芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第13号

2012/08/15

MUGA 第13号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇アート

・詩

『季節の詩』     rita

・短編小説

「例外者たちの宴1」 鎮魂歌 
那智タケシ


◇評論
・書評
『スプーン』(森達也著、飛鳥新社、2001年3月)
『オカルト』(森達也著、角川書店、2012年4月)
                                      高橋ヒロヤス

・現代女優試論           
 沢尻エリカ 綾瀬はるか 満島ひかり

◇対談

根元共鳴×無我表現 1  

「1未満であることの大切さ」    たまちゃん×那智タケシ

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◇アート

★詩
季節の詩     rita 

  【・草いきれ・】 

熱射に狂うモンスター 
耳骨に響く彼らの猛りに 
ぼくはうろたえた 

大波ドドーッとストップモーション 
頭上までうねる生命力に 
ぼくは溺れそう 

容赦ない日に射られても 
生殺しの風になぶられても 
厚かましい排気にむせんでも 
何度人間に刈り取られても 

それほどに何が望みか 
草いきれ 

もっと成長したくて空を目指すよ 
地中は深く信念の根をめぐらして 
あらゆる苦しみを踏み越える 

無垢な息づかいは 
無邪気なツルの先 
いつも新しい予感を探しているんだ 

ぼくは炎天によろめいた 
お家への帰り道 
真昼のこと 


  【・くちなし・】 

くちなしの香りは
どんなふうに訪れるの?
感嘆するまで時間がかかるの

差し当たり身を隠しておいて
挨拶はないままで

ゆりかごに眠る赤子は揺れてるよ
鼓動と同じリズムで
子供の頃の情景を思い出すよ
それは舌に転がるキャンディーと同じ甘さ

くちなしの香りはそうやって
ぼくの体と抱擁してた

そのあいだぼくの頭は置いてきぼり

感覚は滑走路の上にようやく離陸して
ついに大空へ飛び立つよ

それは今しがた
愛の証しをたてた二人の行く方のよう

夢の受諾によって
お互いのぬくもりは一部になり
全部になり一つになったの

とたんに時は幸せを
体の底に埋没させて忘却を目論むんだ

まるでくちなしの香りが
目をつむって微睡んでしまうみたい

うろたえてさすらって 
希求して再び感嘆をする

潤沢な癒しは
そうしてぼくの全てに塗布された

くちなしの香りよ幸せよ
さまよえる愛に絆を確信させる
神の塗り薬よ


  【・夏が来て・】 

まるで喜びの衣装とカーニバルのマスクを
それは緑の繁りゆく姿なの

山は肩を組んでまわっているよ
愉快な舞踏は川を伝い野を走り
この体へ繋がろうとしてる

雲は慌ただしく転がって
空は手の届くところまで
大きく膨らんだ

負けないよ足は着かないよ
ここは石けりの途中なの

たしかに放たれた季節を
跳ね回ろうよ遊ぼうよ

少年より望む行く手まで
昼下がりに憶えた未来へ
信じる軌跡に呼吸を重ねてみたら

石を蹴ろうよ君の順番だよ

 
  【・鬼百合・】 

物見遊山に入道雲は
山の背後やらビルの狭間から
わが街を眺めては行き過ぎる

このアバンギャルドな夏のかたまりを
うっかり近づいたら火傷しそうな
この花の生きている姿を
見たことあるかな

ギラつく太陽が蒔いた焔
黒い斑点に反り返る真朱の唇
まるで溽暑に笑いがこみ上げているよう

魅せられて
その舌先に心拍をかき乱されないよう
しっかりぼくは心臓を握りしめているよ

視線をそらしても
もう影はこんなに伸びてるのに
風は吹き抜けてるはずなのに
妖気に吸い寄せられてしまうのは

めくるめく喜びは罪作り
花弁のめくれ上がるほど待ちわびて
命を尽くして咲き続ける
女の執念を見ているのかな

この暑さが後に実りをもたらすなら
肩から腰を丸め上げ 

負ぶうているものに天より受胎した
愛のぬくもりを見ているのかな

 

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・短編小説

 例外者たちの宴1                 那智タケシ

  鎮魂歌

 土曜の夜は最悪だった。いや、正確には日曜の朝というべきか。フリー雀荘で帰るタイミングを逃し、明け方まで打ち続けた私は、そこそこの成績を上げていた。その日は午後から人と会う予定があった。当然、始発で帰って仮眠を取り、万全の状態で出かけるのがベストだった。しかし、ナチュラルハイというのは怖いものである。「まだいける」と思い込み、勝ち分をすべて吐き出して卓割れした時には、朝の8時を回っていた。
 虚しい気分になるにはなったが、止め時失敗は仕方ない。今から帰ればまだ3時間は寝ることができる。疲労で朦朧とした頭を抱え、雀荘を出て駅へ向かった。 
 西船橋の駅で武蔵野線に乗り込む。4つ先の駅まで10分。待つこともなく出発だ。と、隣の船橋法典駅で人身事故が起きたとのアナウンス。
「武蔵野線は上下線で運転を見合わせております」
 ちょっと待てよ。寝る時間がなくなるじゃないか。家は目と鼻の先だというのに、ついてないったらありやしない。しかし、人身事故ということは、人が死んだということか。その可能性はあるにはあるだろう。一つの絶望が身を投げ出し、消えることを願ったのだ。身もだえするような苦しみから逃れることを。少しばかり生々しい気もしたが、とにかく早く家に帰りたかった。今から雀荘に戻っても、客の一人もいやしない。
 総武線で津田沼まで行き、新京成線に乗り換えて4,50分の遠回りで帰ることに決めた。久々に降りた津田沼駅では、新京成の駅の場所がわからなくて、掃除のおばさんに道順を聞いた。小雨が振る中、次から次へと駅へ流れ込んでくる朝の人ごみに逆行しながら、足取りもおぼろに見慣れぬ町を歩いた。
 ようやく家にたどり着いたものの、仮眠はわずか1時間しか取れなかった。
 ああ、始発の時間に止めていれば、金も損しなかったし、たっぷりと寝る時間もあったのに、などと思っても後の祭り。結局、欲得で動くとろくなことにならない。流れを一度失うと、何をやってもちぐはぐなものだ。とにもかくにも、顔を洗ったら、ビタミン剤でも飲んで出かけるとするか。
 午後12時半、武蔵野線は動いていた。新八柱駅から電車に乗り込み、西船橋経由で西荻窪に向かう。雀荘から帰るのと逆の道のりだ。1時間半の道程だが、乗り換えは1回。総武線で1時間ばかり寝ることもできるだろう。そんな計算が頭にあった。
 一つだけ空いていた狭いスペースの座席に座り、目を閉じる。すると、ひとつの奇妙な叫び声が聞こえてきた。
「武蔵野線! 東西線! 総武線! 西船橋!」
 路線名と駅名を連呼しながら、異様なアクセントと節回しで歌うように叫び続ける。見ると、窓際に立って外の風景を見ている、30半ばくらいの痩せた男だった。ある種の知的障害者のこうした歌声は、世俗の人間の精神を不安にざわめかせる効果を持つ。しかし、誰一人として男の方を見なかったし、異様な歌の存在など認めてもいないように振舞っていた。彼らはこの男も、この歌も自分たちの世界から抹殺することで、精神の安定を得ていたのである。
 電車は今、船橋法典駅に差し掛かろうとしていた。今朝、人身事故があった駅。おそらく、この車両の中で、自分だけがその事実を知っていた。数時間前に、この列車の下で、線路の上で、一つの命が失われたことを。誰にも認められない生が、死の中に救いを求めたことを。
 すると、どこからともなく悲しみの念がやってきて、それは車両の中に入り込み、人々に理解を求めているように感じた。しかし、人々は目を閉じ、あるいは携帯やアイフォンに視線を集中していて、誰一人その感情に気づく者はいなかった。彼らは、この世界の住人ではなく、自分の小さな世界のみを実在と認めている孤独で、いびつな精神を持つ穴居人のように見えた。
 船橋法典駅に到着した。行き場のない悲しみが濃厚に充満し、救いを求めて我々の上に覆いかぶさってきた。
 瞬間、一つの歌声が高らかに響いた。
「武蔵野線! 東西線! 総武線! 西船橋!」
 前よりも強く、前よりも確かに、前よりも祈るように。
 ああ、ほとんど叫ぶように!
 彼だけは何を感じていた。今、ここにある哀訴の念を感じ取り、それらを払いのけるように、あるいは受け入れるように、昇華するように、自分なりの表現で、全身全霊の不器用な愛をもって、彼なりの鎮魂歌を歌い続けていたのであった。
「武蔵野線! 東西線! 総武線! 西船橋!」
 瞬間、世界はあまねく輝きに満ちわたり、ふと見上げると、天使の群れが、光の中に宿っていて、彼らはそのレクイエムに唱和するように、小さなラッパを吹いていた。
 天使は、実在した。
 しかし、天使の姿は、決して人に見られることはない。そのことがようやく理解できる気がした。
                                      
  
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◇評論 

書評:
『スプーン』(森達也著、飛鳥新社、2001年3月)
『オカルト』(森達也著、角川書店、2012年4月)
                                                          高橋ヒロヤス
                                                           
いまや日本を代表するドキュメンタリー映像作家の一人といってよいだろう、森達也氏の新刊『オカルト』を読んだ。(以下敬称略)

森達也は、彼の代表作でありライフワークともなった、オウム真理教を題材する一連のドキュメンタリー(『A』、『A2』、『A3』)に象徴されるように、一般的なメディアが「タブー」とする領域に平気な顔で踏み込んでいくことをモットーにする、わが国のジャーナリズムにおける希少な存在である。

そんな彼の関心領域の一つに、いわゆる「超常現象」や「オカルト」がある。彼はそうした分野をテーマに『職業欄はエスパー』というドキュメンタリー作品を1997年に制作し、フジテレビの深夜に放送された。実際にはこの作品の成立までには5,6年の期間を要している。その間の顛末について書かれた『スプーン』という本がある。同書が発売された当時に私が読んだ感想を以下に貼り付けておく。

(以下貼り付け)

オウム真理教を内部から見つめたドキュメンタリー『A』という映画の監督である森達也が、今度は「超能力者」というテーマに取り組んだルポタージュを発表した。

彼のことだから、通り一遍の取り上げ方をするはずもない。タイトルの副題を見れば分かるとおり、超能力者の能力そのものよりも、「超能力者」という特殊な職業(?)を選択した人々の日常生活や、彼らと世間(とりわけメディア)との関わりにまつわるさまざまな悩み、プライベートでの煩悶、葛藤に焦点を当てている。文章の日付など追って行くと、『A』の制作と同時進行で取材していたことが分かり、森の視点と行動力に改めて感心させられた。
 
このルポタージュが追っているのは主に三人の「超能力者」だ。
 
秋山眞人。日本の「超能力業界」のフィクサー的存在で、この手の話題を扱ったテレビの論争番組に肯定派の代表として頻繁に出演している。
 
清田益章。20年ほど前、「驚異のエスパー少年」としてメディアを席巻したが、あるテレビ番組でトリックを使ったことが暴露され、いかさま師のレッテルを貼られたまま不遇の時期を過ごす。最近では、テレビ出演は原則的に断りながらも、再びセミナーや講演などさまざまな仕事を引き受けている。
 
堤裕司。日本ダウジング協会会長。水晶や振り子を用いて予知、鉱脈の発見や霊現象の測定などを行う「ダウジング」の研究家として、しばしばマスコミにも登場する。
 
森は当初、この三人を中心にしたドキュメンタリー番組を企画して、フジテレビに持ち込むのだが、超能力反対派の大槻教授の出演問題や、清田がテレビカメラの前でスプーン曲げを行うことを拒絶したことなどから、頓挫してしまう。また、1995年には超能力の獲得を喧伝したオウム真理教の事件が起こり、メディアは精神世界関連の話題に対して完全にネガティブな態度を取るようになる。
 
1997年に再び接触が始まる。三人の協力もあって、ドキュメンタリーは完成。1998年にフジテレビ深夜NON-FIXの枠で放映される。
 
森がもっとも興味を持っていたのは、超能力反対派の代表的人物、大槻教授に、一人の物理学研究者としての本音を聞き出すことだった。八年間タイミングを測り続け、秋山の紹介で声をかけたものの、取材依頼はあっさりと拒絶される。
 
当初、森達也は、三人の「超能力者」に対して、共感を寄せつつも完全には信頼しきれないという、『A』で見せたのと同じ態度をもって接近し始める。三人とも、背景や動機は各様でありながらも、「超能力」の実在を確信し、それを自らの職業(あるいは使命)として選んだ点で共通している。
 
「あなたは信じるのか、信じないのか?」

超能力をテーマにしたとき、必ず出るのがこの問いである。

森達也自身も、カメラ片手に三人の超能力者を追いかけながら、しばしばこの問いの前で立ちすくむ。
 
信じる、信じない、どちらを答えたところで、そこには何か零れ落ちるものがある。否定しきれない事実を前にしながらも、超能力の実在を信じることにためらいを持ち続ける森がただ一つ信頼できたのは、彼ら超能力者たちの持つ本質的な誠実さだった。
 
森達也の関心は、超能力の真偽ということよりも、超能力という特殊なもの、もっとはっきり言えば「超能力」という「タブー」に対する、メディアひいてはわれわれ自身の偏見や自主規制のメカニズムにあるのだと思う。『A』や『放送禁止歌』などの他の作品でも、われわれがいつのまにか常識とみなしているものがいかにまやかし、幻想、偏見に基づいているかが暴露されている。
 
ユリ・ゲラー以来、否、百年前の高橋貞子以来えんえんと続けられている不毛な超能力論争に関しては、森達也の記述を読んでいくかぎり、超能力者と(アカデミズム、メディアを含む)世間とのどちらに理があるかは明白なように思われる。
 
肯定派であれ否定派であれ、いわゆる超能力や精神世界に多少なりとも関心のある方には、是非御一読をお勧めする。(2001.3.29)

(貼り付け終わり)

『スプーン』はその後文庫本になり、角川文庫から『職業欄はエスパー』という題名で発売されている。

『スプーン』から10年余りが経過し、たまたま深夜テレビ番組で森達也が同じテーマに取り組んだ本が発売になったのを知って、久しぶりに『スプーン』を読み返した後で、『オカルト』を購入して読んだ。この10年ほどの間に森達也がどんな活動をしていたか、どんな発言をしてきたかは折につけなんとなく知っていたが、彼の書物をきちんと読んだのは、『A』や『スプーン』を読んで以来のことになる。

結論からいえば、拍子抜けしてしまった。

『スプーン』では、秋山眞人や清田益章といった「超能力者」に対し、森達也独自の視点から、がっぷり四つの対決を挑んでいるという印象があり、読んでいて惹きつけられるものがあった(これらの超能力者について私自身がどう考えているかはとりあえず置いておく)。

これに対し、『オカルト』は、恐山のイタコや心霊スポットを巡るといった興味本位の話題が多く、対象に対するアプローチに深みがない。私自身の最大の関心事だった清田益章については、冒頭に少し登場するだけで、彼の「その後の人生」についての記述がほとんどないことも物足りなかった。

清田は2006年に大麻所持で逮捕され、実刑判決を受けている。今はメディアとは距離を置き、「おのり」(祈りと踊りを融合したアート)という活動に取り組んでいる。『スプーン』の頃の森達也なら、こうした清田の激動の人生に寄り添い、独自の視点から彼の活動を切り取って見せたことだろう。

しかし本書では、森達也の真骨頂である「取材対象の内部のいちばん深いところまで潜りこんで当事者と腹を割って話す」という方法論がまるで見られず、さまざまな取材対象(日本心霊科学協会の会長や、第二の江原啓之といわれる女性スピリチュアル・カウンセラー、政界のフィクサー的な占い師など)と対面した模様について表面的な報告が見られるだけだ。

挙句の果ては、今話題のメンタリスト、Daigoの「メンタルマジック」を体験して、「人間観を根底から揺さぶられた」などと書いてしまう始末。

『オカルト』を一読して私が持ったのは、森達也という「表現者」の何かが変質してしまったのではないか、というやや深刻な印象だった。

もちろん、この2冊については、書かれた経緯やモチベーションなどを含め、執筆環境の違いを無視することはできない。『スプーン』は、ドキュメンタリー制作者である著者が、タブーに近い題材に切り込む作品の企画をテレビ局に売り込み、局の担当者の冷徹な批判に晒されながら、一方で取材対象である超能力者にも妥協しないアプローチを見せる姿がリアルに描かれていた。何よりも、テレビ局と交渉して予算を獲得し、ときに自腹で取材費を負担したことの告白を含む、具体的な金銭を巡る記述が生々しかった。

これに対して、『オカルト』は、角川の雑誌に連載した記事をまとめたものであり、取材費(旅費や宿泊費含め)はすべて角川が負担していることに加え、専門の担当スタッフまでつけてもらっている、いわばおいしい仕事である。取材対象に関しては、この人でなければならないという必然性もなく、逆に言えば断られることのリスクもない。むしろ『スプーン』で名を売った著者に対しては、Daigoのように取材対象の方から擦り寄ってくる。

こうした条件や状況の違いが、書物の文体や内容に影響をもたらすことは避けられないだろう。

その一方で、超能力をテーマにしたときに必ず出る「あなたは信じるのか、信じないのか?」という問いの前で立ちすくむ、という森達也の姿勢は、10年以上前から一歩も変化していない。つまり後退もしていなければ前進もしていない。10年前には誠実な姿勢と映ったその態度が、本作ではむしろ「逃げの姿勢」に見えてしまうのは私だけだろうか。

もしかしたら、私は彼に対してやや辛辣になりすぎているかもしれない。

しかし、取材対象に誠実に向き合うことを通して自分自身に誠実に向き合うことを作品化し、それをライフワークとしてきた森達也という表現者に対して、私が抱いていた期待値があまりにも高すぎたため、こんな書き方になってしまったことをお許し願いたい。逆にいえば、森達也という表現者(ドキュメンタリー作家)には、少なくとも『オカルト』で扱った分野については、もっと素晴らしい仕事ができるはずだという思いがある。

ついでに書くと、今回の記事を機会に、最近の森達也について少しネットで調べてみたら、彼が監督した映画『311』が話題になっているようだが、今のところ見る気がないのでコメントは控えることにする。


現代女優試論                        高橋ヒロヤス

メルマガの読者からリクエストがあったので、以下に何人かの女優について少しコメントしてみることにする。
きちんと作品などを見ていない人もいるので、「試論」と称するにも値しない、単なる印象批評に過ぎないが、かえって知らない方がその人の本質を見れる場合もあるかもしれない。
【沢尻エリカ】
 久々の復活作『ヘルタースケルター』で公私ともに話題の彼女だが、もともとは井筒和幸監督の『パッチギ!』での演技が評価のきっかけであり、実力派である。例の「別に…」発言で芸能界を干される前から、個人的には注目していたし、好きな女優の一人であった。母親がフランス人で、兄のうち一人を事故で亡くしている。その言動から性格的に破天荒なイメージがあるが、女優としては生真面目すぎるくらいのところがあり、それが良くも悪くも彼女の実人生に影響している。
 彼女は、あれこれ考えて役作りするのではなく、演じる役の人格全体を自分自身に憑依させるタイプの演じ方をするという印象がある。女優というのは多かれ少なかれそういうものだと思うが、特にその傾向が強いということだ。『ヘルタースケルター』のような作品をやってしまうと、本人の実生活や精神状態そのものに破綻をきたす危険があるから、これからはあまり極端な作品には出ない方がいいと思う。
 次は世間が彼女に対して持つイメージをいい意味で裏切ってほしいと思っている。思い切り清純な役とか。井筒監督の作品と相性がいいような気がするのだが。

【綾瀬はるか】
 正直彼女についてはほとんど知らない。主演作品は見たことがないし、テレビでもちゃんと喋っているのを見たことがない。だから完全な印象のみになる。
素顔はいわゆる“天然キャラ”ということらしいが、意外にも生真面目という点で沢尻エリカに通じる部分があるように思う。クセのある役はできない代わりに、沢尻とは逆に、何を演じても役を「綾瀬はるか」に吸収してしまうようなタイプではないか。
 奇を衒わない真っ直ぐな役が似合うと思うので、古典的な名作、著名な文学作品などの映画化に主演するのを見てみたい気がする。『二十四の瞳』とか川端康成の作品とか。

【満島ひかり】
 彼女については個人ブログでも多くの記事を書いた。『愛のむきだし』という園子温監督の大長編ムービーの主演女優としての輝きにやられたのが最初。その後も『川の底からこんにちは』という作品で魅力的な演技を見せ、話題作『悪人』で世間的にも高い評価を得る。『それでも、生きていく』というフジテレビのドラマでも瑛太と並び主役を演じた。
 元アイドルグループ出身で端正な顔立ちに似合わずエキセントリックな演技ができる若手女優としてその評価も定着した感がある。私も一時彼女の虜になった時期があるが、正直言って、『愛のむきだし』を超える作品にはまだ出会っていない。彼女のポテンシャルを引き出したのは園子温監督の手腕だと思うので、もう一度彼の作品に出ればもう一皮剥けるのではないか。

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◇対談                       7月22日 西荻窪にて

根元共鳴×無我表現 1  

「1未満であることの大切さ」    たまちゃん×那智タケシ

                 た・・・たまちゃん 根元共鳴体験をした主婦
                           スピリチュアルアーチスト
                 那・・・那智タケシ ライター 無我研代表

●自分の不満を埋めてくれるものとしての「完璧」

 那 ブログはいつからやられているんですか?
 た ブログは、なんだかんだで4、5年くらい前から
 那 ああいう系統(「たまちゃんSOUZOU学科」)のものは?
 た 今回が初めてです。今回の前に、探求中の生々しい日記みたいなのをやっていたんですよ。お化け怖いとか。そんな風にどんどん探求していったらどんどんどんどん変わってきたんですね。
 那 お化けが怖い、ということは霊感?
 た そう、いると信じてましたし、滝行とかやっていて乗り移られたらどうしよう、なんて思いながら、右も左もわからず、一生懸命やっていたんですよね。それである日、そんなのはどうでもよくなっていって、探求、どんどん内に向かうようになっていって、それを結局、覚醒というか何と言うのかな、根元共鳴と言っちゃうんですけど、そういのがあって、その後に書き出した文章を見ていた友達が、クリシュナムルティに詳しい人で、言っていることが同じになってきて怖いというか、鳥肌が立ったぞ、たまちゃん、と言って、そうなんだ、と。それで読んだりして。こんな人がいたなんて知らなかった、と思って。
 那 体験先にありきで、後から・・・
 た そうなの。後から本とか読んだりとか。
 那 実践があって後付で知識を得た。それでそっち系の情報をもっと他のも見てみようとして今のスピ系業界を見たら、なんだこれは?と(笑)
 た そうなの(笑) なんなんだこれは、と。私も根元共鳴ってある意味、死んだ、と思ったくらい、つらくて。最後痛くて。傷口に塩を塗る最強バージョンみたいな。今はわくわくふわふわ光輝いて、とか。おかしいな、私のしてきたことは間違いだったのかな、とか。ほとんど至福の体験。
 那 甘口ね。
 た 私がおかしいのかな、とか。
 那 ぼくもね、そういう世界は知らなかった。勝手にやっていて、勝手に書いて、さて、いざ去年の三月に本を出して、同じようなことを言っている人もいるだろう、と期待して検索とかするじゃないですか。最初は同じことを言っているような人もいる気がした。でも、何かが違う。つぎはぎだから。でも、すぐにはここが違うとは言えなかった。でも、よく読むと自我が肯定されるようになっている。これは百パーセント何も変わらないな、とわかっちゃったから。
 た たぶん、覚醒体験みたいな時に、自己探求ではなくて、自らいった感じではなくね、アクシデント的な体験の人が至福の体験とか。自分の欠けているところを埋めてくれる? 完全とか完璧とか好きで。自分の不満を埋めてくれるものだったり。私なんかは全然そんな風に思えないんだけど。
 那 グルメと同じ。プラスアルファ。人生を豊かにするものとして悟りなり、至福の体験なりよくわからないけれども、カルチャーセンターに行くのりと同じで言っているだけであって。それに答えるような物言いをする人もいるけれど、そういうのじゃないじゃないですか? だからそれに飽き足らない人や、おかしいと思う人がぼくのところに連絡してきてくれたりする。そういうつもりでやっているわけではないのに、自分はこういう立ち位置になるのか、と。
 た 新しい新興宗教の形として、ネットを通して人が集まっているのかもしれませんね。ほとんどの人が現実生活が上手くいっていない。仕事だったり家庭生活だったり。そういう人が救いを求めている。
 那 現実世界で自己実現できないから、逃げ道としてね。でも、これを言っちゃうと面倒くさいでしょ? 何かありました? ブログで反応とか。
 た ありましたよ。でも、徹底的にコメント返ししていたら、みんな怖くなっちゃったみたいで(笑)

●みんな「リアル」を求めている

 那 でも、孤独ですよね。意外と理解してくれる人いないなってびっくりしている。楽な方にみんな流れるから。でも、たまちゃんのブログを見て、まともなラインでものを言っている人がいてくれてほっとしたな、とか。
 た シャウト系(笑)ああいう反逆記事でも完全に自分に反逆しているんですよね、書きながら。黙っていられないというか。
 那 探求って、若い時はどうだったんですか?
 た 若い時は、肉体と感情は、小学校一年生くらいから違和感があった。
 那 アウトサイダー。
 た そう、どうしてこんなにみんなにこにこしていられるんだ、とか。不思議だな、とか。なんで人って生きてるのかな、とか。とっても忙しかったです。子供の頃の方が。頭がよく動く。だから勉強とか全然できなくて、ずっと空を見てもんもんと考えてたり。
 那 そういう人は、自ずと探求せざるを得なくなる。だってその疑問が解けない限りは、幸福というかね、いくら仕事で成功して、あったか家庭持っても、だめでしょ?
 た そう、だめなんです。一人立ちできないんです。自分できちんと、立っている状態にならないと。
 那 つまり、この世界を信じている人と信じていない人がいる。最初から信じている人はそれだけでロスがないから、一見ハッピーに見えるし、深みはわからないけれど。若い頃はうらやましく見えてね。疑問なく試験受けて大学行ってる人が。そういうアウトサイダーっているんですよね。最初からこの世界を信じている人にとってはその疑問はわからない。
 た 中学校とか、十代半ばくらいに、光に包まれるとか、完璧とか、そういう体験はしているんですよ。今のスピ系の論理展開になってしまうような。自分に力が湧いてくる、みたいな。そんなのは、あるんですよ。でも、そういうのに執着しなかった。
 那 ぼくはアルピニスト、登山家の本を読むのが好きなんです。壮絶な体験の末に、ものすごい神秘体験をしていたりする。生きるか死ぬかですから。神々しいくらいの描写。彼らも光り輝いている。ところが山から降りると普通の人になってしまう。彼らもそれをわかっている。だからその瞬間を求めてまた山に行く。一回の体験を悟りだなんだとは言わない。
 た そうそう。私の知り合いにすごい有名な霊能者についていた人がいる。宜保さんの後くらいにブレイクした人。その人がどうもおかしいと思い始めた時に、私と会って。
 那 本物っぽい人?
 た 微妙。お金もものすごく取るし。
 那 そのお弟子さんに対してなんて言ったんです?
 た 自然に縁を切ったみたい。お金の問題とかで。でも、ブログのグルッポの仲間が6、7人くらいいるんですけど、みんなすごいいろんなことしてきて、びっくりしちゃうくらい。お金を払って、いろいろとね。
 那 遍歴が?
 た そう。
 那 みんなリアルを求めている。麻原に求心力があったのは彼にはリアルがあるように感じられたからでしょ? 宗教学者の中沢新一でさえ騙されちゃうくらいの。リアルが多少はあった。みんなリアルが足りなくて、リアルに弱い。知識じゃリアルに適わないから。逆に言うと、それだけ何もない時代というか。そういうのを感じちゃいますね。
 た 仲間によく言うんですよ。なんでそういう所に行ったのか、その根源を、絶対あるから探し出してって。なんで興味が出たのか。絶対そこに自分の権力があるはずなんですよね。こうなりたいとか。
 那 動機とか、その根っこにあるものの方がリアルですからね。自分のエゴの本質というか。外にあるものではない。未知ではなく、既知。ここ(胸)にあるもやもやを直視して、理解するという。ここを解決しないと、ふわーっとした至福がお金を払えばもらえるとか、そこに行けるという、その発想自体が逃避というか。
 た お手軽。傷つかなくてすむんですよね、自分がね。
 那 たまちゃんのブログの中で自分の中の権力を見る、とかそういうところにすごく共感できたんです。でも、みんな見たくない。伝統的な方法の中には、それを見るやり方や近づく方法も残っていると思うんですが、今は正しく教えられる人はなかなかいないし、グル探しなんて時代じゃない。山門をくぐってもまともな人はほとんど残っていない。だったら自分でダイレクトに見る時代になっているんじゃないかって。日常生活の中で。俗な世界の方がものすごい修行の場になる。
 だって、ぼくが一番勉強になるのは麻雀打っている時ですからね。嫌なやつもいるし、ずるいことしてくるのもいるし、たまに威圧するやつもいる。いろんなことがある中で、おれは今、こういう状態だ、と。常に気づきながら落としてクリアにして、戦う。静かに座禅するより大きな気づきがある。
 た うん。
 那 溜めないように落としていって、瞬間、瞬間、正しい行為が求められる。それを十時間、二十時間ぶっ続けでやる。すると全体的な流れが見えてきて、没我的になって全体を感じる状態になる時がある。それは観念ではなくて、ごまかしが利かないリアルなエネルギーがある。結果として証明される。ふわーっと至福とか言っていたって、感じられないし、行為できない。もっとシステマティックなリアルがある。だめな時には感じられないですけどね。

●「宇宙の根源って私だったんだよ」

 那 根元共鳴について、どんな感じのものなのか教えてください。
 た 一週間寝込んじゃったんですけど、頭が重すぎて。例えばディズニーランドで風船売りの人がいるじゃないですか? 百個くらいの風船を持っている。ああいう風に、人は一個ずつの問題を思考している気がするんですね。それが、その時にボンと破裂して、一個の風船の中に顔を入れているような状態になっちゃったんですよ。一個の風船になっちゃった。
 那 一個の風船は破裂してないんだ?
 た 小さいのが全部破裂して、一個の風船になって顔が入っちゃった(笑) それで、同じ思考回路で解決できるものだと気づいた。一つのもので。あれもこれもこうだったんだ、みたいな。その頭の組み換えに一週間くらいかかっちゃった。ぜーぜーはーはー、あれもこれもこうだったんだ、と。そしたら結局、一つの思考回路で全部シンプルになっちゃった。一気に。
 那 原理が。
 た そうですね。それで熱も出て、37.8Cとか。体感は8Cとか9Cくらい。
 那 脳細胞の構造が劇的に変わったんでしょうね。それである種の自己欺瞞とか、誤った考え方、自己逃避とか、そういう考え方が見えてしまった。
 た そうなんです。
 那 人間がなぜ、逃避するのか。なぜ迷うのか、悩むのかというのが、一つの原理によって見えてしまった。それは一つ一つの風船がなんでこういう形になっているのかとか、構造をずっと見てきた結果、爆発したという感じ?
 た たぶん、その中の一つを最後は、最初に爆発させたんだと思うんですよね。それが起こるちょっと前にね、ある人が私にきれいごとのスローガンみたいなことを言ったんですよ。その言葉に反論できなかった。否定できるものでもないんですよ、きれいなことだから。それがずっと自分の中でうずまいているんですよ。共鳴でそれを突破したようなことがあった。
 那 ある種の公案。解けない謎を突きつけられて、強引に解いてしまった。
 た その時は、本当にただ瞑想をしていたら、いきなりぐわんと来て、普通の畳の部屋だったんですけど、これはだめだ、心拍数がおかしいし、倒れるかもしれない、と。そのままベッドにはいつくばっていって、ばたって倒れたんですよ。その時にものすごい勢いで頭がぐるぐるして。そこから起き上がれなくて、うちの旦那に携帯で電話して、死ぬ、死ぬってうなりながら、「ちょっと聞いてくれる? 宇宙の根源って私だったんだよ、聞こえる?」って言った(笑)そしたら「何だ具合悪いのか?」って言って、帰って来てもらった。こっちは頭痛くて起き上がれなくて。そしたら旦那が帰って来て「ちょっと何やってるの?」って。私は死にそうな声で「宇宙の根源って私だったの」って。そしたらゲラゲラゲラゲラ笑って、「何だおまえ、早く寝ろ」って(笑)。でも、すごいびっくりしたんですよ。
 一週間後に、他に誰かこういう人がいるかもしれない、これはおかしいぞって思って。そしたら意外や意外、それっぽいことを言っている人もいるし、って感じだったんですよ。
 那智 旦那さんの反応が(笑)

●1未満であることの大切さ

 た 私、ゼロの構想というのが今あるんですけど、面白いんですよね、すごく。ゼロってものはこの世にない。ゼロってもの自体はなくて、一に向かう道筋はあるけれど、ゼロはないという。
 那 ゼロという記号はあるけれど、ものはない。
 た そう、ゼロと名づけているだけで。その根源的な意識というのは1になりたいという。何というんですかね?
 那 創造過程というか。
 た そうそう、進むって感じ?
 那 ある種、自然の原理。土と水と空気と太陽があって、それが花になる。ある種の全体性が、独自な形を、1なるものを生み出していく。この世界の原理としてそういうのがある。より大きな何ものかを1に集結させる力。それを人間は持っている。
 た そう、だから1未満であることが大事で、1になったら意味がなくなっちゃう。一瞬だったらいいけどね。爆発的に。その1未満であることを大事にしたいなって。
 那 なるほど。
 た 永遠なんだけれども。意識の中で一番強いのが探究心だと思うんだけれども。
 那 開かれてあるというかね、固定化しない。ただし、人に何かを見せるためには、1にする必要がある。私が見ているものはこういうものですよ、と伝えるために1にしていく。それは答えじゃないから。
 た だから、例えば芸術家がね、ゴッホのひまわりじゃないけれど、そのひまわりを持ってずっと歩いているようなのがスピリチュアル業界。これです、これです、これが答えです、みたいな(笑)何の芸術性もないっていう。
 那 芸術家というのは作ったら破壊して、次に進むのにね。ピカソにしてもなんにしても。真理の表現を固定化したりしない。なぜなら、真理は生きているもので、その固定化は本来、できないものだから。でも、みんな安心したいから固定化したものを好む。
 た そこがだから、真理を定義して看板を持って歩いているのを見ると、愚かものめ、と思ってしまう。おかしいですよね、ほんとに(笑)。頭痛いですよ。
 那 今、おっしゃったゼロの構想というのはある種、芸術の道に近いというか。創造と自己否定、破壊は表裏一体で、それは固定化した安定感がないから、厳しさが伴う作業をしている。ただ開かれてあるというのは、解放感というか、1という記号ばかりのものに囲まれて安心している日常生活の中で、1未満でいるというのはある種、ハッピーであるかもしれない。ぎすぎすしないでしょ? 
 た そうですね。

●ぶつかることもできない「ごっこ」な人々

 那 エゴというものについてどう思いますか? これだけエゴというか、自己中心性が蔓延した時代はかつてなかったのではないでしょうか? おまえ、それじゃだめだよ、間違ってるよという気持ちで何か書いたりしているところもあるんですが。自己中だな、というやつがうじゃうじゃいる環境にあったこともあって。こんなやつばかりじゃ日本終わりだな、とか。世界見渡してもこういうのが増えてたらやばい、とか。そういうやつに向かって書いていたり。だから非難がましいと言われる。でも、今、心地よいこと言ってちゃ、アウトでしょ。
 た (笑)
 那 大津のいじめの問題にしたって、親も教育者もだめで子供もそんな大人のコピーになってて、救いようがなくて、ぼくはワンポイント白にしちゃえば黒を白に変える可能性があるという希望を持っているんだけど。量というより質的転換。
 た 私は主婦として結構記事を書いているんですけど、まずお母さんになった人は、無我じゃないけど、無我夢中で育児をしてほしい。それが唯一、声を大にして言いたい。きれいとか、そんなどうでもいい。それができていないんだもん。きちんと子供に向き合わない。子供を通して人生の本質を探求したり、体験できるとても大事な時間をおろそかにしてはいけない。
 那 ぼくは独身だけど、それが大事なのはわかる。無我夢中ができていない。
 た できていないですね。自分が楽したいから。ほとんど自分のことしか考えてないんですよ。勉強させるにしてもまず自分ありきで。生々しく子供を見ていないんですよね。子供って超リアルで面白いんですよ。もったいないなぁと思いますね。
 那 自己中心的な親だと子供も似てしまう。
 た そうそう。
 那 この間、スーパーのトイレで、ズボンを脱いでお尻を出した小さな子供が、便器に触っちゃったか何かでお母さんにものすごい怒鳴られていて、自分の中のストレスや葛藤を弱い対象にぶつけていて、その子はきょとんとしていたけど、絶対その浴びたものが溜まっている。それが負の連鎖になるんじゃないかって。
 た その感じだとね、まだそのお母さんはいい方で、ひと目も気にせず怒れたり。
 那 そうなんだ?
 た 一番怖いのはにこにこタイプなんですよね。ほんとに子供ににこにこにこにこして、子供も「はーい、ママ」と良い子の振りをしていて、裏でうちの犬を蹴飛ばしている。家族ごっこになっているんですよ。子供もわかっている。家族ごっこをしているって。ひどいなこりゃと思いながら。
 那 ネットなんかの影響で記号人間というか、家族というのはこういうものだとそれを演じればいいという記号人間が増えているのかな。愛のかけらもないですよね、そうなると。1と1の間に溶けるものというか、つながる愛がないと人間ってどんどんいびつに病的にゆがんでいって、人間でなくなってしまう。鬼畜になってしまう。昔の日本は縁側で集まったりとか。
 た 隣のおじさんに怒られたりね。
 那 もっと昔でいえば禅仏教や神道に裏打ちされた日本的霊性のようなものもあったと思う。鈴木大拙じゃないけれど。それが1と1の間のもの、媒介がなくなって、どんどん枯渇してしまった。だから1と1でぶつかり合うどころか、家族ごっこの話を聞くと、1と1でかかわり合うことさえしないという。怖いですね。
 た 家族ごっこが多いですよ、最近は。争いごともできない人たちだから。

●本音を言い合って発信することが大事

 那 たまちゃんの所に来る人たちはどんな人たちですか?
 た 私のブログを見て、こんな厳しいことを言っている、と興味を持ってくれた人たち。いろんなことをやり尽くしてきた人たちだから、やっぱりそうだ、みたいな。
 那 みんな女性?
 た 男性も一人いるけど、遠いから。6、7人。今は楽しいですよ、すごい楽しい。昔の夕涼み会みたいに、親同士がぎゃーぎゃー言っている、あんな感じになって。みんな言いたいことをがんがん言って。ほんとおかしい(笑)。まったくそういうのをだめとしてみんな教えられてきた人たちですよね。自分をポジティブに書き換えましょうとか、相手を受け入れましょうとか、降参しましょう、とか。みんなそれで一生懸命がんばってきたんですよ。自分と違う意見の人も認めないと、とか。そんなのできるわけないじゃん、とか言って(笑)
 だから、自分はこうなんだとみんなで言い合いながら、自分を見ていこう、と。まずは発信することが大事。本音を言い合って。
 那 そういう場っていつくらいから始めたんですか?
 た それが2月か3月、ブログランキングをやってから。半年くらい。
 那 ちょうどいいくらいの人数じゃないですか? 二桁になっちゃうとたいへんでしょう? 最近、リンパの講座なんかで人に集まってもらっているんですが、6、7人くらいがちょうどいい感じする。
 た 今度、うちの集まりに来てくださいよ。
 那 ぜひ(笑)なんか、その激しいノリが怖いけど(笑)

(次号につづく)

               
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★編集後記
 今月はオリンピック真っ盛りで、ついつい夜更かしをしてしまいました。なでしこは相変わらず良いチームで、個人を超えたものが宿っていましたね。勝っても負けても良いものを誰もが感じ取ったのではないでしょうか。男子サッカーはおそらく勝っても負けても良くないものが残ったと思いますが、これは政治的メッセージうんぬんではなく、個人的にも国家的にもエゴ対エゴになってしまったからのような気がします。前者はライバル同士の「調和」の場がありましたが、後者は「衝突と破壊」しかありませんでした。
 7月にたまちゃんとお話した時の模様を掲載させてもらいましたが、これでもだいぶソフトにしています。おかげさまで刺激的な内容になったと思いますが、今後も様々な人との出会いと感じ合う「調和」の場を大切にしていければと思います。(那智)


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