国際情勢

「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」

陸上自衛隊が初めて海外派遣されたカンボディアからイラク復興支援まで、海外に赴いた隊員数十人を直接取材し、彼らが現地で何を体験し、どうやって任務を遂行してきたのか、その実際を聞き書きしたものです。
派遣先での「異文化との出会い」に悩み、戸惑いながら、事態をどう解決してきたのか?知られざる自衛官の活躍を等身大で紹介します。

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陸軍史あちらこちら(297) 荒木肇 『敗戦時の経理部将校(1)――自衛隊&陸軍の高級幹部のつくり方(33)』

2015/06/03

□はじめに

 経理部将校たちの活動範囲の広さや、その所掌事務の膨大さはいくらかお分かりになったでしょうか。まだまだ方面や部隊別の奮闘記が残されています。

 大戦末期の陸軍の総兵力はおよそ550万人にもなりました。そのうち将校の数は組織制度からいってどこの国の軍隊も変わらなかったようです。大国の陸軍では全体の4.5%が将校・士官であることが標準と見られています。准士官・下士官が12.6%、兵員は82.9%といわれてきました。そうすると、帝国陸軍の末期には、総人員数550万人×0.045、すなわち24万7500名くらいが将校(兵科・各部少尉以上の武官)となります。

 復員局が作った『動員概史』によれば、終戦時の将校はやはり約25万人。うち、将官は約1600名、佐官が同4万4000名、尉官は20万5000名で合計が25万600名となります。現役将校はそのうち25%でしかなく、大多数の75%は予備役からの召集将校でした。

 現役将校の数は約4万8000名、そのうち兵科2万9000名で60.4%です。陸軍は技術軽視といわれたはずですが、技術部将校は約6700名ですから13.9%、それに経理部主計将校は3442名で7.2%と建技将校が685名で1.4%。つまり、将校のうち5人に3人は兵科でしたが、あとの2人のうち1人は階級章の下縁に黄色の線をつけた技術将校がいて、残りの1人は銀茶色の主計・建技将校(8.6%)、深緑の軍医・薬剤・歯科・衛生将校(13.3%)だったというわけです。これにおよそ3倍の予備役将校がいました。

 今回からは敗戦にまつわる多くの話からお届けします。


▼ラバウルの現地自活

 昭和20(1945)年12月31日現在の数字で、ラバウルにあった第8方面軍の総兵力は9万2784名だった。方面軍とは数個の軍をまとめる単位で、この時の司令官は今村均大将である。方面軍経理部では、内地からの補給品はひたすら温存し、現地自活に努めると言う方針を立てた。農作物の作付け面積は1万9568反歩、これを1人当たりの平均にすると62.26坪、およそ205平方メートルになる。

 ラバウルを占領し、わが軍を武装解除したオーストラリア軍には一切、世話にならずにすんだ。どころか、ボーゲンビル方面の第17軍へ、ニューギニア方面の第18軍に糧食や被服、需品などを合計1000トンずつ豪軍の輸送船で送るということまでできた。

 当時のもちかえった資料を手に語るのは軍経理部部員だった主計大尉。中央大学法学部を卒業、現役将校になった人である。のちに厚生省復員局にも勤めた。
 『昭和21年1月20日の現況を申し上げます。人員9万2784名、馬600頭、精米1845トン、乾パン1432トン、現地栽培の陸稲24トン、合計で3301トン。1か月消費量678トンとして4.86カ月、すなわち146日分。なお、当時の部隊の勤務及健康状態は次の通り』

 さすがに患者の数は多い。およそ2万8000名が軍医の診断を受けた正規の患者である。うち入院患者数は約3800名、入院するまでには至らない在隊患者は同2万4200名。現地自活人員は1万4000名で、豪軍による使役作業などが2万3000名、集団の中での勤務は2万8000名だった。この自活人員が農作業要員であり、集団内勤務者は部隊の生活維持のために働いていた。もちろん、衛生部、経理部勤務者はこちらになることが多かった。


▼今村大将の英知

 1942(昭和17)年12月に第8方面軍司令官として今村大将が着任した。ただちに方面軍経理部長(主計少将)と大佐の軍医部長を呼んだ。現地住民の食生活を調査せよとの命令が下った。何を食べているのか、それを我々が食べて生きていけるのかを調べろというのだ。

 『わたしの記憶によりますと、6〜7か所に農事試験場を設けました。なにしろ我々は全く兵要地誌に基づく現地の物資の利用法も何も知らないわけです。そこでパラオから山中技師、神山技師というベテランを、南方糧食・農耕関係の方々を集めて研究されたのです。そして自活用農器具を大本営に申請して送ってもらいました』

 「兵要地誌」とは軍隊が外地に進出し、あるいは戦闘し、占領駐留するときのための情報である。現地の植生、地形、民情、その他たいへんな量の情報である。この準備がまるでなかった状態で日本軍は海外に出かけた。出征すれば、そこの住民の意識や交通、通信機関の様子、戦闘の影響や秩序はどうか、さらには残った敵勢力の影響なども知らねばならない。しかし、多くの南方派遣の軍人たちは何も知らなかったし、参謀本部から情報もほとんど与えられた形跡がない。

 占領地で困惑させられた事例、体験談を見聞きするたびに心が痛む。みな現地で手探りである。だれが「ポツダム宣言」などにいう計画的に世界制服などと考えていたのだろうか。少なくとも陸軍は、大陸での戦闘はともかく、南方での戦いなどほとんど考えていなかったことが分かる。

 ラバウルでも同じ状態だった。緒戦の勝ち戦の頃である。今村の指示に戸惑った幹部も多かったらしいが、兵站補給のシステムは現によく作動していた。ラバウルまでは物資は順調に送りこまれて来ていた。しかし、今村は、いずれ南方方面の補給は途絶すると予想していたのだった。その先見の明がラバウル10万の将兵の命を救ったのである。

 現地の農業は苦労の連続だった。地味が薄い、つまり土壌に栄養分が少なかった。風によって花粉を運ぶ植物はよいが、ハチやトンボ、アブなどがいない。内地からもっていった種子は育つのだが、実がならなかった。国際連盟からの委任統治領の行政は南洋庁が担っていたが、そこで活躍してきた人たちを指導官として招いて農業技術を広めていくしかなかった。
 
 陸海軍の補給の違いについても主計大尉は語る。
 『海軍は、まったくわれわれと戦闘の様式が違いましょう。われわれ陸軍というのは地下足袋はいて、脚絆を巻いて、おいしいとかいいものは残しておいて、まずいものからまず食べて行くと。海軍はもう当時でもちゃんと夏の白い服を着て、ナイフとホークで西洋料理を食べる、宵越しの銭は持たないと、畑で自活して戦争をするということは軍艦の戦闘ではございません』

 海軍は『宵越しの銭は持たない』とはよい表現である。海軍は内地の基地、もしくは巨大な根拠地から十分な糧食をフネに積んで戦闘におもむく。逆にいえば、めったに洋上補給を受けるようなことはなかった。日本海軍の興味深いところは太平洋という広い海域を主戦場と考えていた割に、給糧艦や工作艦といった後方支援のフネが少なかったところだ。これはもちろん侵攻してくる敵艦隊を近海で待ち受けて洋上決戦をするといった想定に関わりがあった。また、陸軍と比べれば戦闘の時間的長さが違う。そして「ボカチン食らえば」一巻の終わりである。まさに「宵越しの金」などしみったれた感覚でしかないだろう。


▼補給品の地下への格納と教訓

 1944(昭和19)年の8月になると補給も尽きた。ラバウルを要塞にして、この中で最後まで戦おうとなった。内地から送って来たものはすべて地下壕に納めることになった。空襲からの被害を減らすためである。ちょうど東京から熱海に着くくらいの100キロを超えた地下トンネルを掘った。自活のために農業をしながら地下掘削工事も続けていた。
 『海軍の部隊、航空の部隊が引き揚げる前に、どれだけ敵の飛行機がやってきたかというと、19年の1月で2979機、2月が2732機、来ない日もありますが平均一日に100機です。これだけ来るから軍需品を地下に埋めなければならないと。その間には現地自活もせにゃならんと。だからしてこれを統率した軍司令官や経理部長が苦心されて、みんなそれについてくるということで各部隊長が非常に熱心でしたね。それによって一人でも落っこちる兵隊のないようにしようという執念で、ああいうものが出来上がって、ラバウルの現地自活というのが有名になったと思うんです』

 予期された戦闘は対戦車肉迫攻撃だった。終戦前に貨物廠長に転任した主計大尉は部下といっしょに、午前中は対戦車戦闘の訓練に励み、夕方は現地自活にいそしんだ。だからラバウルでは貨物廠長は部隊長章を付けるべしと命令があって、軍隊指揮権ももたされた。各部将校の指揮権がどうだという議論もなくなって、勝たねばならないという時には平時の議論は問題にもならなかった。

 空襲に備えて地下壕に入ることになった。周りにはタピオカを植えることにした。そうすると、まさかの時には夜中でも這い出て食べられるようにという配慮である。


▼米と鍬の思い出

 今村大将は敗戦になってから、兵隊をみな内地に帰すという時にオーストラリア軍に申し出た。米一升と鍬を一丁つくって、兵隊みんなに渡せるようにしてくれと。米が一升あれば、なんとか家に帰りつけるだろう。そして鍬があれば、ここラバウルで何年間のあいだに現地自活を覚えこんだはずだ。その根性と努力があれば必ず復興ができる。日本の復興のために大事なものになるだろうからと、みんなに鍬一丁はもたせて欲しいというのである。

 教訓めいたことを言えばと主計大尉は語り続ける。
 『部隊長に現地自活というのは作戦だと、どちらがどうのということではなく、これは一体となるべきものだということを部隊長に教育してあったら非常によかっただろうと思うし、また軍司令官の指導がよかったからみんなそういう頭になってしまったんですけれど、そういうことを兵科の方の部隊長にも徹底するような教育がある程度行われていればよかったと思うんです』

 ただしと言う。どこでもラバウルのようにできたか、それは疑問だという。ラバウルは内地から6000キロも離れている。補給線が長すぎて糧秣が来ないということは、いわなくても兵隊の頭で分かる。だから自分たちでやらなきゃならないという気が起きる。何もない所でもやってやろうという気になる。だから、どこでも模範になるという例ではない。

 ラバウルの現地自活はそれだけで一冊の物語になるだろう。次回は悲惨な敗走の記録や、敵軍との出会いなどを調べよう。

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創刊日:2008-04-08  
最終発行日:  
発行周期:週刊  
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