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文化創造!

法政大学文化連盟による無料メルマガ。
文化連盟の定期機関誌「文化創造!」がウェブ版で再登場。
文連のホットな情報をスピーディーに提供致します。
詳細は「文化連盟メルマガ編集委員会」(bunren08@yahoo.co.jp)まで。

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文化創造!vol.1

2010/03/15

【1】「メルマガ創刊にあたって」文化連盟メルマガ編集委員会

こんにちは、文化連盟メルマガ編集委員会です。
当委員会はこれまで紙媒体で発行してきた文化連盟の定期機関誌「文化創造!」をウェブ媒体で発信することを目的に設立されました。
1959 年に創立された私たち文化連盟は、そも、「自主文化創造」を活動理念に活動を展開するサークルの連合体でありますが、残念ながら2008年3月の学友会解体(それまで学友会の構成団体であった学友会本部団体が予算権および公認権を剥奪され、頑強に拒んだ第一文化連盟を除き、限りなく強制に近い自主解散をさせられた出来事)以来学内でのサークル活動が困難な状況に陥っています。
学習会を開催すれば大学教職員に会場を破壊され、機関誌を配布すれば一部の例外もなく回収され、ビラまき等サークルの広報活動をすれば「嘱託職員」と偽った暴力警備員にぶん殴られる現状です。
ほとんどギャクのような話なのですが、特に嘘をついた覚えもありません。

ではなぜこのようなことになってしまったのか? 

複数理由は考えられますが、2006年3月14日の29名逮捕を契機に退学処分に処せられた中核派活動家が文化連盟を始め旧学友会本部団体の所属サークル構成員として参加していた(る)事実が大学当局にとって好ましくない事態であったことは容易に想像できます。
3.14 以後4年間118名の逮捕者を誇る我が大学では、大学当局のビジネスライクな学生管理強化と公安警察・検察のこれまたビジネスライクな中核派狩りが、共通の目的として相補的に実践されてきた経緯があり、その意味で「学友会本部団体が中核派活動家養成の草刈場になっている(学友会本部団体を消去しない限り中核派を学内から完全に排除することはできない)」とする彼らの主張が一定のリアリティを保持していたことは事実です。
また、その中で流布された「学友会本部団体の予算が中核派の資金源になっている」とする彼らのデマゴギーが事情を知らない教授や学生、あるいは対一般社会的に一定の説得力を持っていたことも抑えておく必要があるでしょう。
「過激派なら仕方がない」というわけです。

しかしながら、これらは表層的な話でもあります。
その後の中核派の学生排除をことつぶさに観察してみれば、排除されているのがいわゆる過激派だけでないことは明らかです。
ノンセクトもノンポリも、是々非々で批判する学生すらも、大学運営者は「危険分子」ないし「不穏分子」であるとして、一様に監視の対象としてきました。
現在進行形で続くガードマンによる学内への入退構時の入構チェック(「〇時〇〇分〇〇が入構しました!」)などはその典型です。
ネグリ=ハートの〈帝国〉に描かれるようなグローバルな権力として彼ら統治者を見渡すならば、反抗・抵抗する(兆候のある)人間こそが取り締まりの対象となるしなり得るのであって、そこにはセクト・ノンセクト・ノンポリの境目など存在しません。全ては地続きでありフラットです。
グローバル資本主義は大学の新自由主義的再編をもたらし、大学の新自由主義的再編は各種学生自治組織の解体を必然化させました。
2010年3月現在、私たち文化連盟は学内から9割方パージされています。

では、私たちには何一つなすすべはないのでしょうか?

そんなことはありません。
人間が人間としてありたいと思う限り他者へ承認されたいとする欲求は本源的なものとしてついえないからです。
そしてそのような本源的な欲求が前提とされる限り、その内の何割かはその欲求をアウトプットへの欲望へと昇華してしまうからです。
壁画から手書きの書籍へ、グーテンベルクの活版印刷術からウェブへ。
媒体は違えど、人類史において人間のアウトプットへの欲望がなくなることはありません。
新自由主義がどこまで人間の表現を封殺しようが、私たちは人間の持つこの本然だけは信用してよいように思います。

だからこそ、私たちはその声を捕獲する新たな表現媒体を探索し、提供し、実践することに怠惰であることは許されないのではないか?

この問いへの答えの一つとして、私たちのメルマガは始まります。
人間は多層的です。
本メルマガが、人の鵺のような多面性を表出し得る媒体であれることを願い、創刊のあいさつとさせて頂きます。


【2】「祝!メールマガジン創刊!」斉藤郁真(文化連盟委員長)

どうも皆さま。おそらくこれを読んでくださるのは!)文化連盟がダイスキ!!)文化連盟がダイキライ!(でも関心があるw)!)公安警察・法政大学関係者だと思います。なので、ある種一般向けと言いますか、2008年度から始まった、事実上新たな、「法政大学文化連盟」の活動、サークル活動を正常に行うために、ないし自らの存在をかけた政治闘争の記録であるブログのほうとは違って、細かすぎて伝わらないけど、より深く「文化連盟」を掘り下げた活動ができればいいな、と思います。・・・まったく予定はないんですけどねww
要するに非常にカオスな内容が予想されます。直接この企画を担当しているのは私ではないのですが、担当の方に聞くと、第一回から意味のわからないラインナップになっているようです。現在すでに30人超の方々が読者に名乗りをあげてくださっている(感謝!)ようですが、2〜3回配信している間に2〜3人になるんじゃないかと危惧します。
まあそうなったらそうなったで。私のせいじゃないし。私は書いてくれ、と言われたから書いただけだし。別にアイヒマンと呼ばれてもいいし。そもそも何かを表現するのは嫌いだし。こういう活動に参加する契機がなかったら政治の話みたいな重い話はしないし。回りの人に合わせてペルソナ使い分けてただろうし。高校生まではそうしてたし。
・・・こういう感じで私もカオスなかんじでいきたいと思っております。私が書く機会はほとんどないと思いますが。
自分でも書いててよくわからなくなってきましたが、とりあえずこんな感じで始まります。最後に、いちおう文化連盟の活動に対する責任者は私なのですが、これには責任をとりたくない、ということだけ申し上げておきます。いや、もちろんとりますよ?

〜ちょっと理事会が管理強化をしたい気持ちがわかった〜 齋藤 郁真


【3】「間違っているのは誰か 〜あるいは、過去・現在・未来にわたる模索〜」伊藤拓也(東京都立大学)

「20世紀少年」というマンガを以前読んだことがある。人類滅亡を目論み、自身への信仰を背景とした巨大組織と政治的権力をも持つ存在「ともだち」に対して、対抗しそして過激派として追及される「ケンヂ」が主人公である。

このマンガは映画化されたくらいの人気作である。そしてその主人公と仲間たちは、その世界における権力から「過激派」「テロリスト」とされ、数々の罪をでっち上げられ、追われる身である。

あるいは。人気小説家・伊坂幸太郎の著作で「ゴールデンスランバー」という作品がある。国家の中枢に関わる巨大な思惑に基づき、首相暗殺のぬれぎぬを着せられた主人公が、逃亡しつつも自らをそうした立場においた何者かに対して闘いを挑む、そうした話である。これまた最近、映画化されている。

何が言いたいか。

ある世界のある瞬間において「過激派」と呼ばれ社会悪とされようとも、それは真実そうなのか。そうした社会的規定はいつも正しかったか。

ケンヂは「ともだち」の目論見とその危険性という真実を知っていて闘った。「ゴールデンスランバー」の主人公も、自身の潔白という真実を知っていて闘った。人気作品となり映画化もされたくらいだから、そうしたストーリーが受け手に対して大いにシンパシーを感じさせたと見ていいだろう。あるいは少なくとも、そうしたストーリー、状況、展開を受け手に対してよく認知させたことを示すだろう。

で、果たして学生運動はどうなのか。巨大なものを相手にし、社会的にもなかなか理解されない中で闘う者たちは、先に挙げた2作品の主人公と違うのだろうか。そうして闘う者たちを過激派と呼び嘲笑しあるいは弾圧し排撃する現権力と現社会は、先に挙げた2作品の主人公を取り巻く状況と違うのだろうか。

率直に言えば私の悩みはひとつ。自分が間違っているのか、周りが間違っているのか、である。闘う自分が間違っているのか、理解しない周りが間違っているのか。

「周りが間違っている」として安易な自己肯定をするのは、独善への一本道であり避けるべきだろう。しかし闘っている本人としては、全的ではないにせよある種の真実に基づいて闘っているつもりな訳で、一方それが社会的に理解されないのであれば、自身を省みる中で「自分が間違っているのか、社会が間違っているのか」を考えざるを得ない。

どうもこの社会とはうまく折り合いがつかないと感じ始めた中学時代。自意識ばかり高じてひねくれ者と化していた高校時代。学生運動に関わりを持った大学生活。通してかれこれ十数年、抱えてきたこの悩みに今はまだ、結論を出せそうにない。いずれにせよ今大切なことは、この模索に安易な結論を出すのではなく、模索し続けることだろう。そうした中で、いつか何かが見つかるはずだ。

その「何か」が何なのか、それもまたわからないけれど。


【4】「法大付属高校生徒暴行事件について」30代匿名希望男性

法政大学高校の生徒暴行事件は、学校法人法政大学がどれほどその存在意義を
失っているかを端的に示している。現状の理事会を頂点とした構造は抜本的に改革されるべきだろう。生徒、学生にとっての学校とは、教育を受け学友と交歓し、社会で活躍するために必要な知識と人格を養う場所である。翻って現在の法政大学及び法政大学高校では、教育の名に値しない運営が行われている。これは社会にとって大きな損失であるが、最も被害を蒙るのは生徒、学生自身である。自分たちには何かを変える力が無いと思う者も多いかもしれないが、当事者の言動が事態の打開には不可欠且つ最も有効である。
 高等学校は現在の法制度では義務教育ではないが、高校進学率や現政権の無償化政策を鑑みるに、義務教育に準ずると言っても過言ではないだろう。
そのようなある意味で社会的に強制力のある組織において、スキーでなくスノーボードをしただとか、ゲーム機を持参したという些末な事案によって、10時間を超える正座の強制や殴打など、暴力的な懲罰が行われた事は非常に遺憾であり怒りを禁じ得ない。確かに、社会生活に必要な規律や従順さを身につける事も高校教育の意義ではあるだろう。しかし、暴力や恐怖を以てしか生徒を恭順させられないような規則はそもそも理不尽だと考えるべきである。
例えば授業中にゲームで遊ぶ事を禁じる規則があったとして、その規則自体に異議を唱える者は極小数だろう。しかし、修学旅行にゲーム機を持参する事については、大部分の生徒がそれに不満を抱いたのではないだろうか。
昔から修学旅行にトランプやUNOなどのカードゲームは付き物であるし、それらが最大限の価値を発揮する機会でもある。時に麻雀を持参する者もあるだろうが、騒音で周囲の安眠を阻害しないならそれも構わないだろう。
また現代のゲーム機は無線通信が可能で、数人で楽しむソフトも多く存在している。使い方によってはトランプなどのカードゲームの代替とも成り得るものである。しかも、電灯を消して布団の中に潜っていても複数人での対戦や協力プレイが可能である。貴重な修学旅行の夜をこのように充実させてくれるゲーム機の持参を、どうして学校側は禁止しなければならないのか。確かにゲームウォッチのような、個人でしか楽しめないようなゲーム機を持参すれば、学友との交流の機会を逸してしまう原因にもなるかもしれない。しかし、現代のゲーム機は学友との交流を深める事もまた可能である。
社会には多くの人格が存在し、中には他者との関わりに苦痛を感じる者もいるだろう。全ての他者ではなく、異質な他者を極端に拒むものもいるだろう。しかし彼らの一部にとって、ゲーム機は他者との関わりを担保する一つの言語であるかもしれない。決して多数ではないにしろ、ゲーム機の持参を禁止する事によって、学友との交流を阻害された者もいたはずである。
 権力者による暴力は、公益に適うと広く認めれれた時にのみ行使されるべきである。法政大学高校は、内向的な一人の生徒からコミュニケーション手段を暴力的に奪おうとし、それに抵抗した彼に対し純然たる暴力で報復を加えたのである。
我々は、当該教員の解雇や総長の減給処分などで溜飲を下げてはいけない。
再び同様の事案が起こらぬように、法政大学高校の暴力的な体質を改めなければいけない。もちろん主体となるべきは法政大学高校の生徒だが、彼らを出来る限り支援するべきだろう。そして桁違いに暴力的な法政大学と理事会に対しても、暴力支配から脱するべく法政大学の学生自身が抵抗の狼煙を上げるべきである。
我々は自身の自由と権利を獲得すべく権力と対峙する全ての者を支援する意志がある。


【5】「ポエム」20代匿名希望女性

A)
ガンバレ
頭がズキズキする 
ガンバレ 
お腹を下した 
もっとガンバレ 
ああ憂鬱だ 
ガンバレばきっと良い事あるよ 
足が痛い首が痛い目の奥もキーンとするしダイエットも仕事もやめよう 
ガンバッテ 
私も弱い人の手を取りそう言ってみた 
まさか本心じゃない 
ワタシ、ガンバル
弱い人は頷く 
せいぜい苦しめばいい 
ガンバッテネ
私は満面の笑みで言う

B)
不貞行為を犯した恋人を刺した
その女の腹を割ると胃の中からくまのぬいぐるみと書きかけのラブレターがガサ
ガサと音をたてて溢れ出てきた 
くまのぬいぐるみから生前女がつけていた香水の匂いがした
眠れぬ夜に女が流したであろう涙の跡もあった 
よりいっそう女をいとおしく想った


【6】「ぼくが学生運動を始めたきっかけ」坂野陽平(全学連委員長代行)

文連メルマガ創刊おめでとうございます。
「ピチピチの(人間)を」という○○氏の期待に添えるかはわかりませんが、ピンチヒッター坂野、頑張って書きます。
 自分が学生運動に立ち上がったきっかけと、闘いの呼びかけです。
 
思えば僕(と僕らの世代)は大激動の時代を生きている。
「昭和」が終わりを告げ、ソ連スターリン主義の崩壊が帝国主義の矛盾を本格的に引き起こそうとする最中、僕らは産声を上げた。
アメリカの象徴である双子の塔が一瞬にして崩壊する姿(9・11反米ゲリラ戦闘)、中東の空に絶え間なく降り注ぐ白い光(イラク戦争)―僕らはどこかで戦争を意識して生きてきた。
気付けば僕は戦争反対を唱え、左翼を自任していた。
高校時代は、一方ではズブズブの体制内政党とともに「非武装中立」を掲げながら、他方では70年の東大や日大の闘いに激しく心ひかれていた。
「大学に入ったら学生運動をやるもんだ」山形の片田舎に暮らす僕は本気でそう考えていた。
 僕が学生運動に決起するには時間がかかった。しかし確かに決起した。やはり「大学に入ったら学生運動をやるもん」なのだ。
 
2007年夏、「8月15日」を数時間後に控え、ぼくは決心を固めた。「靖国神社に行って左翼と会おう」と。
もう一度「左翼」に会いたかった。戦争反対を叫びたかった。なにより下らない大学生活に「満足」している自分と決別したかった!
ネットカフェに泊まり、早朝から靖国へ。
待てど暮らせど、来ない、来ない! 来ない!! 失望感とともに駅へ。
聞こえてくるシュプレヒコール、高鳴る胸、いつの間にかデモの隊列へ。
それからもう4年が経とうとしている。
 
「大学はいかなる場所か」このことが全学生、全労働者人民に激しく問われている。
大学は或る時は強大な宗教支配から独立した学問の府であった。また或る時は戦争推進の先兵であった。その存在は<時代と社会>の観点から問われなければならない。
帝国主義が崩壊し、大恐慌が引き起こす戦争と大失業が人々を未曾有の惨禍にたたき込もうとする今日、大学の果たすべき役割は「革命の砦」「日本帝国主義打倒の砦」であると僕は確信している。
すべての労働者・学生はともに闘いの戦列へ!


【7】「大阪にて」ズートロ(法政ドキュメンタリー上映委員会)

来週から大阪で私の映画の上映が行われる。その上映に際して、私は3月10日から大阪に滞在中である。上映前に大阪入りする意味は、一つには関西の映画シーンの現地視察である。東京にユーロスペースやアップリンクがあるように、関西も、京都みなみ会館や第七芸術劇場がある。知り合いの情報や、ピアの映画館情報を頼りに、映画館を渡り歩く。また、その渡り歩く際には、『抵抗と存在』のフライヤーを置かせてもらえないかと交渉する。この「フライヤー撒き」こそが、もう一つの目的である。
映画館のフライヤーが映画館や喫茶店に置いてあることは多い。大手の配給会社ではなく、低資金の情報宣伝を行う自主上映の場合、このフライヤーを置かせてもらう作業は映画館や喫茶店に出向いて、直接、店頭で交渉することが多いという。そして、受け取る側も慣れているせいか、あたたかく対応してくれる。

今回の大阪で上映される映画は、『抵抗と存在〜大久保守登の足跡〜』である。内容を簡単に説明すると大久保守登という06年〜07年頃に活躍したノンセクト学生の一人を扱っている。私がドキュメンタリー映画を撮り始めたのが07年4月くらいだから、ちょうど撮り始めた時に、一番アツイ男だったために、いまだに大久保守登を追いかけている部分がある。そんな個人的な事情はあるものの、大久保守登をそもそも知らない人から、「誰やねん」と言われることは多い。多少、法大の運動を知っている人でも、「その『大久保守登』は文化連盟とは関係あるの?」と尋ねられる場合さえ、ある。文化連盟はブログがあり、一般メディアからの取材をいくつか受けているため、一般的(!?)な認知度は比較的高い。しかし、06年3月14日から始まる運動に参加しながらも、現在の文化連盟とはほとんど関わりのない学生も多い。大久保守登はその一人である。ゆえに大久保守登はこんなやつだったんだ。こんなどうしょうもない3年間を送ってきたんだ、と言って回るのが私の役目だと自負している。

本番は上映であり、ビラ撒きは予行演習みたいなものである。それでも、関西圏の主要なミニシアターには、あのフライヤーが並ぶことになるであろう。上映に客が入ってこその目標達成であるが、フライヤーが並んでいる姿を想像して、つい、微笑んでしまう。上映は来週である。関西圏の方はぜひ来場して大久保守登のドキュメンタリー映画を見ていってほしい。


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創刊日:2010-02-21  
最終発行日:  
発行周期:隔週  
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