芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第5号

2011/12/15

MUGA 第5号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

◆目次

◇アート

・詩
『例外者たちの詩』  那智タケシ

『季節の詩』     rita

◇自然科学

『潜態論入門』最終回 素粒子について   河野龍路

◇対話
「心身脱落体験」 那智タケシ×高橋ヒロヤス

◇評論

無我表現の爆発としてのビートルズ論  高橋ヒロヤス

◇エッセイ
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 
『雪は今も降り続いている』   長岡マチカ

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◇アート
★詩
例外者たちの詩     那智タケシ

★例外者たち

もしも極めて特殊な個人というものがあって

もう一人の極めて特殊な個人と出会い

極めて特殊な関係を作り

極めて特殊な世界を持ち

その特殊性ゆえに世界から忘れ去られ

誰の目にも止まることがないままに

誰一人知られることもなく

ブロック塀の裏側で

汚らしい四畳半の腐った畳の上で

その特殊性を突き詰めてゆくとする

するとその関係が

いつしかこの世界それ自体を覆してしまうような

強烈な

確かな

絶対的な真実の関係となっている

そんなことはあるかもしれないし、ないかもしれない

しかし重要なのは関係することであって

それは絶対的に特殊な、一回きりのものなのだ

そしてその絶対的に特殊であるということが

万人に当てはまる真理だとしたら

そこにもはや特殊という文字は存在せず

偉大な神々たちだけがいることになる

そんなことはありえるかもしれないし、ないかもしれない

だが、今のところそれは

例外者たちにしかありえないことで

例外者は例外者であるがゆえに

普遍になりえないのである

今のところは


★蜘蛛のダンス

人ならぬものたちが躍動する時刻

一人、とぼとぼと萎びた葱畑の側を歩いていると

奇妙なものを見た

日本家屋の二階にオレンジ色の光

薄っぺらいカーテンを透かして

蜘蛛のように手足を広げ、くねらせ

奇怪なダンスを踊っている者がいる

地主の息子か何かだろうか

それとも、閉じ込められたかわいそうな人か

誰にも見られぬその牢獄で

全身全霊の生命の表現を

地獄の淵からのレジスタンスを

カゲロウのように儚き、孤独な戦いを繰り広げていた

さぁ、安心するんだ

大丈夫、ちゃんと見ている者がいる

きみの祈りは受け止めた

きみの叫びは我が胸に届いた

どちらにしろ、丑三つ時に葱畑の側を徘徊する

名もなき行脚者

ふと天を見上げると

恐ろしいくらいに真っ白い満月が

銀色の光を遍く照射しながら

沈黙の中で我々を見つめていた



★優しい闇夜よ

冷たい街灯も、いやらしいネオンもない

誰も知らぬ、誰も通らぬ

真夜中の裏路地を盲者のように歩いていると

危うく、何ものかに躓きそうになった

見れば、闇の吹き溜まりの中に

一人の青年が丸くなって座っていた

蔦に絡まれた貧乏アパートの

汚らしい階段の前だった

どうやら、眠っているのではないらしい

フードを深く被っているものの

その目はしかと見開かれ

闇の向こうの虚空を見つめていた

彼は、どんな光景を見ているのだろうか?

優しい闇夜よ

願わくば青年の中の暗黒が

あなたのそれと溶け合って

天蓋の星まで届かんことを



★詩
季節の詩     rita 

   【・小菊・】 

冬が整うほど小さくなっていくお日さまは 
途中で道草くって 
小菊になったりするのかな 

日なたの中に日だまりがあるみたい 
そんなポカポカな場所が 
小菊にあるの 

お日さまの慈愛を 
色とりどりの面差しで歌ってる 
どこか耳慣れたハーモニー 

しっくりして 
腰を下ろすぼくの心 

半身浴しているみたいにじんわりと 
いつの間にか
幸せ気分になってるよ 


   【・夕暮・】 

カラスは翼に夜風を呼んで 
傾く影をさらさら滑る 

闇の種を家々の屋根に蒔いていた

そうして今宵のねぐらへ
いそいそと帰っていくよ 

つんのめるように 
仲間のもとへ急ぐ姿は
どのカラスも 
「置いてかないで」と
泣きべそかいているみたいだったの

西の空を猛スピードで
堕ちていく太陽
山の端にザクザクと削られて

愛惜を引きずれば 
光の膜が剥けてヒリヒリ
しばらくの間赤く腫れてるよ 

「心細くても覚悟しなさい」と
叱られているみたいだったの 

深い夜がなだれ込もうとしていた 

  

   【・枯葉・】 

僕の足元でパチパチ 
火の粉の遊ぶ音がするよ 

枯葉の上を歩いているの 

路肩に寄せて積もっている 
忘れたい記憶 
潰したい煩悩 
そんな心の吹き溜まり 

僕の歩いてきた道 

今はこんな風に 
おもしろおかしく 
この命を焚きつけて 
歩むことを楽しませてくれてるよ 


   【・銀杏・】 

銀杏は光のポッケなの? 
風がトントン叩くなら 
光がテラテラ溢れるよ 

おおかた銀杏は
光掻きで出来ているのさ

たくさん光を掻き集めて
それで金色に輝いていると思うんだ 

夜明けから日没まで仕事に勤しみ
疲れた光掻きはポタポタ落ちる

地べたで休んでいるのかと思ったら 
光溜まりの円陣組んで 
金色をペカペカ生んでいたよ 


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◇自然科学

潜態論入門 最終回           河野龍路

素現象

●素現象
 潜態とは現象を生む母体であることをここまで説明してきました。
 そこで、潜態から生まれる最も単純な現象とは何か、ということが次なる問題として浮かび上がります。通常の科学においては「素粒子論」と呼ばれており、自然界の現象を分析していってその最小の単位である存在は何かを問う物理学の分野です。翻って潜態論では、潜態から生じる最も単純な現象は何かというように発想が逆になります。つまり潜態論では、素粒子論は到達点ではなく出発点なのです。それは、自然界が常にそこから発生しているからにほかなりません。
 潜態から生まれる最も単純な現象を小田切は「素現象」と名付けました。
 素粒子と呼ばない理由は、それが潜態という本質から生まれる現象であって、粒子という物質的側面はその一面に過ぎないからです。

 結論から先に述べてしまうと、潜態から生まれる素現象とは
「収斂」「発散」「動移」「停滞」の四者です。
 この四者は以下の対立的な二組に分けて考えられます。
 収斂・発散
 動移・停滞(あるいは拒動)
 
 潜態と現象は別ものではないことはすでに述べました。
 潜態とは現象の裏面であり、現象とは潜態の表面です。つまり潜態とは現象の原因となっている母体です。したがって「素現象」の原因もそこに求められるはずです。
 潜態が非限定的、全体的なのに対し現象は、何らかの意味で限定的あるいは部分的になることにほかなりません。それを別の表現に換えると、ある「場所」に「収斂」する、という言い方ができます。宇宙に存在するものはすべて、ある「位置」に「集中的」になっていることからもそれは見て取れます。この収斂的素現象は、潜態論的記号で置き換えて理解することもできます。
 潜態には融重と自閉という、現象を生み出す性質が内包されています。
先ず、現象とはこの二面性に内包されるものですから、それは素現象の性質に関連していると考えられます。
・・・・|X>,<X|  |A>,<A|  |B>,<B|・・・・

           <A|A>
 上段の潜態が下段の現象として確認されるということは、潜態においてそのような作用が潜んでいることを意味します。無限定であった状態|A>,<A|がわたしたちの認識の対象となることで限定的な姿<A|A>になるということ。言い換えると、無限に広がっていた状態がある一点に「収斂」するということだといえます。すなわち潜態には特定の現象に「収斂」するという作用が素現象のひとつとして潜んでいると考えられるのです。
 それとともに現象の半開性によって完全に収斂という性質に閉じることはできませんから、それを否定する性質を付随させていなければなりません。それは収斂という現象に閉じさせない潜態の融重の作用であり、収斂の反対の「発散」ととらえることができます。するとこの「収斂」とは反対の方向性を持つ「発散」という作用も素現象のひとつとして認めなくてはなりません。
 この収斂的素現象はわたしたちが存在と呼んでいるものの基本的性質であることも理解できるかと思います。存在とは「そこ」に収斂する何ものかであるからです。「そこ」とはいわゆる「位置」のことですから、収斂とは「位置」的現象のことでもあります。わたしたちが認識上で確定する相対的な位置の原因となる性質だということです。
 ところで「収斂」「発散」が、存在あるいは位置的な性質にかかわる素現象だとすれば、その両者と対立する方向性があることに気づきます。それはいわゆる「動く」「止まる」という運動にかかわる性質です。この「動」「止」という対立した性質は、存在にまつわる「収斂」「発散」とは異なる性質ですから、やはり潜態にその原因を潜ませていなくてはなりません。したがって「動」「止」も素現象となります(止は潜態論では拒動あるいは停滞とも呼ばれます)。またそれらも収斂・発散のときと同じく、おのおのが自己を否定する反対の性質もわずかながら伴っていなくてはならないことも重要です。
 これらは詳しくは前回までの潜態論的記号法によって表示されなくてはなりませんが、いまかりに上記の素現象を以下のような潜態論的記号で略式表示しておきます。
 収斂 <X|X>
 発散 <O|O>
 動移 <V|V>
 停滞 <R|R>
 潜態とは、少なくともこれら四者の融重からなるものであることがいえます。
 これら素現象からすべての現象が誕生するということはすなわち、宇宙内のすべての現象に素現象の性質がまとわりついているということであり、大きく宇宙を見渡してみればその事実を納得できるはずです。
 これら四種以外に、他にはもう最単純な素現象はありえません。なぜなら、これら四種の性質に対立する軸が見当たらないからです。

●素現象の経験的検証
 以上は潜態論の理論による素現象の考察でしたが、素現象であることの観測的、経験的な証明も有力な手がかりとしてはずすことはできません。素現象がわたしたちの前にいかなる現象として姿を現すかということです。
 それについての小田切の洞察を示すと以下のようになります。
・収斂(位置的素現象) <X|X> → 光子
・発散(非位置財的素現象)<O|O> → 熱子
 ・動移 <V|V> → 動子(中性電子)
 ・拒動 <R|R> → 拒動子(中性陽子)

●収斂(位置的素現象)→ 光子
 この中で最もよく知られている現象は光子でしょう。
 多くの生物は、眠りについているとき以外は光をたよりに生活しています。たよりにしているのはもっぱら自分自身や周囲の「位置」の確認です。この光による位置の確認ということが、光子が収斂的素現象であることの大きな証拠となります。小田切は端的に次のように述べています。

「既に知る如く光粒子には質量もなく電荷も無いから、投射せられた粒子が受ける作用は最も小さく単純である筈であり、実験上に於いても又その通りである。即ち光子は被投射粒子の位置決定のための最適任者でなくてはならない。この事は反射散乱した光粒子は被投射粒子の位置決定に役立つ情報以外に何者も妨害的要素を齎(もたら)さないだろう事も意味する。更に換言すれば位置以外の情報を齎す資格を具有しないとも云えよう。 
処で衝突とは状態と状態の干渉であるから、衝突して不変のまま光子が反射した場合被
衝突体は光子と同一の状態で一応飽和していたと見なければならない。何故ならば若し然らざる場合には干渉が活発で吸収等の起る可能性が強いからである。
 この様な簡単な見解を通じても光子は位置在的状態即ち収斂性的個性の単独状態であろうことが推察せられ肯定せられる。」(科学解脱P86)
  
 また小田切は、光がその光源の一点をたどれることも収斂の作用のあらわれと述べています。逆に一点に集めることができることもまたその性質のなせるわざかもしれません。
 さて、光には収斂性とは裏腹に発散的性質を合わせ持っていることは注意を要します。光は発揚してやまない理由がどこにあるのか、とうことです。それは再三述べてきたように、現象の半開性により光子も自身に閉じきることがでず、その閉じきれない部分とは自身を否定する性質を現すはずで、収斂性の場合その反対は発散しかありません。したがって光は収斂性的な位置的な素現象であるにもかかわらず発散してやまないわけです。

●発散(非位置在的素現象) → 熱
 発散的素現象の単独現象化は熱です。
 熱が発散的に広がることは、わたしたちは太陽の恩恵や暖房でもって身をもって知っています。ただし光とは違ってその出所の一点はつきとめられません。
 熱とは何か? 今の物理学では熱とは何か、本当のところは何かまだよくわかっていないのではないかと思われるふしがあります。原子分子の不規則な熱運動であるという説明もあれば、そうではなく熱運動が伝わるエネルギーの流れである、あるいはフォトンという素粒子がその実体であるという報告もあります。熱を工業的に利用する熱力学はともかく、熱の本質についていまだ明確な科学的実体は明らかになっていないのではないでしょうか。
 しかし潜態論的には、この熱というのはつかみどころがない現象であるのが自然なことなのです。むしろこの合理的につかみどころのなさこそが熱が発散素現象の単独現象化であることを示唆していると考えられるのです。というのは、発散とは収斂とは逆に姿を消すことにほかならず、その正体はつかみがたいはずだからです。もし発散が完全に現象として閉じてしまったら、つまり観念的になってしまったら、それは「無」であることからもそのことが推察できます。

●動移、停滞
 この両者の単独現象は現在のところ実験的には見つかっていません。また見つかりにくいものであることを小田切は指摘しています。ただし、この両者は存在一般にまとわりつくある重要な性質を担うことになります。それは「質量」です。
 質量とは、物の動かしにくさの度合いのことです。したがって、「拒動」現象が主として質量の原因となることは明らかです。しかし「動移」もその反対の停滞の性質を引き連れているので、微量の質量の原因となります。ここから小田切はこの二者がもし実験的に発見された場合、次のような粒子となることを予測しています。
動移現象→中性電子
停滞現象→中性陽子
つまり動移的素現象は電子にほぼ等しい質量を有し電荷はない。停滞的素現象は陽子にほぼ等しい質量を有し電荷はない。
 では現在の素粒子物理学において発見されている多くの粒子が持つプラスマイナスの電荷の原因は何かというと、収斂および発散がそれに当たります。
・収斂+動移→電子
・発散+停滞→陽子
となるわけです。
 なぜ数多い素粒子の中で上記が電子、陽子であることがわかるかというと、それは電子と陽子が素粒子物理学でも安定粒子として扱われているからです。素現象の組み合わせからなる粒子は自然界全体の骨組みとなるものたちでなくてはなりませんから、安定であることがあらかじめ予想できるのです。もちろん、電子と陽子の質量比と陰陽両電荷も大きな証左になります。

●双調現象
 ただし、上記の+は潜態における融重を表し、現象上の結合とはまったく異なることが最も重要です。いったん出来上がった素現象による結合ではないということです。二組の素現象が融重してできる新たな現象を双調現象、双調粒子と呼びます。
 上記以外の送料粒子は次のものがあります。
・動移+停滞→中性子(電荷はなく質量がほぼ陽子と電子を加えたものに等しい)
・収斂+発散→中性微子(電荷はなく質量もなし)
・収斂+停滞→陰子(陰に帯電し質量が陽子にほぼ等しい、反陽子と呼ばれているもの)
・発散+動移→陽電子(陽に帯電し質量が電子にほぼ等しい)
合わせて双調粒子は全部で六種あることになり、すべて現在の物理学で存在が確認されています(陰子は小田切の命名)。

 素現象とは潜態から直接現象化しているものだと定義できます。例えば水素原子は、いったん現象化した電子と陽子が現象上で結合してできたもので、素現象ではありません。
 
 以上で「素現象」の説明を終え、潜態論の入門篇を閉じたいと思います。

●最後に
 小田切の潜態論は素粒子論のみならず、原子核理論、化学反応論、生命論、そして文明論と多岐にわたるものですが、理論の核心部の簡単な解説ということでわたしが表現できるのはここまでです。しかし潜態論の基礎論が理解できれば、おのずから人間論社会論にまで道は通じているところに潜態論の特色があります。どうかわたしの入門などのような観念的な理解を超えて、潜態論の核心を学ばれ独自な道を切り拓いていっていただければ幸いです。
 ここまでお読みいただいた読者の皆様に感謝いたします。

 残念ながら、現在小田切の著作は絶版となっておりますので、小田切の文章に触れるには古書で手に入れるか国会図書館等をご利用いただくなどの方法しかありません。将来的に潜態論への関心が高まった場合には、また何らかの情報提供手段を講じなくてはなりません。
 
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◇対話

◆対話 心身脱落体験  11月12日 虎ノ門 某事務所にて

那智タケシ×高橋ヒロヤス

 ●三十年間苦しんだ病が治る

 高 ところで、那智さんの肉体的な病気というのは、心身脱落の体験で解決しちゃったんですか?
 那 不思議なものですよね、消えたんですよ。ただ心身の状態が最悪の時は少しぶり返すこともあります。何か大きなストレスを受けていたり、ひどく疲れていたりね。ところが、それを受容すると消えるんですよ。三十年間苦しんできたものがほぼ一日で消えてしまったわけですから。こういうこともあるんだな、と思いましたよ。ただ、あんまり病治しとかの方にいってしまうと、宗教がかってしまうというか。
 高 でも、実際に起こったことなわけですからね。
 那 自分は子供の頃から重い鼻炎と蓄膿症で何十年も睡眠障害でいたんですよ。二十歳の頃、それで蓄膿症の手術をしたんですけど、昔の手術というのは大手術なんです。今なら治療技術が進んで切らなくてもいいんですが。それから数年は良くなったんですけど、こういうものはぶり返してしまう。ぼくの場合は鼻の奥の粘膜が腫れて呼吸が苦しくなった。それでスプレータイプの鼻炎薬に頼っていたんですが、効果はそれほど長くないので、眠っていても苦しくて起きてしまう。そんなこんなで十年ほどごまかしていた。ところが、なんともなくなってしまった。薬も全部捨ててしまいました。
 高 「心身脱落」と名づけたレポートは読みましたけど。
 那 手術の後遺症かどうかわからないんですが、数年に一回、ものすごい激痛がくるんです。顔が腫れて、救急病棟に夜中に二回、三回と駆け込んだことがある。一晩でですよ。痛み止めをいくら飲んでも激痛が治まらない。その後もバファリンを一日十錠くらい飲んでいたり。これは意味ないらしいんですが。それで、八月の末日くらいだったと思うんですけど、またその兆候が出た。鈍痛がきて、ああ、またかと思ってたんですが、もうこれは受け入れるしかないなって。マゾヒスティックに全部受け入れた。そうしたら痛みが痛みでなくなって、消えてしまった。翌朝、病もほとんどなくなっていた。こういう言い方は好きじゃないのですが、カルマが落ちたのかなと感じました。翌朝、自分の顔を見た人が、「なんかすっきりした顔してる」と言ったのですが、因縁がすとんと抜けたというか。
 高 わかる、わかる。
 那 そう、抜けてしまった。抜けたのがわかるんですよ。
 高 それは心理的にも?
 那 そう、心理的にも。精神の垢というのは、結局、悟りだ何だと言っても残っているわけですよ。自我と言う固形物が幻想だと知って、回りのものがひび割れて、はがれ落ちても、内容物は、オブラートの中にあるようにあるんです。いろんなものがある。また垢が溜まってくる。いっときは、なくなったと思っても。でも、その夜から抜け落ちるようになってしまった。

●滝のようにすべてが流れ落ちる

 高 肉体的苦痛と精神的な苦しみが同じっていう認識はあまり聞かないですね。
 那 痛みの受容というか、ぼくの場合は激痛に近い痛みなんだけれど、腹をくくって、これは自分の痛みなんだけれど、これだけ葛藤に満ちた世界であったら、必然的に痛みとか苦しみというのはこの世界に無数にあって、その一つを自分は受け止めた、責任をもってこれだけの分量を受け入れろということなんだな、と。自分の苦しみというよりは、まぁ、心理的には個人的不幸はないと思っていて、みんな不幸は同じだと思っているけれども、肉体的苦痛も同じじゃないかな、と思った時に、未来の子供の苦痛を受け取っているんじゃないかな、とか。よし、むしろ徹底的に味わってやろうと。
 痛いとね、心が宗教的になるんですよ。何回かなっているんですが、のたうち回るような痛みなんです。鎮静剤をいくら飲んでも効かない。また来ちゃった、と思った時にむしろ受け入れることができた。だからこれは強制的に、おまえは悟りだなんだ言っていてもまだ中途半端だよ、と。気づけよ、ということで無理やり教えられたというか。
 そうしたら、ああ、これは心の問題も全部同じだな、と。個人的葛藤というのは一見、あるように見えて、実は世界のゆがみ、ひずみをここ(胸)で受け入れて、溶かすというか。味わって。そうしたら今まではなかなか落ちなかったものが、滝のように全部流れていく。落ちていくというか。ああ、落ちちゃう、落ちちゃう、全部落ちちゃう。何も留まらないなぁ、というか。その時は本当にパイプの中にいっぱい詰まっていたものが、ざーって出るのがわかるんです。心地いいんですよ。圧倒的なシャワーみたいなものを一晩中浴びている感じで。
 高 それは、肉体的にそういう感覚があるわけですか?
 那 あるある。ぼくは体に軸を作るメソッドをずっとやっていたんです。正中線というか、体軸。高岡英夫さんの方法とかね。脱力して、筋肉を使わない立ち方とか。体を揺らして身体意識をいきわたらせて。ある種のヨーガですよね。超一流のアスリートとかは軸が通っていると思うけれど、素人なりに十年以上やっていたから、詰まっていたパイプの底蓋が外れて抜けたというか、ああ、通ったなと。構造が確立された。身体意識がこういう風になったな、と。こういう神がかった言い方は好きじゃないんだけど、天から浄化のエネルギーが降ってくるというのがわかった。自我は幻想という認識はあったけれど、自我さえ、最初からないな、と。
 葛藤というのは単なる世界のゆがみがここにたまたまあるだけで、他我という言い方しかできないけれど、そう思った時に、じゃあそれを全部受容して、受け入れて溶かしてしまうというか。そうしたら全部流れちゃう。パイプがつるつるになるというか、自我がつかまる場所がなくなる。落っこちちゃう。
 フリー雀荘で麻雀を打っていると、人が嫌なことをしたりすることもある。賭場だからいろいろあるわけですよ。でも、前だったら「この野郎」とか、こんなのくだらないと思っていても、人間出ちゃうもんじゃないですか。点棒投げてよこされたら、ああ?となる。
出るんですよ、間違いなく。人間だから。嫌なことがあったら。でも、それが前よりも根付いてないから、すぐに抜ける。それは強みですよね。人よりも心が揺れにくくなっているから。それが湧き上がらないという人がいるけれどそれは違うと思う。絶対に湧き上がる。バカと言われたら、知らない人からバカと言われたら、ああ?ってなるのは当然だし。それが根付かないということです。
 高 ひっかからないと。
 那 前よりも明らかにパイプがきれいになったというか、底蓋が外れた感じです。だから、それで、本当に疲れていたり、その上いろいろとプレッシャーを浴びてて、ああってなっている時、状態が本当に悪いと詰まってきたりする。でも、じっくり受け入れて抜いてしまうと体も治っゃうというか。しかもそれは何と言うのかな、タイムラグがあって、後から治るんじゃなくてすぐに治る。ああ、不思議だな、体ってと思いました。
 ヒーリングってあるじゃないですか。あるのはわかるんですよ。天から降ってくる浄化のエネルギーっていうのがある。でもそれは自分で自分を治すというか、心理的ブロック、抵抗を外して受容することではじめて自分の中に流れ込んでくるもので。もちろん、それを人に流すことができる人もいるでしょうけれどね。ただ伝授とか「?」ですね。仮にそういうことができたとしても、自我の濁った水が混じっていたら逆に危険というか。それによって必要以上に金儲けしたら濁るから。慈悲が濁ると思うんですよ。それで何万円ももらっている人は、ぼくは信用できないです。
 高 ヒーラーが金を取ることの是非の話になりますよね。
 那 人に試したことはないし、そっちの方向に行こうとも思わない。ぼくはゴーストライターの仕事をけっこうやっていて、何十冊も書いてます。だからいかに売るかというのはプロとして当然考えている。一発当てたいとかね。別に、そういうことに罪悪感はないですよ、あったらやっていけないし。人の本でも売れたらやっぱり嬉しい。でも、そういう視点で見たら、本とか出すんだったら、こういう体験は売りになるのかもしれないけれど、あまり気乗りしない。人が治るか治らないかは自分でもわからない。自分の場合は自分が楽になったっていうだけで。
 それにこういう話はあまり人にしたくないんです。友達とかにこんな話をしても誰も信用しないですよ。親も信用しないです。自分も話さない。仕事関係の人に言ったら、危ないやつだと思われて差し障りさえある。ただそれを一連の文章の中で、こういう意味があってこうなったというのなら、わかる人はわかってくれるとは思う。某出版社の人と会う時にこの体験のレポートも持って行ったんですよ。でも、こっちの方向で行く気はないんですよ、と言った。悟り語って、病治したら下手をすると新興宗教になってしまう。

 ●自我は他我という認識

 高 あのレポートは発表するんですか? いっとき、ブログでもアップしてましたけど。
 那 いろんなジャンルの人が書くエッセイ集に寄稿してしまいました。締め切りを忘れていて、ちょうど分量がそれくらいだったので送ってしまった(笑)。眠らせておいても仕方ないし、それがいい選択だったのかはわかりません。ただ、病気で苦しんでいる人とかの参考になるとは思う。
 高 那智さんが体験されたことは、『悟り系で行こう』とちょっと違う部分もありますよね。悟り体験と心身脱落体験は違う?
 那 「私」は「世界」だったという認識の転換があるとして、「世界」そのものに肉体がなっているかという時に、もうワンクッションあるなと気づいたんです。それが禅の心身脱落という言葉とすごいフィットしたので勝手に使わせてもらった。禅の人から座禅もまとも組んでいないのにそれは違うと言われれば、別にそれはそれでいい。禅の人で今、どれだけの境地の人がいるかは知らないですけれど。
 留まらないということです、生まれたものが。それが迷いも、全然滑り落ちるようになった。ただ、状態も悪い時もある。徹マンして三十時間くらい起きていて、嫌なこともいっぱいあった時に、ああ、落ちない、溜まっちゃったと。これは一回寝てリフレッシュしないとだめだなと。常に完璧じゃない。
 高 不眠不休で生きていけるわけじゃないから(笑)
 那 仕事で徹夜したりした時とか。フィジカル的なものも関係がある。でも、落ちるものは落ちるんです。多少時間がかかることはあっても、体の中がそうなっているから。それはわかっている。
 高 わかっている、というのは強みですね。いずれは落ちるとわかっている苦しみなら、出口がある。
 那 そう、出口がある。だから本来、人間に絶望はないんです。絶望的環境はあるかもしれないけれど、心理的絶望は存在しない。
 高 自我を自分だと思っていると、救いがない。
 那 ただ、さらに言えば、自我は自我でさえないということです。自我は他我なんです。それがわかった時、体が認識に追いついてくる。認識そのものが体になる。
 高 そこがちょっと難しい。
 那 例えば、タンスの角に足の小指の先を思い切りぶつけたとする。ものすごく痛いですよね。でも、その痛みは「あなた」かといえば、それは違う。心理的苦痛も同じようなものです。ところが、なぜか心理的苦痛だと人は自分のものだと思ってしまう。個性的な、特別なものだとね。苦痛は苦痛であり、苦悩は苦悩です。それは「あなた」のものではないし、ましてや「あなた」ではない。
 高 それはわかりやすい例ですね。

●「それ」について語ることと、「それ」になることは違う

 那 「それ」について語ることと、「それ自体になる」ということはまた別であって。ただ気づきとか、認識というのは第一ステップとして必要だとは思うけれども、それがゴールというわけではなくて、そこから先に自分自身が「それになる」という作業。「それ」になったら、形而下の物質というか、現象に影響を及ぼすような行為がなくてはならない。それが、まぁ、さらに言えば、表現、創造、「慈悲を形にする」と書いたけれども(スターピープル39号寄稿)、奥深いと思うんですよ。ステップが何回もあって。無限に創造、成長するのが人間の可能性というもので。
 仮に「我」から実存的な主体が「世界」となっても、じゃあ、あなたのいう世界ってのはどこまでか、と。宇宙の広さはその人の感受する範囲でしかない。高さ、深さ、繊細さ、感じるレベルというものがあって、当然、個性もある。そうしたら、日々地道に自分の世界、宇宙を広げていくしかない。ゴールなんてないし、あるわけがない。そういう体験をしたからと言って、リルケの繊細な詩や、ダビンチのような深みに到達した絵画を描けるような巨大な宇宙意識みたいなものがいきなり手に入るわけじゃない。悟りのようなものに幻想を抱いている人は、そこを勘違いしている人が多いように思う。
 さらに言えば、禅だったら心身脱落の後に脱落心身とならなくてはならない、とある。例えば、今、自分の感覚に酔っているとは言わないけれども、ああ、気持ちいいなと思っている。そういう風になったと思っている。そうしたものさえ捨てろ、と言うのが脱落心身。元に戻る。ある種の超人願望みたいな、ヨーガのクンダリーニの上昇体験とかね。それも全部捨てて普通の人になれというのが禅。もちろん、戻った後は何かが違うのだろうけれど。ぼくはそっちには行けないというか、行かない気がする。時代にフィットしていないと思うから。たまたま書く仕事をしているのもあるけれど、何らかの形で表現したいという欲求もある。ただそういう体験にも無執着になるというのはあると思うんです。

 ●悟りの回数は問題ではない

 高 悟りは一回だという人とそうでない人がいますね。
 那 それは言葉の綾みたいなもので、最初の自我が破壊される認識は確かに一回だけれど、何段階も強烈な体験を伴う段階があるのは事実でしょうね。ぼくの場合は二段階目の脱落体験の方が恐ろしく強烈でしたから。でも、別段、数なんてどうでもよくて、今、何を表現しているかが重要だと思うんですよ。
 原始仏教的だと最初に預流果という気づきがあって、一来果という怒りが収まる状態、不環果という瞑想三昧の段階、その境地さえも、三昧の境地さえ執着しないのが阿羅漢果。四段階あると。
 ぼくの感覚だと三段階。我がないという認識が第一段階だとしたら、第二段階は認識だけじゃなくて自我を落とさなくてはならない、と。あるいは落ちる構造を体の中に作る。次に第三段階があるとしたら、おそらく「落ちた」とか気持ちいい境地も捨てる。完全な無心になる、みたいな。でもこれは芸術の道とは違う。芸術家というのは俗な世界、下手したらエゴの世界に片足を突っ込んでいなくては表現できないことがあって。だから三つに分けられるのかな。細かく厳密にすれば、三だか四だか知らないですけれど。一つ思ったのは段階があるな、と。
 でも、それを自分の身体感覚でちゃんと言っている人はスピリチュアルなんていう業界ではまずいない。ダンテス・ダイジとかは別にしてね。だいたい観念論に融合してしまっているから紋切り型の表現になる。そういうのはすぐにわかります。もちろん、感覚的には素晴らしいものはあっても、表現していない人、あまり表現を重視していない人はいると思う。でも、そういう人ほど埋もれていますから。 
 上座部仏教が流行っているみたいですけれど、あれはそれなりの整合性があるように思います。でも、これは今の時代にそれほど重要な話ではない。自己探求ですから。世の中、放射能で汚れている時に、悟りとか神秘体験とか、こだわるのはどうなんでしょうね? 探求するのはいいとしても、それは愛じゃなかったりする。勝手にやればいいだけで。霊性の高さとか、波長のきめ細かさとかは、また別のレベルにあって、最初から無我的で素晴らしい人もいる。そういうタイプの人は逆に、悟りなんかいらない。必要がないんです。エゴの強い人ほど悟りなんかを必要としている。
 だから「悟ろう」じゃなくて、「悟り系で行こう」って言っているわけです。これだけ病んだ世の中なんだから、何か世界をひっくり返すような新しい価値観を提出したいと思うけれど、みんなが悟りを目指すとか、ちょっと違うと思う。ぼくは苦痛で強制的にこうなっているだけで。ハッピーに生きていたら、たぶん、興味もないし、なってもいない。でも、こういう話の方が面白いのはわかるんですよ。引きとしてはね。
 高 そうそう、面白い。
 那 それはわかっているんですよ。でも、そっちにいったら無我研の意味がなくなるような。だからこれまではやらなかったし、避けてきた。メインではなく、無我表現の現れとして小出しにするのはいいとしても。
 高 あえて、茨の道を行くというか(笑)
 那 でも、どうなるかわかりませんよね。読まれなくては意味がないから。
 高 確かに。
 那 今後はもう少しこっち路線もいいかもしれないですね。対談とか、座談会とかは読みやすいし。もっと何か考えなくてはならない。
 高 みなさんのおかげで何とか5号まで続いているわけですし、来年は新しい展開を期して、がんばりましょう。

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◇評論 

★評論
無我表現の爆発としてのビートルズ論
                  高橋ヒロヤス

ビートルズの曲を初めて意識して聞いたのは、中学1年くらいのころになんとなく聞いていたラジオから流れてきた『レット・イット・ビー』だったと思う。

最初はビートルズの曲とは知らずに、いい曲だな、と思って、ラジカセに録音したのを繰り返し聞いていた。

その頃家にあった、シンコーミュージックから出ていた『カラオケヒット曲歌詞集』みたいな分厚い本の最後の方に洋楽のコーナーがあって、ビートルズの『イエスタデイ』と『ロング・アンド・ワインディング・ロード』の歌詞と譜面が載っていた。そこに掲載されていたビートルズの写真がとてもかっこよくて、それが僕とビートルズとの出会いだった。

中学1,2年のときに、ラジオ(NHK−FM)で放送されるビートルズの曲を片っ端からエアチェックして、ラジカセに録音した。父親のステレオでも録音してもらった。当時家で定期購読していたFM雑誌(週刊FMとFMステーション)がとても役に立った。

好きだったのは『レット・イット・ビー』や『イエスタデイ』、『ロングアンドワインディングロード』などのバラードだった。ポールの書くメロディーの美しさに痺れていた。どうやったらこんなに美しいメロディーが次々に書けるのだろう、と驚嘆していた。ジョン・レノンの書く曲の良さ(とシャウトの凄さ)が分かったのは少し後になってからだ。

岩谷宏という人の訳した『ビートルズ詩集』という本があって、曲を聴きながら一緒に歌うのに使ったのですっかりボロボロになった。ビートルズが自分の一部になったのはこの詩集を通してかもしれない。

高校生の頃、NHKで『コンプリート・ビートルズ』とかいうタイトルの特集番組(海外のドキュメンタリー)が放送されたのを録画して、全部の場面を克明に記憶するまで何度も見た。個々のメンバーの出生、ビートルズの誕生から崩壊までを見事にポイントを押さえてまとめたドキュメンタリーだった。

僕のビートルズ観はいろいろな所からの影響を受けて形成された。一時期は、「僕がビートルズだ」と思うようになり、他人がビートルズについてシタリ顔で語ることに堪えられなかった(明らかに僕以上にビートルズに思い入れのある人であれば許せたが)。

もっとも、ビートルズが偉大であり、素晴らしい存在であることは疑いないが、解散から40年以上経った今もビートルズをネタにした商売が尽きないことについては、なんとなく解せない思いもある。

ビートルズをリアルタイムで経験していない自分がこれほど夢中になるのだから、同時代を生きたファンにとってどれほどの存在かは想像に難くない。ビートルズはこれからの世代をも魅了し続けるのだろうか。その普遍性の源は何なのか。彼らの魅力の根源にあるものは何なのか。

その答えが、「無我表現」の中にある。

僕は、初期ビートルズ(具体的に言えば『ア・ハード・デイズ・ナイト』くらいまで)は人類の歴史上かつてない規模での「無我表現」の爆発だったと思っている。

初期のビートルズについて、なんといっても驚くのは、そのスケジュールのタイトさだ。

デビューアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』のレコーディングをわずか一日で終えたというのは有名な話だし、その後も、全英ツアー、アメリカ進出、ヨーロッパ・ツアー、映画撮影、取材攻勢などで埋め尽くされたスケジュールの合間を縫ってレコーディングが行なわれた。

実際の曲作りは、ジョンとポールの共同作業で、たぶん1曲あたり長くて2,3日、短いときは数時間で行われたのだろう。
(当時デビューしたばかりのローリング・ストーンズに提供した『アイ・ワナ・ビー・ユア・マン』という楽曲は、ストーンズのマネージャーに道端で呼び止められたジョンとポールの二人がわずか1時間で書きあげたものだという。)

そんな中で、いまだにどんなバンドも超えることのできない輝きを持つあのエバーグリーンな楽曲群、『抱きしめたい』や『プリーズ・プリーズ・ミー』や『ディス・ボーイ』や『オール・マイ・ラビング』が生まれたのだ。

あの頃のジョンとポールは、ただ自分の中から溢れ出るメロディーやビートを無我夢中で掃き出し続けていて、曲の構成や細部について深く考えることのできる状態にはなかったに違いない。

それなのに、いやそれだからこそ、全世界が我を忘れて熱狂し、同世代の若者たち大半の人生を変えてしまうほどのエネルギーを持つ楽曲群があれほどの短期間に創造されたのだ。そこに内包されているエネルギーは、4人のメンバーのエゴを超えた「ビートルズ」という形のブラックホールを通して、無我(=潜態=真空)の領域から流れ込んできたものだ。

オリジナルの楽曲だけではなく、『ツイスト・アンド・シャウト』、『プリーズ・ミスター・ポストマン』、『マネー』、『ユー・リアリー・ガッタ・ホールド・オン・ミー』など、黒人アーティストのカバー曲もまたマジカルな化学反応を起こして強烈な光を放っていた。(黒人音楽がビートルズをはじめとする白人ロックに与えた影響とその意味については、無我表現との関わりから稿を改めて論じたいと思う。)

後にビートルズは、ツアーを止め、ハードなスケジュールから解放されて、十分に時間をかけて(とはいっても今のロックバンドに比べれば遥かにタイムスパンは短いが)凝りに凝ったアルバムを制作するようになる。『ラバーソウル』や『リボルバー』、そして『サージェント・ペパーズ』といったそれらの作品の素晴らしさもまた疑う余地がない。しかし、初期ビートルズのあの爆発的なエネルギーがあったればこその展開ともいえるのであって、60年代後半には他のロックバンドも創造性という点でこれらに引けを取らない作品を生み出していることを考えれば、やはり1963年から64年にかけての魔法の日々が人類史上唯一無二のビートルズなのだと思う。

また、今のロックバンドの大半がたいして創造性のないアルバムを発表するのに4,5年以上の間隔を開けることが普通である状況からみれば、1963年から1970年までのわずか7年足らずの間に、あそこまで多種多様な創造的作品を発表し続けたビートルズという存在そのものが「無我表現の化身」だったといえなくもない。

来年で70歳になるポール・マッカートニーは、自分の人生を振り返って、20代に過ごしたあの10年間と、それ以降の40年間を比較して、どのような感慨にふけるのだろうか。あの若き日々には、「無我」という名の神(ミューズ)がまぎれもなく「ポール・マッカートニー」―より正確には「ビートルズ」―という器を通して活動していたのだと認めざるを得ないのではなかろうか。


参考文献:
ハンター・デイヴィス著『ビートルズ』(河出文庫)
ヤン・ウェナー『回想するジョン・レノン』(草思社)
マーチン・スコセッシ監督『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』
ジョン・ロバートソン『全曲解説シリーズ(2) ザ・ビートルズ』(シンコーミュージック)






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◇エッセイ
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々―

「雪は今も降り続いている」
 長岡マチカ(文化人類学を学び、現在、アラスカ在住)

 ベッドの上で目を覚ますと、まだ日の昇らない窓の外がいつもより明るい。外気を吸い氷のように冷たくなったガラスに顔を近づけ、昨日までの色とりどりの風景が白一色に変わっているのに気がつく。道端のトラックも、庭の三輪車も、向かいの芝生も、山を覆う針葉樹も、元の色は何だったかと首を傾げるほど真っ白に塗り替えられている。春まで溶けることのない雪。一年の半分ほどをこの白さに囲まれ過ごすことになる。
 その雪の白さも空からの光によって様々表情を変えることがある。朝焼けが白い尾根を赤紫色に、夕日が白く起伏する針葉樹の森をオレンジ色に染めていく。月明かりの降り注ぐ雪は長い夜の闇を青白く照らし、雪雲に覆われた昼間には大地と空との境界が曖昧となり銀色が立ち込める。真っ青に晴れ渡る日には陽光の照りつける地面から金色の光が立ち上る。上からも下からも差す光、あたり一面眩しい白金色に包まれる。移り変わる雪の情景は、見渡す限りに広げられた真っ白なスクリーンに、光のグラディエーションが映し出されていくようでもある。
 今年の11月のアラスカは記録的な寒さだった。内陸部ではマイナス40度まで下がり、例年に比べ雪も多かった。雪をかいた玄関先も、踏み固めた足跡も、しまい忘れたスコップも、作りかけた雪だるまも、朝目が覚めると跡形も無くなだらかな隆起に覆われている。まるで毎日リセット・ボタンを押したかのように、前の日の軌跡がサラサラとした新雪の下に消えていく。
 雪の降り続くなか、今年も感謝祭の日がやってきた。毎年11月4週目の木曜日に北米で祝われるこの祭、ヨーロッパとネイティブ・アメリカンの収穫祭を起源とし、収穫と共にヨーロッパからの航海の無事、殖民の成功などに感謝を捧げるため17世紀から祝われ始めたと言われている。20世紀半ばに「国の祝日」となった感謝祭には学校も公の機関も全て休日となる。
 感謝祭の料理は七面鳥の丸焼きがメイン。今年の七面鳥は前日にローズマリーとセージとタイムを浮かべた塩水につけておいた。いよいよ焼き始めるという祭当日の朝、羽の付け根から空洞になった腹の中からザラザラとした皮の下まで、ハーブを混ぜたバターを塗りこんでいく。七面鳥の重さとオーブンにいれる時間の関係を示す表を見ながら、宴の始まる4時間前に焼き始める。宴の直前、表面にこんがりと焼き色をつけるためそれまでかぶせておいたホイルは取り外して。
 
 何年か前、知り合いに招かれた感謝祭の席でネイティブ・アメリカンの友人と隣り合わせに座ったことがある。多くのネイティブ・アメリカンの犠牲の上に成り立った開拓殖民、感謝祭に複雑な思いを抱く人々もいる。穏やかな微笑を浮かべながら隣で七面鳥を頬張るその友人に、私自身感謝祭にどう向き合っていけばいいのか少し戸惑っている、と話しかけた。彼女は穏やかな表情のまま私の目を見つめると、こう言った。
「私はね、『感謝』にフォーカスするの。前からいた人々も、後からやって来た人々も、共に『自分たちを超えた何か (something beyond ourselves)』 に感謝する日。『クヤーナ(quyana)』(彼女の言葉ユピック語で『ありがとう』)とね」

 彼女の言葉を思い出しながら、オーブンから七面鳥を取り出す。背中部分に濃い黄金色の光沢が貼りついている。どうやらうまく焼けたようだ。玄関のチャイムが鳴る。扉を開けるとシャンパンとパイを抱えた友人家族が笑顔で立っている。「ハッピー・サンクスギビング!」明るい声が夕闇に響く。
 友人達を迎え入れると、雪の中に冷やしてあったワインを取りに出た。雪道には残されたばかりの足跡がいくつも連なっている。しばらくすれば柔らかな雪がまるで誰も足を踏み入れなかったかのように表面を滑らかに整えていくだろう。ふと降り続ける雪の中に、あのネイティブ・アメリカンの友人の静かな眼差しを見る。
 「クヤーナ・・・」、そっとつぶやいてみる。真っ白な吐息が月明かりに照らされいくつもの小さな結晶を散りばめたように光っている。雪は今も静かに降り続いている。

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★編集後記
 2011年も終わろうとしています。激動の世の中でしたが、世界中のもっとも多くの人々に衝撃を与えたのが3月11日の震災による福島原発の事故だったと思います。京大の小出裕章助教は、「3月11日から世界は変わってしまった」とおっしゃっていますが、まったくその通りだと思います。
 私たちは明らかに間違っていました。科学文明しかり、宗教戦争しかり、経済優先主義しかり。このままではいけない。何かをしなければ。それぞれが、それぞれの人生の中で、この認識を下にやるべきことをやる。能動的に表現してゆく。そんな無我的ムードが日本列島を覆った時、この国から何か新しいものが生まれるかもしれません。(那智)


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  • 名無しさん2011/12/23

    全部好きだけど、「例外者たちの詩」を読んで道を照らす明かりが見えた気がした。