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石垣探訪

「石垣探訪」は近畿2府4県+三重県の各地の石垣(石積)や故郷情報などを提供しています。
観光用メルマガにはないマイナーLメルマガですので、皆さんのリクエストされる故郷紹介に之対応できると思います。

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メールマガジン「石垣探訪」

2010/02/07

��1_メールマガジン「石垣探訪」

ご登録いただいた方々に定期的にお届けするメールマガジン「石垣探訪」です。
今回が創刊号ということで、以後、末永く、よろしくお願いします。

現在の読者数は私も含めて○○名だということで、まだまだ超マイナーです。
石積職人さんも激減している昨今、一人でも石垣ファンが増えてくれれば石屋さんを目指す若者も現れるかも!!

このメールマガジンを読んで石積職人になったという若者が現れるようになれるまで続けるつもりです。
お友達にも紹介してくださいね。


大阪府羽曳野市の第21代雄略天皇陵

大泊瀬幼武尊。
「おおはつせのわかたけるのみこと」と、読みます。
後の世に 第21代 雄略天皇 と呼ばれるようになる人物です。

写真は大阪府羽曳野市島泉にあるこの人のお墓(天皇陵墓古墳)ですが、幕末の頃、直径75メートルの円墳である丸山古墳と一辺が50メートルの方形の平塚古墳をドッキングしてあたかも前方後円墳のように見せたものです。
もともとの雄略天皇のお墓は丸山古墳だけだといわれています。


天皇陵正面

幕末に、御陵を荘厳化するために数十メートル離れた場所にあった平塚古墳を接合して巨大化する工事を行ったようで、被葬者に敬意を払うつもりが・・・・はなはだ不敬であったのではないでしょうか。

現在は宮内庁が指定している陵墓の全ては立入禁止で学術調査も禁止されているが、この陵墓を含めた指定地陵墓全ての調査を開始して、被葬者をあきらかにして陵墓の全てを治定しなおし、あらためて御祀りすることをしなければ、それこそ宮内庁がいう「被葬者に対して不敬である」ということになるのではないだろうか。

おっと、ここは「石垣探訪」のメールマガジンでした。にわか「考古学博士」のわたしに、このての話を任せると長くなるのでいけません。

そういえば、歴代天皇陵墓も石垣擁壁で囲われたものがほとんどで、いずれも最高権力者に敬意を払ってか見事な石積工事です。お近くに宮内庁指定の陵墓があれば参拝してみてください。
いずれも、天皇陵墓だからといってそんなに古いものではなく、天皇家を崇拝さすために、幕末から明治になって治定されたもので、ほぼ半数は間違っているとおもわれますが、石垣工事などの整備は治定以後現在も続けられていて、その石垣工事の見事さが幕末から第二次大戦までの政府が望んだ天皇崇拝というもくろみに一役買っていたことは事実です。

石積の歴史の始まりが、古墳時代の石室の内部を保護したり、前方後円墳の外部の石張りだったといわれていることを考えれば、古墳と石積は深い「えにし」のまま現在に至っているといえるかもしれません。


雄略天皇宮候補地1 天の森の標柱

さて、この天皇 雄略は、はなはだ気性の激しい男だったようで、先代の安康天皇を刺殺。継承争いから兄の坂合黒彦皇子、八釣白彦皇子を殺害。時期天皇候補の市辺押磐皇子を狩りに誘い出して射殺す。

感情の起伏が激しく「朝に会したものは夕にはころされ、夕に会したものも朝には殺される」と、おそれられたという。
平群、大伴、物部の軍事力を後ろ盾として、武力と政略結婚によって各地の豪族を従えて卓越した指導力で政権を保持し続けた人物です。また、大泊瀬幼武尊の「泊瀬(はつせ)」が近所にある有名なお寺「長谷寺」の「はせ」の名の由来にも繋がるようです。

私がこの地を訪れたのはつい先日、2010年01月末のことですが、私の小さい脳みその野郎が、この石垣の塀が宮跡の石垣だと単純に思い込んでしまい・・・・・・うかつにも泊瀬朝倉宮はここだと信じきっていました。---シロウトノアサハカサ---
考古学者がここを宮跡だとする根拠は別にあるようで、私の浅知恵など遠く及ばなかったようです。

それが分かったのは2月に入ったある日三重県南牟婁郡御浜町片川を訪問したときのことででした。
地区長でもある西浦さんにうかがった「猪垣」の話で目がさめた。「昔は今のように電気柵もトタン板も無かったので山や谷川で集めた石で山中に塀を造ったらしい。」・・・山中に延々と続く石積は、その「猪垣」だったのです。
まったく、無知というのは救いがたいですよね。・・・・・見聞は広げ無ければ、と、今更ながら思うのでありました。


宮の石垣と勘違いした「猪垣」であろう石垣塀

石垣の未熟な積み方は猪の被害に悩む農家の方が片手間に積んだものだといわれれば、納得させられる程度の水準ではありますね。

だからといって、ここが、泊瀬朝倉宮の第一候補地であることにはいささかの揺るぎもないのであります。

 


「天の森」を見上げる

ASA設定を間違えて暗い写真になってしまっていましたが、カメラの位置が白山神社横手で、見上げている先に通称「天の森」があります。

ちなみに通りがかった近所の人に「天の森はこの上ですか?」と聞いたら「しらない!」といわれてしまいました。そのマイナーなところが・・・・・私好みでもあるのですがね。


白山神社側面

桜井市黒埼の通称「天の森」が泊瀬朝倉宮であろうことは大和志や日本書紀通証などに記されているようですが、「天皇の宮としては立地的に無理がある。この白山神社のあるこの地こそ泊瀬朝倉宮の地にふさわしい」と、考える学者さんもいるようです。

浅知恵考古学ファンのわたしは、「そうとばかりはいえないのではないか。21代目を数えるとはいえ、それは太古の昔のこと。天皇といえども呪術に頼ることもあった時代の話でもある。彼が、八百万の神々の住む山上に住まいを求めたとしても不思議はないのではないだろうか?」

この白山神社、ま、石垣は何処にでもある不通の石垣ですね。本殿の側面に松の幹であろう絵が描いてあってちょっと珍しいです。
万葉集には詳しくないのですが、雄略天皇の歌が最初に書いてあるんだそうですね。・・・・違っていたらすみません。

ここが雄略の宮だとすれば、この地が万葉集発祥の地だとする石碑が立っていました。

天の森や白山神社からだと吉隠川を挟んで対岸斜面の奥の奥に泊瀬朝倉宮跡だという第三の候補地がありました。

桜井市教育委員会の案内板によれば、「この磐坂谷が泊瀬朝倉宮であろうことは帝王編年記や和州旧跡幽考に述べられている。そして、この獣に神社境内がその候補地となっている。泊瀬朝倉と呼ばれる範囲はは長谷谷の入り口の慈恩寺あたりから長谷寺のあるあたりまでであるが、宮をこの高台に営んだのは川の氾濫を想定してのことだった」としています。

この神社の石垣も一部修理はされていますが、かなり古いものでした。

神社駐車場にとまっている車の左側の白い軽トラックが私の愛車で「キャデラック」と呼んでいます。
「石垣探訪」の全ての場所への移動はこれで行うわけですが、この日はここ奈良県桜井市の山中にいますが、この前日には三重県南牟婁郡御浜町に、その前日には滋賀県大津市の坂本にいましたから・・・キャデラックとはいえ馬鹿には出来ません。パワーハンドルもない完全手動のマニュアル車であればこそいける場所というのが・・・・・あるんですってば!!
友人に言わせれば「似合っている」そうです。

「石垣探訪」創刊号にも関わらず石垣の話が少なくてすみませんでした。
次回からちゃんとした石垣の写真を紹介しますね。。

次回配信は2月11日(木)くらいを予定しています。

   
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創刊日:2010-01-28  
最終発行日:  
発行周期:1ヶ月  
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