出産・育児

最前線の子育て論byはやし浩司(メルマガ版)

子育て最前線で活躍するお母さん、
お父さんのための育児マガジン+育児エッセーほか。    
★★★★★2007年10月、
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●子育て最前線の育児論byはやし浩司・メルマガ(知恵とは)

2010/04/12






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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   12日号
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●羞恥心(しゅうちしん)(生の文化論)

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週に1度は、近くの温泉へ行って、気分転換を図る。
夜遅く行くことが多い。
そこでのこと。
こんなことに気がついた。

最近の若い男たちは、タオルで前を隠さない。
平気というか、あれをブラブラさせて、浴場内を
歩いている。

そのことをワイフに話すと、ワイフも、同じような
ことを言った。

女湯の一部に、大理石を敷き詰めたようなところがあるらしい。

「先日もね、若い女の子が3人、大の字になって、
寝ころんで、話をしていたわ。
もちろんどこも隠さないで……」と。

私たちが子どものころには、どこの街角にも
銭湯というものがあった。
それなりにマナーが確立していた。
しかし今は、そのマナーも消えた。

私「前を隠す女の子はいないのか?」
ワ「そんな女の子はいないわよ」
私「平気なのか?」
ワ「平気みたい」と。

++++++++++++++++++++

●文化

 学生時代……といっても、40年も前のことだが、オーストラリアでは、
みな、素っ裸で泳いでいた。
男も、女も、ない。
(もちろん公設の海水浴場では、みな、水着をつけていたが……。)

 あるいはメルボルン市内のスーパーマーケットが、「裸の客は、50%引き」
という広告を出したこともある。
(数字は、記憶によるものなので、不正確。)
経営者は裸になる客はだれもいない……あるいは少ないと思っていた(?)。
客寄せの宣伝のつもりだった(?)。
しかし店を開いてみると、裸の客が、どっと押し寄せた。
みな、素っ裸。
素っ裸で、買い物をし始めた。
女性の客のほうが多かったという話も聞いている。

 また当時、大学の構内でも、ブラジャーをつけている女子学生は、ほとんど
いなかった。
中には、下の下着すら身につけていない女子学生もいた。
そういう女子学生が、男子学生の前で、平気であぐらを組んで座る。

 さらにこんなこともあった。
私がある女子学生の部屋でお茶を飲んでいたら、その女子学生が
私の目の前で、衣服を着替え始めた。
私のガールフレンドでも、何でもなかった。
その女子学生が、上半身、裸で、である。

あるいは大学では、ストリーキングというのが、流行(はや)った。
紙袋で顔だけを隠し、素っ裸で、大学構内を走り回るという遊びだった。
それを見かけると、学生たちはみな、歓声をあげて喜んだ。

 そのとき私が受けたショックがどんなものか……。
今の若い人には理解できないかもしれない。
「裸」に対する考え方が、日本人の私とは、まったくちがっていた。
が、40年前に青春時代を送った人なら、私が受けたショックを理解できる
はず。

●生の文化

 羞恥心のある者からは、羞恥心のない者が、理解できない。
羞恥心のない者からは、羞恥心のある者も、これまた理解できない。
たとえばイスラム教国の中には、女性のばあい、顔すら隠しているところがある。
日本人の私たちにすれば、奇異な風習に見えるが、彼らは、けっして
そうは思っていない。
そういう国の人が、この日本へやってきたら、どうなるか。
それはちょうど、40年前の私と、逆の立場ということになる。

 つまり羞恥心というのは、その国の文化と深く結びついている。
そしてそれがその国の人たちの常識になっている。
となると、「文化とは何か」ということになるが、言うなれば、「約束の
集合体」ということになる。
それが如実に表れるのが、裸文化。
言うなれば、「生の文化」。
「生」は、「ナマ」と読んでもよいし、「セイ」と読んでもよい。
「衣服」などというものは、それが着物であれ、ドレスであれ、
裸文化を包む、包装紙のようなもの。
「裸」をどう考えるか。
少し大げさな感じがしないでもないが、それが文化の基本と考えてよい。

 その文化の基本が、このところ、大きく変化し始めている。
そのひとつとして、日本人から、羞恥心が、急速に消え始めている。
肉体の羞恥心だけではない。
心の羞恥心も、それに含まれる。
みなが、自分の心を赤裸々に語り始めている。
おもしろい現象である。

 ちなみに私は、この年齢になっても、そういった場所では、きちんと
タオルであそこを隠して歩いている。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●知恵

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布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密(ハラミツ)」という。
このうちの「布施、持戒、忍辱、精進、善定」については、
たびたび書いてきた。
が、「知恵」については、あまりにも当たり前のことと
思い、書いたことがない。

++++++++++++++++++++++

●知恵の重要性

 教育の世界では、「無知は罪」と考えてよい。
親の無知が、子どもの心をゆがめるというケースは少なくない。
相手がいないばあいなら、無知であることも許される。
しかし相手がいて、その相手に影響を及ぼすなら、「無知は罪」となる。
しかもその相手というのが、無抵抗な子どもというのなら、なおさらである。
そういう意味では、総じて言えば、愚鈍は恥ずべきことであって、けっして誇るべきこと
ではない。

 で、六波羅密においては、「知恵」を6番目の徳目としてあげた。
もちろんこれは私の勝手な解釈によるもので、仏教学者の人たちなら、顔を真っ赤にして
怒るかもしれない。
六波羅密は、大乗仏教(北伝仏教)の修行法の根幹をなすものである。
「はやし(=私)ごときに、何がわかるか!」と。

●善と悪

 そこで私の善悪論の根幹をなす考え方について。
私はいつもこう書いている。

「悪いことをしないからといって、善人というわけではない」
「よいことをするから、善人というわけでもない」
「人は、悪と積極的に戦ってこそ、善人である」※と。

 「悪と戦う」というのは、(外部の悪)はもちろんのこと、(自分自身の内部に潜む悪)
もいう。
このことも、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。

 何もしないで、静かにおとなしくしている子どもを、よい子どもとは言わない。
あいさつをきちんとし、先生の言うことをハイハイと、従順に従う子どもを、よい子ども
とは言わない。
身近でだれかが悪いことをしたとき、それを制したり、戒める子どもを、よい子どもとい
う。

 実際、よいこともしなければ、悪いこともしないという人は、少なくない。
万事、ことなかれ主義。
小さな世界で、丸く、こじんまりと生きる。
しかしそういう人を、善人とは言わない。
「つまらない人」という。
ハイデッガー風に言えば、「ただの人(das Mann)」。

 で、私たちは、積極的に悪と戦っていく。
そのとき最大の武器となるのが、「知恵」ということになる。
知恵なくして、人は、悪と戦うことはできない。
「悪」のもつ愚鈍性を見抜いたとき、善は悪に打ち勝ったことになる。
これには、(外部の悪)、(内部の悪)もない。

●知恵を磨く

 愚鈍の反対側にあるものが、「知恵」ということになる。
そう考えると、知恵が何であるかが、わかる。
言い替えると、「考える力」、その結果として得られるのが、「知恵」ということになる。

 誤解してはいけないのは、知識イコール、知恵ではないということ。
いくら知識があっても、それを反芻し、消化しなければ、知恵にはならない。
その「反芻し、消化する力」が、「考える力」ということになる。

 このことは反対に、老人の世界を観察してみると、よくわかる。
認知症か何かになって、考える力そのものを喪失したような老人である。
口にすることと言えば、過去の愚痴ばかり。
そういう老人には、ここでいう「悪と戦う力」は、もうない。
もちろん善人ではない。
善人とは、言いがたい。

 が、だからといって、善人になるのは、難しいことではない。
自分で考えて、おかしいと思うことについては、「おかしい」と声をあげるだけでよい。
たったそれだけのことだが、その人をして、善人にする。

+++++++++++++++++

(注※)3年前に書いた原稿を添付します。
日付は、2007年9月26日(水)と
なっていますが、この原稿自体、
さらにその6、7年前の2000年ごろ
書いたものです。

+++++++++++++++++

●善と悪

●神の右手と左手
 
 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。
善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないと
いうことらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの
努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをす
るのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということに
なる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、
たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりに
はだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういう
とき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそ
が道徳ということになる。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思
い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そうい
ったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差
点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもな
いことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考
えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにし
ても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使
うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるの
か。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、そ
の謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小3)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれない
が、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思な
らわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかった
はずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪い
ことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじ
めて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、2つに分かれることがわかる。

1つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理とい
うことになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう1つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間にな
る方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どち
らを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問
題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていく
と、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 善と悪 善人と悪人 考える力 知恵 智慧 知性 知識)


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●仏教でいう「あの世」論

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仏教では、「あの世(=来世)」思想を、
信仰の根幹にしている。
しかし釈迦自身は、「あの世」という
言葉も、また概念も一度も、口にしていない。
ウソだと思うなら、原始仏教典である、
『法句経』を、端から端まで読んでみる
ことだ。

仏教に「あの世」思想が混入したのは、
インドにもともとあった生天(しょうてん)
思想を、後の仏教学者たちが取り入れた
ためと考えてよい。

「生前に行いにより、人は死後、天上界
という理想郷で、生まれ変わることが
できる」というのが、生天思想である。

++++++++++++++++++

●釈迦

 釈迦自身は、きわめて現実主義的な、つまり現代の実存主義に通ずるものの考え方をし
ていた。
いろいろな説話が残っている。

たとえば1人の男が釈迦のところへやってきて、こう言う。
「釈迦よ、私は明日、死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればいいか」と。
すると釈迦は、こう言って、その男を諭す。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 ここでは記憶によるものなので、内容は不正確。
またこの説話は、私のエッセーの中でも、たびたび取りあげてきた。
しかしこの説話の中でも、釈迦は、「あの世」という言葉を、まったく使っていない。
もしそのとき釈迦が「あの世」を信じていたのなら、その男に、こう言っただろう。
「心配しなくてもいい。あの世でちゃんと生まれ変わるから」と。

●あの世論

 一方、キリスト教やイスラム教では、「天国」を、しっかりと説く。
仏教で言う「天上の理想郷」ということになる。
どちらが正しいとか、正しくないとか、そんなことを論じても意味はない。
また釈迦自身はどう考えていたかを論じても、意味はない。

 現実に私たちは、今、こうしてここに生きている。
そしてやがていつか、近い将来、この肉体は分子レベルまで、バラバラになる。
こうした(現実)の中で、いかに有意義に、心豊かな人生を送るか。
それが重要。
そのために宗教というものがある。
そのひとつに、「あの世」に希望を託して生きるという方法もある。
「天国」でも構わない。

 しかし私自身は、「ない」という前提で生きている。
何度も書くが、それは宝くじと同じ。
当たるか当たらないか、それがわからないまま、当たることを予想して、家を買ったり、
車を買ったりする人はいない。
同じように、あるか、ないか、それがわからないまま、「あの世」に、希望を託して
生きることはできない。

 死んでみて、「あの世」があれば、もうけもの。
そのときは、そのときで、考えればよい。
宝くじにしても、当たってから、賞金の使い道を考えればよい。

●珍問答

 話はぐんと脱線する。
こんな珍問答がある。
(私が考えた珍問答だが……。)

 平均寿命が、40年とか50年とかいう時代には、こうした問題は起こらなかった。
その前に、人は死んだ。
しかしその平均寿命が、70年とか80年になった。
とたん、ボケ問題が、大きくクローズアップされるようになった。

 そこで「あの世」へ行く老人たちは、どういう状態で、「あの世」へ行くのかという問題。
私の印象に残っている老人に、こんな老人がいた。
特養にいた老人(女性、85歳くらい)だが、一日中、顔をひきつらせ、こう言って
叫んでいた。
「メシ(飯)は、まだかア!」「メシは、まだかア!」と。

 細面の美しい顔立ちを、そのまま残した女性だった。
だからよけいに、印象に残った。
そこで珍問答というのは、これ。

そういった女性が「あの世」へ入ったら、どうなるか?、と。
「あの世」でも、やはり同じように、「メシはまだかア!」と叫びつづけるのだろうか。
それとも、一度、若くて美しい女性にもどって、「あの世」へ入るのだろうか。

 インドの生天思想によれば、「生まれ変わる」ということだから、赤ん坊になって
生まれ変わるということになる。
すると、ここで最大の矛盾が生じてくる。

●矛盾

 善人と悪人のちがいは、0歳期〜の環境によって決まる。
その人個人の責任というよりは、その人を縛りつけている「運命」による。
私たちの身体には、無数の「糸」がからみついている。
その「糸」が、ときとして、私たちをして、望まぬ方向に導くことがある。
それを私は、「運命」という。

 言い替えると、どんな赤ん坊でも、理想郷で生まれ育てば、善人になる。
だとするなら、その入り口で、人間を差別する方が、おかしい。
「あなたは悪人だったから、理想郷には入れません」と、どうして言うことが
できるのか。
だれが言うことができるのか。

●「この世」が「あの世」

 ……とまあ、こういう意味のない問答は、しても、時間の無駄。
もし「あの世」がほんとうにあるのなら、私がすでに何度も書いているように、
今、わたしたちが住んでいる「この世」のほうが、「あの世」と考えるのが正しい。
私たちは、理想郷である「あの世」に住んでいて、ときどき「この世」、つまり
「あの世」から見れば、「あの世」へやってきて、「この世」で生きている。

 「この世」には、地獄もあれば、極楽もある。
国単位で、地獄もあれば、極楽もある。
さしずめ、餓死者が続出しているK国は、地獄ということになる。
イラクでも、アフガニスタンでもよい。
一方、北欧の国々は、極楽ということになる。
そういう理屈なら、私にもわかる。
納得する。

●希望

 では、生きがいとは、何かということになる。
死んだら、何もかもおしまいというのは、あまりにもさみしい。
それについては、以前、こんな原稿を書いたことがある(中日新聞発表済み)。
「努力によって、神のような人間になることもできる。
それが希望」と。

それをそのまま紹介して、このエッセーをしめくくりたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

 つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

 その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

 もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

 たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

 私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

 「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●雑感・あれこれ

 ここ数日、猛烈な北風が吹き荒れている。
そんな中、空模様をながめながら、畑づくり。
植えたばかりのレタスやイチゴに、風よけを立てる。
全部で、15、6苗。
いろいろな野菜の苗を植えたが、そのうちいくつかは、付け根のところで葉が折れてしま
った。
ネギの苗も、一度は背を伸ばしたが、また畑に身を横たえてしまった。
それにしても、強い風。
台風並み。


●検索

 書いた原稿は、500〜600枚(40字x36行)ごとに、「原稿集」としてまとめて
いる。
その原稿集が、現在、計3万枚を超えた。
(3万枚だぞ!)
ふつう単行本1冊分が、120〜150枚。
3万枚ということは、単行本にすれば、200冊以上!

 ほとんどの原稿は、そのままネット上で公開している。
そのこともあって、自分の書いた原稿をさがすときは、このところネット上でさがすこと
が、多くなった。
たとえば「はやし浩司」+(書いた文章の一部)で検索して、自分の書いた原稿をさがす。
先ほども、グーグルの検索エンジンを使って、「はやし浩司 善人というわけではない」と
いうようにして、原稿をさがした。
そのほうが便利だし、早い。
これもネット、つまりインターネットの別の利用法の1つと考えてよいのでは……。


●「早い」と「速い」

 そのインターネットで、「はやい」と書くとき、「早い」と書くべきなのか、「速い」と書
くべきなのか、よく迷う。
たった今も、迷った。

 スピードが急なときは、「速い」と書く。
時間が短くてすむときは、「早い」と書く。
インターネットでは、「速度」が問題になることが多い。
ファイルをUPLOADするときも、DOWNLOADするときも、「速度」という言葉を
使う。
検索するときも、「検索速度」という言葉を使う。
だから検索に要する時間が短いときは、「速い」と書くべきなのか、「早い」と書くべきな
のか、わからなくなる。
 
 理屈で考えれば、「早い」が、正しいということになる。
しかし英語では、「fast」と表記している。
となると、「速い」が正しいということになる。
どちらが正しいのだろう?


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●老齢期の思考傾向

+++++++++++++++++++++++

老齢期になると、独特の考え方をするようになる。
おおまかに言えば、(1)極端性、(2)狭小性、
(3)退行性、(4)偏屈性が見られるようになる。
順に考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++

(1)極端性

 その人の一部だけを見て、それを極端化し、それでもって、その人のすべてを判断
するようになる。
たとえば、「あの林(=私)は、叔母の葬儀に顔も出さなかった。
だからあいつは、人間のクズだ」というような言い方をする。

 自分の価値基準を極端化する。
全体を見て、考えることができなくなる。
あるいは全体を見て、その人を判断できなくなる。
「オール、オア、ナッシング(すべてか、ゼロか)」という言い方が多くなる。

(2)狭小性

 ものの考え方が、より自己中心的になる。
その地方でしか通用しない価値基準を、相手に求めるようになる。
相手の価値観を認めないばかりか、否定するようになる。

 たとえば、こういう言い方をする。
「浜松(=私が住んでいる町)では、どうか知らないが、お前も生まれは
G県なのだから、G県のしきたりに従ってもらわねば困る」とか。
ものの考え方が硬直化し、融通がきかなくなる。

(3)退行性

 ここでいう退行性というのは、40代、50代〜で、新しくインストール
された情報が消え、20代、10代のころに得たものの考え方に、逆行して
いくことをいう。

 「林君(=私)、あんたも男だろがア!」というような言い方が、それ。

 ものの考え方に、男も女もない。
その人が子どものころにどこかで聞き覚えた、古典的なものの考え方が、
亡霊のように復活してくる。

(4)偏屈性

 要するに、がんこになるということ。
新しい考え方を、受け入れなくなるばかりか、新しい考え方を否定するようになる。
「昔からのしきたりでは……」とか、「世間では、こうだ」というような言い方が
多くなる。

 こまかいことにこだわり、それを針小棒大に考える。
(1)で書いた、「極端性」にも通ずる。
よくよく考えれば何でもないことなのに、いつまでもそれにこだわる。
あるいはそれを自己正当化の方便にする。
「あの林(=私)は、オレの家に遊びに来たとき、みやげひとつ、もってこなかった。
だから断交した」というような言い方が、それ。

●脳みそ

 こうした老齢期特有の考え方は、老齢期になればなるほど、顕著に現れてくる。
基本的には、(1)脳みその性能が低下する、(2)脳みその硬直性が進む。

 子どもの世界でも、伸びる子どもは、頭がやわらかい。
ひとりで遊ばせても、身のまわりから、つぎつぎと新しい遊びを発明していく。
そうでない子どもは、そうでない。
趣味も遊びも、かぎられたものになりやすい。

 こうした傾向が、老齢期には、さらにはっきりとしてくる。
新しいことに興味をもたなくなる。
新しいことをしても、身につかない。
すぐ忘れる。
新しいことをしたいという気力そのものが、弱くなる。
大脳生理学的には、新しいニューロンの形成が、鈍くなるということか。
あるいは欲望と欲求を司る、ドーパミンの分泌が、減少するということか。

 一度こうなると、あとは加速度的に、老人に向かって、まっしぐら。

●では、どうするか?
 
 「健康」には、3種類ある。
(1)肉体の健康、(2)精神の健康、それに(3)脳みその健康。

 肉体の健康と精神の健康は、わかりやすい。
しかし脳みその健康は、外からはわかりにくい。
脳のCPU(中央演算装置)がからんでいるだけに、本人も気づきにくい。
脳梗塞や認知症か何かになれば、なおさらである。

 そこで、こと(3)脳みその健康ということになれば、適切な刺激を与えつづける
しかない。
毎日のジョギングが肉体の健康を維持するように、それに似た方法で、脳みその
健康を維持する。

 参考になるかどうかわからないが、私たちの夫婦のばあいは、こうしている。

(1)週に2度は、劇場で映画を観る。
(2)週に1度は、近くの温泉で保養する。
(3)月に2、3度は、軽い旅行をする。
(4)本代、雑誌代は、けちらない。

 家でDVDを観るという方法もあるが、何といっても、迫力がちがう。
だから劇場で映画を観る。
(ワイフは、家でDVDを観ているときは、いつも居眠りをしているぞ!)
それに昼寝は、ボケ防止には、たいへん効果があるとか。
たがいに励ましあって(?)、昼食前後に、30〜40分の昼寝をするように
心がけている、など。

 が、それでも脳みその性能の低下は、いかんともしがたい。
気力を維持するだけでも、たいへん。
どうかすると、すぐ眠くなる。
実感として、それがわかる。

 あとはストレスを避ける。
うつ状態になると、どうしても(こだわり)が強くなる。
(こだわり)が強ければ強いほど、脳のほかの部分の活動が低下する。


Hiroshi Hayashi+++++++March 2010++++++はやし浩司

●似顔絵

++++++++++++++++++

幼稚園児が、私の似顔絵を書いてくれた。
それを加工して、似顔絵から声が出るようにしたい。
そのセリフを、考える。

++++++++++++++++++

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Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●不安の原点(Where does Anxiety come from?)

+++++++++++++++++

私たちの日常生活は、「不安」との
闘いと言っても過言ではない。
個人差はあるが、「不安」のない人は、
いない。
金持ちも貧乏人も、健康な人も、
病気の人も、そして若い人も、
老いた人も……。
みなが、共通に「不安」をかかえている。

その原因のひとつが、「現代社会」が、
構造的にもつ欠陥と考えてよい。
つまり私たちは、「欲望」を解き放った
ことによって、便利で、未来志向型の
生活習慣を手に入れた。
つまり飽くことを知らない、未来への
欲望が、「不安」の原点になっている。

「現代社会」では、「後れること」イコール、
「敗者」を意味する。

そのことをキリスト教の世界では、アダムと
イブの説話を通して、説明する。
アダムとイブは、「知識の実」を食べ、
神を裏切る※。
知識の実と引き替えに、人間は、それ以後、
常に「不安」と同居することになる。
つまり自分で考えて行動する自由は手に
入れた。
しかし同時に、神の教えには背くことに
なった。
キリスト教でいう「原罪」というのは、
それをいう。

悶々と晴れることのない不安。
ひとつの不安を克服すると、その向こうに
もうひとつの不安が現れる。
毎日が、この繰り返し。

++++++++++++++++++

●スズメと山鳩

 朝、起きると、最初に庭に、鳥の餌をまく。
その直後、数秒を待たないうちに、スズメや山鳩がおりてきて、その餌を食べる。
こんな習慣が、もう20年近く、つづいている。

 そんなとき、ふと、こう思う。
私という人間は、かなりいいかげんな人間である。
「毎朝」といっても、(ここ数年は、たしかに毎朝だが……)、時に、忘れることもある。
そんな人間を、スズメや山鳩は、その時刻になると、屋根の端に列をなして、待っている。
「スズメや山鳩は、不安に思うことは、ないのだろうか」と。
つまり「私という人間に、不信感をもつことはないのだろうか」と。

私がスズメや山鳩なら、私という人間を信用しない。
「あの林(=私)は、いいかげんな男だ。
信用してはいけない」と。
が、信用しない分だけ、スズメや山鳩は、不安になるはず。
「今朝は、ちゃんと、餌をまいてくれるだろうか」と。

●後れる

 ほんの10年前まで、幼稚園の教師は「後れる」という言葉を、よく使った。
今でも年配の教師は、よく使う。
子どもが幼稚園を休んだりすると、「後れますから、幼稚園へ子どもをよこしてください」
と。
私も、子育ての最中には、よく言われた。
 
 しかし何から、後れるのか?
さらに言えば、どうして後れてはいけないのか?
もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 新しいゲームソフトが発売になるたびに、子どもたちの世界がザワつく。
多くの子どもたちは、発売と同時に、そのゲームソフトを買う。
親や祖父母に頼んで、買ってもらう子どももいる。
「売り切れになるといけないから、(学校へ行っている間に)、買っておいてよ」と。

 で、私はその中の1人に、こう聞いたことがある。
「ゲームの中身を確かめてから、買ってはどう?」と。
すると、その子どもは、こう答えた。
「そんなことしてたら、後れてしまう」と。

 多くの子どもたちは、そのゲームがほしいから買うのではない。
1日でも早く、それを手に入れ、ほかの子どもたちに先んずるために買う。
つまり自分のステータスを守るために、買う。

●「不安」との闘い

 こうした現象を、だれが笑うことができるだろうか。
これは子どもの世界の話だが、おとなたちも、まったく同じことをしている。
子どもの受験を例にあげるまでもない。

 今どき、「受験」を謳(うた)い文句にしていない幼児教室は、私が知るかぎり、私の教
室(=BW教室)以外に、ない。
親のもつ不安を利用すれば、生徒は集まる。
しかしそれは邪道。

 親たちは、心のどこかで強い不安を覚え、子どもの受験競争に狂奔する。
つまりこうした構図は、現代社会全体に、共通している。

 今朝も新聞の折り込み広告が、20枚近く、入っていた。
私は大型電気ショップの広告には、必ず目を通す。
見ているだけで楽しい。

 言うまでもなく、そこは新製品の世界。
今、ねらっているのは、ビデオカメラ。
ハイビジョン撮影は、常識。
小型化も著しい。

こういう世界では、1年でも進歩を止めたら、そのまま敗者の世界に追い出されてしまう。
店どうしの競争も、熾(し)烈になってきている。
私はその広告を見ながら、「この世界も、たいへんだなあ」と思った。
製造会社も、販売会社も、まさに「不安」との闘い。

●では、どうすればよいのか

 先ほど、おもしろいことが起きた。
私がパソコンで、「現代」と打つつもりで、「gendai」とキーを叩いたら、「原罪」と
いう言葉が出てきた。
入力ミスである。

 そう、まさに「原罪」。
アダムとイブは、神の教えに逆らって、「善悪の知識の実」を食べる。
つまり欲望を解き放つ。
それが「原罪」となって、私たちの身を焦がす。
そのひとつが、「不安の原点」ということになる。

 ……かといって、私たちはこの「世界」と無縁でいることはできない。
わかりやすく言えば、「競争」と無縁でいることはできない。
その「競争」が、絶え間なく、「不安」を生み出す。

 そこで考えられる方法は、2つ。
「おごれる人も久しからず」と、平家物語を書いた兼好法師のように、厭世するという方
法。
競争社会から、身をはずしてしまう。

もうひとつは、原罪は原罪として、それを理解した上で、仲よくつきあうという方法。
理解しないまま、つきあうのはよくない。
へたをすれば、欲望の奴隷となってしまう。

さらにもうひとつ、宗教の世界に救いを見出すという方法もあるが、これは私のやり方で
はない。

 やはり仲よくつきあうしかない。
良質で、適度なストレスは、私たちをむしろ前向きに引っ張ってくれる。
それがまたどこかで「生きがい」につながる。
無数のドラマも、そこから生まれる。
悪いことばかりではない。

(注※)『失楽園は創世記第三章の挿話である。 蛇に唆されたイヴとアダムが、神の禁を
破って「善悪の知識の実」を食べ、 最終的にエデンの園を追放されるというもの』(Ya
hoo 知恵袋より)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 不安 不安の原点 失楽園 アダムとイブ エデンの東)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※


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  • 名無しさん2010/04/13

    はやしさんへ、いつも楽しみに拝見させていただいています。さしつかえなければ、一つ質問があります。TVで見たヨコミネ式の教育法について、幼児期はあまり競争意識したものから離したほうが良いとお考えだと記事で読んだことが、あるのですが

    あのようなヨコミネ式を見るたびに



    はやし先生は、どのように感じるか機会がありましたら、教えていただきたいと思っています。いつも興味深い記事をありがとうございます。湖西市 SYより