芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第18号

2013/01/15

MUGA 第18号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇アート

・詩

『季節の詩』     rita


◇評論

・無我的観照第5回 「秋のソナタ」 イングマール・ベルイマン(1978年)
身をひしぐような虚空への饒舌  那智タケシ

・前田敦子はキリストを超えた? ――吉本隆明「関係の絶対性」について
高橋ヒロヤス

◇座談会
 無我表現研究会第一回オフ&座談会 その1

◇エッセイ

・スピリチュアルエッセイ ぐるごっこ
第2回  アトランティスの巫女
高橋ヒロヤス

                                      
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◇アート

★詩

季節の詩     rita 


  【・迎春・】 
 
天空では迎春のご挨拶
わが身がこの世にあるうちと 
白い雲たちは大忙し

白群よりふいに 
光の弓矢で胸を射抜かれた 
明るい景色が開かれる

上空をかすめる飛行機は銀色の吹き矢
跳ね上がった妄想を打ち抜いて
まっさらな感情へ消していった

中空に影があるなら烏
なんて漆黒の矢羽根
この眼に的中させるくらい鮮烈なの

風の矢じりが降りかかる
無数の切り傷が時おり
顔につくられて

新しい傷は清々しい
今日の痛みを感動を 
今年一年忘れないようにしようと思うよ 
  
  
  【・冬の地面・】 

幾らかの色を添えていた 
小菊の姿も見えなくなり

日差しがささやくようにここに憩うだけ

よろよろとじゃれ合う枯れ草を
ちょっかい出すように雀がつつく 
  
地面は寂しがりやなんだよ
誰かいないとしょんぼりしちゃう

さて、巡り来る季節を信じて
木々は各々の剣を突き立てていた

地面は柔らかいんだよ
半身浴してるみたいに心地良いんだ

それから、霜柱はこの世の小さなうねりが
小さな歯をむき出して威嚇してるみたい

地面はやさしいんだよ
どんな望みも受け入れてくれる 
  
そんな地面にぼくは立っているよ 
寒空の端で心をぬくめるために 
  
  
  【・大根・】 
  
お風呂に入って
ほよよんとしてるわたしは
お鍋の中で
グツグツしてる大根みたい

あぶくのように湯気をまとい
身も心もだんだんと
透き通っていくよ 

柔らかくておいしくなれるかな 
  
今日のヒリヒリやゴリゴリや 
ヌルヌルが抜けていくの
心臓からリンリンって音が出ちゃう 
  
赤ん坊のように丸くなって 
水草のように漂って 
まろやかなお湯を体に感じたら 
  
素直でやさしくなれるかな 

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◇評論

無我的観照第5回

身をひしぐような虚空への饒舌  那智タケシ

「秋のソナタ」 イングマール・ベルイマン(1978年)

 大晦日、久々に劇場で映画を観賞した。渋谷のユーロスペースで午後3時から上映されていたベルイマンの「秋のソナタ」。元々このスウェーデンの巨匠のファンだったが、未見だったこともあり、楽しみにしていた。

 映画が始まって驚いた。絶望と虚無と沈黙の巨匠であるベルイマンの映画にふさわしくない華やかな大女優イングリット・バーグマンが、画面いっぱいのどアップで世俗的などうでもよいことをしゃべりまくるのだ。芸術家としては自分を律することのできるピアニストでありながら、人間的には自己中心的で、家族を省みなかった母親という役どころ。幼少の頃から愛の不在に苦しみ、母親を憎みながら求め続ける娘との対立が延々と続くのだが、とにかく対話が安っぽいホームドラマのように世俗的なのだ。「第七の封印」の神秘的な沈黙や、文字通り愛なき沈黙を描いた「沈黙」のような映画を期待していた私には戸惑う始まりであった。しかし、ほどなくこのからくりは解けていく。彼女たちは、虚無に耐えられないがゆえに無意味なことをしゃべりまくっているのではないか。そこで、少しほっとしてベイルマンらしさを楽しもうとすると、もう一つの罠が待っていた。

 娘役のリヴ・ウルマンはベルイマンの子飼いの女優の一人であり、カメラのスヴェン・ニイクヴィストの静謐で奥行きのある空間に自然にフィットしたその佇まいは、その台詞とは裏腹に、相変わらず素晴らしいものだった。彼女は上っ面な母親との会話を破壊して、自分がいかに傷ついてきたが、どれだけ母親を愛し、求め、それが得られぬため憎んできたかを鬼気迫る演技で追求する。相手の醜く偽善に満ちた自我を容赦なく、徹底的に暴き出し、これでもかこれでもかといたぶる様は、必死に自己弁護を図り続けた狡猾なバーグマンが「助けて」と叫び、「その憎しみに耐えられない」と震撼するほどである。観客も、母娘の愛憎劇に魅了され、ここまであからさまにエゴを追求する娘の心の闇に恐怖と何らかの共感を覚えるに違いない。しかし、傷つけられた娘と、狼狽する母親というありがちな親子トラウマの構図もまた、この映画の主題ではないことが明らかになってくる。ベルイマンは、それほど浅薄ではない。

 バーグマン演ずる母親には、二人の娘がいる。次女のヘレーナは全身麻痺のような難病を患い(この病気も精神的な理由によるものだと暗示されている)、施設に引き取られていたが(母親が放り込んだ)、結婚した長女が母親に内緒で家に引き取っている。休暇に母親を招いた長女は、恨みを込めて、次女と母親を対面させる。母は「最悪」な状況に逃げ出したくなるが、対面すると次女の顔を両手で包み、作り笑いを浮かべ、時計を上げる。次女は母親に対してゆがんだ顔で必死に微笑み、愛を求めて何か叫ぶが、母にとっては奇怪な雑音でしかない。そして、長女にやり込められ、新しく生き直すことを誓いながらも、帰りの電車ではこの次女に対して「死ねばいいのに」とつぶやく。そう、彼女は何も変わっていなかったのだ、何も。親子の間には、どれだけの言葉が重ねられようと、どれだけの涙と祈りと、憎しみが交差しようと、感傷的なやり取りがなされようと、本質的な意味においては一切の意志の疎通はおろか、感情の接触も存在しなかったのである。ここにベルイマンの恐ろしさがあり、表現の真実があるのである。

「芸術家は、自分が何を表現するのかを明晰に知っていなければならない」とタルコフスキーは言った。自分が何を表現しようとするのか明晰に理解することなしに、抽象的で美しいものを撮ろうとすると、そこで芸術は終わりなのだ、と。

 ベルイマンは、自分が何を表現するか、明晰に知っている稀有なる映画監督の一人であった。曖昧なものは何一つなかった。すべては、たった一つのことを目指していた。彼が表現したのは愛の不在の空間であり、神の沈黙であった。何一つ救いのない空間であった。「処女の泉」しかり、「沈黙」しかり。しかし、その沈黙は、この映画では饒舌によって置き換えられている。神への祈りは母への愛の希求に、絶望は恨みに置き換えられている。しかし、愛を求め、得られなかったものの憎悪の叫びと祈りもまた、目の前の虚空を埋めようとせんがための、痙攣的発作にすぎないのである。彼女たちの身をひしぐような饒舌もまた、虚空の中に吸い取られ、霧散して消えてしまうのであった。

 ベルイマンの映画に救いはないように見える。しかし、この完璧なまでの愛なき空間は、むしろ透明で不純物なき実験空間のように思えてはこないだろうか。そう、彼にとっては、愛のない世界を透徹したまなざしで見つめ、あるがままに描き出すことそれ自体が愛であった。なぜなら、人間の暗闇と虚無性、貧弱さをこれ以上ないくらい赤裸々に描きだすことで、私たちは、その背後に隠れているはずの偉大なものを予見するからである。

 我々は、今やご都合主義の大調和や、お涙ちょうだいの愛の物語など求めていない。なぜなら、それは端的に言って、真実ではないからだ。愛の理想は、安易に実現してしまえばユートピアになり、偽りの安逸になり、宗教的妄想にまで堕しかねない。真実は、愛の不在を認識した者にだけ訪れる。否定の認識を通してのみ、肯定的なものが現れ出る可能性が待っている。その認識の厳しさが、私たちを真に感動させ、浄化させ、新たなものが宿るべきスペースをこの世界に誕生させるのだ。ベルイマンは我々にこの仮借なき真実を認識させることで、映画館を一歩出たその瞬間から、新たな生を歩ませんとしているように感じるのである。

 なお、同郷のベルイマン映画に客人的な形で招かれ、監督と激論を交わしてこの作品に挑んだ(主人公が自己中心的すぎるということだった)イングリット・バーグマンは、作品の出来にも自分の演技にも満足し、「これを最後の映画にしたい」と宣言し、引退する。撮影中から癌を患っていたという彼女は、それから四年後に他界。この作品が最後にして最高の遺作になった。

※「秋のソナタ」はユーロスペースで1月18日まで上映予定です。
 


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・評論

前田敦子はキリストを超えた? ――吉本隆明「関係の絶対性」について

高橋ヒロヤス

2012年12月に、ちくま新書から『前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48』(濱野智史著)という本が出版された。

タイトルがあまりに衝撃的だったので、発売前から一部で話題になった。発売後は思ったほどの反響はないようだ。これがキリストではなくムハンマド(モハメット)ならえらいことになっただろう。

こういう「炎上商法」に乗せられるのは本意ではないのだが、AKB48や前田敦子については以前に書いたこともあり、好奇心に逆らえず読んでみた。

内容自体は、どうということはない。前半部は、AKBにハマったヲタが自分の学問的知識を並べてそれらしいことを述べているにすぎない。後半部は、次期センター候補と目されている島崎遥香(ぱるる)への想いをひたすら綴っているだけの、ファン以外には全く伝わらないイタい文章だ。

しかし、内容とはまったく無関係に、一つひっかかる点があった。
それは、著者が「AKBの宗教性」を論じる際にキーワードとして用いている「関係の絶対性」というフレーズである。このフレーズは、元々はあの戦後思想界の大御所、吉本隆明の『マチウ書試論』で使われていたものだ。

著者がこの「関係の絶対性」という概念を使ってAKB48の宗教性を導くロジックは私には理解できなかったが、「関係の絶対性」という概念自体にはインパクトを受けた。

この「関係の絶対性」という言葉を巡っては、何十年も前から難しい議論が交わされているようだが、僕の単純な頭による理解では、結局のところ、

「人は、どんなに美しい理想を抱いていても、現実生活の中では、その置かれた立場に応じた行動しか取ることができない」

という意味で大体よいのではないかと思っている。キーワードは、「現実」と「立場」だ。

たとえば、現代キリスト教がどんなに弱者救済を説いていても、現実として、強者の味方として弱者を迫害に加担せざるを得ない立場に立たされている。つまり、

「人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。」
(吉本隆明『マチウ書試論』より)

もっと卑近な例を挙げれば、どんなに高尚な哲学や信条の持ち主であっても、会社に行けばサラリーマンとして上司の命令に従わないといけないし、学校に行けば先生(あるいは生徒)として叱ったり叱られたりしなければならないし、顧客のクレームには会社のマニュアルに従って対応しなければいけない。家庭では親は親として、子は子として、舅は舅として振る舞わなければならない。人はその社会的立場(関係の絶対性)から完全に自由に振舞うことはできない。それをやれば、規律違反あるいは違法な行為として処罰を受け、その立場自体を失うことになる。

吉本は、「関係の絶対性」はあらゆる思想にとっての課題であるが、これを解決できた思想は(原始キリスト教も含めて)存在しなかったと述べている。

しかし、21世紀に、これを解決した人物が現れた。

(以下引用はじめ)

私がおそらく「悟り」といわれるものの認識を得たのは、こともあろうに、仕事でミスをして、上司から説教を受けている時でした。

その日(2008年7月上旬)、私は自分が働いていた会社の上司に呼び出され、何か説教を受けていたように思います。何で説教されたかは覚えていませんが、おそらく、生活態度か仕事上でミスをしたかどちらかでしょう。私は遅刻魔でしたし、人並みに働いていたとはいえ、どこからどう見ても不良社員でしたから。

その時、私は上司と部下という社会的縦関係を尊重して、「叱られている素振り」を演じていました。というのも、この頃には、他者からの言葉によって傷つくことがほとんどなくなっていたからです。表面的に傷つくことはあっても、自分の本質にまでその傷が及ぶことはありませんでした。けれども、社会人をしている間は、上司と部下という記号的役割を演じなくてはなりません。私は、少しばかりすまなさそうに相手の話を聞いていました。そしてその時もまた、性懲りもなく自分の内面を面白おかしく眺めていたのです。

その時、ことが起こったのでした。

ふいに、私は自分の自我が、ちっぽけな石ころのように無意味であることに気づきました。

「私」は無意味でした。

私は何ものでもなく、そこいらにある石ころと同じだけの価値しか持たないものでした。

特別な「私」は消え失せました。

すると、「説教を受けている私」と「説教をしている上司」はいなくなり、ただあるがままの世界がありました。

私と彼の間に差異はありませんでした。

その小さな部屋には窓が一つありましたが、そこから差し込む光は神の手のように慈悲に満ち、柔らかく、風に揺れ動く街路樹は生き物のようにうごめいて、緑は光り輝き、生々しく見えました。

ああ、救われているな、と感じました。

「私」が破壊された瞬間、そこにあるのは「世界」だけだったのです。

「私」と「私」で接する限り、人と人はぶつかり合い、傷つけ合い、葛藤を覚え、殺し合いさえします。しかし、自分の単位が「私」から「世界」に転じた瞬間、そこにあるのは調和の感覚だけでした。上司と部下という社会的記号は消え失せ、二つの自我はなくなり、ただ広大無辺な一つの世界だけがありました。

「私」と「世界」が180度ひっくり返る。

これが私の悟り体験でした。

私は、「私」ではなく「世界」だったのです。

(那智タケシ『悟り系で行こう!』より)

(引用おわり)

吉本は、人と人との関係を、「関係の絶対性」と名付けることによって、人間がそこから逃れることのできない呪縛としての社会的関係性の存在を提示した。そのメッセージは、吉本思想特有の呪術的情念のパワーによって全共闘時代の若者たちの思考を呪縛することとなったといってよいのではないか。

吉本隆明の観点は、徹頭徹尾「自我」の観点である。自我の観点に立つ限り、「関係の絶対性」は解決することも乗り越えることもできない。

しかし、「無我(私=世界)」の観点からは、「関係の絶対性」という課題は、解決されるのでも乗り越えられるのでもなく、ただ消失する。

那智氏は、吉本隆明のいう「関係の絶対性」を、「(上司と部下という)記号的役割」と呼ぶ。この表現方法の違いに、両者の観点の違いが端的に現れている。

吉本隆明はマルクス主義のいう「革命」の可能性にあくまでもこだわった人だった。高度資本主義社会においては、古典的な革命理論は通用しないが、それでも「関係の絶対性」を突き崩すための革命は何らかの形で可能ではないかというビジョンを追い求めた人だと思う。

しかし、マルクスや吉本隆明のいう「革命」は、せいぜい被支配階級(労働者、大衆)が支配階級(資本家、エリート)にとって代わることにすぎない。

真の革命は、自我表現から無我表現への転換にある。

自我表現は、常にある特定の「立場」から行われる。
無我表現は、いかなる「立場」からも行われる。正確にいえば、それは「立場」をまったく問題としない。

こんな声が聞こえてきそうだ。

「無我表現という『立場』は、『関係の絶対性』を超越したもうひとつのメタ的な『立場』を設定したに過ぎず、何ら問題の解決にはなっていない。」

繰り返しになるが、無我表現は、問題を解決するためのものではない。
自我表現が、「関係の絶対性」(=自らを呪縛するシステム)と呼ぶものは、無我表現にとっては、そこにただ「記号的役割」として存在するものでしかない。それは何ら解決されるべき問題ではないのだ。

こういう声も聞こえてくる。

「それなら無我表現とはただ現実世界を無批判に受容する態度にすぎない。無我表現はこの現実世界を何ひとつ変えることはできはしない。」

これも同じことで、無我表現は、現実世界を変えるためのものでもない。

しかし、逆説的な言い方だが、おそらく無我表現のみが世界を真に変えうるのである。

このことについては稿を改めて論じてみたい。

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◇座談会

無我表現研究会第1回オフ会・座談会その1    12月15日都内某事務所にて

※去る12月15日、都内某事務所にて無我表現研究会の第一回オフ&座談会が開かれました。7名の参加者が、約3時間に亘って様々な話題が繰り広げたその模様をご紹介します。

◎座談会参加者
・那=那智タケシ(無我研発起人)
・高=高橋ヒロヤス(無我研執筆者・弁護士)
・た=たまちゃん(たまちゃんSOUZOU学科主催)
・加=加藤女史(会社員・ウルトラリンパ受講生)
・ハ=ハニー(会社員・スピリチュアルな世界を遍歴)
・M=M女史(会社員・スピリチュアルな世界を遍歴)
・テ=ティモ君(20代男子・岩手から参加)

●それぞれの悩み・遍歴

 那 ではみなさん、まず自己紹介からお願いします。
 ハ 昔からこういう世界(精神世界)に興味がありました。それから紆余曲折あって、偶然、アマゾンで那智さんの「悟り系で行こう」という本を知って、面白い人がいるんだなと思って。それからたまさんのブログを偶然知ったんですが、たまさんと那智さんがお知り合いになって対談をしていることに妙な偶然を感じて。それからメルマガを購読しはじめました。
 加 私はあまり本とか読む人間ではなかったのですが、一時期仕事がつらくて鬱病になってしまったんです。自分のどこがいけなかったのか、何が悪かったのか、すごく悩みに悩んでいる時期があって…。その時に本をいろいろ読んだのですが、その中に那智さんの本があって、メルマガまできて…。同じ時にちょうど母親が癌で亡くなったんですけれど、メルマガに菊池さんのウルトラリンパの話があって、すごく共感したんです。母も抗がん剤で体が免疫力をなくして亡くなってしまったので、やっぱり健康であることとか、体力を失わずに治すという考え方が大事だと考えて、リンパの講座を受けたのが那智さんや高橋さんと知り合いになったきっかけです。
 M 私がここに参加したのは、読み手の側からどんな人が作っているんだろう?と。文章からだけだとどうしても自分のイメージでカチッとしてしまうのがあって、実際に会うとどんな感じかなと思ったので、参加しました。
 まずメルマガを読むきっかけっていうのは、たまちゃんのブログを見て、那智さんと対談をしているのを聞いて、購読しました。自分を深く見る作業をはじめた時にたまちゃんのブログに出合ったんです。自分を深く見ようと思ったきっかけは、今年になってから自分がいろんなことに依存しているというのをはじめて認識したんです。それまではそういうことを一切思ったことがなくって。急にすごい依存しているんだなって。依存というのがすごい無責任だと思ってショックを受けたんです。それで、どんどん話が過去にさかのぼってしいますが、そんな風に思ったきっかけは、すごく楽しいグループの中で活動していたんですけれども、ある人と本当に親友になって、きっと人生ずっと楽しく、この人と話しながらやっていくんだろうなって思っていたのが、ものすごく簡単なことで崩されたというのがあった時に、依存を感じたんです。今はたまちゃんと滝行をしたりしながら、自分を見つめる作業をしています。
 テ 二十四歳で、岩手の盛岡から来ました。高校の時にクリシュナムルティっているじゃないですか? あの人の本を読んで、読んだのはいいんですけど、難しいんで。それで日本にクリシュナムルティの影響で本を書いた人というのがその時は見つからなくて。あきらめていたというかそんなのがあったんですけど。最近、アマゾンで偶然、那智さんの本を発見しまして、クリシュナムルティで覚醒したとかそういうことが書いてあって、この人だって感じで。
 那 遠くから来てくれてうれしいですよね。若い人も珍しい。高校生でクリシュナムルティにひっかかるのも面白いですね。
 テ 精神的にちょっと病んで。いろいろ読む中で偶然発見して。最近、那智さんの本を読んでこういう人に出会いたかったという感じで、今日は来ました。
 たまちゃん到着。
 那 一通り自己紹介とか、このメルマガを何で知ったのかとか、教えもらったので、たまちゃんもお願いします。
 た 何で知ったんだろう?
 一同(笑)
 た 思い出せない。
 那 実はぼくも思い出せない。いつもそうだよね、いつだっけ?とか。どうしてだっけ?とか。同じタイプ。全然思い出せない。
 た すっかり忘れてしまいました。
 那 自己紹介を。
 た たまちゃんSOUZOU学科というブログを書いているたまちゃんです。今、M-Studioというところで、アートとヨーガを練習する教室を開いています。後、趣味?
 一同(笑)
 那 自分の遍歴とか、きっかけ。
 た 三、四年くらい前になりますかね、ふとしたことで。記憶が定かでないんですけれども、自分を知ろうと思いまして。そこからいったい何をしたらいいんだろう?と。手探りでたくさんいろんなことをやりながら、ただ誰かに依存することなく全部やってみようという感じで、ちょこちょこいろいろなことをやってきました。あっちにいってはいろんな人の話を聞いてみたりとか。実際に滝行をやってみたりとか、屋根の上で一晩寝てみたりとか(笑)いろんなことをしながら過ごしました。
 ある時、自分なりの答えというのが見つかって、果たしてこの体験は他の人もあるのかどうかと探そうと。初めてそこでインターネットというものを使って、他の人を見てみたんですけれども。なんか、何となく同じようなことを言っている気がするんだけれども、なんか違うぞっていう、そのまた微妙な差が、自分の中のもやもやになり、今度はそこを探求したい、知りたい。何なんだろう?と。そういうことをやりながら、いろんな情報と自分をすりあわせながら、何がどう違うのかっていうのを良い悪い関係なしに、どこから違うというのを探してきました。
 クリシュナムルティはまったく知らなかったんですけれども、私が言っていたことが、友達にクリシュナムルティが好きで昔から読んでいた人がいて、どうも同じようなことを言いだしてきたということで、教えてもらったんですね。たまちゃんと同じようなことがこの本に書いてあるといわれて。それで少し読んだ。あまり多くの本は読んでいないのですが、一、二頁読んだだけで、同じような感じだと思って。そこからちょっと読むようにして。翻訳も難しいのか、読むのがすごいたいへんで、今はスタジオでクリシュナムルティの読者会とかをやって、ゆっくり読み合わせをしていたりしています。

●自我肯定をしてしまうスピリチュアル

 那 那智というのは、悟り系で行こうと言う本を11年の3月に出す時に、悟りとかって仏教の世界とかあるし、やばいのかなと思ってペンネームでつけた名前です。体験というか、認識の転換があってから人に言うことでもないし、三年ほど黙っていました。本を書いたのは、たまたまライターという仕事をしていたこともあり、ちょっとこの世に中にひとこと言ってやろうかなというくらいで出版のあてもなく原稿をばっと書いて。たまたま出してくれるところがあったので出したという感じです。
 本を出してからいろいろな人から連絡はあったのですが、潜態論という科学を何十年も研究している人から連絡があって、通じるところがある、と。意気投合して。それからすぐ原発の事故があって、潜態論というのは原発を何十年も前から論理的に否定していた科学なんですが、こういう時代だから何か一緒にやりませんか、と。悟りとかスピリチュアルだけじゃなくて、芸術とか科学とか、ひとまとめにした新しい価値観を提出できる何かをやろうということになりました。名前をぼくの提案で「無我表現研究会」にして、資本も何もなかったので、メルマガでもやろうとした時に、高橋さんがブログにコメントをくれたんです。ぼくは高橋さんの鳥居みゆき論なんかを書いてある芸能ブログのようなものを知っていたので、連絡を取り合って、当初は、三人で始めた感じです。
 それから詩人のリタさんや、アラスカのマチカさんや、リンパの菊池さん等、縁がある人やアンテナに引っかかった人に執筆してもらったり、対談してもらったりしながらコツコツ続けてきました。
 一年半以上続けてきたのですが、スピリチュアル業界への嫌悪感みたいのもあって、作品で勝負しようというラインで続けてきました。でも、一年以上続けてきて、あまりに一方通行だとそれもどうかということで、高橋さんの提案もあって、新しい出会いというか刺激を求めて今回、こういう会を開かせていただきました。面白いイベントになればいいと思うので、本音でばんばん言っていただければと思います。
 高 メルマガの感想を聞かせていただけるとうれしいのですが。
 ハ 私はスピリチュアル業界がどうしようもないというのは賛成で、那智さんがまともなブログを書いているなと思って。メルマガには悟りとかじゃなくて、詩とか、芸能とかリンパのこととかいろいろ載っているから。私はそんなに真剣というわけではないのかもしれないですけど、娯楽として毎月楽しみにしているという感じです。
 高 じゃあ、たまちゃんのブログで那智さんを知ったって感じですか?
 ハ いや、別々に知って、そしたらたまたまお二人がつながったんで、こういうこともあるんだなって思って。
 那 意外と狭い業界というか似た者って少ないんですよ。もっといっぱいいると思っていて。
 ハ いや、那智さんとたまちゃんは特殊だと思いますよ。
 那 たまちゃんは過激だけどまっとうで面白いことを言っているので、ちょっと話します?と。ハニーさんは、スピリチュアル業界で紆余曲折あったわけですか?
 ハ 相当あって…。もう、本当に心からこれはだめだと思って、一切切って。真実というのはお金とかじゃないはずだと思って。そんなに大量のお金をつぎ込まなかったんですけど、たまちゃんとか那智さんはそういう中では利益とか、そういう感じではなかったので、興味を持ってという感じです。最近のスピリチュアルな業界ってどう思いですか?
 那 基本、自我肯定ですよね。きみは大丈夫だよって。みんな疲れているから、癒されたい。だから人気が出る。でもあれは、残しちゃうんですよ、ここに(胸)。これまで積み上げてきた自分を包み込んでくれる。大丈夫だよって。自己肯定が、あの言い方だと自我肯定になってしまう。ぼくは逆で、ぶっちゃけて言うと、ぶっ壊さなくちゃいけないという人。ただ、これは本気でやると生きるか死ぬかになってしまうし、相手の死を預かって責任を持って誰かを導くような役割があるとは自分にあるとも思っていないので、表立っては言いません。

●危険な瞑想とは

 那 個人的に何か修行のようなことをしている人はいますか?
 ハ 瞑想はしていますね。
 那 座っていますか?
 ハ 姿勢とかはそれぞれですけど、いろいろやり方を調べて、この人の言っていることは信じられるなというのがあって、これをやってみようって思うのがあって、それを毎日、五分から十分、つらくない程度で継続していってます。
 M 私、瞑想って怖かったんですよ。だからやめたんです。あるところで団体でやっていたのですが、瞑想をはじめると、自分の中で変なところにいっちゃうんですよ。変なところにいって戻ってこれないという感覚があったりするので。やり方がきっと間違っていたのでしょうけれど。だから瞑想をやめて肉体行にしました(笑)
 那 変なところにいっちゃう感じ? 
 M 一番怖かったのが、やっていて「みなさん終わりましょう」って言われた時に、戻ってきた時にすっとまた戻っちゃう。現実に戻れない。変な世界にいっちゃうんですけれど、いっちゃう世界というのが気持ちいい世界。気持ちよくて、白くて、ふわーっとした世界。戻ってもまたすーって後ろからひっぱられるみたいにいっちゃうって感じで、それが何かずっとあってなかなか戻ってこれない時があった。いつも意識していないと、ひっぱられちゃうみたいな。
 ハ それってどういう瞑想ですか?
 M 「さぁ、みなさん瞑想しましょう」と言われて、自分の中心に行くみたいな、そんな感じ。
 ハ 瞑想って一口に言っても、難しいというか危ない感覚がありましたね、自分の中では。変な風にやっちゃうと精神がおかしくなりそうな。
 M たぶんそれは私が抱えていたいろいろなものがあるので、そういう方向にいったんだろうな、と。だから解決の方法を知っていました。自分の中ではわかっていたんです。
 ハ 同じ瞑想をやっても結果が違ってくる。
 M そうです。
 ハ 自分の体験でも、スピリチュアルってみんな簡単に言ってるけど、瞑想って本当に危ないものだなって思っています。変な人につくとおかしくなる。
 那 きつね憑きみたいな人もいますね。
 ハ ああ…。
 那智 結局ね、最初は自我をクリーンにしないと、あるいはパソコンだったらデフラグじゃないけど整えないで強制的に瞑想したり、オウムじゃないけど苦行して神秘体験したりすると、たいへんなことになる。非常にいびつな精神構造になる。クンダリーニがあがろうが何しようが。人間の体って一定の修行をすると神秘体験をしたり、エネルギーがあがってパーッと気持ちいいとか自動的に起こったりする。でも、ここにある積み重ねてきた「私」というイメージとか、「自分は特別だ」という意識とか、人よりも優越したい自分とか、そういう虚構の自我を見て壊すなり落とすなりしないと、そういう体験は害悪になりかねないというのがぼくの見立てです。そういう人が見ているとすごいいるので。
 みんな天上に行きたいわけです。天上からはじめたい。でも、ここ(胸)から見ないとどうしようもないよ、と。見ていくと下のエネルギーになる。逆に、落ちていく。底蓋が外れて、落ちていく。虚構性を理解した後、さらに見て、味わって受容してゆくと、自我の残滓のようなものがとめどなく落ちるようになる。そっちで浄化した後だったら何をしてもいい。けれど、パイプが詰まっているのに強制的に神秘体験をしても汚いものや幻想とミックスされてろくなことにならない。逆に取り返しがつかなくなったりするんです。自分は世界を救うメシアだと言いかねない。自我が肥大化した妄想と体験が一体化して、観念化、固定化されてしまうともうどうしようもなくなります。
 M もっとそれを早く知りたかったな、と。本当にいろいろ抱えながら様々に体験してしまったから。最近、ようやく体験を追い求めるのではなくて自分を見始めた感じです。

●精神病とは社会の外にあるもの

 那 事前にMUGA17号を配布させていただいたんですが、感想を聞かせてください。
 テ 那智さんの小説はけっこう、印象に残ったというか。埼玉県の女性の話で、何回かそういう小説とかあったと思うんですけどすごく面白くて。
 那 娯楽として読めるものになっているならぼくはうれしい。
 テ こういう人もいるんだなと思いましたし、スピリチュアルの危険性も感じましたし、あとはリタさんの詩も好きです。自分はけっこう、自然が好きなので。
 那 似ているんでしょうね。クリシュナムルティが好きな人は自然が好きで、自然が好きな人はこういう作品が好きでって。例えばたまちゃんはクリシュナムルティに共感する、と。画家ならルドンが好きだという。ぼくもルドンは一番好きな画家なんです。
 テ 自分もルドンは好きです。
 那 似ているんですよ。不思議でしょ?普通そうした要素がつながることはあまりないように見える。それでいて、今、ここにいる人の中に偶然同じものが好きな人が三人いる。そういうものが好きな人はぼくの小説は好んでくれるかもしれない。それから高橋さんの評論とエッセイはそれぞれ別人の作品のようなものなので、それは別々に聞いてみたい。ハニーさんは17号を読んでみてどうでしたか?
 ハ やっぱり那智さんはライターという仕事をしていることもあって、普通に生活していたら会わないような方ともよく会ってらっしゃるんだなって思って。印象的で。今回の芹姫さんは小説として読むと無の人なのかもしれないし、でも、普通の一般の人から見たら統合失調症。その二つの見分け方がやっぱり一般人にはわからないというか、その点で難しい、真実はどっちなのかなというか。
 那 その話になると精神病とは何ぞやというね、社会的常識の枠組みの外にいる人は精神病扱いされるわけで。ちなみに芹姫さんは実在はしません。
 ハ しないの? 真剣に考えちゃった(笑)
 那 ただあのテープは実在します。芹姫さんが言った言葉じゃない。全然違うキャラクターの人が言っていて、録音させてもらった。小説仕立てにする時に、芹姫というキャラクターを考えた。いろいろな人がモデルになっているのですが、あれを実在だと思ってくれたら成功だったのかな、と。リアリティというか。
 ハ リアリティありました。
 那 嘘くさい話じゃないと感じていただければ。
 た リング以来でしたよ、映像が浮かんだ、本読んで、リアルに(笑)
 那 そんなに?(笑)
 た きゃあーみたいな(笑)出てくる感じで。目に浮かびました。
 那 こういう人と話すと背筋がぞぞぞってするんですよ。無意識のところにつながっている人というのがいる。そういう人はスーパーリアルで、テープを聞いていても、ぞくぞくする。ホラーと言うかね。ただそれをたいしたことないなんて言ったら小説にならないので、負けたとか圧倒されたとか、でないと共感を持たれないんです、小説って。悟り系だから何ともなかったと言ったらだめなんで。本当は超えているから表現できていると思っているんですけど、だめだめなところを出した方が共感してくれる。
 テ 煙草をやめたのは本当ですか?
 那 本当だけどこれがきっかけじゃない。単に体壊して。
 一同(笑)

●自分が消えた瞬間、行動が始まる

 那 加藤さんはウルトラリンパを一緒に学んでいるのですが、あまり普段こういう話をしないんですが、MUGAとか読んでどう思っているんですかね?
 加 このメルマガは毎回読んでいます。最後の高橋さんの「無我表現とは」という文章が、私としては面白かった。たまたま小林秀雄さんの本とか読んでいたので。子供の頃は絵とかすごい好きだったんですけれど、働き出してからは仕事中心で、仕事以外切捨ててしまう感じできていたもので、美とか芸術を見るという感覚というのを今まで仕事に使って見ないようにするというか、捨てちゃっていたようなところがあって。小林秀雄さんの文章で、そういうのは見ていないとなくなっちゃうと書かれていたので、これからいろいろ美術に触れていきたいと思っていたので、そこですごく共感しました。
 那 高橋さんとしては、この文章はどういう意図で書いたのですか?
 高 今回、座談会をやるというので総括的なものを書きたいと思ったんです。メルマガの創刊号とか2号を読んでくださっている方には、繰り返しになってしまうと思うんですけど、17号になってもう一度ちょっと改めて原点というか。今日のためにというか。急いで思いつきで書いたので練れた文章ではないし、基本的にこういうことが言いたいんだ、と。
 だから悟りとか無我とかいうのをあまり重んじすぎないというかね、むしろ表現が大事なので。悟っているから偉いんだ、とか、無我だからじゃなくて、むしろ何を表現しているのかというのが一番大事だと思うんですね。だから悟りについてすごい精緻な理論を作って、この通りにやれば悟れるとか、実際にこういう風な体験があったとかそういう人はたくさんいるんですけど、じゃあ、実際にその人が今、何をやっているの、と。セミナーとかやって人々を導いている仕事とかあるのかもしれないけど、それ以外の場面で、震災があって、原発事故があったりする状況の中で一人の人間としていったい何をやっているの?と。表現としてそれだけじゃないだろ、と。
 ぼくはスピリチュアル業界は知らないけど、精神世界には興味があったから、そういう本はいろいろ読んでいますけど、その中ではなくて、むしろ外にあるもので無我表現というかな、そういうのがどこにあるかを探して紹介していきたいな、と。
 那 社会につながった形の表現。閉じられているから、ああいうところは。
 高 スピリチュアル業界の中で閉じちゃっている。そういうあり方がちょっと違う。そこで言われていること自体は普遍的なことが言われているとしても、表現できていないから、社会に出すインパクトがない。そういう意味でいろんなジャンル、AKBとか(笑)最近では、建築家の坂口恭平さんとか。そういう人は掘っていくと、無我的な発想がある。坂口さんは自分が消えた瞬間があって、そこから行動が始まったというから。いろんなジャンルで、悟りとか言っていないけど、やっていることはそういうことになっている。そういう人を見つけていくというのがぼくのここでやりたいことだと思うんです。
 那 今まで当たっていなかった光の当て方ですよね。AKBと坂口恭平と、ランボーとドストエフスキーが並列で評価される。こういうものが美しいんじゃないか、とか。大げさに聞こえるかもしれないけど、人類にとっての方向性を指し示すのがこのメルマガの存在価値ではあるのかな、と。もう少し執筆者のバリエーションが欲しいのは正直なところですけど。
 高 那智さんが言われたように新しい価値観の創造。大げさに言うとそういうところを目指しているわけだけれども、いろんな人がいろんな観点から書いてもらうのが本当は望ましいんですよね。今の所、連載人は3人ですし、これからいろんな人に単発でもいいので寄稿してもらえればという希望もあって、今日の集まりになっているんですけど。

●表現は方向性を持たず、自己完結していなくてはならない

 M 私は那智さんの作品は物語として読みやすいと思った。一番感じたのは、50円玉を芹姫さんが拾うシーン。私もこんな感覚あったよなって。いつも読んでいるとすごく私の中では、キーンとした感じなんです。すごい変な表現なんですけど、きれいな感じ?シンプルというか。それで実際に会った時に、ああ、ちゃんとした人だって、普通の人っていうのかな、悪い意味じゃなくて。
 高 どんな人だと思っていたんですか?
 M 文章だけしか知らなかったので、文章の中から、なんか線の細いすごいきれいな人という感じだったんですよね。表現が難しいんですけど。
 那 わかりますよ。ソフトにおっしゃっていると思うんですけど、もっとやっかいそうな人とか面倒くさいこと言いそうな人とかそういう風に思っていた?
 M そうじゃなくて、本当に純粋に、言葉通りに受け取ってもらえばいいんですけど、すーっとした一本、余計なものがついてない、すーっとした感覚でいつも受け取っていて。だからこの文章は実際にあったこととして私は受け取ったんですけど、今日お会いする日を楽しみにしていて、普通と言うか。良かったというか。
 那 意外と普通、みたいな(笑)物書きなんてそんなところありますよね。自分の中の純度の高いものを形にしているわけで。
 M こういうのをすごく忘れていたな、という感覚がありましたね。本当に純粋なものに対した時のはっとした感じというか。自分がもう見失っていたものを思い出させてくれたようなそんな感じがしました。
 た 私も小説も目に浮かぶように読ませていただきましたし、「無我表現とは」というエッセイも、すごくコンパクトにまとまっていると思いました。
 高 たまちゃんのブログの方がはるかに強烈ですけどね。
 た そうですか?(笑)でも、表現というのは、無我ですよね。セミナーというのは表現ではない。説き伏せるのは表現とは言えない。表現というのは自己完結している状態だから表現。
 那 文字通りですよね、表に現すのが表現だから。隠れたものがそのまま顕になって表現。本質が形になっているから自己完結している必要がある。表現とメッセージは違います。
 高 セミナーを受けた人がいて、それが終わった後、どう表現するかですよね。セミナーの空間というのはパッケージ化されている。そのマニュアルを伝える空間。そこではある訓練を積めば誰でも講師になれるし、同じようなこともできるかもしれないけど、それが終わった時に一人の人間として自分が、周りの出来事に対してどういう風に振舞っているのかというのを見ないと評価できないのではと思います。
 那 極端に言えば、実生活は見えないけれど、ブログの字面を見ただけでぼくはわかります。響きというか。顔を見ても、文章を見てもすぐにわかります。それが肉化されているかいないかということが。本質は顕になる。見る人が見ればごまかせないんです。
 た 表現って考えると、何か表現されたものを見ると考えますよね。これは何だろうって。ちゃんと考えさせてくれるのが表現であるというのは思いましたね。
 那 いいとこ取りではないということですよね、方向性を持たないというか。例えば、芸術家は選択してはならない、と言いますね。リルケとかロダンは。表現対象を美しい存在だけ選ぶと、イージーな少女マンガになってしまう。それは芸術ではない。ひとしなみにこのコップだろうが、犬の糞だろうが、老婆だろうが、美しい人だろうが、愛して表現しなくてはならない。それって自分の目で見た世界じゃないですか? その中で編集作業は当然ある。これが価値があるとか、これが実在だとか。でも、基本的にモチーフを選択する権利を芸術家は持たない。それがストイックな表現。そういう意味で言えば、ある種のセミナーの「あなたは完璧で美しい」というのは愛じゃないし、メッセージでしかない。選択と方向性があるから。
 たまちゃんが言った本当の意味の表現というのは存在それ自体の結晶なんではないでしょうか。例えば、モナリザという絵がある。あれについてひとことで何か言える人はいないと思うんです。悲しみがあり怒りがあり喜びがあり、祈りがある。すべてが一つになってモナリザになる。リンゴと同じで、事物それ自体に良いも悪いもない。評価を超えている。そこまでいったのがたぶん本当の芸術表現で、神の被造物に近づく。人間それ自体も同じで、今の自分を出せばそれが表現であって、良いも悪いもない。評価しきれないと思うんです。
 た 表現って面白いですよね、なんで人は表現をしだしたのか?とか、いろいろ考えちゃいますよね。
 那 なんで表現したいのか、とかね。自分を知って欲しいとか、認めて欲しいとか最初にあるとしても、もっと深いレベルであるものね。

●AKBとベートーベンを等価値に見る眼差し

 高 過去の記事でもいいですけど、メルマガ全般で感想とか批判でもいいですけどありますか?
 ハ よく高橋さんはAKBとか、論じていますが、私は嫌いなわけではないですけど、プロデューサーのこととか考えると、AKBを見る度にいたたまれない気分になっちゃうんですけど、高橋さんはどう思っているのかなって。
 高 そこを言われちゃうと厳しい(笑)ぱっと見は俗悪かもしれないし。最初は那智さんが言っていたんですよ、AKBがいいって。AKBの中には純粋なものがあるって。最初はぼくも何を言っているんだって。
 那 冷たい反応だった(笑)
 高 高橋みなみの動画かなんかを見て、見所あるんじゃないって。知ってます?高橋みなみ。
 ハ リボンの人。
 高 そうそう、その動画で献身的に自分を捨ててメンバーに尽くしている。普通ならできないことをやっている。行動でこういうことをやっているのはすごいというか、口で言っているだけじゃなくて。実際に200人以上メンバーがいても、たかみなのことを悪く言う人は一人もいないと言いますね。心からみんな従っている。AKBにはたかみなについて行くメンバーと、たかみなに何があってもついて行くメンバーしかいないと言われているくらいにね。だから、そこまでのことをさせるというのが、単に計算でやっているのでは絶対ないし、まぁ、それがきっかけだったんです。だからってAKBがいいからみなさん聴きましょうとはそんなことは言わないですけど、さっき言ったように社会で無我的な表現をいろんなジャンルで探している中でそのアンテナに引っかかったということで、いろいろ書いてるんですけど。
 那 ぼくが及びもつかない境地にいってしまったので(笑)
 一同(笑)
 高 若いティモ君はどう? 全然興味ない?
 テ ぼくも冷たい目で見ていた。高橋さんの文章を読んでこういう深い見方もあるんだなと思ったりして。自分は中古リサイクルショップみたいなところで働いているんですけど、CDコーナーがあって、レジの近くにあって、デモ機でいつもAKBかかっていて、いつもうるさいなと思っていらいらしていたんですけど。
 高 それは誰もが通る道です。
 一同(笑)
 那 まだ甘いらしいよ。
 高 自分もそうだった。
 テ それくらい深いものがある、と。
 高 深いかどうかはともかく。例えばベートーベンとかバッハとか、すばらしい音楽があるじゃないですか。本当に崇高で無我表現。それとAKBというものすごく俗悪な表現があるんですけど、そこで現れているエッセンスというのは等価値だと思っているんですよ。非常に洗練された表現と俗悪な表現があるんですが、何というのかな、無我からきているのかな、そういうものがある。ぼくも上手く言えないんですけど。そこにおいては等価値だと思っていて、だからこそどんなジャンルにもそういう表現はあると思っている。例えば悟った人がやる表現が無我表現で、そうでない人が何をやっても無我表現にならないということない。まさに那智さんの小説の女性の最後の行動は無我表現だし、そこであまりレベルという話をしたくないというか。あと、無我表現って別にきれいなものじゃないし。
 さっき選ばないという話があったけど、無我表現というところでは等価だとぼくは思っているんだけど。この辺のことはまだ言葉にできない。
 那 さっき、ぼくの小説の主人公は実在しないと言いましたけど、モデルになっている、それに近い人物はいるわけですよ。どういう人かというと、道を歩いているでしょ?誰かがポケットからレシートっぽい紙切れを落としたとしますよね。道の向こう側ですよ。ぼくらはほっておいていってしまうと思う。でもその人はタタタと走ってって、どうぞって。向こうからしたらうざいし、変な人だと思われるかもしれない。でも、そういうところで何も考えずに動いてしまう。瞬間で。こういうところは勝てないな、と。人が小銭をばらまいても一生懸命拾って。本当は人のお金ってあんまり触ってはいけない感じがするけど、そういうのも考えない。良いことをしている意識もない。ただそういう人なんですね。そういう損得抜きで動く先天的な人がいるんです。
 無我表現という言葉はぼくが最初に考えたんですが、生きた人間を見る中で、こういう人が無我表現なのかな、とか。誰も認めないし、理解もされないし、愛されもしないけど、けなげに生きているな、とか。そういうの美しいな、とか。こういう人がちゃんと評価されない世の中ってなんだろう、とか。仕事がちょっとうまくできて、要領がよくて、上司におべっかを使って給料を高くしてもらってなんて人たちがいる一方、さっきの人は雑用ばかりやらされて安月給で働いていたり。本当に価値があるものは何かっていうのを提示したいなって。
 高 クリシュナムルティは思考というものを否定する。思考から出た行動はすべて腐敗するという過激な言い方をしますが、まさにそれが無我表現でないものなんですよね。クリシュナムルティのいう選択なき気づきとか、観察者なき観察というのはまさに無我表現のことを言っているわけで、そこに思考とか、今言ったような計算とか、功利主義とかまったく介在しない行動のことですよね。そういうのは、日常の中で、なかなかめぐり合うことはないけれども、ある瞬間にそういうものが出たりする。普段、利己的に振舞う人でも、ある瞬間にそういう行動を取ってしまうこともある。そういうのは全部無我表現。そういうのを拾っていくというのかな、そういのが本当にできればいいなと思っています。

(続く)

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◇エッセイ

スピリチュアルエッセイ ぐるごっこ

高橋ヒロヤス

第二回  アトランティスの巫女

数年前から、テレビや雑誌などで「パワースポット」なるものを紹介することが流行し、すっかり日常の語彙として定着した感がある。有名な神社や歴史的な由来のある名所を訪れることで、心身がリフレッシュされるだけでなく、霊的に浄化されるなどと謳われていることが多い。私が一時期親しく付き合っていたある団体は、そうしたブームの先駆けのようなことをしていた。彼らの活動は、後に大流行する「スピリチュアル・カウンセリング」なる言葉の使用の先駆けとなったとも記憶している。

その団体は、巫女のような役割を果たす女性と、その補佐役(サニワ役)の男性の二人が中心になって、ヒーリングやスピリチュアル・カウンセリングを行っていた。各地にグループがあり、定期的に講演会や勉強会などをしていた。私はそれとはまったく別のルートで彼らと知り合いになり(これについては長くなるので詳述しない)、彼らがスピリチュアルな活動をしていることを知ったのは後になってからだった。私はまったく「信者」ではなく、そのグループのメンバーという自覚もなく、常に第三者的な立場で関わっていたにすぎない。

彼らとの交流が続いたのは、なぜか私の妻子も含め家族ぐるみで付き合うことになったことによる。年に数回は一緒に泊まりがけで出雲地方の小さな神社に行ったり、伊勢神宮や分杭峠(ぶんぐいとうげ)など各種の「パワースポット」に行ったりした。私自身は神社仏閣巡りや霊場などには興味を持たないし、非常に出不精で旅行好きではまったくないので、今思い返しても不思議な縁だったというほかない。そのグループの人たちは、特定の信条に凝り固まったところがなく、霊的な事柄に関してはよい意味で心を開いているようだった。人間的にもとても感じのよい人たちだった。だからこそ思想信条の違いを抜きにした関係を持つことができたのだろう。

中心となる女性は、ヒーリングやスピリチュアル・カウンセリングに加えて、「古事記」を現代風にアレンジしたような膨大な歴史物語を口述筆記するのをライフワークにしていた。アトランティス末期を舞台とするその話の中では、彼女の周囲にいるグループの人々が登場人物となり、彼らの前世のカルマが詳細に展開されているのだった。そして、その物語に書かれた通りのことが、現在の人生における人間関係の中でも繰り返されるといわれていた。実際そのように思い当たる出来事もあった。

その物語によれば、私はアトランティス時代に彼女の息子だったという。今生で私の家族と親しく付き合い、面倒を見たり世話を焼いてくれるのは、その時代に苦労をかけてしまったことの贖いの意味があるのだと言っていた。私が今生で周囲や社会になんとなく馴染めず違和感を持ち続けているのも前世の経験が影響しているらしかった。私はそういう説明を信じるともなく疑うともなく、フィクション(小説)を読むような感覚で接していた。その物語には、私がアトランティスで行ったことや、そこでの挫折体験についても述べられていたが、それを信じ込むこともなく、かといって頭からナンセンスだと決めつけることもなかった。

人との関わりの中で私が大切にしているのは、その人が何を信じているか、何を主張しているかということ自体ではなく、トータルとしてその人の言動が人として「まとも」かどうか、言いかえれば人として正しく、人として優しいかということだ。私は世間的に見れば奇妙なことを信じたり実践している人たちと接することが多いが、その人が人間としてまともである限り、付き合う上で抵抗はない。逆に、社会的には尊敬される立場にある人でも(むしろそうであればあるほど)、偽善的な所があったり、人として正しく優しくなければ関係を持つことはない。何が「まとも」なのかと問われると、説明するのは難しく、フィーリングとか直感としかいいようがないのだが、人の縁とはそういうものだろうと思っている。

彼女は普段はとても常識的な人で、小学校の教師をしていたこともある。その頃から霊的には敏感で、教壇に立つと、生徒の想念が全部見えてしまって困ったそうだ。なんらかの霊能を持っていたことは確かだが、それを必要とされる時以外に表だって見せるようなことは決してなく、私が見る限り、人格的にバランスが取れていて、洗練された女性だった。実際の年齢は私と10歳くらいしか違わなかったが、アトランティスの前世で私の母親であったかどうかはともかく、私は彼女になんともいえない親しさを感じていた。

まもなく彼女は癌に冒され、数年間の闘病生活を経て、まだ若くして亡くなった。彼女の残した膨大な原稿は未完のまま残された。グループは迷走を始めるようになり、補佐役の男性がグループをコントロールしようとする傾向が生まれてきた。彼は彼女との「霊界通信」なるものを開始し、陰謀論じみた思想に傾倒していくように見えた。やがて、もはや修復不能なまでに見解の相違が決定的となったため、私はグループとの関係を絶った。もともとグループに所属していたわけではなく、彼女を通した属人的な関係にすぎなかったから、縁が尽きたということだと思っている。私がそれまでの職業を辞めて弁護士を目指すようになったのは彼女の示唆と励ましによるところが大きかったのだが、それが実現した時には彼女はおらず、実現の瞬間にグループとの関係が終わったのは運命の皮肉と言えるかもしれない。

あのグループの人々と会うことはもうないだろうが、特に悪感情を持っているわけではない。しかし、代表者に率いられておかしな方向に走らないか懸念はある。

これはかつてのオウム真理教についても感じたことだが、しばしばこうしたグループには、「自分が正しいと思っていることを貫き通せば周りは分かってくれるはずだ。だってこれは正しいことなんだから」という幼稚な使命感(思い込み)がある。他人の意見を聞いているふりをしながらも、結局は自分の主張を通すことしか考えていないから、まともな対話は成立しない。反発を受ければ受けるほど、「世の中は間違っているから、正しい者は迫害される運命にある」という信念と相まって、殉教者的な喜びすら覚える。残念なことだが、こういう人たちは行くところまで行って自爆するよりほかに学ぶ道はないのかもしれない。ただしその過程で外部社会(一般市民)を巻き込むことだけは勘弁してもらいたいものだが。。。


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★編集後記
 明けましておめでとうございます。この世界の現状を見ると、おめでとうと言ってる場合ではない気もしますが、日本の習慣の中には良いものもありますね。今年も地元の小さな隠れ神社のようなところに初詣に行き、おみくじを引きました。末吉でした。週に一回は散歩の途中に寄って手を合わせている神社です。いつもは自分のことなど一切お願いしないのですが、おみくじを引く時だけ当たりくじを引くように引いてしまったことが原因かな、まだまだだな、と思ったり。
 今年は、より現実社会に根ざした行動と、新しい表現という二つの道で無我研を発展できればと思います。そのためには、このメルマガを読んでくださっている皆様のご協力が必要だと感じています。今年もよろしくお願いします。(那智)

※「これは無我的だな」と思えるような作品の情報、紹介、評論の寄稿等お待ちしています。とりあえずは、以下のメールフォームにてご連絡くださいませ。
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