国際情勢

「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」

陸上自衛隊が初めて海外派遣されたカンボディアからイラク復興支援まで、海外に赴いた隊員数十人を直接取材し、彼らが現地で何を体験し、どうやって任務を遂行してきたのか、その実際を聞き書きしたものです。
派遣先での「異文化との出会い」に悩み、戸惑いながら、事態をどう解決してきたのか?知られざる自衛官の活躍を等身大で紹介します。

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【特別号】「田母神論文」について-1 「陰謀史観という見方」 荒木肇

2008/11/19

 「田母神論文」についてさまざまな議論がされています。すでにお知らせのように、今週発売の「SPA!」には私の談話が載っていますが、これに加えて皆様に、私の近現代史について、田母神論文の意味などについて考えたことを読んでいただこうと考えました。
 私も教育史学の方法論をかじった人間です。歴史教育についても、いささかの持論があります。皆様のご叱正や、ご指導をいただければ幸いです。


▼歴史の見方には「絶対的な正」はない

 田母神元空将の論文の中に、蘆溝橋(ろこうきょう)事件は、コミンテルンによる策謀(さくぼう)だという論述がありました。
 ご承知のように、コミンテルンとは第3インターナショナルとも言われます。1919年にレーニンの率いるロシア共産党を中心にした各国の共産党、左翼社会民主主義者グループによってモスクワで結成された国際的な労働者組織です。世界革命を目指した急進的な政策をとりました。

 また、真珠湾攻撃も、ルーズベルト大統領は事前に知っていた。その上で、犠牲に目をつぶり、第一撃を日本にやらせて米国民の戦意をあおったという解釈もありました。そして、日中戦争も蒋介石の策動によってわが国は無理矢理引きこまれたという主張です。

 これらの見方は、いずれも歴史学者の間では「陰謀史観」といわれてきました。こういうものは学問ではない。ミステリー小説にしかすぎないという言い方が必ずされます。歴史学者や、近現代史研究者の多くは、それらの解釈を価値のないものとしてきました。

 でも、一般世間では、けっこう「陰謀史観」には支持者が多いように見えます。
 今回の田母神論文を読んで、目新しい主張はないけれど、考え方にはうなずけるといった人が多いに違いありません。どこが悪いのかと納得できない方もおられることでしょう。田母神さんの国会の発言に対して、「Yahoo」での支持率は58%もあるそうです。

 歴史学者が田母神説を価値がないと決めつけることには理由があります。
 まず、学者は文書資料を大切にします。文書が見つからないものは、すべて否定しがちです。たしかに、伝聞による証言や、人が口にした言葉だけでは、客観性が低いということもあります。
 だから、歴史学者の仕事は、ほとんどが文献の解釈です。史料批判こそ歴史学研究の正道であり、それ以外の方法はなかなか認められません。証言や、伝聞による情報は、どうしても軽視してしまいます。

 しかし、陰謀というものは、たいていが証拠を残しません。だからこそ陰謀です。証拠が文書で残るようでは、そもそも陰謀にはなりません。

 わたしは、過去のわが国が侵略国家だったといわれれば、それはそれで、その方の「好み」の領域の話と考えます。私は侵略の定義も知っています。自衛戦争はいいけれど、先に手を出してはいけない、領土的野心や政策的な理由で戦争をしかけるなということです。
 でも、それは、まだ100年も経っていない約束でしょう。歴史の中の長いスパンで考えれば、いつか修正される時があるかも知れません。

 歴史の見方には「絶対的な正」はないのです。私の言っていることや書いていることも、正しいかどうかは分かりません。現在の私の存在をかけて、『いまは、ここまでは言える』というスタンスです。


▼戦後の『日本の歴史』論争

 歴史学者は「人間そのもの」に関心が薄いのです。
 歴史とは人々の物語であり、ロマンだという主張があります。これに対して、歴史は科学であり、人類発達の正しい道のりを追究する(まあ、いまだに共産党は、資本主義→社会主義→革命→共産主義社会という法則が正しいと言っていますが)という意見もあります。

 だいぶ以前のことですが、岩波新書の『日本の歴史』の書き方をめぐって、大きな論争が起きました。著者たちは旧帝大の歴史学専門家を中心にした人たちです。書きぶりは見事なまでに「唯物史観」によって貫かれていました。戦前の歴史観の誤りをただし、科学的な歴史叙述を心がけた結果です。当時の若者を中心に、その本はベストセラーになりました。

 ところが、それに反ばくした知識人もおりました。もっとも、専門の歴史学者というわけではありません。彼らは、その歴史解釈の中の人間不在を告発したのです。でも、当時の学会や、知識人たちの間では、ごく少数派でした。「反動」といわれたり、「封建思想の残党」とまで批判されたりする始末でした。

 半世紀近く経った現在から見れば、たいへん興味深いことに、歴史学者のほとんどは「親ソ連」であり、「親中共」でした。反アメリカが当然で、日米安保条約にも反対するのが当たり前です。そういう人たちが歴史学会の多数派でした。個々の人間の事情などを考える必要はないという学者たちが学会の主流でもありました。歴史は原理で動いている。一人ひとりの意見や考え方など大した問題ではないという考え方がふつうだったのです。


▼歴史を推理し、解釈する自由

 1937(昭和12)年7月7日、北平(北京)近郊、永定河にかかる蘆溝橋付近で、日本軍歩兵部隊が夜間演習中でした。この部隊は、1900年に起きた義和団事件の解決以来、国際条約(北清事変ニ関スル議定書:1901)のもとに、合法的に駐屯していた支那駐屯軍の一部です。
 もちろん、英・米・仏・伊の各国も兵力を置いていました。行なった演習も各国軍同様に適法なもので、携行した空砲、事故に備えての実包の携行数も、通常どおりだったことは陸軍の資料によって明らかになっています。

 一発の小銃弾が背後から飛来。実弾の飛ぶ音に中隊長が「集合ラッパ」の吹奏を命じたとき、さらに堤防上から発砲の火炎が見えて十数発の実弾が撃ちこまれました。

 相手はすぐに分かりました。宋哲元の率いる第29軍第37師の兵士でした。当時の北京大使館付武官補佐官今井歩兵少佐の証言が残っています。
 少佐によれば、馮(ひょう)37師長は高名な「反日派」であり、隷下の部隊は夜間警戒をずっと行なっていた。その警戒が何を目的にしているか分からないだけに不安を感じたといいます。

 37師の兵営の中には、至るところに「反日・侮日」のスローガンが書かれ、『(それを見ると)悪心(気分が悪くなり、吐き気をもよおす)を覚える程だった』と少佐の日記にはあるそうです。
 しかも、少佐は前日に、現地の保安隊司令(中国軍の警備専門部隊)から会食の席で、『現在、日支両軍が戦闘中だ。自分たちには戦意はないので攻撃はしないで欲しい』と伝えられています。これは前日のことです。

 まだまだ不審な状況を伝える証言がたくさんあります。全部を紹介はできませんが、どう考えても、誰かが仕組んだ「陰謀」である疑いは濃厚です。
 真犯人は誰か、田母神氏が言われるように、コミンテルンの手先がいたのでしょうか。そんな文献資料はありません。同時に、いなかったという資料もありません。わずかに、田母神氏が指摘しているように中国共産党の指導者だった劉少奇が、『実は私がこれを仕組んだ』という告白の伝聞が残されています。

 ならば、状況証拠を元にして、推理もいれて、歴史解釈をするのは自由ではないでしょうか? 「正しさ」論議と「好み」はちがいます。恐ろしいのは、自分たちの信じる「正解」と違うからといって、自由な思いを封殺することでしょう。

 学者は、結果から原因や理由を推測します。が、歴史には、しばしば「偶然」があったり、当事者が思ってもいなかったことが起きたりすることも事実でしょう。すべて必然では語りきれないのが、私たち人間の特性ではないでしょうか。

 「中国に敗けたのだし、被害者がそう言っている。相手の解釈や主張が正しい」という態度は、それこそ科学的ではありません。


▼「進歩主義者」もしくは知識人たちの傾向

 戦後、わが国では極端な現象が起こりました。過去はすべて間違いだった。旧い体制はすべて悪だという考え方です。
 もっとも、これは戦後だけのことではなく、明治の初め頃も同じだったようでした。外国人お雇い教師の残した文献には、しばしば当時の日本人の若い学生が自国の歴史を否定することに驚いたことが残されています。
 維新前の江戸時代をすべて否定し、だから優れた新しい文物を学ぶのだと熱心に主張する学生がいたのです。

 同じことが大東亜戦後にも起きました。司馬遼太郎さんは陸軍から復員し、新聞記者になられたそうです。その時の思い出話に、京都大学の番記者だった頃の話がありました。町の中は少しも変わらぬ人々の暮らしがあった。それなのに、大学の中には明日にも革命が起こるといった雰囲気が満ちていたといいます。司馬さんに向かい、若い大学院生が「お前には分かるまい」といった調子で話してきたとも書いてありました。

 それは、わが国の大学の特質でした。わが国の帝国大学は、中世ヨーロッパの「俗権」に侵されなかった神聖さを真似して造られ、そのことを保障されてきました。大学紛争以来、だいぶ大衆化しましたが、戦後、ずいぶん長い間、「大学の自治」という言葉は、彼らの特権を守ってきました。行政府の言うことは聞かなくていい、一般の国民は分かっていないから啓蒙するのだ。あるいは、真実は自分たちだけが知っている。今も、知識人(その言葉に値する人がいるのかは別として)の多くはそんな気分にいるのではないでしょうか。

 そんな人たちは「正しい目的のため」には、敢えて「嘘をつく」こともあるかも知れません。実は、私がこんなことを言うのも、「ノモンハン事件」のことを思い出すからです。

 1939年、関東軍はモンゴルの草原で、ソ連軍と外蒙古軍の連合軍と衝突しました。その結果は惨敗というべきものです。わが国の戦闘参加師団はほとんど戦力を消耗し、主張した国境線も守れませんでした。確かに、負けは負けです。残された資料から見る限り、幕僚や、高級指揮官の責任は追及されるべきでしょう。

 戦後、この事件は愚かで、バカな戦(いくさ)の見本とされてきました。なぜなら、相手の損害はまったく無視されてきたからです。わが軍の戦死傷は約20,000、対してソ蒙軍の損害は同じく9,800余りとされてきました。

 中級や下級指揮官、下士官兵たちは、その勇戦奮闘にもかかわらず、その戦いぶりを評価されることもありませんでした。まるで無駄死にのようにも言われてもきました。

 ソ蒙軍の損害については、戦後、誰も語りませんでした。ソ連側の発表を文字通り受け止めて、やっぱり遅れた陸軍はだめだったんだ……という評価を下していました。
 それが、今から20年ほど前のことでしたか、ソ連の公文書館にあった資料が公開されたのです。なんと、ソ蒙軍の人的損害は、はるかにわが軍を上回っていたことが分かりました。ソ連はそのことをずっと隠してきたのです。

 それを知ったとき、荒野に散った関東軍将兵の霊よ安かれと、私は祈りました。野戦砲の射程はソ連軍のそれに劣り、快速戦車や装甲車に蹂躙(じゅうりん)され、まるでいいところがなかったかのように書かれてきた将兵たち。悪条件のもと、敵にワレを上回る出血を強要した私たちの父祖たち。そのことを、相手の発表を鵜(う)呑みにして、正当に評価してこなかった「進歩的歴史学者」たちに、私はつくづく愛想がつきました。

 そして、ソ連は国際条約破りの常習犯です。日ソ中立条約を一方的に破棄して、満洲になだれこみました。北方領土にも野心をもって侵攻し、8月15日以降も、わが軍の抗議も受けつけず攻撃を続けました。この違法性を追求すると、往時のソ連関係者は、みな、「当時はヤルタ協定を守る方が国益に合致したからだ」と答えたといいます。

 戦後日本の、知識人や一部の若者たちの「ソ連びいき」については、また、別の機会に語りたいと思います。


▼「方法論的帰化」を大切に

 過去のわが国は異文化です。とりわけ、敗戦国家になったわが国は、伝承文化をひきつぐ部分と、断絶した部分があります。それは、私たち自身の中にも、過去の日本人の価値観をひきつぐ部分と、ひきついでいない所があることを意味しています。

 異文化に接するときには謙虚さが必要です。まず、現在の自分の価値観と異なるところを発見すること。見つけたならば、価値づけをする前に、見方を変えてみることです。それが出来ずに、いたずらに「過去は愚か」で、「理解不能」とすることは怠慢といっていいでしょう。異文化への耐性がないのです。

 戦前社会は特別高等警察などがいて威張りちらし、言論の自由がなかった。ほんとうにそうでしょうか。女学生は箸(はし)が転んだと言っては笑い、結婚への夢を語り、男子学生は徴兵を、とりわけ陸軍はいやだなあ……と言い合いながら、酒を飲み、青春を謳歌していました。天皇は神だと信じていたのは、子どもを除けば、ほんの少しの人でした。

 真っ暗な社会だと思っていたのは、反体制的な考えをもち、世間から孤立していた人だったことは、現在と少しも変わりません。故山本夏彦氏は、『人が真っ暗で希望をなくして生きていけるか』と喝破(かっぱ)しています。
 私の父や、父の従兄弟たちは、みな、いわゆる学徒出陣組ですが、仕方ないなあ、もう駄目かもなあ、でも、俺はやるぞ、俺の誇りにかけて……という気分だったと言っています。また、当時の日記にも、そういうことを記している人が多かったのです(これを戦後、曲げたのは『聞けわだつみの声』などの出版物です)。

 過去の人の生き方に共感する。できるだけ、その時代の文化にそってみる。これを「方法論的帰化」と言い表す研究者がいます。私は、そればかりをやってきました。できるだけ、当時の状況や環境を、自分の能力で受け入れてみる。そうすると、自分が当時の人と同じように考え、同じように行動するかもしれないことが分かります。

 中国との戦争の頃、南満洲鉄道沿線には十万人以上の日本人がいました。また、中国の各地に、内地から多くの人々が出かけては暮らしていたのです。現地の治安の悪さは、当時のマスコミによって十分以上に知らされていました。排日、侮日は、当時の中国人の一般常識でした。日本人が乱暴されたり、時には殺されたりもしました。それが、今、似たようなことが起きたとしましょう。話し合えば解決できると主張するでしょうか。それとも、そもそもそこに「侵略者としているのが悪い」のだから、帰ってくれば良いとキャンペーンを展開しますか?

 その「時代相」を追究するというのは、こうした自分への問いかけから始まります。


 自衛官に対する「正しい」歴史教育を主張する人がいます。
 次回は、そのことについて、教育をや学校のことを考えてきた人間の一人として、いくつか疑問点を出してみたいと思います。しばらく「田母神論文」の意味を考えてみたいと思います。(荒木肇)

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創刊日:2008-04-08  
最終発行日:  
発行周期:週刊  
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  • 12008/11/24

    ご意見拝見させてただきました。



    少し気になった点がありましたのでいくつか指摘させていただきます。



    「中級や下級指揮官、下士官兵たちは、その勇戦奮闘にもかかわらず、その戦いぶりを評価されることもありませんでした。」

    とのことですが、ジューコフ元帥の回想にも見られるように、また当時の新聞報道等、または戦後の小説や研究考察にいたるまでの諸資料において、日本軍の士卒の指揮や士気、戦闘方法には高い評価がなされています(特に対戦車戦闘技術が優れたものであることなど資料に新たにされてきております)。



    「戦いぶりを評価されることもありませんでした。」「まるでいいところがなかったかのように書かれてきた将兵たち。」

    というのは少し事実と違と思います。



  • 名無しさん2008/11/20

    荒木さんのご意見は大変に参考になりました。

    歴史は生き物です。いろんな意見があって宜しいとおもいます。

    海自OBの一人

  • 名無しさん2008/11/19

    田母神論文では随分といろいろな議論を引き起こしました。空幕長という立場から非難されておりますがそれもその通りだろうとも思います。ただ自衛隊の歴史教育まで統制すべきであるというような意見には頷けません。荒木様の今回の冷静なご意見にはOBとしてありがたく思います。池上でした。

  • 名無しさん2008/11/19

    よき記事をありがとうございます。





     参考



    >戦後、曲げたのは『聞けわだつみの声』などの出版物



    法政大学 大原社会問題研究所雑誌 2007年1月号、2月号 ネット公開

    「日本戦没学生の思想ー『新版・きけわだつみのこえ』の致命的欠陥についてー」

            岡田裕之 著

    http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/578/578-02.pdf