出産・育児

最前線の子育て論byはやし浩司(メルマガ版)

子育て最前線で活躍するお母さん、
お父さんのための育児マガジン+育児エッセーほか。    
★★★★★2007年10月、
60000誌の中で、TOP-ONEに
評価されました!★★★★★

全て表示する >

●子育て最前線の育児論byはやし浩司・メルマガ(進学競争)

2007/11/26

☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 11月 26日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page013.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親子の信頼関係

+++++++++++++

信頼関係は、たがいにどこまで
じぶんをさらけ出せるかによって、
決まる。

つまりどこまで自己開示できるか。
その度合いによって決まる。

親子とて例外ではない。

+++++++++++++

●親子のさらけ出し

 親子で、どこまでたがいに、さらけ出しができるか。その度合いによって、信頼関係が
決まる。

 子どもも、小学3年生くらいを境に、急速に親との間に距離を置くようになる。いわゆ
る「親離れ」が始まる。

 このとき親が、それなりの覚悟と、そして子離れの準備をしていればよいが、そうでな
いとき、いろいろな問題が起きる。子どもが幼児のころの親子関係にこだわり、その状態
に戻そうとあがく親も、少なくない。

 とくに溺愛ぎみの親や、子育てを生きがいにしている親ほど、その傾向が強い。このタ
イプの親にとっては、子離れそのものが、考えられない。中には、子どもが親離れを始め
たとたん、その絶望感(?)から、自己否定、自己嫌悪に陥(おちい)ってしまう親もい
る。

 親子でも、たがいのさらけ出しが、信頼関係の基本だが、しかしその信頼関係は、子ど
もの年齢とともに、質的に変化する。具体的に考えてみよう。

 以前、こんなことを相談してきた母親がいた。

 何でも最近、その母親の息子(小3)が、学校であったことを話してくれなくなったと
いうのだ。それまでは学校であったことを、あれこれ話してくれたが、それがなくなった。
「それで、どうしたらいいか?」と。

 この時期を境に、子どもは急速に交友関係を広める。同時に、親子の関係は、希薄にな
る。こうした関係の変化は、子どもの成長期には、よく見られる。が、それをもって、親
子の信頼関係が崩壊したと考えるのは、誤解である。

 この時期を境に、親子の関係は、「親子」から、「一対一」の人間関係に変化する。いつ
までも親が、親風を吹かし、上下意識をもつほうがおかしい。一方、子どもにしても、い
つまでも、「ママ、ママ……」「パパ、パパ……」と甘えるほうが、おかしい。

 そこで問題となるのが、自分の子どもであっても、いかにして、子どもを、一人の人間
として見ていくかということ。そして子どもではなく、一人の人間として、どこまで信頼
していくかということ。私が先に書いた、「質的な変化」というのは、そのことをいう。

 そこで自己診断。

【自己診断】

●信頼型ママ……いつも心のどこかで、「うちの子は、すばらしい」と思っている。「うち
の子ができなければ、ほかの子にできるはずはない」と思うこともある。子どもの失敗
や、生活態度の悪さは、ほとんど気にならない。

●不信型ママ……いつも心のどこかで、「うちの子は、何をしても心配だ」と思っている。
「何か失敗するのではないか」とか、「人に笑われるのではないか」と思うこともある。
ささいなことが気になって、それをよく叱る。

少し前も、「食事中、子どもがよく食べ物をこぼす。どうしたらいいか」と相談してきた
母親がいた。その母親は、子どものしつけを心配していたが、問題は、その「しつけ」
ではない。母親自身が、子どもに対して、大きな不信感をもっている。それが姿を変え
て、こうした相談になった。もし子どもを信頼していれば、子どもが食べ物をこぼして
も、「あら、だめよ」と、軽くすますことができるはずである。

 そこであなた自身はどうか、少し振りかえってみてほしい。あなたは子どもの前で、自
分をさらけ出しているだろうか。あなたはさらけ出しているとしても、子どもは、どうだ
ろうか。あなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。

 このとき、たいていの親は、「うちの子は、私の前では、伸び伸びしています」と言う。
「言いたいことも言っています。態度も大きいです。したいことも、もちろんしています」
と。しかし本当にそうだろうか。あるいはひょっとしたら、あなたがそう思いこんでいる
だけではないだろうか。

 こういうケースでは、「私の子どものことは、私が一番よく知っている」「私と子どもの
関係は、すばらしい」と思っている親ほど、あぶない。親が傲慢であればあるほど、子ど
もは、その心を閉ざす。

 一方、「どうもうちの子のことがわからない」「親子関係は、これでいいのか」と思って
いる親ほど、子どもに対して謙虚になる。その謙虚さが、子どもの心を開く。このことが
わからなければ、反対の立場で考えてみればわかる。もしあなたが、あなたの親に、つぎ
のように言われたら、あなたは、どのように反応するだろうか。

●「あなたはどう思う? 私は掃除したほうがいいと思うけど、ね。お客さんも来るし」
と、相談をもちかけられる。

●「掃除をしっかり、しなさい。お客さんが来るでしょ。こんなことではどうするの!」
と、命令される。

もしあなたの子どもが、あなたの前で、小さくなっていたり、よい子ぶっていたりした
ら、あなたの親子関係は、かなりあぶない状態にあるとみる。表面的にはうまくいって
いるように見えるかもしれないが、それはあくまでも「表面的」。たいていのばあい、あ
なたという親がそう思っているだけと考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親子の信
頼関係 さらけ出し 自己開示)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

【今週の幼児教室から】

●おかしな話?

 聞きなれた話でも、よくよく考えると、「おかしい?」と思うような話は、多い。たまた
ま今日は、こんな話をした。

 私が、「うさぎさんと、カメさんが、かけっこをしました。で、うさぎさんは、猛スピー
ドで走って、はやくゴールに着きました。うさぎさんが勝ちました」と。

 すると子どもたちが、「その話は、おかしい」「カメさんが、勝つことになっている」「う
さぎさんは、途中で、居眠りをすることになっている」と。

 そこで私は、こう話しかけてみた。

私「どうしてうさぎさんが、途中で、居眠りなんか、するの?」
子「だって、カメさんが遅いから、それで木のそばで、一休みをするの!」
私「かけっこの途中で、居眠りするなんて、おかしいよ」
子「おかしくないよ。うさぎさんは、居眠りをするの。その間にカメさんが、うさぎさん
を追いぬいて、カメさんが、かけっこで、勝つの!」

私「それはおかしいよ。じゃあ、どうして、カメさんは、うさぎさんを、起こしてあげな
かったの?」
子「起こしたら、カメさんが、負けてしまうよ」
私「それなら、カメさんは、ずるいよ。やはり起こしてあげるべきだと思う。『うさぎさん、
眠っていてはだめだよ。起きなさい』と言うべきだったと思う」
子「きっと、うさぎさんは、起きなかったよ」
私「どうして?」

子「起こしたら、『うるさいなあ。寝させてよ』と、怒るかもしれない。それでカメさんは、
うさぎさんを起こさなかった……」
私「なるほど。そうか。しかし、ね。この話は、最初からおかしいよ」
子「どうして?」
私「足のはやいうさぎさんが、のろいカメさんとかけっこするところが、おかしい。はじ
めから、どっちが勝つか、決まっている」
子「どうして?」

私「うさぎさんが勝つに決まっているでしょう。ぼくがうさぎさんなら、カメさんと、か
けっこなんかしないよ。勝つに決まっているもの。ぼくがカメさんでも、かけっこなんか、
しないよ。負けるに決まっているもの」
子「……」
私「君たちだったら、お父さんと力くらべするかな?」
子「するよ。する、する」

私「お父さんに勝てなくても、するの?」
子「ううん、ぼくのほうが強いよ」
私「ああ、君のほうが強いの?」
子「そうだよ。パパのほうが、『降参、降参!』って、逃げていくよ」
私「なるほど、そういうことか」と。

 子どもたちがワイワイ言い始めたので、最後は、こう言ってしめくくった。

 「もしカメさんが、うさぎさんを起こしていたらね、どうなっていたと思う? うさぎ
さんは、きっと、カメさんに、こう言ったと思うよ。『カメさん、ありがとう。いっしょに、
歩いて行こうね』と、ね。つまりうさぎさんとカメさんは、仲よくゴールに着いたと思う
よ」と。

 もし私がうさぎさんで、カメさんに起こしてもらったなら、そこで競争はやめただろう
と思う。起こしてもらったことをよいことに、そこからまた猛スピードで走るようなこと
はしない。あるいはその時点で、負けを認める。さらに競争をつづけるにしても、そのあ
とは、カメさんの走るはやさで歩く。そして、多分、こんな会話をする。

う「やあ、カメさん、ぼくはうかつにも眠ってしまったよ」
カ「うさぎさん、それはまずいよ。本当は君が、勝った競争なんだから」
う「わかっているよ。だけど、起こしてくれてありがとう。起こしてくれなかったら、き
っと、ぼくは、君に、負けていたよ」
カ「ぼくだって、そんな方法で、勝ちたくないもんね」
う「そうだな。そうだよね。これからも仲よくしようね」
カ「うん」と。

 イソップ物語では、最初、うさぎさんが、カメさんを、「のろま!」とか呼んで、カメさ
んをバカにする。そしてこの競争は始まる。が、うさぎさんは、油断したため、最後には、
カメさんに負ける? もしそうなら、話の流れはわかるが……。

 ……こうした指導で大切なことは、(1)常識を押しつけないこと。(2)常識を疑わせ
ること。(3)自分で考えさせること。そして(4)自分なりの結論をもたせること。そし
て結果として、どんなことにでも、何らかの問題意識をもたせるように指導する。コツは、
子どもに意見を言わせ、それがどんな意見であっても、ほめるようにする。

 大切なのは、意見の内容ではない。その方向づけをすること。考えるクセをもたせるこ
と。そしてその時期は、早ければ早いほどよい。小学校へ入ってからだと、遅すぎる。

 で、レッスンが終わるとき、一人、「あとで、パパに聞いてみる」と言った子どもがいた。
「何を?」と言うと、「やっぱり、あの話はおかしい」と。そういう子どもが、一人でも現
れたということだけでも、喜ぶべきこと。今日のレッスンは、大成功だったということに
なる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 考える子
ども 子どもに考えさせる 子どもと思考)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●親の気負いvs子の気負い

+++++++++++++

どうせ生きるなら、無駄な
気負いは少なくしたい。

大切なことは、心を解き放つ
こと。

体は、あとからついてくる。

アメリカの格言である。

+++++++++++++

 「親だから……」と気負うのを、親の気負いという。それはよく知られているが、「子だ
から……」という気負いもある。これを子の気負いという。

 Sさん(長野市在住・女性)も、その「子の気負い」で苦しんでいる。両親と祖母の問
題。それに伯父、伯母の問題。こうした問題は、クモの巣のようにからんでいて、一筋縄
ではいかない。ときどき私は相談を受けるが、どこからどう手をつけてよいのか……? 

 そのSさん。今は、毎日、悶々と悩んでいる。祖母のボケが進んでいる。そのこともあ
って母親が沈んでいる。うつ病かもしれない。父親とうまくいっていない。実家へ帰って
も、父親と会話をするだけで、疲れてしまう。祖母の介護のことで、伯父が口を出して、
困る、などなど。

●相互依存性 

 こうした気負いは、相互的なもの。決して、一方的なものではない。親としての気負い
の強い人ほど、一方で、子としての気負いが強い。「よい親であろう」と思う反面、「よい
子どもであろう」とする。だからどちらを向いても、疲れる。

 こうした気負いの背景にあるのが、依存性。もう少しわかりやすい言葉でいうと、「甘え」。
親に対しては、しっかりと親離れできていない。一方、子どもに対しては、しっかりと子
離れできていない。結果として、どこかベタベタの人間関係になる。

 このベタベタの人間関係が、祖父母→親→自分→子へと、脈々とつながっている。だか
らふつう、その中にいる人は、それに気づかない。それがその人にとっては、ふつうの人
間関係であり、またたいていのばあい、それが「あるべき人間関係」と考える。

●Sさんのケース

 Sさんのケースでは、Sさんが、親のグチのはけ口になっている。とくにSさんの母親
は、何かにつけて、Sさんにグチをいう。「望まない結婚であった」「したいこともできな
かった」「夫(Sさんの父親)が何もしてくれない」と。

 こうした母親の不平、不満を聞きながら、Sさんは、ますます悶々と悩む。「両親たちは、
見た感じは、一見、仲のよい、理想的な夫婦に見えるのですが……」「友人がうらやましが
ることもありました」と。

 しかしそういうグチを、母親がSさんという子どもにぶつけること自体、おかしい。仮
にぶつけたとしても、子どもが悩むところまで、子どもを追いこんではいけない。Sさん
は、たいへん生真面目(きまじめ)な人なのだろう。そういう母親のグチを聞きながら、
適当にそれを聞き流すということができない。

●未熟な人間性

 依存型家庭につかっていると、依存性が強い分だけ、代々、子どもは精神的に自立でき
なくなる。自立できないまま、それがひとつの「生活習慣」として定着してしまう。

 たとえば日本には「かわいい」という言葉がある。「かわいい子ども」「子どもをかわい
がる」というような使い方をする。

 しかし日本語で「かわいい子ども」と言うときは、親にベタベタと甘える子どもを、か
わいい子どもという。自立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、かわいい子どもと
は、あまり言わない。

 また「子どもをかわいがる」というのは、子どもに楽をさせること。子どもによい思い
をさせることをいう。

 こういう子ども観を前提に、親は子どもを育てる。そしてその結果として、子どもは自
立できない、つまりは、人間的に未熟なまま、おとなになっていく。

●親の支配

 依存型家庭では、子どもが親に依存する一方、親は、子どもに依存する。その依存性も、
相互的なもの。自分自身の依存性が強いため、同時に子どもが自分に依存性をもつことに
甘くなる。その相互作用が、たがいの依存性を高める。

 しかし親が、子どもに依存するわけにはいかない。そこで親は、その依存性をカモフラ
ージュしようとする。つまり子どもに依存したいという思いを、別の「形」に変える。内
容としては、(1)命令、(2)同情、(3)権威、(4)脅迫、(5)服従がある。

(1)命令……支配意欲が強く、親のほうが優位な立場にいるときは、子どもに命令をし
ながら、親は子どもに依存する。「あんたは、この家の跡取りなんだから、しっかり勉強し
なさい!」と言うのが、それ。

(2)同情……支配意欲が強く、親のほうが劣位な立場にいるときは、子どもに同情さ
せながら、結果的に、子どもに依存する。「お母さんも、歳をとったからね……」と弱々
しい言い方で言うのが、それ。

(3)権威……封建的な親の権威をふりかざし、問答無用に、子どもを屈服させる。そ
して「親は絶対」という意識を子どもに植えつけることで、子どもに依存する。「親に
向かって、何てこと言うの!」と、子どもを罵倒(ばとう)するのが、それ。

(4)脅迫……脅迫するためによく使われるのが、宗教。「親にさからうものは、地獄へ
落ちる」「親不孝者は、不幸になる」などという。「あんたが不幸になるのを、墓場で笑
ってやる」と言った母親すら、いた。

(5)服従……子どもに隷属することで、子どもに依存する。親側が明らかに劣位な立
場にたち、それが長期化すると、親でも、子どもに服従的になる。「老いては子に従え
と言いますから……」と、ヘラヘラと笑って子どもに従うのが、それ。

●親であるという幻想

 人間の自己意識は、三〇歳くらいまでに完成すると言われている。言いかえると、少し
乱暴な言い方になるが、三〇歳をすぎると、人間としての進歩は、そこで停滞すると考え
てよい。そうでない人も多いが、たいていの人は、その年齢あたりで、ループ状態に入る。
それまでの過去を、繰りかえすようになる。

 たとえば三〇歳の母親と、五歳の子どもの「差」は、歴然としてあるが、六〇歳の母親
と、三五歳の子どもの「差」は、ほとんどない。しかし親も子どもも、それに気づかない。
この段階で、「親だから……」という幻想にしがみつく。

 つまり親は、「親だから……」という幻想にしがみつき、いつも子どもを「下」に見よう
とする。一方、子どもは子どもで、「親だから……」という幻想にしがみつき、親を必要以
上に美化したり、絶対化しようとする。

 しかし親も、子どもも、三〇歳をすぎたら、その「差」は、ほとんどないとみてよい。
中には、努力によって、それ以後、さらに高い境地に達する親もいる。しかし反対に、か
なり早い時期に、親よりはるかに高い境地に達する子どももいる。

 そういうことはあるが、親意識の強い親、あるいはそういう親に育てられた子どもほど、
この幻想をいだきやすい。この幻想にしばられればしばられるほど、「一人の人間としての
親」、「一人の人間としての子ども」として、相手をみることができなくなる。

●Sさんのケース

Sさんのケースの背景にあるのは、結局は、親離れできないSさん自身といってもよい。
Sさんは、実家の両親の問題に悩みながら、結局は、その実家にしがみついている。そ
ういうSさんにしたのは、Sさんの両親、さらにはSさんの祖父母ということになる。
つまり大きな流れの中で、Sさんは、Sさんになった。

 なぜ、Sさんは、「両親の問題は、両親の問題」と、割り切ることができないのか? 一
方、Sさんの両親は、「私たちの問題は、私たちの問題」と、割り切ることができないのか?
 Sさんは、両親の問題を分担することで、結局は両親に依存している。一方、Sさんの
両親は、自分の問題を娘のSさんに話すことで、Sさんに依存している。

 本来なら、Sさんは、両親の問題にまで、首をつっこむべきではない。一方、親は、自
分たちの問題で、娘を悩ませてはいけない。どこかで一線を引かないと、それこそ、人間
関係が、ドロドロになってしまう。

●批判

 こうした私の意見に対して、「林の意見は、ドライすぎる」と批判する人がいる。「親子
というのは、そういうものではない」と。「君の意見は、若い人向きだね。老人向きではな
い」と言ってきた人(七五歳男性)もいた。

少し話はそれるが、ここまで書いて、こんな問題を思い出した。親は子どものプライバ
シーの、どこまで介入してよいかという問題である。ある母親は、「子どものカバンの中
まで調べてよい」と言った。別の母親は、「たとえ自分の子どもでも、子ども部屋には勝
手に入ってはいけない」と言った。どちらが正しいかということについては、また別の
機会に考えるとして、私が言っていることは、本当にドライなのか? このことは、反
対の立場で考えてみればわかる。

 あなたは、いつかあなたの子どもが、あなたの問題で、今のSさんのように悩んだとす
る。そのときあなたは、それでよいと思うだろうか。それとも、それではいけないと思う
だろうか。Sさんは、メールで、こう書いてきた。

 「娘(中学一年)には、今の私のように、私の問題では悩んでほしくありません」と。

 私は、それが親としての、当然の気持ちではないかと思う。またそういう気持ちを、ド
ライとは、決して言わない。

●カルト抜き

 こうした生きザマの問題は、思想の根幹部分にまで、深く根をおろしている。ここでい
う依存性にしても、その人自身の生きザマと、密接にからんでいる。だからそれを改める
のは容易ではない。それから抜け出るのは、さらに容易ではない。

 しかも親子であるにせよ、そういう人間関係が、生活のパターンとして、定着している。
生きザマを変えるということは、そういう生活のあらゆる部分に影響がおよんでくる。

 これは一例だが、Y氏(五〇歳男性)は、子どものころ、母親に溺愛された。それは異
常な溺愛だったという。そこでY氏は、典型的なマザコンになってしまったが、それに気
づき、自分の中のマザコン性を自分の体質から消すのに、一〇年以上もかかったという。

 親子関係というのは、そういうもの。それを改めるにしても、口で言うほど、簡単なこ
とではない。それはいわばカルト教の信者から、カルトを抜くような苦痛と努力、それに
忍耐が必要である。時間もかかる。

●因縁を断つ

 そんなわけで、私たちが親としてせいぜいできるここといえば、そうした「カルト」を、
子どもの代には伝えないということ程度でしかない。少し古臭い言い方になるが、昔の人
は、それを「因縁を断つ」と言った。

 Sさんについていえば、仮にSさんがそうであっても、同じ苦痛や悩みを、子どもに伝
えてはいけない。つまりSさん自身は、親離れできない親、子離れできない子どもであっ
たとしても、子どもは、親離れさせ、ついでその子どもが親になったときには、子離れで
きる子どもにしなければならない。

 しかしこと、Sさんの子どもについて言えば、ここに書いたような問題があることに気
づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみてよい。このあと、多少、時間はかかるが、
それで問題は解決する。

 私はSさんに、こうメールを書いた。

 「勇気を出して、自分の心の中をのぞいてください。つらいかもしれませんが、これは
つぎの代で、あなたの子どもに同じような悩みや苦しみを与えないためです」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
気負い 気負い論 親の気負い 子の気負い 子どもの気負い 子育ての気負い)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの進学競争

+++++++++++++++

あちこちの学校で、オープンテスト
という名前の、模擬テストが行われて
いる。

なかなか……というか、よくこういう
名称を考えるものだと、感心する。

今までは、どこかの予備校や、私塾
連盟が、そういったテストをしていた。
が、今は、政府から補助金をたっぷり
ともらっている学校が、それをする。

オープンテスト……つまり、学校側の
金儲けにほかならない。
費用も、2000〜3000円。予備校や
私塾連盟がするテストの費用と同じ
である。

ふつうそうした費用のうち、60%程度
は、予備校や私塾の収入となる。

が、学校がそれをすれば、まるまる、
学校の利益となる。

500人の子どもが集まれば、それだけ
で、100万円。

学校そのものが、進学塾化している。

いいのかなあ……?

++++++++++++++++

●進学

 よい高校から、よい大学へ。そしてよい就職先へ。しかし人間というのは、そんな単純
なものなのか? 

 何も考えない。何も疑問に思わない。どこか単純な子どもには、そういうコースもある
のだろうが、しかしすべての子どもに、それを押しつけてはいけない。

 むしろ自分で考える子どもは、こうしたコースから自ら、はずれていく。それは子ども
自身に問題があるというよりは、そうした多様性に応ずることができない、システムのほ
うに問題があるとみる。

 二男の例を出して恐縮だが、二男は、この地元でも、A、B、C、D、E……ランクの
中でも、Eランクの高校を卒業している。それにはいろいろないきさつがあるが、このク
ラスの高校になると、国立大学へ進学する子どもどもは、数年に、一人いるかいないかと
いう程度になる。

 しかし二男の能力は、私は認めていた。だから二男がEランクの高校へ入学すると決め
たときも、すべて二男に任せた。

 が、この日本では、このあたりで人生のすべてが決まってしまう。事実、高校を卒業す
るときになって、二男には、進学できる大学がなかった。それでアメリカへ渡ったが、は
からずも、私はここで日本とアメリカの教育システムの違いを、思い知らされるところと
なった。

 アメリカでは、やる気と力があれば、人生のどの段階からも、そこを基盤として、前に
伸びることができる。二男は、私立大学で二年間学んだあと、今度は、州立大学へ移った。
そしてそこで学位を得て、卒業した。

 こういうことは、日本では、可能なのか? 答えは、「NO!」

 名もない小さな私立大学へ入った学生は、その段階で、いくら猛勉強しても、すべてそ
こまで。そのあと国立大学へ移籍するなどということは、常識で考えてもありえない。そ
の「ありえない」という部分に、日本の教育の最大の欠陥がある。

 二男は、幼いころから、自分で考えて行動する子どもだった。私も、意識して、それを
助けた。伸ばした。しかしこういう子どもは、この日本では、損をすることはあっても、
得をすることは何もない。従順に体制に従う子どもほど、この日本では得をする。またそ
ういう子どもほど、生きやすい環境が、すでにできあがっている。まさに官僚主義国家と
言われる理由は、こんなところにもある。

 今、その二男を思いやりながら、ときどき、こんなことを考える。もしあのまま二男が、
日本にいたら、二男はどうなっていたか、と。コンピュータについては、天才的な思考能
力をもっていたが、今ごろは、どこかのパソコンショップで、パソコンの販売をしている
のが、関の山ではないか、と。

 事実、二男は、小学三年生のときには、すでに自分でベーシック言語使って、ゲームを
作って遊んでいた。中学一年生のときには、C言語をマスターし、高校生のときには、ア
ンチウィルスのワクチンを自分で開発して、どこかのソフト会社に送っていた。

 日本には、そういう子どもを伸ばすシステムがない。同時に、勉強しかしない、勉強し
かできないような、どこか頭のおかしい子どもほど、得をする。スイスイと受験競争とい
う階段をのぼっていく。こういうシステムの中で、いかに多くの日本人が、社会の底辺に
うずもれたまま、損をしていることか。しかしそれは個人の「損失」というよりは、社会
そのものの「損失」と考えたほうがよい。

 教育を否定してはいけない。しかしそれと同じほど、教育を盲信してはいけない。盲信
して、学歴信仰や、学校神話に陥(おちい)ってはいけない。人間は、そんな単純なもの
ではない。また、単純であってはいけない。そしてそれを受け入れる教育システムは、も
っと大胆に、多様化すべきである。でないと、本当に日本の未来は、このまま、終わって
しまう。

 たとえばアメリカの小学校では、クラス名(ふつうはその教室を管理する教師名)はあ
っても、学年はない。中学校でも単位制度を導入している。学校へ行かないホームスクー
ラーも、二〇〇万人を超えたとされる(〇二年末)。また四、五年の飛び級を繰りかえし、
大学で学んでいる子どももいる。

 その大学にしても、入学後の転学、転籍は自由。学科、学部の、スクラップ&ビュルド
は、自由。そうそう公立小学校にしても、学校が独自にカリキュラムを組んで教えている。
ほかにチャータースクール、バウチャースクールなどもある。

 ドイツでは、大半の中学生は午前中だけで授業を終え、あとはクラブに通っている。ヨ
ーロッパ全域では、大学の単位は、ほぼ共通化された。今では、日本のように出身大学に
こだわる学生は、ほとんどいない。いないというより、こだわっても意味がない。

 世界は、そこまできているというのに、この日本は、いったい、何をしている? いま
だに地方新聞の中には、「我が母校」「母校の伝統」だとか何とか、意味のない記事を連載
しているのがある。江戸時代の身分制度が、あるいは家元制度が、母校意識に置きかえら
れただけ?

 ……というのは、少し言い過ぎだが、しかしこれだけは言える。

 生きザマには、コースなど、ない。人間よ、日本人よ、生きる原点にもう一度立ちかえ
って、教育システムを、見なおそうではないか。

【追記】
 静岡県でもナンバーワンと言われる進学高校でのこと。

 それくらいの進学高校になると、それぞれの部活にも、OB会というのがあって、総会
のたびに、壇上に、そのOBたちが、ズラリと並ぶ。そして言わなくてもいいのに、「私は
○○回の卒業生です」などと、自己紹介をする。

 かわいそうな人たちだ。あわれな人たちだ。自慢するものがないから、学歴をひけらか
して、生きている? 学歴にしがみつきながら、生きている? あるいは士農工商の身分
制度が、学歴制度に置きかわっただけ? いろいろ考えられるが、こうした封建時代の亡
霊はまだ、日本のあちこちに残っている。

+++++++++++++++++
これに関連して、以前、こんな原稿
(中日新聞掲載済み)を書きました。
ここに再掲載します。
+++++++++++++++++

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、
たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだ
ろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにす
ぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を
疑ってみる。たとえば……。

●日本の常識は世界の非常識

(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度があ
る。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希
望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解
している人が多いが、それは誤解。

アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎
年一五%前後の割合でふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われて
いる。それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に
自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが
合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみ
せ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポー
トより)。

(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、
クラブへ通う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ド
イツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めるこ
とができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブも
ある。

学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円
前後(二〇〇一年調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人
当たり、二三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー(Child M
oney)」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで
支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣
向と特性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学
校外教育に対する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育
には責任をもつが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、
親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクー
バー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、
まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がか
かってきます」と。

(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私
立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見
て驚いた。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別
紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき
捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、
こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャール
ズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校が
カリキュラムを組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。
木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」
と。なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を
出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの
勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなこ
とでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、
あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何
か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少な
くとも世界の常識ではない。

学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあ
なたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」
「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の
世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に
振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さ
んと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそう
した。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私
が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人
ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことがで
きる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心の内と外

+++++++++++++

心には、内側と外側がある。
おかしな分類のし方だが、
心というのは、内側から作用
するばあいもあるし、反対に、
外側から作用するばあいも
ある。

つまり内側からの刺激で、
喜びを感じたり、怒りを感じたり
することもあれば、反対に、
外側からの刺激で、喜びを
感じたり、怒りを感じたりする
ことがあるということ。

+++++++++++++


●不愉快な気分

 たまたま私は、その日、2つの経験をした。

店で、3000円のものを買った。5000円札を出したので、おつりは2000円と
いうことになる。が、店の女性は、私におつりを、7000円もくれた。(こまかい数字
は、省略。)

 「あのう……」言いかけたが、その女性の手を見ると、1万円札がしっかりと握られて
いる。私は「?」と思った。思ったとたん、言葉がひっこんでしまった。5000円札を
渡したのに、どうして……と考えているうちに、わけがわからなくなってしまった。そう
いうとき、「今、渡したのは、5000円札です」と言うと、かえって話が、混乱してしま
う?

 店から出るとき、何とも言えない不快感が心の中に充満した。「どうして正直に言わなか
ったのだ」と、自分で自分を責めた。しかしその女性は、たしかに1万円札をもっていた。
私が5000円札だと思っていたのは、一万円札だったのか。それとも、途中で、その女
性は、別の札ともちかえたのか。私とて、すべてを見ていたわけではない。

 その不快感は、ずっと消えなかった。ふつうなら、「得をした」と喜んでよいはずだが、
そういう感覚は、なかった。「いいのかなあ?」と思っている間にも、足は、どんどんと、
その店から遠ざかってしまった。

 同じ日の夜。今度は、こんな経験をした。

 夜、帰るとき、車の列を横切って、向こう側の車線に出ようとしたときのこと。そのと
き、ワイフが車を運転していた。私たちは信号のない十字路にいた。が、半分ほど車を出
したところで、車が反対方向から、何台かやってきた。私たちは、車の列の中で、立ち往
生してしまった。

 とたん、横の車が、はげしくクラクションを鳴らした。「どけ!」という意味である。一
度や、二度ではない。何度も鳴らした。ワイフが頭をさげたが、それでも、クラクション
は、鳴りつづいた。助手席にいた私が体を乗りだしてその車を見ると、運転していたのは、
二七、八歳の若い女性だった。

 やがて車の流れが切れ、私たちは反対車線に出たが、私は、何とも言えない不快感に襲
われた。ワイフは、「しかたないわよねえ……」と笑っていたが、私は、車から飛び出し、
その女性を怒鳴りつけたかった。

 たまたまその日は、私の精神状態がよくなかったのかもしれない。どこかピリピリして
いた? が、そのままにしておくわけにはかない。夜、家に帰ると、ワイフにこう切り出
した。

私「今日、お前がぼくに渡してくれたお金はいくらだった?」
ワ「旅費とお弁当代で、1万9000円だったわ。バッグの一番外のポケットに入れてお
いたわ」と。

 そこで私は、おつりの話をした。するとワイフは、「じゃあ、いくら使ったか明細を言っ
てよ。それで計算できるわ」と。

 で、その結果、ワイフはこう言った。「やっぱり、あなたは、1万円札を渡したのよ。自
分で5000円札と思いこんでいただけよ。でなと、計算が合わないもん」と。

 「ああ、よかった」と思ったとたん、胸の中のしこりが消えた。そしてつづいて、あの
女性の話をした。

私「お前は、ああいう女性を、どう思う?」
ワ「ああ、あの人ね。せっかちな人ね」
私「それだけ?」
ワ「それだけよ」
私「ぼくは、車から出て行って、怒鳴りつけてやりたかった」
ワ「あんな人、相手にしなければいいのよ」
私「そのあと、気にならなかったか?」
ワ「すぐ忘れたわ」
私「ぼくには、それができない。いつまでも気になる」
ワ「そうね。あなたは、そういう人ね」と。

 なぜ人間は、不愉快になるか。自分で自分を不愉快にすることもある。反対に、他人が
自分を不愉快にすることもある。私はその日、同時に二つの経験をした。しかしこうした
不愉快は、心の健康にもよくない。

 では、どうするか。もっとも、その日は、疲れていた。それでささいなことが気になっ
た? 注意力も、欠けていた。それでそういうことになった。しかし、私が感じた不快感
は、まったく同質のものだった。何でもないようなことだが、考えてみれば、これはおか
しなことだ。

 一方は、自分で作りだした不快感。もう一方は、他人から与えられた不快感。その二つ
が同質? 意識の上では、別の不快感かもしれないが、脳の中へ入ると、同じものになっ
てしまう? あるいは、脳は、そこまでは区別できない? 

それはちょうど、たとえて言うなら、食べ物が胃袋に入るようなものか。フランス料理
と日本料理を別々に食べても、胃袋の中へ入れば、みな、同じ。もう区別できない?

私「人間の感情なんて、単純なものだね」
ワ「……何の話?」
私「いいの。どうせ、お前に話しても、お前には理解できないから……」
ワ「わけのわからないことを、言わないでよ」
私「ぼくと、お前とでは、脳ミソの質が違うということ」と。

 しかしその日は、よい経験をした。このつづきは、また別の日に考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●老後の統合性

++++++++++++++++++++++

老後をどうすれば有意義に生きることができるか。
それは、『自己の統合性』で決まる。

それがこの4年間で得た、私なりの結論である。

つまり(自分がすべきこと)と、(現実に今していること)
を一致させる。これが「統合性」である。

若いときは、(したいこと)と(していること)を一致させれば、
それでよかった。自己の同一性を確保できた。

今、その最中にいる若い人たちにはたいへんなことかも
しれないが、老後の統合性とくらべたら、何でもない。

というのも、(したいこと)と、(すべきこと)の間には、
大きな距離がある。

たとえば釣りが好きだからといって、毎日釣りをして
いても、その人の空虚感が、満たされることはない。

ふつう(すべきこと)は、自分のしたくないことのほうが、
多い。ある種の苦痛や苦労がともなう。

しかしその(すべきこと)の追求なくして、老後はない。

まず、4年前に書いた原稿を紹介する。このとき私は
まだ、自分の老後を、実感として、自分のものにする
ことができなかった。

++++++++++++++++++++++

【4年前の原稿より】(03年9月作)

●不安

 日本人の80%近くが、老後に不安を感じているという。少し前、何かの調査で、そん
なことがわかった。

 私も、実は、その中の一人。そのうちどこかの老人ホームに入るつもりでいるが、かな
りのお金が必要だという。ワイフは、「土地と家を売れば、何とかなるわ」と言っているが、
私の感じている不安は、そんなものではない。

 問題は、老後の生活ではない。問題は、どうやって老後の孤独、絶望、疎外、空虚と戦
うか、だ。死への恐怖もある。どう考えても、その方法がわからない。それまでに人生観
が確立できればよいが、今のままでは、それも無理だろう。
 
 とくに私のように、戦後の高度成長期を生きてきた人間は、豊かな生活と引きかえに、
もっと大切な「心」を、犠牲にした。すべてを「マネー」に結びつけて生きてきた。今さ
ら、「友だちの数こそ、真の財産」「我を捨てて、慈悲の心をもて」と言われても、どこで
どうすればよいのかさえ、わからない。

 そう、私たちの生活には、「だからどうなの?」という部分がない。豪華な車に乗って、
これまた豪華なレストランで、おいしいものを食べる。しかしそのとき、ふと、こう考え
る。「だからどうなの? それがどうしたの?」と。

オール電化の、便利な家を建てる。風呂の温度も、湯の量も、すべて自動化されている。
暑ければクーラーをつければよい。しかしそのときも、ふと、こう考える。「だからどう
なの? それがどうしたの?」と。

つまり私たちは、「だからどうなの?」という部分を、置き去りにしたまま、ただがむし
ゃらに生きてきた。たとえばそのことは、美術館で巨匠たちの描いた絵画を見たときに、
思い知らされる。「すばらしい絵だ」と思うのだが、「だからどうなの?」という部分で、
その絵を、自分と、どうしても結びつけることができない。そしてあろうことか、「この
絵は、一億円の価値がある」「二億円だ」と、そんなふうに考えてしまう。

私が感ずる老後の不安は、そんなところから生まれる。

 もし生きるだけなら、死ぬまで生きればよい。うまくいけば、ベッドの上で、寝たきり
でも何でも、数年間は生きられる。しかし、そんな人生に、どんな意味があるというのか。
もっと言えば、明日が今日と同じ。あるいは明日は、今日より、もっと悪くなるという人
生に、どんな意味があるというのか。ただ生き長らえているという人生に、どんな意味が
あるというのか。

 若いとか、年をとっているとか、そういうことは関係ない。肉体などというものは、た
だの入れ物。パックに入っていようが、グラスに入っていようが、ミルクはミルク。問題
は、そのミルクの味、中身、それに鮮度なのだ。

 今の私には、孤独、絶望、疎外、空虚と戦う自信は、まったく、ない。このまま行けば、
やがて孤独という無間地獄の中で、気が狂ってしまうかもしれない。その可能性は大きい。
そこで聖書をひもとき、仏教の経典を開き、「心」をさがす。しかし頭の中では理解できて
も、それが実践できない。実践しても、どうも身につかない。

 昨日も、ある親から、子育てについて、相談があった。二時間近く、電話で話した。こ
のところ毎日のように、電話がかかってくる。居留守をつかうという方法もあるが、ウソ
をつくのは、もっといやだ。だから電話に出る。

 で、こうした行為が、私の心に何かの「うるおい」をもたらすかというと、そういうこ
とは、まったく、ない。客観的に見れば、私は人助け(?)をした。よい思いをもって当
然なのに、それがない。相変わらず、孤独は孤独のまま。絶望感も、疎外感も、空虚感も
そのまま。

 私のどこが、どうまちがっているのだろう。おかしいのだろう。何かの見返りを求めて
いるのだろうか。ノー。感謝されることを願っているのだろうか。ノー。自分の優位性を
楽しんでいるのだろうか。ノー。

 一つ理由があるとすれば、私は、相手の立場になりきっていないということがある。口
では、「たいへんですね」と、同情したフリをするかもしれないが、それはあくまでもフリ。
私はいつも、そのフリだけで生きている。だからそういう相談に答えながらも、いわばハ
ウ・ツー的な知識を説明しているにすぎない。

 これではいけない。このままでは、さらにいけない。私の老後は、まちがいなく、悲惨
なものになる。……私が感ずる老後の不安は、そんなところから生まれる。

 さあ、時間がないぞ。私はどうしても急がねばならない。あと五年か。それとも10年
か。いや、とても10年は、もたないだろう。それまでに、何としても、自分を立てなお
さなければならない。
(030914)

+++++++++++++++++++++++

 この原稿を書いてから4年。私は『自己の統合性』という言葉を知って、自分の老後に、ある種の
光がさし込んだのを知った。わかりやすくいえば、「おぼろげながらも、道が見えた」。

 もちろんこの言葉は、心理学では常識的な言葉で、私が考えたものではない。若い人について
いえば、『自己の同一性(アイデンティティ)』という言葉がある。それと対比させて考えてみると、
わかりやすい。多くの若い人は、(自分のしたいこと)を模索しながら、やがてそれと自分を一致さ
せていく。それが『自己の同一性』。

 が、「統合性」というのは、そんな生やさしいものではない。というのも、先にも書いたように、(す
べきこと)には、ふつう、苦痛や苦労がともなう。できるなら、そういう苦痛や苦労は、避けたい。統
合性を確立するためには、そういう苦痛や苦労を乗り越えなければならない。

 しかも、その統合性は、一朝一夕には確立できない。エリクソンという学者が言っているように、
その時期は、「人生の正午」と呼ばれる、満40歳前後。そのころから、老後に向けて、準備する。
計算すると、老後を迎える、20〜30年前から、ということになる。

 「60歳になりました。これからはボランティア活動に精を出します」「ゴビの砂漠で、ヤナギの木
でも植えてきます」というわけにはいかない。その下地がない人が、まねごとだけで、それらしいこ
とをしても、意味はない。長続きしない。

 で、私にとって(すべきこ)とは何か? 言い忘れたが、(すべきこと)というのは、無私、無欲が前
提である。功利、打算が入ったとたん、その(すべきこと)は、霧散する。つまり(すべきこと)という
のは、「なぜ私たちは生きるか」「何のために生きているか」「何のために生きてきたのか」という問
題と直結している。

 その(生きること)は、まさに(無)の世界。どこまでも純粋で、透明。濁った心が入り込んだとた
ん、
(生きること)は、台なしになってしまう。

 ……しかしそこまで、無私、無欲になりきれるものなのか。が、これだけは言える。「人間は死ぬ
ときは、無に還(かえ)る」ということ。死なないまでも、死がちかづけば近づくほど、無に近くなる。
話はぐんと現実的になるが、そのことは、ケア・センターに通う老人たちを見ればわかる。

 あのケア・センターでは、老人たちが、20〜30歳前後の若い人の指導で、粘土細工をしたり、
折り紙をしたりして、時間をつぶしている。若いときには、みな、それぞれ、それなりの人たちだっ
たはずである。

 私の母にしても、今では、8〜10畳間の部屋とベッドが、すべての財産。若いころは、勝ち気で、
負けず嫌いだった。親戚の人たちと、遺産の取り合いまでしたことがある。しかし今、残っているも
のは、何もない。

 だったら、それに早く気づけばよい。どうせ私たちは、みな、「無」に還る。遅かれ、早かれ、そう
なる。無になることを恐れるのではなく、無を前提として生きる。そうすれば私利、私欲も消え、そ
の分だけ、より早く自分の統合性を確立することができる。

 この原稿を、また4年後に読み返してみたい。そのとき私は、何を発見しているだろうか。私は、
どうなっているだろうか。
(07年10月23日、満60歳まで、あと少し!)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
                     
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2007-03-14  
最終発行日:  
発行周期:週刊  
Score!: 98 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。