芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第4号

2011/11/15

MUGA 第4号
「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ


●「MUGA」発刊にあたって  

 自然からの分離、エゴの恐るべき肥大化によって、人類は戦争、テロ、飢餓、自然破壊、核の問題等、恐るべき問題を生み出し続けてきました。そして3月11日の福島原発の事故によって、私たちは新たな道へと歩き出さねばならないことが明白になりました。
エゴイズムに汚染された現代文明から、自然の摂理と合一した「無我」的な文明への転換の道――しかしその道を選択し、実際に人々が歩み出すためには、まず「無我」というものを積極的価値観として、社会の中に根付かせてゆく必要があると強く感じています。
「私」中心の価値観から、「世界=無我」中心の価値観へ。無我表現研究会では、機関紙『MUGA』を月刊(毎月15日)で発行し、芸術、自然科学、評論、エッセイ等、様々なジャンルで「無我」の側からの表現を発信してゆきます。
  
無我表現研究会


◆目次

◇アート

・詩
『季節の詩』     rita

・小説
『きみの涙を恥じるなかれ』4(最終回)   那智タケシ

◇自然科学

『潜態論入門』第4回 時空について   河野龍路


◇評論

《無我的観照》第一回 
『リルケ 芸術と人生』(富士川英郎訳)に見る愛の受肉化  那智タケシ


無我表現試論    高橋ヒロヤス

◇エッセイ
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 
『笑うパンプキン』   長岡マチカ

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◇アート

★詩

季節の詩     rita 

  【・梨・】 

梨と親密になったの

梨のイデアを口に含んで
その想いを推し量るよ

彼女はシェイムシェイムと奏でて
ぼくの中へすぐに姿を消していく

そんなに恥ずかしがらないで
ぼくの喉を君の解き放たれたよろこびで潤して

少し視線が跳ねるくらい
ほのかな甘さを残していって 


   【・女郎蜘蛛・】 

  
祝祭をむかえる笑顔のように 
街へ広がる金色の蜘蛛の巣 

こぞってアイデンティティーを織り成した 
五線譜仕立てのサークル 

風の進路へ思い思いに飾り掛けて 
気に入ったメロディを抜き取るよ 

天より降り注ぐ意思と呼応するために 

この上なくよい案配に太陽を拝して 
己の体内へ神の恵みを頂き至るまで じっと待っている 

雨の矢じりが突き刺そうとも 
空にしがみついて離れない 

その血潮を 息遣いを 体の彩りにしてしまう力強さに 

ぼくは街の中で彼らと出くわすと 
メダルを見つけたような喜びを覚えるんだ 


   【・鶏頭・】 

鶏頭のお気に入りは 
高い空よりスマートに微笑みかける金風 

オートクチュルの装いも華やかに
情熱的なハートをもて余すマダム 

優しく撫でてくれるだけじゃつまらないの
時には激しく煽って 私を恋しがらせて 

時にはニヒルに逸らして 私を寂しがらせて 
もっともっと燃えたいの! 

風が白髪まじりの季節になっても 
心のウズキは満たされず立ち続けるマダム 


   【・秋の蝶・】 

さくらの葉っぱは 
頬を金色に染めて 
北風のキスを受けた 

そっと抱えられて 
また来年 と手を振るよ 

その指を空より放して 

ほんとうは落日を見ているように 
寂しかったの 

枯れ葉が光った?
それは秋の蝶 

落ちると見せかけて
天に舞い上がったよ 


   【・無花果・】 

しどけなく広げられる愛の溜まり場へ 
火照った無花果の地軸へと 
ぼくは堕ちていく 

白色のフィラメントの 
豊かな触手に手招きされて 
そのまま溺れてしまいそう 

不滅を疑わない楽園の木漏れ日に 
まったりと埋もれてゆくよ 
ぼんやりと夢のように溶けてゆこうよ 

夢じゃないのよ 
彼女は弾けてささめいて 
ツブツブの波紋を投げかけた 

ぼくはプチプチと噛みしめて愛を確かめているよ 
永遠を秘めた刹那の肩越しに 
濡れた指をそのままにして 


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★小説

『きみの涙を恥じるなかれ』4(最終回)
                         那智タケシ

    11 秘密の友達

 外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。携帯で時刻を見れば、もう午後8時を回っていたが、智子は、歩いて10分ほどの場所にある、K神社に行くことに決めた。早い話、石があるかないかだ。なかったらなかったでハッピーだし、あったらあったで受け止めるほかない。あの緑色の石がもしもあったら、私は、人を殺したということだろう。どちらにしろ、もう曖昧な自分探しにはうんざりなのだ。
 人気のない、曲がりくねった道を一人で黙々と歩いてゆく。何もかもが不毛で、歪んでいて、間違っているように感じられた。歩いても、歩いても、霧は晴れず、それどころかますます濃くなって、さらなる深い闇の中に踏み込んでゆくような空恐ろしい気持ちであった。今朝方からのあの悲しみが、再びどこからか忍び寄り、自分の中に注ぎ込まれてくるのがわかった。このまま進むと、取り返しのつかないことが待っているのかもしれない。しかし、智子は歩みを止めることはどうしてもできなかった。
 絶対確実な真実というものは、この世界に存在するのだろうか? ある者はこんな風に言うかもしれない。そんなものは幻想で、唯一の真実は、絶対確実な真実がない、ということだけだ、と。だが、人は真実なくして生きていくことはできないのだ。例え、それが死にかけた神でも、まがい物の妄想でも、くだらぬ常識でも、何かを真実として崇め、信じることなくしては、人は人として存在できないように。だからこそ、何ものも信じることができなくなった人間は、こんな風に一人、真夜中の道を歩まねばならないのかもしれない。
 ふと気づくと、智子は神社の鳥居の前に立っていた。瞬間、10年前に時間が逆戻りし――14歳の自分が神社を見上げているような、眩暈にも似た錯覚を覚えた。100段ばかりもある急な石段の坂道を、うつむき加減に黙々と上る。まるで、死刑台に上ってゆくような、厳粛で不可避的な気分であった。実際、私は死刑になるのだろうか? いや、もちろん、そんなことにはならないだろう。
 境内に入ると、そこには、あの悪夢で見たのと同じ、闇に満ちた幽玄な空間があった。陰気な神社の外貌が、わずかな街灯の明かりによってぼんやりと浮かび上がっており、取り囲むようにして立っている楡の大木は、ざわざわと風によって激しく葉を鳴らしていた。
 智子は、境内の一番奥まった、光の届かない場所に歩を進めた。奇妙な角度で螺旋状にねじ曲がった幹を持つ、1本の木の前に立つ。高さ1メートルばかりの場所に、鬼の顔のような不気味な紋様の洞があり、その模様には見覚えがあった。きっと、この木の下に埋めたのだろう。きょろきょろと辺りを見回すと、誰もいないことを確認し、バックから事前に用意しておいた懐中電灯と小さなスコップを取り出した。
 ジーパンが汚れないようにしゃがみ込み、スコップで少しずつ土を掘り起こしはじめる。湿った土は柔らかく、それほど力を入れなくてもスコップは地中深く入っていった。しかし、掘っても掘っても何も出てこないので、しまいには両手、両膝をつき、野良犬が隠した餌を掘り起こすような格好で、無我夢中に掘り進めた。もしも今の自分の姿を誰かが見つけたら、闇の中で、頭のおかしな人間が奇行を行っている風にしか見えないことだろう。もちろん、人目を憚っている場合ではなかった。何もないならそれでいい、何もなかったことを100パーセント確信する必要があるのだから。

 結局、石は見つからなかった。
 智子は、疲労困憊して、その場にへたり込んだ。掘り起こした土を元に戻す気力は残っていなかった。精神的にも、肉体的にも、疲れすぎていた。地べたに座り込んでいると、泣きたいような、笑いたいような、複雑で錯綜した感情が湧き上がってきた。結局、真実なんてものはないのかもしれない。だとしたら、すべては自分の心持ち一つというものだ。つまり、石はなかったのだから、私は殺してない。それでいいではないか。私は、ここまで辿り着き、やるべきことはやったのだから。そんな諦めとも安堵ともつかぬおだやかな気持ちが、彼女に立ち上がる力を与えなかった。
 こんな場所で泥まみれになって、いったい私は何をやっているのだろう? 自分のしていることが、ひどく滑稽で、恥ずかしく、不毛なものであるように感じられてきた。本当に、一人、声を立てて笑い出しそうであった。実際、くすりと笑いさえした。彼女は両手を払うと、地べたに座り込んだままジーパンのポケットから煙草を取り出し、火をつけて一服した。労働の後の一服は、満足感というよりも、虚脱感を与えただけであった。
 見上げると、丸くて、巨大な白い光が中空に浮かんでいた。10年前にここに何があったのかを知る、すべてを見通す力を持った唯一の存在――限りなく白い光の中に、人々の罪を浄化し、許し、一切の感情を叡智に転換する高次元の眼差し――しかし、不思議とその存在を、智子は意外であるとも、恐ろしいとも思わなかった。むしろ、遥か昔の友人に再会したような、懐かしい、おだやかな気分であった。そう、私はあの光を何度も見た。そして、あの頃の私は神社に宿る神ではなく、あの光にいつも祈っていたのだ。何一つもの言わぬ、あの白くて美しい光に。
 私は、あれを宇宙人の乗り物だなんて思ったことは一度もなかった。光は光であり、光以外の何ものでもなかった。あの光は日常を超えた価値の象徴であり、それでいてひどく身近なものであった。夢の中の出来事のように身近すぎて、何と形容してよいのかわからないほどに、自分の心の中に近いものであった。だから、誰にも言わなかったし、言う必要もないと思っていたのだ。いや、どちらにしろ他人には説明不可能な存在だから、伝えようもなかったのである。あれは、私だけの光であり、秘密の親友なのだった。
しかし、世知辛さを味わい尽くしてきた10年の歳月が、智子の心の中につまらぬ懐疑を生み出していた。
 今、目の前に光るあの物体は、本当に現実のものだろうか? 私の氾濫した脳細胞が生み出した幻覚なのではないだろうか? あるいは、満月や、ライトのようなごく当たり前のものに過ぎないのではないだろうか? 私が見ているものは、客観的に存在するものなのだろうか? 
 我に返ってもう一度見直すと、光はどこにも存在しなかった。空には、今にも目を閉じてしまいそうな眠たげな三日月があるばかりで、夜の深淵は、神秘的な星の光をも飲み込んで、沈黙していた。

    12 十字架

 神社の前でタクシーを呼び、ホテルに戻ると、シャワーを浴びて、心身を浄化した。ホテルに据え置いてある白いガウンを身につけ、ベッドに倒れ込むように寝転ぶ。仰向けになって天井を見上げながら、今日一日の目まぐるしい出来事をじっくりと思い起こした。本当にいろいろなことがあった。いろいろなことが。しかし、それらの錯綜した印象をまとめ上げることはできず、混沌と、狂気と、誰のものかもわからぬ悲痛な叫び声だけがそこにあるように感じられた。明日、両親を問い詰めてやろうか。でも、どちらにしろ何も出てこないことだろう。これは、そんな単純なことではないのだ。もっと、命の不思議に関わるような、神秘的なことがらが絡んでいて、真実を明晰にすることを拒んでいるのだ。なぜだか知らないが、そんな気がした。
 もう、午後10時を回っていた。夕食を食べていないことに気づき、激しい空腹を覚えたが、さすがに外に出る気にはならなかった。ピザでも頼もうかとベッドの上でデリバリーのパンフレットをめくっている時、携帯が鳴った。マユからだった。そういえば、夜にでも連絡すると言って、忘れていたっけ。4回目のコールで電話に出た。ごめんね、ちょっとばたばたしていて、と謝ると、声に元気がないですね、という心配そうな言葉が返ってきた。ふたこと、みこと会話を交わすうちに、どういうわけか、これからマユが遊びに来るという話になった。もちろん、一人で寝るのは怖くもあったし、話し相手が欲しかったところではあるけれど、あまりにも時間が遅すぎる気もした。
 落ち着かない気分で待っていると、一時間も経たずして、マユは部屋に現れた。ピンク色のトレーナーにジーパンという格好で、化粧っけもないその姿は、昼間とは別人のように地味で、無個性なものであった。きっと、少女時代もこんな風に目立たぬ存在だったのだろう。逆に、どこかで見覚えのある顔のような気がしてきた。
「来ちゃいました」マユは照れ笑いを浮かべた。その両手には、コンビニで買い込んだ酒やら、つまみやらが大量に入ったビニール袋があった。
 ガラステーブルを挟んでソファに腰掛けると、二人の奇遇な出会いを祝して、缶ビールで乾杯した。こんな時、唐突に現れた不思議な友に、智子は心から親しみと感動を覚えていた。これまで、誰一人こんな風に愛情を感じ、心を開くことのできる相手はいなかった。ちょっとしたボーイフレンドはいたことはあっても、心はおろか、体を許したことは一度もなかった。彼女は、自分と似た魂を持つ存在とこれまで出会ったことがなかったのである。
酒が回ってくると、智子は、今日一日の出来事を包み隠さず話し出した。自分ひとりで抱え込むには、あまりにも不可解で巨大な謎が、彼女の胸を重くし、苦しめていた。朝に見た悪夢――自分がもしかすると人殺しかもしれない、ということ――UFOや神隠しの事件――漆沢家の印象等、包み隠さず洗いざらい語り続けた。自分でも、不思議なほどだった。それらすべてを好奇心をむき出しにすることもなく、おだやかな微笑と成熟した理解力で物静かに受け入れ、頷き続けるマユを見ていると、昼間の反抗心に満ちた個性的な女性とはまったくの別人のように思えてきた。
「マユちゃんって、仏様みたいね」と智子は言った。
「どうして?」とマユは笑って聞いた。
「だって、何でも聞いてくれるし、疑問も挟まないし、すべてを受け入れてくれている感じなんだもの。なんだか、全部をわかってくれている、仏様に話をしているみたい」
「全然、そんなんじゃないですよ」マユはどこか大人びた笑みを浮かべた。「でも、私、先輩の言ったことなら何でも信じますし、すべてを受け入れます。これから、先輩に何があっても、私は味方ですし、友達ですからね」
 智子は相手の首元に光る、ネックレスの不思議な宝石に気づいた。細いシルバーの鎖の先にぶら下がったその石は、よく見ると宝石ではなく、磨き上げられてはいるものの、普通の石ころのかけらのようにも思えた。白地に緑色の縞模様が入った、小指の先大の、卵型の石だった。
 あるミステリー染みた妄想が浮かんだ。もしかすると、この子がすべての謎の真相そのものではなかったろうか。この子はすべてを目撃し、ショック状態の私をかくまった。漆沢家の人間と密約を交わし、UFO事件をでっち上げ、私のために真実を胸に秘め隠して生きてきたのだとしたら…
 だとすると、この子は他人の罪と、悲しみを受け入れ、他人のために十字架を背負って、忍従の中で生きてきたことになる。いつか訪れる奇跡を信じて、一人、理解者もなく、黙々と歩んで来た少女――そして奇跡が生じた時、決して真実を明かすことなく、無限の愛と慈悲でもって、すべてを許し、「よし」として微笑んだのだ。
 もしも人類の罪を肩代わりし、他人のために苦しみ、悲しみを味わい尽くすような存在がそこかしこに現れたとしたら、世界は真に変わるだろう。一切は許され、愛され、理解し合えることだろう。一人の人間が、もう一人の人間のために人知れず祈り、心から苦しみ、何の見返りもなく愛するということ――もしかしたら、私たちは他人の不幸のために苦しむことでのみ、一切の過去を許し、愛し合うことができるのかもしれない。この幼い顔をした風変わりな女がそうしたように。しかし、それはなんて峻厳な道程だろうか。なんて困難で、なんて偉大な行為だろうか。
「先輩は私が守りますから」とマユは念を押すようにつぶやいた。
 その言葉には、誰知ることのない物語によって裏打ちされた、真実の響きが宿っていた。
  
                          (了)

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◇自然科学

潜態論入門 第4回           河野龍路

1 時空

 わたしたちは、世界の出来事を空間と時間という枠組みの中でとらえています。
 ニュートンの科学観では、宇宙内で起こる様々な現象と空間と時間はそれぞれ単独に存在するものであるとされていました。近年、相対性理論が登場するにおよんで、この三者は独立したものではなく、それぞれ密接な関連のもとにあるという考え方に修正されたということになっているようですが、それが自然界のどのような原理によるものか、その本質的理由は定かではありません。
 それはともかく、わたしたちの日常の暮らしは、この三者、物事と空間と時間はなくては成り立ちません。その常識的な見方においては時空とその中の出来事は一応独立したものとして分けて考えられているといってもよいでしょう。
 この空間と時間というものさしが、人間の主観にもともと備わっている形式なのか、それとも客観に外在する形式なのかとういことが、哲学的な問題としてよく取り上げられているようです。
     
 「ボールがある」という簡単な事実のなかにすでに空間的配置の意識が生じており、その運動をとらえるためには時間的推移によらなくてはなりません。複雑な人間の一生や人類の歴史もこの空間時間を抜きにしては語ることができないのです。
 ところが時間と空間は、ボールの運動のように具体的な客観現象として取り出すことができません。これが、時空が主観の形式とされる理由ともなっていると考えられます。一方、時空がボールの存在や運動といった客観現象の経験に依存することもまた事実であり、それが主観を離れた客観側に属するとされる理由ともなります。
 主観にもなければ客観にもない。このように、時空の実体がわたしたちの認識の内部に見当たらないということは、それが認識以前の潜態および潜態論的現象に由来するからではないかと推測されます。
 
|A> , <A| → <A|A> → 対象A 、空間、時間

もし、この空間と時間がこの上の図式のように潜態からやってくるものであるとすれば、わたしたちの認識にその実体が見いだせないのも無理からぬことだからです。

2 潜態論的時空
 ここに考察対象 <A|A> があるとします。例えば、草花などです。
 当然、草花<A|A>は半開ですから、環境に対して開かれています。いまその環境を <E|E> としておきます。例えば土壌、大気、日光などがそれに当たります。ところが草花の環境とはそうした周辺領域にとどまらず、環境Eを取り囲むさらに広大な環境領域に及ぶことはいうまでもありません。それらの不可視の領域を<X|X> としておきます。例えば、地球内部あるいは大気圏外などのすべてです。
 同様に、宇宙において見出されるあらゆる現象は以下の三種類に大別されることがわかります。
 考察対象 <A|A>
 周辺環境 <E|E>
 不明環境 <X|X>
 わたしたちの眺める一切の物事には、必ずこの三種が想定されます。譬えて言えば、真っ暗な部屋に懐中電灯で光をあてて内部の様子をうかがう時に、光のあたっている対象物、その周囲の事物、それ以外の暗闇ができるのと似ています。
 以上より、空間と時間の正体が浮かび上がってきます。
 考察対象 <A|A>、周辺環境 <E|E>、不明環境 <X|X> の三者は潜態においては融重して|A> <A| , |E> <E| , |X> <X| となっているはずです。
 潜態が考察対象Aという現象に閉じるということは、同時に周辺環境E、不明環境Xも対立的に閉じるということです。ここで、AとEの間に空間が発生し、さらにXはAおよびEに忍びよる正体不明の何ものかの作用として感知されているはずで、これがすなわち時間です。

3 空間
 空間とは、考察対象<A|A>およびそれを取り囲む環境<E|E>によるものであると述べました。飛ぶ鳥を見てそこに大空という空間を見ます。もし鳥も大空もなかったらそこには空間があるのか、という疑問もわきますが、もし一切の事物がなかったら「空間がある」ということ自体が不可能です。なぜなら空間は何らかの事物の存在を常に前提としているからです。  
 以下、わたしなりの推論によって、空間について多少観念的な説明を加えさせていただきますので批判的にお読みください。
    A  、 E  
  <A|A> <E|E>
 |A> <A| , |E> <E|
 上段から通常の現象、潜態論的現象、潜態のそれぞれの考察対象とその環境の記述となります。
 まず上段の図から通常の空間とは、現象がA, Eという閉じた像として観察されるときにそれらを隔てる何もないところとして見出されることがわかります。逆にこの何もない空間があるからこそ、A, Eという現象が独立して感知されているともいえます。
 しかし潜態では空間にあたる部分は何もない空隙ではありません。その余白部は潜態における融重の場であって、あらゆるものが干渉関係にあります。これが潜態論的現象にいたって電磁力重力などの相互作用の原因ともなると考えられます。近年の物理学でも真空が無ではなく色々な現象を生み出す場であるというようなことが言われていますが、潜態論では当然のこととなります。真空とは潜態において認識にかからない部分のことにすぎないからです。
 現象上ではばらばらに独立した事物も、潜態では融重といういわば相互規定の関係にあります。ところがこの融重関係は認識できませんから、現象上ではそこに何もない空間というものを見出して、事物はそれによって規定されているように感知されているのではないかと推測されます。つまり座標空間によって様々な事象の姿とその運動が規定できるということの背景には、潜態における融重という相互規定があるからで、それが空間の起源となっているとも考えらえます。
 
「因みに電子の空間的拡がりと解釈せられているものも、実は諸属性の相関関係に於て発生的に生ずるものであり、決して空間が先ず別個に存在しているのではない。又いわゆる電子の外部的空間と雖も、実は、他のいわゆる別個別個の存在の潜態的関連に於て、生じていることを認識すべきである。」
  文明維新論(レグルス文庫)P132

 ところで空間は具体的には、縦、横、高さの三次元で指定される座標で計測されます。
 小田切が指摘するようにこの三つの要素はお互いに独立しています。すなわち、これら三要素は自己に閉じています。縦、横、高さの三方向をx , y , zで表すとすると、潜態論的現象においてはそれぞれ<x|x><y|y><z|z>となります。さらにこれらの潜態においては融重して因干渉によって、<x|y><y|x><z|x><x|z><y|z><z|y> といった他閉を生じます。これらの要素が個々の潜態論的現象に内在し、現象上の内的な空間の広がりとして観測されるものと考えられます。潜態論ではこのx, y, x をそれぞれ1, 2, 3の指標で記述しています。この指標をもって前回の現象(a|a)を記述すると以下の各項の集合となります。
{(ar1 | ar1)、(ar2 | ar2)、(ar3 | ar3)
 (ar1 | al1)、(ar2 | al2)、(ar3 | al3)、
 (al1| ar1)、(al 2| ar2)、(al3| ar3)、
 (al1| al1)、(al 2| al2)、(al 3| al3)}
 ただし、各項の他閉項、例えば(ar1 | ar3)などは省略してあります。

4 時間
 すべての物事は時とともに変化していきます。
 空間の場合は目の前の具体的事物を通じて「広がり」として思い描くことはできますが、時間はそれができません。物事の変化とともに「何かが過ぎていく」ということが意識されても、その「何か」がわからないのです。その「何か」は天体の運行や時計という周期的な現象でもって計測されますが、計られているもの自体が姿を見せることは決してありません。
 小田切はこの時間の特性をあるがままに直視しました。すなわち、「姿を見せないものこそ時間」であると。そして宇宙にはこの条件に該当する大要因があるのです。それは、先の不明環境 <X|X> にほかなりません。自然界の運行に常に寄り添うものでありながら、決してその姿を現さないものだからです。この広大な不明環境は対象Aとその環境Eの隅々にいたるまで影響を及ぼしているにもかかわらず、その痕跡を残すもの自体が何者かは不明となります。その見えざるものがわたしたちの世界に残す痕跡を、天体の運行や時計などの周期的な運動を使って相対的に計っているということです。

「人間は殊に科学は人為を以て宇宙の部分を束縛し、何とかしてそれを考察対象として限定しようとする。その時同時に必ずその環境が出来る。それは今更云う迄もないことだが、広大無辺の宇宙全体が環境となるのであるから、吾々は環境の全体を知り尽すことは到底あり得ない。敢(あ)えて区別するならば認識し得る環境と其以外のものとなろう。この後者は環境に属するとは云え遂に認識に登り得ないものの一切であるから、考察対象がそれによって受ける影響変化は何者の仕業とも認定し難い筈である。換言すれば考察対象は、この認識不能なる曲者のために不知不識且次第に変化を余儀なくされている。筆者はこの曲者を?時?と命名した。事実この?時?がたつにつれて事物が変化するが、?時?の正体は不明である。当然の事と云わねばなるまい。」

 時間は物理学では通常tで表されています。
 潜態論では時間とは不明環境の一切として、対象aに干渉しますから、tも半開の現象として以下のように対象aと融重しているということです。
|a> <a| , |t> <t|
そして現象化に際しては現象aを構成する内部要素として以下の各項の集合となります。
{(ar1 | ar1)、(ar2 | ar2)、(ar3 | ar3)、(art | art)
(ar1 | al1)、(ar2 | al2)、(ar3 | al3)、(art | alt)
(al1| ar1)、(al 2| ar2)、(al3| ar3)、(alt | art)
(al1| al1)、(al 2| al2)、(al 3| al3)、(alt | alt)}
 
 潜態論的時間論によって、何ゆえ相対性理論において時間と空間が関連しなければならなくなったかも判明します。それは考察対象にとっての周辺環境 <E|E>と不明環境 <X|X>両者の間に境界線が引かれないからだと考えれば理解できます。
 ところで、本質である潜態には対象、環境、不明環境といった恣意的な認識設定はありまえませんから、潜態には時空は無いということになります。時間空間というのは現象に伴って発生する形式だということです。


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◇評論 

《無我的観照》第一回
 
『リルケ 芸術と人生』(富士川英郎訳)に見る愛の受肉化

                      那智タケシ

 リルケのことを思う時、この詩人がいかに「私心なく」事物の中に傾倒し、その秘密を探し当て、繊細で誠実な言葉を使いこなしたかという事実に憧憬と限りのない親愛を覚えずにはいられない。彼の天啓と自然の秘密に満ちた世界を創出するあの独自な「声」を持つ詩は、『マルテの手記』のようなモノローグ体の小説や、『ロダン論』のような美術評論、『若き詩人への手紙』といったプライベートな手紙にまで染み渡り、何を書いても、何を語ってもリルケの世界そのものがそこにある。リルケの世界とはもちろん、彼の内部で完結したイメージの世界ではなく、この無限の世界に没我的に入り込み、エッセンスを醸成した後に生まれる愛の形そのものである。
 しかし、その繊細さ、異常なまでの豊かさは、ともすると「少女趣味」と受け取られかねないような儚さ、弱さを持っているように見えるだろう。「薔薇の棘が指に刺さって死んだ詩人」のイメージから、我々は抜け切れないようである。彼は、俗世に生きるにはあまりにも繊細すぎたのだ、と。
 だが、実を言えば「 彼は詩人であって、曖昧なものが嫌いであった」と語ったリルケは、恋愛感情に耽溺したり、自然の美を見て感傷に耽るようなロマンティストではなく、科学者のように「無我」的な態度でこの世界に没入し、「事物」そのものの秘密を神秘の言葉で語った数少ない芸術家の一人であった。彼は、来るべき人類の先駆けとして、明晰で論理的な精神を持って、意識的に詩人たりえた求道者に他ならなかったのである。
 彼の厳格かつ誠実な芸術観は、直接的な芸術作品そのものよりも、私信ともいえる美術評論の中に明晰に現れている。以下は、リルケがセザンヌの絵を友人の女性画家と一緒に見学に行った時のレポートの引用である。

 それから彼女は(未完成の絵から見てとれる)セザンヌの仕事のやりかたについて、たいへん良いことを言っていました。「これを」と彼女は絵のある箇所を指しながら言ったのです。「これをセザンヌは知っていました。だからこれを彼は語ったのです。(それはりんごのある一箇所でした。)そのすぐわきのところはまだ空白になっていますが、それは彼がまだそこを知っていなかったからなのです。彼は自分の知っているものだけを画いたので、そのほかのものは何も画いていません。」「彼はなんという良心の持ち主だったのでしょう」と私は言いました。「そうです、彼はどこか内部の奥深いところで、幸福だったのですね…。」
                       
 こうした「知っているものだけを語り、知らないものは沈黙する」というヴィトゲンシュタイン的な厳しい内的法律は、優れた芸術家特有のものであると言える。しかし、この内的法律は、例えば「無我」や「愛」、「神」等を語るような宗教的、及び精神世界に関わるような人間にこそ最も必要とされるものなのではないだろうか。リルケの自然観、芸術観に触れる時、自戒の意味も含めて常に身を正されるような気持ちになるのである。
 「愛」という言葉は「愛」ではないし、「神」という言葉は「神」ではない。にもかかわらず、「愛」と「神」を我が物のように語り、「表現」の厳しさを持たない人々に、自分が何の感動、共感も覚えないのはそのせいだ。彼らの語る「愛」は観念、メッセージであって、表現として体に宿っていないからである。受肉化されていないからである。そして受肉化されたものだけが表現に値するのだ。体に宿ったものは必ず独自のリズム、形式を持って、「愛」という言葉を使うことなしに「愛」を語りかけてくる。彼らは「愛」に対して沈黙することで、愛を語ることができるまでに熟成していたからである。そうした肉体から生まれた真の表現だけが、この世界を本当に変革するのだということを自分は疑わない。世界を変えるのは聖なるメッセージでもなければ、イデオロギー、観念、信仰ではなく、真に変革した「存在」そのものである、ということを。存在が質的変容を起こさなくては、人間を真に変える影響を与えることは決してできないことだろう。
 少々長いが、この「芸術と人生」に収められたリルケの書簡から、ぼくが最も感銘を受けた一節を紹介したい。

 私はきょうもまたセザンヌの絵を見にいきました。彼の絵がみごとな雰囲気をかもしだしていることは不思議なくらいです。その絵を一つ一つ見ないで、二つの部屋のちょうど中間に立っていると、そこに現存するいろいろな絵がより集まって、一つの巨大な現実になっていることが感じられるのです。それはまるで絵の色彩がわれわれから永久にためらいを取り去ってしまうかのようです。これらの赤や青の清らかな良心、その素朴な真実性は、われわれを教育してくれます。われわれができるだけ心構えをして、これらの絵の下に立つと、それらの絵はわれわれのために何かをしてくれるようです。そしてわれわれはそのたびごとに、愛をさえ越えていくことがどんなに必要であったかを、より良く知ることができるのです。
 もちろん、これらの事物(もの)の一つ一つを画くとき、画家がそれを愛していることは言うまでもありません。けれどもその愛情を表に現すとき、その絵はつまらないものになるのです。その事物(もの)を言う代わりに、判断することになるのですから。画家は公平ではなくなってしまうのです。そして最上のものである愛は作品の外に残って、その中へははいっていかないのです。作品の中に置き換えられずに、そのかたわらに残ってしまうのです。情緒的な絵画(これは素材的な絵画よりすぐれたものではありません)がこのようにして生まれたのでした。
 そこで画家は「私はこの事物(もの)を愛している」という風にかいて、「ここにこれがある」というふうにはかいていないのです。後者の場合、もちろん画家はだれでも、自分がこの事物(もの)を愛したかどうかということを、自分でよく省みなければなりません。しかし、その愛はぜんぜん表には現さないのです。そして多くの人々は言うでしょう。そこには愛情などは少しもないのだと。そのくらい愛はあますところなく、創作の行為の中で消費されているのです。この名もない仕事のうちに愛を消費するということ、これからあのように純粋な事物(もの)が生まれてくるのですが、このことがあの老セザンヌの場合ほど成功した例はおそらくほかにはないでしょう。
 彼の疑い深く、不きげんな、内的性質が、このことにおいて彼を支えていたのでした。彼はおそらくいかなる人に対しても、どんなに愛情をいだいていたにしても、もはやそれを示したことはないでしょう。けれどもその孤独な変わり者であることによって完成されたあの性向をもって、彼はいまや自然にさえも向かい、そのりんごへの愛をかみ殺しながら、それを画かれたりんごのなかにこめることができたのでした。これがいったいどんなことであるか、そしてわれわれがこのことを彼によって、どんなに体験するか、あなたはそれを想像することができるでしょうか。
 (クララ・リルケ宛 1907年10月13日)

 「無我的」な観点からリルケや、セザンヌを観照する時、「愛の受肉化」について思わざるを得ない。我々人類はまだ、「愛」について語るほどに成熟もしていなければ、「私」を超えたものについての領域について、十全に表現するに至っていない。あるいは、知恵の木の実を食べた我々は、とある歴史の転換点で間違った道を歩み、堕落してしまったのではないだろうか、と。愛を声高に叫ぶことなく、愛を受肉化し、沈黙のまなざしの中に愛を宿せるような人類が現れたら、世界は真に変わるのかもしれない。仏陀の微笑は、一億年の未来の人類のそれであるのかもしれない。しかし、私たちはあまりにもがさつすぎ、あまりにも自己愛にすぎ、あまりにも真実から遠ざかってしまったのだ。ましてや、真実の中で生き、呼吸し、自らの身体を真実の表現として発展させることができる、などと誰が夢想できるだろうか。
 しかし、恐るべき自我中心社会の中に生きる私たちは、今、様々な悲劇によって学ばされている。私たちの愛は、愛ではなかったのである。信仰は、神に至らなかったのである。悟りは、世界に満ち渡らなかったのである。
徹底した自我の否定、剥奪によってのみ、私たちは愛の中に生き、ともすれば愛の表現者として自らを高めることができる。この社会を否定した人間は、真摯であればあるほど必ず自我否定に行き着くことだろう。そして自我を否定し、破壊、脱落させた後に、愛の可能性についてほんの僅かに語る資格を持つのである。なぜなら、真の表現とは、内的感受のさらにその先にある受肉化に他ならないからである。
 リルケは「無我」の詩人であった。彼は社会の中において孤独であったかもしれないが、誰よりもまっすぐに、迷うことなしに、人生においての行為がただそれだけしかないように、ストイックに愛の中に入り込もうとした。しかしそれは決して先天的、かつ運命的な性向ではなく、後天的、かつ意志的なものであった。彼は自ら詩人になろうとして、詩人そのものになったのである。だからこそ我々はその植物的とも言える地道で、純粋な、飽くなき創造の発展の中に、大きな可能性を持つことができるのだ。誰でも日々、自らを見つめ、味わい、余分なものを燃焼、浄化する中で無限の領域に入り込み、何かを汲み出し、自らの肉体の中に愛の形として宿す可能性を持つことができるのではないだろうか、と。
 最後に、ぼくが最も好きな――そしておそらく最も有名な――彼の詩を紹介して、この稿を終えようと思う。


      秋 

  木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
  大空の遠い園生が枯れたように
  木の葉は否定の身ぶりで落ちる

  そして夜々には 重たい地球が
  あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる

  われわれはみんな落ちる この手も落ちる
  ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

  けれども ただひとり この落下を
  限りなくやさしく その両手に支えている者がある

    (リルケ 形象詩集−富士川英郎訳)


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★評論
無我表現試論
              高橋ヒロヤス


さて、今回からは、このメルマガの趣旨に沿って、「無我表現」について何かを書いていきたいと思うのだが、無我表現の評論というのは、考えすぎるとできなくなってしまう。というか、考えに考え抜いた上で書くとむしろ頭でっかちな、エゴまるだしの評論になってしまう危険がある。なので、できるだけ肩の力を抜いてやっていこうと思う。

「評論」などと謳ってはいるが、少なくとも、ここでは「この表現は無我。この表現はエゴ」というレッテル貼りをするような評論をするつもりはない。

大切な前提がある。それは、悟りを開いた人でなければ無我表現ができないわけではない、ということだ。無我表現は、それ自体が「悟り」である。

無我表現とは、自他不二、自己即他者、我即世界、つまり「私と世界(他者)の間に隔たりのない表現」のことをいう。

厳密な話をすれば、「悟った人」が「作品」を通して表現する、ということではない。「作品」そのものが悟りなのだ。「作り手」という分離した存在が残っている限り、それはまだ無我表現ではない。

ごく普通の人(普段の生活ではエゴにまみれているような人)が、ふとした時に見せる「無我」な表現、あるいはエゴの塊のような芸術家や表現者がむしろ自分でも全く予期せぬ瞬間に生まれた無我の作品。そうしたものを拾っていければと思う。そして、ゆくゆくは、「悟り系アート」という言葉を定着させたい。

次に示す有名なエピソードなど、「無我表現」の何たるかを端的に示す話だと思うのだが、どうだろうか。

三遊亭円朝といえば、名人と呼ばれる希代の落語家である。あるとき、この円朝が山岡鉄舟の前で「桃太郎」を一席しゃべった。ところが鉄舟は気にくわない。「おまえさんの桃太郎は、死んでしまっている。おまえは舌でしゃべるからいけない。舌を使わずに話してみろ」と鉄舟に言われ、以降熱心に参禅。2年間の修行の後、鉄舟に「桃太郎」の噺を聞かせたところ、「無舌居士」の名をもらったという。

鉄舟はこう言ったという。「今の芸人は、とかく人さえ喝采すれば、すぐにうぬぼれて名人を気取るようだが、昔の人は自分の芸をいつも自分の『本心』に問うて修行したものだ。しかし、いくら修行しても、落語家は『舌を無くす』ことをしない限り、本心は満足しない。役者だったら、身体をなくさない限り、本心は満足しないのだ」

先日、TBSラジオの『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』という番組で、『13人の刺客』や『一命』などの本格時代劇から『ヤッターマン』や『忍たま乱太郎』など幅広い作品を手掛ける、現在の日本を代表する映画監督といってよい三池崇監督のインタビューが放送されていた(話が脱線するが、TBSラジオはこの『ウィークエンドシャッフル』をはじめなかなか面白い番組をたくさんやっていて、最近ではポッドキャストなんかでも聞けるので重宝している)。そこでの三池監督の言葉に感心する箇所がいくつかあった。曰く、「最近の監督は個性を出そうとして流れに逆らおうと必死にもがいている感じがする。でも、流れに逆らっていることは傍から見れば止まっているのと同じに見える。自分はむしろ個性というものをいったん無くし切って、とことん流されていくことにしている。すると、結果的に思ってもみなかった個性的な作品が次々に生まれる。川の流れと一つになることで見えてくるものがある。流されていく先には必ず海があるのだから。」

三池監督の映画を一本もまともに見たことのない僕が言うのはおかしな話だが、彼の制作スタンスには「悟り系」の匂いを感じる。

話がとりとめもなくて申し訳ないが、今後予定しているテーマを以下に掲げてみようと思う。

○鳥居みゆき論(自我〈エゴ〉の無化作用としての芸?)

○今一部で話題沸騰中の深夜アニメ『輪るピングドラム』論(註:この作品が無我表現というわけではない)

○まったく新しい視点からのビートルズ論(何もかも語り尽くされているに決まっている、あまりにも有名な史上最大のバンドについて、いまだかつてない「無我表現」という観点から語る)

○日本現代女優論

そんなわけで、おいおい書いていきたいと思っているので今後もよろしくお付き合いのほどお願いいたします。



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◇エッセイ
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々―

「笑うパンプキン」
 長岡マチカ(文化人類学を学び、現在、アラスカ在住)

 まだ日の昇らないミッドタウンの交差点でブレーキを踏む。信号機の赤色に照らされたフロントガラスに白い小さな粒があたる。目を凝らして顔を近づけると、「あっ、雪!」と後ろから子ども達の叫び声。初雪。丸く霙のような雪、多分積もる前に解けてしまうだろう。空から降りてくるいくつもの粒がヘッドライトを浴びキラキラと舞っている。子ども達は車窓に額をくっつけて大はしゃぎ。長い冬を終える頃には雪が解けるのをあれほど待ち望むのに、こうして初雪を前にすると不思議と皆で祝いたいような気持ちになる。
 初雪の頃、店先にはオレンジ色が溢れている。ハロウィンや感謝祭をイメージしたデコレーション。パンプキンが山積みになった周りには人だかりができる。上から少しつぶしたようなものや、背伸びをしているようなパンプキンもある。人々はいくつか手にとり持ち上げたり回したりしながら「よしこれだ」と頷きショッピングカートに入れていく。「この表面はちょっとへこみすぎだね」「こちら側は傷があるけれど反対側はこんなに滑らか」、子ども達と相談の末、今年は幼児が抱きかかえてちょうど両手が届くほどの大きさのもの、そしてそれよりは少し小さめのもの、そんな二つのパンプキンを手に入れた。 
 ケルトの収穫感謝祭を起源とするハロウィン、ここアラスカでも子ども達が最も楽しみとする行事の一つとなっている。民家の前庭にはパンプキンを彫った「ジャックオーランタン」の他にも黒猫、お化け、蜘蛛、魔女、墓などをイメージしたオブジェが並ぶ。「今年のコスチュームどうする?」そんな会話があちらこちらから聞こえる。子ども達は骸骨やお化けなどのちょっと怖そうなものから、プリンセスやアニメのキャラクターや着ぐるみの動物など可愛らしいものまで思い思いのコスチュームに身を包み、「お菓子くれないと悪戯しちゃうよ!(Trick or Treat)」と叫びながら家々を回る日を指折り数えて待っている。
 ハロウィンに向け街中の熱が高まる頃、パンプキンを彫った。床に新聞紙を敷きナイフを並べる。まずはヘタの部分を切る。パカッっとふたをはずすように持ち上げると、つんと生臭い湿った匂いが空気に漂う。パンプキンの空間に手を入れ、外側より少し明るいオレンジ色をした果肉に張り付いた筋や種を取り出していく。ぬるぬるとしてしばらくすると手が痒くなる。種は洗いオリーブ油と塩を絡めオーブンへ。「何だかこのパンプキン笑ってるみたいだね」子ども達が言い合っている。しばらくパンプキンを前にどう彫っていこうかと話し合った後、口を固く結び力を込め表面にナイフの先を突き刺す。ゆっくりと手を動かしていく。固い表面、少しの長さを彫るだけでもかなり時間がかかる。焼きあがったばかりの種を口に放り込んでは休憩し、また彫る。

 パンプキンの表面に徐々に浮かび上がってくる顔を見つめながら、15年前に先住民の村で出会った仮面彫りの男性を思い出した。彼は海岸から流木を持ち帰っては仮面を彫っていた。小さな部屋の壁には彼の作品が並んでいる。木片にじっと向き合い、頷いては彫る。シャッシャッと茶褐色の木面を削る音が部屋に響く。
「何になるのかはこの流木が知っている。私はこの流木の教えるとおりに彫っていくだけだ」
 そう彼は静かに言った。森羅万象全てのものに、形を超えた「魂」や「霊」のようなものが宿っている、先住民の人々は以前そう信じていた。今はほとんどがキリスト教徒の村人たちのなかで、この仮面彫りの男性はそんなアニミズム的な世界観の中に暮らしていた。
「感覚を澄ましてごらん、周りにあるあらゆるものが語りかけてくる」
 彼は木片から顔を上げ窓の外に広がる水平線を見つめながらそう言った。

「できた!」子ども達が嬉しそうに叫んでいる。目の前にパンプキンが笑っている。もうすっかり暗くなった夜の玄関先に並べ内にキャンドルを灯してみる。暗闇の中で耳を澄ますと、炎に照らされたパンプキンの笑い声が聞こえるような気がした。



★編集後記
 今月号から「無我的観照」という連載を始めました。これまでの芸術、文学等を「無我」的見地から再評価する試みです。今を生きる私達にとって何が重要であり、何がそうでないか――これを明晰にしたいという気持ちで「MUGA」を続けています。できれば、「無我」的なあり方が「格好いい」「美しい」と思えるような具体的イメージを提示したいのですが、まだそこまで至っていないという自覚はあります。出口は見えている気はするのですが…。一歩一歩、何か新たなものが生まれるまで歩み続けるしかないのだな、と思う今日のこの頃です。新たな執筆陣の発掘や、読者投稿コーナーのような企画も考えています。我こそはという方はご連絡ください。ちなみに、来月は少し宗教がかった対談を載せる予定です。(那智)



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創刊日:2011-08-08  
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