芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第19号

2013/02/15

MUGA 第19号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇アート

・詩

『例外者たちの詩』  那智タケシ

『季節の詩』     rita

◇評論

・無常ということ〜〜小林秀雄と無我表現
高橋ヒロヤス

◇座談会

・ウルトラリンパ受講者座談会   
「人間と人間の付き合いの中で人が治ってゆく」

・無我表現研究会第1回オフ会・座談会その2    
「体験の説明を他人に求めない」

◇エッセイ

・スピリチュアルエッセイ ぐるごっこ
第3回  グルジェフとかダンテス・ダイジとか

高橋ヒロヤス

                                      
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◇アート

★詩

例外者たちの詩


 灰色(新幹線の窓から)

冬の寒空の下、突然、一切が灰色になった

家も、木も、空も、大気も

それを見ているあなたもまた

灰色になった

赤でも青でもなく

黒でも白でもなく

緑でも黄でもなく

灰色になった

灰色の中にあなたはいて

灰色はあなただった

小さきものも巨大なものもなく

あの山さえ、

灰色の貧相な建物と変わらなかった

灰色は世界に浸透し、

秩序付け、

音もなく拡がった

灰色の中に救いがあり、

灰色の底に

とある微笑が眠っていた

もうじき夜が来るだろう

誰かが、そっと肩を叩いた気がした

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季節の詩     rita 


  【・路面凍結・】
  
星はにらむ
マンホールは唸る
タイヤは転がる 
  
しんしん寒い夜なのに
すやすや眠れぬ道路の上
なかなか寝付けぬ雪氷

ふくれてとがって仏頂面

お日さまやっとこ昇ってきても
影でこそこそぶつくさつぶやく

靴音が鳴り渡る
人の一日が動きはじめた

戯れようおどけよう
だけど、ふざけすぎてる

つるつるがりがり氷のダンス
靴は楽しむ 靴は怖がる

でこぼこがちゃがちゃ氷のコメディ
靴は戸惑う 靴は呆れる

人は言う「こりゃまいった」 
  
  
【・みかん・】 
  
みかんはお尻のフォルムなの 
お尻をイモ虫おしくらまんじゅう
イモ虫一房むしって食べる 
  
食べても食べても 
お腹いっぱいにならないや
いつまでもいくらでも食べられる 

どうしてこんなに食べちゃうのかな
みかんをそんなに愛してる?
機能と神経が耽溺してる

ぼくの手から投入されたみかん
ぼくの胃からワームホールを通過してると 
もししたら

ぼくの体は宇宙と繋がってるよ
みかんがそれを証明してる
果てしなく食べられるみかんの訳なの 
  
  
   【・寒・】 

地平線のあたりに連なってる雲
フランスパンみたい
西の空はイチゴジャムとブルーベリージャムを塗った
日没の頃あい

遠くから晩鐘が聞こえる
せわしなく動く足の爪先に
鐘の音がくっついた
カーンと鳴ってかじかんでいる

月の光が徐々に増してくると
骨の随まで冷えてくるよ
コートを貫いて冷たい手が
雪おんながぼくをきつく抱きしめる 

赤信号を待っている
こんなところで追いはぎに
身ぐるみ剥がされた切ない気分
体温をすっかり奪われた 

寒風が吹き荒ぶとぼくは固まった
人間じゃなくなっていく
わき目も振らず田んぼ道を
自転車をこいでいく
一本の小芥子が過ぎていく
 
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◇評論

無常ということ〜〜小林秀雄と無我表現

高橋ヒロヤス

今年の大学入試センター試験の国語に、小林秀雄のエッセイが出題されて、ちょっとした話題になっていた。予備校などはこぞって「悪問」と批判しているらしい。何故悪問かと言うと、彼の文章は論理的でなく直観的で、独特の思考のリズムがあるので万人向きではないという事のようだ。

最近、小林秀雄の講演を収録したCDをよく聞いている。この講演は「信じることと考えること」というテーマで、当時流行していたユリ・ゲラーの超能力や小林に影響を与えたベルグソンの哲学について語っていて興味深いので、またそれについて書く機会もあると思う。彼の語りぶりの、落語家のような間合いとテンポは、いちど魅力にはまると癖になる。実際小林は志ん生の落語をよく聞いていたという。

小林秀雄という名前は今でも多くの人が「文芸批評の神様」といったイメージと結びつけて知っていると思うが、最近では彼の文章は次第に読まれなくなってきているのではないか。原因の一つは、彼が批評の対象とした近代文学自体が読まれなくなっていることにあるだろう。

小林が読まれなくなっているもう一つの原因は、彼が発言した昭和戦前期から戦後期という時代状況がもはや遠い過去のものになりつつあることだろう。

しかし小林が語ったことの本質は普遍的なもので、その考察は今の時代でも価値を失っていない。小林秀雄という存在が「歴史的人物」の範疇に入ってしまった現在、小林の言い方に倣えば、本居宣長を「思い出す」ように小林秀雄を「思い出す」ことは有益な歴史体験となりうるだろう。

彼の作品が「批評」という形式を取っていることからも明らかなとおり、小林秀雄は「表現すること」よりも「見ること」に主眼を置いている。しかし、彼が「見た」ものを表現する際に用いたスタイルは、それ自体が「無我表現」と呼ぶにふさわしいものであったと思う。

優れた思想家が常にそうであるように、小林秀雄もまた「たった一つの事」を語り続けた。その語り口や方法や素材が時々で異なっていたにすぎない。

彼は、批評の対象となる作品を「解釈」しようとしたのではない。作品から受けた衝撃や感動の体験(本居宣長のいう「もののあはれ」を認識したときの体験)を言葉にしただけだ。

彼が戦時中に書いた代表的随筆とされる『無常という事』という短い文章は、非常に有名で、高校の国語の教科書の定番でもあったが(今は知らない)、時に難解であると言われる。但し、これが難解なのは、彼の文章のせいではなく(大抵はそう片づけられることが多いのだが)、彼が語っていることそのものが伝わらない読者が多いせいではないかと思う。

このエッセイは、浄土宗の開祖・法然の言行集である「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」」の中にある文章からはじまる。

≪或るひと云く、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくとも候、なうなうとうたひけり。その心を人にしひ問はれて云く、生死無常の有り様を思ふに、この世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけたまへと申すなり、云々。≫

意味は次のようなものだ。

比叡神社で、いつわって巫女のふりをした若い女房が、夜がすっかり更けて、人が寝静まった後に、ぽんぽんと、鼓を打って、心から澄んだ声で、「どうでもこうでもいいのです、ねえねえ」と謡を謡った。その意味を、あとで人に強いて問われて、このように答えた。

「生死は無常ということを思いますと、この世のことは、どうでもこうでもいいのです。ねえ、後世を助けてくださいと、神様にお願い申しあげていたのです」
(生死無常の有り様を思ふに、この世のことはとてもかくても候ふ。なう後世をたすけたまへと申すなり。)


小林が、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついている際に、突然この短文が絵巻物のように鮮やかに心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細かな描線を辿るように心に沁み渡った。こんな経験は初めてなので、酷く感動して、坂本と言う麓町で蕎麦を食っている間もずっと奇妙な思いがした。あの時に、自分は何を感じ、何を考えていたのか、今になって無性に気に掛かる。そう言う思いでこの文章を書き始めた。

小林は次のようにその内的体験を描写する。このように語ることは小林は滅多にしないのだが。

(引用始め)

僕はただある充ち足りた時間があったことを思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。

(引用おわり)

このエッセイが難解だとか何を書いているのか分からないとかいう読者は、この実感を身体で共有できないことが一因なのかもしれない。彼はこれを一種の神秘体験として語ることもできただろう(決してそのように明示はしないが)。小林はしばしば超越的な体験に出会う人だった。そういう体験は、しようと思ってするものではない。心を虚しくしたときに、常に向こうからやってくるものだ。

小林は、友人の川端康成に、次のような思いつきを語る。

「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

「人間の一生は、死によって完成される」という小林のこの想いは、鎌倉時代のなま女房の魂を体験した残像といってよい。

(引用始め)

この一種の動物という考えは、かなり僕の気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。

(引用おわり)

「思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ」と小林は断言する。しかし、「上手に思い出す」ことは非常に難しい。だが、それが「過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える」と小林は言う。

<過去から未来に向かって一本の線のように延びる時間>という考え方を、小林は「現代における最大の妄想」と呼ぶ。ここを深く書いていくと長々しい「時間論」になってしまうので、詳述しない。小林にはこのような直観的なアイデアを端的に表現する才能があった。

随想の最後を小林はこう締めくくる。

(引用始め)

成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。

(引用おわり)

これはまさに読んだ通りの意味で、さらなる解釈など必要としない文章に思われるが、改まって「この文章で著者は何を言おうとしているのか」などと質問されると受験生は択一の選択肢を前に途方に暮れるのだろう。確かに彼の文章はセンター試験向きではないのかもしれない。


小林秀雄については無数の文学者や評論家が無数の文章を書いているが、今のところ僕の中で小林秀雄について最も腑に落ちた評価は、渡辺郁夫氏による次の表現だ。

(以下引用始め)

小林秀雄の作品は評論としてよいのか、随想としてよいのか判然としない。教科書では評論に分類されている。それがただの評論と違うのは知的な思惟だけの作品ではないからだ。端的に言えば作者の体験が基になっている。…小林秀雄の基本姿勢は自分の体験を基にした思索にある。この体験を共有できるかどうかが作品鑑賞の分かれ目になる。そして『無常ということ』の場合はこの体験の質がきわめて宗教的なものを感じさせるのである。

私の目には本質的にはこの人は宗教家なのではないかと思える。体験もなくただ学問だけで宗教家となっている人も多いが、彼らに比べればはるかに小林秀雄の方が宗教家らしい。…彼と同じレベルで会話ができる宗教家は現代においてもそうはいまい。
(『心の国語 高校編』渡辺郁夫著、SCL刊)

小林秀雄の評論は必ずといっていいほど、突然に襲われた感動とか、突然浮かび上がったある考えに激しく心を奪われたという体験から出発しています。このような体験に客観性を求めることはそもそも無理です。しかし芸術や宗教の体験というものは必ずこういう起こり方をするものであり、何らの客観性もないのに、強い真実を感じるというものです。その強さのあまり客観性などというものを求める気持ちも起こらないというのが普通です。人からの証明を求めない代わりに、今度はそれを説明したい、表現したい、伝えたいという気持ちが起こってくるものです。そうして作品が生まれるのです。芸術家であるならば芸術作品として、知的なタイプの人であれば評論や教説としてというように。小林秀雄の評論はそういう種類のものとして読むべきもので、何かを題材にして論じていても、画家がモデルから絵を造り出すように、一種の芸術作品として見るべきものでしょう。
(同上)

(引用おわり)

これは比較的どうでもいい話だが、2007年に47歳で夭折した哲学者・池田晶子氏は、小林秀雄に心酔し、熱烈なラブレターを何通も公の書物の中で公開している。池田晶子については無我表現との関連で後日に述べる機会もあると思うが、あの怜悧な知性の権化のような女性をここまで陶酔させる小林秀雄という精神とは何なのか。

(引用始め)

小林秀雄様、私が貴方に一方的な恋慕の情を抱いて、もうずいぶんになります。お慕いする気持ちは少しも変わっておりません。その間、貴方に宛てしたためた恋文めいたものもいくつか、作品として公開して参りましたが、恥じるところはありません。

 臆面もなく、よく言います、なぜなら、私にとっての貴方、貴方に対する恋慕の情とは、プラトン言うところの「愛(エロース)」、知ることを愛する者が狂気のように宿られるあのパッションだということを、よく自覚しているからです。…

 繰り返し私は断言しますが、近代日本で、哲学的思索の深さにおいて、あなたと並ぶ人は一人もいません。賢しらな学者や評論家の類はいくらも存在しますが、貴方という存在の前には、そんなものの偽物性は一目瞭然ですね。ああ本物とはこういうことなんだ、これが本物の人間の味わいなんだ、考えることと生きることと書くこととの完璧な合致、どんなにおいしく私はそれを味わったことでしょうか。

 僭越ながら、私、貴方のお仕事を継ぐ唯一正当の嫡子と、自認しております。きっとお認め下さることと、これまた僭越にも確信しております。…

 いつか、貴方を唸らせるような、凄い作品をものにしてみせます。

(引用おわり)

この文章を書いてまもなく彼女は世を去ったため、書かれるはずだった「凄い作品」を目にすることができなかったのが残念である。

参考書籍
『モオツアルト、無常という事』小林秀雄
『作家の顔』小林秀雄
『考えるヒント』小林秀雄
『本居宣長』小林秀雄
『心の国語 高校編』渡辺郁夫
『小林秀雄』江藤淳
『新・考えるヒント』池田晶子

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◇座談会

ウルトラリンパ受講者座談会    2月10日静岡 新富士駅喫茶店にて

「人間と人間の付き合いの中で人が治ってゆく」

※去る2月9、10日、静岡にてウルトラリンパ講座の卒業回がありました。菊地氏の指導のもと、4人のメンバーが実際にお客様を施術しました。その後、9ヶ月に亘ってこの講座を受講したメンバーで感想を話し合いましたのでご紹介します。

◎座談会参加者
・那=那智タケシ(無我研発起人)
・高=高橋ヒロヤス(無我研執筆者・弁護士)
・り=りんりん(広島在住)
・加=加藤女史(神奈川在住)

●他力本願では習得できない技術

 那 昨年の五月から、みなさんにウルトラリンパ講座に参加していただいたんですが、どうですか? 月に一回の講座で飛ぶ時もあったんで、習得するのが難しいところもあったと思うんですが。
 り こういうのってすぐに結果が出ないと思うんです。私はたまたま菊地さんのリンパがすごい効いたと思うんです。私は効きすぎたところがあったと思います。普通は後で効果が実感できると思うんです。やったからすぐどうというのはすごく難しいこと。本人の感じ方、生かし方もあるし。他力本願で、誰かに私の病気を治して欲しいという人は鼻から無理だと思いました。
 那 人間関係の作り方とか、患者さんと施術する側の関係というのが、こんなに自由でいいんだ、というのが驚きでしたね。自由でなおかつ、これだけ自信あるという態度を取っていいんだ、というのがね、勉強になりましたね。ああいう人から技術だけじゃなくて、人付き合いを学ぶと良いかもしれませんね。
 一番は、菊地様さまにならないのが良かったと思う。確かにすごい人だけれど、依存してはいけないから。今回のメンバーは依存体質ではなかったから良かったと思う。菊地さんも表に出たがる人じゃないから、変な団体と違うような自由な感じで良かったんじゃいかなと。
 加 一緒にお酒を飲んで話して、楽しいおじさんという感じがあって。
 那 普通のおじさんじゃないけれど(笑)
 加 普通じゃないけど、普通に接してくれた感じがあって、すごく楽しかったです。月一回のこの機会を楽しみにしていたので、ありがとうございました。
 高 ここでひと区切りはついたんですけど、これからまた新たな動きがあるのかもしれないなと思います。一旦、終わりは終わりなんだけれども、ここで学んだことをこれから自分なりに生かしていければと。身近な人を治すのもいいし、お客さんを取ってやれるくらいまでいく人が出てくれてもうれしい。結局、自分の努力。職人技的なところがあるので、やっていく中で自分で磨いていくしかない。ただ教わって、知識入れてそれで上手くいくかというとそういうものじゃないから。本当はカリキュラムとか作ってちゃんとやればいいのかもしれないけれど、そういうものではない気もする。
 必ずしもリンパということだけじゃなくて、菊地さんの企画に参加したり、そういう下地を一年かけて作った気がします。
 那 自分で思っているよりも、人生の幅というか、生きる幅が拡がっていると思うんです。治せる治せないではなく、自信になっている。選択肢が増えているというか。豊かにしているという感じがします。

●人間と人間の付き合いの中で人が治ってゆく

 加 那智さん、長生きする気がしてきたって言ってましたよね。
 那 人の路線を変える力があると思うんですね、ああいう人との出会いとか。だから、他人に良い影響を与えることができる人間になっていければと思いますね。単に病気治しとかそういうことだけでもない気がします。
 り 私は菊地さんにリンパをやってもらうだけだったら、自分の体のこととか、集まった一人ひとりのこととかは、わからずに終わっていたと思うんです。やってもらって、楽になったで終わりで、時間が経ったらまたしんどくなったで終わりだったと思うんだけど、人にやったり、人がやっているのを見ることで、より体に興味を持ったし、人にも触りたくなりました。一人ひとりこの人はこんなに優れているところがあるんだ、とか。リンパ以外にも様々な人との出会いとか、リンパだけではないな、と思います。
 高 単に施術してもらうだけ、那智さんがそれを人に紹介するだけだったら全然違っていたと思う。
 り 実際にやることで、人の体ってこんなに違うんだなってわかるし、触ることの自覚とかも違ってくる。
 那 触るってさ、コミュニケーションじゃないですか。それは単に手先の器用さだけではなくて、相手がどう感じているのかとか、気づいていなくちゃいけないじゃないですか。こっちもナイーブに気づいていなくてはならない。菊地さんと話したときに、見た目や雰囲気と違って、良い意味ですごいナイーブな人だなと思った。すごいナイーブで話しやすいし、気遣いがある。最初に一対一で七時間くらい話した。でも、すごい話しやすかった。
 り すごい細かいところや全体を見ていますよね。
 那 施術する際にも、相手の顔とかをよく見てますね。だから職人技と言えば職人技なんだけど、人間性が問われてくる。菊地さんが金を積まれても嫌なやつはやらないというのは、気遣いに答えてくれなかったり、レスポンスをしてこない相手にはやっても無駄だと思っているからでしょ。単にお金もらって、技術を提供するじゃなくて、人間と人間の付き合いの中で、人が治っていく。そういうサイクルを大事にしている人だと思いますね。
 職業、年齢かかわらず、人を見て判断してくれる。経験に差はあっても、同じ土俵で話してくれるし、そういうのって技術以上に大事なことかなと思いますね。
 加 昨日もお客さんを施術の最中、熱心のあまりやっていたら「呼吸させてあげて」って(笑)
 那 つい手先ばかりに夢中になってしまうからね。

●本物は、現実生活で力がある

 り まさか技術を覚えるところまで来るとは私は思っていなかったです。
 那 最初?
 り 会ってみようかな、というくらいだった。
 加 私も。
 高 最初、那智さんが書いた記事を読んで知ったわけでしょ? 
 り はい。
 高 あれで伝わるものがあったということですよね?
 り そうです。
 高 インタビューですよね。
 り そうです。ただ治すだけじゃないんだなって。
 高 加藤さんもそうですよね。
 加 そうです。
 高 具体的にどこが会ってみたいというポイントでした? 
 り どこだろう?
 高 全体的な印象?
 那 うさんくさく見えなかったってことでしょ? 地に足がついたところがあった。
 り そう、厳しさがあった。生ぬるいことや都合の良いことを言っていないところにひかれたからだと思います。
 那 現実生活で力があるかどうかということですよね。菊地さんをはじめて見た時に、自分が正しいと思ったところで引いていなかった。よっぽど自信がないと言えないことを堂々と言っていた。愛だ平和だと口先だけで言うのとは違う。リスクを背負っている。本物なんですね。現実生活で力がある。人間関係の中で自分の存在感を見せられるというのは本物なんです。どんな理屈よりもエネルギーで勝っているから。今どきのスピリチュアルなんたらというのは、そういうところで通用しない人が、閉鎖的な世界で自己実現を図っている。違うでしょ? その独自な原理やパワーで社会でも勝てる人じゃないと嘘だと思う。
 り そういう人を見たことがなかったんです。
 加 私もです。
 り あそこまで身ひとつで前に出てこれる人に初めて会いました。みんなやっぱり守るものを背負って縮こまっている。それが普通なんだろうけど、でも、やっぱり違うよね、と思いながらも、世の中を上手く渡るためにみんな縮こまってしまう。でも、それを跳ね除けてしまう人をはじめて見た。すごいな、と。何があそこまでさせるんだろう?って。
 那 キャラクターもあるからね。人が嫌がることをコツコツ、誰に評価されなくとも地味にやっている人の中にも真に強い人もいるし。菊地さんタイプもいる。加藤さんが、他人に力でねじ伏せて勝つというのも違う気がする(笑)
 加 (笑)
 り 菊地さんはまっすぐなキャラクターですよね。
 那 生活の中で、自分が身につけたものを自分らしく表現できるというのが大事ですよね。こういう理論、こういう世界観を学んだから世界はこうなんだっていう人はいくらでもいるけど、それできてるの?って思う時がある。身振り、笑い方、話し方、人間関係の作り方。自分も含めてですけど、それができているかどうかですよね。おれ、こういう人間だけど何か文句ある?という風に、さらけ出して表現するのが大事かなと、菊地さんを見ていると思いますよね。それ以上でも以下でもないということ。そこではじめて他者とつながる可能性がある。
 例えば、ぼくと菊地さんは全然違うタイプの人間だけれど、ここは通じる、共感できるというところがあるから付き合ってもらっている。向こうだって見ているわけです。これくらいですよ、何か?という等身大で、そこから通じていければいい。自分なりにできることをしていけばいいんじゃないですか。いきなりスーパーマンになれるわけじゃない。
 加 りんりんさんが、社会福祉とウルトラリンパや有機農業の内城菌を結びつけた企画を考えているというのに感化されて、私も何か自分なりの表現で何かできないかな、と考えるようになりました。
 那 本当になんだって良いと思いますよ。自信になった、ぐらいでもね。基本的な技術は教わった。課題はこれからどうするか、ですよね。技術を磨くのはもちろん、それぞれがどうするか、ですね。菊地さんもそれを期待していると思います。

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無我表現研究会第1回オフ会・座談会その2    12月15日都内某事務所にて

「体験の説明を他人に求めない」

※去る12月15日、都内某事務所にて無我表現研究会の第一回オフ&座談会が開かれました。今回は、二次会でのより過激なトークをご紹介します。

◎座談会参加者
・那=那智タケシ(無我研発起人)
・高=高橋ヒロヤス(無我研執筆者・弁護士)
・た=たまちゃん(たまちゃんSOUZOU学科主催)
・ハ=ハニー(会社員・スピリチュアルな世界を遍歴)
・M=M女史(会社員・スピリチュアルな世界を遍歴)

●本物とイミテーションを見分ける方法

 ハ 会社でのストレスや震災のショックでパニック障害みたいになってしまった時に、真剣に自分ってなんなんだろう? とか人の死ってなんなんだろう?って考えざるを得ない状況になってしまったんです。その時にスピリチュアルな世界に救いを求めて、とある人気セミナーに行ったんですが、これは違うと本能的に感じて、じゃあ、真実ってどこにあるんだっていろいろ探していたんです。
 那 それは苦しみというか、絶望の強度なんです。絶望が深いとそういうところでは癒されない。
 ハ そうなんです。癒されない。
那 文化センターに娯楽で行くというノリならあれでいいと思う。でも、あれでは救われない人もいる。
 ハ 絶対に救われないですよ。逆に、この人たちは何を言っているのだろうと不安に思えてきて。
那 最初はいい。甘口だから心地良いし、だから人気もある。まがいものでも、入り口になったりはするから一概に何とも言えない。
ハ 私もそういうところが入り口になって、ここに来たんです。ただ、やっぱり間違っているものは間違っていると思う。あれを肯定してはだめなんじゃないかな、と。ああいうのが人気になって、売れているというのが怖いというのがあります。
 那 今の日本人の感覚、感受性はすべて落ちているということだと思います。
 高 おかしいと思う感性は大事ですね。
 ハ 逆に、ああいう所の信者というのは相当やばいところまでいっちゃっているのかな、と思いますね。早く目を覚まして欲しいけど。
 たまちゃんに聞きたかったんですけど、自分が超孤独だったというのがブログに書いてあって、そこに那智さんの小説の芹姫さんの孤独というものと共通するものを私は感じたんですが。そういう感覚ってスピ系の「大丈夫ですよ」という感覚と真逆な気がしたんですけど。
 た 心理的な議論とかではなく、自分の瞑想の実体感として、自分が情報の媒体である、というのと、一番細分化された何か、それは情報の断片だったり、意識であり、それをまた砕いた最小の粒というのを認識すると、それは超孤独なんです。そこまでいくまでに、かなり突破しなくちゃいけないところがあって、それと全体は一緒だから、全体を認識することもできるが、イコールその中の一粒である超孤独というものも認識しないと、全体がわからない。
 ハ 科学みたいな話ですね。分子からすべてができているというか。
 那 高岡英夫の身体意識の話にも似ていますね。 
 ハ ゆる体操。あれ、いいですよね。
 那 身体意識には人によって個性がある。たまちゃんの身体感覚とぼくの身体感覚は違う。ぼくは上から下に流れている。たまちゃんはまた別のものがある。でも、共通点があるから話せる。重要なのは、身体感覚でわかっているかということ。身体でわかっている人の表現というのはすぐにわかるんです。スピ系のセミナーをやっている人たちのほとんどは、観念のつぎはぎなんです。最初に何かあっても、観念として硬化してしまう。だからみんなひとつのことしかいえないし、金太郎飴のように同じことを言う。真実は一つだから同じことを言っていて当たり前ということになる。それは大きな間違いなんです。表現と言うのは、地上世界では無限の個性的なバリエーションとなる。それがイミテーションと本物を見分ける一番わかりやすい方法です。
 ハ なるほど。
 那 例えばたまちゃんならパウダーとか、ぼくなら心身脱落だとか、滑落だとか。それは身体感覚からきたものだから、嘘がない。本当は言いづらくて、言葉にしづらいこと。それをなんとか言葉にしようとしている。四苦八苦しているの。だからそういう人の表現というのはオリジナリティが絶対出てくるわけ。たまちゃんのブログなんか見ていると、ああ身体でわかっている人だとわかる。だからこうしてつきあえるけど、ああいう業界で身体でわかっている人はまずいない。何かの情報が入っているんです。絶対に。「ワクワク」だとか、「いまここ」とか、一見、正しいように見えて全部観念のつぎはぎ。
 た あと、「あるがまま」。
 那 ああ、あるがままね。クリシュナムルティもあるがままって言ってるけど?
 た それは全然違う。
 那 そういう身体感覚で言っている人は、レベルとかじゃないんですよね。そこだけは信用できるというのがある。そういう人は、現実世界の流れを変えることができる。現実にリンクして。
 ハ リンパの菊地さんともお会いしたんですけど、全然違いますよね。スピ系セミナーの人たちと。言葉や理屈だけの人じゃない。
 那 顔だけ見ればわかりますよ。
 ハ 顔だけでわかるってすごいですよね。
 た わかるよ。文章でもわかる。いろんな有名な人がいるけど、きもい。
 ハ 悟りのことが書いてある世界的に有名なスピ系の有名人の本を読んでも、響かないんです。村上龍とか、小説を読んだ方が響く。
 た 妄想なんだよ。リアルじゃない。
 ハ みんな同じことを言っている。
 た スピ系でみんな同じものにひかれるのはね、何かその中に自分を満たす何かがある。
 那 例えばぼくとたまちゃんは違うことも言っているでしょ。でも、それは勝負にもなる。面白いじゃないですか? 
 た スピ系の人と指相撲で勝負したいですよ。
 那 いわば新手の新興宗教だからね。ネットが介在した。これは我々が思っているより大きな問題になるかもしれないですね。

●体験の説明を他人に求めない

 M カルキについても突っ込んでみてくださいよ。
 那 ぼくはよく知らない。
 た お金払って悟れますとかね、悟りは与えられるものだとかね。ぼろくそに書けますよ。 
 M 危ういのか、それとも中には良いところに行った人もいるのか。
 た もしそこで最高に良い状態になった人がいて、もしその人がその団体に属しているならアウト。そこを攻撃するなら、まぁ、抜け出たという感じ。団体にいるのなら何もわかっていない人。悟りとか真理とかそんな団体の中ではありえない。
 M たまたま団体にいるけど、すばらしい感覚にいる人もいるかもしれないでしょ?
 た それは酔っ払って、いい気分と同じ。
 那 それは、ディクシャとか、悟りとかいう言葉を使っている時点で、与えられたもの。宗教的言語というのは与えられたもの。本当にそれが抜けて、何もなかったら、俗な言葉で語るはずですよ。
 た うん。
 那 匂いも出さない。そっち系のワンネスとかね、絶対使わない。ぼくは口が裂けてもワンネスとは言わない。自分の中が空洞で、別のものがきたら、それは自分の言葉で表現する。フィルターがかかっている言葉というのはわかるんです。どんなに上手いこと言っていても、わかる。宗教的言語の限界。だから宗教の時代は終わりですよ。もう全部終わらせましょう。
 M 私の友達はディクシャとかにふかーく入っている。瞑想とかにふかーく入っている。
 那 ぼくのところにもその系統の人がきましたよ。でも目がいっちゃってる。顔がおかしいんです。言っていることも、光の柱がどうとかね。UFOが放射能をどうとか、病気なの。言ってることもやっていることも、病気。
 た どういう顔になっているの?
 那 何ともいえない。幸せそうに微笑んでいるんだけど。独特な顔をしている。
 高 洗脳されている顔でしょ?
 M ある団体でトラブルがあった時に、今まで見たことのない顔を見たんです。心ここにあらずという感じ?言葉ではいいこというけど、誰かから言わされている。そんな感じ?
 那 もったいないと思うんですよ。いろいろな天分や資質がある人もいるのに、そういうところで自分を条件付けてしまうのはもったいない。良い資質をもっているな、という人もいる。でも、そういう人をある枠の中で生きるように洗脳する。罪だな、と思うんですよ。
 た 罪ですよ。
 那 それをきっかけに、真実の入り口になるというのはやっぱりおかしい。なんでもいいんだから、犯罪でも何でも、真実の入り口になる。
 た そうだよ。
 那 だから擁護する必要はない。
 た だめなものはだめ。
 ハ 至福体験をしたことがあるんです。人にはあまり言っていないんですが、ものすごい追い詰められて円形脱毛症になってしまった時に、もう私はこの世界では一秒も生きていけないなと思った時があって、その瞬間に、世界が逆転して、自分の価値観がすべて思い込まされていたものなんだ、と。すべての情報が落ちたことがあって、未来も過去も関係ないんだ、今なんだと思えた時に、腹の底から至福感があったんですね。それも精神世界に入るきっかけだったんです。思い込まされていたんだ、全部、と。あの体験はなんだったんだろうって思ったのも精神世界に入るきっかけで。一瞬で過ぎちゃったんですよ。
 た あのね、あの体験は何だったんだろう? というのを人に求めない。絶対に。それは何度でもできることもできるし、一切の矛盾のないところまで自分で解き明かすこともできる。必ず自分ひとりでやるもの。
 ハ 確かに、スピ系のセミナーの人も同じようなことを言っているし、同じような体験だったのかもしれないけど、何か違うというのがあって。あの人たちは一瞬の体験を定義づけちゃっているというか。
 た それは何だって言わないで、まだ先がある。その探求には。
 ハ いろいろ学んだ結果、それは人から得るものではないというところまでは来て、自分でやっていくしかない。同じような体験をした人もネットのコメント欄にはたくさんいる。彼らはあの至福体験は何だったんですか?って聞いている。
 た あれは何だったんですか?って聞く人は、逆にまだ至っていないこと。その状態ではない。
 ハ 状態ではない?
 た 全然違うもの。全然違うものです。
 ハ 聞いたってわかるわけないんですよね。
 那 あのね、極論するとその体験もいらない。全部落とさなくちゃだめ。
 ハ 私もそう思います。
 那 良いことも悪いことも落とさなくちゃだめ。ぼくは「空」が最強って言っているんだけど、麻雀打っていてもね、自分がこんなすごいとかね、こんな体験したとか思っていたら、勝てない。今、この瞬間に気づけない。体験にこだわっちゃったら。リアルはビビッドに動いている。すごい繊細なもので、流れがあって。それを感じるためには、ここが空じゃなくちゃだめ。いったん満たされてもいいよ。でも、それは抜かなくちゃだめ。いいも悪いも。
 例えばネットでね、仏教談義しているわけですよ。この理論が正しい、この瞑想の仕方が正しい、上座部だ、大乗だ、禅だと。でも、それってここ(胸)にあるわけでしょ?守るべきものが。だから攻撃されたから、必死に攻撃し返す。ああいう人たちは生きるか死ぬかになってしまう。ここ(胸)が自分の真実だから。でも、本当の仏教は、ここ(胸)にあるものがないことだから。守るべきものがない。でも、みんな守るべきものがあると思っているから必死になる。ここ(胸)にあるのが真実だと思っているから。体験でも何でも。ないのよ。それがわかると、そのやり取りがばからしく見えてくる。
 体験というのは自我を壊すとかね、あってもいい。オウムでもなんでも、みんな体験してるんだから。でも、あの人たちは体験にこだわってしまっているわけでしょ? それが悟りの境地だと。違うよね。INGで、空にして、その空の状態で、何ができるかっていうことが、ぼくらが言っていること。その先の先なんです。つまり、この皿をどう持ち上げるかということ。
 ディクシャがどうとか、伝授がどうとか、前時代的な話で、今、この放射能が満ちた時代に何をすべきか、と。今まで自己中心的な発想で原発作ったり、核作ったり、人類ぎりぎりでしょ。飢餓の問題も終わっていない。もし全体感があるなら、そこに危機感がある。安らいでいる場合じゃない。安らぎを求めるまではいい。でも、安らいでばかりいる人がいて、人生に成功したとか言って、満足していたら、それはエゴなんです。

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◇エッセイ

スピリチュアルエッセイ ぐるごっこ

高橋ヒロヤス

第3回  グルジェフとかダンテス・ダイジとか

ある時期、精神世界に関する本を読み漁る中で、グルジェフの著作が特に興味深かった。一見すると、いかさま師かペテン師のようにも見えるような言動をした人だが、彼の存在と教えの中には深い真実が含まれている気がした。

グルジェフの一番著名な弟子にウスペンスキーという人がいる。グルジェフとの出会いを書いた『奇蹟を求めて』という本は、この分野における20世紀最大の古典のひとつである。僕は超越的な世界に対するウスペンスキーの知的なアプローチにひどく共感した。

その勢いで、特に発表する予定もないまま、彼の主著のうちまだ邦訳されていなかった『Tertium Organum』という本を翻訳した。ミステリー作家のKさんのHP内の掲示板への書き込みが縁になり、Kさんに色々とアドバイスをもらって、最終的に、クリシュナムルティの紹介をライフワークとしているO氏の経営する会社から出版してもらうことに決まった。

一度都内にあるO氏の事務所(会社)を訪ねたことがある。とても気さくな方で、出版社経営の苦労話などを聞かせてもらったような気がするが話の中身はよく覚えていない。スピリチュアルがブームになってもクリシュナムルティのような真面目なものはなかなか売れず、もう少し甘口の物語小説の売上などでなんとか出版事業を回しているとのことだった。そのときO氏に他の本の翻訳を勧められたが、本当に気が向いたものしかやる気になれずお断りした。

グルジェフやウスペンスキーの体系を知っていく中で、どうしても避けては通れないのが「ワーク」と呼ばれる実践活動である。グルジェフは、彼自身の弟子たちのグループを組織し、そこで各種の修行法や舞踏(ムーブメンツ)などを指導した。このやり方は、その後さまざまな「グル」に引き継がれたが、最大の物の一つが20世紀後半のラジニーシのアシュラムだろう。

僕がグルジェフを好きなのは、こうした組織を決して固定化させず、ある時期が来ると必ず壊してしまうというやり方を取ったことだ。ウスペンスキーを含む彼の主要な弟子たちは、ある時期になると必ず「追放」された。これは、「師―弟子」という関係を固定化せず、グルへの依存を認めないグルジェフ一流のやり方だったと思う。ラジニーシは、アシュラムを組織化し常設化してしまったが、これはうまくいかなかったのだと思う。出家主義によるアシュラム組織化の最悪の実例がオウム真理教だろう。

真実の教えというようなものがあるとすれば、それは我々が置かれている今の生活状況の中で実践されなければならない。アシュラムや出家主義は現代においては正しい道ではなく、在家修行こそが現代の霊性の道だ。特定の人格を持つグルに帰依するのではなく、日常生活の中で出くわすあらゆる物事を修行の機会として利用すること。それをグルジェフは「第四の道」と呼んだ。

グルジェフの死後、さまざまなグループが「グルジェフ・ワーク」を組織的に実践しようとしている。そのどれもがグルジェフの弟子(あるいは傍系の弟子)によって運営され、その「正統性」を競っているように見える。僕自身、そのような「ワーク」を行っているいくつかのグループの人と会ったことがあるが、特定のグループに所属する気にはなれなかった。

日本で結果的に最もグルジェフ的だったのは、グルジェフとは直接の縁のない人物だが、ダンテス・ダイジではないかと思っている。他の人は皆、いいものを持っていても、新興宗教をつくって教祖になってしまった。組織が二代目に率いられるようになると、もはや当初の生命を失い、そこから新しいものは出てこない。ダンテス・ダイジは組織をつくる前に亡くなった(自殺であるという説もある)。彼のまいた種は、数十年後に新鮮な芽を出しつつある。

ちなみに、ダイジはクリシュナムルティやラジニーシの本を推薦図書に挙げているが、グルジェフについての言及はない。これは当時グルジェフが日本でほとんど知られていなかったためと思われるが、もし彼がグルジェフを知っていたらどう評価したかは非常に興味深い。

2000年代に入って、ダンテス・ダイジの講話録を編纂し出版している、渡辺郁夫という人がいる。この人は東京で早稲田大学にいた頃にダイジに巡り会い、大学を卒業後は広島の名門私立校の国語の先生になった。彼が中学校1年生から高校3年生の教え子たちに向けて毎週配布したエッセイをまとめた本(『心の国語』中学編、高校編)を大変面白く読んだ。

古今東西の文学者や芸術家、中でも近代日本文学に関する渡辺氏の解説に触れて、改めてそうした世界への目が開かれたように思う。ダンテス・ダイジの教えは、60~70年代ヒッピー・ムーブメントの香りを残していて、かなりぶっとんだ内容も含まれている。ダイジの本を「オウム真理教のタネ本」と言った人もいるようだが、確かにそう受取られても仕方のない部分もあるような気がする。しかし、最も身近にダイジの教えに触れてそのエッセンスを受け継いだ渡辺氏のような人が、このような形で次世代の若い人々に宗教的な心のありようを伝えている様子はとても感慨深い。


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★編集後記
今回は、二つの座談会を収録させていただきました。地味にやっている活動ですが、あらためて様々な方々と関わらせていただいているなと思う今日この頃です。今年はいろいろと考えていることもありますが、自分の作品も一本、筋が通ったものを作っていければと思います。(那智)

今回のメルマガで話題になっている「自己愛スピリチュアル」の話でいえば、あの手のブログの「コメント欄の気持ち悪さ」にすべてが集約されているような気がする。あの連中の地に足がついていない感じ。仲間内で慣れ合って内部でしか通用しない言葉で愛撫しあっている雰囲気。一昔前の「バ○○ール」などと通じるものがある。
ネタ元は、エックハルト・トール、ガンガジなどの「アドワイタ系」や禅仏教ということになるのだろう。そういう教えの口当たりのいい部分だけをすくい取って切り貼りしているということだろう。そもそもネタ元のトール自身が口当たりのいいことしか言っていない。トールの本が世界的に売れるような動きには肯定的な面もあると思うが、最近は否定的な面が目につく。なんだか「悟り系」というのも勘違いされそうで危なくなってきた。
                                     (高橋)


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創刊日:2011-08-08  
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  • リタ2013/03/03

    混沌としてゆく状況に、灰色がとっても象徴的で美しい感じがしました。

    小林秀雄さんに興味を持ちました。死によって完成される人間の一生って、なんと恍惚とした思想なのかな、目から鱗でした。ままならぬ日常が愛すべき時間となった気分です。

    ウルトラリンパ講座お疲れ様でした。積極的に人生を豊かにしていく気持ちを持つということを、毎回拝読して自分の学んだところであります。ありがとうございました。

    スピリチュアルの世界に関しての知識や情報が豊富で、新しい認識ばかりです。驚いてます。

    思想や宗教を追求することは心にとって前向きであると思うのだけど危険であったりもするのでしょうか。幸福とはなんだろうなあと考えさせられました。

    どれも興味深い内容でした。おもしろかったです。

  • 名無しさん2013/02/15

    読みごたえたっぷりでした!