芸術

MUGA 芸術から科学まで「無我」表現による革命を

 MUGA表現研究会とは、エゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界=無我」という単位からの表現を志す会です。
 文化的価値の転換、革命を目指し、その雛形として無料月刊メルマガ「MUGA」を配信(毎月15日)します。


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MUGA第2号 

2011/09/15

「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

無我表現研究会発行 月刊メルマガ
 
●「MUGA」発刊にあたって  

 自然からの分離、エゴの恐るべき肥大化によって、人類は戦争、テロ、飢餓、自然破壊、核の問題等、恐るべき問題を生み出し続けてきました。そして3月11日の福島原発の事故によって、私たちは新たな道へと歩き出さねばならないことが明白になりました。
 エゴイズムに汚染された現代文明から、自然の摂理と合一した「無我」的な文明への転換の道――しかしその道を選択し、実際に人々が歩み出すためには、まず「無我」というものを積極的価値観として、社会の中に根付かせてゆく必要があると強く感じています。
「私」中心の価値観から、「世界=無我」中心の価値観へ。無我表現研究会では、機関紙『MUGA』を月刊(毎月15日)で発行し、芸術、自然科学、評論、エッセイ等、様々なジャンルで「無我」の側からの表現を発信してゆきます。
  
無我表現研究会


◆目次

◇アート

・詩
『季節の詩』     rita

・小説
『きみの涙を恥じるなかれ』?   那智タケシ

◇自然科学

『潜態論入門』第2回   河野龍路

◇座談会

「潜態論」の可能性 無我表現研究会

◇評論

『悟り系とは何か 〜悟りはゴールではない〜』   高橋ヒロヤス

◇体験

『2つが1つに』 河中慶滿

◇エッセイ
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 
『晩夏』   長岡マチカ


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◇アート

★詩

季節の詩     rita 


  【・ダチュラ・】

ダチュラ※は裏道に座って 今宵も月光ぼっこ

空高く郡飛する雲達の眼差しを
マンホールから逆巻く水の行方を

街灯に伏在する虫の羽影を

重量にきしむタイヤの痕跡を

さやぐ夜の鼓動を 聴きながら

わずかに熱を帯びた 白い耳たぶから
ぬくぬくと体臭をただよわせて

わたしは隣に腰を掛けて手を伸ばした

それは魅惑的な曲線にふちどられた盃

夜の鼓動を濃縮した 生ぬるいジュース

過ぎるヘッドライトに乾杯したら

夜明けまで飲みすえましょうか


※ダチュラ・・・朝鮮アサガオのこと


   【・夏の果て・】

夏の果てより

日差しを転がり落ちた蝉

愛を語るゼンマイが 切れてしまったの

イエローの御告を受けた桜の葉は

地に舞い降りる 手を振るように バイバイ

 
   【・夕 立・】

ようやく頭上の空が目を覚ましたみたい

一筋の光が地上に差し込んだよ

雲は重たいまぶたを 風の流れに委ねて

西へ西へと まどろみを抱えて去っていった

先々でも時折 ぐずぐずと駄々こねて

喚き散らしてる様子だったけどね

 

   【・朝 顔・】

朝ぼらけは 画用紙みたいな真っ白な空
端っこに潜んでる火の玉の妖気

察知した朝顔は ヒトデの形に口を突き出したの

炎帝の鐘が空をわたって届く頃
その赤い波動に揺さぶられ 始動した小さなパラボラは

雛鳥みたいに口を広げて 一心に希求する
ツルから身を乗り出して 首を反らして

夏の心拍に昼が舞踏してる頃

朝顔は 大きな声を上げていた

あー

今日の幸福でお腹いっぱい

たとえ露とはかない命と言われても お構いなしさ

 
   【・ 蓮 ・】

アルマジロの甲冑みたいに

いかめしく 蓮の葉の集まっていること

水に浮いていながら
不自由な地面に立っている草木より ずっと重たいこと

沼は沈黙していて
ちょっとやそっとの風には動揺しない
慌ただしい蜻蛉たちにも乱されないの

蓮の前で様子を伺ってはずっと待ってるんだけど
扉はいっこうに開こうとしないんだ

わたしは身の程知らずなのかもしれないな
あそこはとてつもなく強力な磁場が働いているのかもしれないな

ドームの中に閉じ込められたプラズマが
少しだけ花として 輝きを放っている
釈迦の慈愛の光明のように

それにしても わたしの心は入っていけなかった
固く閉ざされたままで

蓮の鎧は だれかの心の形だったりするのかな


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★小説

『きみの涙を恥じるなかれ』?      那智タケシ

     5 天使

 智子は、早速、地方新聞社の担当記者とその日のうちに会うアポを取り付けた(不思議なことに、相手は快く了解してくれた)。焦る気持ちを抑えつつ山手線に乗り、東京駅に着くと、新幹線の切符を買った。連休の真っ只中だというのに、盛岡行きの指定席を取ることができた。約3時間半もの旅になる。暇をつぶすための雑誌と新聞をキオスクで買い、焼肉の駅弁も購入した。しかし、発車までまだ20分ほどあったので、コーヒースタンドでホットコーヒーを頼み、一息入れることにした。
 構内のテーブルで熱いコーヒーをすすっていると、斜め前の席に腰掛けている一人の少女が目に付いた。黒いドレスに真紅のフリルというゴスロリの格好をしたその少女は、姿勢正しく正面を見つめて、静かに飲み物を飲んでいた。連れらしい存在はいなかった。彼女は、人目につく格好をしていたが、堂々としていて、自意識はどこにも感じられなかった。私もあんな風になれたらよかったのに。かわいくて、自信に満ちていて、しっかりと自分を持った個性的な存在――智子がぼんやりと見惚れていると、少女は、正面からこちらを見つめた。アイドルのようににこりと笑い、そんな自分に満足した様子で、紙コップの中身を覗き込んだ。彼女にとって他者は敵ではなく、自分を愛し、称える臣下なのであった。それゆえに彼女は自分に向けられた愛に対し、自然と屈託のない愛を返すことができるのだ。
 時代も変わったものだ、と智子は思った。悟りだ何だと言って、私は、もしかすると古臭い人間なのかもしれない。最初から救われ、恩寵の中にいる人間がそこかしこに現れているのだとしたら。
 新幹線に乗り込むと、窓際の指定席に座った。隣の席は埋まっていたはずだが、発車5分前だというのに、誰もいなかった。彼女は、ほっとした気持ちで荷物を上げ、雑誌を開いた。できれば、誰も来て欲しくない。ビールを飲むような中年の男が隣に来たら、せっかくの一人旅も台無しである。雑誌をめくると、原発の爆発の可能性を俗悪に仕立て上げた記事が目に付いた。智子は眉をしかめて、読み飛ばした。悲しみの源を探す旅である。いくら醜悪なものも受け入れるべきだとわかっていても、原発の放射能まで自分の世界の中に入れたくなかった。
 その時、天上からひとつの声がした。天使のような、澄み切った声であった。
「失礼します」
 見ると、先ほどのゴスロリの格好をした少女が、目の前に立っていた。彼女は、ばか丁寧にお辞儀をすると、切符をちらつかせ、智子の隣の席が自分の席であることを知らせた。それから、頭上の棚にピンク色のショルダーバッグを上げようとした。しかし、背が小さいので、背伸びをしても上手く押し込めず、苦戦していた。智子は立ち上がり(彼女は170センチ弱あった)、荷物を上げるのを手伝ってやった。
「ありがとうございます」
 またもや、少女はよくできたアイドルのような口調で礼を言った。その瞬間、はじめて智子は相手の顔を直視したが、よく見ると少女というには年が行き過ぎていて、20代前半にも見えた。間近で見れば厚化粧で、付けまつ毛は浮いており、ファンデーションでコーティングされた顔は、どこか人工的でロボットのそれのようであった。智子は、見てはならないものを見てしまったかのような気がして、目を伏せると、軽く頭を下げて席を着いた。そして雑誌を読む振りをしたが、隣の少女がどうしても気になってならなかった。
 新幹線が発車してから10分ほどして、ゴスロリの少女がおやつを勧めてきた。
「よかったらどうですか?」
 ポッキーであった。智子は、礼を言って、お義理に一本もらった。
「先ほど、私のことを見ていましたね?」少女は、話を続けた。
「先ほどって?」
「あの、コーヒースタンドで」
「ああ、あなた、かわいいから」
「少し、お話してもいいですか?」
「もちろん」智子は微笑んだ。少しばかり、面倒だな、と思いながら。
 驚くべきことに、二人は陸前高田市の同郷であり、少女は、中学校の二つ下の後輩にあたることがわかった。さらに驚くべきことには、少女は、智子のことを知っていて、コーヒースタンドでも声をかけようか迷ったほどだという。しかし、智子は相手のことをまったく覚えていなかった。ファッションや化粧のためかもしれない。少女の名は綿貫マユと言った。
「偶然って恐ろしいですね」とマユは言った。「私、すぐに気づきました。あっ、布村先輩だって」
「本当に、不思議ね」と智子は感慨深げに言った。「でも、よく私のことがわかったわね?」
「私、憧れていましたから」とマユは言った。
「憧れていた?」
「先輩のことをずっと見ていたんです」
「私って、憧れられるようなやつじゃなかったと思うけど?」
「でも、私は見ていたんです」とマユは言った。「ああ、この人は特別な人だなって」
「特別? まさか」智子は苦笑した。「根暗だし、ぶさいくだし、垢抜けないし、頭だってよくない。私ってほんと、冴えないやつでしょ?」
「そんなことありません」マユは熱心な調子で言った。「わかる人にはわかるんです」
「何がわかるっていうの?」智子はいぶかしげに相手を見つめた。
「怒らないでください」
「怒ってないけど…」
「先輩は、私と同じ人間なんです」とマユは言った。「私にはそれがわかっていました」
「同じって?」智子は、なぜかぎくりとして聞いた。
「人には言えない秘密を持った人間です」とマユはまっすぐに相手の目を見つめて答えた。
 智子は泳がせ、思わず、周囲の席を見回した。誰かに聞かれていい話ではなかったからだ。幸い、通路の向こうの席のサラリーマン風の男は眠っていて、前の席のカップルは、自分たちの会話に夢中のようであった。後ろの席までは気が回らなかった。
「物騒なことを言うのね?」智子は釘を刺した。「私にはそんな大それた秘密なんてないわ」
 マユは、微笑んだだけであった。
 それからしばらく、二人の会話は途切れた。気づくと、マユは眠っていた。思わせぶりなことを言っておいて、のん気な子だ。けれども、この子は妙に勘がいい。注意を払わなければならないだろう。
 智子は、何気なく窓の外を見つめた。次第に殺伐としたビルの姿が消え、平野が広がってゆく。地平線の向こう側に、山が見え始める。すると自分の感覚が窓の向こうに拡がって、平野を越え、山を越え、空の向こう側に突き抜けてゆく。その感覚の拡大には限界がない。どこまでもどこまでも拡がっていく世界――すると、只世界だけがあり、布村智子という中心はどこにもない、というあの不思議な感覚が再び蘇ってきた。透明で、無限の、神話的な意味に満ちみちた完璧な世界――そこに「私」が入り込む余地はどこにもなかった。
 もしかすると、私は何かの精神病になりかけているのかもしれない。あまりに孤独な生活を送ってきた人は、頭の中身までおかしくなってしまうというから。でも、この拡がりゆく感覚の心地よさ――いつまでもいつまでも、私はこのパーフェクトな世界の中に消えうせていたい。
 ふと気づくと、隣にマユがいなかった。まさか、途中の駅で降りてしまったわけではあるまい。ポッキーの箱やら、ピンク色のかわいらしい形の手鏡等が簡易テーブルの上に載っているのを確認して、智子はほっとした。そして自分がどれだけこの風変わりな旅の道連れに愛着を抱いているかを発見し、我ながら驚いた。
 しばらくして、マユが席に戻って来た。
「ちょっと、目覚めの一服をしてきたところです」彼女は悪戯を告白する子供のように言った。
「その格好で煙草吸うと、目立つでしょう?」
「私は、人の目なんて気にしないんです」マユは意固地な調子で答えた。「先輩も、そうでしょう?」
「私はあなたのようにはなれないわ」智子は笑って言った。「チキンなの。いつも、人の目ばかり気にして、びくびくしてる。だから人と合わせようと必死になっちゃうの。目立ちたくないのね」
「大丈夫、充分目立ってますよ」マユは笑った。
「そうかしら?」智子は不安げに聞いた。「私って変?」
「ええ、とても」とマユは悪気もなく答えた。「真っ白な顔してるし、ストレートの黒髪だし、目がとてもきれいだから」
「ありがと、慰めてくれるのね」智子は思わず、顔をほころばせて言った。
「いえ、本当のことです」とマユは生真面目な口調で答えた。「私は、本当のことしか言わないんです」
「でも、それじゃ、たいへんでしょ?」
「ええ、たいへんです」とマユは答えた。「でも、建前を口にしているほど、人生は長くないですから」
「すごいこと言うのね?」智子はすっかり驚いて言った。相当に芯の強い子らしい。
「私は、嘘は嫌なんです」マユは吐き捨てるように言った。「大人って嘘つきばかりでしょ? 建前と嘘ばかりで、何の真実もない。偉そうな顔してるけど、彼らには何もないの。私にはそれがわかるんです。こんな大人ばかりだから、世の中悪くなっているんだなって。だから、私は大人の言うことなんて絶対に聞きません。むしろ、逆々をやってやりたくなるんです。だって、逆のことをした方が正しいんですもの。気づいたら、こんな格好で煙草を吸うようになっていました」
 マユは自嘲するようにうつむいて笑った。すると、その面に年相応の影が宿った。
「あなた、格好いいわ」と智子はつぶやいた。

    6 告白

 新幹線の窓から、岩手山が見えてきた。マユは無邪気に写メを撮っていたが、智子はなぜか無感動だった。あまりにも不動で、あまりにも美しく見えたせいかもしれない。よくできてはいるが、まるで窓ガラスに映る絵葉書のようだ。先ほどの世界との合一感覚は、今、消え去っていた。その代わりに、彼女は自分の隣に腰掛けている、ゴスロリの女性に心を奪われつつあった。この子と一緒にいたい、もっと話し合いたい、理解されたいという欲求が、自分の心を支配しはじめているのがわかった。
 盛岡駅に着くと、智子はすっかり仲良くなったマユと一緒に、一服するために喫茶店に入った。
「でも、こういうことってあるんですね」マユは惚れ惚れと相手を見つめながら言った。「だって私と先輩がこんな風に出会って、新幹線の席も隣になるなんて、天文学的な確率でしょう?」
「うん、本当に不思議ね」と智子は同意した。「でも、これは偶然じゃないって気がする」
「偶然じゃない?」
「そう、何か必然的な縁があって、私とあなたは引き寄せられるように出会ったの。そんな気がするわ」
「それだったらうれしいです!」
「実はね、さっきあなたの話を聞いていて、びっくりしたの。ああ、私と同じこと考えてるなって」
「同じこと?」
「そう、社会に対する不信感とか…」智子は自分の内面を見つめながらつぶやいた。「でもたぶん、私の方が無意識だし、妥協してきたのね。ええ、自分をごまかしてきたの。だからあなたみたいに社会と戦えなかったし、表現もしてこなかった。むしろ、目立たないように、何者でもないように息を潜めて生きてきたの。みんなと変わらない、普通の人間だって思わせたかった。誰ともぶつかりたくなかったし、かと言って、かかわりたくもなかった。だからあなたに出会って、ああ、私も正直に生きなくちゃなって思えるようになったの。隠れてばっかりじゃだめだなって。まだ、今は、何をしていいのかわからないけれど…」
 マユは、熱心に聴いていた。
「本当はね、私はあなたのように生きたかったのかもしれない」智子は自分でも驚くほどの素直さで告白を続けた。「あなたのような格好はできないけれど、別のやり方で反抗することはできたかもしれない。私だってこの社会が悪いこと、間違っていることはわかってる。あなたの言うように嘘つきばかりで、何の真実もないってこともね。本当にどうしようもないやつばかりだもの。政治家も、企業のトップも、誰も彼もね。中にはまともな人もいるのかもしれないけれど、彼らもどこかで妥協してる。よくない流れに流されている。それだけ、どうしようもない世の中になっていて、みんな何となくそれはわかっているけれど、誰もどうすることもできないの。何が正しいか誰も言うことはできないし、確かな拠り所は何もない。挙句すがるものは使い古された宗教や、精神世界系の妄想とかね。真実から目を反らし続けているの。本当、涙が出るくらい世の中はどうしようもなくて、だから私は悲しくて仕方なくなっちゃったのね。だって、本当に救いようがないくらいにどうしようもなくなっちゃってるんだもの」
「わかります、わかります」智子は頷いた。
「私ね、何か、とても良くないことが起きる気がするの」と智子は言った。「だって、私たちは明らかに間違った道を進んでいるから。この道は袋小路なの。でも、私にはどうすることもできなかった。だって私には何の力もないし、何の言葉もないんだもの」
 突然、マユは、智子の手を力強く握り締めた。
「私、感動しました! ほんと、布村先輩ってすばらしい人ですね! 私も、たぶん、今、先輩が言ったのとまったくおんなじことを考えていたんです。でも、私はばかだし、言葉にするのが下手だから、こんな格好しかできないんです。ああ、私たちは、ずっと友達ですね!」
 智子は、ぎこちなく笑い返した。他人から愛されることに慣れていなかったからである。
「今日は、実家に泊まられるんですか?」ちょっとした昔話の後、マユは尋ねた。
「ううん、ちょっと事情があって、今日は近くのビジネスホテルに泊まるつもり。マユちゃんは?」
「私は、お母さんと父のお墓参りに行って、家に泊まります。もしよかったら、私の実家に泊まりませんか?」
「それは無理よ」智子は微笑した。「親子水入らずの時間を邪魔するわけにはいかないわ」
「そんなこと、気にしないでください!」マユは顔を紅潮させて、叫んだ。「母も、私が友達を連れてきたと言ったら、きっと喜ぶと思います!」
「ありがたいけど、やっぱり遠慮しておくわ」智子は相手を傷つけないようにやさしい口調で言った。
「でも、先輩は、何で実家に泊まらないんですか?」マユは、疑わしげに尋ねた。「里帰りするのに、ご両親には会わないつもりなんですか?」
「今のところ、そのつもりよ」
「でも、どうして?」マユは詰問を続けそうになって、やめた。「ごめんなさい、詮索するつもりはないんだけど、気になってしまって。私、先輩から離れたくないし、何だか嫉妬してるみたいです」
「私だってマユちゃんと離れたくないわ。せっかく知り合えたんだもの。でも、今日は私、ちょっとやることがあるの。もしよかったら、明日でも会わない?」
「もちろん、会いたいです!」
「そうしたら、今夜にでも連絡するわ」
「ありがとうございます!」
 智子は、なぜか目の前の女性に恐れを抱き始めていた。もしかすると、自分に対する愛情の中に、執着的なものを感じていたからかもしれない。あるいは、私の秘密を知られることを恐れたためか。なぜって、私は殺人者なのかもしれないのだから… どちらにしろ、いったん、離れた方がいい。このままでは、本当のことを告白してしまいそうだった。
 しかし、本当のことって何だろう? 
 智子が自分の内部に再び沈潜していった瞬間、一つの、力強い声が彼女を呼び戻した。
「私、先輩のことが好きなんです」
 智子は、力なく微笑んだ。
「私も、あなたのことが好きよ」と彼女は正直に告白した。

    7 神隠し

 実家に帰るマユをバス停で見送った智子は一人、駅前のビジネスホテルに向かって歩き出した。ふと、秋田県との県境にある岩手山を眺める。その雄大な山は、新幹線の窓から見た時よりもはるかに生々しく、自分に近しいものとして感じられた。そしてあの「山」は「私」であり、「私」は「山」であるという今朝方の奇妙な認識が、再び彼女の脳髄の中で生まれた。その圧倒的な感覚は、恍惚とした眩暈さえもたらすものであった。私は、あの山に導かれてここに来たのかもしれない。なぜなら、私はあの山から生まれ、分離し、そして再び一つになるために戻ってきたからだ。智子は何の脈絡もなくそう感じた。
 駅前のホテルでダブルの部屋を取ると、荷物を置き、一服する間もなく部屋を出て、新聞社に向かった。マユとゆっくりしすぎたせいで、約束の時間である午後4時まで間がなかった。5分ほど遅刻して到着し、記者の名前を告げると、すぐに応接室に案内された。そこには、すでに初老の眼鏡をかけた小柄な男が、下座のソファに座って待っており、背中を丸めて前かがみに新聞を読んでいた。
「布村智子です」と智子は挨拶した。「いきなり、変な話で押しかけて申し訳ありません」
「高田です」男は首だけで振り返り、僅かに腰を浮かしてぺこりと挨拶すると、目の前のソファを勧めた。「あなたが来るのをお待ちしていました」
「すみません、遅れてしまって」智子は腰掛ける前に謝った。「東京から来たものですから」
「いいえ、そういうことではないのですよ」と高田は物柔らかな微笑を浮かべて言った。「私は、あなたがここにやって来ることを10年間、待ち続けていたのです」
「10年間?」智子はぎょっとして尋ねた。
「そう、10年間です」高田は意味深に微笑んでみせた。
「どういうことです?」智子はソファに腰掛けると、不審に思って尋ねた。「私は、あなたとは初対面だと思いますが…」
「初対面ではありませんよ」と高田はにこにこして答えた。「あなたは、覚えてらっしゃらないかもしれませんが、私は14歳のあなたとお会いしているのです」
「14歳の私?」
「そう、あなたは中学2年生でしたね」高田は黒縁眼鏡の縁を持ち上げ、懐かしげに目の前の女性をじっくりと眺めた。「ああ、あなたはまったく変わってらっしゃらない。本当に、驚くべきことですな。10年前のあなたが、今、目の前にいるようです。ええ、私は感動しているのですよ。私はこんなにもくたびれてしまったけれど、あなたは変わらずに真摯で、純粋で、痛ましいまでにあなた自身でいらっしゃる。そのことに私は感動しているのです。世の中には失われつつものがたくさんありますが、変わらないものもまたあるのだと再認識させられたしだいです」
「お話がよくわからないのですが…」智子は、すっかり戸惑ってつぶやいた。「つまり、10年前、私はあなたとお話ししたということですね」
「不思議がるのも無理からぬことです」と高田は答えた。「あの時のあなたは、まるで夢遊病者のようで、頑なに心を閉ざしていましたから。私は、あなたがあの事件の真相を知っているのではないかと思い、あれやこれやと尋ねたものですが、あなたは結局のところ、本当のことを教えてくれませんでした。でも、私はあなたがすべての謎を解くキーマンであることを疑ったことはありませんし、またあなた自身、必ずや謎を解き明かすために戻ってくることを疑うことはありませんでした。それは私だけではありません。当時、あなたは最大の謎の人物とされていたんですよ」
「謎の人物?」智子は、ほとんど不快なまでの驚きを感じていた。「おっしゃっている意味がまったくわからないのですが…」
「あなたを驚かすつもりはなかったのです」と高田は言って、目の前のガラス製のテーブルに広げられた新聞を指差した。「あなたは、この記事を読まれたのですね?」
 それは、今朝方智子が見つけた、UFOの目撃事件の記事であった。
「はい、そうです」と智子は偽らずに答えた。「何となく、思い出したことがあったので…」
「思い出した?」高田は注意深く質問した。「何を思い出されたのです?」
「それは、10年前に、K神社で何かを見たような記憶があったものですから」智子は言いよどんだ。「ちょっと調べてみたんです。そうしたら、UFOの目撃サイトみたいなところにこの記事があって、ちょっと気になったんです。ええ、それだけです」
「でも、はっきりとは思い出せない?」
「ええ、どうしても思い出せません」と智子は半ばごまかして答えた。「何だか、あの時期だけ記憶が曖昧なんです」
「記憶喪失のように?」
「そうかもしれません…」智子はうつむいた。瞬間、あの恐ろしい夢の光景が蘇ってきて、背筋が寒くなった。
「本当に、あなたはお変わりにならない」高田はうっとりと相手を見つめ、繰り返した。「私は、あなたを見ていると胸が苦しくなるのですよ。なぜだか、泣きたくなるのです」
 智子は、怪訝に思って聞いた。
「私を、哀れんでいるんですか?」
「いや、そういうことではなく」高田はあわてて言い訳した。「あなたという存在に対する最大限の尊敬によるものです」
「そんなこと…」智子は、何と答えてよいのかわからず、目を反らした。
「不思議なものですな」高田は顎に手を当てて、一人、考え込んだ。「あなたは真実に吸い寄せられるようにしてここにやって来た。結局のところ、人は真実に出会うことなくして、本当の人生を生きることはできないのかもしれません」
「もったいぶらずに教えていただけませんか?」智子は、しびれを切らして聞いた。「本当は、何があったんです?」
「わからんのですよ」と高田は困った風に答えた。
「わからない?」
「そう、なぜなら、あなたは一週間ほど神隠しにあわれておったからです」
「神隠しですって?」智子は、思わず大きな声を出した。
「驚かれるのも無理はありません。あなたはK神社で目撃されたのを最後に、一週間ほど消えてしまわれたのです。ちょうど、UFOの目撃事件があったその夜のことでした。神社で、UFOの光の中に吸い込まれるのを見たという目撃者もいます」
「神隠しにあったのは、私一人ですか?」
「というと?」高田は眉根を寄せた。「あなたは、何かご存知なのですかな?」
「そういうわけでは…」
「おっしゃる通りです。もう一人、あの神社でいなくなられた方がいます。そしてその方は、戻っては来ませんでした」
「戻ってこなかった?」
「そう、文字通りこの世から消えてしまったのです。行方不明になられたのですよ」
「その人は、どんな人だったのですか?」智子は、唾を飲み込んでから尋ねた。
「知的障害者でした」と高田は答えた。

   8 宇宙人

 老練な新聞記者は、10年前に起きた事件を時系列で詳細に説明してくれた。智子が行方不明になってから一週間後に、突然、何事もないように小奇麗な姿で実家に帰って来たこと。健康で、髪も梳られており、空腹である風でもなかったこと。どこで何をしていたのかと聞かれても、神隠しにあっていた間の記憶が完全に抜け落ちていたこと。一緒に神社にいたらしい知的障害を持つ少年(当時、17歳であった)については一切心当たりがなかったこと。そして後々、一つだけ思い出したことは、「大きな丸い光を見て、それから意識がなくなった」というものであった。この神隠しとUFO事件があいまって、当時、S町で布村智子は最も謎めいた人物とされていたというのである。けれども、智子の両親が最大限の気遣いをもって繊細な心を持つ我が子を奇妙な噂から守り続けたため、いつしか、この事件は一部の人々の心の中に暗闇を残したまま、世間から忘れ去られてしまったのだ。 
 しばらく、黙考した後、智子は聞いた。
「私とその男の人を神社で見たというのは、どんな人なんですか?」
「行方不明になった少年の母親です」
「母親?」
「息子さんは、夜中に徘徊する癖があったそうです。その晩も、気づくと寝床からいなくなっていた。心配になって探していると、近くの神社の階段を上っていく姿を見たのだそうです。そして階段の頂上に、あなたがまるで待ち構えているように立っていた、ということでした。けれども、後を追いかけて境内に入ってゆくと、二人の姿はどこにもなかった。あなたは一週間後に戻りましたが、息子さんの方はそれきり帰って来ませんでした」
「その人に、会えますか?」
「もちろん、あなたなら大歓迎されるでしょうよ」
「どういうことです?」
「気をつけてください」と高田は顔を近づけ、声を潜めて言った。「彼女は、変な宗教にはまっているんです」
「新興宗教のようものですか?」
「そんなものです。どちらかというとカルトというやつかもしれませんな。私も数年前、彼女を訪ねたことがあるのですが、UFOがらみの実に変なカルトにはまっておりましてな。あなたのことは宇宙人であると認識しておりましたよ」
「宇宙人ですって?」智子は、痴呆のように口を半開きにした。
「まぁ、生き神様のように崇めているんですな。あなたはメッセンジャーだとかなんだとか、自分の息子は宇宙意識と一つになって、この世界を救うために今も働いているとか、もう常識的観点からは、とても共感できぬような人種になっていましたね。それでも会いに行かれますかの?」
「ええ、行きます」
「あなたは、相当な覚悟で帰って来られたようですね?」高田は、優しい眼差しを投げかけて言った。「けれども、決して無理はなさらぬよう。もし何か問題が起こったら、いつ何なりと私に相談してください」
「ずいぶんとお優しいんですね?」智子はびっくりして聞いた。
「私は、あなたのことを娘か孫のように感じているのです」と高田はまじまじと目の前の年若い女性を見つめて告白した。「どういうわけか、あなたのことが忘れられないでいたのです。あなたのそのお顔や、存在のあり方がわたしの頭の中の一部を占めてしまい、決して出ていこうとしなかった。特等席に乗った子供のようなものでしてね。私も仕事柄、いろいろと凄惨な事件や、珍奇なものを見てきたつもりでしたが、あなただけは特別でした。なぜかはわかりませんが、あなたという存在が、私が凡庸に堕することを防いでくれていた気がします。私は、あなたとつながり続けることで、世界の大いなる秘密につながっていたような気がするのです」
「それは、買い被りと言うものです」智子は思わず苦笑した。「私、本当につまらない女ですから」
「つまらない女は、こんなところでUFOや神隠しの話なんぞしていないものですよ」
「だとしたら、何かが変わったのです」と智子は言った。「だって、何もかも突然なんですもの」
「突然とは?」
「今朝方から、一度にいろんなものが流れ出したんです。私は、その流れに乗っているだけなのかもしれません」
「まるで波乗りをしているように?」
「いいえ、もっと強制的なものです」
 智子は目撃者の連絡先を聞くと、礼を言って席を立った。
「最後に一つだけ」高田は腰掛けたまま人差し指を立てた。「もしことの真相があらわになりましたら、どんな形でもいい。私に教えていただけませんか?」
「約束はできませんが」智子は丁寧にお辞儀をし、立ち去ろうとした。
「くれぐれも無理はしないでくださいね」高田も立ち上がり、心配そうに相手を見つめた。
 智子は思わず不敵な笑みを浮かべ、答えた。
「大丈夫。だって私、宇宙人ですから」
                                    (つづく)

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◇自然科学

潜態論入門 第2回           河野龍路

1 現象と本質
 これ以降、「現象」という言葉を多用することになります。
 もちろん、哲学的な小難しい意味で使用するわけではありません。わたしたちが日常的に見たり聞いたり触れたり、あるいは頭で考えたりしているものごと、この宇宙で発生するすべての出来事すべてをひとまとめにして「現象」と呼ぶこととします。具体的には、自然界において時間空間をともなう客観的な自然現象および、人間の精神の働きによる主観的な意識現象を指します。
 「現象」とはその名の示すとおり、表に現れた姿のことですから、それを現した「何ものか」を想定した言葉です。この「現象」させた「何ものか」は一般に「本質」と呼ばれています。広辞苑の「現象」の項にも「本質との相関的な概念として、本質の外面的な現われ」とあります。
 したがって「現象」とうものを認めているとうことは、それに見合った「本質」をわたしたちがすでに抱いていることを意味しています。例えば自然現象であれば、それらが科学的な自然の原理という「本質」に根ざしていることをわたしたちは知っている、あるいは信じているということです。もしそうでなければ、頭上を巡る太陽や星々を説明するのに神秘的あるいは宗教的な原因を思い描かざるをえないということになります(つまりかつてはそれが本質であったわけです)。人間の思考や行為という意識のかかわる現象にしても同様です。例えば、現在盛んに節電が叫ばれています。その背景には政府や電力会社の思惑もあるでしょうが、わたしたち個人にしても、家計のやりくりを念頭においている場合もあれば、贅沢なエネルギーの浪費はやめようというエコロジー的な発想、あるいはさらにこれを期に今までの価値観の大転換を図ろうとする場合もあるかもしれません。電気のスイッチを切る、という些細な現象を引き起こす本質ひとつ取ってみても、それを突き動かす動機は様々で、それらはさらにその人の世界観人生観という大きな本質に根ざしています。
 学問ないし思想はこうした膨大な人間の知的営みの結晶であるとともに、人々の意識に溶け込んでその動向を左右する役目を果たしています。したがって、(現象)−(本質)の関係は学問の異名のようなもので、何を(本質)とするかによってその学問が決定されるともいえます。もちろん科学もこの(現象)−(本質)を骨組みとしていることはいうまでもありません。

2 科学における本質 ?物質
「冬になると池に氷が張ります」
 これはただ単に客観的事実を述べただけで、まだ科学とはいえません。
「冬になり、水温が0℃以下になると、池に氷が張ります」
 これは科学です。「水が凍る」という現象を、「水温が0℃以下」という水分子の状態という他の現象と関連付けて説明しているからです。
     水が凍る ← 水温が0℃以下
 単純な例ながら、ここに科学の(現象)−(本質)の基本的関係が見出せます。生命の本質は細胞を持つことにある、塩や砂糖が水に溶けるのはそれらが分子に分解するためである、りんごが木から落ちるのは万有引力によるものである、そして現代文明の利器の多くは電気力の応用からなる・・・このように科学はある客観的現象を対象とし、それを細分化して見出された小さな要素を本質と位置づけて、元の現象をそこから合理的に組み立てて理解する方法をとります。したがって最終的には原子や素粒子の力学的運動にその本質があるとされ、物理学が科学体系の本質を担うことになるわけです。
 「池の水」(現象)←「水分子」(本質)という関係ができあがることによって、わたしたちの認識と対立した領域がそこに出現することになります。なぜなら、「水分子」を本質とみなすことで、客観的な現象であった「池の水」が、錨を降ろした船のように、わたしたちの認識(つまり現象)から離れて存在する客観的実在となるからです(図からもわかるように主客の分離に相当します)。
    
        認識 ⇔  池の水
               ↑
          水温(水分子の状態)
            
       (主観)⇔(客観)
 
 この客観的実在こそ、わたしたちがよく知っている「物質」です。
 物質とは、わたしたちの意識から独立した外側にある実体であって、あらゆる現象の本質となり、わたしたちの認識をも触発する原因として想定されているものだからです。すなわち、客観現象を本質とみなすことによって実在視されたものが「物質」だと考えられるのです。
 簡単にいうと「見えているものが現にそこに在る」という考え方です(主客の一致)。たとえ肉眼で見えないミクロな世界であっても、光学顕微鏡または電子顕微鏡で観測され、それらは客観的実在とされます(量子論ではこの物質の客観的な実在性が怪しくなるという事実に直面します)。この主客の一致という考え方が、科学がありのままに対象を観察観測していると信じられている理由ともなっています。

3 科学における本質 ?相互作用
 すべての現象は物質からなる
 これだけでは自然界の現象を説明することはできません。それでは、池の水、水分子、ウィルス、細胞、原子、星々、生物個体・・・が個々ばらばらな要素が宇宙内に散在しているだけです。
 それらのばらばらな科学的対象を結びつける作用として見出されてきたものが、万有引力や電磁力などといったいわゆる科学法則です。科学法則あるいは自然法則と呼ばれるものは、それらの独立した物質存在を結び付ける相互作用としての「力」を数式で記述するものです。
 池の水の状態が、水分子の相互作用によって説明されることからもわかるように、科学的な方法を要約してみると、ある観察対象Aを分析してB、C、D…なる要素となる現象を発見し、その相互作用でもって対象Aの本質としています。先の図で説明すると次のようになります。温度を決定する水分子の相互作用は熱力学的な科学法則によって数学的に記述されています。
 
 
認識 ⇔  池の状態                 A      ・・・現象  
         ↑                ↑
           水分子の相互作用        B  ⇔  C      ・・・本質
                  (物質間の相互作用) 

 ちなみにB,C…の最終には素粒子論が、物質間の相互作用の最終には量子力学が位置していることはご存知のとおりです。
 
4 潜態論的現象
 しかし、もし最初の池の水を現象と呼ぶならば、水分子も同じく現象であることに変わりないはずです。わたしたちの感覚器官やその延長としての観測機器および理性的判断によって作り上げられた対象の像を現象と呼ぶならば、これらは等しく現象であって、科学的な本質の正体はすべて現象であることは否定できません。
 
「美しい花の色、それは素朴単純な現象である。これに対し科学は、この花の色を、花弁に含まれるある色素より放出する光波の波長と、振幅などの性質の集合をもって表現する。単純な受けとめ方を去ったものの、これらの集合要素もまた現象にほかならない。そしてよくよく考えてみれば、科学の方法とはかく現象的外見を保ちつつ、細分に細分を重ねていくこと以外の何物でもないことがわかる。単純に受け取る現象の代わりに、多くの、かつ互いに入り組んだ現象の集合を導き出すのが、一応科学の道である。…ところが困った事情はこれから先の問題にある。まず分析せられた個々の事実は、これまたすべて現象であることに注意しよう。たとえば特殊光を放つ色素は、大観的には色素であり、次いで分子であり、さらに原子の集合であることがわかった。ところが原子はさらに素粒子より構成せられることも明らかになった。しかし、かくして得た最後のものはすべて現象であったのであり、理論はそれらをつなぐ規律性にとどまる。」
(「生体内の原子核転換をめぐって?」科学読売1964年1月号P55)

 潜態論ではまず、この現実を直視します。
 池の水も、水分子も原子も、さらにそれらを結ぶ相互作用もひっくるめてすべてを現象としてありのままに受け止めるのです。こうしてすべてが現象として等しく位置づけられたとき、それらの現象を生んだ本質は、現象を超えた何ものかに由来するという観点に立つことになります。すなわちそれが現象に対して潜んでいる状態、すなわち「潜態」です。何らかの姿を持ったものはすべて現象である以上、その原因となる本質には姿形がない、感覚や意識にかからないものであって、それを小田切は「潜態」と名づけたのです。そして、認識の向こうにある潜態であってこそ感覚や意識を触発しうるわけです。
 以上のように、潜態論はいたって当たり前の事実を主張していることがわかります。すなわち、現れている世界(現象)の原因はそこには現れていない世界(潜態)にある、というものです。
 
 「一切の現象の本質は、感覚し得ない潜態にある」
 このことは、わたしたちの認識の仕組みからもからもうかがい知ることができます。ある現象を観察しているときには、その本質は見えていないという素朴な事実です。
 例えば、草花を眺めているとき、その生物学的原因としての細胞という単位は当然のことながら見えてはいません。逆に、草花を切り取って細胞を観測しているときには、草花の生きた姿は失われてしまいます。また草花や細胞を観察しているとき、細胞内の個々の化学反応は隠れています。その事実を素直にそのまま言い表せば、草花の生態の原因は見えないところにある、ということになります。その見えていない原因を、自然科学は認識上に引っ張り出して本質としている(物質化している)という見方もできます。
 
 
       (草花)
         ● ・
          ・  ┃・    ←― 細胞  ←― 化学反応
        ・┃ ・       ↑             ↑
         ┃・        │       │
-------------------------------------│-------------│--------------
       ( 細胞 )       │         │
-------------------------------------│-------------│--------------
       ( 化学反応 )     │             │
 
 
 潜態論は点線より下の見えていない部分を現象の本質としてありのまま位置づけます。つまり図中の(細胞)(化学反応)とは何なのかを明らかにするのが潜態論です(より正確に言うと花も潜態における(花)となります)。
 ところで、「自然」というものをわたしたちはどのようなときに感じているでしょうか?
 自然は「おのずからしかる」と読むことからもわかるように、わたしたちの意識活動から離れて独自に生じているものごとを意味しています。つまり意識的な創作でないものに「自然」を感じ取っているということです。実際に、太陽が昇ったり、雲が流れたり、生物が繁殖するといった現象の中に、わたしたちの意識から独立した働きを見出して、そこに「自然」を感受しています。そうすると、わたしたちが認めている「自然」とは、客観のさらに向こうにある何かを志向しているとはいえないでしょうか? もしそうであればわたしたちが見ている「自然」のありかは、物質のさらに向こう、点線下の潜態ということになります。

 以上で、現象論的な科学と潜態論との考え方のおおよその相違がお分かりいただけたのではないかと思います。
 ここで、念のため誤解のないように付け加えておきますと、小田切は既存の科学の方法論を頭から否定しているわけではありません。この世界の現象を獲得する手段として、今まで他の学問がなしえなかったことを可能にしたことは認めているのです。例えば、太陽の軌道や、それが地球に熱と光をもたらしている仕組みを科学以外の学問で説明することは到底できません。科学はこうした個々の自然現象に対して合理的な説明を可能とした唯一の学問であることには間違いありません。ただ、その科学体系が現象論であり、本質としての潜態を置き去りにしていることを指摘し、その再生を図っているのです。
 しかし、ここが最も肝心なところですが、現象の本質を潜態におくことによって、それまでの科学体系がすべて書き換えられてしまうということです。本当の意味での現象とは、潜態に裏打ちされたものでなければならないからです。現象を本質とするか、潜態を本質とするかによって、現象の姿がまったく異なってしまうわけです。以後、潜態論的によって書き換えられた現象のことを潜態論的現象と呼ぶことにします。
 次回から、この図の点線の下の潜態の世界に踏み込んで、潜態論現象とはいかなるものかにふれていきたいと思います。
 
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◇座談会

「潜態論」の可能性        8/7  東京都内某事務所にて

★座談会出席者
・那智タケシ=那 フリーライター 『悟り系で行こう』著者
・河野龍路=河 潜態論研究家  『潜態論入門』著者
・高橋ヒロヤス=高 ウスペンスキー等の翻訳者 弁護士

 ●無我の科学・潜態論の時間論

 高 ぼくは無我表現研究会で河野さんにお会いして、潜態論という科学の可能性にすっかり魅了されてしまったわけですが、やはり小田切教授が現象の源に「潜態」というものをもってきたところがすごいと思います。現象を閉じた単体としてではなく、潜態から生まれた半開のものとして捉え、従来の科学式を書き換える。これはものすごい試みだと思うのですが、昭和の時代では理解されなかった。今、理系の人には理解されるのでしょうか?

 河 わかりません。逆に理系の人ほど受け入れるのが難しいかもしれませんね。

 高 知り合いにSF作家がいるのですが、彼なんかは興味を持つかもしれません。その辺りから火がつけばいいな、とか。

 河 SFでタイムマシンというのがありますよね、潜態論的には時間を遡ることはできません。未来にも行けないのでタイムマシンは存在しなくなる。

 那 潜態論的に時間の定義というのはどうなっているのですか?

 河 時間論というのは「謎」だから面白いのかもしれません。ただ潜態論では時間というのは何かというと「謎」を時間と呼んでいるんです。むしろ、ひっくり返してしまった。

 高 その発想が面白い。

 那 クリシュナムルティなんかは、「時間は思考だ」と言いますよね。ぼくはわりとそっちなんです。例えば無我夢中で何かをやっていると人は時間を感じない。無心だからですね。ぼくは麻雀をやるんですが、調子がよくて流れと一体になっている時は、ほとんど記憶がないんです。どうやって勝ったか覚えていないことが多い。思考が入り込んでいないんですね。ところが調子が悪くて負けている時は、なぜ負けたかしっかり覚えている。思考、つまり自我が入り込んでいるからです。時間というのはそんな風に、思考が介在するところにだけ存在する、と感じます。「謎」と言われるとちょっと身体の感覚では自分にはわからないです。

 河 潜態論では、「謎」というか、不明な環境を時間と定義しています。だから今、那智さんが言った「調子がいい時は時間を感じない」というのは、不明な環境がないからです。調子が悪い時は、環境が邪魔しているから時間を感じる。時間のあるなしというのは、結局、環境を意識するかどうかなんです。だから楽しい時は環境をあまり意識しないから時間を感じない。不明環境が時間だという精神的な意味はそういうことです。物理的には見えているものが空間であって、見えていないものが時間として左右しているので、それをカウントしている、見えないものカウントせざるを得ないということです。

 高 ウスペンスキーなんかも、もし二次元生物というのがいたとしたら、三次元の高さというのが時間だといいますね。自分たちの知覚できないものを時間と捉える。我々が三次元の知覚を持っていると言われているけれど、明日のことがわからないというのは、もう一段上の次元から見たら、明日のこともわかるかもしれない。でも、我々にはわからないからそれを時間と呼ぶ。それと潜態論の時間論は通じる気がします。ただ、小田切先生はバリバリの科学者で、自然科学を書き換えようとした人ですから、今の科学者が見たらどうなるかものすごく興味があるんです。

 河 見てきた人もいるはずですけど、拒絶されてきたというかね。

 高 それは単に心理的抵抗なんですかね? 小田切先生の数学的表現がある。あれは肝なわけですよね? 

 ●ノーベル賞・湯川秀樹の理論を否定した小田切瑞穂

 河 今、ある科学に対する書き換えですね。

 高 もしもあれが正しいのなら、好き嫌いは別にして認めざるを得ないと思うんです。アインシュタインの方程式だってニュートン哲学からいうと違うけれど、認めざるを得ない。潜態というのがあることを認めざるを得ないんじゃないですか?

 河 現象論的な客観データを基にした現在の科学の考え方を根本的に否定してしまうわけですから、すんなりと認めるのはなかなか難しい。

 高 現在の科学では素粒子は100以上あると言われていますが潜態論では素粒子は4つということになっている。それを実験で裏付けることはできないんですか?

 河 光子以外の熱子、動子(中性電子)、拒動子(中性陽子)は見つけにくいと小田切は言っています。潜態論が認められれば、その理論に基いて4つの素粒子を見つけることができる可能性はあるとも述べています。

 高 論理必然的に4種類しかない。潜態論を前提にすれば、素粒子論が非常にすっきりするということですよね。

 河 霧が晴れたように明解になります。基本は4種類の素粒子と、それの組み合わせによる6種の粒子(この10種が潜態論的な素粒子)。今の素粒子論は実験で強引にぶつけて出てきているものを探し出している。つまり、後から無理やり結びつけて作っている。しかも一瞬。存在の基礎ではなく、一兆分の一秒とか。そんな単位でしか存在しないものを素粒子として扱うのは意味がないんです。潜態論では素粒子は二つに分かれる。つまり存在の基本になっている素粒子とそこから派生的に出てくる素粒子です。潜態論なら素粒子を分けられんですが、それを知らないと分けられない。なぜなら、潜態とのつながりが見えないからです。

 高 既存のデータから潜態論で別の読み取り方をできる、と。

 河 できるでしょうね。ただ、背景になっている思想を覆すのは難しい。たとえば小田切は湯川秀樹の理論などを根本的に否定していますが、既成の科学の側からは、潜態論は非科学的だという見方をされてきた。

 那 でも、潜態論のどこが非科学的と言われていたんです?

 河 つまり、見えないものを基盤にしているからです。

 那 それが現象の基盤になっている「潜態」ですね。

 高 でも、素粒子なんて存在の究極最小の構成要素ですよね。その先には無しかないわけでしょ?

 河 今の科学でもその先は無ですよね。

 高 その先は無であるという前提なら、潜態論を非科学的だとは思わないですけど。

 河 ただ、その先は科学だけでは足りない。そこを超えるには哲学が必要。そこから先は科学が自分の力で行くことはできないので、哲学になってしまうんです。感覚でもって捉えることができないから、科学の対象にはならない。

 高 ただ、感覚でもって捉えることができないということを認めないと、科学自体が存在の基盤を失ってしまうのでは。その先は無なんですから。

 那 ただ、いきなり潜態論を科学研究者にもっていってもまだ受け入れられないと思うんです。まずは世間に潜態というものが認識される必要があると思います。高橋さんみたいに反応する人もいますし(笑 ぼくも文系ですが、これは本物だという直観はありましたから。

 河 ぼくも文系の人間で、理系のことがわかっていたわけではないですけど、潜態論に出会った時は、精神世界のものにはない可能性を見た気がします。

 那 下手したら仏教の人がこれを認めるかもしれない。「半開」なんていうのは、仏教でいう縁起や諸法無我につながるわけで、日本人なら誰でもそういう感覚はある。

 高 小田切先生自身は禅もやられていて、お寺で講義等もされていたわけでしょう?

 河 えらいお坊さんともお知り合いでしたね。

 高 潜態論自体、仏教の四諦や六波羅蜜と潜態の原理を絡めて語っていますよね。

 河 仏教の四諦と科学を関連付けたのは始めてだと思います。

 高 ポテンシャルは膨大で、それを受け入れる土壌はできはじめている。このメルマガの一つのメインとして、単なる一科学理論として売ってゆくのではなく、文学や、アートや評論といったものと等価なものとして提示していけば理解できる人には理解できる。

 那 時代の必然として、潜態論が注目されるようになれば面白いですね。

 河 個人的には、一人歩きしてくれるのが理想ですけど。

 那 「MUGA」を通して、より多くの人にこの科学理論の魅力が伝わってくれればなと思います。


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◇評論

「悟り系」とは何か 〜「悟り」はゴールではない〜       高橋ヒロヤス
 

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
―宮沢賢治『春と修羅 序』より

さて、芸能やアートなどについての個別の「評論」に入って行く前に、もう少し前提の確認をしておこうと思う。

「無我」とか「悟り系」とか言われても、今一つピンと来ない、という人は多いのではないだろうか。というよりも、僕たちのやろうとしていることは、これまでにはない価値観の提示なのだから、ピンとこないのは当然なのだ。

そこで、より分かりやすくするために(逆効果かもしれないが…)、無我研が提示する価値観の一つである「悟り系」を、僕が勝手にキャッチコピー風に表現するとこうなった。

「ゴールとしての悟りではなく、スタイルのとしての悟り」。

「スタイル」などいうと、表面的でカッコつけてるだけじゃないかと思われそうだし、「悟りすました風に気取る」ことが「悟り系」だ、などという変な誤解も生みそうだ。

しかし、ここで言いたいのは、僕たちは、「無我が当たり前であるように振る舞う」姿勢をもう少し意識的にしてもいいのではないかということだ。

要するに、自我(エゴ)なんてものはハナから存在しないのだから、そんなものを有り難そうに、後生大事にする姿勢は本来「カッコ悪い」のである。

逆に言えば、「無我」だから偉い、とか「悟った」から偉い、などというのは、滅茶苦茶なハッタリでありゴマカシなのだ。だって「無我」なのが当たり前で、それが本来の姿なんだから、「悟った」も何もないのである。

言うまでもなく、「俺は悟った」というのは究極の自己矛盾である。誇らしげに「悟った」と宣言しているのは一体誰なのか?

「悟り」はゴールでも何でもない。それは前提条件であって、むしろ僕たちの生活はそこから始まるのだ。「悟り体験」を目指すだけで人生を終えるのは余りにももったいないし、「悟りの光明」を拝むのでは全然だめだ。「悟り」に価値があるのではなく、「悟り系」で生きていくこと、表現することにこそ価値があるのだ。

そろそろみんな、このことに気付こうよ。というのが、僕の理解する「無我研」のメッセージだと思うのだが、どうだろう。

「悟る」ためにいろんなセミナーに参加して、「悟った人」に何万円も(時には何十万円も!)払うのは滑稽なナンセンス以外の何物でもない。道端に一万円札をバラまくのをモッタイナイと思わないほどの恵まれた人ばかりなら別に文句を言う筋合いもないが、そんなお金があるなら、新しいムーブメントの発火点であるこのメルマガを有料化するから、それに払ってほしいものだ(嘘)。

そして、「悟り系」にかんしては、もっと大事なことがある。

「無我」で「悟り系」の方が、はるかに生きていくのが「楽」なのだ。

音楽雑誌なんかで、よく「本格派」のアーチストが、「苦しんで、苦しんで、苦しみぬいてこのアルバムを作りました」なんて2万字インタビューとかで誇らしげに語っている記事がある。かつての僕もそういう記事をさもありがたそうに読んでいたものだ。

でも、その人の「苦しみ」ってなんだろうとよく考えてみると、要するに近現代文学がさんざんやってきたところの「自意識との泥沼の葛藤」をよりスケールダウンしたものにすぎないのである。

それって、そんなにありがたく思って、評価するに値するものなんだろうか。

「自意識との泥沼の葛藤」がありがたく持て囃されるのは、それが人間として誠実な行為だという評価がどこかにあるからだろう。確かに、ごまかさずにみっともない自意識にまともに向き合うという作業は、ある意味では正直で誠実なのかもしれない。しかし、結局のところ、自我(エゴ、自意識)なんてものは存在しないのだから、そんなものにこだわる必要はないんだ、「こだわる」のは、その人が「こだわりたい」という理由以上のものはないんだ、という認識があるかないかで、「苦しみ」のとらえかたはだいぶ違ってくるんではないだろうか。

ある禅僧が、仲間たちに向けて、「悟った!」という喜びを伝えたくて書いた手紙を読んだことがある。その人はこう書いていた。

「・・・楽で、楽で、楽で仕方がない。」

そりゃそうだろう。

「悟り系」は楽なのだ。だってすべての苦しみの原因である自我(エゴ)という最大の重荷を捨ててしまったのだから。

もちろん、「悟り系」は何があってもヘラヘラ笑ってる、というのでもない。
オロオロするときもあるし、涙を流すときもある。

だから宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」は、究極の「悟り系」なのだ。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

こういうものが「スタイルとしての悟り系」だ。これ以上にかっこいいものがあるだろうか。これ以上にポジティブな価値観があるだろうか。

最後に、僕が大好きな世界的ベストセラー作家でカピバラみたいなオッサン、「エックハルト・トール」風に締めくくってみよう。

将来の世代は、われわれより上の世代よりも、エゴ(自我)や自意識の問題に上手く対処できるだろう。彼らは自我が幻想であることを早々に見抜き、「世界」だけが存在することを当たり前の前提として生きていくだろう。

「世界=全体」の観点から行動できず、「分離した自己」にしがみつく、エゴの捕らわれを離すことのできない人は、未成熟な人間とみなされるだろう。

そして、そのときまでには「悟り系」という言葉はもはや不要になるだろう。


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◇体験

「二つが一つに」    
河中慶滿(整体師)
 
このメルマガは、無我からの表現ということだが、私には、ちょっと荷が重い。
そこで、「自我」あるいは、「私感覚」に疑問を持った体験を書いてみようと思う。
 
ん十年も前、当時ヨガに傾倒していた私は、性的な技法にも注目していた。
そしてある時、興味深い記事を見つけた。
「性的結合をし、40分も抱き合っていると、ご先祖さまが見える」と。
最近、一時ブームになったポリネシアンセックス(スローセックス?)のようなものだ。

そして、早速実験・・・
どのぐらいの時間が経ったろうか。
ふと、二人のオーラが溶け合い、大きく輝いているのが見えてきた。
さらに、心臓のように鼓動していた。
 
先祖は来なかったが、良いものを見させてもらった。
 
そして、絡み合った腕を取ろうと、見たとき・・・・・・
?????
どちらが、自分の腕か分からなかった。
 
指先、手首、肘、上腕、肩と見ていって初めて自分の腕を確認した。
その自分と確認した一方の手で、もう一方の腕に触ったのだが、
皮膚感覚がまったく同じで、私と彼女との皮膚の違いがまったく分からなかった。
 
肉体的に、自分と他人の区別がつかないまま、やがて眠りに入っていった。
 
ん十年後の現在、その体験は整体という仕事で使わせてもらっている。
 
お客さんに触れると同時に、お互いの呼吸のリズムが一緒になる。
相手が小さな子供であろうが、一緒だ。
 
まさに息が合った状態だ。
自他の区別も曖昧になる。
こうなれば、何をしようと上手くいく。
 
自他意識の境界線でもある皮膚に意識を移動する。
その境界線で、自他が出会う。
 
お客さんの患部(痛点)に触れる。
そこに意識を向けて、チューニング。
やがて、患部と意識はダンスを始める。
 
実際、患部はダンスをしているように皮膚が動くのだ。
しばらくダンスを楽しんだら、患部の痛点は消えている。
 
治す方、治される方という区別はない。
しいて言えば、エネルギーの交流を楽しんだだけ。
 
二つが出会い、一つになったとき、まったく新しいことが起こる。
 
そのまったく新しいことを起こすために、
わざわざ二つに分かれていたのかとさえ思うこともある。
 
男と女。。。
 
私とあなた。。。


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◇エッセイ
アラスカ便りー北の果てに暮らす日々ー

『晩夏』 長岡マチカ(文化人類学を学び、現在、アラスカ在住)

 ひょろりと細長い柳欄の先に花が咲き始めると、夏も終わりと言われている。英語でファイヤーウィード(fireweed)と呼ばれる鮮やかなショッキングピンクの柳欄(ヤナギラン)。その英語名の通り、柳欄が群生していると、まるで大地が燃え盛っているように見える。 
 アラスカの夏は短い。柳欄を横目に、あっという間に通り過ぎていった夏の出来事を思い出としてしまうにはまだ早すぎると戸惑いながらも、前方には確かに冬の気配が近づいている。何度か立ち止まり振り返りながらも、ショッキングピンクの炎に背中を押されるようにして、あの長い冬へと一歩一歩踏み出していく。 
 9月に入り、柳欄の炎が消えるにつれ、落葉樹の葉が色を変え始める。アラスカの晩夏がショッキングピンクならば、アラスカの秋は黄金色だ。山々は日に照らされ黄金色に輝く。光は太陽から来るのではなく、木々そのものから発せられているのではないかと錯覚してしまうほど、空も大地も眩しく光る。 

 私が初めてアラスカを訪れたのも15年前のちょうどこの時期だった。アラスカ南西部の村々を回り、先住民ユピック・エスキモー(※)の人々の家に一ヶ月ほど居候させてもらっていた。黒い髪に茶色の瞳という日本人の姿はすぐに村の風景に溶け込み、まるでずっとそこに暮らしていたかのように、ツンドラへベリー摘みに川へシルバーサーモン獲りにと連れられて行った。夕方になると、今日はあそこで明日はこちらでと毎日のように集まりがある。その度持ち寄られた大量の食料がテーブルを埋め、踊り歌い陽気な声が夜更けまで響き渡った。 
 先住民の村々には必ずといっていいほどキリスト教会がある。そして教会の宗派によって、村の様子も随分と異なる。ロシア正教が入った村では女たちは皆スカーフを巻き、カソリック教会が入った村では土着のシャーマニズムの名残が少し見られたりもするといった具合に。18〜19世紀にキリスト教がもたらされて以来、先住民文化は大きく変わった。 
滞在中何度か教会にも連れて行ってもらった。私はクリスチャンではないけれど、親戚や友人に付いて教会へ出かけたことがある。村での礼拝には、それまで訪れた教会では出会ったことのない風景があった。 
「今朝ここへ来る前、玄関先のデイジーにずっと見とれていたの、可愛くてきれいで」 
「昨日獲れたサーモンの大きかったこと」
「今日の風は何て暖かいんだろう」
 
 人々は席を立ってはそんな日常のありふれた情景を話し、その度に感極まって泣き始める者もいる、溢れる気持ちをどうやっても表しようがないという様子で。涙を拭った目がキラキラと輝く。 
 教会で出会い親しくなった白髪の女性と村の歴史について話し合ったことがある。 
「シャーマニズムとキリスト教と、お婆さんが生まれる随分と前のことですが、とてつもない大きな変化でしたね」 
 そう言う私に、その老婆は澄んだ目でこう答えた。 
「彼らがキリスト教を伝えに来る前から、私たちはもう知っていたわ。彼らは『神』という名前、『形』を持って来ただけなの。形は常に移り変わるもの、私たちが既に知っていたものは、変わることはないの」

 アラスカで最も大きな町アンカレッジに暮らし始めて12年たった。州の人口約70万人の半数近くがここアンカレッジに暮らしている。先住民の人々はここではマイノリティーであり、先住民の人々が大半を占める村とはまた違うリズムが周りに流れている。 
 柳欄が風に揺れる。 
 移り変わる季節の中で、15年前に村で出会った老婆の言葉を、思い出している。 

(※)「エスキモー」という言葉は差別語ということで世界的に「イヌイット」に置き換えられる。東カナダに住むクリー族の言葉で「エスキモー」は「生肉を食べる者」という意味で侮蔑的に用いられたという理由からだが、実は亜極北のアルゴンキン系インディアンの言葉で「かんじきの網を編む」という意味だといわれている。またそもそもアラスカ南西部に暮らす「ユピック」はカナダやグリーンランドに住む「イヌイット」とは別の集団。「エスキモー」イコール「イヌイット」というわけではなく、「エスキモー」を「イヌイット」と呼ぶことは、一部を指すための呼称を全体を指すための呼称に置き換えてしまうことである。そこでアラスカでは公にも「エスキモー」という言葉が用いられ、本人達も自身を「エスキモー」と呼んでいる。 

アラスカの写真満載! マチカさんのHP↓ 

http://blog.goo.ne.jp/nmachika/c/79220ec91589f5da5a40980d388a46f6



★編集後記
・個性豊かな執筆陣のご協力で、なんとかMUGA第2号が形になりました。ご覧になっていただければわかるように、独特な詩から小説、スピリチュアル、科学まで、一見関係のない作品がずらりと並んでいます。それぞれが独自の世界観を持ち、それぞれに異なる環境で、それぞれに異なる資質、表現方法を持った、横のつながりがほとんどない人間の集まり。これらの作品は、ただわずかに「無我表現」と言うコンセプトによって、コネクトしているにすぎません。それでもこのメルマガは、不思議なことに一つの生き物のような、統一された意思のようなものが宿っている気がします。それぞれが独自な世界を探求し、個性的になればなるほど、その傾向は増すのでしょう。いっそ、「無我」という言葉さえ使いたくないのですが、一つの方便として今はそれを使わせてください。(那智)





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創刊日:2011-08-08  
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