芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第14号

2012/09/15

MUGA 第14号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇アート

・詩

『季節の詩』     rita

・短編小説

「例外者たちの宴2」 白竜様 
那智タケシ


◇評論
無我表現という言語ゲーム 
高橋ヒロヤス

◇エッセイ

あっちゃん卒業に思う
高橋ヒロヤス

                                      
◇セラピー

ウルトラリンパ講座・番外編

◇対談

根元共鳴×無我表現 2 

「変身願望を直視する」    たまちゃん×那智タケシ

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◇アート

★詩

季節の詩     rita 

【・萩・】

夏と秋 月と下露 真相とでたらめ あなたとわたし
それらを受け渡す橋
ただちに 緩やかに

くいちがう骨 上の空の時間 矛盾したページ 会話とわたし
それらを繋げる岸
淡く 堅く 

こぼしてもこぼしても芽吹いては
無数の想いを抱く腕を
しなやかに差し伸べる

その腕の中で
どんな存在も自由だった
居場所はどこにでもあって 気遣うこともなかったの

咲くものと散るものと
わたしは、ここに来たばかりの
まだ色のない蕾

手にキスをして 許容して 包容の籠を編めるほどたわませて
そしていかなる心も壊さないで

 
【・蜩・】

かなかなかな

頭の中に反照する今日

蜩のねぎらい
一日おつかれさま。と

なぐさめられる

緩まりし
ぼくの影法師

 
【・韮・】

韮の花が咲いている
逆さまの国の人が
道ばたで線香花火をしているの

上と下
昼と夜
赤と白

逆さまの牡丹
逆さまの松葉
逆さまに燃える心が

咲いている

 
【・酔芙蓉・】

白いスカートを
青空に翻す麗しさよ 陽光に透かす眩しさよ

陰りのない丘の稜線で太陽を見つめる乙女のすがた
高く輝ける愛し君へ馳せる想いを

白い雲は二人の視線を遮らないでしょう
蝉の声は二人の仲らいに干渉しないでしょう

芙蓉の総身には豊かな喜びが注がれているのに

はにかんでいるのかしら ふくら面なのかしら

少しづつ彼が離れていく午後2時の
紅潮を滲ませた恋心は複雑に

弄ばれるくらいな情動を帯びた午後5時の
花唇は赤く火照っている

日没に今日の心模様は閉じられて ひとつ、ふたつ
永久の記憶に結ばれるよう

深く深い眠りへ染み透りゆき

明日の目覚めは純白にそれは艷やかなものとなる

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・短編小説

 例外者たちの宴2                 那智タケシ

  白竜様

 それはかの大貴族、藤原家の血を引くという家系の家だった。私はとある亡くなった人物の伝記の取材で、愛知県のO市を訪れていた。自費出版の単行本の取材で、依頼してきたのは、癌で亡くなった奥様の旦那さんだった。三年前に亡くした最愛の人物の思い出を残したい。これは誰にでもわかる人間的な心情であるだろう。形にするのにプロの手を借りるのは、別段、恥ずかしいことではない。取材の最終日、義理の娘を失った母親の話を聞くために、この古めかしくも高雅な佇まいを持つ日本家屋を訪れたのである。

 玄関先には、小さな祠があった。中を覗くと、直径一メートルばかりの楕円形をした大きな石が祭られていた。石には蛇が這っているような白い網の目の模様があり、「白竜様」として祭られているらしい。白竜様とは、神の使いとされている白蛇に由来する。

「地元だけではなくて、大阪からお参りに来たりするんですよ」と依頼主のM氏は言う。
「でも、白竜様って何ですか?」と私は聞いた。「この辺りの民間信仰か何か?」
「いや、ちょっと母親が見たもので…」
「お母さんが?」
「少し変わった人なので、驚かないでくださいね」
「変わった人?」
「何でも、いろいろ見えてしまう人ということで、白竜様の先生と呼ばれているんですよ」とM氏は皮肉っぽく言った。「まぁ、少しぼけているだけかもしれないですけどね」

 M氏に続いて、玄関からお邪魔すると、小さな室内犬が甲高い声で吠え立てる。知らない人間――とりわけ男性――には吠えるらしい。

 陰気なきしむ廊下を歩き、いくつかの畳ばかりの和室を通り過ぎた後、行き止まりの右手に小さな部屋があった。M氏に続いて中に入ると、夏だというのにコタツがあり、そこにちょこんと一人の老婆が座っていた。八十三歳になるというお母さんだった。息子が四十歳だから、相当な遅っ子である。小柄で白髪のお母さんは、きらきら光る邪心のない目で、興味深そうにこちらを見つめている。何やら、本当にうれしそうだ。

 挨拶を交わし、しばし義理の娘さんの思い出話をうかがった後、白竜様の先生はこう言った。

「手を見せてごらん?」
 手相を人に見てもらったことはなかったが、素直に両手を差し出した。
「あなた、神社で手を合わせているね?」先生はいきなりこう言った。
「はい、合わせています」と私は驚いて答えた。「近くにあるもので。別に神頼みはしませんが」
「それは良いことだ」と先生はうれしそうに言って、左手をじっと見た。
「おや、あなた、苦労してきた人だね」意外そうにつぶやく。
「そうは見られませんが」私は苦笑して言った。
「こちらの手には努力と苦労が現れている」と左手を見ながら言った。「でも、こちらの手(右手)には何もないね。努力はない。人に恵まれて、運をもらって生きている」
「そんなに恵まれていますかね?」私はシニカルに聞いた。
「この線」と右手の中指の下の方の線をなぞる。「この線がこんなに上まで延びている人は、あなたの年ではなかなかいないよ。人に引き上げられる線がある。だから今は人とぶつかってはいけないよ。何かおかしいと思うことがあっても、頭を下げていなさい」
「おかしいと思っても?」
「そう、目礼で良いんだよ。ありがとう、と言う必要はない。頭を下げるのはただなんだからね」
「なるほど」私は内心、どきりとして言った。ちょうどその時、私には他人から葛藤を与えられるような不条理な出来事があり、どう対応すべきか悩んでいたのである。
「あなたにとって敵と思える相手ほどね、強い運を持っていたりする。あなたは頭を下げることで、その人の運をもらうことができるんだよ。だから今は反発しないの」
「今は?」
「その時が来たら、言ってもいい」
「その時とは?」
「それはあなたが誰よりもわかっている。あなたはどちらにしろ、ものごとをはっきりと言う人だからね」
「わかりました、ありがとうございます」私は礼を言って、微笑んだ。自分の中のわだかまりがすべて氷解してゆく心地よい気持ちと、本質を射抜く老婆の慧眼に感心していた。
「手相を勉強されたのですか?」と私は聞いた。
「白竜様が教えてくださる」と老婆は答えた。
「お母ちゃん、手相を見てもらいに来たんじゃないんだよ」と犬と戯れていたM氏が口を出した。「この人は忙しい人なんだから、取材に来たんだから」
「そうか、そうか」と老婆はわがままで聞き分けのない孫に対するように言った。「でもね、この人の大事な未来がかかっているんだからね。黙ってはいられないよ。それにね、あなたの人生だってこれからじゃないの? 私はこの人を通してあなたにも聞いて欲しいの」

 内心、バツが悪かった。私はあくまで名もないゴーストライターである。無色透明の受け手であることが望ましいし、主役であってはならない。ましてや、M氏は現在、無職なのだ。同年代の他人を褒める母親の言葉が面白いわけがあるまい。強引に話を引き戻し、取材を続けていると、玄関から誰かが入ってくる音がした。

 部屋に現れたのは、五十歳くらいの冷たい顔をした美しい女と、中学生くらいのひょろりとした穏やかな雰囲気を持つ少女だった。M氏の姉と娘さんということらしい。今日は年に一度の大花火大会のため、娘を浴衣に着替えさせるため、実家に寄ったのである。
「この子はね、霊感があるんだよ」先生は孫を指差し、うれしそうに言った。

「ないない」と冷たそうな母親が嫌そうに言った。
「いろいろ見えるんだよ」と先生はかまわず言った。
「見えないよ」と母親は否定した。

 ユリと言われている少女は、来客がいることなど関係なしにコタツに入り、携帯をいじり出した。

「この子、良い子なんだよ、わかる?」先生は私に聞いた。
「わかります」
「毎日、私に元気かって、電話をくれるんだもんね?」先生は孫に微笑みかけた。
 ユリという娘は何も言わずに顔を上げ、にこりと笑った。
「この子が普通でないのもあなたならわかるでしょう?」
「わかりますよ」
「今はね、見ないようにさせているの」と先生は言った。「ほら、勉強があるでしょ? 気が散るからね」
「なるほど」

 すると、娘の母親は嫌そうに部屋から出て行って、隣の仏間で父のために線香を上げ、般若心経を唱え始めた。ちらりと見ると、空で唱えている。

「うちの家系は、みんな空で唱えられるんですよ」とM氏が説明した。「ユリも唱えられるもんな。全部唱えられないのは俺だけ」
「ぼくも覚えたいと思っているんですが」と私は言った。
「覚えると良い」と先生は言った。「般若心経があなたを助けてくれる」
「ユリ、金をくれ!」いきなりM氏が叫んだ。どうやら、名家では落ちこぼれにあたるM氏は道化めいた役回りを心得ているらしい。
「ない」とユリはのんびりした口調で答える。
「金を貸してくれ!」
「ないよ」とユリは言って、再び携帯をいじり出した。
「ユリちゃん、この人を見てごらん」と先生が私を指差して言った。「どう思う?」
「すごい」とユリはこちらを見て、ひとこと言った。
「事故はどう?」
「知らない」
「気を使わなくていいんだよ」と先生は優しく言った。
 ユリは、何も言わずにうつむき、携帯をいじり出した。
「白竜様って何ですか?」と私は聞いた。
「夢に出てきたの」と先生は言った。「降りて見えられてね、あの石に宿ったって。そしたらね、翌朝、石が私を見ているの。怖い、怖い。じっと見ているんだから。これは祭らなきゃいけないと思って」
「それでいろんな人が訪れるようになった?」
「でも、白竜様は気位が高いと見えてね、近づけない人は近づけないんだよ」
「近づけない?」
「そう、敷地に入って来れないって」
「今、白竜様はここにいますか?」と私はずばり聞いた。
「いるよ」と老婆は言った。「いるよね? ユリちゃん」
 少女は携帯から目を上げ、小さく頷いた。
「ほら、感じるだろう?」と老婆は左手の背後をちらりと見て言った。「そこにとぐろを巻いていらっしゃる」

 私は、その視線の方向に恐る恐る目をやった。確かに、何かがそこにいるのを肌で感じた。手に取れるほどリアルな何かが、そこに存在していた。それを感じているのは、先生と、ユリと、私だけであった。M氏は何も感じていなかったし(我々の会話に対して、呆れているようであった)、般若心経を唱え続ける娘の母親は、感じる力はあっても、あえて触れないように生きているようであった。おそらく、この人がこの家系では、もっとも複雑な人生を送っているのであろう。興味を引かれたが、心は、こちらに対して固く閉ざされていた。

 帰り際、出迎えの時に吠えた犬が、老婆と一緒に見送りに道路に出て来てくれた。私は、深々と頭を下げていた。それは一期一会の出会いに対する感謝からだけではなく、目に見えぬ巨大な存在に対する、畏敬の念からでもあった。
 別れ際に、白竜様の先生はこんな短歌を送ってくれた。

 踏まれても 根強く忍べ 道芝の やがて花咲く 春もくるかな

 M氏の車に乗り込み、出発する。後を見ると、いつまでも見送ってくれる先生の小さな姿が見える。

「すみませんね、おかしな母親で」とM氏は言った。「いつもああなんですよ。だから友達も連れて行けない」
「すばらしいお母さんじゃないですか」と私は言った。「でも、ユリちゃんもとても良い子ですね」
「ユリにはお母さんの力が全部いったみたいね」M氏は興味なさげに言う。「俺には何もないのにな」

 瞬間、まだ明るい夕暮れの空に、一つ、花火が上がる音がした。試しの打ち上げだったのだろう。音ばかりで見えない花火に違いなかったが、どういうわけか、私の目には、確かにその美しい色と形が見えたのである。


※この小説は、実話を元にしたフィクションです。

  
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◇評論 

無我表現という言語ゲーム 
高橋ヒロヤス

【ウィトゲンシュタインという人】

ウィトゲンシュタインという哲学者の名前を聞いたことのある人は多いだろうが、彼がどんな人生を歩んだかについて知っている人は少ないかもしれない。

富裕なユダヤ人家族の子としてウイーンに生まれた。芸術的才能に恵まれた血筋の中で、本人は機械いじりが好きで、工業高校に通う。一時はヒトラーと同級生だったらしい。第一次世界大戦には兵士として積極的に危険な任務に志願した。イギリスで哲学者バートランド・ラッセルと出会い、論理学と哲学に目覚める。その後も、小学校の教師をやったり、建築に携わったり、単なる哲学者のカテゴリーには収まらないユニークな人物である。彼の人生について語るだけでも何冊もの本が書けるほどである。

ウィトゲンシュタインについては、「語りえぬものについては沈黙すべきだ」という命題が有名だ。これは彼の前半生に書いた『論理哲学論考』の結論である。彼はこれを書き上げた後、哲学が言うべきことはもうないとして、哲学を離れていろいろな仕事に挑戦している。哲学を考えるのではなく、哲学を生きる時代に入ったわけだ。

しかし、その後、再びある考えに思い至り、コミュニケーション行為に重点を置いて自らの哲学の再構築に挑むが、結局、これは完成することはなく、この世を去ったといわれている。

後期のウィトゲンシュタインが提示した「言語ゲーム」という考え方は、それまでの哲学の系譜とは異質な、おそろしく斬新な視点を含んでいた。

哲学者の池田晶子氏はそれをこのように表現している。

「たとえば、<神が『光あれ』と言うと世界が生まれた>という記述について、哲学者たちは、神とは何か、世界とは何か、なぜ神はそう言ったのか、神と世界の関係は何か、『光あれ』という言葉の意味は何か、光とは何を象徴するのか、などについて考えてきた。しかし、ウィトゲンシュタインの発想は完全にぶっ飛んでいる。彼はこう問うのだ。
――神はなぜ『光あれ』と言う代わりに、背中を掻かなかったのか?」
(池田晶子著「考える人―口伝(オラクル)西洋哲学史」より要旨引用)

いずれにせよ特異な哲学者であったことは間違いない。ウィトゲンシュタインは、新たな哲学の学説を考案したり思想を打ち立てたりすることにはまったく興味がなかった。彼が目指したのは、従来の哲学者や哲学を志す者たちが陥っていた「哲学的困惑」から人々を解放することだった。その意味で、彼の哲学は「治癒的哲学」とも言われる。

【ウィトゲンシュタインの言ったこと】

(ウィキペディアより引用はじめ)

後期ウィトゲンシュタインの最もラディカルな特徴は「メタ哲学」である。プラトン以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的であった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは喝破したのである。

(引用おわり)

これは、言葉の背後には意味があり、その意味を解き明かすことが哲学の役割であるという考え方にとって、コペルニクス的転換である。

彼は、非常に緻密で分かりにくい言い方ではあるが、これまでの哲学者たちに対して、「君たちの哲学的営みなるものはまったくのナンセンスにすぎない」と言っているのだ。

彼は、言葉の意味というのは、それが具体的に用いられる場面や行為を離れては存在しないと言う。

(ウィキペディアより引用はじめ)

言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。分かりやすい例をあげるならば、道端で人から「いま何時ですか?」と聞かれても答えに戸惑うことはないだろう。しかし、その人が続けて「じゃあ、時間とは何ですか?」と尋ねてきた場合には話が別である。ここで肝要な点は、「時間とは何か」という問いは(伝統的な形而上学のコンテクストにおいてはたえず問われてきたものの)事実上答えをもたない――なぜなら言語が思考の可能性を決定するものだと見なされているから――ということである。したがって厳密にいうとそれは問題たりえていない(少なくとも哲学者がかかずらうべきほどの問題ではない)とウィトゲンシュタインはいう。

ウィトゲンシュタインの新しい哲学的方法論には、形而上学的な真実追究のために忘れ去られた言語の慣用法について読者に想起させることが必要だった。一般には、言語は単独ではなんら問題なく機能するということが要点である(これに関しては哲学者による訂正を必要としない)。このように、哲学者によって議論されてきた"大文字の問題"は、彼らが言語および言語と現実との関係について誤った観点にもとづいて仕事をしていたためにもたらされたのだということを彼は証明しようと試みた。歴代の西洋哲学者は人々から信じられてきたほど「賢い」わけではないのだ、彼らは本来用いられるべきコンテクストを離れて言語を用いたために言語の混乱に陥りやすかっただけなのだと。したがってウィトゲンシュタインにとって哲学者の本務は「ハエ取り壺からハエを導き出す」ようなものであった。すなわち、哲学者たちが自らを苦しめてきた問題は結局のところ「問題」ではなく、「休暇を取った言語」の例にすぎないと示してみせることである。哲学者は哲学的命題を扱う職人であるよりはむしろ苦悩や混乱を解決するセラピストのようであるべきなのだ。

(引用おわり)

ウィトゲンシュタインは、哲学のための哲学や、議論のための議論を好むタイプではまったくなかった。というよりも、無用な哲学(哲学という名の下に行われる果てしない空論)を終わらせることに心を砕いたといってよい。

私から見れば、彼は魂の救済を求め続け、その方法を世に示そうとした求道者以外の何者でもない。

【言語ゲーム】

いったん哲学を放棄したウィトゲンシュタインが辿りついた「言語ゲーム」とは何なのか。
言語ゲームについての解説書からしばらく引用する。

(橋爪大三郎著「はじめての言語ゲーム」より引用始め)

言語ゲームとは、一言でいえば、「ある規則に従った人々の振る舞い」のことである。

「言葉はなぜ、意味をもつのか。
言葉はなぜ、世界のなかの事物を指し示すことができるのか。
それは、言葉が、言語ゲームのなかで、ルールによって事物と結びつけられているからである。
そのことは、どうやって保証されるか。
そのことが、それ以上、保証されることはない。人びとがルールを理解し、ルールに従ってふるまっていること。強いていえば、それだけが保証である。」

「「机」という言葉を使う、言語ゲームがあります。(中略)
 誰か(Aさんとする)が、机はなにか、わかっているとする。
 あなたが、机がなにか、わからなかったとする。
 そこでAさんは、いろんな机を順番にもってくる。これも机。これも机。どの机も、ちょっとずつ違っている。形が違う。脚の数が違う。大きさが違う。色が違う。材料が違う。……。でも全体として、どこか似ている。(これを「家族的類似」という。どっかの家族みたいに、なんとなく互いに似ているのだ。)それを順番に見ていくうちに、あなたはやがて、机がなにかを理解する。そして”わかった!”と叫ぶ。
 わかってしまえば、もうそれ以上、机を持ってきてもらう必要はない。
 なぜ、わかったのか。
 それはわからない。とにかくわかった。では、机とはなにか。説明できるとは限らない。定義できるとは限らない。(中略)
 有限個(ごく少数)をみるだけなのに、数えきれない場合にあてはまる規則(ルール)を理解する。こういう、なんとも不思議な能力によって、人間は言葉の意味を理解する。」

「ここで、社会を見渡してみよう。
 人びとは、言葉をしゃべっている。「机」も、そうした言葉のひとつ。言語は多くの言葉からなり、それぞれの言葉が意味をもっている。
 それ以外に、人びとはさまざまにふるまっている。畑をたがやす、食事をする、服を着る、子どもを育てる、葬式をする、……。それらにも、規則(ルール)がある。
 こうしたことが、みな、言語ゲームである。
 社会は、言語ゲームのうず巻きである。
 言語ゲームは、私たちが住むこの世界を成り立たせていることがらそのものである。」

(引用おわり)

私の理解では、言語ゲームとは、無我表現のことである。

つまり、解釈もなく、選択もない、つまり自我による分別、操作的な活動が一切なくとも為される行為、自我の動きに先だって行われる表現、あるいは生成する現象。あるがままの世界の動き一切が言語ゲームといえないか。

言語ゲームという場合、そこには人間の活動(言語活動)が念頭にある。もっとも、必ずしも言語を用いる必要はない。非言語的コミュニケーションも言語ゲームに含まれる。
しかし言語ゲームという言葉が当てはまるのはやはり人間活動に限られるだろう。川が流れたり風が吹いて木が倒れるような自然現象を言語ゲームと呼ぶことはできないだろう。(若干議論を先回りすると、それらの自然現象を見て「あはれ」を感じることは言語ゲームの範疇にはいるだろう)

解釈もなく、選択もない、分別もない。つまり行為に先立つ意思というようなものはない。正確にいえば、意思は行為と離れては存在しない。それがあるように思うのは、「自我(分離した自己、エゴ)」が実在しないのに実在すると誤解していることと同じだ。

言語ゲームは、集合的無意識の働きでもなければ、仏教でいう無明とも違う。これも言葉の言い換えをすれば、「真如」とでもいうべきものだろう。

このような読み方が正しいのかどうかわからないが、ウィトゲンシュタインの仕事(彼が目指したもの)は、自我―すなわち自我に根差す思考・概念の無化作用という気がしてならない。

【確実性の問題】

ウィトゲンシュタインが死ぬぎりぎりまで取り組んだもう一つのテーマが、「確実性の問題」である。

(ウィキペディアより引用はじめ)

確実性の問題(英:On Certainty、独:Über Gewißheit)はルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが死の直前に書いた覚え書きから編纂された哲学書。いくつかの覚え書きは本書の編者であるエリザベス・アンスコムの自宅にあったものである。

本書で取り扱われているのは概して認識論的な問題で、主題は、人が活動することが可能であるために(つまり「疑うこと」も実際に能くするために)疑われることを免除されていなければならないものが存在するということである。本書は端緒としてジョージ・エドワード・ムーアの「ここに手がある」の問題を取り上げ、知識において知っている主張の場所を考察する。

もう一つの重要な点は、全ての疑いはその根底にある信念にはめ込まれており、もっとも根本的な形式の疑いは、それ自体を表現する体系が矛盾をきたすために拒絶されるというヴィトゲンシュタインの主張である。ヴィトゲンシュタインは様々な形式の哲学的懐疑主義に対する新たな論駁を与えた。本書は彼が没する前の二年間に書いた覚え書きから編纂され、没後1969年に発表された。

(引用おわり)

これは、前回紹介した『オカルト』の著者でジャーナリスト森達也氏が繰り返し問うている疑問、「オカルト現象や心霊現象をなぜ疑いの余地なく証明できないのか」ということへの回答にもつながると思う。

まだまだ私の理解不足で、生煮えの感想しか述べることができない。
もうしばらくウィトゲンシュタインにハマってみたいと思っている。


参考文献
「青色本」ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン(大森荘蔵訳、ちくま学芸文庫)
「はじめての言語ゲーム」橋爪大三郎(講談社現代新書)
「ウィトゲンシュタイン入門」永井均(ちくま新書)
「口伝(オラクル)西洋哲学史」池田 晶子(中公文庫)

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◇エッセイ

あっちゃん卒業に思う

高橋ヒロヤス

平成24年8月24日から3日間連続で行われた東京ドーム公演の翌日、前田敦子の最後の劇場公演がyoutubeで生中継されていたので、最初から最後まで通しで観た。

A6thの「目撃者」公演だったが、生で見ているわけではないのに、テレビや大型舞台でのコンサートとは違う臨場感が伝わってきた。

特に『命の意味』や『I'm crying』のような歌をやっているときの前田はじめメンバーの表情がすごくよかった。テレビ中継されたいつもの(すっかり食傷気味の)ヒットメドレーではなく、あの『命の意味』と『I'm crying』を全国放送した方がずっとAKBの魅力的な姿を伝えられたのにと思う。特に中高生に見てほしい。AKBなんて、と馬鹿にしているクールな中高生ほど、見ればガツンと来るんじゃないだろうか。

『目撃者』公演のセットリストが終わると、選抜メンバーが出て来て、テレビ向けパフォーマンスが始まった。正直あっちゃんは疲れていた。ドームで三日間連続公演の後にこれだけのことをしてよく倒れないでいられるものだと思う。

その後、選抜メンバーひとりひとりから前田への「贈る言葉」のコーナーになった。

一人の女の子のために捧げられた、この演出過多で冗長な時間が、すべてCM抜きで全国放送で生中継されたというのは異常なことだと思う。

しかし、「24時間テレビ」などとは違って、この空間には何かつくりものでない、地上の人間の思惑を超えたなにか神聖で真実なものが充溢していたため、このような異常事態が許されている気がした。

そこで誰が語っているかは問題ではなかった。語られていること(ありがとうとか頑張ってとか服をくださいとか)も問題ではなかった。

それはAKBという「言語ゲーム」に日本人全体、否世界全体が(好むと好まざるとに関わらず)参入した瞬間であった。

そして、前田敦子の卒業で、何かが終わった。

何が始まるのかは、これから明らかになるだろう。


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◇セラピー                      9月9日 稲敷市にて

ウルトラリンパ講座 番外編

参加者
菊=菊地クミユキ(ウルトラリンパ開発者)
那=那智タケシ(ライター)
加=加藤女史(ウルトラリンパ講座受講者)
奥=菊池氏の奥様

※9月9日、急遽、リンパ講座のメンバーと二人で菊池氏のご自宅にお邪魔して、施術とレクチャーを受けました(定例の講座は5、6人で場所を借りてやっています)。約8時間ほど様々な話をしたのですが、途中で「この話、面白いな」と気づいたので少しだけテープを回しました。アルコールも入っている中での話しなので、ぶっとんだところもありますが、菊池氏の人柄や雰囲気が出ていると感じているので、リンパ講座の番外編としてご紹介します。

●ものごとは口だけじゃなくて、できないとだめ

 菊 霊の切り方を能の鼓を打つ話で気づいたのね。能の鼓がどうしても打てない人が、インディアンのところに行って、気づいた。普段は、ヨーッポンといく。でも、ほんとはヨーではなく、ウォー。ウー、というのは神主さんが地鎮祭りで地を収めるためにウーしか言わない。コヨーテが月の夜にウォーと鳴く。霊を切るというのは、昔から能でやっていた。ウォー、ポン。
 那 よくわからないですね。能というのは霊を鎮める儀式だと聞きますけどね。
 菊 戦に行く前に、能のウォーッポンっで霊を切っていく。ウーっていうのは霊を収める。ウォーっていうのは心を休める。不安を休める。これで霊を切れる。リンパをやっても、それをきちっと覚えないと受けちゃう。でも、これは最後じゃないと教えない。リンパをできたやつにだけそれを教えようかな、と。
 (しばし、心霊談義になる)。
 菊 そういえばね、知り合いの蕎麦屋のお姉さんが、宇宙人と交信できるイギリスの有名人の通訳をやっているんだって。今度来たらその人、おれと会わせてくださいよ、と頼んだ。おれが何を考えているかわかる?
 那 会って? 本物かどうかって?
 菊 そう。
 那 見極める?
 菊 見極める必要もないよ、やれって言うんだよ。ここでやってくれる?それをって。
 那 会ったんですか?
 菊 まだ会ってない。会うチャンスはあったけど。でも、絵を見せてもらったけど、うさんくさいなと思った。ものごとは口だけじゃなくて、できないとだめだよね?
 加 できる方じゃないから…
 菊 そういうことじゃなくてさ。
 那 今、尖閣諸島の問題とか、日本、やばいですよね。
 菊 でも、日本って今、弱すぎるよね。おれはカナダいて、毎日オリンピックやっていたようなもんだよ。日本を背負って。おまえ何人だ?からはじまるんだから。商売は競り合い、競争じゃん。勝たないと商売なりたたないんだよ。山に連れていかれる。熊もいるからみんなライフルを持っている。山に行けば殺されちゃうよね。簡単に。毎日オリンピックやっていた。今回のことだって本当はどってことないこと。
 加 世界が違いすぎてすごいなぁって。
 菊 実際やってることだから。
 奥 毎日がオリンピックって面白いわね。
 加 こういう人もいるんだなって。

●勘がすべてを左右する

 菊 おれの人生でさ、自分の感情を抑えたことはない。でも、五体満足で生きているよ。
 でも、那智くんはさ、繰り返すけど、カナダに一ヶ月くらい行った方がいいよ。すごいインディアンを紹介するからさ。きみはあと経験だけ。全然違うよ。一ヶ月いたら三ヶ月いたくなるよ。
 那 最近、なんか行き当たりばったりじゃないけど、出会った人の縁とかで、こっち行った方がいいかな、とかあまり考えてないんですよ。菊池さんと会ったりして、話したりして、そういう道もあるな、とか。
 菊 だから、それはおれは一つの情報だから。
 那 人生が左に行けと言っているから行こうかな、とかそれくらい。前よりも素直に感じるようになった。あまり考える必要もないなっていうか、考えてない(笑)
 菊 だからおれ、直感だよって言ってんじゃん。勘。これがすべてを左右する。人間の歴史がね、四千年あるか何万年あるかわからないけれど、その先祖のデータがすべて収縮して自分の中に入ってきている。それが大事な時に勘としてぴっと教えてくれる。それに素直にしたがって行動できるか、もっと違う風に考えるか、その差だけなんだよ。おれは全部とストレートに先祖が教えてくれる勘に従ってきた。それで今のおれがある。
 加 今までそのデータ活用してこなかったな、私。
 菊 活用しないともったいないじゃん。だってすべてそのデータというのは、自分の先祖が全部あなたのために用意してくれているんだから、逆のことをやったら全部ブレーキになっちゃう。そういう人生を送っている人は多い。
 加 ブレーキかかっているんですか?
 菊 かかってる。
 加 ええ?(笑)
 菊 かかってるんじゃなくて自分でかけてる。
 加 自分でかけてるんだ。
 那 でも、こういうところにきて、ブレーキ取れてきてるんじゃない?
 菊 だから、全然違うじゃん。二人とも、施術受ける前と顔が違うよ(那智は徹マン、加藤女史は冷房病で顔色が悪かった)。人生ノリだからさ。
 加 しばらくノリノリでいけますかね?
 菊 いけるいける。

●自分が元気になれば、人を元気にさせようとまで思う必要はない

 菊 カナダでヒノキの輸出をやっていたんだけどさ、ヒノキは手を当てるとあったかくなってくる。物質でマイナスイオンが一番出る。だから寺や神社でヒノキを使う。ヒノキの中にいると健康になって元気になってくる。ヒノキの中にいるから。それが一つ。拍手も体にいい。神社の中には何もない。
 加 鏡しかないですもんね。
 菊 神社ですごいところは、どれだけそばに良い木が立っているか。
 那 山のエネルギーってあるんじゃないですか?
 菊 木のエネルギー。あとは、良い岩があるとそこから出るエネルギーもある。
 粉々に砕いた石が入った袋を取り出す。
 菊 入ってみたら温泉以上の石がある。北海道に上ノ国町という所がある。そこでしか取れない石。何で地球上にこんな物質があるんだろう?っていうエネルギーのある石。それをサウナが使って岩盤浴にしている。それをおれが細かくしろって言って粉にさせた。ある粉と混ぜて風呂に入れて入ると、温泉なんてもんじゃないくらい体があたたまる。ぶわーっとあっという間に。ぬるいお湯でも。
 加 私、ずっとシャワーなんですけど、だめなんですかね?
 菊 風呂に入ってお湯を飲む。それをしないとだめ。だから、今度会うまでずっとそれをやって。風呂に入ってお湯を飲む。今、それをあげるから。健康じゃないとだめだよ、基本は。
 アッサムグリーン?という白い石の粉に、シリカという黒い石の粉を入れて混ぜている。
 那 シリカって何ですか?
 菊 石の名前。ブラックシリカ。白い石の粉は酸素を発生する。体をきれいにする。菌を殺す。ミルクの風呂に入っているみたい。
 加 いいじゃないですか? 温泉感覚みたい。
 菊 泡は全部酸素なの。その中にブラックシリカがあるから。物質というのは細かければ細かいほど効率がよくエネルギーが伝わる。一個の石をぽんと入れるより細かくした方がいい。
 このアッサムというのはおれが名づけたのね。アッサムというのは、英語でgoodの最上級。すばらしい。
 加 少し知恵があるだけで、自分で作ってできちゃう。
 菊 おれが発明したんじゃないよ。人間関係、すべて。スプーン二杯ね。水も腐らない。風呂もきれいになる。
 加 女王様気分で入ります。
 奥 しゅわーって出るんですよ、その時入らないとね。
 加 今日は来て良かったです。元気になれそう。
 菊 元気になるのが一番だから。
 加 元気になると人にも元気を分けられますからね。
 菊 まず自分が元気になってね。分けようなんて思わないでね。
 加 自分が元気にならないと人を不幸にさせるから。
 菊 そこまで考える必要はない(笑)自分が元気になれば。人を元気にさせようなんて思う必要もないよ。
 那 今日はありがとうございました。

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◇対談                       7月22日 西荻窪にて

根元共鳴×無我表現 2  

「変身願望を直視する」     たまちゃん×那智タケシ

                 た・・・たまちゃん 根元共鳴体験をした主婦
                           スピリチュアルアーチスト
                (ブログ「たまちゃんSOUZOU学科」)
                 那・・・那智タケシ ライター 無我研代表

●般若心経は生命の賛美歌

 那 根元共鳴についてもう少し聞かせてください。
た あまり人に言わないんですけど、何かおかしなことを言ったらごめんなさいね。
 那 ええ…
た いろんな感情、あるじゃないですか。振動がある。根元って人間の感情の振動を欲しがっている。刺激として。それで1に近づく感じ。感情の揺れが。それが実体を作っている。いろんなところで感情が揺れるじゃないですか。
 那 揺れますね。
た 一番残念なのは感情が揺れないこと。根元にとって。無関心でいることが一番、何にもならないっていうのがわかった。何となく。何を思ってもいいんだよねって。関心を持つこと。いろんなことに。それで、こんにゃろーと思ったり、安心したり、様々な感情、私が揺れることで他の人も揺れる。みんなこう、揺れる。一人が揺れれば他の人も揺れる。一人が気づけば、隣人も同じように…
 那 共鳴する。
た そういうことです。なるほど、と思って。ずっと般若心経を読んできて、意味はわからない。私もばかだし、漢字もよくわからない。最後のギャーティ、ギャーティ、ハラギャーティというやつも意味がわからない。それは解説がないっていう。根元共鳴で風船が一つになったのがずっと頭にあった。あれは何だったのだろう?って。その時に、あれが生命の賛美歌じゃないけど、やったれ、やったれ、みたいな。感情を震わしていこうぜ、みたいな。やったれ、やったれ、と。そういう風に捉えられた。ああ、そうだったんだ、と。般若心経って生命の賛美歌だったんだ、もっと感情を震わせていこうぜ、というそういうものだったんだ、と認識したんですね。
 那 うん。
た 他の人ならもうちょっと違う言い方になるかもしれないけれど、何と言うのかな、そんな風に感じましたね。
 那 この世界の意味とは何かという話になっちゃう。人間がなぜ存在するのか、みたいなね。みんなが言っているようなことで、あまり言いたくないけれど、人間がこの世界の色即是空じゃないけれど、人間が空なるものを色にしている。その色なるものが感情の揺れとか、世界の広がりを表現するための人間。色即是空の色の部分。
 ぼくはどっちかと言うと、翻訳を読んだ時に、一人の人間の感情や意志、肉体等はすべて幻想であると書いてあるのを見てもう読む必要はないと感じた。まったく同じように感じていたからです。我はない。自分を構成しているものは条件付けられた集積物。日本人、こういう性格で、こういう血液型で、こういう大学を出ていて。でも、それは一つ一つ見てゆくと自分ではない。だから空。空は何もないかというとそこには強烈なエネルギーの世界があって。でも目に見えないエネルギーだけでは世界は存在しないから、そのエネルギーを具現化すると今度、一人ひとりの人間の感情の揺れとか、そういう豊穣な世界が現れ出る。
 問題は、ぼくの場合は、揺れの世界の中にあって、いかに落とせるかという。どっちかっていうと、揺れに耐えられるタイプじゃなかった。例えば、恋愛とか、失恋すると。すると一年くらい立ち直れなかった。
た (笑)
 那 ドラマは見ている分には楽しい。泣いたり、笑ったり。
 た うん。
 那 でも、自分が物語の渦中にいると、変な言い方だけど、感受性が強すぎて耐えられなかったんです。物語を書く側にはなりたいけど、自分が主人公になっちゃだめだ、と思って。
 仏教って間逆なんですよね。生病老死。ヒューマンドラマに捕らわれないで、それをいかに落としていくか。釈迦や道元はある意味、耐えられる人ではなかった。ある意味、軟弱で弱かった。
 た うん。
 那 たくましく、荒波の中で生き抜ける人は、宗教的にならないし、それはそれですばらしい。強い人。でも、弱い人は、こんな苦しみだらけの世の中で耐えられない、みなさんも耐えられないでしょう、と。その耐えられない世界から抜け出すためにはどうすればいいか、と考えに考えて、修行して。その苦しみは自分じゃないんじゃないか、と。私のものじゃなんいだ、と気づいて脱することができましたと。私じゃないんだから、私の苦しみはありません、と。というのが仏教であり、心身脱落だったり。それはすごいわかるというか。
 た うん。
 那 ひ弱だもんね。強い人は、いるでしょ強い人? たくましい生命力のある人はそっちにいかない。それを楽しんでいる。それはどちらの立場でもいいと思う。タイプによるから。重要なのは、自己中心性を超えたものがあるかどうかであって。つまり無我的な行為、実在感のあるなしだと思うんですよね。方法論、つまり無我に至るプロセスを過剰に重要視する人がいるけれど、本当に重要なのは無我の顕現そのもので、宗派とか、修行法じゃない。だから仏教の宗派同士で喧嘩したりしている。そんなのどうでもいい。本当にそれがわかったら、どうでもよくなるはずなんだけど。
 ただ、一切空というか。ぼくはそっちの方。感情というのは絶対なくならない。仕事で失敗したら落ち込むとか、褒められたらうれしい、とか。ただ、それは自分ではない、という風に感じる。単なる世界のひずみというか。それは「ここ」にあるだけ。それは味わったら落として浄化してしまう。そういう流れができている時は良い時。
 た うん。
 那 例えば良いことがあって喜んだら、喜びがずっと「ここ」にある時は良くない。例えば、ぼくがこの間ゴーストで書いた本が売れました、即日増刷です、と。おれはできるな、みたいな。うれしいですよね。でも、ずっとその喜びといつまでも一体化していたらろくでもない。それはおれじゃないんだから、と。一瞬、喜んだら終わり。その後、問題起きました、と。だめじゃん、と。でも、それに捕らわれていたらやっはりろくでもない。それも終わり。悟りとかね、絶対がある、と。でも、それに捕らわれていたら終わらだめで、それも捨てる。

●不幸を知らないから幸福もわからない

 那 娘さんが三人いるということですが、お子さんにそっち系の話をしたりしますか?
た 私は絶対に言わないですね。思想と言論の自由だから。宗教になっちゃいますよね。それを言ったとたんに。逆に教わっているというか。探求目線で。私が教えることなんか何もない。
 那 人生はこういうもんだよ、なんて教えたら止まっちゃいますもんね。親を超えられない。
 た いや、面白いですよ。最近の若い子。今、中学生くらいの子が大人になった時にまた新しくなるじゃないですか。けっこうリアルですよ。中高生とか、震災があったりして、リアルな子が多い。
 那 妙に冷めてたりね。偽善を偽善とわかっているような子が多い。
た うん。
 那 その分、モデルがないというか、人間なんてこんなもんでしょ、社会なんてこんなもんでしょ、と、そういうなんか、興ざめしているような。
た たぶん、今の子たちって不幸を知らないんですよ。不幸って何なのかわからない。ということは、同じく幸せもわからないんですよ。だから、幸せになろうというのか薄れている?
 那 かもしれない。
 た この間読んだ本でね、「貧困の国の中の幸福な若者たち」っていう。二十六歳くらいの哲学者みたいな人が書いた本があって、幸福度は若者になるにつれ高い。一番幸福じゃないのが五十代とか。六十代とか。何か面白いな、と思いながら。
 那 かっこいいシルバーエイジってなかなか会えないですよね。たまたま何人か知っているけれど、それは日本の社会の枠内にいない人。
た うん。
 那 リンパのK氏とか、鳩レースの世界で日本一になっている人とか。その日本一になった人は、鳩一本で生きてきて、四十年間、鳩より早く朝飯を食べたことがない。それで彼女二十人いたり。破天荒だけど魅力的。枠内にいない人。この社会はだめ。魅力がない。
 アウトサイダー的な人と気が合うんですよ。アウトサイダーでアグレッシブな感じ? 一番苦手な人は常識人なんです。
 た (笑)
 那 ゴーストの仕事をする時も、苦手なタイプってありますか?って聞かれることがある。ないけど、唯一だめなのが常識人ですって。もちろん、悪い意味での常識人ね。親ばかでPTAの会長の息子自慢の本とか。最悪。笑えない。格好いい人が少なくなったな、って。
 た 保守的な人は苦手なんです。自分の意見を言わない。そのうち、飲んでいるうちにおまえは何を言いたいんだって(笑)
 那 まぁ、日本人はそういうところがあるけれど。
 た フランス人に好かれてたんですよ。哲学が好きだから。日本人はひいちゃうから。
 那 日本人は傷つきやすいから、あまり言うとね。ぼくもいろいろ失敗しているので、最近はあまりいろいろ言わなくなってしまいました。悟り系、とかね。ハードルを下げて広めようとしたけれど。難しい。

●権力の連鎖を切る

 那 人を集めて、自己啓発セミナーとか、宗教みたいにやるのが一番楽ですよね。楽なやり方。段階とかね、次はこの講座で、とか。高額になっていく。批判的な人は実はたくさんいるけれど、言わないだけだと思う。おかしいもん。面倒くさいだけでね。
 た だから、なぜそういうところに行くのかっていう、そこがポイント。自分の中の権力を見つける。
 那 動機ですよね。
 た なぜそうしたいのか、と。あの人はすばらしいな、とか。その連鎖を切っていく。
 那 根っこの根っこの部分ね。
 た そう。ずっと上下関係の中にある。あの人、素敵だな、というのも要注意。一見、ポジティブと言われているものに対しても注意深く気づいてゆく。権力と不安は同じだから。
 那 権力の連鎖。
 た うん。
 那 スピリチュアル業界でも、何でそういうものを自分が求めているか、と。一つひとつつぶしていくというか、直視していく。それはすごいわかる。基礎的なワークになる。
 た 変身願望を削りながら、純真な探究心まで落とし込んでゆく。成瀬さんの瞑想なんかを私は参考にしているのだけれど、ヴィパッサナーに近いような。そこまでいかないと瞑想も危険ですよ、と。変身願望ありありで、らりぱっぱの覚醒体験なんかすると、おかしくなる。
 那 パウダー化というのはつまり、ごつごつした変身願望とか、権力構造を粉々にしていく?
 た そう、粉々にする。細かく。不安とか、こう、不安、いらいらしている、みたいな。考えて、自分の中の権力を見つけ出しながら、純粋に五感を磨いてゆく。
 那 ある種のセミナーなんかでは、みんな変身願望で人を集めて、最高の体験をしたとか、体験談を語らせていたりする。そうなりたいというお前は何者か?ということですよね。ちっぽけな自我でしょ、と。それが巧妙になくならないようにできている。だから、彼らが見つけたと思っているものは、リアルではなく与えられた観念なんです。それは彼らの表現しているものを見れば一目瞭然なんだけど。
 た 外に向かうのは答えが最初からある。でも、内に向かう探求は、ばんと爆発する。
 那 最初からそういう瞑想をしていたんですか?
 た 最初は違います。ほんとに不思議で、瞑想とかばかみたい、とか、やっている自分が恥ずかしいとか、くすくす笑って寝ちゃったりしていたんですね。でもある日、なんかこう、感確を磨くようにして、集中してやる、というのをやった。
 山歩きしていて、いろんな音がする、とか。例えば、白い箱の中に自分がいて、そこで聞く。より繊細に聞かないと聞こえないじゃない? それが瞑想の繊細な感覚を磨く、強化する。そういう風にもっていきました。そしたら自分の感情の揺れとかもすごく、体に現れてきて、血流とか不安とか、揺れとか感じるようになった。感覚過敏になってきているんだ、と。そういうような位置づけです。それが日常になっちゃうんですよね。わざわざじっとして座っていなくても、歩いていても何しても。それまで、訓練するまでは修行する。テクニックですよね。
 那 最初はそうですね。
 た チャクラとパウダーという風に人間の感覚を分けて認識しているんですけど。チャクラというのは、五感とか、体感覚。パウダーというのは意識を細かくしていく。繊細に見つめていく。だいたいこのバランスが悪いと人はなんかおかしい。うちの旦那はチャクラ系。これは霊性系と真理系と言い換えてもいいと思うんですけど、霊性が高い人は現実的な王道を行くような人。何の疑問もなくいける人。こういう人は、ものを目の前からちゃんと見る能力には長けている。実は、私は正面からはあんまり見ていない。横からとか、後ろからとか、いろんな角度からは見てる。うちの旦那は私といろんなことがあって、お互いの見方で足りないところをお互いに気づいたりした。バランスが大事だな、と。
 これ(パウダー系)は人生の中で、恋愛結婚、妊娠、ありとあらゆる感情を経験して、自分を知っていく。こっち(チャクラ系)は人生のありとあらゆる食べ物だったり、スポーツだったり趣味だったり、をする中で五感を磨いてゆく。私がやっているプチ修行というのは、この両輪を早くする。短期間で回していこう、と。一ヶ月、一週間で集中してやる。日記を書いたり。滝行したり、面白いですよ。そうすることで自分の感情に一刻も早く気がつくことができる。するとストレスにならない。溜め込んじゃうと、いらいらしたり、知らないところでズレが出てきちゃう。
 那 自分の感情の揺れを見つめることで、パイプ詰まりがなくなる。
 た うん。どう思ってもいいんです。むかっとしても。なんだこいつ、と思っても。それに気がついていることが大事っていう雰囲気なんですよね。みんなそれ、あまりやらないんですよね。正直に見ないというか。
 那 詰まりやすい世の中なのにね。
 た 表現もしづらい。
 那 出口がないもん。価値観としての出口が。普通に生きていて、いらいらして、どの方向にいけば解消するかといったら、買い物したり、サラリーマンならぐちったりその程度。積極的な価値観がないから生き方としての出口がない。昔だったら武士道とか、わびさびとか、自我を超えた価値観があって、そっちの方向で修行していけばいいんだ、というモデルがあった。武士でも坊さんでも。かっこいい人。でも、今はそういう人はなかなかいない。人口比率からいったら、圧倒的に絶滅状態。だから出口がないから、安易なスピリチュアルが流行ったりする。伝統的なものが切れてしまったから。出口として、地に足がついた方法論が必要な時代に来ているとは思います。

(次号につづく)

               
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★編集後記
 先日、ファミレスで仕事をしていると、背後で女子高生たちが何やら夢中で話しこんでいました。何かと思いきや、「竹島が・・・尖閣諸島が・・・おかしくない?」と何時間も話しているのです。
 尖閣諸島や竹島の問題が連日、ニュースで取り上げられています。元々、あの島々に問題などないのかもしれませんが、問題にしているのは人間です。反日デモをしている人々の顔を見ていると、改めて悪しきナショナリズムとその超克の可能性について考えさせられる今日この頃です。(那智)

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