をインプットしたい。筋肉の固さや厚み、肌の質感や色、肉や骨のつき方、痛みの表現も人それぞれでおもしろくて笑ってしまう。ウルトラリンパは、人体の不思議ハードなおさわり展みたい。

職人の友だちは動きにムダがなく、工程によっていろんな道具を使いながら、あまり音をたてずに作業をする。その姿が美しくかっこいいので見習おうと、今年から指先を意識するよう心がけている。これが難しくて、ついドアをバタンと閉めたり、モノをぞんざいに扱ったり。たまに静かにそうじをしていると、足音がうるさく、肩が内側に入っていることが多い。指先を意識するってことは、足先から頭上まですっとしなやかに動くことだと気づく。この試みは、施術の「指先で感じる」感覚が磨けそうだから、毎日1時間くらい日本舞踊をイメージして訓練しよう。

【今日で講座は終わりだけど、(卒業試験に)合格かどうかは自分でわかるでしょ。オレの施術と自分とを比べたらわかるはず。施術前と後のお客さんの変化も。合格は人から与えられるものじゃなく、自分で決めること!】

このセリフは、仕事も遊びも人とも本気で関わる菊地さんの生き方を表していると思う。施術をしている姿は威厳に満ちている。繊細で大胆。底知れぬ恐ろしさもある。

菊地さんの圧倒的な存在感と破壊力を前に、受講生は媚びず怯まず、敬意を込めてやりきった。那智さんと高橋さんは、上っ面の言葉は使わないで無我表現活動に力を注いでいる。
リンパも無我研もあくまで入口で、いざフタを開けると実は○○ビジネスでした〜なんて、どっちらけなオチはなく、そのものを独自に追究している。裏がないぶん、深みはどんどん増し、幅は広がる。そんな人たちに、甘えや見栄や取引は通用しないのです。

翌日からしばらくは、腕の付け根から指先までまんべんなく重たく、疲れていた。今までは施術後、親指の付け根や手首とか一部分に強い痛みを感じていたが、卒業試験後は腕全体がだるい。一部分だけに力が入っていたのではなく、指や手首の角度がカチッと決まり、全身を使って施術できた証なんだと受け取った。もちろん、毛細血管にまでビンビン響いている。だから、合格! おめでとう。ありがとうございました。

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★退化してしまった感覚を呼び戻す

加藤ミチコ

最初、メルマガで菊地さんと那智さんの対談を読んで、今の自分には足りない、菊地さんの力強さ、野生の勘みたいなものを感じ、一度お会いしてみたいと思いました。正直、リンパを専門的習うなんて、そのときはあまり考えてもみなかったけれど…
 
私は自分に自信がなくて、自分の意見より他人の意見の方が正しいと思ったり、本を読んで参考にしたりしてきたのですが、鬱病になった時に、今まで自分の思っていることや感覚、感性を無視して生きてきたのかもしれないなと、しばらくして感じるようになりました。仕事も気力でなんとかなると思い込んでいて、ふりしぼってふらふらになりながら終わらせては寝込む、の繰り返しで、気力の前に自分の体の声を聞くことすら無視していた気がします。最後には無気力になり、今日やるべきことも何をすべきかわからないほど、判断力みたいなものがなくなっていました。
 
病気の間、何がいけなかったのだろうとずっと考え、錆付いて、退化してしまった自分の中の感覚みたいなものを訓練して呼び覚ますことができないかなと思いました。
  
ウルトラリンパを菊地さんに教えてもらっても、その後は自分で昇華して、自分なりの手の感覚、施術する相手との間合いを自分なりに構築していかないといけません。感覚を養うにはもってこいでしたが、正直、7月から新しい会社に就職し、慣れずにほぼ9割ぐらい仕事のこと考えちゃっていい生徒でなかったのが悔やまれます。(100%言い訳ですね。)

でも、すべては教えてもらったこれからが大事だと思っています。実際、施術以外でも、なんとなく感覚を呼び覚ますヒントもいただいたし、自分なりにうっすらですが感度がでてきたような…そういう感覚を疑わずに素直に受け入れられるようになった、ような気がします。
 
今は自分のためだけにウルトラリンパを使っていますが、いずれ必要とされる方々に施術をやらせていただきたいと思っています。
 
実際の菊地さんにお会いしての感想は、そばにいて、気さくでおもしろくて、でも腹のすわった覚悟の出来ている人、真剣に現実に向き合っている人と感じました。(自分も現実を生きていたつもりだけど、菊地さんとあうと今まで自分はふわふしたバーチャルでシャドーボクシングして、相手もいないのに自分だけがダメージ受けているというか、そんな感じだったな。)だから接すると楽しくても、ちょっと緊張感もあります。あまりいい生徒ではなかったですが、ほんとうによくしていただきました。
 
一緒に施術を学ぶ方々もいい方ばかりで、みなさんに会うとほっこりとした気持ちになりました。
月一の講習会がとても楽しみでした。本当に菊地さんそして、一緒に学んだ方々、お世話になりました。ありがとうございました。

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◇無我表現研究会編集会議  2013 3/10 渋谷のファミレスにて

「石ころ」になって見えてくるもの 

那=那智タケシ(無我研代表)
高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
テ=ティモ伯爵(岩手からやって来た20代男子。クリシュナムルティ等を学ぶ)

●aikoは自分の響きがある

 那 ティモ君はぼくらと人周り違う世代だけど、クリシュナムルティが好きだったり、リルケが好きだったり、画家だったらルドンとか、本当にびっくりするくらいぼくと似たところがあるよね。
 テ はい、不思議です。
 那 AKBを受け付けないというのはわかるんだよね。
 高 (笑)
 那 いや、高橋さんがこのメルマガで取り上げた視点はともかくとしてさ、ティモ君は商業主義というか、感傷主義というか、そういうのばっかりだから、やだーってなって、もっとリアルな、今の自分の不満足感とか、不条理感とか、深さとか、響きを持ったものを求めた。
 テ そうそう。
 那 その時に、例えば今回紹介してくれたEnvyが響いたということでしょ?
 テ 本とかでも、クリシュナムルティとか、リルケとか。
 那 「マルテの手記」好きでしょ? ぼくも好きだけど。岩波文庫版に限るね?
 テ はい。
 那 物足りない、物足りないって思う人って、絶対、究極までいかなくては気がすまないの。で、これが絶対だ、これが絶対だと探していくと、ある地点にいく。これで、響いてきたと。自分の抱えてる絶望と同じくらいだ、とか。これがリアルだと感じるという。その感覚はわかる。似ているから。
 ぼくも学生時代は軽いSFから入って、物足りなくて、カミュ読んでみよう、カフカ読んでみよう、キルケゴール読んでみよう、ドストエフスキー読んでみよう、古典が終わったら精神世界とかそっちも探ってみたり。クリシュナムルティに出会ったり。音楽なら、クラシック行く人はバッハとかベートーベンに行く。こういうよりコアな現代的な表現に行く。だから止まれないのよ。途中で納得できないんだよね?
 高 その感覚はわかる。これが究極だっていうのが、これ(Envy)に出会った時、彼が感じたってことね。
 テ そんな感じです。
 那 最近思うのはさ、響きというかさ、太鼓叩くようなものでさ、地に足が着いた瞬間に響くものがある。中途半端にこの辺り、空中じゃ響かない。響く振りはできるけどね。表現として。言葉もポンとここ(足元)に来た時に、それがどんな俗な言葉であっても響く。響きを持つ。例えばファミレスにいて有線がかかってる。いろんな今風の音楽がかかっているけど、全然響かないな、と。響かない、響かない、と思っていた時に、たまにいい曲とかもある。メジャーでも。例えば、俺、今まで全然なんとも思っていなかったけど、今日とか朝ファミレスいたら、aikoが流れてきたのね。
 テ ああ……
 那 響きがあるのね、あの人。わかる?
 テ はい……
 那 aikoすげーな、この人本物だ、と思った。あっ響いてるって。この人は自分の響きとか、言葉を持っているんだよね、だから続けられると思う。ヒップホップの変な売れてる歌の後にaikoで、そこに好みとかじゃなくて差を感じたんだよね。
 高 地に足が着いてる感がある。
 那 そう、そう。それが高尚であろうが、俗であろうが、表面的なことは関係なくさ、等身大で、自分の言葉で、自分の大地に足を着いて表現している。だからこれ(ティモ君の評論)見ると、Envyって人は俺はYoutubeで何回かしか見てないけど、そういう人たちだっていうのはわかる。好みはともかくさ。普遍性とかはともかくね。それはだからズキューンってきたってことでしょ?
 テ はい。
 高 出会ったのは高校生の時?
 テ そうですね。
 那 だから志賀直哉にしてもさ、遠野物語にしても、地に足着いてるんじゃないの? 自分の地平で見て、手ごたえのある事実を表現してる。何か?と。これ以上のものはないし、これ以下でもないというところで裸で勝負できる。気取らずに。
 高 虚飾がない。
 那 そう。それがすがすがしい。
 高 志賀直哉で言えば、意味があると思われるという事実を、ピックアップして並べていくというか、その技術がすごい。てらってやっているのではなく、地に足を着いてやっていると自然にそうなる。
 テ ああ……
 高 天性の作家。そこは芥川が逆立ちしてもかなわない、という話がある。
 那 今、思うのはさ、確かに志賀直哉が天才だとして、あるいは聖書というものが別格なものとして、無我研的にはそれを多少意識しないと意味がない。志賀直哉と芥川龍之介と太宰治が日本の古典となっているわけでしょ? 国語の教科書的な。みんな名作だよと言う言い方で終わらせちゃう。そこにある微差を指摘しなくちゃいけないと思う。その微妙な差の中に大きな隔たりがあるということを。
 何か作るにしても、それを理解したうえで作らなくちゃいけない。てらうわけではなくて、知ってるってことね。彼らとは時代が違うんだから。何でも無意識でやればいいってものではないんじゃないかな。いったん、今の時代のやばさがわかった上で無意識に入るのならいいけど。だから、今回の並びは良かったと思うよ。遠野物語と聖書と志賀直哉とEnvy、これが同じジャンルだよってことだよね、無我研的には。これが一つの同ジャンルとして同じコーナーに並んでいなくちゃならない。そういうことなんですよね、やりたいのは。
 高 無我表現ってジャンル?
 那 無我表現っていうととっつきにくいかもしれないけど……

●柳田国男は意識的に「わかっていた」

 那 柳田国男って人はさ、志賀直哉みたいに書けばそういう風になっちゃう人ではなくてさ、わかってた人だよね。時代のその、近代化される中でさ、過去の怪しげなものを捨て去って、功利主義の中でさ、これでしょと。ここ捨てたら日本人でなくなるよっていうのを知ってて、だから遠野出身の作家である佐々木喜善から話を聞いた時に、ビビビッときた。
 佐々木喜善は地元だからいっぱい知ってるの。でも柳田国男は「きた」と「もらった」と。編集して書き直して、「これで平地人を戦慄せしめよ」と。これだよ、というさ。
 要は、ピンポイントでわかったということだよね。何が大事か。こんな7,80頁の本が、最初、自費出版で350部くらいしか刷らなかったのに、芥川龍之介とか三島由紀夫とかが「すごくね?」って気づいた。柳田国男は100%知っていた。ここピンポイントで押さえないと絶対だめ。だからいっぱい聞いた中で、効果的なものを並べたわけでしょ? それで多少編集して、デフォルメして見せることで、日本にも天狗みたいな人たちとか、山の中の怪しい人たちがいっぱいいたんだっていうさ。神と人間の境界線にいるような存在? それがいっぱいいたんじゃないかというのを示した。無形なる何かを明晰に見た人だよね、山人たちの中に。
 だからEnvyって人たちも、わかってやっているんじゃないかな。無意識の叫びじゃなくて。時代に対するアンチテーゼとして。これだけメジャーな音楽が腐っちゃったら妥協しないよということですよね。それは理性でもわかっている。
 テ はい、そう思います。
 高 佐々木喜善は作家としてあまり大成できなかったみたいですね?
 那 柳田国男がエッセンスをまるごと持っていっちゃったみたいですね。ただ、佐々木喜善という人は宮沢賢治とも交流あったみたいだけど文学やりたかった人なんですって。地元の人だから、自分の知っている情報の価値を客観的に見れなかったのかもしれない。外部から来たインテリで官僚の柳田国男が気づいてしまった。これだ、と。中にいる人はわからなかったのかな。だから「遠野物語」という奇跡的な作品ができた。
 高 今みたいな背景的なエピソードがわかるとなお面白いですね。

●幻想をそぎ落とした人間だけが持つ「響き」

 那 今、長編の作品を書いているんだけど、壊していかなくちゃいけないじゃない? 満足するとさ、ああ、ここ嘘ついてるとかわかっちゃう。だから何層も壊していく。ばりんっばりんって苦しいの。完成じゃないって自分で認めるのが。でも、壊していくと、ここで地に足着いたって表現がある。これで間違いない、響いてくる。それが最近わかるようになってきて面白い。それがわかると、表現として猫かぶってるのがわかる。オブラートというか、かっこつけてるのがわかる。でも、響くためには、自分で自分の曖昧な部分、嘘の部分を壊していかなくてはいけない。これはつらい作業。地に足着くまではね。
 高 そういう意味では、スピリチュアル系の本って今、ほとんどごたくだよね。
 那 一番だめだと思う。
 高 一番本質的なことを語っているはずなんだけど、もっとも遠い表現になっている。
 那 だって、事実っていうさ、石ころがここに一つあるとして、石ころはこうだ、こうだって積み重ねちゃうじゃん? ほわーんとしたもの。こっち(石ころから離れた上の方)になっちゃうじゃん。ネットとかでもね、いろいろと言ってくる人もいるけど、相手の本質がそのほわーんじゃなくて、そのちっぽけな方だよ、って。それが見えちゃう。こちらがそこを指摘すると、切れちゃう。いや、そのいびつでちっぽけなのがおまえだよって。それを認めない人とは同じ土俵にも立てない。俺は認めてるよって。こんなんだけど、何か?って。ここ(足元)だもん。でも、ここってわかってる人は強いのよ。この石は石だもん。石以上にもなれないし、以下でもないってこと。
 ところがね、それがわかっていると、この石を変化させることができる可能性が出てくる。触れているから。無駄なものを削ることもできるし、石は歩かないけど、歩いていくこともできるわけ。地に足が着いていれば。こうやって、人と握手したり、触れ合うこともできる。社会と関係することができる。でも、石の頭上に観念とか、神秘体験だとか、知識だとか、ほわんとしたものがまとわりついちゃってると、それが自分だと思っちゃって、どんどん他者と関係ないところにいく。そういうのは現実からどんどん遊離する。学問として、わかってやっているならいいんだけどね。
 劣等感に満ちた、何もないからどんどん積み重ねてる、ちっぽけなのが自分。でも、絶対にそれを人は見ない。これを見ればいいだけなのに。どうしようもない方じゃなくて、愛だとか悟りだとか美しいものを追って、体験したがる。だからどんどん遠回りして、それを一度ぶっ壊して、戻ったらはじめて対等。くるっと回って一周して地に足着いたら禅だけど、あるがままでいいんだよってそこではじめて言える。でも、地に足が着くと、そんな時代じゃないってのもわかる。石になったら、どう歩いて、どういう風に変化していくか、表現して行くか、全体にどう影響を与えていくかという義務が生まれる。そこからがスタートになる。そこからが新たな関係、新たな表現の道になっていく。だから、無我研で提示したいのは、そういう人たちが作り出す、その先の世界観のビジョン。まぁ、おぼつかない足取りでも、ビジョンだけ示したいな、と。
 例えば、たまちゃん(たまちゃんSOUZOU学科主催)なんかがやっているのは、ほわんとしたものを全部幻想だから捨てなさい、身体感覚だけを信じなさいってところからはじめてるけど、それは資質とか役割の違いだからね。
 高 だから、そぎ落とした末のところからはじめようってこと?
 那 そうそう、そぎ落として、等身大で。傲慢だったり、ずるかったり、弱かったり、でもそれが俺なんだよ、何か?って言えた時に、人は強い。幻想がないし、そこからはじめることができる。でも、そういう人間だけが持つ響きというものがある。そういう響きっていうのは拡がっていくし、つながっていくと思う。当然、現実世界を変えていく力を持つ。人類単位で見てもさ、「このままじゃどうしようもなくない?」っていう気づきがないと、理想ばかり積み重ねても絶対に変わらない。愛と平和をいくら謳ってもね、それを言っている人の中に愛も平和もないんだからさ。でも、そっちに下手に踏み込んじゃうと、認められないでしょう? 自分に愛がないってことを。真実はね、愛と平和を謳うことじゃなくて、愛と平和が我々の中にないってことでしょ? 現に、ないんだからさ。だから原発が爆発しちゃった。パンドラの箱、開いちゃってるじゃん。
 テ はい。
 那 「悟り系で行こう」を書いた時はそこまでいけてなかった。認識のレベルまでで、表現のレベルまではいけてなかった。いろいろまとわりついた自我を否定して壊すとこまで。これが幻想だってことはわかった。自分が路傍の石ころの一つにすぎないって気づいた時、ぱっと広がってあーっと。石ころってわかった時に、自画像から風景画みたいに認識が入れ代わった。すべてひとしなみの事物で、だからこそどこまでも拡がっていくって。他者とも自然とも等価な存在として触れ合えるって。だから勢いで書いた。
 テ そこは興味深く読みました。
 那 まぁ、足らないところもあるけど、今、読んでも基本的なことは書いてあると思うよ。「みんな、インドとか行くけどここ(胸)だけは見たがらない」とか。これが問題なんだから。葛藤が。満たされないことが。なのにどんどん積み重ねて、どんどん遠ざかって、もう俺なんか手の届かない人がいっぱいいるから。ばいばーいって。天上から見下ろされてるぐらいの勢いの人。
 テ (笑)
 那 でもね、ここを見ていって、石ころにすぎないとわかってもね、いきなり石にはなれないんだよね。滞積したものが身体には残っているのね。認識に身体が追いついてないの。だから苦しいけど、気づいて、壊して、落としていく。ばーっと心身脱落みたいに大量に落ちた時もあった。それでもまだ薄いのが何層かある。落として壊して、それを繰り返して地に足が着くまでけっこうかかった。石ころとして定着するまでね。でもね、地に足着いて満足って時代じゃないこともわかっちゃうの。そこまでいくと。ほわーんと幸せになりました、じゃないのよ、絶対に。
 よく悟りというのはね、ほわーんと幸福な状態が続くことみたいに言う人がいる。そういう固定観念もわかる。幸せになることだと。でも、全然違うよね。放射能が出てて、黄砂もきてる。飢餓もあるし、経済危機もあり、戦争もある。ぎりぎりやばい状態なの。ほんと、ぎりぎりだよ? 明日にもとんでもないことが起こるかもしれない。もしも人が全体としての単位を自覚したら、ここからどうすべきかってなっていく。幸せじゃなくて、泣き声が聞こえてくる。そこに衝動が生まれるの。衝動が慈悲なのね。
 高 自分のことがゴールじゃないってことね。
 那 こちらは遠回りしてるから、遠回りしてる人に何が違うか明晰に言える強みはある。最初から地に足着いた強い人もいるけどね。そういう人はまた別になんかやってる。だから、どちらにしろ等身大の人とは話ができる。おれ、すごいとか、こんだけ勉強してるけど、真実とは違うんじゃないですか、という人とは話せない。嘘だもん、だって。
 高 今の部分、メルマガに使えそうだよね?
 那 うん、今、ちょっと意識してがんばってしゃべってる(笑)
 高 ブログでも似たようなこと書いてるよね? それをこういう対談形式にするとわかりやすいかもしれない。
 那 ああ・・・あのブログは理解されるとも思っていないけど。最近、「誤解と偏見しかないから」ってたまちゃんに言ったらね、「そんなのくそくらえだよ」っ言ってくれた。「響く人には響いてるよって」だから、いい人だなっていうか(笑)まぁ、強い人だよね。違うラインに見えて、つながってるから面白いよね。
 でも、今日はティモ君が来てくれたけど、こうやっていろんな人が、一応、無我研って木に止まったり、寄って来てくれたりするわけじゃないですか? 離れてく人もいるけど、それはそれでいい。だから地に足着いて、根をはって立ってれば、まだ上に伸びてく可能性はあると思うんだけど、どうですか、その辺は?
 テ 自分が感じていることを那智さんが言葉で話してくれるから、そうそうって思いました。
 高 そうそうってうなずく? まぁ、高校時代からクリシュナムルティを一生懸命読んでいた人だものね。
 テ 言葉で表現するのは難しいから。


●「見るものが見られるものである」とは

 テ クリシュナムルティが「見るものが見られるものである」って言うじゃないですか? あれがよくわからないんですけど。
 高 葛藤があるとして、葛藤と葛藤をどうにかする自分が別のものではないということでしょ。それをどうにかできる自分がいない。主体と客体がない。葛藤自体が自分だから。
 那 つまりさ、きみはきみなんだよね(肩を叩く)。それ以上でも以下でもない。その事実がわかった時に、つまりさっきの話で言えば、きみは特別な、人よりも素晴らしい体験や知識を持った高い存在ではなく、路傍にたくさんある石ころのひとつにすぎないって気づいた時に、すべてがひとしなみの価値を持って輝いてくる。ティモ君も、俺も、高橋さんも、あのウェイトレスさんも、この茶碗も、コップも、何もかもが等価値を持つ神の被造物になる。だからね、そこに二元論はないの。主体と客体はないでしょ? 自分が石ころになることで、万物をひとしなみの構成物のように感じた時に、ただ世界がある。「見るものは見られるもの」になる。茶碗は茶碗であり、きみはきみになる。山は山であり、花は花であり、世界は世界になる。するとどこまでも拡がることができるし、どこまでも高くなることができるし、どこまでも深くなることができる。一からはじめることではじめて事物と関わりあえて、どこまでもいける可能性を持つ。
 テ なるほど。
 那 だから、自分は特別だって人ほどね、真逆の事実に驚いて悟りとか何だとか言うけどね、元々謙虚に石ころみたいに生きてる人は、それが当たり前なんだと思う。体験がどうこう言って、まとっちゃってる人はまだ全然だめってことで、自分は宇宙になる体験をして、すべてを悟ったなんて言ってたら、昔なら禅門くぐってもぶん殴られて追い出されてたよ? 全部捨てて、初めて落ち着く。でも、そこから先の話ね、表現とか、新たな関係を作り出すとか。だって、同じ土俵にいて、裸になって、初めてこうして触れ合ったり(握手する)、わかりあったりすることができるわけじゃない?
 テ そうですね。
 高 ティモ君は今のスピリチュアルな業界とか知らないのでしょ?
 テ 知りません。
 那 知らない方がいいと思うよ。
 テ クリシュナムルティとか、神智学の本とか、OSHOとかは読んできましたけど。
 高 いつくらいの話?
 テ 高校生くらいです。
 高 すごいね、それ?
 テ 高橋さんが翻訳したウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」も読みましたよ。
 高 あれ、読んだの? 高校生で?
 テ はい。高校時代は時間があったので。
 高 岩手であんなの読んでるの、ティモ君くらいじゃない? でも、嬉しいよね。
 那 あの本、めちゃくちゃ難しいよね。なんとかオルガズム?
 高 オルガヌム。
 テ 難しいけど、面白かったです。理解はあまりできませんでしたが。
 高 でも、何で読んだの? OSHOが紹介してたからかな?
 テ わからないですけど。
 那 何だかんだで縁があったって感じだよね。
 テ はい、そう思います。
 那 彼みたいにさ、朴訥で飾らずに、「俺はこんくらいだ」って言える人が一番強いと思うよ。揺るぎようがないじゃん? 君みたいなタイプの人こそさ、そのままでいいんじゃないかな。少しずつ自分の世界を広げていけば。すごい良いものを持っていると思うよ。
 テ ありがとうございます。
 那 それじゃあ、今日はがんばってしゃべりすぎたのでこの辺で。

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★編集後記

◎最近、「キングダム」という漫画にはまっています。紀元前中国の500年続いたという春秋戦国時代を背景に、後に始皇帝になる少年と共に、将軍を目指す少年が中華統一するまでのアクションものです。雑誌で見かけて何となく気になっていたのですが、単行本で読み出すとこれが面白い。キャラ、ストーリー、アクション、戦略、詩情とこれほどスーパーなレベルで揃っている作品に出会うことは稀です。何より、それぞれの武将の存在感がものすごい。地に足が着いた凄みがあるんですね。漫画喫茶で気づくと8時間経っているほどでしたが、ついに29巻までの最新刊セットをアマゾンで買ってしまいました。最近のどんな文学作品よりも自分の中では響くものがありました。熱いです。キングダム。(那智)

◎MUGAも遂に20号を迎えました。小さな花ですが、これまで密かに咲き続けてこれたのは少数でも読んで下さる方々がいたこと、そして何より那智編集長の地道で継続的な努力の賜だと思います。今号は記事も多彩で、新たな執筆者も加わり、メルマガとしても充実してきました。そろそろ過去のメルマガの記事をジャンルごとにアーカイブ化するなどしてもよいかなと思っています。これからもご購読よろしくお願いします。(高橋ヒロヤス)
  
◎那智さんからお誘いを頂いてよりMUGAと2度目の春を過ごしています。始めのうちは季節の移ろいに自分のネタは遅まきでありました。今はできるだけ旬のものをお届けしたいと思い、締切ギリギリまでねばってみたり、今までの感動を思いかえしたり、花の開花を先読みしたりと配信時共感を心がけてたりしています。また、創刊20号をともに迎えられるほど自分自身が続けられたことにしみじみしています。特に細かい注文も制限もなく提出したものに物言いもなく、のびのびとした気持ちで書かせて頂いているところに継続の源があるのかなと思いました。20号に寄せてお祝いと感謝を申し上げます。(rita)
 


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創刊日:2011-08-08  
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  • 名無しさん2013/03/16

    詩とか書評とか対談とか、一見関係無い物が上手くまとまってるなと感じました。なかなか大衆のスピ連中には理解されないと思いますが、今後も媚びずにこのスタンスを貫いていけば「体感」で色んな方面の方に

    響くと思います。応援してます