映画

記憶に残るセリフ

映画やドラマ、小説の中の「セリフ」はもちろん、著名人の言葉や日常会話の中にも、心に残る「セリフ」、「言葉」は無数にあります。
そんな「言葉のチカラ」を毎日一行ご紹介するメルマガです。

全て表示する >

「嗚呼、天なり」

2011/01/27


 今日の一行は、幕末の薩摩藩士、村田新八の辞世の句です。

 村田新八(むらた しんぱち、天保7年11月3日(1836年12月10日) - 明治10年(1877年)9月24日)。日本の武士(薩摩藩士)・政治家。

 天保7年(1836年)11月3日、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(高見馬場方限)で高橋八郎の第三子として生まれ、幼にして村田十蔵(経典)の養子となりました。

 初めの名は経麿、のち経満(つねみつ)に改む。通称を新八といいます。三男一女あり、長男の岩熊は西南戦争に従軍して田原坂で戦死、次男の二蔵は鹿児島に戻る途中で負傷、命をつなぎました。

 村田は年少のときから西郷隆盛に兄事し、尊王の志を抱いていました。

 文久2年(1862年)3月10日、熊本藩士宮部鼎蔵らが入薩しようとした時、有馬新七らと市来駅で宮部らと会して時事を談じ、入薩を断念させました。

 この後に島津久光進発に先立って上京した西郷・村田・森山新蔵は諸藩の情勢を探っていましたが、真木和泉・有馬新七らの京都挙兵(寺田屋騒動)を煽動したと久光から疑われ、呼び戻されて西郷は徳之島(再命で沖永良部島へ変更)へ、村田は喜界島(薩摩硫黄島(鬼界ヶ島)ではない)へ遠島されました。

 このときの喜界島での生活を記した「宇留満乃日記」は今も残っています。

 元治元年(1864年)、赦免された西郷は途中、喜界島へ寄って村田を鹿児島へ連れ帰りました。

 慶応2年(1866年)1月4日、黒田清隆が薩長同盟のために長州藩士木戸孝允・三好重臣・品川弥二郎・土佐浪士田中光顕らを伴って上京した時、西郷に従い伏見に出迎えました。

 同年7月、黒田清隆らと山口に赴いた村田は、長州藩主毛利敬親に謁し、黒田と別れた後の29日、伊藤博文らとともに長崎を出航して上海を訪問し、帰国後に帰藩しました。

 慶応3年(1867年)7月7日、薩土盟約の事情を記した西郷の書簡を持って山口を訪れ、帰りに品川弥二郎・世良修蔵を伴って上京しました。

 同年10月、西郷の王政復古論で藩論が統一すると、村田は中岡慎太郎らと大村藩・平戸藩などを遊説し、馬関で坂本龍馬・伊藤博文らと会し、毛利公に謁見したのちに上京しました。

 12月4日、黒田清隆・山田顕義と同行して京都より西宮に至り、王政復古の発令が近いことを長州藩兵に告げました。

 12月11日、山野田一輔らと二条城下を通り過ぎた時、新撰組の隊士と衝突し、山野田が1名を斬り、村田らは微傷を負いましたがこれを退けました。

 村田は、戊辰戦争開始時(明治元年(1868年))は遊撃二番小隊の監軍であり、鳥羽・伏見の戦いの時は御台所御門の警備をしていましたが、のちに淀の戦い・八幡の戦い・大阪城受け取り・姫路進撃(姫路が降伏したので、明石まで行って帰る)などにも出陣しました。

 東海道軍東上前の編成替えで城下二番小隊の隊長になりました。しかし、西郷の幕下にいたらしく、監軍の辺見十郎太が代理の隊長をつとめることが多かったようです。

 2月12日に東征大総督府の下参謀となった西郷は、中村半次郎(一番小隊長)・村田新八(二番小隊長)・篠原国幹(三番小隊長)らで構成される先鋒隊を指揮して2月25日に駿府、27日に小田原へ進みました。

 東海道の要衝箱根を占領したのち、西郷は静岡へ引き返し、ここで輪王寺宮公現法親王(北白川宮能久親王)の和解請願の使者を退け、幕臣山岡鉄舟との会談をしました。

 次いで江戸へのぼった西郷は勝海舟と江戸開城交渉のための会談をしました。この間、村田は小隊を率いて、西郷に随従すると共に、会談を護衛しました。

 上野戦争の後は二番小隊を率いて東山道軍の応援に赴き、5月26日の白河奪還戦(棚倉口を担当)、二本松戦を経て、会津若松城攻囲戦に参加しました。

 明治2年(1869年)、鹿児島常備隊がつくられた時、砲兵隊長となりました。

 明治3年(1870年)2月13日、大山巌らとともに西郷隆盛に随従して長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、藩知事毛利広封に謁見しました。

 同年末、西郷が東上しての大政改革を決意した時、西郷の命で京都の春日潜庵のもとへ派遣され、時務に関する12ヶ条を得て復命しました。

 明治4年(1871年)、村田は西郷の推挙で宮内大丞に任命されました。この年、条約改正のために全権大使岩倉具視が派遣されることになった時、その使節団の一員に加わり、欧米視察に出発しました。

 明治7年(1874年)に欧米視察から帰国し、西郷隆盛が下野して帰郷したのを聞くと、辞職して鹿児島へ帰りました。

 村田さえいればと考えていた大久保利通は、村田の帰郷を聞いて、茫然としたと伝えられています。

 帰郷した村田は桐野利秋・篠原国幹らと私学校を創立して、砲隊学校・章典学校の監督となりました。

 明治10年(1877年)1月、熊本の士池辺吉十郎・佐々友房と会いました。この時、村田は西郷を首相たらしめんとの抱負を開陳しました。

 2月6日、弾薬庫襲撃事件と中原尚雄の西郷刺殺計画への対処についての私学校本部での大評定が開かれ、出兵が決定されましたが、村田は黙然としていて積極的に発言しませんでした。

 2月7日、私学校本部に薩軍の本営が設置され、2月13日、大隊の編制が行われました。この時、桐野利秋が四番大隊指揮長兼総司令となり、村田は二番大隊指揮長になりました。

 2月20日、先発した別府晋介の部隊が川尻に着し、熊本鎮台偵察隊と衝突し、西南戦争(西南の役)の実戦が開始されました。

 21日、相次いで到着した薩軍の大隊は熊本鎮台を包囲攻撃しました。村田は篠原国幹・別府晋介と共に背面軍を指揮しましたが、熊本城は堅城ですぐには陥ちませんでした。

 本営軍議で桐野・篠原らが主張する全軍攻城論と池上四郎・野村忍介・西郷小兵衛らが主張する分進論が対立し、軍議が長引いている間に、政府軍の第一旅団(野津鎮雄)・第二旅団(三好重臣)の南下が始まりました。

 これに対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山弥一郎に海岸線を抑えさせ、桐野利秋(三箇小隊)は山鹿へ、篠原国幹(六箇小隊)は田原へ進出し、村田は別府晋介とともに五箇小隊を率いて木留に出張本営を設け、政府軍を挟撃し、高瀬を占領しようとしました。

 以後一ヶ月余、互いに勝敗があって戦線が膠着しましたが、徐々に政府軍に押されて後退しました。

 3月20日、田原坂の戦いに敗れ、次いで4月8日の安政橋口の戦いで敗れて政府南下軍と背面軍・熊本鎮台軍に挟撃される形になった薩軍(党薩各派を含む)は4月14日、熊本城の囲みを解いて木山に退却しました。

 次いで4月21日、矢部浜町に退却し、中隊に編制替えした時、村田は池上とともに本営詰となりました。

 4月27日、西郷・村田・池上らは人吉まで退却しました。翌日、江代に退却した桐野の主催で開かれた軍議で諸方面の部署を定め、中隊を各地に派遣しました。

 政府軍の攻勢で人吉本営が危うくなると、村田は池上に西郷護衛隊を率いて宮崎の軍務所へ赴かせ、6月1日、自ら指揮して政府軍と戦ったが大敗しました。

 この人吉の攻防戦は田原の戦いに次ぐ西南戦争の節目といわれています。

 6月17日、村田新八は小林に拠り、振武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊の約1,000名を原田・上江・今西・池島などに配備し、これより一ヶ月近く山田顕義率いる別働第二旅団と川内川を挟んで対峙し、小戦を繰り返しました。

 7月10日、別働第二旅団と第二旅団(三好重臣)が加久藤・飯野に全面攻撃を加えてきたので、配下の諸隊は高原麓、野尻に退却しました。

 11日、小林が陥落しました。

 7月17日と21日、掘与八郎が都城、高城および庄内の薩軍(1,000余名)を率いて高原麓奪還のために政府軍と激戦をしましたが、勝てず、庄内、谷頭へ退却しました。 

 7月24日、村田が指揮していた都城方面の部隊が政府軍六箇旅団と戦って大敗し、都城が陥落したので村田は宮崎へ退きました。

 7月31日、村田は宮崎の戦いで諸軍を指揮したが敗れたので、さらに北上しました。

 8月3日、桐野は平岩、村田は富高新町、池上は延岡にあって諸軍を指揮しましたが、美々津の戦で敗れました。

 8月13日、14日、桐野・村田・池上らは長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮しましたが、延岡の戦いで別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れ、延岡から総退却して和田峠に依りました。

 8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍と西南の役最後の大戦を試みました。早朝、西郷隆盛自ら桐野・村田・池上・別府らを随えて和田峠頂上で指揮しましたが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退きました。

 これを追って政府軍は長井包囲網をつくりました。

 8月17日夜12時頃、西郷に従い、可愛嶽(えのたけ)を突囲しました。突囲軍は精鋭300〜500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田、後軍は中島健彦・貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷を警護しました。

 この後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、三田井を経て鹿児島へ帰りました。

 9月1日、突囲した薩軍が鹿児島に入り、城山を占拠しました。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制しましたが、上陸展開した政府軍が9月3日に城下の大半を制し、9月6日には城山包囲態勢を完成させました。

 9月19日に山野田一輔・河野主一郎が西郷救命の軍使となって参軍川村純義のもとに出向く前、村田と池上はその相談に与りました。

  9月24日、政府軍が城山を総攻撃した時、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃しました。

 途中で西郷が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた村田らはさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦しました。
 この時村田も戦死しました。享年42。

 そこで今日の一行です。
 「嗚呼、天なり」

 変革には多数の命が散っていきます。
 無血開城、大政奉還、その後にこれほどの命が消滅するなどと誰が想像したでしょうか。

 

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2010-06-11  
最終発行日:  
発行周期:週に二、三回  
Score!: 非表示   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。